そこは言うなれば底だった。奈落や深淵の果てを彷彿させる闇は仄かな光すら飲み込んでいる。
暗闇に閉ざされた牢獄の中で一人の少年が、目を閉ざされたまま椅子に磔されていた。
口から漏れる息は乱れており、まるで故障しても必死に稼動を続ける機械のようだ。
カタカタと震える小さな肩が彼の心情を表している。
今すぐここから逃げ出したい、死にたくない、生き延びたい、家族に会いたい。
言葉にならぬ叫びが、少年の心から溢れ出す。
「おい聞こえるか、ガキ」
野太い男の声に、少年は体を震わせる。
聞きなれそうな声もこの状況では、宣告の如く感じられた。
黒い布で目を覆われているため、自分がどこにいるのかすらもまったく分からない。
その事実が、少年の恐怖を掻きたてる。
だが、それでも悲鳴を漏らさずにいられたのは、肉親であるはずの人物が来てくれるはずだと信じているから。
しかし、その無垢な心でさえ踏み躙られる末路を辿る結末など誰が予想できたであろうか。
「お前の姉……織斑千冬だったか? 悪いが、そいつはお前を助けに来ない」
少年の震えが止まる。
凍りついたかのようなその体は、ただ言葉にならぬ息を漏らすだけ。
「理由は単純さ。あの女はお前じゃない方の“織斑一夏”を救出した。何の疑いも無く、何の躊躇いも無くな。まさしく愛情が生んだ悲劇ってワケだ」
少年が理解するよりも早く、男の手が動く。
首筋に据えられた注射器の針。
その冷たさは断頭台の刃のようだ。
「と言う事で、大人しく諦めてくれ」
男の一声と共に、彼の意識は闇に刈り取られた。
その闇は、もしかしたら地獄への洞窟だったのかもしれない。
入ったが最後、永遠に出て来れない地獄の底。
この時、少年は運命に翻弄された。
次に目を覚ましたのは手術室らしき部屋だった。
普通の病院と違うところを上げるとすれば、手術医らしき人物達が皆黒いガスマスクを身に着けているところだろう。
背筋を駆け巡る恐怖に、ただ彼は怯えを溢した。
眩しい照明が逆光となり、人々を黒く塗りつぶす。
少年にはその顔がどこか笑っているように見える。
手足を拘束されており、少年程度の力ではどうしようもなく、擦り切った心身には抗う力すら残されていない。
「ん、目が醒めたようだ。麻酔はいいのか?」
「構わん。ISコアは本人が目覚めていなければ反応しない。それでは浪費するだけだ。本人には苦しいが、少々耐えていただくとしよう」
「なるほど、では始める。何、すぐに終わるよ、安心したまえ」
刃の切っ先が、少年へと向けられる。
どこまでも輝くその刃を、彼はどこか他人事のように見つめていた。
それからほんの僅かな時を置いて、少年の悲鳴が響いた。
「実験結果は?」
「えぇ、結果は成功です。今、彼はISに匹敵しうる力を得ています。そこらにあった銃器を武装として、体内に埋め込ませました。その銃器ならIS装甲を削り切るには十分のはずでしょう。しかし副作用として、女性らしいところが現れてきており、体の色素が抜けてきています」
「……コアの弊害か」
「はい。ですが命そのものに直接的な影響はありません。……まぁ、IS武装を使用した場合は別ですが。後は銃器の使用ですな。本人の活力が銃弾として生成されますから。ですが、こちらは半日近くにわたる戦闘を考慮した結果ですので、問題としては気になりませんよ」
「ちっ、だがこれで本当に亡国機業や篠ノ之束と渡り合えるのか?」
「はい、問題は無いです。後は本人を戦闘機械にすればそれで済みます。何せ、織斑千冬の実の弟です。予想よりも高い数値を生み出してくれるでしょう」
男はちらりと、牢獄の中にいる少年に目を向けた。
彼は薬により、現在強制的に眠らされている。
研究者達は脱走を防ぐためだと言うが、恐らく新しく作った薬や増強剤を使う
そもそも少年には逃げる場所すらないのだ。
現在、織斑千冬は“作られた織斑一夏”を家族としてみている。
本物の織斑一夏の容姿は既に変わり果てており、一目で本人だと気づくはずも無い。
耐久テストと言う名目で、弾丸を撃ち込まれ、熱された鉄棒に打ちのめされ、人間なら感電死するほどの電圧を半日近くも流され続ける――研究者達には嬲り者にされる日々。
並みの人間なら既に壊れていてもおかしくない精神状態だ。
ここまで耐え切れるのは、彼らにとっても予想外だった。
「……完全に精神が落ち着くまでどれくらいかかる」
「現在、肉体改造や精神増強などを行っているので、早く見積もっても五年ほどです。つまり五年で我々が世界を変えます」
それは唐突だった。
突如として鳴り響く爆音、悲鳴、怒声。
『おい! 何があった!』
『奇襲です! まさか、このタイミングで来るなんて……!』
『亡国機業め……。アレを出させろ!』
『分かりました!』
白衣の男に連れられて少年は両手に銃器を携えたまま外に出た。
久しく感じていなかった外の空気に少年はふと昔を思い出す。
その瞬間――全てを閃光が埋め尽くした。
白塵、白砂、白光――大地が震え、空が絶叫するような感覚。
何も聞こえないのは、破壊の音が余りに強大すぎたからだろうか。
その衝撃に少年は腕で視界を塞ぐ。
「――ッ」
しばらくの間堪えていたが、細い体が衝撃に耐え切れるはずも無く、彼はそのまま意識ごと吹き飛ばされた。
「――!」
「あら、いい夢は見れたかしら? アイン」
「……スコール」
左右を確認すると、そこは手術台の上だった。
スコールが持っている血のついたナイフと、傍にある機械からどうやら武装は追加されたらしい。
痛む体に一切の慈悲も与えず、アインは地面から立ち上がり機械にそっと手を触れる。
「……オレは、オレは本当に織斑一夏に戻れるか」
気がつけば、そんな事を口にしていた。
いつもなら押さえ込めるはずの感情が不思議と溢れ出てくる。
それを留める気力は、珍しく起きなかった。
「夢を見た。オレがオレであった頃の夢だ。……だが、今のオレにもう織斑一夏としての心は還ってこない」
かつて緑で溢れていた大地が、簡単に砂漠に成り果ててしまうかのように。
織斑一夏だったはずの心は、簡単にアインという殺戮機械に変貌した。
心臓に埋め込まれているISのコアは今も稼動を続けており、どんな重傷でも時間さえ掛けてしまえば簡単に再生する上、彼の皮膚もまたISと同等なまでの堅強さを持っている。
最早、人ではない。強いて言うのならば、怪物だ。
「そうね……。でもアイン、貴方は自分を取り戻したい。そのためにクローンである織斑一夏を殺害する。その事に私は何も口を挟まない」
「……」
「だけど、貴方が織斑一夏だという事は変わりないわ。クローンがいくら作られようとも、オリジナルである織斑一夏は貴方だけ。世間が見ているのはクローン。でも、今私が見ているのはオリジナル。……違いは知っているか知っていないか。別に私は止めないわ。それで貴方が満足するのなら構わない。――だけど、アイン。貴方は私達にとって家族よ。それだけは忘れないで」
彼女の言葉が優しく胸にしみる。
アインの瞳に微かな感情の火が灯った。