このジャンルまで向いてないとは……。改めて自分のレベルの低さを実感させられました。
次回は本当の最終話「ラストエピソード」です。
『一度だけ体験されて見ますか。平和な世界を』
『……あぁ、興味がある。本当の平和が何なのか』
まるで泥のように纏わり付く眠気を払いながら、一夏はアラーム音を撒き散らす携帯電話を探り出す。
布団の心地良い香りが再び眠気を誘うが、何とか振り切って彼はベッドから起き上がった。
クローゼットの中にはこれから三年間着る事になる制服がハンガーに吊るされていた。
藍越学園――就職率も良いその高校に無事進学した一夏は、家族のために高校を出て働く事を選んだのだ。
何より藍越学園の教師陣は実力者揃いであり、姉である織斑千冬もそれを認めているのだから尚更の事だろう。
父親であり、一流の研究者である織斑久一のように誰かを助ける研究員になりたいと心の奥底で願ってきたため、今日からようやくその夢へと一歩を歩みだすのだ。
年こそ同じだが、妹である織斑マドカは一夏と同じ藍越学園へと進学しており、彼女もまた母親である織斑季理のようになるべく修行する道を選んだ。
一夏よりも先に生まれた兄とも呼べる人物織斑アインもまた、藍越学園に進学している。自分よりも知の深い兄の事だから既に準備を終えて下で朝食を摂っているに違いない。
そんな兄を、一夏も尊敬しておりマドカにいたっては彼と結婚すると言い出す始末である。家政婦であるアルカが言い収めるのに一苦労していたと愚痴を溢したのを思い出す。
「よし、準備オーケー……!」
自分の頬を叩き、渇を入れて一夏は下の階へと向かう。
今日が高校デビューとなる晴れ舞台である。
兄や姉に負けないように精一杯がんばろうと意気込んで、リビングへのドアを開けた。
「母さん、おはよう」
「おはよう、一夏。ご飯出来てるわよ」
エプロンを着用した織斑季理は、子持ちとは思えぬほどの若さと美しさを持っている。
息子であるはずの一夏ですら、その笑顔にドキリとさせられたことがあるからだ。
しかしその反面、この一家では最強の地位に君臨していると言うギャップまでついているが。
料理を作っている母と、その料理を運ぶ黒髪の女性。
あぁ、いつも見ている光景だ。
「おはようございます、一夏様。今朝のメニューはいつも通りです」
「あぁ、おはようアルカさん」
家政婦であるアルカも、最早家族の一員である。
そんな彼女が運んでくれた料理のところへと向かう。
席では既に兄である織斑アインと妹の織斑マドカが朝食を摂っていた。
ちなみに何故か半分寝惚け気味の織斑千冬が一夏よりも先に席へ着いている。
ドアを開けたのは一夏のほうが速かったはずだ。
「ほら、あなた。もう朝食出来たから席について」
「あぁ、出来てたのかすまない。どうも最近研究がはかどってるから気分がいいんだ」
「ふふっ、浮かれてばかりじゃ足元をすくわれますよ?」
「それは怖いな」
織斑久一も席について朝食へと箸を伸ばす。
一夏はふと、アインの視線が両親達に向いているのに気がついた。
まるで何かを探っているかのような視線に、ふと疑問こそ抱いたが何故かどうでもいい事のように思える。
何より入学式を前にして、そんな考え事にありついていられない。
「季理様、一つご質問があるのですが……」
「何かしら。何でも聞いてね」
「ソースと醤油の違いが分かりません」
季理とアルカはどちらも顎に手を当てて、目の前にある二つの黒い液体を凝視していた。
ちなみに両方とも似たような容器に入っており、ラベルはされていない。
ただ一つだけ分かるのは、中身が見えることだけであり無論それでわかると言うのなら、アルカはそこまで苦労しないだろう。
「……」
アインの表情はどこか暗い片鱗を漂わせていた。
元々、兄は病弱であり髪や瞳の色がそのせいで変色したのだ。
だが病を無事に克服して以来、その病弱ぶりが嘘のように回復し今では運動部に勧誘が殺到するレベルである。
そんな兄が憂鬱な雰囲気を浮かべるのは珍しかった。
そして――その奥を何故か知ってはいけないような気がした。
「……兄さん?」
「……大丈夫だ、マドカ。少し考え事をしていただけだよ」
ポンと妹の頭に手を置いて、アインは軽く笑みを浮かべる。
マドカの表情が一気に破顔した。
少なくともそのような表情を意識して一夏へ浮かべてくれた事など一度もほとんどない。
敵視されているのは何故だろうか。
「皆様、まもなく時間になります。そろそろご出立の準備をなさってください」
アルカの一言で、一夏たちは立ち上がって鞄をとる。
千冬もまた藍越学園の教師であり、向かう先は同じであるからだ。
学ランに身を包んだアインと一夏は学生シューズへと足を入れる。
マドカも中学生の時に体験しているからか、セーラー服の着こなしに何の謙遜もなかった。
ちなみにそんな織斑家には、何度かモデルを頼む依頼が来ているが子供をモノ扱いされる事に腹を立てた両親が悉く断っている。
久一が世界でも名を誇る科学者であるため、その事が大きく響いたのだろう。
そのおかげで平穏な学生生活を送れているのだから両親には深い感謝の思いばかりである。
慌ただしく後を着いて来る姉妹の姿に、二人は苦笑を漏らした。
四人で歩いて登校している途中に、織斑千冬の同僚である篠ノ之束とその妹の篠ノ之箒、そして彼女と一夏の幼馴染である凰鈴音と五反田弾と会い、共に学校へ向かう事になった。
既に千冬と束は準備があるため、新入生である彼らよりも先に学校へと上がっていた。
「あらあら、兄妹の恋なんて実らないのよマドカちゃん?」
「黙れ、淫乱生徒会長が」
「……一応、貴方の先輩よ。私」
「知るか」
そして現在、藍越学園の生徒会長である更識楯無とマドカがアイン越しににらみ合いを続けており、一夏は幼馴染である国際色が豊かな女子五人に囲まれていた。ちなみに弾は既に教室へ上がっている。
散らされる火花の音を出来る限り、無視してアインは周りを見渡す。
「……ここも同じか」
その言葉に、気づくものは誰もいなかった。
ふと楯無の声が途切れた事に気づく。
「……ね、ねぇ、かんちゃん。ど、どうかしたの?」
「……別に」
マドカと親友であり楯無の妹である簪が、見事に楯無を怯ませている。
一体どういう経緯で、二人の仲が進んだのかはあっちの場所でも良く分からない。
ただ一つ言えるとすれば――とても平和だ。
クラスは縁のある人物がほとんど同じと言う編成になっていた―約一名は二組へ飛ばされたが―。
担任は、一夏たちの姉である織斑千冬。そして副担任はまさかの篠ノ之束と言う組み合わせとなっており、一夏たちが再び注目の的となったのは言い換えようがない事実である。
アインは改めて、入学の手引きと言う書類に目を通す。
そこからざっと見覚えのある単語だけに目を通していく。
二組担任、山田真耶。
生徒会長、更識楯無。
生徒会顧問、スコール・ミューゼル。
生徒会副顧問、ナターシャ・ファイルス。
風紀担当、カレン・ボーデヴィッヒ。
風紀担当、オータム・アルバ。
「……」
アインの心境を複雑な心が満たしていく。
後悔が、胸に染み込んでいくような気がした。
藍越学園は三年間の中で生徒達に就職するための実力をつけさせるのが目的となっている高校である。
早い話、入学式初日から授業が行われるのだ。
幸いにも食堂などの設備は整っており、授業一式も既に机と共に用意されている。
四限目の後に昼休みを挟み、七限目まであるのが藍越学園の時間割である。
現在、昼休みでありアインは食事を済ませたフリをして、校内を周っていた。
どうせ、この生徒として見るのは今日が最後なのだ。
だから出来れば見れるところは見ておきたい。
そう思って曲がり角を通りかかった瞬間、彼は即座に身を引いてその姿を隠す。
通路の先には彼女達がいた。
家族も同然である彼女達と瓜二つの姿。
その容姿がアインの心を揺さぶる。
「……」
楽しそうに話す彼女達の姿。
もし平和な世界になっていたのなら、彼女達も血生臭い闘争に身をおかずに済んだのかもしれない。
話しかけたい衝動に駆られるが、自制心がそれを咎める。
彼女達は自分の事を知らない。
だからこそ、彼女達の世界を壊してはならない。
自分と言う火種がいない、温かなその雰囲気。
ただそれが――どこまでも遠かった。
放課後は新入生達の仮入部期間である。
一夏とマドカは既に帰宅しており、アインは仮入部のために遅れると告げて教室に残っていた。
彼以外、その教室におらず黄昏の斜陽が窓へと差し込んでいる。
「……」
机に座ったまま、彼は俯く。
授業という物を受けたのは随分と久しかった。
元の世界で最後に受けたのは、何年前だったのだろうか。
思えば血と硝煙の中で生きてきた。
多くの亡骸を踏み躙って、世界を滅ぼしかけて、そして今はアルカのおかげで別の世界に一時的に来ている。
――自分がここに長く留まれば、この世界の平和は壊れるのかもしれない。
だが、この世界は余りにも理想的だった。
この世界は余りにも優しすぎた。
その過剰な思いが、アインの心を磨り潰す。
「コレが――日常」
ポツリと彼は呟く。
自分しかいない小さな世界で。
「コレが――平和」
学生服のポケットから小さな機械を取り出す。
そしてその機械を自分の机へと押し付けた。
次の瞬間、その机は跡形もなく消え去る。
まるで――最初からなかったかのように。
そして、その教室の名簿からアインと言う名前の持ち主は消え去っていた。
日も暮れ始めてきており、散る桜の花が酷く美しい。
既に織斑家では、夕食の準備が整っていてアインが帰宅するまで全員が食べるのを待っていてくれたようだ。
その思いやりが、純粋に嬉しかった。
最後になるであろう我が家での夕食に、思いを馳せる。
「お前たちは将来、どんな夢を目指してるんだ?」
唐突に千冬がそんな事を言い出した。
良く見ればその頬は軽く紅潮しており、彼女が酔っているのだと分かる。
それほど嬉しい事でもあったのだろう。
誰も、彼女に水を差さなかった。
「……そうだなぁ。私は母さんや姉さんのような女性になりたい。優しくて強い女性に」
マドカは楽しそうに言う。
その容貌には、確かに血の繋がりが感じられた。
季理がマドカの頭を撫で、マドカは満足げに微笑む。
「俺は、父さんみたいに世界に貢献する仕事かな。まだ具体的には決まってないけど、誰かを助ける事がしたいんだ」
一夏は胸を張る。
その瞳に躊躇いはない。
久一が自慢げに、一夏の肩へ手を置く。
そして残るはアインだけだった。
見れば、アルカまでもが耳を傾けていて助け舟を出すつもりはないらしい。
いや、きっとその方が失礼だと判断したのだろう。
これは――自分自身で決めないといけないのだから。
「オレは――」
言いたい事ならたくさんある。
目指したいモノなら呆れるほど余っている。
だが――両親がいて、家族がいるこの状況だからこそ、言わなくてはいけない事があるはずだ。
ずっと胸の奥に仕舞い続けていた何かを、告げる。
もしも。
もしも、今だけ子供のような無垢の願い事が叶うのならば。
もしも、今だけどんな理想であったとも告げられると言うのなら。
「――家族が誇れる人になりたい」
マドカとは違う。
一夏とも違う。
それは当たり前のことだから。
だけど、彼にとってそれは当たり前だったのではなく、夢の果てに等しかった。
だからこそ、そんな言葉を口にする。
久一と季理は、目を合わせて微笑む。
今この場にあるのは温もりだけだ。
再び、元気な声が食卓に響いた。
完全に日が沈み、辺りは一面が暗くなっていた。
そんな中を、一人の少年が歩いている。
白いロングコートを羽織った少年の先には、黒いドレスを着た女性が立っていた。
「この世界は如何でしたか?」
少年は呆れたような笑みを浮かべる。
その答えなど、彼女は分かっているだろうに。
「いい世界だ。もし叶うのなら、オレもこんな世界に生まれたかった。お前がいて、両親がいて、千冬姉が、一夏がいて、マドカがいて、オレもいる。そして彼女達も一緒にいる。……あれを、本当の日常って言うんだろうな」
少年はどこか遠い笑みを浮かべていた。
その両手にはかつての感触が宿っている。
自分を産んでくれた二人の人間を屠った時の全てが、掌にしかと刻み込まれていた。
「アルカ、あの機械をどうすればいい? そろそろ限界である一日が経つぞ」
「自分の体に突き刺してください。そうすれば、元の世界へ帰還できます。……本当によろしいのですか? もう、この世界に来れる保証はありません」
「……あぁ、この世界は確かに羨ましい。だけど、オレがその世界を壊しちゃダメなんだ。彼らには彼らの世界がある。それを壊すなんて、出来ない」
そうして、アインは例の機械を持つ。
まるでボールペンのような形状の機械。
この世界に二人が干渉できたタネでもある。
後は自分の体のどこかに突き刺すだけだ。
振りかぶった瞬間――声が響く。
「待て、アイン」
手が止まる。
アルカまでもが表情を変えて、唖然としていた。
何故なら、そこには久一と季理がいたからだ。
織斑家を出る時、決して尾行はされなかったし、全員寝静まっていたはず。
なのに、何故――。
「まさか、干渉に気づいた……?」
アルカが茫然と呟く。
彼女の計算が破られた。
「……干渉だが、何だか分からんが話は最初から聞いていた」
久一の言葉に、アインは目線を逸らす。
ただ気まずかった。
何を言われるかもわからないし、何を言えばいいのかも分からない。
ただ、黙る事しか出来なかった。
長い沈黙の後、久一は優しい声音で言う。
「例え世界は変わっても、お前がどのような道を歩んでいたとしても、私達はそれを否定しないよ。お前が誰であろうと、私達の子供に変わりないんだ」
あぁ、なるほどとどこかで納得する。
二人が干渉を破ったのは、機械でもマジックでもない。
親としての絆だ。
たったそれだけの想いが、かけられていた干渉を解除したのだ。
記憶まで念入りに作られていた。
その時の感情まで捏造していた。
だが――親としての想いがその妄想を振り払った。
季理の言葉が、母としての情に満ちた声音で紡がれる。
「貴方に織斑の名を託すのなら、私達は安心できるわ。子供に自分の名前を安心して託せられるのなら、それ以上の喜びはないから」
両手を握り締めた。
刻まれていた感触が、重くのしかかる。
激情が心の中を渦巻いた。
その全てを彼は堪える。
「アルカ、宜しく頼むわね」
「……はい、お任せください」
アルカもまた二人に対して頭を下げる。
久一と季理が淡い微笑みを浮かべた。
「引き止めて悪かったな。もう行け、アイン。お前にはお前の未来が待っている。だから――お前がその世界を作るんだ。私達が嫉妬するほど、素晴らしい世界を」
「えぇ、出来るはずよ。だって私達の子供には変わりないもの。私達の自慢の息子だから、安心して送り出せる。力いっぱいやってきなさい。そして疲れたら、家族にうんと甘えなさい」
そうだ。
元の世界にはまだ彼女達がいる。
家族として、共に生きてくれる人達がいる。
だから帰ったら――
「分かった……!」
今にも泣き出しそうな表情で、アインは機械を左手に刺す。
かつて――両親の命を奪ったその左手に。
それと同時に体が透けていく。
元の世界へ情報を移しているのだ。
まもなく粒子となって、この世界から完全に消え去るだろう。
何か言うべき言葉があるはずだ。
――そうだ。
まだ、一度も二人に言った事がなかった。
「――父さん、母さん」
少年は表情に笑みを浮かべる。
泣きながら、それでも無理に笑って。
せめて――二人にこの想いが伝わるように。
「――いってきます」
父である織斑久一は言う。
母である織斑季理は言う。
息子である少年を、送り出すために。
『――いってらっしゃい』