時を廻せ。朽ちた時間は二度と戻らぬ。果てた命は決して還らぬ。
この手が握られることなど二度とない。
海に屠られた氷の如く、ただ沈んでいくだけ。
世界はとても綺麗だと、初めて思った。
多くの人や町を見て回った。
――そして無数の悲劇を見た。
救われぬ命、燃やされる物。全ては塵の様に儚いのだと悉く現実を突きつけられた。
それでも――忘れたくは無かった。
だって、世界はこんなにも美しいのだから。
けど、何故そんな簡単な事を忘れていたのだろうか。
それは、もしかしたらそのような美しい世界よりもずっと高みにいる何かが傍にいたからかもしれない。
深淵の底にいるような感覚だった。息苦しいのに呼吸が出来ると言った矛盾の世界。押し潰されているようで、包まれているような不明瞭な螺旋。
曖昧な意識の中、目の前には見覚えのある少女がいる。
凛とした目に黒く長い髪――忘れるはずがない。
親らしき人物に導かれ、どこかに行こうとする彼女に小さな髪留めを手渡していた。今思えばそれが彼女に渡した最初で最後の贈り物だったかもしれない。
“ほら、新しいヤツが欲しいって言ってただろ?”
“う、うむ。す、すまないな”
頬を染めて、おぼつかない仕草で彼女は髪留めを受け取る。
思えばそれが最後の出会いだった。
もしその事を前もって気づいていたのならば、きっと――
『待ってくれ』
口だけが動き、声にならぬ言葉を紡ぐ。届くはずも無いのに何故か手を伸ばした。
動いているのか分からない。だけどこうしなければ自分が自分じゃなくなってしまいそうだから。
彼女は止まらない。ただ自分の視界から消え去っていくだけ。
時計の針など戻るはずが無い。
ただ過ぎていくだけで、どうする事も出来ないのだから。
「……っ」
朧な意識の中、アインは先ほどまで自分が眠っていた事を察した。
軽く仮眠を取るつもりだったのに、本格的な睡眠に変わってしまったらしい。
強張った骨を鳴らし、体をほぐす。
瞼に手をかざし、心の中を渦巻き続ける名も無き衝動を何と呼ぶべきか考えた。
「……」
壁に背中を預け、座り込むようにして眠っていたらしい。
周りは何も無い部屋。ただそこらのマンションの一室を文字通り借りているだけに過ぎない。
いや人ならいた。
女がいる。黒いドレスに黒く長い髪。部屋の中だというのに、水滴が滴っているかのような錯覚を思わせるほど、ただその女は美しかった。
「凡そ、三時間三十分二十六秒ほど眠られておりました」
滑らかに、そして妖艶を秘めた声。
アルカ――アインの相棒でもあり、文字通り一心同体とも言える存在である彼女は今、ただ柔らかな表情を浮かべ彼を見つめている。
「……アルカ、スコールからの連絡は」
「まだ様子を見ろ、との事です」
座っていた体勢から立ち上がり、窓から町並みを見る。
漆黒の闇が空を支配し、儚い月の光が彼を照らす。
白いコートから一つの拳銃を出現させた。
一般の拳銃よりも銃口が長い異様な銃。
その名をタンフォリオ・ラプターと言う。
ハンドライフルとも形容されるその銃はあらゆる拳銃の中でも最高の速度と威力を誇るため、アインにとってはISとの戦闘で使う主力武器となる。
ただし装填できる弾丸は一発だけだ。
ワンショットワンキルが可能な腕前を持つ事がこの銃を扱える資格を有する。
ISとの戦闘は質の戦いだ。
元々ISの機動力に人間が適うわけが無い。
だからこそ数多の攻撃で仕留めるよりも、獰猛な一撃で撃墜する方が遥かに効果的なのだ。
薬室を開放し、懐から取り出した新たな弾丸を滑り込ませる。薬室を閉鎖し、銃口を窓の外――IS学園と呼ばれている施設へと向けた。
その照準に誤差など介在する余地も無い。
ただ相手を撃ち抜く鋼の如き意志だけがある。
「……今の速度は」
「熟練の操縦技術で動かされるISならば見切られます。カレン様がご拝見なされたら、きっとお怒りでしょう」
「だろうな。寝起きじゃ当然か」
アインは舌打ちし、薬室を開放、弾丸を取り出す。
タンフォリオ・ラプターをコートの内側に戻し、再び窓を見た。
月を眺めながら、今すべき事を考える。
出来る事は現状の把握だ。
もしかするとスコールからの通信が入っているかもしれない。
「アルカ、間諜は?」
「更識の手は中々に厄介です。恐らく事前での情報入手は困難を極めます」
「……スコールからの連絡は」
「はい、数日後に潜入任務が入っています。場所はIS学園、目標は織斑一夏の暗殺です」
ピクリと彼のこめかみが疼く。
アインはまるで睨むかのような眼光でアルカを凝視した。
「……決めたのは上層部か?」
「はい、スコール様からの伝言は“任務の是非は問わない”との事です」
「だろうな。……あの無能どもが、何の情報も無しに潜入しろだと? ならアイツらが自分の足でやればいいことだろうに」
彼女の困り顔が脳裏に浮かぶ。
それを思う都度、何かが苛立ってくる。
思わず壁を殴りつけようとして――それを誰かの手が遮った。
「アルカ……?」
「落ち着いてください、アイン様」
「……そうだな、悪かった」
そうして闇の中、女は彼に跪く。
まるで騎士が王に忠誠を誓うかの如く、それは凛々しい姿だった。
「アイン様、今回の任務は私も直接参加します」
「……助かる」
「いえ、どうぞ思うように扱ってください。私は貴方がいてくれたからこそ生きていられるのですから」