牢屋の中に少年が捕らわれていた。両手両足と首を鎖で拘束され、口元に付けられたベンチュリーマスクからは催眠性のガスが少年へ送られ続けており、意識を混濁させている。
それでも死を迎えないのは、一重に少年が人外の生命力を得たからであった。そのせいからか、少年は昏睡状態であった訳ではない。ただ意識が朧げなだけである。まるで夢を見ているかのような感覚であった。
目元は黒い布で縛られていて何も見えはしない。ただ黒しか見えなかった。
『お二方、危険です! まだソレは意識が安定していません!』
『心配は不要だ。彼は私達を傷つけない』
『その通り、この子は私達を信じている』
声が聞こえた。いつも聞き慣れた男の声。毎晩、毎晩犯してくる男の声。
それに加え、今度は二つの声がした。全く聞いた事の無い――否、どこかで聞いた事がある。この響きを知っている。この音色に懐かしさを覚えている。
突如、ガスが止められマスクが外される。それと同時に意識が僅かに覚醒し、聴覚機能が少しだけ回復した。
『君は織斑一夏だね』
『貴方は織斑一夏よ』
頷く。それは変わらない事実であるから、何一つ否定しなかった。
『なら何故君はここにいるのか?』
『どうして貴方はここにいるの?』
奥歯を噛み締める。何故、どうしてここにいるのか。それは少年自身が吼えたくて堪らない。
『答えられない。それは奪われたからだ』
『答えられない。それは奪われたからよ』
同時に響く声が、少年の奥へと刻まれる。それは事実であった。
『寒くて、冷たくて』
『辛くて、寂しくて』
『怖くて、悲しくて』
『震えて、苦しくて』
次々と投げかけられた声が、彼を刻んでいく。
その言葉は彼の境遇を示していた。彼には何もない事を覚えさせていた。
『なら、殺してしまえ』
『なら、潰してしまえ』
――瞬間、彼の本能へそれが強烈に刻まれた。
彼の居場所を奪った者を殺せと。何もかも潰してしまえと。
だがそれがまだ誰であるのか、明確には変わらなかった。
『覚える必要は無いな。いずれ分かる』
『覚えなくてもいいわ。いずれ分かる』
それは彼の理性を貫いて、その魂すらも支配した。いずれ分かると。
ならば記憶には無くとも、魂に刻んでおけば決して忘れることは無い。
『では、いずれ会えたら会おう。一夏』
『今度はゆっくり話しましょう。一夏』
そうしてマスクが付けられ、また少年の意識を混濁させた。
彼を捕縛している研究所が亡国機業によって強襲される前日の夜の出来事であった。
亡国機業は基本的に二つの組織で構成されている。
まず一つは組織の運営と方針を決める幹部。そして任地に赴き目的を達成する実働部隊だ。前者は本部常駐である事が多く、実働部隊へ指令を出し今後の目的を調整する事が任務である。後者は世界各地に展開されており、亡国機業に属している者の大部分を占めている。
しかし幹部でありながら実働部隊の役割を兼ねている者も少なからず存在する。例えばスコールやカレンなどがそれに該当するのである。
現在、スコールが参加しているのは定期的に開かれる幹部会であった。報告する内容としては銀の福音に関する作戦の結果と今後の目的である。
多くの幹部は本部に居座り、現場を見る事も無くただ淡々と隊員へ指令を出す者が多い。それ故にスコールは異端とされていた。幹部でありながら実働部隊も兼ねる存在などは、例外として見られるからである。
「次はスコール殿。報告を」
「はい。まず銀の福音強奪作戦ですが、複数の成果を挙げましたので別々に報告します」
彼女の言葉に周囲から僅かなざわめきが漏れた。元々スコールの率いる部隊は実力の高い者達ばかりで構成されている。特にアインやアルカはその代表例であった。
故に彼女の部隊が叩きだす成果は他の幹部率いる部隊と比べても顕著である。
「まず銀の福音と操縦者であるナターシャ・ファイルスの勧誘に成功、彼女は現在私のチームでエヌと名乗って活動しています。
そして次に私のチームに大量に配属された新参の者ですがその全員が諜報員である事が明らかになり、それらを全て粛清しました。現在、亡国機業内部に回し者がいる可能性が大きくなっています。
最後に、隊員の一人がIS開発者である篠ノ之束と定期的にコンタクトを取る事が可能となりました。これで篠ノ之束と接触する事が可能になります。報告は以上です」
一気に幹部会の空気がざわつき始めた。
軍事用ISの捕獲だけではなく、その操縦者の確保。そして裏切り者の処理。最後にIS開発者である篠ノ之束とコンタクトを取る事が可能になったという事。
成果としては余りにも多大だ。他の者が真似しよう物ならば、多忙な時間が掛かるであろう事を一度に短期間で成し遂げた。
幹部会を仕切っていた男が、無音の拍手と共に彼女を見る。
「……さすがだな、スコール殿。貴方は本当に部下を使うのが上手い」
「いいえ、それほどでもありません。私の部下が有能なだけですから」
「……しかしそこまでの評価を上げられるのなら、少し位人員をこちらに回しても良いと思うのだがね? それでは成果を独占されているようなものだ」
幹部の内の一人であった女が、訝しげにスコールを見る。その女が言う内容はスコールの部隊でも高い実力を持つ者を寄越せ、と言う事である。
それが誰であるのか、すぐに察しが付き、同時に彼女の中で怒りと嫌悪感が渦巻き始める。だがそれを制するのもまた、彼女の得意分野であった。
「あら、それはただ貴方が無能だからでは? それに私の部下を貴方が仕切るには役不足です」
「……フン」
「ではスコール殿。早速で申し訳ないが次の任務が待っている。内容は極東に赴き、白式を強奪せよ」
「分かりました。任務期限は、こちらで決めてもよろしいでしょうか?」
「無論だ。……白式の強奪後は君達の好きにするといい」
「では白式強奪任務の受理だと判断します。一週間後に極東へ向かい、任務完了もしくは撤退命令が出されるまで駐在する――この手筈で行動します。行動人員は私スコールとその部下全員で出撃する予定です」
「ふむ、了解した。任務の成功を祈っている」
そうしてスコールが報告を終えようとした時、再び妨げる声が響いた。
「お待ちください! 何故スコール殿ばかり成果が挙がっているのかについて疑問が――!」
「そんなの、アンタが無能だからに決まってるだろ。さっきスコールがご親切に言ってくれたじゃないか」
足を組んで頬杖をついたカレンが口を挟んだ。彼女にとって幹部会とは暇な物であり、気分によっては出たり出なかったりする。
ちなみに彼女が幹部会に出るのは数ヶ月ぶりである。それ故に今回の幹部会は波乱ばかりであるのだ。
「スコールの所から部下を引き抜きたいなら生身でISを撃墜しろ。それくらいの実力と手段を用意できないなら、アイツらを扱う資格なんてないよ」
「な、生身で兵器の撃墜など人間に出来ると考えているのですか?」
「あぁ、現にアタシが出来たんだ。無敵の兵器でも所詮穴だらけ。その穴を付けない無能に成果など出せんだろうさ」
歯軋りと鼻で笑う声の二つが聞こえた。
カレンの実力は単独でも非常に高いため、亡国機業内では異例の単独行動が許可されている。そのため、彼女はチームを持たない。行動内容もほとんど独断で決めており、目標も彼女が定めている。
しかし彼女が挙げる成果は高く、一切のミスも無いため、幹部の中ではかなり地位が高い。スコールと同じく幹部と実働を両立させる最後の一人であった。
このままでは良知が明かないと判断したのか、男が咳払いをし辺りを鎮静化させる。
「他に意見のある者はいないな。――ではこれにて幹部会を閉幕する。各自、それぞれに与えられた任務をこなせ」
幹部会が行われていた高層ビルから、スコールとカレンが降りて来る。宵闇の涼しげな風が、こびり付こうとする臭いを薙ぎ払う。
二人とも着ているのはダークスーツであり、何も知らぬ人物から見れば完全なキャリアウーマンであった。スコールが率いる五人は、本部の自室で各々の時間を過ごしている事だろう。
カレンが腕を組んで背筋を伸ばし、大きく欠伸する。
「しかし幹部会ってのは相変わらずヒマだね。何度眠くなったコトか。最後まで寝なかったアタシを誉めてほしい気分だ。……まぁ、何回か寝たけど」
「それでもアインの事が出た瞬間、耳を傾ける貴方の姿は中々面白かったわよカレン」
「おいおい、鍛え上げた弟子にいちゃもん付けられたままじゃ、師匠の面目が立たないだろ?」
「まぁ、分からない事ではないわね」
「幹部会なんかよりアンタと話してる方が楽しいねアタシは。……というかアイツらは置いて来てよかったのか?」
「えぇ、すぐに極東に渡る準備をする予定だからその荷物をまとめてもらっているわ」
「ふぅん……ってコトはとうとうアイツの目的が果たされるのか。師としちゃ何ていうか微妙な気分だね」
乾いた笑い声を上げてカレンは笑う。
既にスコールとカレンの付き合いは長い。少なくとも出会ってから七年以上は経過しているはずだ。その出会いは、互いに死を突き付け合うと言う何とも言えない物であったが。
アインの鍛錬としてカレンが付けられたのは五年前である。それもカレンの腕を見込んだスコールからの頼みであり、結果として大きく成功であった。訓練でいつも彼女に投げ飛ばされていた少年は、気が付けば一人で傾国する事すら可能とする者となっていた。
「貴方も?」
「あぁ、自分の事なら自分で始末をつけるのは当然だけどね。だがアイツはまだ十代のガキだ。そんな事を出来る訳が無い。……まぁ、そのための訓練を施したのはアタシなんだけどさ」
「お互い様よ、私たちは彼の行く先を見届ける事しか出来ないから」
冷たい夜風が、スコールとカレンの頬を撫でた。ふとその雰囲気にカレンは疑問を露わにする。
ずっと抱き続けていた疑惑を口にした。
「……アイツは何の目的で誘拐されたんだ?」
「それは……実験をするためじゃないの? ISに拮抗する力として」
「悪いけど、そいつは有りえない。初めてアイツの訓練に付き合った時、アイツの動きは素人同然だったよ、まだ新兵の方がよく動ける。安全装置の外し方どころか安全装置の意味や場所すら分かってなかった。武器の質と量だけは一人前だったけどね。……本当にISに対する力にするためなら、わざわざ生死の賭けをしてまでコアなんざ埋め込むより、アタシみたいにISを潰せる武装を扱えるヤツを増やした方が効率がいい」
「それは……そうね」
「何より織斑一夏が見つかった時の状態も気になる。確か、そいつだけが廃工場にいたんだろ。……誘拐した事実を明るみに出すためとしか思えない」
カレンの言葉の意味にスコールは首を傾げる。ほんの僅かな時間を要してから、彼女はその内容に気が付いた。
「織斑一夏が誘拐されたとする事実が必要だった……?」
「多分、それだ。偽報を流して、死亡したと言う嘘でも流せば救出の手順を踏む必要は無い。いや、そっちの方が手っ取り早いし手間隙もかからない。
クローンの織斑一夏が、絶対に救出されるようにした。そして救出された方は世界でただ一人ISが扱える男になった、か」
「……何らかの後ろ盾がいるわね」
「あぁ、違いない。人体研究ってのはどっかの小さい民間組織がちまちまと行えるほど安くはないんだ。膨大な研究費と設備、人員――。スコール、確かアンタらが襲撃した組織は廃墟の一角にあった施設だったか?」
「……なるほど、そういう事だったのね」
「あぁ、多分コイツは最初から仕組まれてた事だ。気をつけろよ、スコール。寝首を掻かれないようにね」
「……ありがとうカレン。貴方も気を付けて」
去っていくスコールの後ろ姿をカレンはじっと見送った。
「……織斑一夏の抹殺か」
アインは自身の目的をそう言っていた。まるで何者かに刷り込まれたかのように、ただそう呟いていた。繰り出された命令を、ただこなす機械のように。
その響きに、言いようの無い不信感を抱いて。
「――その織斑一夏は、誰だ」