「綾さん、英語の課題のことなのだけど……見せてもらえないかしら」
いつものように自転車通学をした私が席につくと、既に教室に到着していた由乃さんがそう話しかけてくる。
そういえば、今日は英語の授業があったことを思い出す。
「忘れてきてしまわれたのですか?」
「いいえ、少し分からないところがあったの。いつもならお姉さまに聞くんだけど、お姉さまは昨日、剣道部で忙しくて聞けなくて……」
「でしたら、私でよければお教えしますよ」
英語の授業は三限目であり、それまでにはまだ時間があるので、私はそう提案する。
リリアンに入学するまでずっとイギリスに住んでいたため、家の中以外では十五年間英語ばかり話していたのだ。
必然的に、英語は私の最も得意な科目となっていた。
「本当? ぜひお願いするわ」
私の提案に、ほっとしたように微笑を浮かべさせる由乃さん。
その表情たるやあまりに可憐で、間近で見せつけられた私は思わず見惚れてしまう。
「まだ時間はありますし、さっそく始めましょうか」
あまりじっと見つめていると不審を覚えられてしまうだろうから、名残惜しさを感じつつもどうにか視線を彼女から剥がした私がちらりと時計に目を向けると、まだ本鈴まで十分ほど時間がある。
これくらい時間があれば、軽く解説をすることは可能だろう。
「そうね。綾さんがいれば百人力よ」
そう言うと、彼女は引き出しの中から英語の問題集を取り出す。
そして課題として指定された該当のページが開かれる。
彼女の言葉通り、ページに印刷された問題の大半は既に解かれていたけれど、何問か解かれていないものが残っていた。
「すみませんが、鉛筆を貸していただけませんか? 普段はペンを使っているので」
私は普段のノートなどは全てペンで書いていて、鉛筆を使うのはテストがある時くらいだった。
しかしながら、他人の問題集にペンという消せないもので書く訳にはいかないので、由乃さんに鉛筆を貸してくれるように依頼する。
「はい、どうぞ」
そう言って彼女が差し出してくれた鉛筆を受け取る私は、それを使って問題文の周りに解説を書き込んでいく。
こくこくと頷きながらそれに頷く由乃さんは、とても可愛かった。
「なるほど。とても分かりやすかったわ。ありがとう」
「いえ、由乃さんにはお世話になっていますから」
いきなりそれまで縁もゆかりもなかった異国で暮らすことになり、必死に英語を覚えた時のことを思い出しながら、なるべく分かりやすくなるように心がけた解説を終えると、どうやら彼女の疑問を氷解させることができたようで、私はほっと安堵する。
異物である私がリリアンに溶け込むことができたのは、初めに積極的に話しかけてくれた由乃さんのおかげである。
そのことは、非常に大きな恩義だった。
その日の放課後。
由乃さんと一緒に教室を出た私は、いつものように薔薇の館に向かう。
そして軋む階段を二人で上り、部屋の扉を開けると、室内には白薔薇さまである聖さまと、黄薔薇のつぼみである令さまの姿があった。
なかなか珍しいというか、このお二人だけというのはこれまでに見たことのない組み合わせである。
とはいえ、どちらも女性としてはかなり背が高く、なおかつ凛々しさを纏う中性的な容貌をしたお二人が共にいる姿は、思わず見惚れてしまうほどに美しい。
「ごきげんよう、綾。由乃ちゃん」
「ごきげんよう、由乃。綾ちゃん」
扉の開く音か、もしくは階段の軋む音(筋肉がある分体重のある私が歩くと、それだけ立つ音も大きくなってしまうのだ)でこちらの接近に気付いていたらしいお二人は、それぞれこちらにそう声をかけてくる。
聖さまはいつも通りの冷淡な口調と無表情で、令さまは爽やかな微笑みを浮かべて。
全く違う表情は、それぞれ彼女たち自身にとてもよく似合っていた。
「ごきげんよう、白薔薇さま、黄薔薇のつぼみ」
そう挨拶をした私は、荷物を机の上に置くと流し台の方へと向かう。
お二人の前にはカップが置いていなかったので、何かお出ししなければならない。
本来こういった雑用は一番の下っ端である私がすべきだと思うのだけれど、そう言っても負けず嫌いな由乃さんは引き下がらずにいつも競争のようになってしまうので、なるべく彼女より先に流し台の前に立つようにしているのだ。
そしていつものように飲み物を淹れ終えた私は、テーブルの方へと戻るとカップを彼女たちの前に置き、最後に自分の分も置いて席へとつく。
「由乃の英語の課題を手伝ってくれたんだって? ありがとう、綾ちゃん」
すると、令さまがそれを見計らったように話しかけてくる。
恐らくは、由乃さん本人からそのことを聞いていたのだろう。
「いえ、英語は得意ですから」
イギリスに長く住んでいたのだから、日本人が日本語を話せるのと同じで英語を話せるのは当然(話せなければ生きていけない)であるし、誇るようなことでもない。
身近で英語に触れる機会など全くない日本で英語を学び、優れた成績を収めている山百合会の方々の方がよほど凄いだろう。
とはいえ、そのことで友人の役に立てたならば、それはとても嬉しいことだった。
「いつもなら私が見てあげるんだけど、昨日は稽古で忙しくて」
苦笑すると、そう口にする令さま。
彼女は黄薔薇のつぼみとして山百合会の仕事をこなしている身であるが、それと同時に剣道部のエースでもある。
自分の分の課題もこなさなければならないだろうし、時として多忙で由乃さんに勉強を教える暇が無い日もあるのだろう。
「両立されているのはとても立派だと思います」
あのような形とはいえ実際に立ち合ったので分かるが、令さまの鍛え方は尋常なものではない。
それゆえに彼女が相当な量の鍛錬を積んでいることは想像に難くないのであるが、山百合会の仕事をこなしつつ剣道にも打ち込んでいることはかなり凄いことだった。
私はまだ何の部活をやるか決めていないし、山百合会の仕事も期限が決まっていないとはいえ一時的な手伝いに過ぎないが、令さまの場合はそれをずっと続けているのである。
そのことを考えれば頭が下がるばかりだし、この方と共に剣道に励むのもいいかもしれないと魅力を感じ始めている私もいた。
「それにしても、こうして見ると三人ともとても凛々しいですね」
そんなことを考えていると、ふと口を開いた由乃さんが言う。
現在室内にいるのは私と聖さまと令さまと由乃さんなので、私も含めた彼女以外の三人のことを指しているらしい。
「凛々しい?」
「もちろん悪い意味じゃないんだけど、三人とも男の子みたいで格好いいと思うの」
いきなりの由乃さんの言葉に、少し不思議な様子で尋ねる令さま。
それに対して、彼女はそう説明をする。
簡潔な説明だったけれど、その言わんとするところはおおよそ理解できた。
男物の服を着れば並外れた美少年にしか見えないだろう令さまはもちろん、まるでギリシャ彫刻のように美しく整った顔立ちを持つ聖さまも、少女としてはやや高めの身長や他人を拒むような雰囲気もあって、男性的な凛々しさを持っている。
容姿ではお二方に遠く及ばないだろう私も、背の高さという意味では令さまより更に高く、その点で明白に男性的であると言える。
「背が高いだけの私はともかく、確かに白薔薇さまも黄薔薇のつぼみもとても格好いいですよね」
恐らくは、聖さまも男装をすれば非常によく似合うだろう。
頭の中で男装して並んでいるお二方の姿を思い浮かべながら、私は由乃さんに賛同する。
もちろん単なる想像でしかないのだけれど、頭の中の聖さまと令さまの姿は非常に格好良かった。
「綾さんって、自分の容姿に無頓着よね」
何故だか、苦笑を浮かべた由乃さんがこちらに向かって告げる。
この身長だと合う女物の服がほとんど無い(イギリスではあったが日本だとまず見つからない)し、そもそも背の高さのせいでスカートなどが似合わないので普段は男の子のような格好をしているのは確かだけれど。
「私より、綾の方が格好いいと思うわよ」
「そんな、私など白薔薇さまには到底及びません」
そう言って、読んでいた本から顔を上げてこちらを見る聖さま。
当たり前だけれど、男装していなくともその顔立ちは整っていてあまりに美しい。
一度目が合うと、そのまま呆然と見蕩れてしまうくらいに。
聖さまのように素敵な方にそうおっしゃっていただけるのはとても嬉しいことだが、私の身にはとても余る言葉である。
私がこの方に勝てている点など、せいぜい身長の高さくらいだろう。
そんな風な会話を交わしていると、扉の外から階段が軋む音が聞こえてくる。
その音は来訪者の訪れを告げてくれるものであり、すなわち間もなく誰かがこの部屋に入ってくるということだ。
「ごきげんよう」
数秒後に外側から開かれた扉の向こうから入ってきたのは、祥子さまだった。
その麗しき姿を目にして、私は少し意外だけれどこの方も男装が似合いそうだなどと密かに考える。
……さすがにこのような邪な考えを本人に知られると怖いので、間違っても口にはしないけれど。
「ごきげんよう、紅薔薇のつぼみ。お茶を淹れますね」
とりあえず、そう挨拶をして由乃さんより先に立ち上がる私。
そして流し台の前に向かった私は、手早く祥子さまのお好きなダージリンのストレートを淹れるための準備を進めていく。
「そういえば、紅薔薇のつぼみも男装が似合いそうですよね」
「ちょ、ちょっと由乃」
「……男装?」
うわ、由乃さん本当に言った。
私と同じようなことを考えていたらしく、慌てたように由乃さんに声をかける令さまと、突然そのようなことを言われてそう問い返す祥子さま。
流し台の方を向いているので確認はできないけれど、恐らく彼女が訝しげな表情を浮かべているだろうことは容易に想像できた。
今しがたまで話していた話題の続きとはいえ、本当に本人に言うとは、由乃さんの勇気には恐れ入る。
「はい。白薔薇さまとお姉さまと綾さんって三人とも男装が似合いそうで凛々しくて格好いいなって話をしてたんですけど、紅薔薇のつぼみも背が高いから男装が似合いそうだなって」
確かに、私や令さまのように頭一つか二つ分抜きん出ているという訳ではないが、聖さまと同じで祥子さまもこの年代の少女としてはかなり背が高い方である。
ましてや顔立ちも相当整っているので、もし男装をしたら(男の子のように見えるかはともかく)さぞかし似合うのではないだろうか。
もっとも、山百合会の方々はそのことごとくが並外れた美貌の持ち主なので、そういった意味では全員男装が似合うとも言えるのだけれど。
「確かに、令と綾さんが殿方のような服を着ていたら、勘違いする子も多いでしょうね。白薔薇さまにも似合うと思うわ」
背中越しに椅子が引かれる音がかすかに聞こえ、あまり興味なさげにそう言った祥子さまが席に着いたことが分かる。
彼女が怒らなかったことに密かに胸を撫で下ろしつつも、お湯が沸いたので私はお出しするための紅茶を温めておいたカップに淹れていく。
紅茶の本場であるイギリスに住んでいたので、紅茶の淹れ方にはそれなりに自信があったりするのだけれど、それでもお嬢様の中のお嬢様であり良質な紅茶を飲み慣れて舌が肥えているだろう祥子さまに紅茶をお出しする時は、かなりの緊張を覚える。
ましてや、この方がお好きなのはダージリンのストレートなので、小細工を施すような余地がなく、味わいの良し悪しはいかに茶葉を花開かせるかのみにかかっている。
つまり、この場合は基本に忠実であることが最も大事(江利子さまならば多少奇をてらったものをお出ししても喜んでくださるのではないかと思うけれど)であり、私は慎重に丁寧に作業を進めていく。
急げばその分味が落ちてしまうので、少しお待たせすることになってしまうけれど、そのことは祥子さまもよく分かっているので何もおっしゃられない。
そして芳醇な香りを立てる紅茶を注ぎ終えた私は、それをトレイに乗せるとテーブルの方へと運んでいく。
「ありがとう」
彼女の前にカップを置くと、こちらに告げてカップが持ち上げられる。
美味しいと感じていただけるだろうか、と少しどきどきしながらも、トレイを片付けて席へと戻る私。
カップを傾けて中身を飲む祥子さまの仕草は、それだけであるにもかかわらず非常に上品で優雅であり、さすがはお嬢様だと感慨を覚えた。
「美味しいわ、綾さん」
「そうおっしゃっていただけて光栄です」
そしてカップを置いた彼女は、こちらに向けてそうおっしゃってくださる。
その穏やかな笑みももちろんだけれど、祥子さまに褒めていただけるのはとても嬉しい。
美しい笑顔に見つめられて少し胸が高鳴るのを感じながら、私は言葉を返したのだった。