コッペリアの電脳   作:エタ=ナル

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第四十一話「ヒューマニズムプログラム」

第四十一話「ヒューマニズムプログラム」

 

 そのような手段を用いることで、アルベルトはエリスのオーラを飲み干した。

 

 

 

 雨は止み、夜空が紫に変わる時分、黒々とした闇が彼らの心中を覆っていた。集中治療室の外は血まみれだった。廊下は臓物と絶望に暗く濡れ、病院中、永久の眠りが蔓延している。それでも、通報する者は誰もいない。蜘蛛たちは風のように事を運び、余計な者は、誰一人として残さなかった。彼らに脅され、従属を選択したわずかな医師と看護士だけが、辛うじて命を長らえている。

 

 やがて、手術中を示すランプが消え、内側から一人の男が現れた。丹念に滅菌された手術衣を着て、帽子をかぶり、口元をマスクで覆っている。シャルナークだった。施術に負担をかけないため、彼一人が、監視のために立ち会っていた。

 

「マチ」

 

 彼女は腕を組みながら、壁にもたれて瞑目していた。

 

「縫合かい?」

 

 マチが問うが、シャルナークはマスクを取り外しながら首を振った。それは終わったと付け足して、マチと、今一度彼女の名前を呼んだ。

 

「中に来てくれ。団長が呼んでる。みんなもだ。全員に話があるんだって」

 

 彼の言に従って、待機していた全員が入室していく。重々しいほどに無言だった。暗い猛りに包まれながら、足音一つ立てようとしない。シャルナークはその様子を最後まで見守ってから、まだ湿った一着の外套を手にとった。丁寧に畳まれ、長椅子の上に置いてあった黒いコート。それは、彼らが荒野より拾ってきた、クロロの脱ぎ捨てたものだった。

 

「団長」

「マチ、か」

「ああ。呼んだんだってね」

 

 手術台の上にクロロが寝ていた。まだ麻酔が残っているのだろう。ぼんやりとした雰囲気が漂っている。ただ、顔色はあまり悪くはない。溌剌としてこそいなかったが、いや、常人なら瀕死であるほど弱っていたが、想像よりもずっと良かった。マチはほっと息をついた。

 

「なんとか乗り切れそうじゃない。安心したよ」

 

 腰に手をついて彼女は微笑む。クロロの体力は信頼していた。安静に回復に専念すれば、峠はきっと越えるだろう。そう確信できるだけの付き合いがあった。後ろで見守る面々も、言葉にせずに同意していた。

 

「オレはもう、戦えない」

 

 クロロはそう言って上半身を起こし、己が右腕を皆に示した。肘から先が何もなかった。

 

「盗賊の極意が使えない。盗んだ能力を、発現させることができなくなった」

「そんなの……」

 

 たいした問題じゃないじゃないかと言いかけて、マチは唇を噛んでたじろいだ。理解していた。発が使えないのは致命的だと。他の盗賊団ならばとにかく、それで団長が勤まるほどには、幻影旅団は生易しくない。彼の体術は凄まじい。念の技量も高く経験もあり、例え発を使えなくても、ありふれたプロハンター程度では歯牙にもかけまい。……しかし、それだけは到底足りないのだ。

 

 仮に右手を義手にしたとしても、彼の能力は使えないだろう。利き手を封じると決めたからこそ、あれだけの奇跡を起こせたのだ。安易な手段で回避できては、彼自身の心が納得しまい。右手の再生も難しい。完全に喪失した肉体を復元せしめる奇跡の力は、それ自体が歴史的な至宝に値する。今まで宝物を盗み尽くしてきた旅団だからこそ実感として分かる。世界中駆けずり回っても発見は厳しい。

 

 かといって、誓約の変更は習得よりはるかに難しい。生涯を共にすると決めた誓いだ。それを、変える。これまで想定していた人生全てに匹敵する意志の強さを持って誓約を否定し、一度変えたという事実が生じてしまった上で、さらに強固な意志で新しいそれを上書きする。クロロの才能は途方もないが、だからこそ過去の自分が障害になってしまうのだ。彼が諦めることもないだろうが、寿命が尽きるまでに実現すれば上々だった。

 

「シャルナーク、あれを」

「了解」

 

 応じて、シャルナークがマチに何かを手渡した。それは黒く、大きく、わずかに湿った、よく見慣れた背中のコートだった。

 

「次の団長は、マチ、お前だ」

「あ……」

 

 クロロが低い声で厳粛に言った。彼女は一歩下がりたかった。嫌だと拒否をしたかった。首を振って否定したいと切実に願った。胸から苦しさがこみ上げてくる。団長の責務が怖いのではない。頷けば、クロロを喪ってしまいそうで、何よりもそれが恐ろしかった。

 

「お前がやれ、マチ。オレの最後の命令だ」

 

 コートを胸に、マチは一旦後ろを向いた。誰もが彼女を見つめている。厳粛に、ひたすらに沈黙を守りながら。仲間達の注ぐ眼光を、彼女ははじめて怖いと思った。

 

 それでも、マチは再びクロロを向いた。上体を起こすのが辛いのだろう。彼は真っ青な顔をして、死者の如くに冷えつつあった。だが、誰も口を挟まない。クロロにもマチにも触れようとしない。

 

「……分かった。今からあたしが蜘蛛の頭だ」

 

 たったそれだけの簡素な儀式が、必要な全てを満たしていた。自分の心を飲み込んで、彼女は蜘蛛になったのだ。旅団を率いるには『何か』が要る。圧倒的な、余人の及びもつかぬ強大ななにかが。マチはそれを得ようと思った。否、既に得ていると決定した。コートを羽織り、じっと目を瞑って自己に沈む。着心地は暗く、重かった。

 

「クロロ」

「なんだ、団長」

「今後について考える。今の状況を、全て教えて」

 

 寝そべるように促してから、マチは説明を要求した。クロロは諾々と言葉を紡ぐ。アルベルトの能力を盗んでいたこと。その発の性質。盗賊の極意のイメージが砕け、その際、恐らくは盗んだ能力も解き放たれたであろうこと。時折咳き込み、声を小さく掠れさせながらも、彼は簡潔かつ明瞭に尽く答えた。

 

「集めた能力は、具現化のイメージが回復すれば手元に戻るのか?」

「分からない。だが、一度は盗んだ能力だ。綱引きのようなせめぎ合いだろう。試してみるだけの価値はあるな」

「……そうか」

 

 無論、それは向こうも懸念していることだろうと、誰もが自明に理解していた。

 

「みんな、聞いとくれ。今の旅団にとって、最大の障害はアルベルトだ」

 

 颯爽と彼女は振り返った。玲瓏な声が手術室に響く。部屋の隅で、医師たちが恐怖に震えていた。微かな邪魔もしないように全身全霊をすり減らしながら、小動物のように震えていた。

 

「ほかの奴なら逃げればいいさ。蜘蛛という存在が生き残るなら、あたしたちにとってはそれが勝ち。あの鎖の男だって、二度目なら対処も容易だろう。二人以上なら間違いなく殺れる」

 

 団員達は頷いた。彼らには自明の確信だった。一度底を見た以上、対抗する方法は五万とある。なにより、ほとんどの団員があの場では切り札を見せていない。

 

「だけど、アルベルトだけは例外だ。あれだけはここで殺さないと、どこまでも必ず追ってくる。滅ぼさない限り、永久に蜘蛛の脅威になり続ける。だから、この街でアルベルトを確実に潰す」

 

 異論は誰も出さなかった。重要なのは強弱ではない。旅団の内部に潜んでいた男。ろくな能力も持たぬまま、オーラを垂れ流し続けながら、彼らとあそこまで渡り合った男。ヒソカと手を組み、意表をつき、クロロとの分離に成功した男。それだけの熱意、成し遂げた成果。社会の暗闇に潜む蜘蛛にとって、それこそが真の脅威なのだ。更に、今では本来の発までをも取り戻し、貪欲に機会を窺っているはずである。

 

 ところが、彼女はそこで言葉に詰まった。方策が浮かばないという理由ではない。むしろ逆に、最善策が見つかったからこそ、マチは沈黙に囚われていた。何をすればいいかは分かっている。クロロならきっとそうするだろう。彼女とて、彼に命じらたら迷わなかった。しかし、命令を出すのはこんなにも辛い。

 

「マチ、これからはお前が団長だ。お前の思う通りにやりゃあいい」

 

 ノブナガが言った。クロロを真似する必要はないと。皆が頷く。フィンクスが続いて断言した。オレたちは何があってもついて行くと。ウボォーギンが腕組みして笑い、シャルナークが苦笑し、ボノレノフが精霊に誓ってと誠意を捧げた。そして、フランクリンの大きな手の平が彼女の頭を包むようにひと撫でして、コルトピが静かに寄り添っていた。

 

 ……振り返らなくても彼女には分かる。後ろではクロロがいつもの顔で、きっと、殴りたくなるようないつもの顔で、……娘を見るような父の顔で、この光景を見てにやついているのだ。

 

そうだ、これからはあたしが頭だと彼女は思った。脚は大分減ってしまったけれど、これからも旅団が続いていくために、蜘蛛らしくありたいと自然に願えた。

 

「蜘蛛の巣を張ろう」

 

 マチはクロロが好きだった。誰よりも彼を慕っていた。恋慕ではない。性別も愛情も超越し、ただ、人として彼が好ましかった。

 

「罠だ。あいつが、アルベルトがどうしても見逃せない罠を張ろう。あいつには今、妹がいる。体勢を整えられたらこっちが不利だ。早急に、否応なく誘い込んで殺さないといけない。そのためには、一つの前提が必要だから」

 

 皆が慎重に見守っている。これから、彼女は絶対の命令を下すのだ。団長として、頭として、あらゆる感情を消してマチは断じた。自分の心を殺す程度の在り方では、蜘蛛の頭は勤まらない。

 

「クロロの余命を、使い潰す」

 

 だから、みんなの命をくれと彼女は言った。

 

 

 

 深海底の如き暗黒の中、一握のファントム・ブラックを解除した。回帰したオーラを回収する。計算通りの手応えを得て、アルベルトは、誤差のないことを確認した。ならば、するべきことはただ一つ。速やかにリソースを振り分けて、指先に小さな念弾を生成した。ほんの小さな念の塊。密度も極めて常識的だ。しかる後、単純な自動操縦のプログラムを設定して、一通り機能をチェックした。どこにも不備は見当たらなかった。そして、彼は専用のタスクを用意して、同じものを数十と生成した。

 

 ここから先は賭けである。理論、否、夢想だけは古くからあったが、養父にさえも話していない。盗まれる前、彼には素養が足りなかった。例え環境は整っていても、脳が焼ききれるという予測しかなかった。

 

 だが、死に接し、感性を磨き、肉体を知り尽くして確信を得た。今ならきっと実現できる。念、心が織り成す意志の異能。半年間の修練と、ここ数日間の命を賭した荒行と戦闘。マリオネットプログラムを失って、麻薬を打ち、熱病に溺れ、死線を闊歩して残されたもの。それは、能力を行使してなお暖かい、人の心の欠片であった。実感として得た、再生可能な愛情のデータ。

 

 念弾を数百と生成した。

 

 自動操作の内容は単純である。隣接する念弾との微弱な光の送受信。自身は一つの状態を保持しており、外部からの刺激によってその現状を反転させる。隣から入力を受けた時、反対側に自分の状態に応じて微細な光子を具現化する。役割は電気回路のスイッチに近い。

 

 ファントム・ブラックを解除する。回収されたオーラを元に、念弾を数万と生成した。

 

 設計図はとうに用意してある。実績もあった。今年の春、集団窒息事件を捜査した際、アルベルトはそれを実現している。あの時とは勝手が異なるが、根本的な原理はさほど変わらない。

 

 ファントム・ブラックを解除する。生命力の井戸は無尽蔵だ。が、回収されるオーラには癖がある。危険を警告するアラートが鳴った。肉体は高度統制されていたが、それでも体への負担はある。特定の方向へ着色された、人間には扱いにくい禍々しさ。だが、アルベルトには多少とはいえ耐性があった。纏もできずに首飾りをつけ、染み込んだ猛毒と寄り添ったが故に。そして、耐性は多少で充分だった。肉体とオーラの完全制御は、処理能力の範囲内なら、害意を害意のままに扱える。アルベルトが操作を憶えこませた念弾は、既に数百万を超えていた。作動は既に始まっている。

 

 単純なプログラムによって自律する、自動操縦の小さな念弾。一つ一つ、それなりの量の生命力を与えられて圧縮され、光信号の連鎖を形成する。さらに、必要な補助機能を付随させ、全体で一つのシステムが構築されていた。即ち、念によるコンピュータの模倣である。

 

 計算する念弾。演算能力の外部増設。脳は人格と中枢制御に特化させ、念の微粒子による演算代行。自動制御の念弾の応用。基幹さえ作動している状態であれば、自己構築さえ可能だった。事実、アルベルトが携わっている割合は、時間と共に減少している。現在、二つ目の回路を新規に構築しているにも関わらずである。総数は既に億を超えた。

 

 ファントム・ブラックを解除する。演算能力の向上により、体外顕在量もまた増加している。それを基に、あり余るオーラを注ぎ込み、念弾を更に小さく凝縮していく。加えて外周を強固な殻で覆い尽くし、強力な纏、高度な隠を施した。周囲への気配の流出が防止され、禍々しい気配が急減していく。

 

 外殻により、一つの回路がパッケージ化される。バスケットボールほどの大きさで、オーラの源と演算補助を兼ねるそれを、アルベルトは、戯れに演算球と定義した。表面は単純に高密度のオーラの壁であるが、内部には、極小の念弾が所狭しとひしめいていた。

 

 

 

 窓からは新しい陽光が差し込んでいる。わずかに寒く、すがすがしい匂いの朝だった。気温を感じたのは久しぶりだった。鈍い痛みが消えている。ガラスの外をさえずりが飛ぶ。生命が素晴らしくきらめいていた。エリスは己が生きていることを噛み締めていた。

 

 禍々しいオーラが体内にない。全てをすっかりと吐き出して、肉体は清涼な疲労感に綺麗さっぱりと洗われていた。何よりも驚くべきであろう事は、街どころか部屋の調度品に至るまで、何一つとして壊れた形跡がないということだった。喜ぶべきだとは知っていた。だが、彼女の心は重かった。

 

「落ち着いた?」

 

 ひどく優しい声がした。心地よく乾いた体に音色が染み込む。ファントム・ブラックを回収しきって、アルベルトはエリスの頬を右手で撫でた。左腕がないと知ったときはショックだったが、旅団と戦ったと聞いて更に激しい衝撃を受けた。生きていてくれて本当に良かった。そんな彼の周囲には、今や、六つのオーラの球体が、取り巻くように浮かんでいた。

 

「わたしのほうは問題ないわ。とても疲れてるけど、たったそれだけ。ありがとう、アルベルト。何度お礼を言っても足りないけど、ありがとう」

 

 決壊寸前の涙腺を締めて、エリスは想い人との再会を噛み締めていた。離れていた時間が長かったからか、対立と戦闘を経たからか、胸が破裂しそうに苦しく痛い。彼は今、生きている。マリオネットプログラムも戻っている。それでも、その姿はあまりに痛々しくて。

 

「それが平常というものだよ。大抵の人間が享受している、痛みのない普段の体調だ。ごめんな。お前には、もっと早くに与えたかった」

 

 言って、アルベルトは悔しそうに顔をゆがめる。エリスは彼の顔に手を伸ばして、右の眼窩に手の平をかざした。触れることはためらわれた。まぶたは閉じられていたのだが、中身はがらんどうと知れたのだ。しかし彼は、すぐに治すとあっけなく言った。

 

 言葉は即座に実現した。右目を、次いで右耳を復活させる。アポトーシスで死んだ細胞たちが、垢となってぽろぽろとこぼれた。エリスは思わず息を呑んだ。脱分化と再分化の急速制御。発生の再現に近い人体再生。今までも行使可能だった機能だが、これだけのスピードは初めて見た。

 

「左腕は容積が大きすぎるね。アミノ酸の余剰が足りない」

 

 やや残念そうに言った直後、汚れたワイシャツによる止血を外し、アルベルトは上半身の服を脱いだ。そして、右手に纏った刃状のオーラで、露出した傷口の表面を薄く削る。新鮮な組織が現れた直後、生命力が集い、骨が生えて筋肉が絡み、瞬く間に皮膚が覆い尽くし、左腕がゼロから構築された。具現化したのだ。処理能力の向上に物を言わせて。

 

 奇跡の糧は彼女にも分かる。己の器を遥かに越えたオーラの制御。要求されるは繊細至極。微かな雑念さえ許されない、絶対無音の神域である。

 

 それを実現する能力があった。

 

 達人の中の達人、ヒトの理を越えた神仙、異常識に生きる異次元生命。……機械の如き、デジタルな思考。

 

 そして、ファントム・ブラック。現実の黒とは全く異なる方向性の、完全黒体よりも黒い塗料。真正の闇。その恐ろしさを彼女はようやく理解した。泣きたくなるほどの相性だった。

 

「まだ、戦いへ行くの?」

 

 エリスは尋ねた。努めて明るく、震える両手を隠しながら。左腕を具現化したのはそのためだろう。このまま日常へ戻れるなら、アルベルトは静養と腕の再生を優先するに決まっていた。それは合理性であり優しさでもあった。

 

「もう少し休む時間はないの? その、体もだいぶ汚れているし」

「ああ……。確かに、戦い通しだったからね」

 

 自分の体の臭いを嗅いで、アルベルトは朗らかに苦笑した。エリスの勧めに従って、浴室へシャワーを浴びに行く。彼に服を用意しながら彼女は思った。いっそ、なにもかも投げ出してしまえないかと。アルベルトが左腕を具現化したとき、喪失を見て取ったときよりも悲しかった。まるで、より一層、彼が機械じみてしまった気がしたのだ。もちろん、ただの杞憂だと知っていたが。

 

 自分も共に戦えたらと、枯渇したオーラを恨めしく思った。わがままなど言えるはずがない。今の彼女は足手まといだ。行かないでほしいとはいえなかった。彼が戦いを選ぶなら、きっとそれは必要なことだ。アルベルトはとても優しいから、泣き喚けばきっと困ってくれる。だけど、それじゃあまりに嫌な女だと、エリスは己の弱さを叱咤した。

 

 あの人の居場所になりたいと、あの人の支えになりたいと、そう願っていたからこそ、彼女はこの街へ挑んだのだから。

 

 何より、今のアルベルトを信じなければ、エリスは自分が許せなくなる。彼の瞳には、新しい輝きが確かにあった。数時間前、発狂寸前の女を救った灯火。より人間らしい暖かさ。なによりもあれが嬉しかった。アルベルトがずっと憧れていて、渇望していたのを知っていたから。本当に、天に昇るほど嬉しかった。

 

 あの時、エリスはベッドの上に座り込み、己が腕を噛んでいた。犬歯が肉まで刺さっていた。血が滲み、衣服に雫が滴り落ちた。体が芯から凍えていた。魂の内側から賛美歌が聞こえ、救いを求める人々の声が、蓄積された絶望が、枯れた手を伸ばして這いずってくる。一秒という一秒が辛かった。後何分持つのかなんて、彼女には全く分からなかった。

 

 そんな苦しみの沼の中で、ふと、片手で抱きしめてくれたよく知った温もり。誰よりも欲しかった人の顔。そして、その目に宿る懐かしい喜び。それが、どんなにかエリスにとって救いだったか。

 

「紅茶でいい?」

 

 浴室から出てきたアルベルトに、テーブルの準備を整えていたエリスが尋ねた。湿った柔らかい金髪が、額にかかって可愛らしい。彼女はくすりと笑いをもらした。

 

「コーヒーがいいな。あるかい?」

「インスタントでよろしければ」

 

 アルベルトは目を細めて頷いた。電気ポットの湯が注がれ、香ばしい匂いが部屋に広がる。皿の上には市販のクッキー。安っぽい、ありふれた朝の憩いだった。

 

「はい」

「どうも」

 

 ブラックを熱いまま手渡して、自分のに砂糖とミルクを入れてから、エリスは彼の対面の椅子に座った。

 

「あぁ、ほっとする」

 

 小さく音をたてて一口飲んで、アルベルトは一つ息をついた。エリスはくすくすと小さく笑った。お年寄りみたいと彼女が言うと、彼は少し拗ねたように肩をすくめた。

 

 本来、能力を取り戻した今の彼に、このような行動は必要ない。仮にコーヒーが飲みたければ、記憶から最高の味を再生できる。カフェインの効果も同様だった。それでも、アルベルトはエリスに付き合ってくれる。同じ時間をすごしてくれる。なによりもそれが嬉しかった。結局のところ、彼女が取り戻したかった幸福など、この程度でしかないのである。

 

 ただ、時だけが緩やかに過ぎていく。会話一つない早朝の風景。同じ部屋に一緒にいるだけ。アルベルトがクッキーを齧る音が、静かな空間に控えめに響く。彼女はカップの水面を眺めてから、ゆっくりと口にコーヒーを含んだ。何の変哲もない普通の味。だというのに、とても穏やかに頬が緩む。安い女だと自嘲した。目尻に滲んだ水滴を、指先でこっそりと拭い取った。視線でどうしたと聞かれたから、あくびをしただけと目だけで返した。

 

「ごちそうさま。……さて」

 

 十分もかけて一杯を飲んで、アルベルトは、陶器の触れ合う音を立てた。

 

「行く?」

「ああ、行かないと。クロロが回復にこぎつけたあとに、能力がどちらに転がるか分からないから」

 

 だから殺すと言外に告げて、アルベルトは椅子から立ち上がった。エリスも立って、アルベルトに近寄り、頬に口付けしてからそっと見上げた。話したいことは沢山あったが、言葉は、全て胸でつっかえている。

 

「エリス、僕が決着をつけている間、君に頼みたいことがいくつかある」

「言って」

「まず、師匠とゴンたち四人が病院にいる。ハンゾーたちに至っては、昨夜の時点では連絡を取ることができなかった」

 

 エリスは驚いて硬直した。知らぬ間に、肩に力が篭っている。アルベルトの両手がそれをなだめた。

 

「父さんも?」

「僕のせいだ。ヨークシンを旅団から守る最終ライン、その中核を引き受けさせてしまったんだ。幸い戦闘はなかったけれど、電話でそう報告したとたん、検問の現場で倒れたと聞いている。幸い、命に別状こそないそうだけど……」

「……どうしてこう、うちの男の人たちは」

 

 彼女はほっと力を抜いた。そして、口の中でもう数個ほど文句を連ねてから、アルベルトの顔を再び見上げた。

 

「皆のお見舞いと連絡と、必要な措置の手配でいいのね? 他には?」

「市や国との交渉は難しいかな。後始末に取り掛かる土台だけでも」

「やるわ」

 

 エリスは力強く即答した。

 

「始めるなら早いほうがいいんでしょう? 手伝わないはずがないじゃない。まかせて。わたしでは知恵も経験も足りないけれど、方々にハンターライセンスを振り回してでも、あなたが満足する結果にしてみせるから」

「無理はしなくていいからね」

 

 アルベルトはそう補足するが、エリスは首を振るのみであった。説得力がなさすぎたのだ。本人は本気で言っているのだろうが、彼女はそれでは気がすまない。結局、アルベルトの能力を取り戻す事にも、ろくな役に立てなかった。それどころか、奇跡の相性を持ち帰って、苦しむ彼女を救ってくれた。だから、こんな時ぐらい無理をしないと、エリスはきっと、彼の側に立つ自分を許せなくなる。

 

「いってくるよ」

「ええ、いってらっしゃい。帰ってきてね」

 

 エリスは笑った。気持ちからこぼれた笑顔ではない。少しでもアルベルトの気持ちを楽にするために、微笑みを浮かべて送り出した。扉が閉まり、一人になってしまった部屋の中で、彼女はしばらくドアを見つめていた。しかし、それもすぐに中断された。是が非でもやりたい事があったのだ。

 

 エリスは気合いを入れようと、まずは熱いシャワーを浴びることに決めた。

 

 

 

 表通りに出て間もなく、どこからか、能力が引っ張られてる感覚があった。アルベルトは直感的に理解した。これはクロロからの兆しであると。魚が釣餌で遊ぶような、ほんの些細で紛らわしい違和感。だが、見逃せるような道理はない。焦る必要はないだろうが、早めに対処する必要がある。そう考え、彼はハントを開始した。

 

 体内の神字が活性化する。高度統制が開始され、マリオネットプログラムの秘める機能が解き放たれた。六つの演算球が唸りを上げた。オーラが、処理の占有率が貪飲される。しかし、性能には未だに余裕があった。

 

 左腕内部に具現化したアンテナから電波を発信、携帯電話の基地局を介して電脳ネットワークへアクセスする。ハンターサイトにて認証を済ませ、同時に、ヨークシン市警のサーバへ特権を使用して正規のリクエストを送信した。双方に目ぼしいデータがないことを知ると、一転して、彼は非合法の手段に着手した。

 

 管制空間へ自意識を飛ばした。指令席に着座し、球形スクリーンにヨークシン全域の三次元地図を鳥瞰モードで投影する。道路交通管制用の監視カメラネットワークを完全掌握。市内に数社ある大手民間警備会社のデータベースへ不法侵入。軍事用低軌道偵察衛星の通過情報を奪取して、偶然上空をフライパスしていた一基から、データを丸ごと掠め取った。人々の現在の活動場所は、携帯電話の位置情報を基幹に推測する。その他、防衛上の機密からオンライン家電の反応まで、ありとあらゆる情報が、アルベルトの脳に集約される。

 

 結果、足元にリアルタイムで再現される、電脳世界から眺めた現実の街並み。アルベルトを模した人格フィギュアは、今まさに、この街の空に座っていた。

 

 メインスクリーンが展開される。数多の浮遊ウィンドウを出現させ、キーボードなど及びもつかない思考の速度で、彼は命令を入力していく。常人では把握不可能な量の情報が流れる。街並みの各所を駆けるように探していく。はるか上空の衛星から、信号の上のカメラから、路地裏を歩く携帯から、小さな手掛かりを徹底的に拾って分析する。秒間数千回の取捨選択を繰り返し、世界的な巨大都市を表裏の別なく探索していく。

 

 そして、ほんの五分も要せずに、アルベルトは旅団の居場所を特定した。

 

 件のハイウェイからも程近い、荒野に隣接したヨークシン外縁地区の中枢区域。閑静な住宅街が中心の地域の、その辺りでは大きい総合病院。昨晩からそこに限ってのみ、人間の反応が急激かつ極端なまでに消滅している。

 

 複数の経路から裏づけをとる。決め手はセキュリティーサービスの記録だった。深夜、常駐する警備員が送る定時連絡の発信開始が、毎時ともミリ秒単位で正確だった。あからさまに不自然だったが、シャルナークの仕事にしては杜撰すぎる。十中八九罠だろう。相手がここまで辿り着き、偽装を看破するのを見越した上で、このような細工で挑発している。準備を整えた蜘蛛の前に、残る戦力で飛び込んで来いと。

 

 本来は絶望的な挑戦だろう。昨夜の消耗が回復せず、重傷を負った状態であるならば。

 

 だが、アルベルトの現状をもってすれば。

 

 勝てる勝てないは問題ではない。きっと、どこまで勝ちきるかという戦いになる。

 

 そうと決まれば準備は早い。まずは市当局の対応を信用して、資料付きで戦域情報をリークしつつ、批難経路等についての助言を添える。かつ、ハンター協会および国際刑事警察機構への報告を私有サーバ上にアップロードし、本日正午までにアルベルトからのコード入力がなかった場合、自動的に全ての経緯が行き渡るように整えた。

 

 そして彼は空を駆ける。

 

 

 

 雨上がりの涼しい朝であった。九月の初めの新しい空気が、柔らかな風に乗って運ばれてくる。かつての雨雲は大きく千切れ、天に開いた壮麗な穴から、冷たい朝日が斜めに差しこみ、濡れた街並みを照らしている。空がゆっくりと流れていた。

 

 贅沢な敷地の病院だった。前庭は豊かな芝生に覆われていて、そこかしこに茂る木々や草が、夏から秋へ移りつつある。アスファルトで舗装された太い私道が、訪れる車両のために広々と口をあけていた。その脇には、赤いレンガの小道も見える。正門から見える病棟は二つ、どちらも大きく、洒落た近代的な外観と清潔さを与える白い塗装で、近年建て替えられたばかりと分かる。全て、事前に入手した構造と寸分たがわず合致していた。

 

 前庭の中央にノブナガはいた。階段のように差し込む光が、水中のように揺れている。前夜の雨に濡れた黒い舗装が、蒼い、浅海底のような砂原に見えた。ノブナガは居合を構えている。

 

 マリオネットプログラムがサーチするが、他者の姿は見当たらない。他が絶で隠れる中、彼だけが姿を晒していた。当然、全てが旅団の罠であり、そもそも罠ですらないだろう。ノブナガと戦えば他が助け、他の団員を狙えば彼が斬る。それは蜘蛛にとって自然であり、作戦と呼ぶには今さらだった。故に、アルベルトの指針に変更はなかった。殲滅である。

 

 微動だにせず、ノブナガは円を展開している。おそらく、一晩中ずっとそうだったのだろう。心身ともに完全な受身。禅にも通じる無我の集中。それは、今までの居合とは意味合いから違った。

 

 正門から立ち入り、アルベルトは歩く。ノブナガは彼に気付いていない。両目を軽く閉じたまま、眠ったように停止している。半径四メートルの太刀の間合いを、円だけが鮮明に示していた。

 

 自動防衛管制を6/6、「無制限」に時限設定。アルベルトという人格が消滅する。脳の全てが己の能力に委譲され、思考領域すらも残されない。この瞬間、アルベルトは人間性の全てを喪失し、彼が使用していた肉体は、戦うための機械に変じた。

 

 マリオネットプログラムが選択したのは、手刀から延びるブレードであった。データが変化系総合制御に受け渡され、タイムラグなく実現する。両手からオーラが薄く伸張し、一メートルほどの刃となった。刃先の厚さはナノもない。

 

 アルベルトは無造作に歩き続け、ついに、ノブナガのオーラに踏み込んだ。

 

 時間が飛んだ。

 

 刃は既に煌いていた。居合だけを極めた男の奥義。たった一人を殺すための、たった一重の斬撃の軌跡。次を想定しない潔さ。剣速は自ずから攻め挑む際とは比較にならない。拍子を斬り間合いを切り時空を斬り、ノブナガは、因果の狭間に踏み込んでみせた。

 

 ノブナガの頬が吊り上り、彼の肉体が四つに分かれる。左右それぞれ袈裟懸けに、抜き放った刀身ごと抵抗もなく、一人の蜘蛛が切断された。時間が断絶するほど不可知の速度。身体各所から万分の一以下の誤差でオーラを空中に放出し、最大限の出力で地を駆けた超豪速の心身制御。心で、技で、体の練度で負けながら、一人の男の生涯を、無粋極まる純粋な速さで、アルベルトは木石同然に切り捨てたのだ。

 

 役目を終え、自動防衛管制が4/6「連続最大警戒」まで水準を落とす。ノブナガの体躯が赤く破裂し、刀の切っ先だけが空へと舞った。人格が回帰し、状況を認識したアルベルトは、背後へ向けて右腕を振った。ブレードはあやまたず首を切り裂き、彼の国の流儀の介錯を済ませた。

 

 その時、音楽が庭を包んでいた。圧縮された時間の刹那、一音にも満たぬ音階だが、不思議と曲と知れたのだ。素朴なリズムが奏でられ、黄泉の気配が出現していた。

 

 滲み出る人影をアルベルトは見た。踊るボノレノフを囲むように、数多の男が舞っている。一瞬で電脳ページを検索し尽くし、マリオネットプログラムが分析を告げた。

 

 密林の奥地にその土地はあった。そこでは人は音楽と共に生まれ、育ち、暮らし、死ぬという。舞楽は武力の象徴であり、命と愛の唄であった。結婚前夜、花婿は花嫁の実家に自ら曲を作って送る。悠久無形の婚資だった。子が生まれれば曲を奏で、精霊と共に踊り喜ぶ。

 

 部族の男は成人の日に、父親から自分の名前をつけたメロディーを貰う。狩りではそれを高らかに踊る。自分の家畜に聞かせてやり、惚れた女にはこっそりと教える。舞闘士が死ぬと、一番の親友が故人の音楽を半分まで演奏して中断する。そして、その曲は二度と奏でられない。彼らは忘れようと努めるのだ。旋律を覚えていたならば、死者との別離がいつまでも心を苦しめるが故に。

 

 激しいビートが猛り狂う。ギュドンドンドの住む土地で、彼らは音楽と共に暮らしていた。その重み、歴史の全てが再現される。

 

 吹奏されるは精霊の調べ、祖霊の唄、先祖伝来の戦闘音楽。バプたちの踊った共通の楽曲。具現化されるは歴代の奏者。歴史の闇に消え去った、在りし日に営まれた生活の全て。今、肌の色が現実味を帯び、彼らの音が個性を宿す。見よ、これは戦士の歌である。

 

 多重吹奏、レクイエム。呼ばれた戦士が自身を呼び、自ずから、己が仲間を具現化する。陽炎の如く湧いた人々の影が、勇壮な舞踊を再現していく。その数、実に四十人。神と同格と見なされて語り継がれた、一族のなかでもずば抜けた踊り手たちの記憶である。

 

 一糸乱れぬ勇壮なリズムで、一心不乱に踊り狂う。四肢が風を吹き奏で、裸足が地面を叩き鳴らす。それは踊る軍勢であった。バプにとって、唄と戦いは同義が故に。ボノレノフを先頭に彼らは襲う。鏑矢の如く、アルベルトを目掛けて一心に。それぞれの武装に身を固めながら、それぞれの誇りを胸に灯して。

 

 無慈悲な横薙ぎが切り裂くまでは。

 

 なにもかも水平に切断される。左のブレードが延ばされて、中心で率いていたボノレノフも、左右から追った戦士たちも、全てが一撃で終焉に至った。左腕の筋繊維が断裂する。内在するオーラを使い切り、手刀の刃が粒子に返った。

 

 コルトピの小さな影が至近に舞った。

 

 具現化が始まる。対象物の選択はなかった。コルトピが右腕から出力したのは、ありとあらゆる全てだった。土石流である。空気が、舗装が、土が、植物が、建物が、この街がそのままそっくりと、アルベルトへ向かって吐き出された。

 

 アルベルトは迎撃を選択する。空いた左手をコルトピへ向け、オーラの流れを放出した。念弾にならぬ奔流が、噴出する具現化物と激突する。生命力がせめぎ合った。されど、コルトピの複製に直接的な威力はない。攻撃する思念が込められない。単純な質量では脆かった。幻想は砕かれ、光に飲まれて消滅していく。

 

 ところが、彼はその程度では終わらない。削られる物質で小さな体を隠しながら、吹き上がる土砂に紛れながら、残されたオーラをたぎらせて、アルベルトの懐に肉薄した。小柄な両手が流麗な凝で掴みにかかる。だが、いかにオーラの量が多いといえど、コルトピの肉体の強度は低い。このレベルの戦闘で肉弾戦に関わることは自殺行為だ。即ち、意図は時間稼ぎに他ならないとアルベルトは見切った。迎撃は自動防衛管制に一任する。ブレードで斜めに斬り捨てながら、彼は捜敵に専念していた。

 

 直後、警戒管制に報告されて、粉塵の切れ間にフランクリンを見た。病棟の屋上に彼はいた。全身のオーラが高められて、体表を紫電が覆っている。常識を覆す異様な練は、まさに渾身の証左であった。

 

 太い両腕が伸ばされている。切断された十の指が、アルベルトを捉えて照準している。念弾の掃射は行なわれない。オーラは彼の指先ではなく、更に前方、眼前の空中に集っていく。大柄な体躯から生み出されるパワーが、ただ一つの場所へ集約された。オーラが込められ、密度が高まり、内部でなおも圧縮され、多重殻構造の球体となる。

 

 それは強大な大砲であった。念弾という概念を極め尽くした、戦艦に匹敵する主砲であった。連射に長ける術者が己が誇りの全てを捨て、全てを捧げた、たった一つの巨大な弾丸。中枢に存在する核らきしものは、極小の恒星さえをも想起させる。

 

 アルベルトが全容を認識した時、既に、発射の態勢は整っていた。

 

 陽光が爆ぜる。回避は不可。あの砲撃が地に触れれば、底知れぬ大穴を穿つだろう。提示された分析を見て、アルベルトは軽く左手を掲げた。演算球が一つ従い、自ずから、巨大な円盤状に変形する。計算能力を喪失し、浮かぶシールドと化したのである。薄膜状のオーラを通して、二人の視線が交差した。

 

 オーラの激流が押し寄せて、閃光が円盾の中心に着弾する。生命力の爆発が起きた。暴風が吹き荒れ、かつての前庭は激しくたわみ、樹木は破砕されながら激しくしなる。しかし、シールドの直下は静穏としていた。衝撃は完全に遮断され、アルベルトは髪すらたなびかない。いくつもの浮遊ウィンドウを幻視して佇んだまま、彼は右手の手刀に意識をやった。演算球は残り五つ。問題はない。変化系総合制御に指令して、更なるオーラをブレードに送る。刀身の放つ威圧が上がった。それに渾身を込めながら、断絶された空の向こう、荒れ狂う余韻に満ちる世界に、一気果断に振り下ろした。

 

 シールドごと万象が両断され、一筋の境目が現れては消えた。白濁する光に溢れた残響の嵐も、屋上で砲撃を放つフランクリンも、彼が陣取った建物さえも、初めからそれが自然だったように、真二つに分かれて死に至った。あらゆるものが切断された。

 

 その渾身の、隙をつかれた。

 

 右手を振り下ろす丁度その時、自動防衛管制が後方の脅威に警報を鳴らした。アルベルトは手刀を振り下ろし、ブレードはオーラを使い尽くして消失している。完璧に合わされたタイミングに、体勢を立て直す余裕はなかった。振り向くことさえできなかった。

 

「じゃあな!」

 

 未だ収まりきらぬ余波の中、声紋解析が音を拾った。背後から強襲したのはフィンクスである。完全な絶を維持しながら、凶暴な気配で右腕をかぶる。瞬間、多すぎるオーラが腕を包んだ。【廻天(リッパー・サイクロトロン)】の発動は、回転のあとに行なわれる。絶から硬へ、最高潮まで切り替えたのだ。

 

「続きは地獄と洒落込もうぜ!」

 

 フィンクスの拳が豪放に唸る。振り下ろすような右ストレート。腕に纏うは潜在量全て。体内にオーラは残存しない。消費の任意調整という便利さが故の、回転数至上という融通の利かなさ。たとえ命が尽きる量であっても、体に生命力が残る限り、能力は強引に引き出しきってしまうのである。だが、リスクを逆に利用して、彼は正真正銘の死力に至った。生命の残らぬ体を駆って、残されたわずか数瞬で、死と引き換えの豪腕を振るう。

 

 寸前、フィンクスの上半身が吹き飛ばされた。それはオーラの噴火であった。一つの演算球が自爆したのだ。外殻が破裂し、演算素子の念弾が弾け、散弾銃の如き破壊をばら撒く。至近距離からの炸裂である。下から上へ奔流が貫き、光の柱が宇宙へ消えた。地上に湧き出た天の川。肉体は赤色の霧ともなることなく、微細な粒子に回帰して、彼方へと永遠に旅立った。

 

 わずか十秒に満たぬ戦闘。後には、静寂だけが残された。

 

 

 

 リノリウムの廊下をアルベルトは歩く。静まり返ったその場所には、動く人影が見当たらない。空気が止まり、呼吸がなく、生命の営みが感じられない。なにより微かに漂うのは、脳漿と血と、臓物に収められていた排泄物の混じった悪臭。病院中の機器に侵入しても、感知した反応はふたつしかなかった。無論、ひとつはアルベルト本人である。

 

 四つの演算球を周囲に浮かべて、もう一人の居場所へアルベルトは向かう。第二新棟、三階、奥。そこに彼はいるはずだった。該当する病室へ到着すると、彼は律儀にノックする。無意味だとは知りながら。

 

「入れ」

「具合はどうだい、クロロ」

 

 ドアを開けるとクロロはいた。ただ一人、医師も看護婦もつけないで、窓辺のベッドに座っていた。いつもの黒い服を着て、土足のまま、ソファーでくつろぐように外を見ている。右腕には包帯が巻かれていた。

 

「驚いた。さすがだね。いや、それにしたって……」

「やはりお前か、アルベルト。立ってないで入って来いよ」

 

 クロロに促されたアルベルトは、廊下から室内へと立ち入った。罠の存在はサーチしている。何も問題は存在しない。それ以前として今さらでもあった。

 

「まさか、お前がここまでやるとはな。あいつの勘が、正しかったか」

 

 横目で彼を見上げながら、クロロは親しみすら滲ませて襲撃者を眺めた。アルベルトもまた、同様の表情で傍に立つ。クロロの頬は幾分やつれ、眼窩は窪み、血の気は名残りも見えなかったが、瞳には深い命があった。蜘蛛を率いた者として、黒い炎が冷たく燃えて揺れている。

 

「君こそ、……能力が引っ張られると感じるはずだ。クロロ、それは完全に砕かれたはずだろ」

 

 ある種の感動を伴って、アルベルトは彼の左手を示した。そこには黒い半透明で、輪郭もおぼろげな書物があった。細部はたゆたい不安定で、存在感も弱々しい。だが、手の跡の意匠された独特の表紙は、眩しいほどに鮮明だった。アルベルトは既に確信していた。分析をマリオネットプログラムに回すまでもない。自身が重体でありながら、刻まれたはずのイメージを払拭し、数時間でここまで回復したのだ。

 

「ただの死力だ。そんなにたいした芸じゃない。それより、お前はいいのか?」

「爆弾だろう。知っているよ」

 

 クロロはそうかと頷いた。アルベルトが言及したのはコルトピの念だ。つい先ほどの戦いの中で、彼だけが精彩を欠いていた。コルトピがあの程度ではすまないことは、アルベルトもよくよく知っている。であれば、事前にオーラを使うような、大規模な行動をしていたと考えるのが自然であった。

 

 結論から言えば、この病棟そのものが爆弾であった。地下から最上階に至るまで、ありとあらゆる空きスペースに、所狭しと火薬の複製が詰まっていた。マフィアから盗んできたのだろうか。時限式、無線式、複合式に信管作動。果ては化学薬品による発火まで、一つ一つは小型だったが、異常なほどに量が多い。その威力、単純な爆風に限るならば、小規模の核兵器にすら匹敵しうる。

 

「なあクロロ。最後に一つ、尋ねていいかな」

 

 アルベルトは穏やかに切り出した。クロロが物言わず続きを促す。それに頷きで応えてから、かつて団員だった者として、団長へ宛てて問い掛けた。

 

「僕は、いい裏切り者の役をやれたかな」

「なんだ、そんなことか」

 

 アルベルトは思う。当時、幻影旅団は順調すぎた。無敵すぎた。エリスという規格外の障害も、所詮は破壊力に特化した素人である。例え数人殺されても、集団としての勝利は揺るぐまい。自信を上乗せする糧にしかならないのだ。だが、いかに最凶の蜘蛛とはいえ、いつか必ず窮地が来る。戦いの場に身を置く以上、危機は必ず訪れるのだ。そしてその際、恐怖を忘れていた者は必ず死ぬ。無論、旅団はそこらの歴戦の猛者とは根本的に違う。致命的な油断はそうそうするまい。だが、彼らを率いる頭にとっては、無視のできない課題でもある。

 

 格上に油断しないのは当然だ。必要なのは弱者である。旅団にほどほどの危険をもたらす、適度に狡猾で弱い狐。圧倒的強者である彼らにとって、慢心を削ぐにはそれがいる。

 

 そんな折、アルベルトという存在が現れた。彼はこのように推測する。団長という立場のクロロにとっては、都合のいい駒だという認識と同時に、手ごろな不穏分子に見えたのだろう、と。だからこそ、あの時、邂逅場所に指定された暗い廃墟で、アルベルトはそんな魂胆で己の存在を売り込んだ。二律背反の裏切りは、当初から既に始まっていた。

 

 そのような考えをアルベルトは語るが、クロロは小さく吹きだした。

 

「そんなんじゃないさ。ただ、お前を仲間にしたほうが楽しめる、そう思っただけだ」

 

 くつくつと笑いながら彼は言う。面白そうな奴がやってきたから、面白くなるように迎え入れたと。暗躍も身内の行為として愛でるクロロに、アルベルトは静かに目を見開いて驚いた。

 

「思えば、蜘蛛はオレの家族だった。なら、裏切りぐらいは許容するさ。表に出れば、処罰もするがな」

 

 目を伏せて紡ぐ漆黒の男を眺めながら、彼はやや薄い緑の瞳を寂しげに細めた。窓が開けられ、涼しい風が二人の間をそよいでいった。義父とエリスがひどく恋しい。時間はあまり残されていない。もう数秒もしないうちに、この病棟は消えるだろう。

 

 最後に、アルベルトは無音で唇を動かして、勝てなかった男に別れを告げた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 蜘蛛が脚を噛み切るとき

 あなたは失せ物を取り戻す

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 戦いが止んでしばらくして、決定的な時間が訪れた。予定と一秒の狂いもない。だが、起きた現象は爆発ではなかった。

 

 遠方から見守っていたマチたちは、巨大な黒色のドームが出現したのを見て取った。それは歪みない純粋な半球で、強固なオーラによって形成されているのが嫌でも分かる隔壁であった。クロロのいた病棟を完全に包み、一滴の光も洩らさなかった。

 

 嫌な沈黙が数分も続いた。腕組みをするウボォーギンが、苛立たしげに舌打ちした。最悪の予感が当たった以上、勝敗の帰趨は明らかである。現状、彼女たち三人の関心は、ダメージの深度という一点に尽きた。アルベルトに止めをさせるかどうか。ただそれだけを見極めるため、固唾を飲んで見守っていた。

 

 やがてドームの一部が破れた。黒い半球の頂上が裂け、茶色の噴流が空へと上がる。轟音が響き、逆しまの瀑布が周囲を揺らすが、衝撃は爆破の規模よりはるかに軽いものでしかなかった。隣接する市街地への被害もほとんどなく、土埃が降り注ぐ程度だろう。シャルナークが悔しげに拳を握るのをマチは見た。十中八九、敵の状態は悪くない。少なくとも、あれだけの制御ができる程度には健在である。

 

 黒いドームが消失する。内部は完全に廃墟だった。もうもうとした粉塵で満ちていて、細かい人影などは識別できない。瓦礫と化した建物が、辛うじてシルエットとして認められた。茶色い終末の光景だった。

 

 マチが口の中で呟いた。

 

「やばい」

 

 その一言が合図となった。三人は即座に離脱する。陣取っていた屋上を蹴り、街並みを飛ぶように全力で駆ける。絶をするような余裕はない。周りを気にするつもりもなかった。踏みしめた構造物が陥没し、蜘蛛の巣状にひび割れが走った。

 

 マチが、シャルナークが、ウボォーギンが、示し合わせたように荒野へ駆ける。殺害が無理だと分かったからには、旅団の存続が最優先だ。ヨークシン市街地に隠れるのは下策だった。この広い大陸の奥地へ潜るか、あるいはリンゴーン空港から飛行船で逃げるか、とにかく、敵の手の届かぬ場所に行かねばならない。

 

 だが、敵は彼らの予想の上を行った。わずかな時間で荒野まで至り、ハイウェイ沿いに駆けていた時、ウボォーギンがいち早く気付いて怒鳴り声を上げた。

 

「あの野郎っ、上だっ!」

 

 マチは思わず振り向いた。ヨークシン市街地から青空へ、何かが一直線に上昇していく。大量のオーラを放出し、瞬く間に高空へ吸い込まれていく。彼女の視力が姿を捉えた。

 

 アルベルト。

 

 凝で眼球を強化する。彼は今、既に上空を占位して、静止しながら下界を広く見渡している。

 

 以前とは完全に別ものだった。

 

 全身に膨大なオーラを纏いながら、歪みどころか揺らぎもない。白く煌々と光り輝く、磨いた宝珠の如き端整な堅。浮遊のためオーラを放出しながら、深い瞑想の直後のように、波打ちもしない精緻さ。神代より生きる大木の如き、完全かつ精密な静けさの化身。それでいて、隠で抑えられてこそいたものの、害意は垂れ流していた頃よりなお色濃い。傍に浮遊する二つの球体に至っては、彼女の常識を超える何かだ。

 

「……ヒトじゃない」

 

 勝てる勝てないの次元ではない。勝つ道筋が、浮かばない。

 

 そんな化け物と、目が合った。

 

「——っ来るよ!」

 

 アルベルトが動く。小さく輝くオーラの点が、彼女たち目掛けて飛翔してくる。冗談じみた速度でもって、雄大に空を切り裂いてくる。マチは迷わず迎撃を選んだ。荒野には隠れる場所も見当たらず、たとえあっても全くの無意味だ。散開は戦力を分散する愚でしかない。故に彼女は急停止を選んだ。靴底が摩擦で熱くなり、黒いコートが風を孕み、盛大に揺れて音を立てる。

 

 旅団の団長となった今、マチとて昨日までとは比較にならない。覚悟が彼女を強くしたのだ。より一層念糸が先鋭化し、細く凝集して刃と化した。念能力者でさえ視認し難く、気配だけがギラつくそれは、存在するだけで凶器に近い。だが、あいつには勝てないと直感した。

 

 轟音を上げ、敵は荒野に着地した。

 

「団長、お前は逃げろ!」

 

 減速しながらウボォーギンが吼え、マチの体を横薙ぎに殴って吹き飛ばした。辛うじて流が間に合うだけの、手加減もろくにない裏拳だった。軽い体は大きく弾かれ、アルベルトと反対方向へ飛んでいく。着地の際に受身も取れず、まだ濡れた荒野を盛大に削った。それでも地面を殴りつけ、反動で彼女は一瞬で立った。

 

「ふざけんじゃないよ! 置いてく気かい?」

「行けよ! お前が蜘蛛だろ、マチ!」

 

 愛用の携帯電話を取り出しながら、シャルナークが大声を上げて本気で怒鳴った。冷静な彼には似つかわしくない、荒々しい怒気を混ぜた叱咤。それがマチの胸に突き刺さり、心を激しく揺さぶった。小娘のように泣きたくなった。

 

 だが、それでも彼女は旅団であった。

 

 要した躊躇は刹那にも満たず、マチは全速力での離脱を選んだ。身を翻し、方向を気にする余裕もなく、ひたすら荒野の地面を蹴った。短距離のつもりでの全力疾走。それで長距離を駆け抜ける。二度と会うことはないだろうが、振り向くだけの余力もない。オーラを全て脚に送り、背後を気にせずがむしゃらな長躯を己に課した。

 

 肺が破れ、脚が千切れそうな苦痛の中で、彼女は悔しさだけを噛み締めていた。

 

 

 

 蜘蛛が跳ぶ。果敢なステップが刻まれる。攻撃と見せながら接近し、反転を駆使し常に方向を一定させない。だが、機動計算はアルベルトの十八番だ。旅団の二人を前にしても、今の演算能力であれば翻弄されずに予測しきれる。故に、彼は正面から最短距離で距離を詰めた。

 

「ウボォー、頼んだよ!」

 

 高速機動で交差しつつ、シャルナークがアンテナを投げ渡した。握りしめ、己が首筋に突き立てながら、ウボォーギンが任せろと叫ぶ。同時に、シャルナークは携帯のボタンを押し、頚動脈を手刀で断った。血液が激しく噴出し、【携帯する他人の運命(ブラックボイス)】が宙を舞う。その危険さをアルベルトは感じた。死者の念。それも、人体操作を得意とする術者の。だからこそ、即座の始末を選択した。

 

 二つの演算球に物を言わせ、左右それぞれの手にオーラを充填、怒濤の砲撃を連射する。二人ごと眼前の全てを飲み込む攻撃。破壊の洪水が荒野に生まれて、間断なく躊躇なく破砕し尽くす。容赦などアルベルトの念頭には完全になかった。相手は旅団の中核である。在り方を繋ぐために温存された、次世代へ向けた種にして礎だったのだろう。後方の中枢シャルナーク、最強の対応力をもつウボォーギン。そして、例えコートがなくとも一目で分かった。新しい旅団を率いる長、マチ。誰一人として例外はなく、正真正銘、選び抜かれた生粋の蜘蛛だ。

 

 まさに、ブラックリストハンターが狩るべき獲物である。

 

 盗まれた能力は取り戻した。だが、師の志を継ぐものとして、ここで見逃す選択はない。おびただしく見捨てた弱者のためにも、一人でも多く、一秒でも手早く。最早、頭を潰すことにもこだわりはなかった。仮に彼らを無視してマチを倒せば、シャルナークが団長になるだけなのだ。その次はウボォーギンの番である。重要なのは蜘蛛という組織。その戦力。それは、アルベルトも飽きるほど熟知している。更に言えば、旅団の力を削ぐ決定打へ至る光明も、彼ら自身が残してくれた。

 

 単身で一個師団にも相応する火力を浴びせ、アルベルトはようやく静止した.荒野の様相は一変し、既に渓谷の有り様に近い。扇状に大地は抉れ、茶色の濃霧が立ち込め、光学観測を阻害している。それでも、風に洗われる土煙の向こうに、巨大な男のシルエットを認めた。

 

 やはりと思った。あれだけ乱雑な乱撃では、ウボォーギンの防御は崩せない。

 

 だがやがて、心の底から驚いた。

 

 それは炭化した物体だった。それは何かを守るように、大の字を描いて仁王立ちを続けていた。生命反応は既にない。後ろからウボォーギンに抱え込まれるような体勢で、支えられながら立ち続ける、人のカタチの、黒い個体。

 

 生命反応は既になく、彼は、仲間に抱き締められて砕け散った。

 

 視線が合った。決別が始まる。腰元に挟まれた自作の携帯電話は所有者に守られ、傷一つとして負っていない。自動操作モードが発動し、シャルナークの遺した全オーラが、仲間の肉体に乗り移る。死者に特有の禍々しい念。潜在能力が引き出され、心の、体の上限が解除された。強靭な肉体の細胞が吼えた。ブラックボイスによる操作に慈悲はない。他人だろうと、自分だろうと、入力された指令のため、一切の配慮なく操縦し尽くす。ただでさえそのような能力が、この一戦、例外となろうはずがなかった。

 

 機械音声が敵の視認を無機質に告げ、オーラが爆発的に増加した。

 

 硬質な頭髪が更に鋭角に後ろへ流れ、瞳から感情が消失した。ウボォーギンの筋肉が精密に軋み、歪み、力を限界以上に引き出されていく。ありえないスペックが計測された。人の形をしているだけの、より高性能な別種に近い。否。それはさながら破壊の体現、暴力を行使する純粋な機械だったはずなのだが。

 

 操作されたはずの眼光だけが、弔いという感情に濡れていた。

 

 巨獣が駆ける。風を破り地を壊し、あらゆる事象を置き去りにして。アルベルトもまた正面から立ち向かう。オーラの噴出制御によるブーストで、肉体強度を強引に補う。双方、牽制も駆け引きも必要としない。軽い攻撃は隙にしかならず、半端な欺瞞は通用しない。要求されるは必殺の一撃。それ以外の全てが無用であった。

 

 二人の拳が衝突した。光が満ちる。パワーは互角。齧り合うような至近距離で、猛然と正確な猛打が連ねられる。両腕両脚の間断なき応酬。限り無き精密。アルベルトの脳髄が灼熱する。残り二つの演算球が、最大限に稼働している。敵は絶でさえ並の強化系に勝る怪物である。処理能力を余らせて勝てはしない。切り札のオーバークロックを装填して、精神のマグマに身を委ね、アルベルトは、原始のように咆哮した。

 

 

 

 ヨークシン市警の署長室で、エリスは、窓ガラスの向こうの空を見上げた。

 

「……アルベルト」

 

 戦いの気配は続いている。もう、二十分以上もずっとだった。最初の短い閃光とは違う、絶え間なく押し寄せる鋭角なさざ波。遠い場所で火花を散らす死闘の余波が、彼女の、否、ヨークシンにいる全ての生物のオーラを弱くささやかにそよがせていた。念の素養がある者は、もれなく把握できるだろう。

 

 エリスはポンズ達の捜索手配を電話で済ませ、父やクラピカ達の見舞いを後回しにし、真っ先にここへ足を運んだ。連絡の直後に駆けつけたのだろう。急な来訪にも関わらず、タクシーを降りた彼女が婦警に案内された時にはもう既に、相手の面子はそろっていた。広い部屋が狭苦しく感じた。

 

 豪勢な内装の室内には、署長と市長、更に強面の壮年が二十人以上は陣取っている。黒いスーツに身を固めた、マフィアンコミュニティーの幹部達。この街で話を付けるとはそういう事だ。政治家は闇献金で選挙を行ない、裏の人間が堂々と闊歩し、警官とマフィアが談笑する都市。世界的に見て珍しくもないが、それでも彼女は苦々しく思った。

 

 誰も、彼女をエリスとしては見ていない。プロハンターの一人としても。搾り取る利権の象徴として、報復のための代替として、取り囲んで脅すだけの小娘としてしか認識してない。アルベルトからの回し者として扱われたら、あるいは上等な部類だろう程にである。それだけ、アルベルトは上等の金づるとして見られている。プロハンターという人種への信頼が、蜘蛛という盗賊への強い畏怖が、今は悪い方向に作用していた。

 

 なかでも、ゼンジという太った小男には見覚えがあった。先日、ノストラードファミリーの紹介で暗殺者チームに参入した時、苛立たしげに睨んでいた人物である。彼は今、顔を憤怒に彩らせながら、すぐ傍に立って見下ろしている。

 

 彼らの威圧も、普段であったら造作もなかった。少し纏を緩めてやれば、たちまち恐れをなして逃げ惑っただろう。が、今のエリスには実態のない、虚しい優越感でしかない想定である。身に宿るオーラは残り少ない。彼女にとってオーラとは、あり余り溢れ出るのを押さえるものだ。意図的に噴出させる技能はなく、練を行うのも論外だった。無意味に汚染をばらまくだけでなく、アルベルトの気持ちを踏みにじりもする。そんなこと、彼女に許容できるはずがなかった。だから、舌先だけで戦うしかない。

 

 無理はしなくていいと彼は言った。しかし、負担は極力減らしたかった。あらん限りの雑事を引き受け、疲れて帰ってくるだろう愛しい人を、ゆっくり休ませてあげたかった。が、それ以上に彼女には許せなかった。アルベルトが罪悪感を抱いていることは知っている。痛いほどに。旅団の一員として蹂躙した、多くのマフィア、市民、同業者。その罪を、彼はきっと受け入れれるだろう。己の事情が許す限り、いかようにも償うつもりだろう。

 

 それは旅団の罪だけど、アルベルトがいなくても犠牲はあったはずだけど、エリスは彼を、そんな人だと知っていた。……だからこそ、だからこそ彼女は逆を行くのだ。群がる蠅を除去するために。彼だけに責任を押し付けて、結果だけ奪いたがる輩を許せなかった。

 

 誰よりも好きで、誰よりも愛して、誰よりも傍にいたいと願った人を、幸せにしてあげたいとエリスは願った。甘えるよりも支えたい。幸せにされるよりしてあげたい。奪いたくない、奪ってほしい。彼が罪悪感を抱くなら、正しい意味で使われてほしいと、利権扱いはしてほしくないと、そんな想いで、彼女は先手を打つことに決めたのだ。

 

 応接用のソファーに背筋を伸ばして座りながら、出された紅茶をひと口飲んで、エリスはかちゃりと陶器の触れあう音を立てた。取り囲む男達はあえて無視して、対面に座る市長と警察署長だけを見据えつつ、ゆっくりと口を開いていく。心の修行は積んでいる。この程度の圧力、なんて事はないと自分に言って聞かせながら。

 

「今日中に、いえ、もうすぐ、幻影旅団は壊滅します」

 

 その場の雰囲気が大きく揺らいだ。当然だった。彼らは世界最凶の盗賊団。一国の軍事力をもっても撃退することが精一杯な、表も裏も関係のない、人類共通の恐怖の象徴。マフィア自身、陰獣を屠られ、戦闘員を殲滅され、高層ビルを倒壊させられたばかりだった。突如として終焉を予言されれば、戸惑いに染まらない方がどうかしている。

 

「前哨戦はもう終わっています。署長さん、通報もされてると思いますが、どうですか?」

 

 そこに彼女は畳み掛ける。気配だけで推測した情報を刃として、全容が把握される前に、驚愕が既知に変わる前に、切っ先を敵の眼前に突き付けてやる。ありもしない武力を鼻にかけて、歴戦の猛者のように振る舞ってやる。これはエリスの戦いだった。例え念に頼れなくても、アルベルトもそうやって戦っていた。今もきっと戦っている。

 

「お、大きな爆発事件は起きてますが、未だに警官が近付けませんので……」

「近付かせないでください。迂闊に踏み込めば精神を病みます」

 

 幻影旅団は壊滅する。これは揺るぎない事実だろう。量に特化した者のオーラを、制御に特化した者が扱う。それで崩せない壁はなく、まして、アルベルトは旅団の内状を把握している。ブラックリストハンターとしての経験もあり、都市部では無敵の奥の手もある。……なによりも、エリスはアルベルトの勝利を願っていた。彼が敗北した後の未来でなんて、どんな窮地に陥ろうともかまわない。

 

「警察の皆さんにおかれましては現場周辺の封鎖、及び、必要なら避難の誘導だけに努めてください。その代わり、現場の保存には全力で取り組んでください。後日、ハンター協会の者が内部の確認に赴くでしょう。今回の件、対応を間違えれば被害はセメタリービルの比ではありません」

 

 ハンターライセンスをこれ見よがしに提示しながら、エリスは戦闘跡地の隔離を市警当局へ要請した。言外にこれは国際規模の問題だと、お前達が割り入って来られるレベルじゃないと、ゼンジをはじめ周りのマフィア幹部を切り捨てながら。オーラの扱いに長けたアルベルトなら必要以上に拡散させることはないだろうが、さすがに現場直近は汚染が心配だったのである。結果、署長は慌てて連絡のために席を外した。

 

 そしてようやく、彼女は周囲を見渡した。ジトノーダ市長とゼンジ、黒いスーツの男達。皆、コミュニティーに繋がる人間ばかりだった。全員が一言も話さずに、彼女をじっと凝視している。

 

 出端は挫いた。だが、ここから先が本番だった。根拠の提示から事後処理と今後の調整についてまで、話すべきことは山ほどある。失敗すれば、今後、一生粘着されて餌にされることだって十分ありえる。一度接点を持ってしまった以上、思惑の尽くを粉砕し、完全に縁を切ってしまわないといけなかった。アルベルトはそれだけ巨大な金鉱になってしまった。

 

「愛してます」

 

 指に力を込めながら、彼女は口の中で呟いた。大好きだった幼馴染みへ、最愛の義兄へ、全て捧げた良人へ。アルベルトへ。お節介でもいいと思った。あとで叱られるのも大歓迎だ。彼が自分で決めたなら、共にコミュニティーの走狗に堕ちてもいい。それでも、アルベルトの命がけの頑張りを、私欲で踏みにじって欲しくはなかったから。

 

「愛してます、あなた」

 

 裏社会の殺気に晒されながら、未だ許されぬ意味を込めて、彼女は勇気を振り絞った。

 

 幻影旅団のいない世界という、今まで誰もできなかった仮定。ここより始まるその構想から、利権に群がる輩を排除する。全てエリスの独断だった。

 

 

 

 ビッグバンインパクトが乱打される。怒濤のラッシュが振り下ろされる。左右両手のありえざる連撃。岩石が、地盤が、大地が砕かれ裂けていく。クレーターの中にクレーターが穿たれ、荒野に渓谷が彫られていく。星に裂傷が刻まれていく。稼働するごとに筋肉が爆ぜ、血液が赤く飛び散っていく。なにもかも限界を超えていた。

 

 アルベルトは球形のシールドでそれを防ぐ。円の外縁部の密度を操作し、硬質のオーラの膜を作る。さらに打撃の瞬間に、局所的にオーラを増強する。こと、念の制御に限っては、アルベルトは携帯よりも高性能だ。浮遊ウィンドウのレッドアラートを無視しながら、彼は内部で両手を構えた。オーバークロック1を発動。処理能力不足を訴える警告を放置し、現在可能な最大顕在量を超越して、掌に念弾を装填した。岩石の飛び交う破壊の海で決定的な時を待ちながら、灼熱する脳神経を傍観する。機能はとうに人を超えた。脳髄すらも増設した。それでも、僕はれっきとした人間だと、今の彼は、胸を張って言えた。

 

 特大の砲撃が放出される。豪流が生まれた。岩塊の渦から光の河へ、崩壊の有り様が一変する。内在するオーラを使い尽くし、演算球が一つ消滅する。ウボォーギンは吹き飛ばされ、反動でアルベルトも地層へ深く衝突した。土地の有り様が崩壊し、何もかも大きく揺るがされる。

 

 崩落する岩盤の隙間を縫って、彼は空へと飛翔した。オーラを精密に噴出し、最後となった演算球を伴い、ゴルドー砂漠の青空へ飛んだ。上空から見る光景は壮観だった。巨大な亀裂が土地に一直線に割り砕かれ、熱く土煙を上げている。惑星の割れ目だ。微笑みすら零れる壮大な光景の出現に、アルベルトは内心で僅かに目を細めた。そんな遥かな地上から、もう一人の人影がこの高度まで駆け上がってくる。

 

 ウボォーギンは空気を蹴った。鋼のような大腿部が屈強に強張り、膨れ上がっては空中を足蹴に爆発させる。両足で続けざまに繰り返し、階段があるかのように疾走してくる。それは筋力による空の征服。野蛮を極めた常識への唾棄。行きすぎた酷使に腱が裂け、筋肉から血液が噴出する。しかし、小回りは効くまいが猛然と速い。馬鹿馬鹿しいほどの飛翔原理が、アルベルトの加速性能を上回った。

 

 避けることは難しい。突き進む敵の姿からそう判断して、アルベルトは念弾を照準する。狙いは膝の関節だった。あれだけ無茶な機動である。僅かな破損で地へと墜ちよう。右手の五指にエネルギーを装填して、頭の中で撃鉄を落とした。

 

 超高密度念弾が五つ、光線の如き速度で風を切り裂く。だが、ウボォーギンの行動は彼の予測を上回った。手元の空気を鷲掴み、純粋な握力で圧縮し、暴風として真横に放り投げる。自らが起こした突風の反動に身を任せ、巨体が軽やかに横へ滑った。さらに脚で空気を蹴り、続けざまに軌道を変える。暴力的ともいえる鋭角な旋回で宙を駆け、アルベルトの背後、上空を一瞬で占位した。位置エネルギーに物を言わせ、加速と共に落下してくる。オーラの噴出は間に合わず、演算球は残り一つ。命中する確率の低い状況では、ここで消費しても窮地にしかならない。ウボォーギンが拳を振りかぶる。筋肉質の右腕には、今までで最大のオーラがあった。

 

 マリオネットプログラム、解除。

 

 フィルタリングされていた感覚が、生身のそれに切り変わった。轟々と鳴る風が耳を震わせ、冷たく低い気圧が肌を刺す。身を護っていたオーラはほどけ、アルベルトの体は落下しだした。眼前に敵が迫っている。具現化されていた左腕が、生命力の粒子となって散っていく。念への抵抗力は皆無となって、猛禽に襲われる蝶と化した。

 

 剥き出しになった感性を頼りに彼は舞う。体を回し、軸線を翻してすり抜けるように拳を避けた。ひどく、容易い。操作されたパワーは脅威だったが、精密に最善の動作しかしてこない。この時アルベルトは思い知った。ヒソカとの最初の戦闘で、いかに彼が読みやすかったか。どれほど自分が未熟だったか。

 

 ウボォーギンの上空に躍り出て、マリオネットプログラムを起動した。独立モードに入っていた演算球と合流し、オーバークロック2で全てのリミッターを解除する。オーラを残された右腕に集約して、アルベルトは、最大出力の一撃を放った。

 

 新しい流星が地に落ちた。

 

 巨大な火球が誕生し、衝撃波の津波が世界を揺らした。

 

 

 

 擂り鉢状に灼けた土が黒く広がり、小さなガラスの小片が、日の光を反射して輝いてた。ウボォーギンは瀕死だった。衝撃は深く内臓まで達し、消耗はひどくオーラは乏しい。それでも、彼は戦意を失わずに、首筋のアンテナを自力で抜いた。腰元の携帯電話も引き抜いて、二つ揃えて地面に置く。特に力んだ様子もなかったが、意思だけで対人操作を超越したのだ。

 

「シャルナークの奴には悪いが、これ以上はオレもやばいからな」

 

 時間は充分稼いでやったと言いながら、準備運動の如く腕を回して柔軟に勤しむ。

 

「こっから先はただの喧嘩だ。お互い楽しもうぜ、なあ」

「……本当に君は相変わらずだね。ウボォーギン」

 

 毒気を抜かれたと彼は思った。高度統制中、表情が変わる事はないはずだが、現在のアルベルトは笑っていた。それは荒々しい笑顔だった。闘争本能にまみれた雄の表情。ヒソカとの最初の戦いが思い出される。思えば、兆しはあの頃からあったのだ。そして今、半年の修行と生死の境の経験を経て、ついに完全な開花を果たした。

 

「やっとオレたちの目になったじゃねえか」

 

 ウボォーギンは眉を釣り上げて頬を緩めた。親愛なる仲間にするように、アルベルトを指さしておおらかに笑う。嬉しげに喉を震わせながら、先達として一つの答えを彼に与えた。

 

「クロロがお前を仲間にしたのは、きっとその目を見たかったからだぜ」

 

 重要なのは行為ではないと彼は言った。盗みなど、結局は組織の動く目的でしかない。ただ単に人を集めた理由がそれであり、集まった連中が外道だっただけだ。核となるのは喜びだった。

 

「ようこそ、だな。歓迎するぜ、オレ達の旅団に。……さぁ、来いよ」

 

 あと何分の命とも知れぬ身で、ウボォーギンはそんな戯れ言を吐く。アルベルトに付き合う義理はなかった。彼もまた状況は厳しいのだ。左腕はなく、演算球はついに尽き、オーバークロックによる酷使は本人の肉体までをも蝕んでいた。しかし、義理はなくても欲求はあった。戦いは楽しい。正統な対決は楽しかった。高度統制は続いている。根源的な欲求も制御している。それでも、アルベルトの中の本能が、歓喜に涌いて仕方がない。狂ってしまったかと彼は危惧した。が、マリオネットプログラムに問い合わせても、異常はどこにも見あたらなかった。

 

「ウボォー。人生最高の喧嘩にしよう」

 

 残る一つの拳を握りながらアルベルトは走り、ウボォーギンが両腕を大きく広げた。

 

 

 

 たった数分はあっけなく終わった。ウボォーギンは事切れている。アルベルトは勝利を手にしたが、重要なのはそれではなかった。マリオネットプログラムの統制を低いレベルに下げてみれば、充実した疲労感が実感できた。すがすがしい青空の一日だった。

 

 アルベルトの消耗は大きかった。もう一歩動けるかも分からないのに、心だけが燃えて高ぶっている。肉体の休息をアラートが勧め、心にひどく疲労を感じた。

 

 汗にまみれた手の平を見る。彼は今、エリスをこの手で抱きたかった。思えば、荒々しく抱きしめたことは一度もなかった。壊したいと欲したことも一度もなかった。だがしかし、この瞬間のアルベルトは別だった。雌として雌にするように、己のものとして屈服させたい。そんな野蛮な欲望が、己の中から湧き出ていた。おそよ愛する人にするものではないと、記録した知識が告げている。

 

 それでも、痛いほどに抱きしめたかった。

 

 笑顔だけでなく泣き顔も欲しい。涙で顔をぐしゃぐしゃにさせて、だけども無上に喜ばせたい。理由は全く分からなかったが、なにもかも手中に収めたかった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 疲れていたら眠るといい

 愛しい天使の腕に抱かれて

 

 

 

次回 第三章エピローグ「狩人の心得」


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