コッペリアの電脳   作:エタ=ナル

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第三十一話「相思狂愛」

 よく冷えたアスファルトの広い車道を、彼らは並んで歩いていた。暗く寂しい街並みだった。通行する車は見当たらず、歩道にも人通りは全くなかった。火の手がいくつも上がっている。破壊された検問の名残りだろう、カラフルなプラスチックの欠片が散乱し、警察用と思しき車両が、何台かまとめて置き捨ててあった。風に、血と硝煙の臭いが混じっている。やや離れた辺りでは、スーツ姿の男たちが、銃火器を握り締めたままで倒れていた。

 

 炎が赤く、煙が黒い。道端には、街灯の明かりが点々と続き、街路樹を薄暗い濃緑色に照らしてる。生存者の息吹は聞こえなかった。

 

「あら、あら、あら! 皆さんご活躍じゃありませんこと! クァイアみたいね!」

 

 楽しそうにはしゃいでキャロルが叫んだ。幼く愛らしい体つきが、鮮やかに赤いドレスの姿が、この暗黒の寂寥の中、ライトアップされたかの如く鮮烈だった。

 

「お祭り騒ぎだね」

「ええ、ほんとに!」

 

 隣を歩くアルベルトは、ブラックタイのタキシードに代えて、黒い背広を折り目正しく着こなしていた。しっかりした作りの革靴に、黒い皮製のドレスグローブ。もともとが端整で癖の少ない容姿をしているためだろう。隙がなさすぎてやや没個性ではあったものの、颯爽と調和のとれた自然さがあった。噴き出すオーラは弱弱しく、顔色は鉛色に近いまでに青ざめていたが、足どりも口調も、それを感じさせないほど確かだった。

 

「さて。団長からは具体的な指示は特になかったから、これは結局、各自好きに楽しめってことだろうね」

 

 少し遠くで爆発があった。絶望を孕んだ悲鳴が聞こえ、銃声と破砕音が和音を奏でる。暗く深い夜空の下、赤色の光源がまた一つ増えた。どこのペアかは不明だったが、暴れている団員がいるのだろう。

 

「私たちはどうしましょうか?」

 

 わくわくした様子の彼女に問われ、彼はそびえ立つセメタリービルを見上げながら、舞台上の役者のように朗々と吟じた。

 

「有象無象は放っておこう。やっぱり、遊ぶなら賑やかな場所の方が面白そうだ」

「賛成!」

 

 歓声を上げてキャロルが跳ねる。そして待ちきれないとでも言うかのように、小さな歩幅で歩き出した。アルベルトが後を追ってくる事を、微塵も疑ってない様子だった。

 

「ねえ」

 

 道すがら、彼女は突然立ち止まって彼を見上げた。近くで燃える横転した車の赤い光が、悪戯っぽい少女の顔を、明々と奇妙なほどに照らし上げた。

 

「ねえ、アルベルト。一つ聞かせてくれないかしら」

「なんだい。君には世話になってるからね、大抵のことなら答えるけど」

「まあ、まあ、まあ! お世辞が上手くてらっしゃること!」

 

 冗談めかしたやり取りの後、彼女は本題を切り出した。それは、旅団に入った理由であった。その一言で会話が途切れ、靴音だけが鳴っていた。しかし、それも数秒のことだった。

 

「了解。でも、君が教えてくれるならね」

「え、私?」

 

 キャロルは両目を丸々と見開いた。どうしてそんな事をと彼女が問う。気になったからねとアルベルトが返すと、一変して、とても嬉しそうにくるりと回った。

 

「私、私ね! クロロにとても憧れてるの! 素敵だもの! だから、その体に飽きてからで構わないから、私に頂戴って約束したのよ! ああ、楽しみだわ! 楽しみすぎて脳が燃えそう!」

 

 くるくると、ステップを踏んで彼女は踊る。奮発したディナーに出かける少女のように、そのダンスは、とても無邪気で無垢に見えた。

 

「それで、あなたは!」

「うん、欲しいものが多すぎてね」

 

 微笑みながらアルベルトは答えた。ふと、キャロルのステップが中断された。見上げる彼女の表情には、小さいが隠す気のない確かな不満と、値踏みするような感情があった。

 

「今一番欲しいものは?」

「そうだね、国をひとつ欲しいかな」

 

 あっけにとられるキャロルをよそに、彼は秘密の宝物を袋の口からこっそり見せるかのように、ゆっくりと己の欲望を語っていく。

 

「豊かな土地はもちろんだけど、それ以上に人間が欲しい。笑って暮らす人たちが。圧政を受けても、汚染を浴びても、食べるものすらまともになくて、毒のような汚泥を食らってでも。それでも、何の文句も言わないで、僕の為に笑う愚かな民が。手に入ったら、僕は飽きるまでゲームのように統治して、丘の上の城に、愛人の女でも囲うんだ」

 

 旅団という力の後ろ盾があればそういう無茶な所業だってやりやすいと、彼は優しいまなざしでそっと言った。

 

「どうだい? こんな理由ではいかがかな」

「綺麗な生き方」

 

 彼女の口からこぼれたのは、ぼんやりとおぼろげで輪郭のない、真冬の木漏れ日のような一言だった。

 

「この世に哀れな騎士ありき、ね。素敵。……でも、格好いいけど不合格よ。女の子を相手にする時は、もう少しマシな嘘をつきなさい」

「手厳しいな」

 

 アルベルトは苦笑して肩をくすめた。

 

「でも、そうね、半分ぐらいは騙されてあげるわ。だって、もう半分はあなた、本気でしょう?」

 

 本来、旅団員に求められるのは具体的な物欲ではなく生き方だった。蜘蛛という場所を愛する心。あるいは、これから愛することができるかどうか。キャロルとて、やや歪だが同じだった。彼女は、憧れの人を近くで観察する環境をも含めて欲している。その点、アルベルトの示した願望は蜘蛛に依存しないという点で根本的にずれていた。もちろん、彼自身それは理解している。

 

「でも、クロロには本当にこんな理由を明かしたんだけどね」

「まあ。それはそれは。大胆だと褒めればいいのかしら? でも、そう。それを知って許したというのなら、何か考えがあるんでしょうね。もしかしたら、ただ刹那的なだけかもしれないけど」

「だろうね。団長の期待については大まかな見当はついてるけど、最後までそれに応えられるかは、僕にはちょっと自信がないな」

「あらまあ! 謙遜するじゃない!」

 

 キャロルは愉快そうにコロコロと笑った。

 

「楽しい人ね、あなたは! ますます気に入ってしまったわ。ご褒美よ!」

 

 気品ある老婦人の姿をとったキャロルは、右手を胸元へ差し込んだ。指先が緑のドレスの繊維を破り、切り裂き、肌の表面に爪を立てる。皮膚の奥、肉の内側を掻き分けて、肋骨を折り砕いて取り出したのは、赤黒く温かい心臓だった。まだ、確かな脈動を続けている。

 

「半分いかが。景気付けに」

 

 血塗れたりんごのような物体を、二等分しながら彼女は言った。断面の筋肉がほつれて蠢き、さびた鉄の臭いを昇らせている。

 

「食べろと?」

「もちろん」

 

 皺だらけの顔で笑って彼女は言った。彼は押し付けられた心臓の半分を口元へやって、前歯でひとかけら噛み切った。租借して飲み込む。すると、どうだろう。胃の腑から暖かい輝きが膨らんで、頭頂から足裏までを包み込んだ。

 

「これは、……なんて、言えばいいんだろう」

 

 万感の感激が彼を襲った。微かだが、細胞が生命力を取り戻しつつある。もう一口齧る。人肉の生臭い味が口いっぱいに広がっていく。また少し、しかし確実に体力が回復しているのが感じられた。

 

「この一族の肉体はね、素晴らしい即効性の強精薬として作用するの。だいぶ劣化していた代物だし、そもそも具現化で再現した紛い物だけど、それでも、心臓ならさすがにこれくらいの効果は得られるわ」

 

 自分でも心臓を齧り取って、オーラを増大させながら彼女は言った。だが、そのように会話しながら歩いているとき、老婆の剥き出しになった胸部の傷から、生命力の光がこぼれて洩れた。血の塊や肉片が、オーラの粒子に戻ったのだ。その光はやがて全身から外へと拡散を始め、肉体がほろほろと崩れだした。

 

「あっ! もう終わりだなんて!」

 

 キャロルが叫んだ。彼女は急いで心臓を全て食べ尽くし、アルベルトにもそうするように命令した。彼は従い、最後の一口を飲み込んでから、覗き込むように質問した。

 

「もう終わり? 具現化できなくなったのかい? 本当に?」

 

 彼女はええと頷いて、すぐにカイゼル髭を蓄えた紳士の姿にとって変わった。

 

「困ったものだね! 憧れが尽きてしまったよ!」

 

 紳士の声でキャロルは叫んだ。やれやれと首を振りながら、これまで彼女だったはずの彼は、急に慇懃だがどこか尊大な態度になった。

 

「同じ感情を持ち続けるというのはね」

 

 左手でステッキを握り、右手でこするように撫でながら、キャロルは彼らしい調子で語りだした。

 

「ある一つの対象に同じ感情を持ち続けることは難しい。悲しいことにね、いつまでも憧れ続けることはできんのだ。永遠はない! ないのだよ! 惜しいがね。仕方がないのだ。ドゥームなのだよ。まして私の場合はね、新しく構成するたび、傷つくたび、憧憬も劣化していかざるを得ないのでね」

 

 そこで一旦言葉を区切り、彼は少女の姿へと再び戻った。

 

「まあ、新しいお洋服を一着手に入れればすむことだから。そもそもあれは、近々捨てるつもりだったのよ」

 

 あっけらかんと彼女は言うが、表情は少し硬かった。無理もない、とアルベルトは思った。たとえ具現化できる水準を下回っても、憧れが消えるほどではないのだろう。愛着だってあっただろう。憧憬と近しく接触すれば、しばしば親しみへと変化する。

 

 その後もしばらく歩き続け、彼らはビルの正面入り口すぐそばまで辿り着いた。余計な戦いに関わらず、早めに到着したはずの二人だったが、既に、その場には突破された形跡だけが残されていた。

 

「なんというか、これは、酷いな」

 

 機関車が走りぬけたかの如き破壊の跡を検分しながら、アルベルトは苦々しく口元を歪めていた。いくつかの死体は、銃器ごと横一文字に斬られていた。その断面は非常に鋭利で、金属の部分は、とりわけ鏡面のようになめらかだった。

 

「あの二人、 大はしゃぎしすぎじゃないかしら」

 

 目を細め、母猫のように彼女は呟く。そこには負の感情はほとんどなく、微かな喜びさえをも見て取れた。我が子が悪戯するまで育ったのが、嬉しくて仕方がないとでも言うかのように。

 

「入りましょうか。中から戦いの気配はして?」

「いや、それはここからじゃ分からないけど、ビルに入るのは、いま少し待った方がよさそうだ」

 

 言って、アルベルトは斜め上を指差した。そこでは、薄く均一なオーラで形成された巨大な球体がすみやかに大きさを増していた。上層階を中心に広がっていき、それから、徐々に地上へと向かって降りはじめた。

 

「位置取りから、迎撃側の使い手だろう。あれだけの円を実現させるような達人と、僕は、今の状態で戦いたくない」

「私たち、旅団最弱のペアだものね!」

 

 キャロルは楽しそうに言い切った。まがうことなき事実であった。弱さを楽しむ彼女はもちろん、いくらか体力を回復したとはいえ、念能力者として難の多いアルベルトも、最弱を自認するに異論はなかった。他のメンバーに聞かれたら弱腰だと笑われること必至だったが、この場にはそのような他者はなく、二人の意見は一致した。

 

 アルベルトは己が内側に意識を向けた。回復した生命力の量はそれほどではない。満タンの十分の一にも満たなかった。それでも、この状況下ではありがたかった。彼は思わぬ恵みに感謝しながら、幼い容姿のキャロルをしばらく見つめていた。

 

「あらっ、私に惚れた目をしてるわ!」

「かもね」

 

 軽口を叩き合っていたときだった。セメタリービルの屋上から、絶大な気配が膨れ上がったのは。それは立ち上るオーラだった。上層階全体を包み込むそれは、あまりに禍々しく、おぞましい害意に彩られていた。円ではない。繊細な密度の薄さは感じられず、留まらず天へと昇っていった。練とも違う。意気込んで噴出させてるというような気概がなく、ダムから水が流れるように、ただ単に、自然な現象として吹き上げていた。まるで、纏を修得してない常人から、自然に垂れ流されるオーラのように。

 

 下から見ると、それは巨大なキャンドルにも見える。キャロルは、あら、と呟いた。アルベルトの周りに存在する害意あるオーラを、彼女は意味ありげな視線で観察していた。質も量も段違いだったが、両者の方向性が同じなのは、能力者ならば誰にでもわかる。しかし、彼女は何も言わなかった。

 

「行きましょうか」

 

 どこへ、とは言わない。アルベルトも、ああ、とだけ頷いた。これだけのオーラの奔流である。興味を持つ団員は少なくあるまい。彼らより先に駆けつけなければ、何が起こるか分からなかった。

 

 

 

 彼らはエレベーターを使わずに、階段を飛ぶような速度で昇っていった。床を蹴らずに壁を蹴り、非常用の階段を、屋上へ吸い込まれるように駆けて行く。その時、鋭敏な感覚で何かを予期したアルベルトは、隣を行くキャロルを抱えて強く段差を蹴った。天井に着地し、すぐに床へと跳躍する。刹那の後、一筋の鎖が唸りを上げて通過した。鞭のようにしなり、壁面が轟音とともに陥没する。その細さからは考えられない、あまりに強烈な威力だった。

 

「まあ、まあ、まあ!」

 

 踊り場の陰から現れたのは、独特の民族衣装を身につけた、憎悪を宿した青年だった。

 

「久しぶりだな、アルベルト」

 

 鎖を回収しながら彼は言った。冷え冷えと凍結し尽くした眼球は、極彩の赤に燃えている。纏うオーラが猛っていた。

 

「ああ、久しぶり。クラピカ」

 

 アルベルトは返した。煮えたぎる憎しみを全身に受けて、表情は何一つとして変わらない。

 

「あら、知り合いだったの、あなたたち?」

「みたいだね。まったく、この街では知人とよく会うようだ」

 

 腕にキャロルを抱えたまま、アルベルトは、クラピカの姿を見上げている。相手は、苛々した様子で彼ら二人を見下ろしていた。

 

「私は、お前が背中を刺すために蜘蛛の巣にひそんだとばかり思っていた。いや、望んでいたのだな。今から思えば虚しいことだが」

 

 右手を掲げてクラピカは言った。

 

「買いかぶりだったようだな。二人仲良く歩くだけには留まらず、私の攻撃からも庇おうとは」

 

 尋常ではない殺意が込められたオーラが二人を炙った。およそ、念と出会って半年程度の男が放つものとは思えない、要塞の如き圧迫感。こと、念という闘いの舞台において、その意志の力は、単純に、強い。

 

「心の底から賊に落ちたか」

 

 それを聞いてアルベルトは笑った。肩をすくめて苦笑した。

 

「その通りさ。仲間を殺して得るものがあるかい? だけど、そうだね、僕が旅団に入った事がそんなに信じられないというのなら」

 

 キャロルを降ろしながらアルベルトは応じる。頬を釣り上げ前歯を見せて、笑った顔の形をしてみせた。

 

「証拠を、見せようか」

 

 スーツの上着を脱ぎとって、無造作に床に放り捨てた。それから、皮のドレスグローブをはめた左手を首元にやって、ネクタイごとシャツを千切って破いた。千切れた布きれが落ちていった。

 

「……貴様」

 

 クラピカのオーラが爆発的に増えた。見たのだ。スマートに鍛えられた上半身に、翡翠の首飾りだけが揺れている。その胸板、左胸のあたりを中心にして、胴体全面を覆うように、十二本の脚を伸ばす蜘蛛がいた。皮膚の下に埋め込まれた、漆黒の色素で描かれた証。白抜かれた番号は九だった。

 

「どうかな? まだ、信じることはできないかな?」

「そこまで、蜘蛛という立場に固執するか」

 

 声色はいっそ穏やかだった。しかし、念は今やマグマの如く沸き立っており、瞋恚の目でアルベルトをじっと黙視していた。

 

「……いや、言うまい。アルベルト、お前は通れ」

 

 しかし、その全てを彼は飲み込んだ。否、飲み込んだのではない。ぶつける対象を変えたのだ。彼はキャロルへと目を向けている。

 

「どういうことだ?」

 

 アルベルトはキャロルと顔を見合わせてから問い掛けた。

 

「この上でエリスが待っている。頼まれたのだよ。お前だけは、何があっても通してくれとな。本来なら私が倒してやりたいが、お前とのつながりは彼女の方が深い。さあ、行け」

 

 言って、クラピカは腕を下ろした。その状態からでも一挙動で攻撃できることには変わりはないが、意志は示したことになる。急に移り変わった状況に、アルベルトはキャロルに視線で尋ねた。彼女は艶やかに頷いた。

 

「婚約者さん?」

「まいったな。知ってたのか」

「安心して。ほんの二言三言、話しただけの縁だから。それに、旅団の誰にも喋ってないもの。それより、ここは私に譲って頂戴。ほら、せっかくのお洋服からの申し出ですもの」

 

 とても楽しそうに彼女は言った。少女のように喜んでみせたその仕草は、いつも以上に芝居がかり、秘めた思惑の存在を彼に教えていた。だが、それすらもきっと計算だろう。

 

「ありがとう」

「どういたしまして!」

 

 ませた笑顔で彼女は叫んだ。

 

「ねえ、クラピカ。あなたは一つ見誤っているわよ。そもそも、今は私のほうが強いもの。よほどの隙を突かれなければ、私は彼に殺されないわ」

 

 キャロルの言を背中の後ろに聞きながら、アルベルトは階段を慎重に昇っていく。鎖が獲物に飢えた音を鳴らし、紳士が現れる気配があった。クラピカの隣を彼は歩く。アルベルトは前を向いたまま、クラピカも下を睨んだまま、お互い、一瞥だにせず通り過ぎた。

 

 

 

 屋上では暴風が渦巻いていた。正面に佇むエリスから、絶大なオーラが溢れ出ている。目も開けてられないような横殴りの流れは、もはや、巨大な竜巻のそれに近かった。人類への害意がアルベルトを苛む。脳髄を痛め、痛覚を引き裂く。垂れ流されるだけの個人のオーラが、並みの兵器を超えている。

 

 そんな嵐が、静まった。

 

 エリスは静かに立っていた。婚約者にして、義妹。そんな関係の女性がいた。彼女の容態は予想より悪い。開放と絶を切り替えて、見るからに体力を消耗している。骨格ごと砕けて倒れそうで、経っているのが不思議だった。ただ、目だけは恐ろしく力があった。

 

 九月の夜風が二人を撫でた。アルベルトの首からさがる翡翠の珠のネックレスが、裸の上半身を彩っていた。彼女は、その下にある異形の蜘蛛を、皮膚に透ける黒色の塗料を見やって息を呑んだ。

 

「やつれたね」

 

 アルベルトの第一声はそれだった。衰弱と心労で真っ青になり、内臓ごと下しそうな彼女の様子を眺めながら、冷たいほど優しく彼は言った。

 

「辛かったかい?」

 

 彼自身の容態は彼女より酷い。今もオーラを噴出しながら、おぞましいオーラを纏いながら、彼は涼しげに微笑んでいた。当たり前すぎて、残酷だった。

 

「それを返して。母の形見の首飾りを。そんな用途に使うと知っていたら、わたしは絶対に送らなかった」

 

 右手を差し出してエリスが言う。しかし、彼はそっけなく拒絶した。悪いね、と、形ばかりの謝罪を平然と口にした。

 

「もうしばらくこれは必要なんだ。だから、まだ手放したくはないんだよ」

 

 アルベルトは視線をそらさない。執拗にエリスを見つめたまま、灰色の瞳を見続けたまま、ただただ穏やかに語っていた。まるで、愛の言葉を紡ぐように。

 

 彼女は十秒近く黙っていた。そして、低く澄み渡った声で言った。

 

「そっか、分かった」

 

 二人は沈黙の中で見つめ合った。

 

「わたしを殺すの?」

「必要があれば」

「……なら、いいわ」

 

 更に一分ほどの沈黙が続いた。二人は微動だにしないままだったが、やがて、エリスがまぶたをゆっくりと閉じた。そのまま、空を見上げて彼女は言った。

 

「ずっと考えて、悩んでいたわ。アルベルトがなにを思っていて、どうすればあなたに、いえ、わたしたちにとって一番いい結果に辿り着くかを」

 

 摩天楼の屋上に夜風が流れる。機械の作動音が遠くに聞こえた。そのまま何十秒も待ってから、彼女は再びまぶたを開けた。そこには、なぜか、何かに勝ち誇ったような輝きがあった。

 

「考えても、あなたの思惑は読めなかったけど、望みのほうは、分かったつもり。除け者にされたことは憎らしいけど、本当はね、わたしもあなたの気持ちは分かるもの。わたしが旅団に入ったら、あなたにだけは、絶対、蚊帳の外にいて欲しいと願うから」

 

 エリスは詠った。透明で涼しい、野に咲く花のように白い声で。

 

「ねえ、アルベルト。いえ、アル」

 

 燃えるように輝くダークブルーの虹彩で、今にも倒れそうな細い体で、少女が少年に囁くように、エリスはアルベルトに声を掛けた。彼女の表情を見つめたとき、彼の脳裏に、かつての光景が浮かび上がった。二人で遊んだ広場の風景。初めて口付けした木陰の匂い。ハンター試験の前日の夜、久しぶりに聞いた彼女の寝息。そういえば、と、彼は当たり前の事実に今更気付いた。このところ、ずっと、彼女の肩を抱いていない。

 

 唐突に思い起こされた感傷を、アルベルトは邪魔だと疎ましく思った。思考が明らかに曇っている。人間の脳はままならない。極めて不合理な生き物だった。

 

 エリスの唇は乾いていた。化粧で誤魔化してはいるものの、頬はこけ、目の周りは熱っぽく腫れていた。彼女はゆっくりと一歩進んだ。屋上に、かかとの音がこつりと鳴った。やがて、もう一歩。また一歩。彼女はアルベルトの元へと近付いてくる。預言者が湖面を歩くように。こわばった無表情には恐怖が浮かび、それとは別に、明確な決心も同居していた。アルベルトは、彼女に何かを言いたかった。靴の音が鳴っていた。

 

 そして、彼女は彼のすぐそばにまでやってきた。おぞましいオーラをものともせず、絶のまま、彼の目の前で立ち止まる。見下ろす彼を、彼女は見上げた。彼女は、エリスだった。それだけだった。また静寂が訪れた。

 

「あなたに、一番優しい言葉をあげる」

 

 エリスはアルベルトの頬を触った。絹の手袋が皮膚を撫でた。いまや、エリスは瞳だけで笑っていた。子供っぽい、懐かしい匂いの笑みだった。背伸びをして、乾いた唇が少し濡れた。わずか一瞬、エリスの目が潤んだようにアルベルトには見えた。彼は、自分が微笑んでいることを自覚した。

 

「終わりにしましょう、わたしたち」

 

 アルベルトが渇望していた言葉だった。決して口に出せない願望だった。どうしょうもなく臆病な逃避だった。

 

「今ならまだ、思い出で済むわ」

 

 そうだね、と、彼は言いたかった。全てはそうなるべきであった。それこそが最良の結末だった。アルベルトは、今、快晴のような気持ちだった、はずだった。それでも、彼は言葉に詰まっていた。

 

 願っていたのだ。エリスは、アルベルトに縛られるべきではない、と。彼女には彼女の人生があり、彼女の行為と報いがある。もし、クロロから発を取り返せても、アルベルトに縛られて暮らすなら、それは、はたして幸せと呼べるのだろうか。例え、定期的に会うことを義務付けられても、心は自由でいてほしかった。だからこそ、彼一人の意思で闇に堕ちた。

 

 ただ一つ、一つだけ彼には分からなかった。なぜ、目の前の彼女は、あんなにも泣きそうに笑いながら、幸せそうな顔で微笑んでいるのか。

 

「もしも、僕が死んだなら」

 

 絞り出すように彼は言った。心残りは後一つ、奪還が失敗した際のことしかない。

 

「君の青い牢獄で、僕を、永遠に包んでくれないか」

 

 それは、彼に遺せる最大で最後の遺産だった。可能性は乏しい。むしろ危険だけを産むだろう。それでも、万が一可能かもしれないのだ。エリスという名前の一人の女性が、真実、一人の人間として生きることが。

 

「勝手な人。それだけは、望んでほしくなかったのに」

 

 エリスは、童女のように俯いて、今にも決壊しそうな声で言った。

 

「あなたのためなら死んでもいいけど、あなたが死んだら、わたしも死ぬ」

 

 もう、あんな虚無は二度と味わいたくないのだと、震えながらエリスは答えた。今度の静寂は長かった。五分か、十分か。永遠とも思える沈黙の後、彼女はぽつりと呟いた。

 

「戦いましょう。もう、そうするしか方法はないのだから。お互いの意志を貫くために」

 

 どちらからともなく口付けをして、真紅の翼が広がった。

 

 

 

次回 第三十二話「鏡写しの摩天楼」


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