コッペリアの電脳   作:エタ=ナル

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第二章エピローグ「恵みの雨に濡れながら」

 降り続ける雨に濡れながら、終わってしまったと、わたしは思った。

 

 静けさが、痛い。雨も、空も、街も、全てが虚無に染まっていた。この世にアルベルトはもういない。なら、わたしはどうして生きているんだろう。あの人がいなければ生きていけないと、ずっとずっと考えていた。それなのに、わたしはこうして生きている。呼吸を止めれば死ねるはずだ。心臓を抉れば死ねるはずだ。だけど、それすらも今ではおっくうで、ただ、何となく世界を眺めている。

 

「あの二人、あれでよかったんですか? カイトさん」

 

 無気力のままに尋ねてみた。あんまり興味はなかったけど、せめて、わたしたちが請け負った仕事の結末ぐらい、見届けておいた方がいいと思ったから。

 

「ああ、あいつらはもう、放っておいて構わない。それよりもエリス。お前、携帯電話はどうしたんだ?」

 

 急にどうしたというんだろう。意味も分からず、ドレスのポケットを触ってみると、金属質な素材の感触が返ってきた。うん、スクラップだ。思い起こせば戦いの最中、壊れる機会なんていくらでもあった。だけど、どうせもう、使いそうな要件もないんだけど。……ああ、父さんには、連絡を入れなければいけないんだ。

 

「仕方ないな。電話だ、どうせお前宛だろう」

 

 そう言って、カイトさんが渡してくれた彼の携帯電話には、信じられない着信が表示されてた。今まさに、バイブレーターを震わせている電話の相手は、確かに、アルベルト、と。

 

 震える指先でボタンを押す。ありえない。そんな考えで一杯になった。だって、嘘だ。アルベルトが生きてるなんて、嘘だ。携帯だけ奇跡的に壊れなかった? そんなはずない。携帯をどこかに置き忘れた? あのアルベルトがこんな時に? だけど、それでもわたしは縋ってしまう。ここまで期待させておいて違ったなら、今度こそ決壊してしてしまうと知りながら。

 

「……アルベルト?」

「残念。ボクだよ♥」

「その声、ヒソカ!?」

 

 聞き覚えのある声に耳が汚れた。携帯を握りつぶしそうになったわたしは悪くない。カイトさんのじゃなかったら、躊躇いなく壊していた自信があった。ギリリと奥歯が軋みを上げて、どす黒い怒りが沸いてくる。どうしてヒソカが出てくるのか。というか、なんでこの国に来ているのか。

 

「おっと、彼もいるから安心しなよ♣ ほら、アルベルト。妹さんのお出ましだよ♦」

「……エリス、無事かい?」

「アルベルト!」

 

 今度こそ、間違いなくアルベルトの声だった。わたしが間違えるはずがない、聞きたくてたまらなかった声だった。はしたないとは分かっていたけど、反射的に携帯電話に齧り付いた。目の前にいないのがもどかしい。

 

「アルベルト……っ!」

 

 なのに、信じられない気持ちが消えてくれない。一度確信してしまったから。殺されてしまったって思ったから。あのとき流れなかった涙が今になって両目の奥から溢れてきて、雨水と混ざって流れ落ちた。

 

「心配かけたね。ごめん」

「ばかっ……、そんなのっ、そんなのっ……、どう、でも、いいのっ……!」

 

 アルベルトが困惑した気配が伝わってくる。困らせてしまった自覚はあった。時間を無駄にしてると分かっていた。それでも、嗚咽がどんどん溢れてくる。止めようとした。我慢しようと胸元を押さえた。だけど涙は止まらなくて、嬉しいのか、悲しいのか、そもそも誰が泣いてるのか、なにも分からなくなってくる。

 

「だって、ありえないのにっ! 塵一つ残ってなくて、避けられるはずもなくて、それで、わたしっ、わたしっ……!」

「エリス」

 

 怖いほど力強い声でアルベルトが言う。泣いたわたしが、息を呑むぐらいに鋭い声。

 

「確かに、僕は、生きてる」

「アルベルト……っ!」

「生きてるよ。エリス」

「うん……、よかったっ……!」

 

 無事で、よかった。

 

 

 

「落ち着いた?」

「ええ、ごめんなさい。だけど、怖かったのよ。……本当に」

 

 ひと泣きしたらほっとした。どうしてだろう。なんだか随分久しぶりに、アルベルトと話した気分だった。会話をしただけで、いいえ、生存を確認できただけで、損耗を続けていた心が癒されていくのがよく分かった。暖かい気持ちで一杯になって、嬉しさで涙がもう一度滲んできた。

 

「体は? 大丈夫? 怪我、してない?」

「色々ひどいけど、致命的なのはなんとかね。そっちこそ、エリスが元気そうでよかった」

「わたしも、なんとか大丈夫。さっきまで、ちょっと挫けそうだったけど」

 

 指で目尻を拭きながらわたしは答えた。本当は冗談抜きで死にそうだったけど、そんな些事、とっくにどうでもよくなってしまっている。アルベルトが無事ならそれだけで、全てに勝る価値があったから。

 

「その様子だと、やっぱり、戻れたのね」

「うん。久しぶり、なのかな。エリス」

 

 少し照れたように、困ったように、懐かしいアルベルトが微苦笑した。その仕種はいつもよりちょっと幼くて、感情の起伏が鮮やかで、可愛かった頃を思い出した。いえ、今までも十分可愛いかったけど。

 

「いいえ、アルベルトはどんなになってもアルベルトよ」

「そっか。だけど、なんだか長い夢を見ていた気がするよ」

「そう。じゃあ、おかえりなさい、アルベルト」

「……ただいま、エリス」

 

 微笑みがこぼれた。お互い、安心しきって、安らいだ声の表情だった。体を冷やす春の雨が、優しく暖かく感じられた。

 

「ねえ、エリス」

「うん?」

「結婚、しないか」

「……え?」

 

 穏やかな時間が突然止まった。唐突さについていけなかった。確かに、アルベルトがそっち方面に疎いのは念のせいだって知ってたけど、戻った瞬間、告白も通り越していきなりプロポーズされるなんて、予想できる方がおかしいと思う。

 

「僕は、男として君に恋してる。多分、ずっと前から恋してたんだ。やっと気付いた。遅くなって、ごめん」

 

 驚きに止まってる頭の中の隅っこで、冷静な部分のわたしが、普通は、こういうときは恋人からなんじゃないかなって呟いてる。でも、これはこれでアルベルトらしい。うん、この人は元々、こんな風に清らかな人だったから。

 

「もちろん、今すぐじゃなくてもいい。むしろ今は無理だ。だけど、しばらく時間が経って、お互いに落ち着くことができたなら、僕は、君を生涯の伴侶に迎えたい」

「……アルベルトは、本当は自由なのよ? どこにだって、どこまでだって一人なら行けるじゃない」

「ああ、知ってる。エリスといれば、きっと沢山苦労するだろうね。だけど、そんな事は今更じゃないか。たとえお前がただの幼馴染みや義妹でも、その苦労を投げ出したいとは思わないよ」

「そっか。そうよね。ごめん、わたし今、とても混乱してるみたい」

 

 頭の中がぐるぐると回る。それはまるで洗濯機。わたしを丸ごとつっこんで、ぐるぐる回して真っ白にする。でも、頑張らなきゃ。アルベルトが伝えてくれたように伝えなきゃ。大きく息を吸って、吐いた。数度深呼吸を繰り返して、分かりきった返事を、確かな形にするために。

 

「もちろん、喜んで。アルベルトが求めてくれるなら、わたしの人生は全て残らず、あなたに委ねて捧げます」

 

 拍動が高鳴る。心臓がばくばくといっている。それでも、坂道を転がりだしたタイヤは止まる術を知らなかった。ふわふわに湯で上がったままの体をどうにか動かして、携帯電話ごしに愛を告げた。

 

「好きよ。愛してるわ、アルベルト。知ってた? わたしね、昔からずっと、あなたの事が好きだったの。ずっとずっと恋してたの。胸がねじ切れそうな想いで焦がれてたの。誰よりもあなたを愛してたの」

 

 とても長い片思いだった。ずっと引きずってきた初恋だった。妹で終わる覚悟もした。諦めるつもりはなかったけど、もしかしたら諦めているのかもしれないと、何度も不安になったぐらいには長かった。

 

「だから、お願い。これからもずっと、あなたの隣に、いさせてください。わたしの隣に、いてください。いつまでも、どこまでも」

 

 だけど、それがついに結実した。唐突にアルベルトからもたらされた、とても素敵なプレゼント。天下りな感は否めないけど、せっかくの奇跡、享受しないのは嘘でしょう。

 

 これより嬉しい贈り物は、彼との赤ちゃんぐらいしかないと思う。だけどそれは無理だから、きっと今日は、わたしの人生で一番素敵な一日だろう。

 

「……うん。責任重大だね」

「ええ、そうよ。重大なんだから」

「それでも、嬉しいよ」

「……うん……」

 

 気が抜けてしまったんだろうか。アルベルトの声が、とろんと眠気を帯びてきた。それが、可愛い。だけど心配さが上回った。ついつい熱を込めて話し込んでしまったけど、今の状態は状態だから。

 

「疲れた? 休んだほうがいいわ、アルベルト。いえ、お願いだから、休んで」

「そうだね。じゃ、あとはヒソカに任せてあるから、代わるよ」

 

 昔の症状そのままなら、今すぐ病院に搬送しなきゃいけない。それか、熟練した念能力者の保護がいる。ヒソカは近くにいるようだけど、彼はどうみても戦闘特化で、他者の看護や癒しなんて期待する方が無理だった。

 

「いいかい?」

「ヒソカ? アルベルトは?」

「眠っちゃった。あと、クククッ。婚約おめでとう♥ まさかこんなタイミングで切り出すとはねぇ♠」

 

 不意打ちに顔が赤くなった。そういえば、こっちでもカイトさんがずっと見てたんだ。横目でちらっと盗み見ると、なんとも言えない表情で見守っていた。顔から火が出るほどに恥ずかしかった。

 

「悪いけど、彼、このままじゃ死ぬよ? こんな体質は初めてみたけど、ボクの見立てではあと二日もてば良いほうだね♣」

 

 今更すぎる最悪の事実に、ガチリと頭の中のスイッチが切り替わった。のぼせていた回路は凍てついて、できる事をするために疾走をはじめる。全ては、アルベルトの生存のためだった。

 

「分かってるわ。でも、アルベルトならあらかじめ可能性の一つとして対策してるはずよ。もう聞いてるんでしょう、ヒソカ」

「まあ、そうみたいだね♦ でも、用意はしてあったらしいけど、消耗しすぎて動けないみたい♠」

「そう。なら簡単よ。生かしなさい」

 

 静かに、強い口調で命令した。彼ほどの実力者に対して身の程に合わない滑稽な対応。それを、あえてわたしは選択した。

 

「必要なものがあればこちらで最大限協力するわ。ヒソカ、あなたは一秒でも早く、アルベルトの用意していた手段を適切に実現させなさい。ハンターライセンスは?」

「もちろん、持ってきてるよ♦」

「なら、それを示せば包囲網は抜けられるように手配しておくわ。アルベルトの携帯にデータを送るから、指定されたルートで脱出しなさい」

 

 隣のカイトさんと目配せしながら、ヒソカに対して、一方的に要求をまくしたてた。わたしも今回の事件が切っ掛けで、随分と図太くなったみたい。成長した事は悪くないけど、こういう姿は、アルベルトにはあまり見せたくないなと考えた。

 

「うーん♠ ボク、君達の戦いを見て興奮しちゃってるんだよね。用事を頼むなら解消してからにしてほしいんだけどな。さっき、丁度よさそうな獲物達も見付けたし、ね♥」

 

 ごねるヒソカを鼻で笑った。見え見えの駄々の裏にあるのは、やっぱり見え見えの要求だろう。この人はたぶん、分かった上で楽しんでる。

 

「どうせアルベルトからは決闘の約束でも取り付けているんでしょう。いいわ。ならわたしからの報酬は、あなた達の決闘を邪魔しない事。例え、どちらかが死のうとも。それでどう?」

「……いいねぇ♦」

「ただし、その時はわたしも同席させなさい。手は出さないと誓うから。その方が、あなたにとっても好都合でしょうしね」

「もちろん。じゃあ、よろしく♣」

 

 電話越しでも分かる邪悪な笑いを残してから、ヒソカは電話を一旦切った。きっと、今頃はもうアルベルトを抱えて走り出している事だろう。戦いと殺人に異常に執着する奇人だからこそ、目的が一致している間は信用できる。

 

「カイトさん、申し訳ありませんが、手配の件、協力していただけますか。この通りです」

 

 携帯を返しながら頭を下げた。事後承諾そのものな失礼さだったけど、カイトさんは迷う素振りも見せずに頷いて、同時に国軍に連絡してヒソカの為に飛行船を一隻用意するよう要請してくれた。本当に頼もしくてありがたい。

 

「事後処理と同時に軍上層部にも話を通す。疲れているだろうが休む暇はないぞ。覚悟しておけ」

「はいっ、お願いします!」

 

 これからはわたしにとっても戦いだった。いまは例の男性の念能力のおかげで落ち着いてるけど、一度練を使って深層まで撹拌してしまった禍々しいオーラは、今までのようには扱えない。練という技術そのものも、あまりに体に馴染みすぎた。念はわたしを蝕むだろう。きっと前よりも苦しむだろう。その痛みは、今から震えたくなるほど怖かった。

 

 だけど、生きたい。アルベルトと一緒に歩んでいきたい。だから辛さは表に出さない。アルベルトのために働いて、周りに笑顔をふりまこう。彼を心配させる要素を増やすのが、一番怖い事だから。

 

 次に泣くのは、アルベルトが帰って来てからだと心に刻んだ。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「いいんですか? こんなところで時間を潰して」

 

 男の膝の上に座りながら、少女は後ろを見上げてて尋ねてみた。とくん、とくん、と心音が聞こえる。穏やかだった。廃虚の中に雨が降り、悲しいほど穏やかな時間だった。もたれ掛かる男の体は暖かく、逞しい腕が少女を優しく抱いている。

 

 こうして時を迎えてみれば彼女は思う。幸せとは、なんと残酷なものだろう、と。時が凍ってくれないだろうか。未来なんていらなかった。雨を防ぐ屋根も、豊かな食事もいらないから、二人このまま、永久にたゆたっていたかった。

 

「いいんじゃねえか? なるようになるだろ」

 

 甘える猫を愛でるように、閨で愛撫するように、気怠げに喉の下を撫でられた。相変わらず、だらしがなくて駄目な男だ。仕方がない人だと少女は思った。放っておけない、側にいてあげたいという気持ちになる。彼女の願いは叶うだろう。死が二人を分かつまで、もう、誰も邪魔などしないのだから。

 

 とくん、とくん、と心音が聞こえる。暖かく、優しく、寂しかった。

 

「……なあ」

「はい」

「煙草、吸わせてくれないか」

 

 仕方のない人ですねと少女は笑った。男に請われるままに従って、彼の懐から煙草を取り出す。最後の一本となってしまった安い紙巻たばこを口に咥えて、マッチを擦って火を吸った。彼女の小さな口の中に、紫煙の香りが広がった。苦くてまずい。それでも、胸がぽかぽかする味だった。

 

「口、開けて下さいね」

 

 男の唇は柔らかそうで、水気でしっとりと濡れていた。普段は、もう少しカサカサに乾いてたな、と、少女は心の中でくすりと笑った。白く磨かれた前歯の上に、紙巻の吸い口を置いてやる。なんだかちょっと可愛かった。

 

 そのまま、少女は男の体にしなだれかかった。首筋に顔を埋めながら、汗の臭いに心を沈める。とくん、とくん、と心音が聞こえる。男が抱き締めてくれるのを感じながら、彼女はずっと、緩みそうになる涙腺を引き締めていた。

 

「ちょっと寝るわ、起こすなよ」

「……疲れましたか」

「ああ。終わったと思えば、なんだかな」

 

 小さな欠伸を一つして、男は一人、夢の世界へと溺れていく。少女は頬をそっと撫で、彼の顔を至近で見守っていた。求めていたはずの幸せが、彼女の胸をひどく傷めた。

 

「しかし、悔しかったなぁ。結局、あれには一度も勝てなかったか」

 

 男はもう、少女の事を見ていない。胡乱に落ちた意識の海で、呟きを洩らしているだけなのだ。

 

「次に会ったら、今度こそ、俺は……」

 

 唇の端から煙草が零れ、瞼がゆっくりと降りていった。とくん、とくん、と心音が聞こえる。暖かく、優しく、寂しかった。我慢できず、少女は男に口付けをした。赤い舌先が割って入り、くちゅりと湿った音がする。彼の唾液は、安い煙草の味がした。

 

 唇が離れ、アーチが架かる。男はもう、とっくに寝入ってしまっていた。すうすうと、穏やかな寝息が聞こえてくる。年下のようなあどけない寝顔は、彼女を思わず微笑ませた。

 

「おやすみなさい、ビリー。お疲れさま」

 

 ありったけの愛しさを込めて、少女は優しくささやいた。

 

 

 

 燦々と降り注ぐ陽射しの中、列車はガタゴトと揺れていた。レンガ造りの赤い街の、昔ながらの単線鉄道。民家の軒先が、若葉の眩しい初夏の庭木が、車窓のすぐ側を流れていく。

 

 空が、蒼かった。

 

「わあ! カモメですよカモメ! ほら、あんなにも!」

 

 少女が瞳を輝かせた。この車両には他に客はなく、古い三等車に並ぶボックスシートの対面には、唯一、男が苦笑しているだけだった。手には新しく買ったスキットルが握られていて、程よく酔っているようだった。

 

「どうです? 来て良かったでしょう?」

「ま、な。お前が財布を握って節約してくれたおかげだよ」

 

 半分ほど皮肉が含まれた男の言葉に、少女のかんばせが綻んだ。長い銀色の髪がふわりと揺れる。真新しい薄桃色のワンピースが、薄い褐色の肌によく似合う。空色のシャツをラフに着た男の姿と相まって、二人は気楽な旅行者として、平和なこの街に至極自然に溶け込んでいた。

 

「なら、お礼があってしかるべきだと思いません?」

 

 悪戯っぽく少女が笑う。幼い容姿とは対照的に、赤褐色の瞳に、成熟した雌の潤いが混ざりだした。

 

「お礼?」

「ええ。たとえば、こんな」

 

 言って、少女は席を立って男に近寄る。シャツの襟元に指を這わせて、筋肉の隆起を楽しんだ。皮膚に触れるか触れないかギリギリの、妖艶で手慣れた手つきだった。そして彼女は微笑んで、男の膝の上にとすんと座った。

 

「……期待しましたか?」

 

 上目遣いで少女は問う。男はにやりと笑ってから、彼女の頭を撫でた。強く、乱暴で、髪の乱れる撫で方だった。

 

「してない、っていったら拗ねるんだろ? 宿に帰ってからな」

「はい。期待、してますから」

 

 甘さにとろけて少女は言った。逞しい腕が彼女を包んだ。そのまま二人、窓の外を眺める。丘陵地帯に広がる赤いレンガの家々は、爽やかな風と一緒に彼と彼女を祝福しているようだった。よく晴れた初夏の陽の下に、優しい街並が広がっていた。ここには寒さも餓えもなかった。

 

 線路はそこでカーブを描いた。景色が一気に切り替わる。蒼く、広い。海だった。少女は息を呑んで絶句する。どこまでも広大で巨大だった。それは星の大きさだった。蒼く深い大空の下、エメラルドグリーンの海原が輝いていた。

 

「うわぁ!」

 

 感激の声が思わず漏れた。鳥が遊び、船が行き交い、白い雲が流れている。これが、海。モニタ越しでは味わえない、本物の大きさがそこにあった。少女の体が震えている。それに微かに違和感があった。確かに感動はしたけれど、彼女は震えてなかったから。

 

「……ははっ! すげぇや!」

 

 上を見上げて理解した。震えていたのは男の腕だ。震えていたのは男の膝だ。大きな口を全開に開けて、瞳をきらっきらに輝かせて、眼前の光景に見入っている。雄大すぎて心細くなったのか、震えるままの腕が少女の体を強く抱いた。きっと無意識の行動だろう。視線は未だ、海原から一瞬たりとも離れていない。それはとても痛かったが、彼女は母性本能のままに受け入れた。腕に頬をそっと預けて、瞼を閉じて全てを委ねた。列車はガタゴトと揺れていた。

 

 そんな未来が、あればよかった。

 

 

 

「嘘つき」

 

 雨に濡れる廃虚の底で、少女はぽつりと呟いた。

 

「私に、あと十年は一緒にいろって、言ったくせに」

 

 男の心音は聞こえない。彼女は既に一人だった。世界はとても灰色で、これからもずっと灰色だろう。冷えてしまった男の体は、もう二度と、目覚める事はないのだから。

 

「惚れた女って、あんなに大声で叫んだくせに」

 

 穏やかに、眠っているだけに見えたけれど。

 

「なんで、死んじゃうんですか。ほんとうに、最後までひどい人なんだから」

 

 優しく寂しく少女は語る。優しく悲しく男を撫でる。結局、この男は最後まで自分勝手だったのだ。勝手に生きて、勝手に拾って、勝手に惚れて、勝手に守って、勝手に満足して逝ったのだ。彼に生き残ってほしいというのが、彼女の願いだと知りながら。

 

「貴方は、何も残してくれませんでした」

 

 男の寝顔に少女は言った。それは少女のせいだった。彼女は物に執着する事ができなかった。それは男のせいだった。彼はいつもマイペースで、少女の願いなど、ろくに聞き入れてはくれなかった。

 

 残っているのは記憶だけで、それすらも、あちこち欠けてしまっている。いうまでもなく、ここにいない誰かのせいだ。彼があの時、戦いではなく逃走を選んでくれたなら、こんな結末はなかっただろう。

 

 それでも、少女は恨みに思っていない。恨める道理もなかったし、守られたのは嬉しくもあった。ただ、寂しさがあまりに大きいだけで、悲しみと絶望が深すぎただけで。

 

「だから、せめて、これぐらいは貰って良いですよね」

 

 男の大切にしていたものを、少女は一つだけ貰い受けた。そして最後に、冷たい頬をそっと撫でる。これ以上は、きっと泣いてしまうだろう。そう悟って、少女は意を決して立ち上がった。

 

 男の体に両手を組ませ、彼が愛した拳銃をその手に握らせてやる。制服についていたナイフを借りて、銀髪を首の後ろで無造作に断った。それを結わえ、花の代わりに死者に捧げた。これが今の彼女にできる、精一杯の葬送だった。無粋な憲兵に荒らされてしまうと分かっていても、愛する人の体には、安らかな姿でいてほしかったのだ。

 

「いつか、必ず返しにいきますから。それまでは」

 

 そして少女は歩き出す。ゆっくりと、しっかりした足取りで瓦礫を踏んだ。懐古の繭は暖かく、柔らかい絹糸で織られている。叶うのなら、その中で二人、永久に眠っていたかった。ここで終わってしまいたかった。しかし、それを選んでしまったなら、男は何のために死んだのだろう。

 

「ひょっとすると、意外に近いかもしれませんし、ね」

 

 少女は最後に、寂しそうに振り返って微笑んだ。

 

 廃虚を歩く。灰色になってしまった街の底で、少女は一人歩いていた。灰色の雨に打たれながら、灰色のビル街を歩いている。短くなった髪が軽い。それでも心は重かった。男の残した最期の言葉が、少女の胸を蝕んでいた。最後の最後、今際の際に、あれに全部持っていかれたと少女は思った。がらんどうの瞳が思い出される。それは、無機質な輝きを放っていた。

 

 ああ、憎悪だ。

 

 少女はあれに憎しみを抱いた。この世にあってはならない存在だと勝手に決めた。復讐でも、男の意思を継いだ訳でもない。女として負けたのが悔しかった。だから、せめて。

 

 あなたは最後に願ったから。

 

 空を見上げて少女は誓う。機会が訪れてくれたなら、巡り合わせがあったなら。例え動機は不純でも、二人の意思は重なっていると信じたかった。端的にいえば、何か目的がほしかったのだ。

 

 未練は、私が代わりに、叶えます。

 

 彼女はこの後、国軍によって保護される。犯人によって操られていたという証言は受け入れられ、被害者の一人として扱われた。なぜなら、選りすぐられた国家憲兵部隊にクーデターまで頻発させた男の能力を認めるなら、幼い少女が一人、抵抗できたとする事はできなかったのだ。ただし、被害の規模と彼女自身の事情を鑑み、身柄はハンター協会に預けられる。専門の施設に入れられて、専門のハンターが担当に付く、事実上の監禁であった。

 

 しかし、その施設は三ヶ月後に炎上する。何人もの死傷者を出した忌わしき事件が起こったのは、雨の降る七月の晩であった。それ以降、公式記録に彼女の足跡は一切ない。彼女の遺体は見つかっておらず、行方不明のまま数年が経ち、法的に死亡として認定された。

 

 彼女は名を決める事を拒んだため、墓碑には名前が刻まれず、無名のままに祀られている。

 

 

 

 事件終息より七日後、国家憲兵隊司令官ワルスカの執務室をノックの音が訪れた。入室を許可すると、入ってきたのは二人の男だ。国家憲兵隊に所属しており、彼も顔を知っていた。若いが優秀な部下達で、何よりも職務に忠実だった。

 

 執務室に入ると、彼等は驚いた顔をした。きっと、部屋が綺麗に片付いていたためだろう。塵一つ、ではない。書類の一つ、秘書の一人すらそこにはなく、がらんとした空間の中で目を引くものを挙げるなら、執務机の上に写真立てが一つあるのみだった。

 

「将軍閣下、命令によりご同行願います。令状をお確かめ下さい」

 

 ワルスカは重々しく、されど満足そうに頷いた。差し出された令状を形式的に改めて、間違いのない事を確認する。

 

「うむ。確かに。それで、他に指示はなかったかね」

「……外で、一時間ほど、お待ちします」

「待ちたまえ」

 

 噛み締めるように言って退室しようとする男達を、ワルスカは穏やかに呼び止めた。

 

「憶えているかね。この国を救ったハンターの一人、ドレスを纏ったお嬢さんを」

 

 彼等は力強く頷いた。忘れるはずがないと、意思と同時に微かな怒りも灯っていた。

 

「無論です。それがなにか」

「なに。出国を見送った時、別れ際にな、彼女に言われた。格好いいおじさま、だそうだよ。こんな私がね。どうだ、羨ましかろう。天国の家内にも自慢できる。いや、怒らせてしまうから内緒にした方がいいのかな」

 

 くつくつと、ワルスカは愉快そうに笑っている。机の上の写真立てに目をやって、親しみを込めて微笑んだ。写っているのは彼ともう一人、同じ年頃の女性である。

 

「君達も、そう呼ばれるよう、これからも頑張ってくれたまえ。以上だ」

 

 部下達の退出を見送ってから、ワルスカは執務机の引きだしを開けた。そこには一丁の拳銃があった。なんの変哲もない、使い古されたオートマチックの軍用拳銃である。慣れた手つきでそれの状態を点検し、発射に何の問題もない事を確認した。

 

「お別れだね。君には本当に、何度も世話になってしまったようだ。ありがとう」

 

 部屋の隅へ向けてワルスカは語る。そこには誰もいない筈であったが、いつの間にか、修練を積んだ男の気配があった。カイトである。曰く、絶という念の技だという。初めて実演されたときは驚いたものだ。直前まで溢れ出ていた濃厚な存在感がぴたりと消えて、残響すらどこにも感じられない。透明になったかのような錯覚さえあった。

 

「いいのか、ワルスカ」

「無論だとも」

 

 歳の離れた友人に問いかけられ、ワルスカは戸惑いもなく頷いた。外には雨が降っている。もはや、誰も怯える必要のない、古来から恵みの象徴だった春の雨が。

 

「もはや、誰かが泥をかぶらねばならぬ。今回の一件、我らは醜態を演じすぎた。だが、人々はこれからも生きねばならない。この国で暮らしていかねばならんのだ。だから、この国の社会機構が無意味だったのではなく、誰かが著しく無能であったのだと、そういう事にしなければならんのだ。たとえ、明らかな茶番であろうとも」

 

 そして、泥をかぶるなら自分以上の適任はないと、ワルスカは冷厳な目で断言した。

 

 殺人事件一つのために、数多の人命を喪失し、多くの人権を蹂躙し、街を丸一つ粉砕され、天文学的な損害をだした。購うためには、天文学的な規模の支出が要求される。財源となるのは税金である。この国は今後、幾重もの試練を乗り越えねばならないだろう。

 

 彼はそれに貢献できない。だが、後任達に不安はない。部下達は皆、勿体ないほどの人物だった。これからは若い世代の時代だろう。老いたる自分は負の遺産を一つ抱えて冥府へ消え、彼等にやりやすくしてやりたい。ワルスカはそう考えていた。

 

「そうか。寂しくなるな」

「私もだよ。君はいい友人だった。皆にも、よろしく言ってくれたまえ」

 

 男達は頷きあう。余計な感傷はいらなかった。目を合わせるだけで理解しあえた。

 

「送ろうか」

「いや、気持ちは嬉しいが遠慮しよう。君ならきっと、微かな苦しみもなく逝かせてくれるんだろうがね」

 

 友人の手を煩わせず、最後まで、自らの手で終わらせたい。そう、ワルスカは拳銃を手にして口にした。

 

「さて。果つる時を迎えてみれば、実に楽しき人生だった」

 

 形式張って独白してから、ワルスカは悪戯っぽく笑ってみせた。カイトも静かに微笑みを返した。

 

 そして、一発の銃声が鳴り響いた。

 

 

 

次回 幕間の壱「それぞれの八月」


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