コッペリアの電脳   作:エタ=ナル

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第十三話「真紅の狼少年」

 打ち付けた撃鉄は重く硬く、流れ出す脳漿は黄白く赤い。荒れ果て、忘れられた廃屋はガラスが破れ、世界はオレンジ色に染まっていた。惚れ惚れするほどの朝焼けだった。

 

 国家憲兵の黒い制服を着た死体が2つ、血溜まりの中に置かれている。男は懐から噛み煙草を取り出して、殺しの後の一服と洒落込んだ。吐き出された唾には、幾分、自嘲の色が混じっていた。

 

 殺す必要はなかった。男の能力であれば。殺してしまったのは失敗だった。二人が連絡を断ったこの付近は、すぐさま当局にマークされてしまう。ここ数日、捜査網の蠢動が劇的に早くなっている。だが、男は反射的に殺していた。自身の念能力に頼らない癖も善し悪しだった。

 

 しかし、彼らは大声を上げたのだ。

 

 職務上、不審者を威嚇する為だろう。自らを奮い立たせる為だったかもしれない。あるいは命令に服従させ、無駄な戦闘を避けるテクニックだろうか。とにかく、正当な理由をもった怒鳴り声だった。だが、ここには熱に浮かされる少女がいた。彼らを手っ取り早く黙らせる為、男は最も迅速な手段に出た。引き金を2回、頭部と心臓に1発ずつ、それが二人分で事は足りた。瞬きすらも許さなかった。

 

 念弾を吐き出した拳銃から周を解き、腰のホルスターに無造作に戻した。思えばこれも失態だった。男ほどの腕があれば、実弾を装填してから撃っても十二分に間に合ったはずである。わざわざ念能力者の被害にあったのが明白な死体を生産してしまったのは、きっと、その方が静かに殺せたからだ。

 

 過ぎた事は最早どうしようもないと、男はそれ以上拘泥するのを取り止めた。噛み煙草を床に吐き捨てて、銀のスキットルに入れたウイスキーで口をすすぐ。振り向けば簡素な寝床があった。床の上に新聞紙を敷いただけの寝所には、褐色の肌の少女がいた。寝顔は汗にまみれていて、ひどく苦しそうにうなされていた。

 

 限界だなと、男は少女の体調を見て取った。

 

 ここ数日はずっと野宿で、夜間も移動を繰り返し、ろくな休息を取れていない。屋根の下で眠れた昨夜はましだった。宿を取れず部屋を借りれず、昼夜を問わない憲兵の見回りに気を張った。暖を取れる機会も乏しかった。明らかに、今までとは捜査体勢が違っていた。

 

 この程度の無茶は、男一人ならどうにでもなる。だが、少女の小さな体には負担になった。未だ完璧さとは程遠い彼女の纏は、疲れとともに揺らいでいった。そしてついに、昨日、少女は熱を出して倒れ込んだ。娼館時代に染み付いた習性の為だろう。彼女は限界まで己の不調を訴えず、男の足手纏いになる事を恐れていた。

 

 あるいは、もう潮時なのかもしれなかった。

 

 

 

 少女が目覚めると、昨晩と違う景色が広がっていた。青く澄んだ広い空。昨日見つけた廃屋ではなく、都市から離れた荒野にいた。聞くと、男が担いで移動させたのだという。太陽が昇りきるまで眠れたからか。身体の調子も、少しは改善されたようだった。

 

 壁は岩蔭、椅子は石、食卓は膝。味の無いぼそぼそするビスケットを水で流し込むだけの簡素な朝食。ただ餓えを癒すためだけの食料を胃の腑に納めてから、少女は本日の行動を主に尋ねた。男はとうに食べ終わり、一人噛み煙草に興じていた。

 

「部屋を探すんですか?」

「ああ、そうする事にした。食べたら出るぞ」

「できるのですか?」

 

 少女の疑問は当然だった。それが容易でないからこそ、ここ数日難儀していたはずではないか。

 

 高級ホテルから場末の宿泊施設まで伸ばされて、リアルタイム同然に掌握された情報の魔の手。表の街に目を光らせ、貧民街の最奥まで占領とまごうばかりに乱入し、権力を振りかざして隅々まで調べる憲兵部隊。人の寄り付かない場所にも頻繁に巡回の人員が立ち入っていた。有力者は精密に補足され、鞭の音に怯えて当局の犬に落とされる。それでも従わない者達は、尽く牢に連れ去られた。袖の下で報告を誤摩化した憲兵も、数時間も経たずして牢獄へ消えた。

 

 あれは、スラムをよく知る者の発想ではなった。飴より鞭を。正確さより素早さを。地域の実力者を重視しつつも、決して信用せずに暴力で脅し、有無を言わせず動かした。経験を積んだ男はいうに及ばず、少女も直感から確信した。これは、スラムの水で育った者の発想である。

 

 実のところ、そんな根本方針自体はこれまで見られてきたものと大差ない。しかしここ数日、実現方法が異常なほどに発達していた。状勢を認識しきれていなかった少女に対し、男は矛盾する二つの推測を打ち明けた。人間の仕業ではないだろうと。恐ろしいまでに人間らしいと。

 

 いくら情報化社会と謳われる今日でさえも、情報の価値を最終評価できる存在はヒトしかいない。最先端の人工知能を走らせたコンピュータも価値観を主体的に評価する術を持つ事はなく、あらかじめ渡された条件に沿って条件分岐しているにすぎないのだ。この世界の装置は未だかつて、我を思うに至ってない。

 

 だが、捜査体勢が隅々まで強力に行き届いているのを見る限り、リアルタイムで大勢の捜査員それぞれに対し、優れて人間らしい柔軟な指令を与えてるとしか考えられない。たとえ全国規模ではないとしても、この方面というだけで個人の能力の範疇ではなかった。

 

 では、司令してるのは集団か。それこそまさかだ。集団で決定を下すのは容易ではない。個人が受信した報告から必要箇所を取り出し摺り合わせ、皆で共有するだけで大仕事だ。自然、集団による指揮管制はフットワークが鈍くなりがちで、細かい箇所まで目が行き届かなくなる。男は少女に断言した。どう考えても、裏に悪夢のような『個体』がいる、と。

 

 それはきっと異星の機械。おぞましいまでの、情報を把握する異形の秘術。

 

 そんな狂気に満ちた化け物を、男は出し抜こうというのだろうか。

 

 次の街へ赴く為、荒野を横断するハイウェイを監視して、時々通りかかる車を適当に襲って強奪する。それはいい。男のいつもの手口だから。傷害や殺人を厭わない性格への嫌悪はいまさらだったし、安っぽいオンボロを好む嗜好も諦めていた。高速で走行する自動車の狙った箇所を正確に狙撃できるかなど、この男に限っては懸念するだけ無駄だろう。だが、移動した先でどうするのか。

 

「別の街を訪れても、捜査体勢は緩くはならないと思いますが」

「まあな。だから、仕方ねぇから能力を使うわ。本当は、あんまやりたくないんだけどよ」

「能力、ですか? それは、私に使ってる?」

「おう。教えたとおり、もう一つは最後の手段だしな。戦闘中の、絶体絶命の危機でしか使えねぇ」

 

 自信満々に言う男に、少女は怪訝に眉をひそめた。男が都合よく利用できる女性など、そうそう転がってないと思ったのだ。例え住居となる物件の所有者を手篭めにできても、近隣の住人を軒並み犯して回るわけにはいかないのだから。

 

 

 

 車を走らせ荒野を超え、二人は次の街に辿り着いた。かつて、オアシスをもとに発展したという中規模都市。およそ10万人の人口が、ビルを寄せあい暮らしている。首都や主要都市のようなきらびやかな繁栄とは無縁だが、決して貧相な景観ではない。いくつかの主だった建物はそれなりに高くそびえ立ち、田舎なりの威容を誇らしげに晒していた。

 

 外れには、繁栄から取り残された旧市街が見える。打ち捨てられたコンクリート製の遺跡群。過去、開発計画が頓挫した公営団地を中心に、薄汚れた灰色が密集している。机上計算により最初から成功が確定されていた理想的事業の、夢破れた成れの果てだという。もう、何十年も前の話だった。

 

 世界を揺るがせた情熱は儚く消え、人々はなお、この場所で今を生きていた。

 

 他の街のスラムとそう変わった要素の見あたらない旧市街には、未だ多くの人が暮らしている。中核となるのが廃虚を不法占拠している最貧困層で、ごく稀に、外から追われた者が安息を求めて逃げ込んでくる。質素で優しい世界はどこにもなく、あるのは唯一、弱肉強食という法のみなのに。

 

「どちらに身を寄せるんですか?」

 

 車の助手席から街並を眺め、少女はハンドルを握る男に尋ねた。開け放った窓から吹き込む風は、砂塵と金属の香りがする。旧い2ストロークエンジンをかき鳴らす小さな乗用車はご機嫌で、男の機嫌を大いに上昇させたようだった。雨に濡れたら溶けそうな風情の不思議なボディーは、叩くと軽快な音がした。

 

「どうせなら活気のある方に行こうぜ。お前だって久しぶりにいい環境で寝たいだろ」

「それは、まあ……、休めればいいんですが」

 

 まだ少し重たい体を意識して、少女は座席の背もたれに身を委ねた。昨夜は久しぶりにいくらか眠れ、道中もある程度休む事ができた。体力は大分回復してきたようだったが、それでもベッドの誘惑は強力だった。贅沢なスウィートルームなんて戯れ言はいわない。当たり前のホテルの一室で十分だった。シャワーを浴びて埃を落とし、純白のふわふわに沈みたい。そうすればきっと、少女は幸せに溺れて死ぬだろう。

 

「……そうですね。その提案は、素敵です」

「だろ?」

 

 男は楽しそうにハンドルを切り、角張った自動車を目的地へ向けた。

 

 

 

 ああ、これは駄目だなと少女は悟った。

 

「うちに入居したいっていう物好きはあんたらか?」

 

 少女は最初から読み間違えた。男のいう活気のある方とは、ハングリー精神旺盛な側を指していた。少女にとっては退廃と暴力の象徴でしかなかったが、彼には違って見えたらしい。ならばさしずめ、いい環境とは郷愁誘われる汚泥と腐肉の臭いだろうか。

 

 それは、スラム街の中心に近い為に地価が安く、しかし憲兵の重点巡回地域からは外れていると思われる、なんとも都合のいい条件の揃った地区だった。

 

 男が慣れた手順と優れた嗅覚で探し出した五階建ての小さなビルの一階には、脂ぎった中年男の大家が住んでいた。この辺りでは稼いでいる方だろう。着るものはよれよれの安物だったが、顔に焦りが刻まれてない。太鼓腹がひときわ目立ち、全体的にどすんとした印象の太い体型。ビール樽にぶにぶにした手足を付け、態度の大きい頭部を乗せれば完成だろうか。閨事に持ち込めるとか、持ち込めないとか、もはやそれ以前の問題だった。

 

「問題を起こさず、ちゃんと金を払うってんなら文句はないがな。丁度空き部屋もある。最低限の家具は入ってるから、その気なら今日からでも住めなくはないはずだ」

 

 掃除はそっちでしてもらうがなと、大家の男は付け加えた。二人の関係を探っているのを隠そうとしない、傲慢で無遠慮な視線だった。とりわけ、少女をじろじろと眺めている。肢体に粘りつく独特の感触は、娼婦の頃から馴染みあるものだった。

 

 だが、それならむしろ都合がいい。

 

「ああ、それでいいぜ。頼む」

 

 男が言った。

 

「なら、ここにサインと、あとは身分証明書をよこしてくれ。時節柄、とにかくお上が煩いんだ。知ってるだろ」

 

 男が大家にいくらかの金額を前払いし、合意が成立した際に大家が言った。生体認証の簡易端末を取り出して、明らかに不馴れな様子で立ち上げていく。もしも男が照会に応じたら、瞬く間に不法入国の犯罪者とばれるだろう。少女に至っては、法的には死人のはずである。

 

 これだ。これこそ最大の障害だった。

 

 宿での宿泊や些末な賃貸契約でも国民番号を当局に報告させ、国際人民データ機構の登録情報とオンライン照会までさせる緊急措置。事件の影響で何ヶ月も前から存在し続けた制度とはいえ、今までは表の街のまっとうなホテルや業者でしか通用しなかった。あくまで、お上品な世界のルールでしかなかったのだ。

 

 それが、数日前からスラムでも徹底されていた。権力と恐怖に裏付けられ、横暴ともいえる圧政により促進された、ありえないほどの普及速度。今では既に住民達は、欠乏より違反を恐れていた。

 

 仮にこの場で断っても、確実に不審者として通報される。いっそ殺して乗っ取るなら少しの時間を稼げたかもしれないが、男にそうする気はないようだった。

 

「篭絡するなら、私が」

 

 少女は男の服を引いて、落とされた視線に小声で告げた。彼はこの大家を抱かないだろうし、絶対に抱いて欲しくなかったのだ。たとえ一方的に強制された主従関係だとはいえ、彼女の隣に立つ人物には最低限の節度を保ってほしかった。

 

 だというのに、男は驚いたように目を見開いて、その後、笑いを堪えるように奥歯を噛んだ。なんて失礼な態度だろうと少女は呆れた。実は男は両刀で、それも最悪の趣味だったのか。彼にとって少女とこの大家の肉体は、同列に分類されるべきなのだろうか。

 

 差し出された契約書に一通り目を通してから、ウィリアム・H・ボニーと男は記した。少女は知っている。それは彼の偽名だと。最も気に入ってる一つだと。

 

「ああ、これだ。ほら、確認してくれ。間違いなく俺の身分証明書だ。何も、問題はない」

 

 財布から未使用のコンドームを一つ取り出して、堂々とした態度で大家に渡した。大家はそれを受け取って、しげしげと裏表を眺めている。あまりに常識はずれの行動に、ふざけてるのだろうか、と少女は内心でいぶかしんだ。だが、大家の反応は少女の想像を超えていた。

 

「確かに身分証明書だが、おい、国民番号はどこだ?」

「必要ねーよ。あんたは確認も報告も全部済ませた。済ませたんだぜ」

 

 だから問題はないと男は告げた。国民番号をデータベースに照会しようと端末を操作していた太い指が、次第にゆっくりになってついに止まった。泳ぐように、眠るように、大家の目がゆるりと蕩ける。側に用意していた生体情報の読み込み装置も、役割を終えたかの様に仕舞われた。

 

 もし少女が、もっと念に熟達していたら、男のオーラが喉の奥に集まっていたのが分かっただろうが。

 

「そうだな。これで確認は終わりだ。あんたらに問題は何もなかった」

「その通りだ。もう、この契約書だって必要ないぜ。役割は完全に終わったんだ。俺が処分しておいてやるよ」

「そうか、頼む」

 

 唖然として眺めるしかない少女の目の前で、話はどんどんまとまっていく。彼女には全く理解できなかったが、何も問題はない、そういう事になったようだ。大家から取り返した契約書を懐に入れて、最後に男は部屋の鍵を要求した。

 

「部屋は一番上の5階だ。フロアに一室しかないから迷う事はない。気を付けろよ。鍵をなくしたら交換代は負担してもらうぜ」

「ああ、分かってるよ。ほら、行くぞ」

 

 とにかく、どうにかなってしまったらしい。少女の疲労感が増大した。部屋から出ていく彼女の臀部に、大家の好色な視線が張り付いている。それだけが、少女の常識に合致し続けた全てだった。

 

 

 

「どういう事ですか?」

 

 部屋に入るなり、少女は男に問い詰めた。

 

 小さいながらも建物のワンフロア全てを専有している一室は、意外に広く、天井も高い。調度品は前の住人が残していったものだろうか。テーブルに椅子、箪笥にベッドにソファーなどと、必要なものは一通りそろっているようだった。特にベッドはありがたい。無論、シーツも枕もなかったが、マットのスプリングはへたっておらず、それだけで格段の進歩だった。埃もそれほど積もってなく、少女の予想より遥かに上等の物件だった。

 

「なんだ? お前あいつに抱かれたかったのか?」

 

 窓を開けて空気を入れ替え、間取りを確かめつつ男が言う。

 

「そうじゃありません。あんな能力があったら、事前に教えてくれても良かったでしょう。二つしかない、なんて意地悪な嘘をつかないで」

 

 少女はベッドの縁に陣取って、男への不満を隠さない。男の為、彼女は大家に抱かれる覚悟まで決めたのだ。誰かに強制されたのでなく、自発的に。数多の夜を越えた彼女にとっても、生まれてはじめての経験だった。それが根本的に無駄だったなら、少女の憤慨も当然だろう。

 

「嘘じゃないぜ。さっきのも、お前に使ったのと同じ能力だ」

「まさか。抱いた女を操作する能力なのでしょう。現に私は、貴方の命令に逆らえません。放出系で複雑な操作こそできない代わり、地球の裏側に逃げても解除されない有効範囲を誇るとも教えられましたよ、マスター」

 

 本名を教えられ、二人きりなら口にする許しも得た今になって、少女はあえてそう呼んだ。よほど腹にすえかねたのか、赤い瞳が怒りに激しく燃えている。

 

「あー、そうだったな。そういやそんな説明してたんだな。……どうすっかな」

 

 ぽりぽりと後頭部をかきながら、男はしばし沈黙した。少女の胆力に押されるほど柔ではなく、是が非でも説明しなければならない立場でもなかったが、今となっては騙し続ける事もまた億劫だったのだろう。

 

「もう、本当の事を明かしても構わねぇか。今までお前に信じ込ませていた機能、そっちの方が、嘘だ」

 

 男の能力は放出系と操作系の複合技などではなく、強化系とのそれだった。

 

 

 

 当たり前の話であるが、この惑星の巨大さは、人間のスケールを遥かに超える。いかに放出系の能力者とはいえ、それだけの遠隔地にいる対象を操作可能なほど、パワーと射程を両立させる事は不可能である。まして、人間は独自の自意識を持っている。その意志に反した動きを強要することは、意外と大変なことなのだ。

 

 ではなぜ男はわざわざ、世界の果てまで行っても無駄だなどと口にしたのか。無論、少女に印象づける為である。

 

「つくづく、タチの悪い能力ですね」

 

 翌日。新市街まで繰り出し、小奇麗なカフェで頼んだアイスミルクティーを楽しみながら、少女は呆れた様子で呟いた。テーブルにはこの店手作りのチョコレートシフォンケーキにホイップクリームをたっぷりのせた皿が鎮座しており、フォークが入れられるのを今や遅しと待ち望んでいる。少なくとも、少女にはそう思えて仕方なかった。

 

 対面に座る男は相も変わらずコーヒーを注文したが、なんと、今日はエスプレッソという暴挙に出た。嗚呼、と少女は震駭した。ついにこの男は、濃縮された産業廃棄物を嗜好するまでに至ったのかと。いつか黒インクを飲ませてみたい。

 

「……却下ね。喜ばれたら、どうすればいいの」

「んあ? どうした?」

「いえ、なんでもありません。それより」

 

 ケーキを攻略していたフォークをしばし休めて、少女は男をじっと見つめた。

 

「早ければ明後日の夜半から、遅くても明々後日の明け方だそうですが、どうするんですか?」

 

 カフェ備え付けの新聞には、悲鳴にも近しいアオリが踊っていた。春の雨期の到来まで、後それだけの時間しかない。男がその気になったなら、少女の余命もそれまでだ。

 

 不思議と、恐怖はそれほどなかったが、あるいは麻痺しているのだろうか。少女は自分の心をぼんやりと眺めた。死を望むほど殊勝な心がけは無かったが、なりふり構わず生存に齧り付きたいと思うには、嫌な経験が多すぎた。

 

 だが、男は少女の想像を超越した。

 

「逃げたきゃ逃げろよ。いいぜ? 俺は追わねえし、欲しけりゃ支度金だって渡してやる」

「……え?」

 

 追加で注文したサンドイッチを食べる合間の、なんともやる気ない返答だった。挙げ句、財布の中身を確認している。もし足りないと判断すれば、すぐにどこかに忍び込むだろう。

 

「それは、逃げなければ覚悟しろとのことですか?」

「なんだ? 逃げたくないのか?」

「……間違えないで下さい。逃げられないんです。私はあなたに、そう、逆らえませんから」

 

 ギュッと、小さなフォークを握りしめて少女は言った。

 

「おいおい、まだ解けてないのかよ。カラクリは理解したんだろう? 現状を疑いさえできるなら、表層意識での縛りは一晩もありゃ余裕で解けるはずだぜ」

「そう言われましても、あいにくと解けてないようです。隷属の身に苦痛は感じても、この場所から離れたいと思えません」

 

 お前って意外と単純馬鹿だったんだなぁと男は呆れ、仕方ないと少女に向き直った。俺が合図すれば全てが解ける。そう予告して、強いオーラを声帯に込めた。

 

「最後に一つ、よろしいですか。マイマスター」

 

 おそらく、少女が男をこう呼ぶのは、これが最後となるだろう。

 

「あん?」

「なぜ、こんな、簡単に解放していいと考えたのでしょう。私に、飽きましたか?」

 

 少女が内心に押し隠した不安さは、ともすれば洩れていたのだろうか。

 

「いや、そうじゃねぇな。そろそろ潮時だと思っただけだ」

 

 一口齧ったサンドイッチを香り高い酸味のエスプレッソで流し込んで、男は面倒臭そうに説明した。

 

「嫌いなんだよ、与えられた感情しか持たない肉人形ってのは。世の中にはいろんな性癖の奴がいるんだろうが、少なくとも俺は、ゼンマイ仕掛けの模造品に欲情するような趣味はねぇ。だからな、そうなる前に殺すか捨てる事にしてる。別にお前も殺しても良かったんだが、なんとなく面倒だった。言葉にするなら、まあ、そんだけの理由なんだろうな」

 

 なら、なぜ女を奴隷にするスタイルをとっているのだろうか。少女は男の身勝手さに苛つきを覚えたが、そのおかげで娼館から自由になれたのも確かだった。しかし、だからといってそう簡単に納得のいくはずもなく。

 

 なにより、少女の扱いが軽すぎるのが我慢ならない。

 

「もういいか? んじゃ、いくぞ」

「ええ、早くして下さい。一刻も早く、貴方をぶん殴ってやりたい気分ですので」

 

 剣呑な瞳で少女は言ったが、男は歯牙にもかけず苦笑した。3、2、1、解けたぞ。男の、たったそれだけの言の葉だけで、少女から何かが抜けていった。肩がすっと軽くなり、縛られた魂が楽になった。

 

 だからだろうか。すとんと、その感情が腑に落ちたのは。

 

「憶えてますか? 最初に何を命じたか」

 

 急に切り出した少女に対し、男は怪訝そうに答えを返した。

 

「俺に従えってやつだろ?」

「もう一つです」

 

 瞬間、男は顔をかすかに顰めた。ちゃんと憶えているのだろう。答えたくないのだと少女は悟った。叱られた少年のような表情だった。無言で続きを促され、少女は慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

 

「俺に好意を抱くな、と」

「……ああ、それがあったか」

 

 男の白々しい演技にも、少女は何も言わなかった。

 

「安心して下さい。私は今でも、あなたの事が大嫌いですから」

 

 男への評価は変わらない。彼女は今でも男が嫌いで、男の性癖が嫌いで、男の行動指針が嫌いだった。大嫌い。それが、偽らざる少女の本音だった。

 

 だけど。

 

 好きと嫌いが両立するなんて、少女はこれまで知らなかった。

 

 駄目な男だと少女は思う。恋心を抱くには幼稚すぎて、好感を抱くには悪辣すぎる。人生のパートナーとして目星を付けるなど、戯れ言にしても酷すぎた。だというのに、愛情を抱くには支障がない。駄目な女だと少女は思った。

 

「引き際を間違えたみたいですね。お互いに」

 

 貴方の事は大嫌いなままですが、逃げる事ができなくなりました。少女は静かにそう言って、責任を取るよう要求した。男は無表情で黙っていた。脈は全く無いのだろう。少女も、恋人になりたいなどとは思わない。それでも、彼女は願ってしまったのだ。殺されるにしても、打ち捨てられるにしても、この男の人生に消えない傷を付けてこの世を去りたいと。

 

 生まれてはじめて、少女は命の使い方を見出した。

 

 

 

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【真紅の狼少年(ラポールマスター) 放出系・強化系】

発声とともにオーラを飛ばして語りかけた言葉の意味を強化する。

強化の程は発声時に込めたオーラの多寡によって上下する。

 

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次回 第十四話「コッペリアの電脳」


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