聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION 海龍戦記~改訂版   作:水晶◆

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第7話 新生せよ!エクレウスの聖衣!の巻

 例えるならば、カーテンを閉めてぐっすりと眠っていたはずが、なぜか開かれたカーテンの隙間から差し込まれる朝日の眩しさによって叩き起こされる事になった。

 

 その時の海斗の心境はまさしくそれであった。

 

「うおぉおおおおおおおおっ!?」

 

 意識を取り戻した海斗の目前にいきなり現れた眩い光。それに込められた強大な小宇宙は畏怖すら感じさせ――状況の理解よりも先に海斗の身体を突き動かした。

 ここがどこで、なぜ黄金聖闘士が自分に攻撃を仕掛けて来るのか。先程まで戦っていたはずのカノンはどこへ、自分は死んではいないのか。

 そもそもこれは現実なのか。

 脳裏に次々と浮かび上がる疑問は、握り締められた拳の中で霧散する。

 

 敵であるならば――倒すだけ。

 

 あるのは意志。

 己を脅かす者へと、奪おうとする者へと、迫り来る死へと向けられる、抗う為の意志。

 絶望を知り、諦観を得たキタルファとは異なる生への鼓動。

 熱く燃やされた小宇宙は前へ、前へと突き進み――爆発する。

 

「“エンドセンテンス”!!」

 

 

 

「……ほう、迷いの無い良い攻撃だ。加減したとはいえ、まさかこのシャカに一撃を届かせるとはな」

 

 怯えも、戸惑いも、一切を感じさせない真っ直ぐな拳撃。

 自らの放った“天魔降伏”にぶつけられる海斗の小宇宙。そこに込められた確かな意志を感じ取り、シャカは驚嘆の声を漏らしていた。

 

「シャカ? まさか、乙女座(バルゴ)のシャカか!?」

 

 突き出された海斗の拳の先でバルゴの(マスク)が宙を舞う。

 しかし、そこにシャカの姿は見当たらない。

 バルゴのマスクが地に落ちるより先に、掻き消える様にして消えた。

 

『敵であるならば倒す。単純ではあるが、つまらぬ大義を芯とするより余程強い。だが、それでは獣と変わらぬな』

 

「生憎と、ご立派な主義主張なんて持ち合せてなくてね。日々を平穏無事に過ごせればそれでいいんだよ、俺は」

 

 声は聞こえるが姿は見えず。シャカの姿を求めて周囲を見渡していた海斗は、いつしか自分が酷く薄暗い場所に、草木の生えぬ荒野の様な場所に立っている事に気が付いた。

 

『フッ、随分と欲深いのだな君は』

 

 どこからか轟々と鳴り響く音も聞こえる。その音を認識した途端、海斗は足下にぬるりとした何かが纏わり付いているのを感じ取り、それが黒い水の様な物だと知る。

 

『獣と変わらぬと言ったが訂正しよう。実に……人間だ』

 

 その流れを辿って視線を向ければ、そこには巨大な瀑布が見えた。

 

「あれは滝か? まるで血の大瀑布だな。星も、雲も、月も何も見えない空に黒い水が流れる大地……まるで――」

 

 地獄の様だと繋げようとして海斗は口を噤んだ。

 カノンとの戦いで負ったはずのダメージはない。しかし、身に纏った聖衣や衣服には戦いの傷跡がありありと見て取れる。

 瀑布が近いせいか些細な大気の震えはしっかりと感じ取れている。触覚は問題なく、視覚や聴覚といった五感におかしなところはない。

 その不自然さが自分の推測を後押ししている様で、否が応にも気が滅入る。

 もしも、ここが本当に地獄であるならば自分は死んでいる事になる。人が死んだらどうなるのか、魂というモノが存在するのであればそれはどこに行くのか。

 これまでこういった事を考えた事がなかった訳ではない。が、その回答が今の状況であるならば二度と死にたくはないとは思う。

 

「思うんだが……死んでいるなら、二度も三度もないか?」

 

『そうなるかどうかは君次第。君は殆ど死んでいるが、ほんの少しだけ、まだ生きている。諦観と共に死を受け入れるのであればそれまでと思っていたが、“君には”機会を与えるだけの価値はあると認めよう』

 

「俺はまだ生きている? だったらここは、いや、そもそも何がどうなって……」

 

「ここは黄泉比良坂より落ちた者が訪れる、言わば冥府の入り口。君が立つこのステュクス河を越えてレテ河を渡ってしまえば、最早生前の己を保ったまま地上に戻す事など誰にもできぬ事であっただろう」

 

 背後から確かに聞こえた声に海斗が振り向く。

 そこには弾き飛ばしたはずのマスクを装着し、まるで何事もなかったかの様に瞼を閉じ、結跏趺坐を組むシャカの姿があった。

 

「……状況が全く分らないんだが、俺を試したってのだけは分る。それで、俺は地上に戻れるのか?」

 

「これを持ちたまえ」

 

「っと、これは……剣か。随分古いな。それに西洋剣とも違う。鞘の形からして片刃の曲刀っぽいが」

 

「先々代のアテナが加護を与えた武具の一つだ。刀身には亀裂が走り、武具としては使い物にはならぬがそこに込められた聖闘士への祈りは、加護はまだ生きている。それを持ってあの瀑布を目指し、その頂で己の小宇宙を極限まで高めるのだ」

 

「それが最後の試し、か。ま、いいさ。ここでいつまでも燻っていても仕方がないしな。それでアンタは……」

 

 これからどうするのか、そう問いかけようと手にした剣から視線を動かせば、既にシャカの姿はそこになく。

 神に最も近い男、あらゆる時空を渡る男、神仏と対話をする男等々。師アルデバランから、かつてシャカという男について聞かされた時には誇張されたものと話半分に聞いていた海斗であったが。

 

「臨死体験だが幽体離脱だか、そんな状況であろう俺が冥府に居るのはまあ分る。だったらアイツは何なんだ? まさか本当に釈迦の生まれ変わりだとでも?」

 

 前世や転生、生まれ変わりといったものを自分が証明している以上、“まさか”という思いが“もしかしたら”という可能性に大きく振れる。

 

「……他にする事もないしな、今は言われた事をやってみるか」

 

 

 

 

 

 第7話

 

 

 

 

 

 ヒマラヤ山脈――中国とチベットの国境近くに存在する山岳地帯。

 そこにジャミールと呼ばれる場所がある。

 

 標高六千メートルを超えるその場所は高所ゆえ極端に空気が薄く、その険しい道のりもあって地元の者たちですら容易く足を踏み入れる事はない。

 また、その地に住むジャミールの一族と呼ばれる者たちの多くが常人とは異なる特殊な力を持っていた事もあり、古くから迂闊に近付けば二度と返っては来れぬ魔の山として、周辺のチベット族の人間から恐れられていた地である。

 口伝ではさらにこうとも伝えられている。屈強な聖闘士ですらジャミールに辿り着くには命を賭ける必要がある――とも。

 

 ジャミールの一族が進んで外界との接触を図ろうとせず、故にその地に向かおうとする者も数を減らし、やがて長い歴史の中で伝承にのみその名を残す事となった。

 今や何人たりとも訪れぬ秘境。それがジャミールであった。

 

 

 

 そのジャミールの奥深く。

 深い霧に閉ざされたその場所に、少女とまだ幼い少年の姿があった。小さな平たい岩の上で向かい合うように腰掛けている二人の間には、数冊の本が置かれている。

 よく見れば気付くだろう。腰掛けている岩が自然に平たくなったものではない事に。

 まるで鋭利な刃物によって切られたかの様な断面に。

 

 少女は透き通るような銀色の長い髪を、時折吹く風に揺らせながら、見る者の心を温かくする、そんな笑顔を浮かべて少年を見つめている。

 彼女の対面に座る少年はやや吊り目がちではあるが、くりっとした大きな眼をした、いかにも活発そうな男の子である。

 

「……そんな彼らの眠りをさまたげることがないように、生きのこった人たちが結界をはることでここに迷いこむ人があらわれないようにした。……で、合ってる?」

 

「ええ、正解よ貴鬼。でも、その手元に隠したメモを見ないで読めていれば満点だったのにね」

 

 どうやら、少女が貴鬼と呼ばれた男の子に勉強を、この場合は文字の読み書きを教えているようだ。

 今より二百数十年前。ここジャミールの地はアテナと冥王の繰り広げた前聖戦、その地上における最後の戦いの場であった。敵味方問わず、多くの戦士たちの魂が眠る場所でもある。

 

「うぅえ? あはははは……ムウ様にはナイショだよ?」

 

 笑ってごまかそうとする貴鬼。少女は人差し指を顎に当てて首をかしげてみせる。

 

「ん~、どうしようかな?」

 

「いじわるだよセラフィナお姉ちゃん」

 

 貴鬼と呼ばれた子供は不満そうに頬を膨らませる。

 その様子にしょうがないなと、少女――セラフィナは苦笑した。

 

「ふふふっ。それじゃあ、ここからここまでを間違えずに読めたら、さっきのはムウ様に内緒にしておいてあげよう」

 

「え~~っ……」

 

 肩を落とし、目に見えて落ち込んだ貴鬼の姿にちょっと可哀そうかな、と思ったセラフィナであったが、彼女の師匠――ムウより貴鬼の教育を頼まれた以上、ここは心を鬼にするところ、と考え直して厳しくする事に決めた。

 

「ううう~~っ」

 

 捨てられた子犬のような、涙目でセラフィナを見上げる貴鬼。

 

「……む……むむっ……」

 

 厳しくするのだ、決心したのだと、セラフィナはその視線に耐える。

 

「うううううううう~~ッ」

 

「……それじゃあ、ここからここまでね……」

 

「あはっ、やったあ! だからお姉ちゃんは好き!!」

 

 視線に耐えきれず、セラフィナは一分も持たずに陥落した。

 嬉々としてはしゃぐ貴鬼と、がっくりとうなだれるセラフィナ。

 

 それはいつもと変わらぬ風景。

 繰り返される日常の一コマ。

 

「へへへっ。……アレッ?」

 

 はしゃぎまわっていた貴鬼がピタリとその動きを止めて、じっと空を見上げる。

 

「貴鬼? どうしたの、空に何か見えるの?」

 

 貴鬼の視線を追ってセラフィナも空を見上げたが、特に何かが変わった様子はない。

 そこにあるのは霞がかった、いつもの見慣れたジャミールの空である。

 

「そう言えば、あなたもムウ様と同じような超能力が使えたものね」

 

 自分では感じ取れない何かを感じているのだろうか。

 そう思い、セラフィナが貴鬼に声を掛けようしたその時であった。

 

「――来るよ」

 

 貴鬼の言葉に何がと問う事は出来なかった。

 その時にはセラフィナも何かが起きている事に気が付いたのだから。

 

 

 

 二人が見つめる先から眩いばかりの黄金の輝きが、強大な小宇宙が降り注ぐ。

 その輝きに、セラフィナは黄金聖衣には太陽の光が宿っているとムウが語っていた事を思い出していた。

 光はやがて人の形となり、二人の前にその姿を現した。

 黄金に輝く聖衣を纏い、艶やかな絹糸の様な黄金の髪がふわりと広がる。

 その人物は瞳を閉じている。しかし、まるで自分の全てを見透かされる様だと感じてセラフィナは無意識の内に胸元を握り締める。

 彼女は目の前の人物から威圧感とは違う、奇妙な圧迫感の様なモノを感じていた。存在の密度が違う、とでも言えば良いのか。

 

 人影が地上へと降り立った。

 そこで、ようやくセラフィナは目の前の人物が聖闘士である事に、黄金聖闘士である事を認識した。

 そして、その両手には負傷した黒髪の少年が抱き抱えられている事にも。その顔に生気はなく、まるで死者の様だとセラフィナは思った。

 少年は最低限の治療はなされているようではあったが、それでもそのままにしておいてよい程度の負傷ではない事は一目で分る。その胸元には一振りの古びた刀剣が置かれていた。

 

「ッ!?」

 

 少年に向かって慌てて駆け寄ろうとするセラフィナ。その腕を貴鬼が掴み、止めた。

 貴鬼の表情にはつい先ほどまで見せていた子供らしい活発さはなく、むしろ怯えの色が濃い。

 

「ダメだよ、お姉ちゃん。あの人は――違う」

 

「貴鬼? あなた何を――」

 

 自分よりも鋭敏な感覚を持つ貴鬼だからこそ、自分以上に目の前の黄金聖闘士に対して感じるモノがあるのだろうか。

 貴鬼の怯えが理解出来るだけに、セラフィナは縋る様な貴鬼の手を振りほどく事が出来なかった。

 

「ほう、君はその年齢で『感じ取る事』が出来るのか。成程、ムウが手元に置くにはそれ相応の理由があったという事か」

 

「さて、それを決めるのは私ではなくあの子の意志ですよ。それにしても、久しぶりですねシャカ、まさか貴方が動くとは思いもしませんでしたよ」

 

「ッ!? ムウ様!」

 

「ムウ様~~っ」

 

 そう言って、セラフィナたち二人の背後から現れたのは彼女たちの師である青年、ムウであった。

 ややつり目がちな目元と青い瞳、流れる様な金色の髪は一見して女性と見紛う美しさがある。

 落ち着いた物腰と澄んだ眼差しはシャカを前にして揺らぐ事はない。

 彼を知るものは、この青年をジャミールのムウと呼ぶ。

 そして、その中でも極僅かの人間がこう呼ぶのだ。

 牡羊座(アリエス)のムウ、と。

 聖域十二宮、第一の宮“白羊宮”を守護する黄金聖闘士と。

 

「それと、少し力を抑えて貰えないでしょうか、二人が怯えてしまっている」

 

 そう言ってムウが二人の肩に手を置くと、セラフィナたちがそれまで感じていた奇妙な圧迫感が嘘のように消え去っていた。

 

「すまないが理由は先刻話した通り。急いで貰いたい。肉体が死んでしまっては元も子もないのでな」

 

 傷付いた少年――海斗の身体を地に横たえてシャカが言う。

 その言葉にムウは静かに頷いて見せた。

 

「貴鬼、杯座(クラテリス)白銀(シルバー)聖衣をここに。セラフィナはあの少年を」

 

「は、はい!」

 

「分りました」

 

 ムウの指示に従い、貴鬼は自らの念力(サイコキネシス)によりムウの館から杯座の聖衣をこの場所へと呼び寄せる。

 セラフィナはシャカの足下に横たえられた海斗の元へ。

 

 変わらぬ風景、繰り返される日常。

 彼女たちのそれは今、終わりを迎え様としていた。

 この時を境に、緩慢に進んでいた彼女たちの時間は大きく進み始める事となる。

 

 

 

 ドンという音が鳴り響き、僅かに大地を震わせた。貴鬼の横には聖衣の収められた聖衣箱が出現している。

 そこに描かれレリーフは杯。

 

「お姉ちゃん」

 

「ええ」

 

 貴鬼の進めに従いセラフィナが聖衣箱に手を伸ばす。

 指先が触れる寸前で躊躇する様に手を引いたが、横たわる海斗の姿を、自分を見つめるムウの視線を確認すると、瞳を閉じ一度だけ大きく深呼吸すると迷う事なく聖衣箱に手を触れた。

 セラフィナが触れると聖衣箱が音を立てて開き、その中から白銀の輝きを放つ杯の形をしたオブジェが姿を現した。

 杯座(クラテリス)の白銀聖衣である。

 

「……クラテリス」

 

 セラフィナの言葉に応える様にオブジェが弾け、彼女の身体へ形を変えて次々と装着される。

 聖衣を纏ったセラフィナは横たわる海斗の元へと進むとその場で膝をつき、両の掌で器を形作る。

 セラフィナは静かに小宇宙を高め、掌から湧き出る水をイメージする。

 

「ほう、やはり彼女が杯座の聖闘士か。神の酒を注いだ杯、その杯で汲んだ水には癒しの力が宿ると言われるが」

 

「そうです。しかし、杯座の聖闘士であれば、己の小宇宙によって癒しの水を生み出す事が出来るのです」

 

 ムウの言葉を証明する様に、セラフィナの掌からまるで星屑を散りばめられたかの様な輝きを放ちながら美しく澄んだ水が溢れ出し、傷ついた海斗の身体に降り注ぐ。

 すると、みるみるうちに海斗の傷が塞がり、血の気の失せていた顔に赤みが戻り始めていた。

 

「そうか、ソーマ(※インド神話上での神々の霊薬。口にした者に活力を与え、寿命を延ばし、霊感をもたらすと言われる)と同質の力か。ごく稀に、聖闘士の中に戦いの力ではなく癒しの力を持つ者が現れる事がると文献にもあったな。しかし、過去の聖戦では杯座の聖闘士は終ぞ現れなかったと聞いていたが?」

 

「杯座の聖闘士の力は聖戦の行方を左右しかねないものです。過去幾度かの聖戦に於いても真っ先にその命を狙われたと聞いています。故に、アテナの命によりその聖闘士の存在は秘匿とされていました。それに――」

 

 ムウが視線を向ければ、快方に向かう海斗の様子に反してセラフィナの小宇宙が急速に低下し、その表情に苦悶の色が現れ始めている。

 まるで己の命を分け与えているかの様に。

 

「そこまでです。良く頑張りましたねセラフィナ」

 

「……ハァ……は、はあッ……ムウ様? この人、は……?」

 

 崩れ落ちそうになったセラフィナの身体を優しくムウが支える。

 

「大丈夫ですよ。貴女のおかげで彼の傷は癒されています。安心なさい」

 

 穏やかに語りかけるムウの言葉で張り詰めていたモノが切れたのか、セラフィナは微笑みを浮かべるとそのまま意識を失った。

 それと同時に杯座の聖衣が役目は終えたとばかりにセラフィナの身体から離れ、再び杯の形となって聖衣箱へと納まり、開かれていた聖衣箱が再び閉じられる。

 

「貴鬼、この二人を館へと連れて行きなさい。私は今しばらくここでする事があります」

 

「は、ハイ!」

 

 事の成り行きを黙って見つめていた貴鬼であったが、ムウに名を呼ばれるとハッとした様子で急ぎセラフィナの元へと駆け寄った。

 貴鬼の手がセラフィナと、僅かな逡巡の後に海斗に触れる。

 瞳を閉じ、集中する貴鬼。イメージするのは皆で暮らしている家だ。これから行うのは貴鬼の超常の能力の一つ、テレポーテーションである。

 

「んっ!!」

 

 シュンと、気合いの声を残して貴鬼たちの姿がこの場所から消えた。

 

 

 

「今の通り、相手の傷の深さに比例する様に小宇宙を激しく消耗するのです。その献身故に命を落とした者もあったと伝えられています。こういう能力なのか、ただセラフィナの力量が不足している為なのかは分りませんが。そうそう気軽に試せるものでもありませんから。あの娘はまだ正規の聖闘士ではありませんしね」

 

「事が済めばエクレウスを彼女の護り手にでもすると良い。アレは大義よりも恩や仇といった価値観で動く男だ。異論は唱えまい」

 

「セラフィナは必要ないと言いますよ。あれはそういう娘です。……さて、ではシャカよ。彼の、エクレウスの聖衣をここに」

 

「うむ」

 

 ムウに促される様に、シャカがその手を天へと掲げる。

 すると、瞬く間にムウの目の前に聖衣箱が現れていた。

 誰が触れるでもなく、まるで聖衣から働き掛けたかの様に、ひとりでにエクレウスの聖衣箱が開かれる。

 聖衣は感じ取っていたのかもしれない。これから起こるべき事を。

 

 牡羊座(アリエス)の黄金聖闘士であるムウ。彼にはもう一の顔があった。

 この地上に於いてただ一人、破損した聖衣を修復する技術を伝えられたただ一人の伝承者としての顔である。

 

 開かれた聖衣箱。そこにあったのは、かろうじて形を保っているとしか表現できない程に破壊されたエクレウスの聖衣。

 

「……私も長く聖衣の修復を手掛けてきましたが、これ程までに破壊された聖衣を見るのも随分と久しぶりですよ。ここまで破壊されていては……」

 

「ムウ、君程の者でも厳しいか?」

 

「人に例えるならば四肢をもがれたも同然。今はまだ僅かな生命の鼓動こそ感じられますがそれも……」

 

 エクレウスの聖衣は間もなく死ぬ。ムウにはそれが一目見ただけで分った。

 

 聖衣にも命がある。永遠にも等しいモノが。しかし、不死ではない。

 例え持ち主が死亡したとしても聖衣が死ぬ事はない。新たなる持ち主が現れるまで眠りにつくだけである。

 その間に、軽微な損傷程度なら自らの力で修復を行い、場合によっては自らその形を変える事もある。

 しかし、それにも限界がある。

 

「足りない物を補おうにも材料が足りません。いや、量的な物ではなく質という意味で、ですが。ハッキリ言ってしまえば、同等の聖衣を一つ用意できるだけの物が必要です。それに、死んでしまった聖衣を生き返らせる事は、このムウにも出来ぬ事。それを知らない貴方や教皇ではないでしょうに」

 

「それは承知の上。だからこそ教皇は手を打たれている。見たまえ」

 

 シャカの言葉にムウがもう一度エクレウスの聖衣を見た。

 

「な、これは!?」

 

 ムウの表情が驚愕に変わる。

 エクレウスの聖衣に近付くと、何かを確かめる様に触れ始めた。

 

「死んだ聖衣を生き返らせるためには聖闘士の、小宇宙が宿った大量の血を必要とする、だったか」

 

「聖衣から微かに感じる生命の鼓動、消え去るばかりの末期の炎かと思ったが――違う。これは今まさに燃え上がろうとする命の鼓動! それにこの聖衣にこびり付く血は、一見彼の流した物かと思っていましたが……無数の亀裂に沁み込む様に与えられたこの大量の血液は……まさか!?」

 

 あり得ないと言う思いと、それ程の価値がこの聖衣に、いやあの少年にあったのかと。

 立ち上がったムウはその視線を自らの住まう館の方へと向けていた。

 

「そう、その血は教皇の物。エクレウスの聖衣へと流された物だ。そして――」

 

 シャカの手に握られたのは海斗の胸元におかれていた剣だ。それは冥府でシャカが海斗に渡した物と同じ。

 かつての加護は失われているがその残滓は確かに宿り、鞘から抜かれ白日の下にさらされた亀裂の入った刀身からは強大な小宇宙が、命の力が満ち溢れていた。

 

「足りない材料は、質はこの剣が十二分に補うはず」

 

 ムウの驚愕を余所に、シャカは淡々と語る。

 そして、全てを伝え終えると役目は終わったとばかりにその身体が色を失い、まるで空間に溶け込むかの様に薄れ始める。

 

『その血と剣と君の力でエクレウスの聖衣を蘇らせて貰いたい。そして彼に新たなる力を』

 

 

 

 ムウが剣を手にした時には、既にその場にはシャカの小宇宙の残滓が残されているだけであった。

 

「シャカよ。君は、いや教皇は何を考えている?」

 

 ムウのその問いは風の中に紛れて消えた。

 

 

 

 

 

 聖域、教皇の間。

 光の差し込まぬ暗闇の中、ただ一人玉座に腰掛けた教皇――サガは何もない宙をじっと見つめていた。

 

「……やはり生きていたか、我が弟(カノン)よ」

 

 その呟きに応える者はいない。

 

「スニオンの岩牢から姿を消して十一年。いつかは姿を現すと思っていたが、まさか海闘士となっていたとはな」

 

 聖域から一人の聖闘士が離れて海闘士となり、一人の海闘士が聖闘士となった。

 そこに何かの因縁めいたものを感じ、サガは深く溜息をつく。

 

『何故あの場で殺さなかったのだ? 袂を分ったとは言え、やはり弟は可愛いのかサガよ』

 

「あの場で争えば海斗は確実に死んでいただろう。あれ程の小宇宙の持主を殺すのは惜しい。その事は“お前”にも分っているはずだ」

 

『シャカの言っていたギガントマキアの再来か。あの小僧をそれに当てるつもりか?』

 

「敵は冥王軍だけではないのだ。イレギュラー相手に黄金聖闘士を動かす事は出来る限り避けるべきだ」

 

『フンッ』

 

 いや、応える者はいた。

 それは、暗闇の中でサガにのみ聞こえる声で続ける。

 

『しかし、だからと言ってだ。たかが一聖闘士の命と海皇軍とを秤に掛けるとは――愚かな事を』

 

「アテナの施した封印はそこまで柔な物ではない。仮に海皇が目覚めたとしても、目覚めたばかりの神であるならば如何様にもやりようはあるものだ」

 

『あの小僧を助ける理由にはなっていないが……。フン、まあ良かろう。だがサガよ、これだけは忘れるな』

 

「……」

 

『貴様が俺に隠れて何を企もうとも、俺を出し抜ける等とは思わん事だ。何故なら俺は――』

 

「黙れッ!!」

 

 玉座から立ち上がり叫ぶサガ。そこには教皇として見せていた落ち着きも威厳も何もない。

 ただ、苦悩に顔を歪める一人の男の姿があった。

 法衣の裾を翻して振るわれる拳はただむなしく空を切る。

 どれだけ拳を振るおうとも、その拳がサガの“敵”を捉える事はない。

 

『お前自身なのだからな。クククククッ、フハハハハハハハハハッ!!』

 

 脳裏に響き渡るのは、サガが最も憎むべき男の――己の上げる笑い声。

 己の内から湧き上がるドス黒い意志。

 

「黙れッ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れッ!!」

 

 

 

 暗闇の中、己以外誰も居ない教皇の間にサガの慟哭だけが響き渡っていた。

 

 

 

 

 

 溜息を一つ吐き、ムウはその長い髪を掻き上げる。

 

「いや、今は何も言うまい。私は私に課せられた使命に従い、ただ目の前にある聖衣を修復するだけだ。そう、その時が訪れるまでは」

 

 そう呟くと、ムウは瞳を閉じて――念じた。念動力(サイコキネシス)である。

 すると、ムウの前に色とりどりに輝く無数の鉱物が出現する。神話の時代、伝承の中にのみ存在するとされている鉱物が。

 

「オリハルコン、スターダストサンド、そしてガマニオン……」

 

 そこから必要と思われる鉱物を見繕う。

 

「……これ程までに破壊された聖衣を元の形とする事はこのムウにも不可能。大幅に形を変える必要がある」

 

 シャカは言った、新たなる力をと。

 

「求められるのは青銅を超えた青銅、と言う事ですか。やれやれですね、これは一筋縄ではいきそうもありません」

 

 懐から黄金に輝く槌と鑿(のみ)を取り出したムウは、その刃先をそっと聖衣に当てる。

 言葉とは裏腹に、ムウの表情は真剣そのもの。

 ふうと一息を吐くと、その顔から表情が消え去り、その視線はただ聖衣にのみ注がれる。

 

「再生、いや新生の時だ――エクレウスの聖衣よ」

 

 そうして振り上げた槌を、ムウは鑿の柄へと振り下ろした。

 

「新たなる力を宿し、新たなる翼を得て、今再び――飛翔せよ!」


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