聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION 海龍戦記~改訂版 作:水晶◆
――西暦1014年。
冥界の王――冥王ハーデス。
冥王に付き従いし戦士たちは
神話の魔獣を模した
地上界の護戦者――女神アテナ。
女神の下に集いし戦士たちは
神話の時代より繰り返された
冥王の野望――地上に住む人々の尽きぬ悪行に絶望したが故の粛清――を防いだ、という点ではアテナの勝利とも言えたが、多くの犠牲を払ってもなお冥王ハーデスを滅ぼせたわけではなかった。
冥王ハーデスが支配する冥界は死者の国。
神話の時代より多くの神々の力の及ばぬ世界であり、それは戦女神たるアテナも同じ。
冥界に乗り込めぬアテナ側は、ハーデスが冥界に隠した真の肉体にまで手を出す事が出来なかった。
ハーデスが地上に干渉する為に用意した“依り代”――神々の意思を宿せるだけの器を持った人間――を、どうにか出来ただけに過ぎなかったのだ。
とはいえ、ハーデスの――神々の意思を宿せるだけの――器を持った人間など早々現れるはずもなく。
冥闘士は死の概念から解き放たれた存在ではあったが、それもハーデスの力が及べばこそ。いかに彼らとはいえ、ハーデスの力無くして死の概念から解き放たれる術は無い。
加えて、アテナの加護を受けた聖闘士たちや教皇がその命を賭して施した封印により、少なくとも二百十数年はハーデスの力が地上へと干渉する事も無い。
神々から見れば二百数十年など些細な時間にすぎなくとも、この今を生きる人々にとってはかけがえのない時間である。
苛烈を極めた戦いの傷跡は深い。
聖戦に参加した多くの聖闘士が倒れ、若くしてその命を散らし、女神アテナでさえもがその力を使い果たし、今は長い眠りについている。
そして、聖闘士の最高位であり最をうたわれた十二人の
後に史書に残されていた記録により判明した事であるが、この時聖戦に参加した聖闘士は教皇や黄金聖闘士も含めて七十一名。
聖戦後にその生存が確認されたのは僅か七名であった。
冥王の力による陽の昇らぬ朝、明けない夜は、雲の切れ間より差し込む陽光と共に終わりを告げた。
闇がふり払われ、平和を取り戻した地上には再び光が差し込み。
枯れ果てた森からは新緑が芽生え、隠れていた獣たちがその姿を現す。
河川は流れを取り戻し、誰かが見上げた空には、鳥たちがその翼を広げて悠々と舞っていた。
陽の光に誘われた子供たちの、どこかで生まれた赤子の声が、生命の躍動が人々の心を安らぎで満たしていた。
誰もが感じていたのだ。
戦いは――終わったのだと。
CHAPTHR 0 ~a desire~
季節はうつろい時は流れる。
多くの戦士たちの命が散った聖戦の終結より一年。
先達を失い、仕え、支えるべきアテナが長き眠りにつき、聖域を導くべき教皇の座も空位となっていた。
この為、その運営に多くの支障を抱えていた
これには、聖戦以前から次期教皇と見なされていた
支柱になる者の存在は、多くの犠牲を払った聖域にとって不幸中の幸いであったと言える。
前教皇の遺志と聖域の人々に望まれた事もあり、新教皇となったカストルはその人望と優れた手腕によって新たなる聖域を纏め上げていた。
聖闘士候補生達も良く育ち、次代を担うに相応しい才覚を発揮し始めた者もいる。
この事は、今は亡き
アルナスルは聖戦以前から後進の育成について意欲的であり、また、当時の聖域において目前に迫っていた聖戦の“その後”を見据えていた数少ない人物の一人であったのだ。
そうしてしばらく後、カストルが教皇の補佐役たる助祭長の職に任命した
過ぎ行く季節が樹々の葉を落とし、花を散らせ、そしてまた芽生えさせる様に。
若き力に満ちた聖域は、再生を経て新生への道を進もうとしている。
それは日も暮れ始めた頃。
今や日課となった聖闘士候補生たちの訓練の視察を終えて“十二宮”、その先にある“教皇の間”へと向かっていたエイリア。
その彼を呼び止めたのは、先程の視察の中でも特に気にかけて見ていたグループにいた少年であった。
聖域には指導者が不足している事もあり、基本的な訓練は一人の教育者に対して十数人のグループ毎に行われている。
その中でも、その少年がいたグループの者たちは多くが早くも
星も、銀河も、命さえも。宇宙は一つの塊から
真の聖闘士はそれを理解し、己の体内にあるその小宇宙を感じ取り、高め、燃焼し、爆発させることによって超常の力を発揮する者。その拳は空を引き裂き、その蹴りは大地を割る。
聖闘士の強さは己の内なる小宇宙をどこまで高められるか、どれ程大きく爆発させられるかに尽きる、と言っても過言ではない。
「手紙、ですか?」
「はい。実は、ボクは家族と――父さんと口論の果てに故郷を飛び出してしまったので。せめて母さんだけにでも近況を知らせたいと」
「……ふむ」
そう呟くと、エイリアは口元に手を当てて瞑目した。
少しクセのあるブロンドの髪が風に揺れる。
それだけで華になる美しさがエイリアにはあった。
もっとも、本人は自分の小柄な体格と少女のような容姿を快くは思っていない。
こうした仕草にしても、若くして助祭長となった自分に少しでも威厳や貫禄のようなものがつけば、との思いで始めたのだが……。
その成果の有無については、エイリアのその姿に見入ってしまったこの聖闘士候補生の少年が雄弁に物語っている。
知らぬは本人ばかり、である。
「……その、規律に反している事は分っているのですが……」
黙したまま語ろうとしないエイリアに対して明らかに委縮した様子で少年が続ける。
聖闘士を目指す者はその修行中は外界との接触を大きく制限される。
家族との連絡を行う、という行為も制限の対象であった。
聖闘士は超常の力をもって地上の愛と正義を守る者。
その修行は過酷を極める。命の危険などあって当然であり、むしろ本格化する修行では死と隣り合わせでもある。
世俗の情を断つ。その程度の意思と覚悟すら持てないようでは到底耐える事などできはしない。無駄に命を散らすだけ。それが古くからの聖域の考えである。
エイリア自身もその事に対して思うところは――。
「分っているのならば、是非を問うまでもないでしょう」
凛とした声でハッキリと。
少年の目を真っ直ぐに見つめてエイリアは言った。
覚悟はしていたのであろうが、やはり面と向かって否と言われた事に堪えたのか。
「申し訳ありません」
失礼致しました、と。そう続けて一礼し、踵を返す少年の足取りは、本人は隠しているつもりであるのだろうが明らかに――重い。
「……ああ、そうでした」
背後から聞こえた声に少年の足が止まった。
周囲には他に人影はない。
ならば、これは自分に声が掛けられたのだと、少年はエイリアへと振り返った。
「……私の記憶が正しければ、君の出身はサロネ村でしたか?」
「あ、は、はい。そうです!」
助祭長、そして正規の聖闘士であるエイリアが、自分のような一候補生の故郷の事を知っていてくれた。
その事が少年の心を高揚させ、返事にも力がこもる。
「あの村の近くでは、他の土地にはない珍しい植物が育っています。薬草の一種なのですが、昨日切らしてしまいましてね」
「え? え、ええと……」
故郷を必死に思い出そうとするが、少年にはその様な薬草の心当たりはない。
ひょっとすれば聞いた事があったかもしれないが、草木を愛でるよりも走りまわる事が好きだった自分が気に留めているはずもない、と結論に至る。
「すみませ――」
「あの辺りの地理に詳しい者が皆出払っていまして」
すみません、と。
少年が口にするよりも速くエイリアは続ける。
「君さえ良ければサロネへの使いを頼みたいのですよ」
勢いよく駆け出して行った少年の背中を見送ったエイリアは、やがて人知れず深く溜息をついていた。
エイリアが少年に言った言葉は彼に口実を与えるための嘘ではなかったのだが、急を要する用事ではない。
全ては詭弁に過ぎなかったのだ。
「まったく、お前は甘過ぎる」
そんなエイリアの身体を、背後からぬっと巨大な影が覆った。
「万事がその様では他の者に示しがつかんぞ?」
そう言ってハハハハと、豪快に笑いながらエイリアへと近付くのは隻腕隻眼の巨漢であった。
「……どこから見ていらっしゃったんですか?」
「フッ、それに気が付かんようではお前もまだまだ修行が足りん」
先の聖戦を生き残った黄金聖闘士の一人、タウラスのエルナトである。
百を超える冥王の冥闘士、その三十近くをただ一人で打ち倒した聖闘士。
三十二歳という聖闘士としては高齢であり、聖戦の中で右目と利腕であった右腕を失っているが、それでもなお、だからこそ今でも“闘将”と呼ばれ続けている男である。
「面目ありません」
「気にするな、とは言わん。だが、まあ……」
父親が子供にそうするように。
「オレはそういう甘さは嫌いではない」
くしゃりと、エルナトは項垂れたエイリアの頭を撫でた。
十二宮。
黄道十二星座を基にした白羊宮から双魚宮まで続く十二の宮である。その先は教皇の間とアテナ神殿へと続く聖域の要とも言える砦である。
その十二の砦を守るのは聖闘士の最高位であり最強の黄金聖闘士たちであった。
「教皇様ですか?」
「ああ。大した用ではないのだが。カスト――いや、教皇に少々、な」
今はその多くが無人となった十二宮を繋ぐ長い階段を二人は並んで歩く。第一の宮である白羊宮を過ぎ、エルナトの守護する金牛宮を抜けてその先へと。
夕日の淡い明かりに照らされ、肩肘を張る事なく自然体で話すエイリアは一見たおやかな少女にしか見えない。
そして、豪放磊落(ごうほうらいらく※度量が大きく快活であり、些細な事には拘らない)を体現しているエルナト。
その二人が並ぶ姿はどう見ても父と娘のそれ。
ここに
その様子が脳裏にありありと思い浮かびエルナトは眉を顰める。
「――もう一年と言うべきか、まだ一年と言うべきか」
今は亡き友たちの姿を思い出し、エルナトがぽつりと呟いた。
我が強く、一癖も二癖もある者たちばかりであり、中には確かにその考えが理解できず、気に食わない者もいた。
それでも、同じ場所を目指し駆け抜けた仲間であり友であった。
「……エルナト様?」
「ん? ああ、何でもない」
エイリアの気づかいに、らしくない、と頭をふる。
そうしてエルナトは目前に迫る双児宮を見た。
一体いつ現れたのか。
いつからそこにいたのか。
そこに――男が立っていた。
黄金聖衣とは異なる、黄金の輝きを放つ鎧を身に纏った男が。
その手には身に纏う鎧と同じ黄金に輝く三又の鉾が握られていた。
二人を上から見下ろす男の顔は
男の身から発せられる強大な小宇宙は、かつてエルナトが対峙した強敵たちと、友たちと比較しても劣るものではなかった。
「何者ですか!」
エイリアが一歩踏み出し、そう叫んだ。
どこかヒステリックささえ含んでいたのは、それが恐怖を誤魔化すためのものであったのか。握り締めた拳が震えている。
「――フッ」
その姿勢が虚勢であると気が付いたのか、最初からエイリアを脅威とも感じていないのか。
側に立ち様子を窺っていたエルナトはマスクから覗いた男の口元が僅かに笑みの形を浮かべた事に気付く。
「答えな――」
答えなさい、とエイリアが続ける事はできなかった。
何かが光った、と。
そう感じた瞬間、ドン、と大気が震えて瓦礫が舞っていた。それを理解した時には、既にエイリアの身体はエルナトに抱きかかえられて上空にあった。
エルナトに支えられて着地したエイリアが見た物は、それまで二人が立っていた場所に生じた巨大なクレーターである。
「な、何が……」
エルナトには見えていたのだろう。
しばし呆然としていたエイリアの耳に、ため息交じりのエルナトの声が通り過ぎる。
「……どうやら、軽い挨拶だけのつもりであったようだな」
二人が向けた視線の先、先程まで男が立っていたその場所には、今はもう何者の姿もなかった。
「……敵、ですか」
「さて、な。敵意も殺気もない相手。それを敵と決めつけるのも早計だとは思うが」
二人はそう話しながら双児宮へと進む。その様子は実に対照的であった。
周囲を注意深く警戒するエイリアに対し、エルナトは特に何かを警戒しようというそぶりさえ見せてはいない。
エルナトには先程の男が既にこの十二宮から姿を消している事を薄々であるが感じ取っていたのだ。
(勘にしか過ぎん……。が、この類の勘が外れた事もないからな。しかし……あの鎧、黄金聖衣にも似たあれは――もしや、伝承に聞く
「敵意、って。実際に攻撃されたではありませんか!」
エルナトの様子に、こうして気を張っている自分がどうにも間抜けのように思えてしまい、八つ当たりと分っていても、つい口調が荒くなってしまう。
「本気であれば、足下など狙わず心臓か頭を狙っていたであろうよ」
それに、とエルナトは続ける。
「この地にはアテナの結界がある。確かに徐々にその効力は弱まってはいるが、だからといってそう易々と敵の侵入を許したとは思いたくはない。今後の対応が尋常ではなく面倒になるぞ?」
「それはエルナト様が楽をしたいだけではありませんか」
危機感が足りていません、と先を行くエルナトに駆け寄りながらエイリアは続ける。
「由々しき事態です。この事は急いで教皇様に――っぷ!?」
突然歩みを止めたエルナトに気付くのが遅れ、勢いのままにその背にぶつかってしまう。
「~~って、急に止まらないで下さいエルナト様!」
赤くなった鼻を押さえ抗議する。
エイリアは何事ですか、と問いかけようとして――
「――いや、その必要は……ない。教皇に知らせる必要はない」
これまでの快活な雰囲気から一転し、厳しい表情を見せたエルナトの様子にエイリアは言葉を失う。
何があったのかとエルナトの視線を追う様にその背中から顔を出し、先程の男が立っていた場所に古めかしい箱が置かれていた事に気付く。
それはエイリアにも、いや聖闘士であるならば誰もが馴染みのある物であった。
「
神話の時代より聖衣を守り、保護してきた箱であり、内に収めた聖衣に応じたレリーフが施されている。
善悪を見定める力があるとされ、収められた聖衣を身に纏う資格のない者には決して開く事がない、と伝えられている。
駆け寄ったエイリアが確認すれば、その青銅の箱には天駆ける天馬のレリーフが施されていた。
「どうしてこんな所に? ペガサスの聖衣は、確か今はジャミールに……」
「いや、違う。レリーフを良く見るんだ、同じ天馬でも槍を咥えたそれはペガサスではなく――
「エクレウス!? 聖戦後に姿を消した――あのエクレウスですか? 確か、
「……そうだ」
エルナトは険しい表情のまま聖衣箱を見つめる。
その頬に、ぽつりと水滴が落ちた。
ポツリ、ポツリと。
天から降る雫は徐々にその数と勢いを増していく。
それは、やがてざあざあと音を立てて雨となり、聖域を濡らし始めた。
「雨? さっきまで雲は出ていなかったのに……。取り敢えず双児宮に入りましょうエルナト様。このままでは濡れてしまいますから」
「……ああ、そうだな。こいつは俺が運ぶ。お前は先に行け」
「え? あ、分りました。お願いします」
一瞬逡巡したエイリアであったが、そう言うと双児宮へと向かい駆け出した。
「……雨、か。あれが鱗衣であったとするならば、この符合は――」
エルナトは動かない。
雨に濡れるのも構わず、ただじっとエクレウスの箱を見つめ続ける。
レリーフを伝う雨水は、そんな筈はないと分っていても、まるでエクレウスが涙を流しているように見え――
「――これが、お前の答えか?」
そう呟いて、エルナトはエクレウスの箱に手を伸ばした。
スターヒル。
聖域の奥深くに存在するその丘は代々の教皇のみが立ち入る事を許された場所である。
教皇は十二人の黄金聖闘士の中から人・知・勇を兼ね備えた、いわば最も優れた者が前任の教皇より任命される。
任命を受けた黄金聖闘士はその座を後進へと譲り、十二宮の奥にある教皇に間においてアテナの名の元に各地の聖闘士に勅命を下し、聖域を統括する事となる。
スターヒルはその険しさから教皇以外――いわば聖闘士の頂点足る存在――には登れぬ場所と言われており、ここには聖域の歴史が、封じられし記録が、英知が、全てがあった。
故に、禁忌の地ともされている。
そして、聖域の中で最も夜空に近い場所でもあった。
満天の星空に煌びやかに輝く数多の星々。
その輝きを受けながら、先代のジェミニの黄金聖闘士であり現教皇であるカストルは何をするでもなくただ静かに佇んでいた。
風が吹いた。
身を包む教皇の法衣が風になびき、アッシュブロンドの長い髪がふわりと流れた。
陰と陽、金と銀。
左右に異なる光を宿したその双眸に映るのは、遥か眼下に在るはずの聖域に暮らす者達の営みか。
「あの日から今日で一年、か。我々はあの戦いを経て、ようやくこの一時の平和を得た。これは、多くの戦士たちの命の、アテナの願いの果てに得たかけがえのないものだ。
しかし、その為に失った命も、またかけがえのないものであった事に違いはない。何かを得るために何かを失い、しかし、何かを失ったからといって何かを得られるとは限らぬ事を思えば――」
視線を夜空へと移し、カストルが独りごちる。
「今でも時折考える。なぜ私は“あの時”、お前を止めなかったのか、と」
冥王との聖戦の陰で、もう一つの戦いが行われていた事を知る者は少ない。
最初の神々である
この戦いの結末を知る者は、今や聖域ではエルナトとカストル、そして
「……貴方の悪い癖だ。なまじ力があるからそのように考える。あの時、エキドナの宿命を負わされた
背後から返された言葉に、カストルはゆっくりと振り向いた。
「何度も言ったはずですよ、俺は貴方を恨んでなどいない、と」
教皇以外立ち入る事ができぬはずの場所に、黄金の鎧を身に纏い右手に三又の鉾を持った男が立っていた。
双児宮の前でエルナトたちと対峙した男であり、ギガスとの戦い――ギガントマキアを誰よりも知る男。
「よく……ここまで来れたものだ。予感めいたモノはあったが半信半疑でもあった」
「険しいとはいえ、貴方が訪れる事の出来る場所。ならば、俺が行けない道理はないでしょう?」
そう言って男が左手を掲げる。ぐにゃりと、その周囲の空間が水面に浮かぶ波紋の様に歪みを見せる。
「とはいえ、流石に一歩一歩とは時間もかけられませんからね。これを――“アナザーディメンション”を使った反則ですが」
「これはどうしたものかな? 咎めるべきか、成長を喜ぶべきか」
左手に生じた力場を消し去り、男がマスクをゆっくりと脱いだ。吹き付ける風に、男のブロンドの髪が揺れる。
それはカストルの記憶にあった頃よりも長く伸びていた。澄んだ青色の瞳は、その奥にどこか陰を帯びている様にも見えた。
「師としては喜んで頂いても結構ですよ? 教皇としては咎めるべき、でしょうがね」
ふふっ、とカストルと男が笑い合う。
そこには、まるで知己の旧交を温めあうかの様な穏やかさがあった。
「一年振りだなキタルファ」
「貴方は……少し痩せられましたね。我が師カストル」
「フッ、やはり慣れぬ事はすべきではないと後悔し始めているところだ。私には教皇の座は荷が勝つよ。もう少し気心の知れた者の補佐でもあれば、と思わずにはいられないな」
「
男とカストルの間に黄金に輝く聖衣箱が置かれていた。
刻まれたレリーフは互いに向きあう双子の姿。
「――双子座の黄金聖衣」
黄金の鎧を身に纏った男の名はキタルファ。
カストルの弟子であり、共に聖戦を戦ったエクレウスの青銅聖闘士。
聖戦後は次代のジェミニの黄金聖闘士としてその座を譲られるはずでありながら、しかし突如として聖域から姿を消した男であった。
「正直に言おう。双子座の座を断られる可能性は考えていた。が、まさか鱗衣を纏って現れるなど考えもしなかった」
「俺は――元々、地上の平和だの何だのに興味はなかった。故郷の連中やフェリエが笑って暮らせる世界があれば良かった」
ついでにシェアトの奴もね。そう言って苦笑する姿はカストルの知るキタルファの姿と変わらない。
「フェリエやシェアトが死んで俺の中に戦う理由はなくなった。それでも最後まで聖戦に付き合ったのは、戦場で名も知らぬ聖闘士たちから託された願いがあったから。アテナを、地上の平和を――と」
変わらないからこそ、変わっていないのだと、理解ができた。
「聖戦が終わり、貴方が教皇になる事を知り、俺は託された願いを果たしたと考えた。一度故郷の様子を見て、その後はさっさと五老峰に戻った
そこまで言ってキタルファは一度大きく息を吸うと、ゆっくりと吐き出した。まるで自分の中に澱み溜まった“重い何か”を吐き出すように。
「――神の意志に因らずとも人は人同士で戦い殺し奪い合う。私利私欲、宗教、人種、貧富の差から、好きか嫌いか、その程度の事でも。分ってはいましたが、さすがに故郷が戦争で“焼き払われて”いたら考えもしますよ。
これが平和か、と。失ったモノと残ったモノが割に合わない――そう思ってしまった。ならば、どうするか」
澄みきっていたはずの夜空は、いつしかその光を、星々の煌めきを失おうとしている。
夜の帳よりも暗い闇が、ゆっくりと迫ろうとしていた。
「失われたモノに見合うように、託された願いをかなえる為に。平穏を乱す者、戦乱を生む者と俺は戦う。戦い打ち砕く。それが“神の意志の宿らぬ”人であっても。
人の善性を信じるアテナの、聖闘士のやり方では救えない者が多過ぎる。救われない者が多過ぎる。悪しき者を粛清し、心清き者が住まう理想郷をつくり上げる必要がある。海皇は俺にそう言いました」
降りしきる星座の煌めきを遮るように、対峙する二人の頭上をいつしか雨雲が覆い隠していた。
「故に、今の俺は海皇ポセイドンに従う
ぽつりと、天から落ちる一滴。
それは、やがてざあざあと音をたて、勢いよく大地に降り注ぐのだろう。
「――
雨は止まない。