ハイスクールD³   作:K/K

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一歩、暗澹(後編)

「……あ」

 

 リアス、もしくはソーナの眷属たちを探し廊下を歩いていたシンは、通路の反対側から小猫が向かって来ているのを発見する。小猫もシンの姿に気付き、小さく声を上げていた。

 少しだけ歩調を早める二人。廊下の丁度真ん中で両者向かい合う。

 

「……もう大丈夫なんですか?」

 

 小猫の視線が落とされ、包帯を巻いてある手に向けられる。

 小猫の表情が曇る。戦いとは言え、事故の様な不本意な形で怪我を負わせたことに小猫は未だに罪悪感を覚えていた。戦いの最中はそれを押し込むことが出来ていたが、終わった途端噴き出してしまう。

 

「問題無い」

 

 小猫の眼前に左手を突き出し、見せつける様に開閉してみせる。何も背負う必要は無いと言葉の代わりに見せた行動。

 

「……ありがとうございます」

 

 それを察して小猫は感謝を言葉に出す。その言葉を聞くと、シンはさっさと手を下げた。この件はこれで完全に終わりだと言わんばかりに。

 

「……あの、ちょっと失礼します」

 

 一言断ってから小猫は両手を伸ばし、シンの胸辺りを触り始めた。

 

「……いきなりどうした?」

 

 思わず尋ねる。払い除けはしなかったが、小猫の行為の真意が分からず少し困惑していた。

 

「……イッセー先輩越しとはいえ間薙先輩に気を打ち込んだので、先輩の気の乱れを直そうと思ったんですが……」

 

 病室の外に居たのも気を通らせたシンや一誠の体調を調べる為である。

 シンの体を触る小猫の眉根が徐々に寄っていく。戸惑っている様子であった。

 

「……全然気が乱れていない。……何か治療をされましたか?」

「何も」

「……どういうことなんでしょう」

 

 本当に何も治療はされていない。あえて言えば自然治癒である。しかし、小猫は納得出来ないのか更に念入りに触れていく。

 第三者が視れば完全に誤解される光景であった。

 この状況を続けるのは互いの為に良くないと思い、シンは小猫の頭に両手を置く。

 そして、わしゃわしゃと小猫の髪を掻き乱した。

 

「にゃっ!」

 

 飛び跳ねる様にしてシンから離れた小猫。乱れた髪からは隠していた猫耳が飛び出ており、どれほど驚いたかを表していた。

 

「年頃が、あんまり男の体をベタベタ触るもんじゃない」

 

 少し怒った様な目でシンを見ながら、小猫は乱れた髪を手櫛で直しつつ出ていた猫耳を隠す。

 

「……そう言うのなら女性の髪をこんな風にするものじゃないです」

「ならそれで相子だな」

 

 小猫は暫し拗ねた様に唇を尖らせていたが、やがていつもの表情に戻る。とは言ってもシンの目には普段よりも柔らかい表情に映った。

 

「……色々とありがとうございました」

 

 小猫はシンに頭を下げた。

 

「……私が焦っていたときに叱ってくれたこと。私の失敗を許してくれたこと。私が前に進む為の支えになってくれたこと。本当に感謝しています」

 

 これまでのことを振り返り、改めて礼を言う小猫。

 

「あんなものはただの切っ掛けだ。それも小さな、な。偉いのは全てお前だ」

 

 言われたシンは、照れる訳でも、謙遜する訳でも無く全て小猫の実力だと言い切る。ある意味では突き放している様にも聞こえるが、実際その意味も含ませていた。

 目の前でしっかりと立ち、自分の道を歩んで行こうとする小猫に支えは最早不要と思えた。

 

「……先輩ってお父さんみたいですね」

 

 思ってみなかった小猫の台詞。不意打ちを受けたシンは黙ってしまった。生きてきた中で初めて言われ、返す言葉が見つからない。

 その沈黙を気分を害したと受け取ったのか、慌てて小猫は自分が言ったことを補足し始める。

 

「……変な意味で言った訳じゃないです。本当にそんな風に思えたのでつい言っちゃいました」

「……初めて言われたな、そんなこと」

 

 辛うじて出てきた言葉がそれであった。

 

「……私は父様――父の記憶がありません。どんな顔や性格だったのかも知りません。だから、父親がどんな存在かなんて正しく理解していないと思います。……でも」

 

 小猫は少し恥ずかしそうに頬を染める。

 

「……もし、父が居たのならやっぱり先輩みたいな人が良いです」

 

 ここまではっきり言われたのなら仕方が無いとシンは思いながら、シンは小猫に背を向けた。怒らせてしまったのかと思い、オロオロと動揺し始める小猫。

 背を向けたまま小猫を手招きする。

 若干の不安が混じった訝しむ顔でシンへと近付く小猫。そして、シンの側まで来る。

 

()()

 

 名で呼ばれ驚く。それと共に暖かな手の感触が頭に乗る。今度は先程の様に掻き乱されることはなくただ優しく置かれているだけであった。

 

「色々と頑張ったな」

 

 成長を喜び、慈しむ言葉。

 父の様だという言葉に乗っかったのか、あるいは悪戯心からの仕返しか、それとも単なる気紛れか。正解は小猫には分からない。

 だから、小猫は今のこの状況を素直に感じ入ることとした。

 

「……今なら撫でても良いですよ?」

 

 くっ、という小さな失笑が聞こえた。こちらに背中を向けていても小猫には分かった。このときシンはいつもの無表情を僅かに崩し、微笑を見せているのが。

 二人だけがいる静かな廊下で、髪の擦れ合う音だけが微かに響いた。

 

 

 ◇

 

 

 冥界でするべきことは全て終え、明日には人間界へと帰る。人の世界とは違う輝きを放つ月を、シンはシトリー邸からぼんやりと眺めていた。シトリー眷属の立場での戦いを終えたのでグレモリー邸へと戻っても問題無かったが、残りの滞在日数からわざわざ戻るのも面倒だと思い、ソーナに頼んで最終日までシトリー邸で過ごすこととなった。

 仲魔たちからも不満な声は無く――ケルベロスだけは獣面でも分かるほど露骨に嫌な顔をしていたが――ソーナの所で世話になっていた。

 その間特に問題は無く、せいぜい妙に気合いの入った匙と一緒に特訓や手合わせをするぐらいしかやることは無かった。

 しかし、それももう終わる。冥界での生活に未練など無かったが、それでもこの日までのことに、思いを馳せる日が来るだろうという予感はあった。

 

「こんばんは」

 

 独りが生み出す静寂を破る来所者の声。警戒はしない。知っている人物の声であったからだ。だが、疑問は生じる。何故ここに現れたのか、と。そして、やはり只者では無いことを思い知らされる。声を掛けられるまでその存在に気付くことが出来なかった。

 

「セタンタさん?」

「お一人の所、失礼します」

 

 そう言って頭を下げる。

 

「何をしに?」

 

 純粋な疑問がつい口から出てしまう。既にセタンタとの特訓は終わっており、レーティングゲーム終了から今日まで姿を見せることは無かった。それが急に現れたのだ、不思議に思わずにはいられない。

 

「最後にやり残したことがあったので。ああ、私が来ることは事前にソーナ様には伝えております」

「やり残したことですか?」

「ええ。――私が貴方に課せた特訓の終了試験です」

 

 その一言で周囲の空気は一変する。肺腑に取り込まれる空気が冬の風の様に冷たく感じ、且つ鉛の如く重い。セタンタの発する圧により、無意識に体が萎縮している。

 試験などと言っているがシンにはそう思えなかった。発せられる重圧は紛れもなく殺意が込められている。

 目の前の人物は間違いなく自分を殺したがっている。そう感じずにはいられない。

 

「――いいですよ」

 

 相手の真意など分からない。しかし、シンは引かずにそれを受ける。

 

「では、少し広い場所に移動しましょう」

 

 セタンタが背を向け歩き出す。その後ろに付いていくシン。

 無防備に背をシンに向けているが、その実一切隙が無い。どんなにシンがイメージしようとも、拳が当たるどころか触れるイメージすら浮かばなかった。

 歩いて数分。シトリー邸の庭園に着く。周りの彩る花々も両者の間に流れる空気により鮮やかさを失いくすんで見える。

 

「ここなら十分ですね」

 

 槍を握り締めたままセタンタは、シンから数歩離れる。距離にすれば三メートル程度。シンが少し移動すればすぐに槍の間合いとなる距離である。

 

「始めましょうか」

 

 肩に寄りかからせていた槍を下に垂らす。構えというよりも適当、脱力という言葉が相応しいものであった。

 シンもまた両腕をだらりと下げ、構えの無い構えをとる。ただ、その両手に輝く紋様がシンの心を映す様に眩く光る。

 構えをとった直後、濁流を思わせる槍の突き、払い、突き上げがシンを襲う。

 どれも本物では無い。セタンタが見せる幻である。微かな動きがシンの直感に幻の軌跡を見せる。

 本能を揺さぶるセタンタの牽制。少し前の自分ならば反射的に幻のどれかに反応していたかもしれない。だが、今のシンならば分かる。

 ライザー、ケルベロス、タンニーンと死闘を行ってきたシンにはどんなに巧みに見せようとも、どの攻撃も本命では無いことを見抜く。

 セタンタも今程度の揺さぶりではシンを惑わすことは出来ないと察し、無数に繰り出していた槍のまやかしをあっさりと消し去った。

 幻の牽制よりも今の静かなセタンタの方が、シンには遥かに恐ろしく感じる。どこが、どのように、どのタイミングで動き出すのか全く見えない。

 

(そういえば)

 

 戦いの最中、シンはあることを思い出す。それは、セタンタとの過酷な特訓が始まって間もないとき。理不尽なサバイバルと実戦により心身ともに追い詰められたときに一つ決めたことがあった。

 

 この修行が終わるまでの間に、セタンタに文句を付けようが無い完璧な一撃を叩き込む。

 

 色々あって今の今まですっかりと忘れていたが、物事というのはなるようにしてなるものらしい。明日には失う筈だった機会が、セタンタ本人から齎されたのだから。

 シンはセタンタの重圧に屈せず前に一歩出る。

 たった一歩であるが、槍を持つ相手には十分過ぎる一歩。眼前に突き付けられていた刃が、喉元に突き付けられる感覚へと変わる。

 そこから更に一歩。第三者が見れば自殺行為に等しい。だが、近づかなければ振るう拳も届かない。

 セタンタが一歩でも移動すればすぐに槍の間合いとなる。対するシンの拳を届かせるにはまだ遠い。

 近付く。近付く。地面を擦る様にゆっくりと。どこまで近づけるかは、セタンタの気分次第。

 生温い冥界の空気は、両者が生み出す張り詰めた空気のせいで極寒の凍気と化していた。

 一センチ、一ミリでもいい。可能な限り間合いを詰める。

 シンの爪先が小さな小石を蹴る。その瞬間シンは理解した。ここが境界であると。小石がセタンタに向かって転がったとき、殺気が一段と濃くなったのを感じた。間合いに入った小石に無意識に反応した為である。

 シンはその場で軽く深呼吸をする。躊躇は一瞬。動くときは石火。踏み込むという動作に連動し、拳が振り上げられる。

 定めていた間合いにシンが踏み込むと同時に、セタンタは動作間の動きを全て省略させたかの様な不可視の動きで槍を振るう。

 虚ではなく実の動き。体全体で感じ取ったセタンタの動きは、情報として体内に光速で巡っていく。

 拳と槍。間合いも威力も全く違うが、己が最強と信じる武器が交差する。

 夜の中、二つの衝突は激しいものではなく不気味ぐらい静かなものであった。

 刹那の交差の後、二人は背を向き合わせていた。

 シンは背後に立つセタンタに顔を向ける。その右頬には裂傷が出来ており血の滴が垂れている。

 一方で、セタンタの外見には傷一つ無かった。

 無傷のセタンタを見て、シンは溜息を吐く。

 

「試験は不合格ですか?」

「いいえ」

 

 セタンタが振り向こうとすると、顔に巻いてあったマフラーが解け、首から地面へと滑り落ちていく。

 

「合格です」

 

 男にしては艶のある唇で笑みを作る。

 

「貴方の成長には本当に驚かされます。何時振りでしょうね。戦いの中でこれを落とすなんて」

 

 柄頭でマフラーを拾い上げ、軽く叩いた後顔に巻く。

 

「傷の方は大丈夫ですか? 傷薬なら持っていますが」

「合格の証として貰っておきます」

 

 裂傷を指先で拭う。既に傷口からの血は止まっていた。

 

「今の貴方なら、魔人相手でも簡単に命を奪われる心配は無さそうです」

「そうだといいですが」

 

 太鼓判を押されるが、シンは楽観的にはなれなかった。

 

「それだけ謙虚ならまだまだ貴方は伸びていきます」

 

 セタンタは槍を担ぐ。

 

「これで私の特訓は完全に終わりです。お疲れ様でした」

「こちらこそありがとうございました」

「あまり引き留めておくのもご迷惑なので、私はこれで」

 

 一礼すると余韻も無くあっさりと夜の中へと消えていってしまうセタンタ。最初から居なかったかの様な静寂だけが後に残る。

 唐突に現れ、さっさと消えていくセタンタは終始淡白であったが、シンの方も特訓が終わったことに対し特に感動を見せず、セタンタが消えていった方角に軽く頭を下げて、自分の部屋へ戻っていった。

 

 

 ◇

 

 

 シンと別れたセタンタは、早足でシトリー領から離れていく。心なしかその歩みに苛立ちが感じられた。

 先程から頭痛が起きており、それがセタンタの心をざわめかせている。早々にシンの下から立ち去ったのもこれが原因である。

 頭蓋を内側からこじ開けられる様な感覚。錆び付いた扉を無理矢理開くかの様なそれは、神経を削るに十分であった。

 その痛みを紛らわせる為、他のことを考え始める。

 

(これで少なくとも容易く殺られる心配は無くなったか)

 

 シンには魔人だけが敵の様に言ったが、実際は違う。魔人関連で怨恨を持つ者など三勢力どころか他勢力にまで及び、正確な数など把握出来ない。

 そういった連中の手が伸びない様に、シンは四大魔王及び番外の悪魔であるメフィストフェレスなどから厳重に監視されているという情報をさり気なく流し、簡単に手出しできない状況を作っているが、それでも確実では無い。

 そんなことを無視してでも襲撃してくる者たちが居る可能性も捨てきれない。

 また外だけでなく悪魔、特に上級悪魔たちの動向も気になる。特に大王派は魔人を蛇蝎の如く嫌い、敵視している。

 上級悪魔こそ真の悪魔と考えている彼らにとって、大戦時多くの上級悪魔たちを屠った魔人たちは忌むべき存在であった。

 このことについてセタンタもサーゼクスに尋ねたが、どうやら大王派でも魔人であるシンを今すぐ葬るべきという考えと、上手く利用するべきという考えで二分しているのが現状だと説明された。

 

『老人方は長く生きている分、時間にも寛容だ』

 

 というのはサーゼクスの言。大王派は慎重であること。そして、即決即断が出来る者達では無いという皮肉が含まされていた。このことに関してはセタンタも同意である。守る、囲むということに関しては年季があり強固だが、未知や変化に対してはとことん二の足を踏むのが彼らである。

 改めてシンのこれからが前途多難であると分かる。目に見えているだけでこれならば、見えない部分にはどれほどあるか分かったものではない。

 だが、セタンタは心配することは無かった。シンの実力もそうだが、彼は一人ではない。周りにはリアスたち、そして彼の仲魔たち――仲魔――仲魔。

 そのとき、一際大きな痛みがセタンタの脳内に起こり、思わず立ち止まってしまう。

 目の前が真っ白になったかと思えば、次々と見えてくる見覚えの無い光景。

 崩れた近代的建物。広がる砂地。崩壊した世界で弱肉強食を繰り広げる異形たち。

 次に見えた光景は真逆のもの。緑豊かな自然と石造りの建物。民族衣装を纏う者たち。

 連続した映像では無く、異なる場面を一枚一枚つなぎ合わせた歪な映像。何一つ記憶に無い。だというのに自分の中からそれらが掘り起こされていく。

 そして、最後の光景は――

 誰かが叫んでいる。言葉は分からないが、紛れもなく自分の声であった。だが、今の自分よりも低く感じる。

 声の先には、黄金の髪を持つ青年が立っている。

 無感情の様であり憐憫ともとれる眼差しをこちらに向けていた。

 

『今なら――合う。忘れ――今まで通りに――』

 

 雑音が混じった様に黄金の青年の声が途切れ途切れに聞こえる。

 それに対し再び叫ぶ自分。その声には強い拒絶があった。

 今度こそ青年は表情を変える。そこには哀しみがあった。そして、最後の言葉だけははっきりと聞こえた。

 

『残念だ。この世界から君という英雄が消えることが』

 

 黄金の光が闇へと変わる。

 

「はっ!」

 

 気付くと、セタンタは膝を地面に着けていた。額から頬にかけ冷たい汗が流れ落ちている。

 セタンタや槍を突いて体を起こす。

 今まで全く思い出すことの無かったというのに、断片だが過去の記憶が呼び起こされた事態に、セタンタは喜びよりも不安を覚える。

 

「……サーゼクス。お前の考えは正しかったな。確かにあの魔人との接触は、俺に影響を与えるものだった。だが――」

 

 ――もしかしたら俺は、俺たちはこの世界に居るべき存在ではないのかもしれない。

 

 

 ◇

 

 

 手荷物を持ち仲魔を連れたシンは、シトリー邸を出てグレモリー本邸前にある駅を目指す。シトリー邸近くにも駅があるが、アザゼルに用事がある為そちらに向かうことにしていた。ソーナは総出で送り出そうとしていたがやんわりと断っておいた。そこまで大仰にしたくは無かった。

 ソーナたちとは屋敷内で挨拶を済ませ、その後外に出る。

 シトリー邸から出ると『戦車』の由良がおり、シンを見つけて近づいてくる。

 

「やあ、間薙」

「体は良いのか?」

「ああ」

 

 由良が病床に伏せたときに会ってから今日まで顔を合せていなかった。病が移る可能性があるのでなるべく会わない様にとソーナにきつく言われていたのもそうだが、頼まれておいて役目を果たせなかったことに負い目を感じていたこと、由良の体調が完全ではないこともあって会うことを避けていた。

 

「……『戦車』の役目は果たせなかった」

「私の代わりに戦ってくれただけでも十分だよ」

 

 笑顔を見せる由良。その長身もあって同性から好意を持たれるのが良く分かる凛々しさであった。

 

「君には大きな借りが出来た」

「気にする様なことじゃない」

「謙虚だね。正直、私は泥臭くて何度でも這い上がる様な不屈という言葉が似合う男が好みだが――」

 

 手が伸びシンの頬に添えられると、すぐに反対の頬に柔らかな感触が伝わってくる。

 由良からシンに贈られる口付け。

 

『おおー』

 

 仲魔全員が揃えて声を出して驚く。

 

「君みたいなタイプも嫌いじゃないみたいだ」

 

 由良がシンから離れる。

 

「お礼という訳じゃないが、何かをしておかないと女が廃ると思ったのでね。新学期からもよろしく頼むよ」

 

 清々しさを感じさせるほど爽やかな笑みを残しながら由良はシトリー邸へと戻っていった。

 シンは、無意識に唇が触れた箇所を触っていた。女性からこの様なことをされたのは初めてのことである。

 

「お、おお……」

 

 まだ仲魔が騒いでいるのかと思い、声の方を見る。

 匙がこの世の終わりの様な表情でこちらを凝視していた。律儀にも最後まで見送るつもりだったらしい、そのせいで見たくも無いものを見る羽目になったが。

 シンは何も見なかったかの様に目線を戻し、無視してシトリー邸から出ようとする。

 

「マジかよ! お前っ!」

 

 向こうの方からこちらにやってきた。

 

「何でノーリアクションなんだよ! 俺に対してもさっきのことに対しても!」

「これでも照れている」

「嘘吐け!」

 

 シンの言葉を嘘と切り捨てる。実際、驚いたが照れてまでいないので間違ってはいない。

 

「何かあるだろうよ! あんなことされたんだからそれなりの反応が!」

「逆に聞くが、どんな反応が正解なんだ?」

「そ、そりゃあ……固まって身動き一つとらなくなるとか? その場で小躍りして喜ぶとか?」

「何故こっちに聞く」

「しょうがないだろうが! 未経験者にそんなこと聞くな! 俺が正解なんて言える訳がないだろうが!」

「なら経験者(イッセー)にでも聞いておくか」

「……え? え? な、なんでそこであいつの名前が出てくるんだ? まさか! 嘘だろ!」

「答えは本人に聞くんだな」

 

 矛先を全て一誠に投げ渡し、頭を抱えて激しく動揺する匙に軽く手を振りながら離れていく。

 ソーナ曰く、シトリー邸の外に駅に向かう為の足を用意しているらしい。

 門を出てすぐ側にそれは居た。

 

「待っていたぞ」

 

 腕を組み、威風堂々と立つのは以前殺し合いをした仲であるタンニーンであった。負傷した手で横っ面を引っ叩いて以来の再会である。

 

「――どうも」

「――ああ」

 

 再会の挨拶は素っ気ないものであった。出会いが出会いなだけに両者にわだかまりを感じさせる。

 

「乗れ」

 

 用件だけを言い、身を屈めるタンニーン。

 

「アタシがいちばーん!」

「ヒホ! オイラが先だホ!」

「慌てな~い。慌てない」

「グルルルル。マサカ、ドラゴンニ乗ル日ガ来ルトハ」

 

 シンよりも先に仲魔たちが一斉にタンニーンの背に乗っていく。最後に残されたシンも溜息一つ吐いた後にタンニーンの背に乗る。

 靴底から伝わってくるドラゴンの硬い鱗の感触。鋼の地面を踏み締めている様な気分であった。今更ながらよくこんな相手も一対一で戦ったものである。

 

「飛ぶぞ」

 

 全員が乗るとタンニーンは翼を羽ばたかせる。二回の羽ばたきで巨体が地面から離れ、三回目の羽ばたきで、それが垂直に上がり、四回目の羽ばたきで飛行する。

 周りの景色が流れて見える速度で飛んでいるというのに、乗っているシンたちには風の影響が一切無い。揺れも振動も無く、ドラゴンの背とは思えないほど良い乗り心地であった。

 

「――お前には大きな迷惑をかけた」

 

 飛行の中、タンニーンがシンに話しかけてきた。

 

「詫びて済む様なことではない。命を奪おうとしたのだ、こちらも命をかけなければ詫びにもならない」

「だからと言って、首なんて要らないぞ?」

 

 言い訳などせず自分の首を差し出そうとしたときのことを思い出す。

 

「それは前にも拒否されたからな。なら他に差し出すといったら俺のこの力しかあるまい」

「力?」

「龍王として誓う。この先、力が必要なことがあれば俺を呼べ。何時如何なる時も俺はお前の下に駆け付ける。そして、尽きるまでお前の為に我が力を揮おう」

 

 損得を抜きにしてドラゴン、それも龍王に名を連ねていたタンニーンが個人であるシンに力を貸すことを宣誓する。他に聞く者が居れば、前代未聞と仰天したであろう。

 しかし、この場に於いては能天気とも空気が読めないとも言える者たちしかいなかった。

 

「それってシンの仲魔になるってこと?」

「いや、そういう訳では……」

「オイラいつの間にか龍の王様よりも偉くなってホ!」

「いや、あくまで力を……」

「ヒ~ホ~。今後よろしく~」

「知ッテイルカ? 仲魔ノ上下ハ入ッタ順番デキマル。オマエハオレノ下ダ」

「……」

「という訳でもっと速く速くー!」

 

 訂正するのも疲れたのか、それも大人しく従うことにしたのか、ピクシーに言われたとおりに無言で速度を上げるタンニーン。

 

(真面目だな……)

 

 生真面目なタンニーンの姿に、人知れず好感度を上げるシンであった。

 

 

 ◇

 

 

 駅近くで降ろされるシンたち。互いに別れの挨拶を言うと、タンニーンは自分の領地へと戻っていった。

 駅に着くと、一誠とリアスが家族一同と大勢の使用人と最後の挨拶をしていた。

 それを離れて場所で眺めていたら、視界の端の目的の人物の姿を捉えた。向こうもまたシンの姿に気付く。

 

「おお、来たか」

「どうも」

 

 アザゼルがいつもの様に気軽に声を掛け、シンもそれにいつもの様に返す。

 

「で? 本当にお前らを連れていっていいんだな?」

「ええ。お願いします。そろそろきちんと調べておきたいと思ったので」

「――そうかい。ならとことん調べさせてもらうとするか」

 

 事前にアザゼルと連絡を済ませているのでシンとアザゼルは必要最低限の言葉を交わすだけであったが、事情を知らないピクシーたちは二人の会話に怪訝そうにしていた。

 

「そう言えばマダは何処に?」

「あそこだ」

 

 アザゼルが指差す方に目を向けると、マダを中心に人だかりが出来ている。その全員が女性であった。

 兎に角女性に色々されており、プレゼントを手渡されたり、顔にキスをされたり、強烈な平手打ちを受けたり、顔面の中心に膝を叩き込まれていたりしている。女性からの好意と敵意を五対五で受けていた。

 シンたちの視線に気付いたのか何か二、三言言うと人だかりを割ってこちらに向かって来た。その背後からは『死ね!』『くたばれ!』『女の敵!』『でも好き!』という言葉を浴びせられながら。

 

「いやー、モテる怪物は辛いねぇ」

 

 余裕綽々といった態度で笑うマダ。実際傷一つ無く、キスマークだけを残した顔で言っているので自慢にしか聞こえない。

 

「全く羨ましく無いがな。というかどんだけの数の女に手を出したんだよ」

「聞きたいか?」

「……いや、やっぱいい。ドン引きしそうだ」

 

 良く分かっているといって豪快に笑うマダ。つくづく自由な存在である。

 

「で? そいつらは何でこっちに居るんだ? シトリー領にも人間界へのルートはあっただろう?」

「こいつらは俺に用があって来たんだよ。――こいつらをグリゴリの研究施設に連れていく」

「へぇ……」

 

 マダはそれだけ言ってそれ以上追及はしなかった。理由を大凡察した為である。

 

「ということで俺はリアスたちとここで別れる。万が一は無いと思うが、お前はあいつらと一緒に人間界へ帰ってくれ」

「へいへい。分かったよ」

 

 アザゼルの頼みを素直に聞き、汽車の方へと向かって行くマダ。

 マダが離れると今度は、両親との挨拶を済ませたリアスたちが寄って来た。

 

「あら? シン? どうしたの?」

 

 マダと同じ疑問を抱くリアス。

 

「ああ。こいつ、ちょっと俺に用があってな。俺と一緒にグリゴリの施設へ行くことになった」

「えっ。そうなのか? 一体どうして」

 

 一誠の疑問は真っ当なものである。一瞬正直に答えるべきかと思ったが、止めて予め用意していた答えを出す。

 

「こいつも連れて行こうと思って。この姿じゃ色々と不便だからな」

 

 ケルベロスの頭に手を乗せる。そう言われてリアスと一誠は納得する。人の世界で三メートルもある犬など注目や好奇心を集めるだけである。同時にグリゴリならばそれをどうにかするアイテムが存在するだろうと理解した。

 

「じゃあ、ここでお別れね」

「また新学期で会おうぜ」

「ああ、また新学期で」

 

 一誠たちに別れを告げる。リアスたちも汽車へ向かって行った。

 

「あ、そうだ」

 

 唐突にピクシーが何かを思い付く。

 

「ミリキャスと最後に喋ってきていい? 色々と遊んだし」

「ヒホ! オイラも行くホ!」

 

 シンはアザゼルに視線を送る。時間の余裕が有るかの確認であった。

 

「行ってこい行ってこい」

 

 シンの代わりにアザゼルが許可を出す。するとピクシーたちはケルベロスに跨った。

 

「じゃあ、行こっか」

「ナゼオレガ……」

 

 不満そうな態度であったが大人しくピクシーたちを乗せてリアスたちを見送る準備をしているサーゼクスの下に行く。

 

「あ、皆さん!」

 

 ミリキャスはいち早くピクシーたちの存在に気付き、駆け寄っていく。

 

「来ていたんですか?」

「うん。イッセーたちがお別れしているからアタシたちもミリキャスにお別れしようと思って」

 

 ミリキャスの表情が少しだけ寂しさで曇る。表に出してはいけないと分かっていてもどうしても滲み出てしまう。

 父は魔王。母もまた高名な悪魔。その両親から生まれ、さらには将来グレモリーの当主を約束されているミリキャスにとって、立場などを気にすることなく遊べる存在は稀有であった。

 

「皆さんと過ごせて本当に楽しかったです」

「アタシたちも楽しかった。また会おうね」

 

 ピクシーが小さな手を伸ばす。ミリキャスも手を伸ばすと、ピクシーはその指先を掴み、サイズの違う握手を交わした。

 

「じゃあねー」

「ヒーホー」

「またね~」

「グルルルル……ジャアナ」

 

 湿っぽさの無いピクシーたちの別れは、また会えるという再会を予感させる、ミリキャスの僅かな寂しさを吹き飛ばす様な爽やかなものであった。

 

 

 

 ◇

 

 

 アザゼルが用意した魔法陣でグリゴリの研究施設にやってきたシンは、最初にレントゲンの様な機械で全身をくまなく撮影された。

 暫くして撮れた写真を持ってアザゼルが現れる。その顔は神妙な表情をしていた。

 

「どうでしたか?」

 

 無言でシンに写真を見せる。

 その写真を見て、シンは一言――

 

「――随分愉快なことになっていますね」

「これ見てそう言えるなら大したタマだ」

 

 撮影に使用したのは神器を写し出す特殊な装置であり、本来なら骨も筋肉も透かされ神器のみが写し出されているが、写真には神器以外のものが写し出されている。

 頭頂部から脊髄の基底部にかけて大きさが異なる七つの影。その影は根の様なものを伸ばし、それが手足などの末端にまで伸び、伸びた先で影と同じ形の小さな瘤の様なものを形成していた。

 その数合わせて二十五。

 ぼんやりと写る影だが良く見ると、細い昆虫の様な生物が胎児の様に身を丸め、まるでマガタマを彷彿とさせる形になっている。

 

「――写真じゃ分からないが、これ、動いていたぞ」

 

 アザゼルは、写真を写し出す前に、このマガタマが体を震わしている姿を見ていた。

 

「これがお前の神器……じゃねぇな」

「きっとこれが俺の力の源なんでしょうね」

 

 今もきっと体内で蠢いているだろうマガタマたちを想像し、目を細める。

 

「……このことは俺とお前だけの秘密だ。調べたが特におかしなことは無かった。他の奴らにはそう言っておけ」

「――そうですね」

 

 シンの手の中で写真が黒染み始め、やがて発火し火に包まれる。数秒で写真は灰と化して焼失した。

 このことが他者に知られるのは出来るだけ避けるべきという考えが両者で合致した。なまじ形があるだけ魔人の力を奪われる可能性が出てくる。この様な力が広まる危険を可能な限り潰しておきたい。

 

「データは完全に消しておく」

 

 装置のある部屋に戻ろうとするアザゼルに、シンは声を掛けた。

 

「先生」

「何だ?」

「俺の中のアレが全部育ち切ったとき、俺は何になるんでしょうね」

「……それは俺にも分からんな」

「そうですね。――俺にも分からないことですから」

 

 突き進んだ結果、一つの事実を知った。それは決して明るいものではない。寧ろこれから行く先に暗澹たるものを見せる。

 シンは手に付いた灰を払い、歩き出す。

 だが、進むしかない。答えも結末も突き進んだ先にしか用意されていないのだから。

 

 

 

 

 

 

 一方その頃の仲魔たち。

 

「ほほーう! これは! これは!」

 

 仲魔たちの姿を見て、くたびれた白衣に度の強い眼鏡をかけた小柄の男が眼鏡越しに輝かんばかりの目で観察する様に見ている。

 

「しっしっしっ。これは凄い! 凄いのだ!」

 

 白衣の男ことグリゴリの幹部の一人であるサハリエルは、ピクシーたちを見て興奮していた。

 

「何と何と! これほど希少な存在がここにやってくるとは幸運なのだ」

 

 ジロジロと眺めるサハリエルに居心地悪そうにするピクシーたち。

 

「ああ、色々と研究したいのだ。――だが、アザゼルからは君たちに指一本触れるなと言われているのだ。残念なのだ」

 

 本気で悔しがるが、次の瞬間にはその目に再び光が宿る。

 

「でも、私からはダメだけど君たちが望むならば! どうなのだ? 私の改造手術を受けてみないかな?」

 

 会って間もないというのにとんでもない提案をするサハリエル。

 

「えー。アタシ嫌ー」

 

 ピクシーは拒否する。

 

「ヒ~ホ~。ボクは今のままでいいや~」

 

 ジャックランタンも同じく拒否する。

 

「……ちなみに改造手術を受けると強くなれるホ?」

 

 ジャックフロストは少しだけ内容に興味を惹かれた。

 

「おお! やる気なのだな? 私の手術を受ければ君は絶大な力を得られるのだ。そうだね、まず初めに冷蔵庫との合体を――」

「やっぱり止めるホ」

「何故!?」

 

 初っ端の言葉に不安を感じ、あっさりと引いたジャックフロストにサハリエルはショックを受ける。

 騒しい堕天使とピクシーたち。そんな中で無関係といった態度で横になっているケルベロス。

 

「どうなのだ? 君はどうなのだ?」

 

 サハリエルが聞いてきたが、ケルベロスは露骨に無視する。少しでも会話が発生すれば面倒になると思っての行動である。

 

「いいのだ。凄いのだ。君なら一流の素材になるのだ」

 

 嬉しくも無い褒め言葉を掛けながら黙っているケルベロスに構うことなくしつこく誘う。

 

「ちょっと、ほんのちょっとでいいのだ。あれを付けたり、これを貼ったりするだけなのだ。切ったり、潰したりなんて絶対にしないのだ」

 

 それでも無視し続けるケルベロス。

 

「ああ、そうなのだ。今ならサービスでミサイルも搭載するのだ。どう? 改造手術したくなったのだ?」

 

 訳の分からない提案。彼の中でケルベロスがどんな姿になっているのか常人には想像も出来ない。

 やがてケルベロスは横になるのを止め、立ち上がる。そして、サハリエルへと近寄っていく。

 

「あ、もしかして改造手術を受ける気になった――」

「ウルサイッ!」

「のだっ!」

 

 ケルベロスの肉球の一撃がサハリエルの頬に炸裂。そのまま建物の端から端へと吹っ飛んでいく。

 グリゴリの施設内でケルベロス、キレる。

 




これにて五巻の話は終わりです。
一旦幕間の話を入れてから六巻の話に移っていきます。
次はもう少し話を上手く纏めたいです。

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