温泉での一件を終えたシンは、仲魔たちやセタンタと共にグレモリー邸へと戻って来た。ライザーも自分の領地に戻っていったが、帰り際にまだ炎の特訓が終わっていないことを告げられ、自分の領地に来る様に言われた。
「俺の方からさんざん足を運んでやってきたんだ。今度はお前からこっちに来い」
というのがライザーの言い分である。炎の扱いがまだ不十分だと思っていたシンは断ることも出来ず、後日フェニックス家へと行くことが決まった。
相変わらず大きなグレモリー邸を見て、シンは軽く頭を回す。温泉でライザーと眷属たちとかなりの量の酒を飲んでしまった。初めの方は普通に飲んでいたが、酒瓶が増える程にライザーの眷属たちから理性の箍が外れ出し、やたらと体を密着させにきたりと絡み始めてきた。
流石に不味いと思いライザーの方を見たが、ライザーもライザーで完全に出来上がっており、咎める所か囃し立てる始末であった。
何とかしなければと考えた末、全員を酔い潰してしまおうと考え、兎に角周りにひたすら酒を勧めたが、その過程でシンも大量に摂取することとなってしまった。
結果としてこの考えは辛うじて上手くいき、温泉でまともな理性を残していたのは酒を飲まなかったレイヴェルとピクシーたち。そして、飲んでも酔い潰れなかったシンとセタンタであった。
あれだけ飲んでも二日酔いが起きない体質に、自分のことではあるが少し驚く。尤も完全にアルコールが効いていないという訳では無く、今もシンは頭に重さの様なものを感じている。さっき頭を軽く回したのもこれが原因である。
グレモリー邸に入ると、執事たちやメイドたちが一斉に頭を下げてシンたちを迎え入れた。
使用人たちを代表し、グレイフィアがシンたちの前に出る。
「お疲れ様でした。お早い御帰還ですね。セタンタ、貴方もお疲れ様です」
「あくまで一時的なものです。また特訓の方は続きます」
「左様で御座いますか。リアスお嬢様、イッセー様、アーシア様、ゼノヴィア様、小猫様、朱乃様、祐斗様、ギャスパー様も今、本邸の方におられます」
「全員ですか?」
「ええ。……小猫様が倒れてしまい、治療のため本邸の方へ運ばれましたので……」
いきなりそんなことを聞かされ、シンは目を少し見開く。
「いつ運ばれたんですか?」
「昨日です。ご存知無かったのですか? ……セタンタには伝えた筈なのですが……」
グレイフィアは少し鋭くさせた目線をセタンタに向けたが、セタンタは全く意に介した様子は無く――
「聞いた話では過剰なトレーニングによる過労で倒れたというので、命に別条は無いと思って後回しにしました。こちらの特訓の方が優先なので」
――平然とそう言ってのける。反論したい気持ちもあるが、実際そんなことを聞かされて出来ることと言えば見舞い程度しかない。見舞いに行ったら行ったで、小猫が特訓の時間を割いて見舞いに来たことを知れば、逆に落ち込むのが容易に想像出来る。
腹立たしいが、セタンタの判断は間違っているとは言い切れない。
「賢明な判断ですね」
だが、感情的に割り切れる訳ではないので、少し棘を含んだ声で皮肉を言ってしまう。
「お褒め頂いて光栄です」
尤も、そんな皮肉一つでセタンタの鉄面皮を崩せる訳も無く、余裕の態度で流されてしまった。
「取り敢えず、塔城の様子を見に行っていいですか?」
「ええ、どうぞ」
これ以上言い合っても無駄なのでさっさと小猫の見舞いに行くことにし、グレイフィアから小猫が休んでいる場所を聞いて、仲魔たちを連れて行こうとする。
「――少しお待ちになっていいでしょうか?」
するとグレイフィアから声を掛けられた。
「念の為の確認ですが、そちらの方は一体どなたなのでしょうか?」
グレイフィアだけはない。この場にいる使用人たちの視線が、一斉にケルベロスの方に向けられる。
不審に思うのも無理の無い話である。出発の時には居らず、帰ってきたときに姿を現したのだから。
「特訓場所で新しく仲魔になったんです。自己紹介」
「ジコショウカイ? ナンダソレハ?」
「……名乗ればいいだけだ」
「ウオオオン、ワカッタ。オレノナハケルベロス」
ケルベロスがケルベロスと名乗ると、グレイフィアを含む使用人一同の不審な眼差しが、驚きと怪訝な眼差しに変わるのを感じた。まさか喋るとは思わなかったようである。
グレイフィアも冷静な表情を僅かに驚きで崩していたが、すぐにそれも元へと戻る。
「ケルベロスですか? 失礼ですが――」
そこから先何を言おうとしているのか容易に想像が付いたので、言う前に手を前に出してそれを制止させ、グレイフィアに近付くと小声で話し掛けた。
「それ以上は。何をおっしゃりたいのか分かっています。ですが、あいつの前で普通のケルベロスと違うのを指摘するのは控えて欲しいです。怒りますし、傷付きますので」
傷付くというのは完全に推測からのものである。怒るということは他人に何かを傷付けられたということに等しい。
「――分かりました。浅慮な行動でした。お許しください。他の使用人たちにも伝えておきます」
「ご理解ありがとうございます。基本的には大人しい奴なので」
すぐに理解を示してくれたグレイフィアに礼を言って、シンは下がる。
「出来ればこいつのことを部長たちにも紹介したいのですが……」
本来ならばリアスかリアスの両親に許可を貰うのが筋であろうが、姿が見えないので屋敷の管理の統轄であるグレイフィアに一応の伺いを立てる。
グレイフィアは少し考える素振りを見せた。いくらリアスの客人とはいえ、それが突然連れて来た未知の存在に対して簡単に『はい』とは言えないのも無理は無い。
「私も同行しますので」
そこにセタンタが口添えする。
「――それならば恐らく問題はないですね。分かりました。その方を新たな客人とさせて頂きます。万が一リアスお嬢様たちと問題が起こったのならば、私の名前を出して下さい。事情を説明しに行きますので」
グレイフィアが恭しくお辞儀をすると、他の使用人たちも同じくお辞儀をした。ケルベロスを迎え入れるという意味を込めた。
「グルルル……ナゼコノ悪魔タチハオレタチ二頭ヲサゲテイルンダ? 丸カジリ二シテクレトイウコトカ?」
人語を理解し喋られるが、野生育ちであることで常識が欠けているせいでグレイフィアたちの行動に素っ頓狂な反応を示す。折角、基本的に無害であることを告げたのに台無しである。
「……そういう意味じゃない。お前を歓迎するってことだ」
「歓迎? ドウイウイウ意味ダ?」
「ここで自由に過ごしてくれということだ」
「ツマリナワバリノ中ノ様二シテイイイウ訳カ? 力尽クデウバワナクテモイイノカ?」
「ああ」
「ソウカ……ジャア寝ル」
「――ん?」
何を言い出したのか一瞬分からなかったシンであったが、そんな彼を無視してケルベロスはその場で身を丸くする。
「おい、ちょっと待て」
「ココハナワバリト一緒ダト言ッタ……オレガナワバリデスルコトハ……眠ルコト……グルル……」
「場所を選べ。場所を」
寝息を立て始めるケルベロス。いきなり玄関ホールのど真ん中で眠り始めたので揺さぶって起こそうとするが、まったく起きる気配が無い。
突然寝始めたケルベロスの大胆で自由過ぎる行動に、グレイフィアを含めた使用人たちは明らかに戸惑っていた。
「起きろ。せめて部屋の中で寝ろ」
更に激しく揺さぶるが効果は無い。軽く拳を握って頭を叩くがこれも効果無し。さっきよりも拳を強く握り、額を強めに叩いてみるが起きる気配が全く無い。
周りにいる使用人たちの『どうするの?』という視線が痛い。
「こいつ……」
ならば全力で叩き起こそうとしたとき、グレイフィアから声を掛けられる。
「今日は特にお客様もお見えになりませんので、そう無理に起こさなくても大丈夫だと思われます」
「ですが……」
「ここは私が見ているので、貴方は小猫の様子を見に行って下さい」
渋るシンにセタンタがケルベロスのことは任せる様に言ってくる。
「……」
それを聞いても快諾しないシンであったが、シンよりも先にピクシーたちが行動に移っていた。
「アタシは先に行くねー」
「オイラも小猫ちゃんのことが心配だホー!」
「じゃあボクも~」
シンを置いてさっさと行ってしまう仲魔たち。あの三人を放っておくわけにもいかず、後ろ髪を引かれる思いであったが、ケルベロスのことをセタンタたちに任せることにした。
「すぐに戻ってきます」
「そう急がなくてもいいですよ。きちんと見ているので」
ピクシーたちの後を追って、シンは小猫が休んでいる客室へと向かう。
「……別に無理をしてあんな態度をとらなくても良かったのではありませんか?」
「何のことです?」
シンが居なくなったのを見て、グレイフィアは声を潜めてセタンタへ話し掛けた。
「小猫様のことです。全く心配していない様に言っていましたが、私が貴方に連絡した後、何度もこちらに小猫様の様子を確認する連絡を入れていましたよね?」
「……ああ、そのことですか。さっき言った言葉に嘘はありません。彼の特訓を妨げるものは少しでも無くしたかったのは事実です」
「貴方の悪い癖ですよ、それは。目的の為に自分を押し殺したり、泥を被ろうとしているのは。サーゼクス様も何度も苦言を呈しているというのに……」
呆れる様な、それでいてセタンタのことを心配している様なグレイフィアの言葉に、セタンタは視線を伏せながら目を細める。顔半分を隠している為、どんな表情を浮かべているのか普通のヒトには分からないが、付き合いが長いグレイフィアはセタンタが苦笑を浮かべているのがすぐに分かった。
「生まれ持ったものか、あるいは失って新たに芽生えたものかは分かりませんが、この性は中々変えることは出来ません」
「私としても変えて欲しいとは思っていますが、一筋縄ではいかないとは分かっています。――ですが、だからこそあのヒトも私もあの子も貴方を信頼しているのでしょうね」
「……身に余ることだ。何も無い俺にとっては」
ほんの少しだけ素の顔を見せると、セタンタは眠っているケルベロスの側に立ちその寝顔を見ながら、グレモリー家〈ここ〉に来た時から今に至るまでの記憶をぼんやりと思い返す。
(記憶〈かこ〉も無く噛み付くぐらいしか能の無かった野良犬がいつの間にか家を護る番犬か……出来過ぎなぐらいの人生だ)
自分にとっての最大の不幸が記憶を失ったことだとすれば、最大の幸運は最初に出会ったのがグレモリーであったことである。
あの出会いが無ければ今の自分はここに居ない。
(こいつとあいつの出会いが、俺とグレモリー家との出会いと同じものであることを願おう)
暢気に眠っているケルベロスの顔を見ながら、セタンタはそんなことを考えていた。
◇
シンが小猫の部屋へ行くと、扉の前で木場とギャスパーが心配そうに扉の向こうを見詰めていた。
木場は向けられている視線に気付くとシンたちの方を見て、微笑を浮かべる。しかし、その笑みには曇りが感じられた。
「やあ、久し振り」
「あ、間薙先輩!」
木場の挨拶でギャスパーもシンたちの存在に気付く。
「ランタンくーん! 会いたかったよー!」
ギャスパーがジャックランタンに駆け寄り、力強く抱き締める。
「ギャスパ~。特訓の間はボクとこうするのは駄目なんじゃないの~?」
「ちょっとだけ! ちょっとだけだから!」
ジャックランタンの顔を半泣きで頬擦りをするギャスパー。全く変わらない所か、前よりも酷くなっているギャスパーにジャックランタンは呆れていた。
「君も小猫ちゃんのことを聞いて戻って来たんだね?」
「――ああ、まあ、そうだな」
小猫が倒れたのをほんの十数分前に知ったのだが、グレモリー邸に戻って来た理由は違えど、小猫の様子を見に来たのは間違いなく倒れたのを知ったのが理由であるので、大まかに考えれば似た様なもの――という詭弁を心の中でしながら、少々歯切れの悪い言葉で肯定する。
「部長たちは?」
「リアス部長と朱乃さん、アーシアさんは部屋の中で小猫ちゃんの様子を見ているよ」
「ゼノヴィアはどうした?」
「彼女は、小猫ちゃんの状態を見た後に『私がここにいても何もしてやれない』って言って特訓に戻っていったよ。万が一の為に小猫ちゃんの穴を埋められる様に力を付けておくのが、彼女なりの気遣いなのかもしれないね」
不器用と呼べるゼノヴィアの振る舞いに木場は苦笑を浮かべた。
「あいつはどうしたんだ? 姿が見えないが……」
「イッセー君かい? 今頃はヴェネラナ様からダンスのレッスンを受けている筈だよ」
「なぜ、ダンス?」
思わず聞き返してしまう。
「上級悪魔の眷属である以上、他の上級悪魔たちとの交流は避けられないからね。悪魔の社交界に出るには最低限の作法や振る舞い方を身に付けないといけないんだ」
「それでダンスなのか……」
「因みに僕も一通り学んでいるよ。ギャスパー君も吸血鬼の名家出身だから作法もきちんと覚えているし」
「そうなのか?」
相変わらずジャックランタンを抱き締めているギャスパーの姿からは想像出来ない。
「一つ聞きたいんだけどいいかな?」
「何だ?」
「間薙君って……踊れる?」
「俺もやらないといけないのか?」
協力者という立場であったシンはリアスの眷属ではない。ましてやダンスなど自分とは程遠い存在と思っていたので、木場の言葉に意表を突かれた気分であった。
「ほら、レーティングゲームの前に魔王主催のパーティーがあるじゃないか。あの時の為に最低限のマナーは覚えないといけないから」
「拒否権は?」
「多分、無いと思うよ……?」
命懸けの特訓が一先ず終わったかと思えば、次は気が進まないダンスの特訓である。
流石のシンもいつもの無表情が少し剥がれ、僅かに顔を顰めた。木場はシンの心情を察してか苦笑いをしている。
「……塔城の様子を見てもいいか?」
取り敢えず嫌なことは置いといて先にするべきことをする。
「ああ、多分大丈夫だと思うよ」
木場は部屋をノックする。
「部長、間薙君が来ました」
『そう。入ってもらって』
部屋の中から入室を許可するリアスの声。
「どうぞ」
「ああ」
シンは、失礼しますと言って扉を開けた。
広々とした部屋の隅の置かれたベッドの上に横たわる小猫。その周りにはリアスたちが心配そうに見守っている。
「元気そうで良かったわ、シン」
「少し見ない間に、ちょっと逞しくなりましたね」
「間薙さん、お元気そうでなによりです!」
三人が口々に何日かぶりに顔を合わせたことを喜ぶ。シンは軽く会釈をして簡単にそれに応えると、横たわっている小猫の側に寄る。
目を閉じ、小さな寝息を立てながら一定の間隔で上下する胸。外傷なども無く大事に至ってないことが分かる。
ただ見た目の『ある一点』を除いて。
「無事――なんですよね?」
小猫の顔を見ていたシンの目線が徐々に上へと向けられていき、小猫の頭頂部で固定される。
人間ならば備わっていなければおかしいが、そこに備わっているのはおかしいもの。
頭髪の色と同じ体毛で覆われた三角系の耳。俗にいう猫耳というものが小猫の頭頂部から生えていた。
「体力を使い過ぎていて、もうこれを隠す程の力も無いのよ」
リアスが小猫の耳を撫でる。すると小猫の耳は僅かに震えた。
「いつかこの子のことは貴方やイッセーにも聞かせるつもりだったけど、まさかこのタイミングで教えることになるなんてね」
リアスが微笑むが、その笑みには疲れが見えた。
「小猫はね、猫又と呼ばれる妖怪。その中でも最も強い力を持っていると言われた種族、猫魈の数少ない生き残りなの」
リアスはシンに、小猫が妖怪から悪魔へと転生するに至った経緯を話し始める。
小猫には一人の姉がいた。その姉はとある悪魔に実力を見初められ眷属となった。姉が悪魔の眷属になったことで妹である小猫もその庇護を得ることができ、親とは死別していた為根無し草と呼べる貧しい生活から人並の生活を送れる様になった。
転生悪魔となった小猫の姉は、急速な勢いで実力を高めていく。しかし、その速度があまりに異常であった。
猫又が操る妖術は勿論こと、猫魈という希少な存在だからこそ可能である仙人以外での仙術の発動。
これにより小猫の姉は、主である悪魔を超える力を得てしまったのだ。
その結果として起こったのが、姉による主への反逆であった。
『はぐれ』と化した姉は、そのまま追っ手を逃れて姿を消してしまった。
残されたのは、事情を全く知らない小猫一人。
周囲の悪魔は小猫の処分を検討した。未熟であった小猫への冷酷な仕打ち。姉と同じ素質を持つかもしれないと危惧していたのだ。
そこに手を差し伸べたのが、サーゼクスである。他の悪魔の面々を説得し、監視という形へと収束させたのだ。
サーゼクスは小猫を年の近かったリアスへと預け、リアスは傷心していた小猫を慈しみ、彼女に今の名前である『小猫』という名を送ったのだという。
「懐かしい話ですね」
言い終えたリアスの後に、朱乃はポツリと呟く。既に朱乃もその頃からリアスの眷属であった為、一緒になって小猫の心を癒していた。
「小猫、さんに、そんな、ことが、あった、なんて」
アーシアは小猫の過去を聞いて滂沱の涙を流している。
「アーシア、涙、涙」
顔を涙でびしょ濡れにさせているのを見兼ねて、ピクシーがアーシアにハンカチを手渡す。
「あり、がとう、ございます、ピクシーさん」
しゃくり上げながら手渡されたハンカチで涙を拭う。ちなみにこのハンカチ、ピクシーが勝手に取り出したシンのハンカチである。
「――という訳よ、シン」
「そうなんですか」
落涙するアーシアとは逆にシンは一切表情が変わらない。別に小猫に同情していない訳では無い。ただ表に出していないだけである。しかし、激しく感情を露わにしているアーシアがいるせいもあって尚更薄情に見えた。
「……貴方が冷たい人だとは全く思っていないわ。でも、アーシア程とは言わないけどもう少し反応を見せてくれると私としては安心なんだけど……」
「私の時もそんな反応でしたわねー」
反応の薄いシンにやれやれといった態度を見せるリアスと朱乃。
少し居た堪れない空気となった時、コンコンと扉をノックする音が聞こえてくる。
「イッセー君が来ました」
部屋の外にいる木場が一誠の来訪を告げる。
それを聞いてリアスは扉へと近付き、アーシアも少し遅れてリアスの後を追う。
「入ってらっしゃい」
「失礼します。あっ、部長」
一誠が部屋に入ってきた瞬間、扉の前に待機していたリアスは出会い頭に一誠を抱きしめた。
「会いたかったわ、イッセー」
一誠の温もりを全身で感じ取るリアス。
「私も会いたかったです! イッセーさん!」
アーシアも遅れて一誠に抱き着く。前はリアスがいるので、背後から抱き締めていた。
「アーシアも元気そうで良かった」
別れる前と変わらないアーシアを見て、一誠は安堵の表情を浮かべた。
「もう……二人ともずるいですわ」
出遅れた朱乃が少し悔しそうに呟く声がシンの耳に入ってきた。内心ではリアスたちと同じ事がしたかったらしい。
少しの間、二人の女性は一誠を抱き締めていたが、小猫の部屋ということもあって名残惜しみながらも二人は一誠から離れる。
「お前たちも来てたんだな」
「ああ」
「やっほー」
「ヒーホー!」
シンたちの存在にも気付いて声を掛けてきたので返事をする。ピクシーたちは軽く手を振っていた。
一誠は横たわる小猫の様子を見に来て、小猫の変化に目を丸くする。
「イッセー君、これは――」
「大丈夫です。だいたいのことは部長のお母、じゃなくてヴェネラナ様から聞いています」
事前に小猫の事情を聞かされていたらしい。目を丸くしたのは実際に目の当たりにしたことによるものなのであろう。
一誠は寝ている小猫の様子を窺う。上から下へと滑らせる目線。怪我が無いか確認しているようであった。
「ううーん……」
すると小猫が小さく唸り、微かに瞼が震える。目を覚ます前兆である。
「私たちは小猫と既に話を済ませているから外に出ているわね。貴方たちも何か小猫と話すことがあるなら話し掛けてあげて」
そう言うとリアスはアーシアと朱乃を連れて部屋の外に出る。
その直後、小猫の目がうっすらと開く。暫くその状態であったが、やがてシンたちの姿が目に入ったのか目は完全に開いて、ベッドから上体を起こした。
「やあ、体は大丈夫?」
最初に声を掛けたのは、一誠であった。相手を気遣う様に笑顔を見せていたが、それに対する小猫の反応は非常に悪いものであった。
「……何をしに来たんですか? 先輩たちは」
目を半眼にして不機嫌そうに言う小猫。明らかに様子を見に来られたことを歓迎していない。
「心配だったから様子を見に来た、っていうのが俺や間薙たちが来た理由じゃダメかな」
素っ気ない態度を取られても一誠は態度を崩さず、優しい口調を続ける。
「小猫ちゃんの話は聞かせてもらったよ。色々とね」
「……あっ」
そこで小猫ははっとした様に頭に手を伸ばし、隠していた猫耳があることに気付いた。と同時に自分がここまで弱っていたことを思い知らされたのか、不機嫌な表情が一変し悲愴を感じさせるものへ変わる。
「自分でも分かっているとは思うけど倒れる程のオーバーワークはダメだ。体や命は大事にしなきゃ……そう、本当に命は大事にしなきゃ。一個しかない命なんだから……ホントに、ホントに……命はいくつあっても足りないって言葉があるけど、一つの命を限界まですり減らしてから治して再使用するのはやっぱ何か違うというか……無理なものは無理で、本当にそれ以上は勘弁して下さいというか……」
後半の方になると小猫に向けてというよりもここには居ない誰かへの言葉となっている。余程恐ろしい目に遭っているのか喋りながら蒼褪め、冷や汗を流していた。
「……それでも……なりたい」
小さく呟かれた小猫の言葉。聞き取れない程小さなものであったが、ベッドの上に落ちた涙の跡を見れば、何が言いたいのか容易に想像出来た。
「私は強くなりたいんです。もっと、もっと。祐斗先輩やゼノヴィア先輩、朱乃さん……イッセー先輩や間薙先輩の様に心と体を強くしていきたいんです。……私には『戦車』としての力しかありません。ギャーくんの様に時間停止の力もアーシア先輩の様に回復の力もありません……私だけが置いてかれているんです……私だけが変わらないまま弱い……このままじゃ、リアス部長のお役に立てなくなる……」
普段無口な小猫からは想像出来ない程の饒舌。内にあったものを全て吐き出している印象であった。
「小猫ちゃん……」
「でも、私に眠る力を……使いたくない……」
強くなる可能性は秘めている。だが小猫自身がその力に怯えていた。姉がその力で悪魔を殺したという事実が、小猫の心にトラウマとなって深く根付いている。
「使えば私は……姉さまの様に……もう嫌です……あんなのは嫌……もし私の力のせいでリアス部長たちを傷付けることになったら……」
泣き続ける小猫。すると今まで黙っていたシンが無言で小猫の側に近付き、手を伸ばす。
「……間薙先輩?」
伸ばされた手は涙が伝う頬に触れ、そのまま涙を拭う――
「いひゃい! いひゃい! いひゃいです! せんひゃい!」
――のではなくいきなり抓り上げた。
「随分と上からものを言ってくれるな、塔城」
ギリギリと頬を抓られて別の意味で涙を流し始める小猫。反射的にシンの手を引き剥がそうとするが、びくともせず逆に抓る力が増していく。
「お、おい! いきなり何してんだ!」
シンの蛮行に一誠は驚き、咎めるが、シンはそんな一誠を睨み付ける。『黙っていろ』と言わんばかりに。
「そもそも最初の態度から何だ。思い通りにいかなかった不満や鬱憤を八つ当たりで人に向けた態度は。『何をしに来たんですか』だと? お前の見舞い以外の理由があるか。お前は仲間が倒れても様子一つ見に来ない薄情な連中だと思っているのか? 第一そうなった原因はお前が無理したからだろうが。もっと自分の立場を理解しろ。お前一人が動けなくなったら、他のメンバーもこういう風に動くことを」
淡々と語りながら徐々に小猫の頬を抓り引っ張っていく。
「それと自分の力のせいで周りを傷付けるかもしれないと言ったな。はっきり言って大きなお世話だ。俺も部長たちもこの馬鹿もお前の力なんかでどうにかなるかと思っているのか? 満足に使った事が無い癖に大した自信だな」
「この馬鹿っ!?」
いきなりの暴言に一誠が反応する。そんな一誠の反応は無視して、シンは反対の頬にも手を伸ばし同じ様に抓り上げる。
「いひゃい! いひゃい! ごめんなひゃい! ごめんなひゃい!」
つい謝ってしまう小猫。今のシンには何故かそう言わせる迫力があった。
「まあ、お前の言った通り、そんな迷いのある状態じゃあその力も満足に使い熟せないだろうがな。ある意味で賢明な判断だと言える。ところで――」
そこでシンは小猫の目を真っ直ぐ見た。
「ライザーとのレーティングゲームの時、俺を助ける為に、お前猫又の力を使っただろう?」
熱波剣の扱いがまだ不慣れであったとき、発動までの時間を稼ぐために小猫が単身でライザーの『女王』ユーベルーナへと挑んだ。その時、小猫がした何かでユーベルーナが不自然な動きをしたのをシンは覚えていた。
「……ふぁ、ふぁれは……とっひゃのことだったのへ……」
「お前があの時に何を考えて力を使ったのかは分からないが、俺はお前があの時にその力を使ってくれたお陰でライザーの『女王』に勝てた」
シンの言葉に小猫の瞳が動揺して揺れる。
「お前の力は、お前が思っているよりも悪いものじゃない。――少なくとも俺にとっては、な」
小猫の猫又としての力を肯定する言葉。
シンが言った様に小猫はライザーの『女王』へ確かに猫又の力を使った。それはシンに助けられた恩を返すことだけを考え、夢中になって意図せずに使ってしまった力であった。試合の後は人知れず自己嫌悪に陥ったが。
小猫にとって猫又の力は使えば孤独になるものという認識であった。否定したくても消せない力。しかし、今、目の前のシンにそれを肯定された。
「……れも、わたひは……にゃっ!」
それでも頑なに力を受け入れることを拒もうとする小猫の言葉は、シンが引っ張っていた指を勢い良く離したことで中断される。
「うう……」
涙目になって赤くなった両頬を擦る小猫。シンはもう話すことはないと言わんばかりに背を向けた。
「おい!」
部屋から去ろうとしているシンの肩に手を置き、一誠が引き留める。
「お前の言いたいことは分かるけど、やっぱ言い方ってやつがあるだろうが……」
「そうだな。厳しい言葉を言った分、お前が優しい言葉を掛けてやれ」
そこで一誠は理解する。わざとシンが憎まれ役をやったことに。
きっと誰もが小猫を気遣う言葉を掛けたであろう。事実、一誠もその一人であった。慰められれば慰められた分だけ、小猫は負い目と情けなさを溜め込み、内にある心の傷を膿ませていく。シンは敢えて踏み込み、その傷を抉ることで膿んでいく部分を切り取ろうとしていた。
シンの、普段しない様な行動に納得する。それと同時に、モヤモヤとした気持ちが生まれて来る。
「だーもう! お前はいちいちカッコつけすぎなんだよ!」
一誠は内にある感情に任せ、自分から進んで損な役を引き受けたシンを咎める様な、それでいて称賛する様な言葉を掛けると置いていた手を離す。
シンは一誠の言葉に応えず、代わりに後ろに向かってひらひらと手を振りながら部屋の扉を開けた。
部屋から出るとリアスたちが何とも言い難い表情をしながら立っていた。少なくとも部屋でどんなやり取りがあったのかは、扉越しでも分かっている筈である。
シンと比べればリアス、朱乃、木場と小猫の付き合いは長い。心身共に弱っている小猫に追い打ちを掛けたと言っていいシンの所業に対して、怒りを抱いていてもおかしくはなかった。
暫しの間、リアスたちとシンは無言で互いを見る。
その間、アーシアとギャスパーはオロオロとした態度で両者を眺めていた。
沈黙を破ったのはシンからであった。
「特訓の方に戻ります」
言い訳も何もせず、それだけ告げるとリアスたちの横を通り抜けようとする。
「――分かっていたことだったのだけれどね」
通り抜けようとした寸前、リアスが呟いたのが聞こえシンは足を止め、リアスの方を見る。リアスの表情には後悔の色が浮かんでいた。
「あの子は焦っていた。後から来たイッセーや貴方が力を付けていったことに。周りに置いていかれると思って、どんどん自分を追い込み始めていたことに気付いていた。気付いていた筈だったのに……」
額に手を当て、強く目を閉じ、苦悶を見せる。
「もっと小猫とちゃんと向き合っていれば、こんなことにはならなかった……あの子の苦しみを和らげることが私には出来た筈なのに出来なかった……」
小猫を思いやる故にその心に深く踏み込むことが出来ず、結果自身を追い込む状況を作ってしまった。
リアスの脳裏に特訓を始める前のマダの言葉が蘇る。
『優しくすれば万事上手くいくなんて思っていないだろうな? お嬢ちゃん。その情愛の深さは素直に感心するが、あんまり度が過ぎると相手を腐らせることになるぞ』
あの時は怒りを覚えたマダの言葉は、今のリアスには絶対零度の刃となって心に深く刺さる。マダの指摘した通りの結果となってしまった。
「本来ならば、あれは私の役目だったわ。それなのに結局貴方に投げてしまった……私は『主』として……やっぱり『甘い』のかもしれないわね……」
嫌われる様な役を人に押し付ける様な結果になってしまい自己嫌悪の言葉を零すリアス。
「誰に何を言われてそんなこと思ったのかは知りませんが、それがどうしたって言うんですか?」
「え?」
「俺が勝手にしたことに一々責任なんて感じる必要は無いです。俺にしか出来なかったことだと自惚れるつもりもないです。偶々ですよ、偶々。そういう役割が色々あって俺に巡って来ただけの話です」
いつもの様に素っ気ない口調だが、言葉の端々に気遣いが感じられた。
「貴女の言う甘さ――俺は嫌いじゃないです」
そこまで言うとシンは頭を軽く下げ、用があるのでという理由で足早に立ち去っていく。その後をピクシーやジャックフロストが追い掛けていく。
「じゃあ、皆が行くみたいだから僕も行くね~」
「あっ……うん」
ギャスパーの手から離れるジャックランタン。少し躊躇するギャスパーであったが、引き留めることはしなかった。
「またね~。ヒ~ホ~」
最後にそう言い残してシンたちの後を追う。
「私も気を遣われちゃったわね」
「間薙君もイッセー君と同じ様に優しい人ですからね。だけど危ういとも思います。小猫ちゃんのことも、嫌われるのや他の反感を覚悟して敢えて踏み込んで接した様に感じられました」
良くも悪くも、傷付けることも傷付けられることにも躊躇いが無いシンの在り方に、一抹の不安を感じてしまう。
「で、でも私たちは間薙さんのことを嫌いになっていませんよね!」
もしかしたら小猫のことでリアスや朱乃がシンのことを嫌ってしまうのではないかと思い、確認するアーシア。
一誠は強く意識している異性ならば、シンのことは頼れる異性として認識しており、木場と同様に兄の様に慕っている。
同じく姉の様に接しているリアスや朱乃とシンとの間に亀裂が生じることを恐れていた。
「大丈夫よ、アーシア。シンのことは理解しているつもりだから。きっと小猫もシンが自分のことを思って厳しく接したことを理解しているわ。誰もあの子を嫌っていないわ」
安心させる様にリアスはアーシアの頭を優しく撫でる。
「宿っている力の詳細が未だに分からないのに、間薙君は私や小猫ちゃんと違って躊躇わずに先へ進んで行きますね……」
堕天使の血を宿し、それを嫌悪する朱乃にとって、それは眩しく見えた。
◇
(柄にも無いことをしたな……)
ケルベロスの件で早々に部屋から去ったシンは、玄関に向かいながらそんなことを考えていた。
彼は後悔していた。小猫やリアスにあんなことを言ったのを。
何故なら――
「お前の力は、お前が思っているよりも悪いものじゃない。――少なくとも俺にとっては、なヒホ」
「きゃはははははは! 似てる似てるー!」
――シンの直ぐ側で先程あったことを仲魔たちが物真似し始めたからだ。
「へ~。中ではそんなことがあったの~。僕も見たかったな~」
「貴女の言う甘さ――俺は嫌いじゃないですホ」
「きゃははははははははは! もう一回! もう一回!」
普段はあまり口数が多くないシンが良く喋っていたことや感情的になっていたことがよっぽど珍しかったのかしつこく真似をし、ピクシーはツボにはまったのか飛びながら腹を抱えて笑っている。
止めろと言いたくなるが、言ったところでますます調子に乗るのは目に見えていた。だからこそ敢えて沈黙を続ける。
シンが黙っている間、延々と物真似を繰り返す仲魔たち。
一秒でも早く玄関へと辿り着くことを考えていたシンは、前方からグレイフィアが向かって来ていることに気付く。
シンが足を止めると、グレイフィアも足を止める。
「もう小猫様のお見舞いはよろしいのですか?」
「ええ」
「そうですか。では申し訳ありませんが私についてきてもらってもよろしいでしょうか?」
シンに用があるらしい。
「何か御用でも?」
「私ではなく奥方様が――」
「すみません。玄関の方に置いてきたケルベロスのことが気になるもので」
そこから先は聞かずに理由をつけて去ろうとし、グレイフィアの横を通り過ぎる。
「――玄関にいるケルベロス様のことはご安心下さい。セタンタがきちんと寝所まで運んでくれたので」
通り過ぎた筈なのに、いつの間にかグレイフィアはシンの正面に立っている。
「間薙様には一誠様と同じく色々と『作法』を覚えてもらわないと奥方様から御達しを受けているので」
木場の言葉が脳裏に浮かぶ。シンにとっては更に柄では無いことをしなければならなくなる。
「因みに拒否権はあるんでしょうか?」
「奥方様にご確認して下さい。私の役目は奥方様の所へご案内することだけなので」
「……そうですか」
もう逃れることは出来ないと悟り、腹を括ると同時にヴェネラナの元へ向かう前にしなければならないことがある。
「行く前にこいつらを何処かに預けていいでしょうか?」
「ええー。アタシたちもついてきたいー」
「ダメだ」
同行したがるピクシーに即答で却下する。踊りを練習する姿など見られたとなれば、どんな反応をするか分かったものではない。
「ちぇー」
頬を膨らまして不満を露わにするピクシーであったが、それ以上は粘ることなかった。
「預けるとなると何処に――」
「あれ? どうしたんですか?」
声を掛けてきたのはミリキャスであった。
「ミリキャス――様。お勉強の方はよろしいのですか?」
「はい。さっき終わったので部屋に戻ろうとしていた所です。間薙さん達はここで何を?」
シンたちが立ち話をしている姿に思わず声を掛けたらしい。確かに広い通路の真ん中で話していれば気になるのも無理は無い。
「実は――」
「あっ。そうだ。ねえ、ミリキャスの部屋に遊びに行っていい?」
事情を説明する前にピクシーが割って入る。
「僕の部屋にですか?」
「アタシたちさー、シンにどっか行けって言われて行く場所が無いのー」
「そうだホ。オイラたち、この広い屋敷の中で捨てられたんだホ!」
「み~な~し~ご~」
「えっ!」
「冗談ですから」
ピクシーたちの嘘を真に受けてシンを凝視するミリキャスに手を振って嘘であることを告げた後、先程までの会話の内容を軽く説明する。
「そういうことですか。えーと……」
このときミリキャスは横目でグレイフィアの顔を窺っていた。
「勉強以外の時間はミリキャス様の自由なので」
視線に気付いたグレイフィアがそう言うとミリキャスは顔を輝かせて、ピクシーたちを手招きする。
「いいですよ。僕の部屋で良かったなら」
「わーい」
「お邪魔するホー!」
「よろしくね~」
「じゃあ、行きましょう!」
年齢以上にしっかりした印象を受けるミリキャスもこのときは年相応に無邪気に声を弾ませ、ピクシーたちを連れて部屋へと案内していった。
「――では私たちも行きましょうか」
「はい」
ミリキャスたちの後ろ姿を見送った後にシンたちもヴェネラナの元へ移動する。
その道中で――
「今更ですけどピクシーたちと遊ばせて良かったんですか。――変な影響を与えるかもしれませんよ」
「御自分の御仲魔をその様に言ってはいけませんよ。それにミリキャス様はしっかりとしているので」
「親として信頼しているということですか」
「はい。そう――」
グレイフィアはその場で振り返りシンを見る。冷静な表情が剥げ、驚きで目が少し見開いていた。
「誰にそれを聞きました?」
「見てれば分かるものじゃないですか? 顔や雰囲気がグレイフィアさんに良く似ていたので。――それとも間違っていました?」
「……いえ、間違ってはいません」
「それとも口に出すのは拙かったですか?」
あくまで主と従者として振る舞っていたことから、公言するのは間違っていたかと思うシンだったが、グレイフィアは首を横に振った。
「いえ。ただ公の場では私はサーゼクス様の眷属であり、グレモリー家に仕える者。公私混同で振る舞う訳にはいかないので」
普通に考えれば魔王の妻という高い地位にいるにも関わらず、敢えてグレモリー家の従者として生きるグレイフィア。あまり接する機会が無かったので、少しだがどんな性格であるかを知ることが出来た。
「でないと――」
少し言い淀む。グレイフィアに透き通る白い頬が少しだけ朱に染まった。
「私はあの子を甘やかし過ぎてしまうので……」
グレイフィアの母親として顔を垣間見た気がした。
「それにしても……そうですか……あの子は私に似ていますか」
微笑むグレイフィア。慈愛に満ちたその顔は、色艶以上に人の目を惹きつける強い輝きが放たれている。シンは全く似ていないとは分かっているものの、その微笑みに母の顔が重なって見えた。
「――いけませんね。これ以上話をして奥方様を待たせる訳にはいきません。そろそろ向かいましょう」
グレイフィアは懐中時計を取り出し時間を確認すると、話を切り上げる。
「分かりました」
「では今度こそ行きましょう。間薙様」
◇
シンたちがグレモリー邸に戻った翌日。アザゼルは一誠を再び修業場へ連れて行く為にグレモリー本邸へ訪れていた。
大きな扉の前には立つとその脇にいる番兵に扉を開けるように頼むが、何故か反応が悪い。堕天使であるアザゼルの言うことを聞くのを嫌がっているというよりも開けていいのか悩んでいるように見えた。
開ける様に催促するアザゼルに番兵は――
「驚かないで下さいね」
――とだけ言って扉を開ける準備を始める。
事情が分からないのでその言葉に困惑するしかないアザゼル。その間に扉は開き、アザゼルは訝しんだまま本邸の玄関へと入ると。
「うおっ! びっくりした!」
玄関のど真ん中で横たわって寝ている魔物に驚き、声を上げてしまう。
アザゼルも初めて見る姿の魔物に最初は驚いたものの次第にそれは好奇心へと変わっていった。
「何だこいつは? おーい」
恐れることなく魔物に近付き、寝ているそれの頭を軽く叩く。だが、魔物は目を覚ます様子は無い。
「聞こえているかー?」
もう一度同じことをする。すると魔物は片目だけを開いてアザゼルを見た。
「……ナンダ」
「おっ。喋るのか、お前」
言葉を理解し、話せる魔物にアザゼルは再度驚く。
「誰なんだ、お前は? グレモリーのペットなのか? 何度かここに出入りしているがお前の顔を見るのは初めてだな」
「グルル……オレハ……ペットデハナイ……シンノ仲魔ダ……」
「シンの仲魔? いつの間に……」
魔物はそれ以上応答する気は無いといった態度で目を瞑り、寝息を立て始める。
丁度そのタイミングでパタパタと足音が聞こえてきた。
「アザゼル先生! おはよ――うおっ! びっくりした!」
十数秒前のアザゼルと全く同じ反応を示しながら一誠が現れる。
「何ですかこれは?」
「シンの仲魔らしいぞ」
「こいつも!」
今までどちらかと言えば可愛い容姿をしていたものを仲魔としていたが、目の前の獅子と狼を掛け合わせた様な魔物も仲魔と言われ、改めて驚く。
「またここにいたのですか」
「どこに行ったかと思えば……」
呆れた声を出しながら姿を見せたのはセタンタであった。その隣にはシンの姿もある。
朝早く起きたせいかシンはいつも以上の仏頂面をしている。シンの肩にはピクシーが二つ折りになって眠っており、その足元では枕を引き摺ったジャックフロストが半目になってくっついていた。
「何処でどういう理由で拾ってきたのかは知らんが、仲魔なら責任持って見とけよ」
「すみません。昨日の時点では俺の部屋で眠っていた筈なんですが……朝、気付いたらここに……」
周りに人が集まっているのに相変わらず寝息を立てているケルベロス。その姿に一同呆れる。
「仕方のない子だ」
セタンタはそう言ってケルベロスの腹の下に手を差し込むと、その細腕からは想像出来ない程の力で軽々とケルベロスを持ち上げ、肩に担ぐ。
「間薙様。このまま部屋に運びます」
「ありがとうございます」
「あ、ちょっと待ってくれ」
去ろうとするシンたちをアザゼルが呼び止めた。
「ちょっとの間、そいつを貸してくれるか?」
視線を下ろしたアザゼル。その先には寝ぼけ眼のジャックフロストが今にも崩れ落ちそうな勢いで船を漕いでいた。
◇
一誠の帰宅に合わせて領土に戻っていたタンニーンは、日が昇り始めると同時に修業場である山へと戻っていた。
そこで一誠たちが戻って来るのを座って待つ。
日が大分高くなり魔力による月の輝きが失せ始めた頃、一誠たちは山へと現れる。
「戻ってきたか――むっ」
帰っていった時には居なかった人物を連れてきたのが見え、タンニーンの表情が僅かに強張る。それは招かざる客と思っているからではない彼の心情を知れば誰もが驚き、言葉を失うであろう。
「ヒホ! また会ったホー!」
無邪気な挨拶をする小さな雪精。それを前にして、龍王という座にかつて名を連ねていたタンニーンが少し緊張しているなど、誰にも想像出来ないだろう。
「……そうか。連れてきてくれたのだな。アザゼル。感謝する」
「そんな大層なことはしてねぇよ」
願い通りにジャックフロストを連れて来てくれたことに感謝の意を示すが、アザゼルは謙遜する様にそれを軽く流した。
「で? 早速何か話すのか?」
「――いや。先に赤龍帝の小僧の修行をする。話はそれが終わった後でも構わないか」
「ああ、大丈夫だ。こいつの主――というか仲魔からは、今日一日こいつを預かるって言ってあるからな。迎えに来るのは明日だ」
「仲魔? 変わった表現をするのだな。――まあいい。早速、修行を始めるとするか。……ところでマダはどうした?」
「あいつのことだからどっかで酒を飲んで寝ているんじゃないのか?」
「ここにいるぞー」
いつの間にか岩の上で肘を突いて横になりながら酒を飲んでいるマダ。相変わらずの神出鬼没である。
「あの小僧んところのちっこい雪精も連れて来たのか? どういうこった?」
「大した理由じゃねぇよ。それよりグレモリー邸に戻らずに何していたんだ、お前?」
「適当な街に行って適当に酒や女を楽しんでただけだ。聞きたいかぁ? 俺の五十人斬りの話を」
「独りで喋ってろ」
「つまんねぇの。なら、イッセー。お前が聞くか?」
「えーと……俺はそれよりも修行の方がしたいです」
一誠が好みそうな話を振ったにも関わらず、修行を優先したいと返されたことにマダは軽く驚く。
「一日そこらでどういった心境の変化だぁ? ベソかいて死にそうな顔でいっつも逃げ回っていたのに」
「これが今の俺にしか出来ないことだって思ったからです。俺にしか出来ない戦い。見せたい人たちがいるんです。俺が壁を超えるのを。それで少しでも励ませたらなーって……」
小猫と朱乃。どちらも自分の中にある力という壁によって苦しんでいた。一誠はシンが小猫にした様に厳しく接することが出来ない。上手く言葉で励ますことも出来ない。唯一出来るとすれば行動で示すことだけ。
「……ふーん。まあいいか。日数も少ないんだ。効率が上がればそれで良し、だ」
マダはそんな一誠の心情を見抜いたのかどうかは分からないが、その決意を茶化すことは無かった。
「なら始めるとするか。一日出来なかった分、いつも以上に厳しくいくぞ?」
「おう!」
タンニーンの言葉に一誠は力強く頷いた。
◇
「今日はここまでだな」
「つ、疲れた……」
その日の修行の終わりを告げる言葉と共に、一誠は崩れる様に地面へ仰向けになって倒れた。タンニーンの宣言通りいつもよりも密度の濃い修行で、体中の細胞が疲労を訴えているのを感じる。
「イッセー、お疲れ様だホー」
「おお、サンキュー」
倒れている一誠にジャックフロストが水筒を持って来る。
それを受け取って中身を呷る。雪精の力でキンキンに冷やされていた中身が喉を通って胃へ流れ込み、そこから体全体に染み渡る冷たさは、熱で火照った体には格別であった。
「っああ! うめぇ!」
疲れを一瞬忘れてしまう程の爽快感。苦行を為した者にしか得られない瞬間とも言えた。暫くその余韻に浸っているとマダが声を掛けてきた。
「そろそろ晩飯にするぞー」
「うっす!」
火が起こされ、その前にマダが胡坐をかいて座っている。火の周りには木の枝に刺さった魚がずらりと並べられている。いつもなら火起こしも食事の準備も一誠が自分で行っているのだが、この日は何故かマダが仕度をしてくれていた。
「珍しい。どういう気の回しだ?」
「うん? ――まあ、あいつが取っている量じゃ足りないと思ったからなぁ」
意図をぼかす様なマダの答えにタンニーンは訝しむが、火の側に座る一誠と火から少し離れた場所に座るジャックフロストを見てそれ以上は追及しなかった。
魚が焼けると空腹を満たす為に熱々のまま一誠は齧り付く。焼けた皮が小気味良い音を立てて割れ、香ばしいニオイごとその下の白身を咀嚼する。味付けは塩のみという淡白なものであるが、空腹という状態で食べればそれは最上の味であった。
片手で焼き魚を食べながら空いた手でもう一匹の焼き魚を取り、火を避けているジャックフロストに手渡す。
「ありがとうだホー」
一誠から手渡された焼き魚に冷気を吐いて一瞬で凍結させると、そのままガリガリと音を立てて焼き魚を頬張った。
最初の内は食欲に押された焼き魚を食べていた一誠であったが、腹が満たされるにつれて場の空気の変化に気付き始める。
何故か妙な重さがあるのだ。その原因というのは無言で座るタンニーンにあった。
威圧感もそうであるが、時折視線をジャックフロストに向け、何か言いたげな様子で口を僅かに開くがすぐに閉じてしまう。一誠が気付いた限り、数回は同じ事を繰り返していた。
視線を向けられているジャックフロストは魚を食べることに夢中で気付いてはおらず、マダの方は我関せずといった態度でちびちびと酒を飲み、焼き魚を齧っていた。
(タンニーンのおっさんはジャックフロストに何を話したいんだ?)
何か喋りたいことはあるのは知っているが、どうにも踏ん切りがつかないらしい。見ている分にはかなりもどかしい挙動である。
一誠もこの空気をどうにかしなければと考え始める。すると――
「何だ。もう始めていたのか」
「アザゼル先生?」
「どうした? 何か用か?」
「俺が呼んだんだよ」
静かに飲んでいたマダが手を上げる。
「ついこの間も飲み合ったばかりだろうが……」
「いいじゃねぇか。酒ってのはいつ飲んでも良いもんだ。色々と楽にさせてくれるからなぁ」
「お前……」
タンニーンは、短い会話で自分の為にマダが気を利かせてくれたことを理解する。タンニーンの為に、話し易い状況をつくろうとしていた。思い返せば、アザゼルが来るのが分かっていたからわざわざ自分で食事を用意したり、飲み相手がいるから酒量を控えていたのだ。
上手く話を切り出せない状況が続くことを見越されていたのに気付いたタンニーンは、恥ずかしさを感じてしまう。
(幾つだ? 俺は……)
子供がされる様な気遣いに、思わずそう自問してしまう。
人知れず羞恥心で身悶えしているタンニーンを見て、ニタニタと笑いながらマダは酒を呷る。
幸福も不幸も肴にして飲めるのがマダ。ただしそれに自他は問わない。
「やっぱ趣味が悪いな、お前は」
倒木の上に腰を下ろす。事情を聞かされていないアザゼルであったが、状況を見て何の為に呼ばれたのかを瞬時に理解し、悪趣味と窘めながらもマダから差し出された酒を流れる様に受け取る。
「……俺にも一杯くれ」
自分から酒を貰おうとするタンニーンに一誠は少し驚く。前の時もマダに勧められて受け取っていたが、あまり自分から積極的に飲むイメージが無かった。
マダはニタニタ笑い続けながらタンニーン用の杯を取り出して酒を注いで渡す。
若干顔を顰めながらもタンニーンはそれを素直に受け取り、あっという間に中身を飲み干すと空になった杯を無言で突き出す。
それに文句を言わずに注ぐマダ。そして、それを飲み干すタンニーン。それの繰り返し。時折アザゼルがその繰り返しの間に入って酒を注がれていた。
事情を把握出来ていない一誠は、ハイペースで飲んでいくタンニーンを不思議そうに眺め、ジャックフロストは特に気にせずに魚を食べていた。
そんなことが数十回と繰り返した後、タンニーンは杯を地面に置く。
「……少し話せるか?」
「ヒホ?」
タンニーンがついに動く。
「出来れば二人だけで話をしたいのだが……」
「いいホ」
「感謝する」
タンニーンはジャックフロストに掌を差し出す。ジャックフロストは躊躇わずにタンニーンの掌へと乗った。
「すまんが少し出てくる」
「へいへい。好きなだけ話してきな。俺らはここで飲んでるから」
「あんまり夜更かしさせるなよ。そいつはまだガキだからな」
「分かっている。一時間もかからない」
タンニーンは翼を羽ばたかせ、空へ飛び上がり、そのまま何処かへ飛んで行く。
「タンニーンのおっさん、ジャックフロストと何の話がしたいんだろう……というかジャックフロストの奴、おっさんと知り合いだったのか?」
『恐らくジャックフロストではなく、アレと縁のある者と知り合いなのだろう』
「まあ、何となく話したい内容は想像出来るがな……いや、聞きたいことか」
「聞きたいこと? それって何ですか?」
「あくまで俺の憶測だ。確信も無いのにペラペラ喋るのは無責任だからな。ここで話はお終いだ」
「ええー。滅茶苦茶気になるんすけど……」
話を一方的に打ち切られて少し不満気な表情をする一誠。アザゼルはそれを無視して杯に注がれた酒を呷っていた。もう話すつもりは無いらしい態度からこれ以上聞いても無駄だと感じ、大人しくタンニーンたちの戻ってくるのを待つことにし、手に持っていた焼き魚を齧った。
タンニーンたちのことは気になるも齧った魚の美味さもきちんと感じる自分に、我ながら単純だと思いつつも一誠は空を仰ぎながら再び魚を齧るのであった。
◇
数分の飛行の後、タンニーンは山の頂上へと降り立った。腰を下ろし、掌に乗せていたジャックフロストを降ろす。
ジャックフロストが掌から降りるとタンニーンも腰を下ろして座った。
「それでオイラに話って何ホ?」
「長い話でも難しい話でもない。ただ聞きたいのだ」
「聞きたい? 何をだホ?」
「お前は、王の最期を……見たのか?」
「ヒホ! オイラたちの王様のこと知っているのかホ?」
「……色々とあってな……知り合いだったし交流もあった……あの竜狩りの日までな」
「ヒホ?」
「――すまない。今の言葉を忘れてくれ」
失言であった。
焦っているのかもしれない。二度と無いと思っていた機会に巡り合ったことと酒が入っているせいで、口が思いの外軽くなっていた。
「見たのなら教えて欲しい。知らなければ他に知っている者に心当たりはないか?」
ジャックフロストたちの王とタンニーンとの関係は、一言で言えば腐れ縁の様なものであった。
真面目な性格をしたタンニーンと王という割には子供の様な性格をしたジャックフロストの王。正反対な性格をしていたが、不思議と馬が合い、何度か互いの住処に顔を出しては、延々と無駄話をするというのが決まりの様になっていた。
だがその関係も時が過ぎることで出来なくなってしまう。
タンニーンは、人間界での食糧不足と魔人の襲撃によるドラゴンの減少。ジャックフロストの王は発展する文明によって雪精としての力が失われていき、その数を減らしていったことで。
このままでは絶滅するかもしれない二つの種族に、冥界から救いの手が差し伸べられた。人間界から冥界への移住である。タンニーンは食料問題や数が減ったドラゴンたちの保護が出来ることからこの誘いを受けた。
雪精もまた冥界の環境ならば失った力を取り戻すことが出来る。しかし、ジャックフロストの王はタンニーンとは違いこの話を断った。
別れの日、タンニーンはジャックフロストの王に問う。何故、滅んでいく道を選んだのか、と。
ジャックフロストの王はいつもの様に子供の様な顔で言った。
降って積もって雪はいずれ消える。ジャックフロストは雪の精。いつかは消えてなくなる雪の精。だから受け入れる。永久に溶けない雪は無い。永久に溶けない雪はジャックフロストではないから。
自分たちが自分たちで在り続けることを選択したジャックフロストの王に、タンニーンは何も言うことは出来なかった。
冥界に移り、悪魔の眷属となって他のドラゴンたちが住める領土を手にしたとき、タンニーンはジャックフロストが絶滅したという報せを耳にした。
そのとき湧き上がった感情は喪失感を伴った悲しみであった。永久に言葉を交わす機会が失われた。
ジャックフロストの絶滅を聞いてから、タンニーンの心の中ではある一つの迷いが生まれていた。
『本当に自分のしたことは正しかったのか?』
後悔に似た迷い。自由に生きるのがドラゴンである。だが、タンニーンの選択は意図せずに彼らに枷を填めてしまったのではないかという迷い。冥界に押し込めずに自由に生きることこそ、ドラゴンとして正しい在り方なのではないかという考えに苛められる。
後悔など生きた者の生きた心から零れ落ちる傲慢の様なものであるのは分かっている。間違ったことをしたつもりはない。だがそれでも迷いは生じる。一度生まれた迷いは容易く消すことが出来ない。
タンニーンは知りたかった。自分の選択に殉じたジャックフロストの王の最期がどうであったのか。笑っていたのか、泣いていたのか、後悔していたのか、満足していたのか、それが知りたかった。
それで迷いが晴れるとは思っていない。何かが変わるとも思っていない。ただ知りたいのだ。きちんと別れの挨拶を交わすことなく去ってしまった友の最期を。
「……ジャックフロストはオイラ以外には居ないホー。オイラは最後に生まれた最後のジャックフロストだから……」
「ッ! そうだったのか……知らなかったとはいえ無神経な発言をした。すまない」
数少ない生き残りと考えていたタンニーンからすれば、最後の一人という言葉は予想外のものであり、同時に傷を抉る様な発言をしたことを謝罪する。
「気にしなくていいホ。あとオイラは王様がどんな風に消えていったか知ってるホー」
「本当か?」
タンニーンは頭を下げる。ジャックフロストの言葉を聞き逃さない為に。
「王様は最後に――」
『――――――――――――――――――』
時間にすれば十数秒程度の言葉であった。
聞き終えたタンニーンは天を仰ぎ、口の端を僅かに吊り上げて笑う。
「あいつらしい」
迷いが晴れた訳では無い。何が変わった訳では無い。だが、少しだけ安堵した。
友の面影を持つ雪精から友の最期の言葉を聞けて。さよならすら言えなかった悔いが少しだけ消えた。
「今度はオイラから聞いていいホ? オイラの王様や他のジャックフロストってどんなだったホ?」
「……そうだな。お前たちの王は王と言う割には子供っぽい奴でな――」
◇
明るくなったのを瞼越しに感じて一誠は目を覚ます。近くではジャックフロストが大の字になって眠っている。
視線を動かすと火を焚いていた場所にマダとアザゼルが座っており、雑談をしながら杯を傾けている。どうやら一晩中飲み明かしていたらしい。
「起きたか」
タンニーンが頭上から声を掛けてくる。昨晩は予定していた時間よりも少し遅れて帰ってきたが、帰ってきたタンニーンは少しすっきりとした表情をしていた。
「おはよう、おっさん。すぐに顔を洗ってくる」
「そんなに急がなくてよい。俺は少し出る」
「急用?」
「いや。朝になったらそいつの仲魔が迎えに来るとアザゼルが言っていたのでな、まだ顔を合わせていないのでな。挨拶がてらに迎えに行ってくる」
「あ、そうだっけ」
初めてタンニーンと顔を合わせをしたとき、その場にシンが不在であったことを思い出す。
「では出て来る」
「いってらっしゃーい」
◇
飛行するタンニーン。事前にアザゼルからジャックフロストの仲魔がどこに現れるか聞かされていた。
間もなく目的に場所へと到達しようとした時、『ソレ』を感じた。
「これは……!」
冷たい、恐ろしく、死を彷彿とさせる気配。一度知れば二度と忘れることが出来ない気配。
「ぐ、が!」
屈辱と怒りの記憶が抉る様に掘り起こされる。
積み重なる同胞の死体。同胞の血によって染まる空気と大地。冷たく光る刃。今も耳に残る高笑い。
「魔、人……!」
タンニーンは情が厚い性格であった。だからこそ理不尽に殺された同朋の無念を背負ってしまう。そして、悲しいことに彼にはそれを全て背負い切れる程の器があった。
一度戦った魔人はタンニーンの逆鱗に触れた。我を忘れるぐらいに暴れ狂ったタンニーンであったが、それでも相手を滅することは出来なかった。
彼の不幸は屠るべき相手を屠れなかったこと。晴らすことの出来なかった怒りは彼の逆鱗に楔の様に打ち込まれたままであった。
タンニーンは他のドラゴンを導く立場から見て見ぬふりをしてきた。しかし、その間にも怒りは静かに燃え盛り、暗く、熱く煮詰まっていく。
そして、二度目の魔人との邂逅。最早、彼の中の怒りは抑えることの出来ないものにまで達しており、放たれた怒りは瞬時に彼の理性を呑み込む。
「があああああああああああああ!」
天すら震わす咆哮を上げ、タンニーンは魔人の姿を確認するよりも先に全力の炎を放つ。
修行編のラスボスは怒り狂うタンニーンとなります。
あと二回戦う機会がありますが、誰と戦うかは楽しみにしておいて下さい。