気持ち悪いぐらいに事が上手く、或いは悪く運んでいる気がした。もしかしたら運ばれているのかもしれないとシンは思う。
赤い獣の戦いの後、リアスたちのことが気になり、タンニーンとデュリオに後のことを任せて彼女らを探しに出た。二人には止められたが、シンは胸騒ぎの様なものを覚えていたので半ば強引に頼み、返事を最後まで聞かずに移動してしまった。
探そうにも当てなど無く、たまたま一番大きな神殿が目に入り、取り敢えずそこを目指すことにしたが、結論から言えば大当たりであった。
神殿入口では戦いの痕跡。内部まで入ると奥から戦闘音も聞こえてくる。
勘は比較的に良い方であると自覚しているが、ここまでとは思っておらず、若干の気色悪さを覚えた。
急いで神殿奥を目指すが、戦闘音がはっきりしてきたと同時に、聞き覚えのある声も耳に入ってきた。
高音、低音が混じりの不協和音且つ情緒不安定な話し方。もう二度と聞くことは無いと思っていた声。
神殿の開けた空間まで来ると、そこには目を押さえているリアスたち。禁手化し戦っている一誠。そして、シンがその手で葬った筈のフリード。
整った顔立ちを台無しにするほど歪んだ笑み。一度聴いたら忘れられない耳障りな哄笑。何故かほぼ全裸という点を除けば間違いなくフリードであったが、万が一の事を考えて試しに名を呼んでみた。
どういう訳かフリードの口から同じく葬ったドーナシークの声が発せられ、怒号と共に光の槍を降らしてきた。
幻影でも亡霊でも無い。向けられた憎悪、殺気は間違いなく本物。
死んだ者が蘇り、完全に断った因縁が、怨念と共に再びシンと結びつこうとしている。
逃げ場を全て埋め尽くす光の槍の豪雨。今居る位置から下がり通路の奥に行けば避けることは出来る。しかし、その選択は視界に入った事情からすぐに消え失せた。
少し離れた位置にいる朱乃、アーシア、ギャスパーを見つけてしまった。朱乃はリアスたちと同じく目からボロボロと涙を流し開けられなくなっており、ギャスパーも目を閉じた状態であった。周囲の状況を確認出来ない二人に対してアーシアの目は無事であった。その証拠に降り注ごうとしている光の槍に、驚愕の表情をしている。
シンは走り出す。走りながらシンは両手に魔力を集中させ、二本の魔力剣を創り出す。
絶望的な数の光の槍を見たアーシア。彼女にそれを防ぐ手段は無い。ならばせめて、と朱乃とギャスパーに覆い被さる。自らを呈して彼女らを守ろうとした。
一誠はアーシアの名を叫び、思わず飛び出そうとするが、タイミングや距離からして間に合わない。
光の槍がアーシアたちに襲い掛かる。一誠は、数秒後の悲惨な光景を幻視した。
だが、その未来の光景も間一髪でアーシアたちの下に辿り着いたシンによって覆される。
天井目掛けて二本の魔力剣を振るう。解き放たれた魔力の波が、光の槍を呑み込んでいいく。
天井へと向かっていく魔力波。渦巻くそれに合わせて光の槍もまた乱回転し、次々に天井へ突き刺さり、または貫いていく。
取り敢えずの窮地は脱したと思ったシン。その矢先に、爪先に振動を感じる。
爪先から僅か数センチ離れた場所に突き刺さった光の槍。魔力波を受けてもなお直進し、その魔力波すらも穿ってみせた。
咄嗟であったが、シンは手加減などしていない。手加減無しの魔力波を貫く光の槍。
また光の槍が床に刺さる。今度は少し離れた場所であった。
光の槍自体に見た目の差は無い。しかし、魔力波に負けるもの、打ち勝つものなど、込められている力にかなりのムラがあり、そのランダム性が却って予見し辛くした。
頭上の光球からはまだ光の槍が放たれ続けている。いずれは──
またも魔力波を貫いてくる光の槍。今度は狙いも合っており、シンに直撃するコースへ乗っている。
短く舌打ちした後、その光の槍を拳で打ち払う。手の甲を当たると光の槍は四散し、光の粒と化す。一瞬手の甲が焼ける痛みを感じたが、構うことは無かった。
撃ち出す数に限界があるのか雨の様に光の槍を降らす光球が萎んでいく。ようやくドーナシークの攻撃が弱まる。
「おおおおおおおお!」
──筈が無かった。フリードもといドーナシークが獰猛な叫び声を上げながら飛び掛かってくる。
シンは光の槍に注意しながらもドーナシークから殆ど意識を逸らさなかった。意識を離してしまったのは、唯一先程の光の槍を払ったときだけ。
時間にすれば一秒も無い。だが、その一秒に満たない時間でシンに接近している。かなり距離があったというのに。
ドーナシークの動きを速いと思いながらも、ただがむしゃらに突っ込んでくるだけのドーナシークの顔面に迎撃の右拳を打ち込む。
(重い)
伝わる感触が明らかに違う。密度も重さも人外のもの。ドーナシークの左頬にめり込ませた拳が、ドーナシークの勢いを弱めることが出来ず、手首が曲がり始め逆に押し負けそうになる。
「はああああああ!」
ドーナシークは痛がる素振りも見せず、頬に拳が突き刺さったままの状態で、右腕を振るう。拳をちゃんと作らずに適当に五指を曲げた形で、シンの頭部を叩き潰す大振りの一撃。
豪快さだけが目立ち技術も何も感じられない、精彩が欠けた原始的なものであったが、光の毒で浸された毒手と見た目以上の重量を知れば、嫌でも避けなくてはならない。
半歩だけ前に出る。風切り音は耳のすぐ側まで来ていた。ドーナシークの手が、シンの頭部を生卵の様に砕く前に上体を下げる。
ドーナシークに対し深々とお辞儀でもしているような体勢で、迫っていた風切り音が、髪を靡かせると共に遠ざかっていくのを感じる。直後に、下げた上体を追うようにして振り上げられた右拳が、ドーナシークの顎を打つ。
相手がどんな顔をしているのか。効いているのか。体勢を崩せたのか。など考えるよりも先に、下げていた上体を起こしながらドーナシークの腹部を左拳で突き上げた。
この二撃でドーナシークの体が僅かに前のめりになる。すると、シンはドーナシークの髪を鷲掴みにして頭を無理矢理下に持っていき、低い位置に来た顎を歓迎する様に右膝ではね上げる。
たとえ悪魔や天使であっても頭部から首が外れる程の連撃だが、顎をはね上げられてもドーナシークの目はシンから外れない。
「間薙シィィィン!」
はね上がった頭部を力任せで元の位置に戻す。
雄叫びとシンの名前しかドーナシークの口から出て来ない。理性が失われているのか、それとも理性を忘れる程に怒り狂っているのか。
厄介なのは、ドーナシークの目にはシンしか映っておらず、周りのことなど目に入っていない。そして、シンの方は後ろにいるアーシアたちのことを無視することなど出来ない。
下がることも避けることも出来ない状態で、とにかくドーナシークをこの場から引き離そうとする。
しかし、まだシンはドーナシークの怒りを甘く見ていた。ドーナシークが眼中に無いのはアーシアたちだけで無い。
「おおおおおおお!」
ドーナシークが光球を作り出し、放る。真上に。
「死ねっ!」
「お前──」
光球から発射される光の槍。槍の雨下に入っているのはシンやアーシアたちだけでなく、ドーナシークも入っている。
自らの命もまた彼の眼中には無かった。
急ぎ魔力剣を作ろうとする。が、光の槍が降ろうとしている中でドーナシークがシンに拳を繰り出す。
咄嗟に手で掴んで防ぐ。光の力のせいで掌が焼けるが、そんなことよりもこの攻防のせいで魔力剣を作る時間が失われてしまった。手はもう片方空いているが、一本では防ぎ切れ無い。
一誠はすぐにドラゴンショットで光球を消し飛ばそうとするが、既に光球から槍が放たれており、一歩間に合っていない。
どうすればいいと誰もが思ったとき、朱乃、ギャスパー、アーシアの体が地面を滑って移動していく。
よく見れば、三人の影から黒い手が伸びており、その手が次々に引っ張って三人を運んでいた。
「こっちでいいですか!」
叫んだのはギャスパーであった。ヴァンパイアの能力を使い、自分ごとアーシアたちを運んでいる。
邪眼が使えないギャスパーが精一杯考えた自分のすべき事。一誠やシンの迷惑にならないように、ここから移動する。目がまだ見えないので方向が分からず、声を上げて誰かに尋ねた。
「それで良い」
シンは短い言葉で、偶然だが槍の範囲から離れようとしている動きであることを教え、ついでにギャスパーの行動を褒める。ここでの機転は大きい。
ギャスパーはシンの言葉を受け、黒い手で運ぶ速度を上げる。
掴んでいるドーナシークの手を離そうとはせず、逆にもう一方の手も掴む。密着している部分が焼け、嫌なニオイが立ってくるが、その状態で右足裏から魔力を爆発させる様に放つ。
シンは仰け反る体勢となり、そこにドーナシークは覆い被さる様な形となる。背を地面に着けない巴投げで宙に浮く二人。丁度、シンの体がドーナシークの体の影に隠れた。
そこへ落ちてくる光の槍。自ら放った光の槍が、どんどんとドーナシークに突き刺さっていく。
まんまとドーナシークを盾もしくは傘にしたシンだが、その表情は険しいまま。何故ならば、体を串刺しされているドーナシークは未だに憎悪の形相をシンに向けている。
赤い閃光が天井で爆発する。一誠の放ったドラゴンショットが、ドーナシークの光球を破壊するのと同時に、ドーナシークは脳天から床に打ち込む様に叩き付けられた。
シンはドーナシークを蹴り付け、その反動で側から離れる。ある程度距離をとると己の両手を見る。赤く変色し、ドーナシークの手を掴んでいた箇所の皮膚が剥がれている。だが、シンは皮膚が捲れた手ですぐに拳を作る。左眼を失ったり、右脚を失ったりした経験のせいか、シンの中では傷として勘定もされない。
勢いとドーナシーク自身の重量で床が割れ、その罅の中に埋まるドーナシークの顔上半分。
ゆっくりと前後に揺れた後、仰向けになる様にして倒れた。
「アーシア! 朱乃さん! ギャスパー! 無事か!」
一誠は神殿隅まで移動していたアーシアたちに声を掛け、怪我が無いか急いで聞く。光の毒はかすり傷であったとしても無視出来ない。
「だ、大丈夫です! ギャスパー君のおかげで無事です!」
「ありがとうございます。ギャスパー君」
「は、はいぃ! どういたしまして!」
朱乃の視線はまだぼやけているが、輪郭でギャスパーを見つけ、その頭を撫でる。
「朱乃! 貴女たちはなるべくここから離れなさい! また巻き込まれるわ!」
「ですが、部長!」
「私たちのことはいいから!」
朱乃たちの身の安全を優先するリアスの指示。先程のドーナシークの攻撃は偶々リアスたちが射程外に居た為に当たることは無かったが、その偶々が何度続くか分からない。
何せドーナシークは狙いをシンに定めているものの、その攻撃方法は無差別だからだ。
一誠は、シンの方を見る。いきなり現れ、ドーナシークとの戦闘が始まったので気付かなかったが、シンの姿はどうも見ても一戦、もしくはそれ以上戦った形跡が見える。
一誠たちと同じ学生服は、至る箇所がボロボロに破れており、血の染みらしきものも見えた。そして、ズボンが右脚の膝から下が裂けて無くなっており、靴も履いていない素足であった。
「──大丈夫なのか?」
「ああ」
衣服の損傷具合に対してシンの体には目立った傷は無い。一誠の念の為の確認もシンは短い言葉で返す。
そんなことを言っている内に、仰向けになっていたドーナシークが動き始める。
体中に刺さっている光の槍は既に消えている。しかし、ドーナシークが倒れている場所には血溜まりが出来ておらず、それどころか傷口から出血もしていない。光の槍が貫いていた箇所は拳程の穴が開いているにも関わらず。
見た目は人だが、中身は明らかに人では無い。ならドーナシークたちは一体何になったというのか。
「間、薙……!」
相変わらずその口からはシンの名しか出て来ない。
「間薙……!」
怨恨を込めて名を呼ぶ度に、ドーナシークの風穴が埋まっていく。まるで、裡に満たされている憎悪を力に変えているようであった。
「……滅茶苦茶執着されてるな」
「まあ、理由は分かる。自分の仇が目の前に居るんだからな」
「そりゃ恨む……え! そうなのか! じゃあ、何で生き返って──というかフリードの姿に……」
さらりと告げられた事実に一誠は驚く。状況が状況ならもっと深く聞いていたかもしれないが、それが事実だとすると、何故死んだドーナシークがフリードの姿になって蘇ったのかという、新たな疑問が出てくる。
フリードも手に掛けていることも話しても良かったが、更に混乱するだけだと思い、シンは後回しにすることとした。
割れ目から頭を引き摺り出し、仰向けからうつ伏せの体勢となる。そして、体を起こそうとすると、ドーナシークは何故か自分の髪の毛を鷲掴みにする。
その奇怪なポーズに訝しむ目が向けられる。次の瞬間、ドーナシークは自分で自分の額を地面に叩き付けた。
何度も。何度も。床が割れ、破片が舞う程の勢いで自傷行為を繰り返すドーナシーク。その光景に一誠は絶句し、シンは微かに顔を顰め、アーシアは理解の範疇を超えている行為を目の当たりにして震えていた。目が使えなくなっている他のメンバーは、途切れず聞こえる破砕音を警戒している。
「勝手な! ことを! してんじゃ! ねええええ!」
叫ぶ声はドーナシークの声ではなくフリードのものであった。
「死にぞこない! 死にぞこないが! 間薙、間薙って何度も馬鹿みてえに叫び、やがって! 俺様を、あの半端悪魔の! ストーカーにしてんじゃねえぞ!」
「お前が、消えろ! フリード!」
「てめえが消えんだよぉぉぉ!」
フリードとドーナシークの声が入れ替わりながら互いを罵倒し合う。それをしながら額で地面を砕いている光景は、シュールを通り越して意味不明な恐怖感を与える。
「これは! この体は! 俺のなんだよ! しゃしゃり出てきてんじゃねえぞ! この亡霊堕天使が! とっとと養分になっちまえよぉぉ!」
額を打ち続けるに加え、自分の頬を殴り始める。
断片的に得た情報だけを整理すると、今のフリードは二重人格に等しく、元々はフリードの主導権が強かったのだろうが、シンに対し強い憎悪を持つドーナシークの精神が強まり一時的に主導権を奪った。だが、負傷などの影響でフリードの精神も表面化し、現在体の主導権を奪い合っている様子。
情報を整理してみたものの、やはりフリードとドーナシークの精神が混ざっているという事実が一番意味が分からない。
(あの後、何が起きたんだ?)
まさかシンによって命を落としたことが引き金となって、バルパーの計画通りに人工神器の実験体となり、そこから計画者の想像を上回る成功体となっているなど、いくら想像力が豊かでも思いつくことは無いだろう。
未だに自分を痛めつけているフリード。その正体はどれだけ考えても分からないとシンはさっさと割り切り、倒すことに専念する。
「はあ……! はあ……! はあ……! へ、へへ、いひひひ。ひゃははははは! ようやく! ようやく大人しくなったよ! いへへへへへ!」
天を仰ぐ様に顔を上げたフリードの顔は、傍から見ても正気を感じさせるものではない。眼球の動きが定まらず、瞼が痙攣し、頬が何度も引き攣りを起こしている。
「これでようやく──痛ぇ!」
フリードが顔を押えて悶絶し出す。先程までの自傷行為の痛みかと思ったが、フリードの顔には傷一つ無い。
「痛てぇ! 痛てぇ! 何で! 何でだよ!」
身体を刺されても、斬られても、殴られても大丈夫だったのに、血も出ず、傷も無かったというのに、顔の中央に熱の様な痛みが生じていた。
困惑するフリード。それを見ている周りも困惑する。
シンたちの正直な感想を言えば、さっきから正気の沙汰では無い行為を何度も繰り返しているせいで、完全に攻めあぐねていた。何せ身体能力ならば脅威の一言、下手に刺激すればどんな風に暴れ回るか分からない。それ故に見に徹し機会を窺う。フリードの奇行を見るのは苦痛というのが共通の感想だが。
「顔が……! 顔が……!」
フリードはドーナシークを取り込んでしまったことで、彼がシンによって刻まれたトラウマであり、敗北の傷である顔の幻覚痛まで引き継いでしまっていた。
薬でも魔法でも消すことが出来ない痛み。死への恐怖によって精神に深く埋め込まれた傷。そして、その傷は別の傷を呼び起こす。
「冷たい……冷たい寒い寒い! 何だよ! あるんだよ! ここにあるんだよ! 落ちてねえぞ! ある! ある! ここも埋まってんだよ!」
情緒不安定な様子で首と胸を掻き毟り始めるフリード。聞いていたリアスたちには、意味不明な言葉であったが、シンだけはそれが何を意味しているのか分かった。
フリードを倒したとき、炎で胸に風穴を開け、視線から放つ魔力によってその首を落とした。今のフリードは、その死に際の記憶がフラッシュバックされているのだ。
胸の中心に無い筈の穴が開き、そこを通り抜けていく冷たい風の感触。首筋に感じる血が失われていくような喪失感。
本来ならば二度と得ることは無い死の体験が、フリードの中で何度もリピートされていく。
その体験に狂乱状態となるフリードだったが、子供の様に身を丸めた体勢で急に喚くのを止めた。
「そうか、そうか。そういうことか」
顔を地面に着けた状態で譫言の様に同じ言葉を繰り返す。
「俺がこんなにも可哀想で痛い思いをしているのはそういうことですか。マジかよ散々主人公属性を積んできたのに、更にここで不幸属性や可哀想属性も盛っちゃう? 全方向に刺さっちゃうパーフェクトなキャラになっちゃうよ、俺様。坊ちゃん嬢ちゃん父母方爺婆も夢中になるキャラで歴史に名が刻めますぜー! でもね、でもね」
一旦普段の調子に戻るが、すぐに声色が変わる。平常と異常が入れ替わっていく様は、狂人という印象を強めさせる。
「痛いのはダメだよ。NGだ。マゾじゃないもんで。どっちかつーとドSなんで」
「これもそれもあれもどれもかれもなんもかも痛いのは──」
フリードは首を捻じり、下からシンを見上げる。その目は異常な輝きを放ち、狂気と殺気に満たされている。
「──てめえのせいだな?」
フリードが唸りの様な声を吐くのと、シンが側頭部を地面に打ち付けたのは、ほぼ同じタイミングであった。
視界が突然真横になり、鈍い衝撃が頭を突き抜けていく。何が起こったのか一瞬理解できなかった。だが、頬の熱。口の中に広がる血の味。目の前に見えるフリードの足が見え、殴られたことに間を置いて理解した。
(速い……)
目が反応しない程の速度は初めてであった。油断などしていない。虚を衝かれたのではなく、純粋にフリードの動きが速いのだ。
直後に目の前の足が、横になっているシンを蹴飛ばそうとする。腕を交差して防御するが、シンの体は軽々と浮き上がり、宙を飛ばされていく。
背中から壁にぶつかる。衝撃が臓腑を突き抜けていくが、耐えられない程では無い。そんなことよりも、防御した腕が折れていないかどうかの方が重要であった。使えないと一気に戦力が落ちる。場合によっては無理矢理使うが。
腕を動かす。痛みはあるが拳は握れる。ただし、蹴られた箇所にはフリードの足型の火傷が出来ている。
シンは、石造りの壁に指を突き立て、体を横に引っ張る。そのすぐ後にフリードが頭から突っ込んできた。
脳天を壁に叩き付けると、そこを中心にして蜘蛛の巣状に罅が伸びていき、壁は勿論のこと床、天井にまで亀裂が走る。
「逃がさねぇ……」
ホラー映画、またはスプラッター映画のモンスターの様に恐怖を煽る為の緩慢な動きで頭を引き抜くフリード。
「フリードォォォォ!」
シンにもう一度攻撃を仕掛けようとするフリードであったが、聞こえてきた声でそちらを向いてしまう。眼前に見える拳を避けることが出来ず、自分が作った亀裂にまた頭を埋め込まれる。
「大丈夫か!」
一誠がフリードの顔面に拳を打ち込んだままシンの容態を確認する。だが、シンが答えるよりも速く、仰け反った状態で放たれたフリードの前蹴りが一誠の胸部に刺さった。
体が折れ曲がる。フリードの爪先が、ドラゴンの鱗に等しい鎧に貫いている。幸いにも生身の部分にまでは紙一重で届いていないが、放たれる聖剣の力は届いており、皮膚を炎で炙られていく様な熱さと痛みを感じる。
すぐにその足を引き抜き、フリードに拳を振るう。が、その拳はフリードの手が難なく止めてしまった。
「そういえばさぁ……」
海老反りの体勢だというのに、引いても押してもフリードはびくともしない。最大まで倍化をしている今の一誠の身体能力を、フリードは上回っている。
「考えてみれば、チミと最初に会ったときから何か俺の人生上手く行かなくなったよなぁー? そうそう。俺が神父としてちゃーんと仕事をしてたときに、のこのこと姿見せたのが最初の出会いだったねぇー。うーん、メモリアル」
「何が、ちゃんとした仕事だ……! 俺の依頼人に、あんな酷いことをしたくせに……!」
悪魔を呼ぶ常習犯という理由で、切り刻まれ、手足や胴体に釘を打ち込まれて逆さに磔にした。フリードの性格からして嬲り殺しであったのは間違いないだろう。悪魔となって日が浅く、また凄惨な現場を見たことが無かった一誠は、その光景が今でも脳裏に焼き付いている。
「そんなの知んねぇ! 悪魔に関わるってだけで有罪だよ有罪! ギルティー!」
埋もれていた頭を、瓦礫をまき散らしながら引き抜き、そのまま額を一誠の兜に叩き付ける。至近距離から見せつけられるフリードの眼光は、目を逸らしたくなるような不気味な輝きを宿していた。見ていて気分が悪くなる目から逸らさなかったのは、フリード相手に弱気な所など一切見せたくない一誠の意地である。
「そしててめえもギルティーだ。悪魔ってだけで死刑だが、俺様の素敵な人生を狂わせたのは大罪。よってメガ死刑!」
フリードの跳ね上がった膝が一誠の脇腹を突き上げる。偶然にもシャルバに付けられた傷に直撃し、痛みで一誠の体が一瞬硬直する。
「お?」
その動きを目聡く見逃さなかったフリード。一誠は、奥歯を食い縛って硬直していた体を動かし、フリードの顔面目掛けて横振りの拳を放った。
頭を後ろに引いて軽々と避けてみせるフリード。しかし、その体が身震いする様に震える。拳に続いて出していた蹴りが、フリードの横腹に深々と入っていた。
空振りした拳が軌道を逆に辿り、今度は裏拳としてフリードのこめかみに打ち込まれる。
ほぼ真横に曲がるフリードの首。裏拳の一撃で掴まれていた一誠の拳も離された。
「おおおおおおお!」
そこから一誠のラッシュが始まる。腹に左右の連打を入れること十。フリードの顎が下がると、アッパーを叩き込む。
脹脛に下段蹴りを打ち、フリードの肩を掴み、引き寄せると鳩尾に膝を突き入れ、右拳でフリードの頬を殴り、すぐに左拳で逆の頬を殴る。フリードの頭を右へ左へと何往復もさせる。
「舐めんなおらぁぁぁ!」
フリードも一方的に殴られ続けていなかった。顔面を殴られると同時に一誠の顔面も殴り返す。お互いの頭が傾く。
「しゃらぁぁ!」
奇声を発しながらフリードが貫手で突いたのは、一誠の脇腹であった。先程の攻撃で一誠が不自然な動きをしたので、もう一度打つ。
「うっ」
息を詰まらせる一誠。この反応でフリードの疑惑は確信に変わる。
「あれぇ? ここってイッセー君の性感帯?」
嘲りながら突き立てていた指を折り曲げ、今度は拳で突く。指の長さ分だけしか拳を加速出来ないが、人外の身体能力と重量が合わさって脅威的な破壊力となる。
拳の圧に押され、地面の上を数メートル滑った後に爪先を立てて何とか停める。塞がっていない傷口から血が溢れていくのを感じる。ただでさえ光の力によって治りにくい状態なのに、聖剣や光の力を纏わせた拳で叩かれ悪化する。
シャルバのときとは違い、気を緩めず常に戦意を保っているおかげで鎧の硬さはある程度維持出来ているものの、フリードの力はそれを上回ろうとしている。
一誠は脇腹に目をやる。脇腹の装甲には指先の跡と拳の跡がしっかりと残っている。更には打ち込まれた箇所には聖なる力が残り、鎧越しにその力を熱の様に感じた。
胸に刻まれた手刀の傷もそうだが、手足が聖剣と同じ効果を持っているのが厄介であった。今はまだ鎧のおかげで大丈夫だが、それを貫くのも時間の問題である。
「いやあ、感じちゃった? 俺様ってテクニシャンだからさぁ。おにゃのことチョメチョメするときは、いっつも哭かせちゃうぐらいだし」
詳細を聞かずとも碌でも無いことなのが分かる。嫌悪感が沸き立つ。一誠も女性に対しては、多少紳士的では無い面もあることは認めるものの、フリードやディオドラの様な人種は心底理解出来なかった。
女性を手籠めにして何が愉しいというのか。何故興奮出来るのだろうか。
リアスたちも侮蔑の表情をしている。女性として、フリードの話など唾棄すべきものである。
「あ、そうだ、そうだ。俺っちの人生が上手くいかなくなったのって、もう一人関わってたよなぁ? 可愛い顔して、こっちのムカつくことばっかする余計なことしいがさぁ……」
「何だよ、いきなり……」
話の矛先が別の者へと向けられる。戦いもそうだが、会話の方も主導権を握られつつあった。とは言っても、フリードの会話は支離滅裂、自分本位であるためそもそも成り立っていない。
「なあ、アーシアちゃぁぁん?」
首を捻り、邪悪な顔でアーシアに微笑みかける。
「──逃げろっ! アーシア!」
相手の嫌がることに関しては、徹底的にやる男だと再認識する。一誠を傷付けることよりも、その心に深い傷を付けようとする。
体は正面に向けたまま、後方にいるアーシアへ後ろ向きに跳ぶ。飛蝗を思わせる跳躍で襲い掛かる。
アーシアは、周囲に朱乃やギャスパーがいるので逃げることが出来ない。
空中で体勢を反転させ、聖剣の力を宿した手刀で、アーシアの華奢な体を斬り──
「ほぐああっ!」
──つける前に横から飛び出してきたシンの右足が、フリードの頬を踏み付ける。下顎がずれる様に歪みつつ、踏み付けられて勢いで飛ばされる。
「視野が狭いな」
自分の快楽を優先するあまり、視野狭窄となってシンの存在に気付かなかったフリードに冷めた言葉を吐く。
直線で跳んでいたのを真横に蹴飛ばされ、床に顔から突っ込んでいくという無様な着地を決めたフリード。
「この──あびゃびゃびゃびゃびゃびゃ!」
体を起こしたフリードの脳天に落とされる雷。電撃の衝撃で奇声を発する。
「あびゃびゃびゃ──てめっ! ほぎゃらっ!」
耐え抜いた所にもう一撃。またもや奇声が上がる。
「覚悟して下さいね。私、かなり頭に来ているので」
雷を連続して放つ朱乃が、温度を感じさせない言葉と共にフリードの脳天へ雷を叩き込む。フリードが動く度に雷が落とされる。立とうとしても、顔を上げても、首を動かしても、手足の指を動かしても容赦なく。
朱乃がサディストで楽しんでいるからという理由では無い。光の目潰しで比較的症状が軽く済んだ朱乃だが、まだ視界がぼやけており相手を輪郭で判断するしかなかった。その為、フリードの動きに過敏になっており、輪郭が少しでも動いたと思ったのなら雷撃を打ち込んでいる。好意を持っている一誠を嬲ったこと、可愛いがっているアーシアを殺そうとしたことなどの理由で、そこに躊躇いも無くなっているが。
「ふ、あぎゃ! ざ、あが! けん、あふっ! なっ!」
雷撃による蹂躙。最低でも秒間に十は雷を浴びせられているフリードだが、感電しながら少し慣れてきたのか徐々にだが立ち上がり始めていた。体から煙が上がっているが、火傷や焦げ跡などは見つからない。
炭になってもおかしくはない程の雷を受けながらも立ち上がってみせたフリード。それに合わせたかの様に雷が止まる。
「ふ、へへへ! 無駄無駄──むっ?」
視線が下がる。フリードの前にいつの間にか小猫が立っていた。
朱乃の雷が止まったのは、彼女を巻き込まない為である。
小猫の目は光の影響で閉じていたが、代わりに頭部の耳が周囲を探る様にして動いている。
「……貴方」
「あん? 何だよ? 猫耳っ娘」
「……声も気配も五月蠅過ぎです」
閉じた目でも簡単にフリードの位置が感じ取れるぐらいに馬鹿みたいに大きな声と、隠そうとしない、もしくは隠すことが出来ない気配をこれでもかと発している。
小猫の言葉で、フリードから怒気が放たれる。小猫の脳内に鮮明に映し出されるフリードの輪郭。
相変わらず光によって全体が染まっているが、怒りを煽ったことで体内に流れが生み出される。
体内の力が腕に向かって収束されていく。器用、というよりも極端過ぎる動きに呆れてしまいそうであった。普通は防御の為に幾らか残すというのに。
だが、小猫にとっては好都合。満たされ過ぎていた読み難かった体内に流れが出来た。
「ちっちぇえ体をもっとちっちゃくしてやるぜぇぇ!」
力が流れ込んだ拳を、小猫の真上に振り下ろす。
パン、という軽い音が鳴る。フリードの拳が伸び切る前に、小猫の掌が先に当てられていた。
二人の体重差は何倍もあるが、『戦車』の能力なら苦では無い。しかし、フリードにとっては意味が分からないことが起きている。
ありったけの力を込めたというのに、不発で終わってしまった。いくら途中だからといってこんなにも簡単に止められるのだろうか。
力は何処に消えたのか。それへの疑問は、フリードの体が教えてくれた。
掌で押さえられていたフリードの腕が波打ち始める。皮膚の下に蛇が這っているかの様に。それが腕を昇っていき、体内へと入り込んだとき、フリードは爆音を体の内側から聞いた。
小猫の仙術によって外に出る筈の力を操作し、逆流させて体の内に戻した。フリードが小猫を叩き潰す筈であった力が、フリードの体内で炸裂する。
体の内側を直接殴られたに等しい衝撃は、フリードの体を前屈みにさせ、そこから錐揉み回転をしながら飛び跳ねた。
派手なパントマイムをやっているかの様であったが、行っているフリード自身は堪ったものでは無い。
痛みは無いが、何が起こっているのか分からず、気付いたら天井を見上げている。そして、見上げ天井には──
「わーお」
無数に並ぶ数々の魔剣、聖剣。全ての切っ先がフリードに向けられ、冷たい輝きを放つ。
「ちょっとタイ──」
言い終える前に剣が一斉に降り注ぎ、フリードを地面に張り付けにする。昆虫の標本よりも徹底的に、雑に、隙間なく刺し止める。
両眼まで貫かれたせいで最後まで見届けることが出来なかったが、表皮で感じ取れた。察知するだけで皮膚の産毛が消失していく様なヒリヒリとした聖なる気と魔力の感覚。
間違いなくゼノヴィアのデュランダルとリアス・グレモリーの消滅の魔力の気配。
「──そこまでする? ぼくわるいエクソシストじゃないよー」
その減らず口の後に、天を貫く様な聖なる気で作られた光の柱と巨大な赤い魔力がフリードに叩きつけられた。
「お、おお……」
一連の流れを見ていた一誠の口から、感嘆とも怯えともとれる声が洩れる。床に出来た円形のクレーターから目が離せられなかった。
シンの妨害を皮切りに、朱乃が足止めし、小猫が転倒させ、木場が固定し、最後にリアスが止めの一撃。おそらくは、通信機を用いてある程度動きを決めていたのだろうが、視覚が機能していない状態とは思えない連携であった。
情け容赦の無い連続攻撃だったが、同時にここまでしなければ倒し切れ無い相手と言える。単純な性能ならば、この場にいる誰よりも高い。しかし、情緒の不安定さと移ろ気易いせいで隙も多かった。
だが──
「ひ、ひひゃははははは!」
クレーター内からフリードの笑い声が聞こえてくる。あれだけやったのにまだ生きている。その生命力には戦慄するしかない。
「すげぇなぁ、俺。あんだけされたのに、まだ生きてんよぉ」
自分でも生きていることに驚いている様子。カリカリと爪を立てながらクレーターから這い出ようとしている。
クレーター縁にフリードの指が掛かると、一気に飛び出てきた。
「は、ははははは! あいつなんかよりも俺様の方が相応しいじゃねぇか! 俺は不死身のジークフリードだぁ!」
自らの生命力を高名な英雄に喩えるフリード。それを分不相応と咎める者は居なかった。その生命力はまさに不死身の英雄そのもの。異論など無い──などという理由からではない。
目が見える一誠、シン、アーシアの目線は、フリードのある一点へと向けられ、言葉を失っていた。
フリードも三人の視線に気付く。彼らの目がフリードの顔を凝視し続けていることに。
「何? 何? その熱視線は? 俺様のハンサムフェイスに何か付いてる?」
フリードが自分の顔に触れようとして、空振る。
「……あれ?」
何度手を動かしても、そこにあるべき筈の顔に触れない。
「あれ? あれ? どういうこと?」
「お前……自分が今どうなっているのか、分かんないのかよ?」
困惑した一誠の声に、フリードが苛立つ。
「ああ? 何言ってんだ? 俺様がどうしたってんだよ!」
「──足元を見てみろ」
シンの言葉に、フリードは視線を下ろす。フリードを拘束していた魔剣の一本が転がっている。磨き上げられた剣身。それこそ鏡の様に姿が映るほど。
「……ん?」
剣身を見たフリードは気付いた。鏡像に映る筈の自分と目が合わない。剣身に映るのは、薄い桃色の何かの断面。そこで初めて理解した。
自分が、首から上を失っていることに。
目が見えないのに見える。口が無いのに喋られる。鼻が無いのにニオイが分かる。耳が無いのに音が聞こえる。脳が無いのに考えられる。
シンたちからすれば、頭部が無いのに普通に振る舞えるフリードが不気味で仕方ない。首の断面も骨や肉など血など無い樹脂を固めた様な無機質なもの。
一誠は、小猫がフリードを人間じゃないかもしれない、と言った意味をようやく理解出来た。そして、どんなだけ殴っても痛がらず、血が出なかったのも分かった。
フリードという人間の形を模しているだけ。何かにフリードの皮だけを被せ、フリードの精神とドーナシークの精神を入れたのがあれなのだ。
目も鼻も口も人形と同じ飾り。最初から機能などしていない。
見ている方も、見られている方も、この事実にただ啞然とするしかなかった。
◇
デュリオとタンニーンは腰を下ろして、炭の塊と化した獣を眺めていた。正確には、監視しているのはタンニーンだけである。デュリオは獣から目を逸らしていた。オーディンの術で両眼を保護し、視覚から穢れが入らない様にしているが念の為である。
獣が焼き尽されたと同時に一帯の穢れは消え、獣自体からも放たれることは無くなった。タンニーンは、応援が来るまで一人で監視を行い、デュリオにはオーディンの下で休む様に言ったが、デュリオはこれを拒否する。
万が一、獣が動き出したとき自分ならば、穢れをいち早く察知出来るという、鉱山のカナリヤの役目を買って出た。
「ここまで来て後は全部お任せ、っていうのは無いっスわ」
というのがデュリオの弁である。軽そうな見た目に反し、責任感はかなり強く、タンニーンもそう簡単には意思を曲げられないと分かり、させたいようにさせた。
監視している間、何度かアザゼル、サーゼクスと連絡を試みているタンニーンだったが、繋がる気配が無い。
それでも時間を置きながら、それを繰り返していた。
デュリオも視線は向けていないものの、獣から意識を外さない。だが、どんなに神経を張り巡らせても獣からは何も感じ取れない。
完全に死んだ、と思うのは楽観的とデュリオは考える。得体の知れない魔人と同質の存在なのである、考え過ぎと思えるぐらいに警戒していた方が丁度良い。
「──あっ」
穢れを防ぐ為に目に巻いていた布が、解けて地面に落ちていく。戦いの中で結び目が緩んだのかと思い、落ちていくそれを手で掴もうとした。
布が黒ずみ、一瞬で原型が無くなる。獣の穢れですら耐えられる様に、オーディンが魔術を施したそれが、一切の間も無く。
デュリオにとって二つの幸運があった。一つ目は、今落ちた布。これがあったおかげで何かが起こる前兆となってくれた。
二つ目はタンニーンの存在。デュリオの声に反応し、布の異変を見たタンニーンの行動は迅速であった。
すぐにデュリオを掴み、傷付いた翼を広げて、即座にその場から離脱したのである。
この対応が、生死を分ける結果となった。
「ホォーホッホッホッホ。せっかちだこと」
大地に赤黒い渦が起こり、その中心からマザーハーロットが押し上げられる様に出て来る。
光すら照らせない黒い虚空の眼窩が、殆ど見えなくなったタンニーンたちの背を見ていた。
マザーハーロットは、炭化した獣の側に寄る。
「遊びは愉しかったかえ?」
黄金の杯を一口飲み、獣の死体に息を吹き掛ける。
すると、獣の死体が震え出し、炭化した体に罅が入った。
罅が全身に回ったとき、黒い部分は全て剥がれ落ち、中から無傷の獣が蘇る。
獣はマザーハーロットを見ると、恭しく七つの頭を垂れる。マザーハーロットは、下げられた頭を踏み付け、階段の様に首を渡り、その背に足を組んで座る。
それは玉座に腰を下ろす女帝そのもの。マザーハーロットと赤い獣。二体が揃い、真の魔人と化す。
「さて、妾もそなたも十分愉しんだ。最後に顔を拝みに行くとしようかえ。──下賤なる我が同胞の顔を」
あと二、三話で六巻の話は終わりそうです。