「君とこうして打つのは3度目だ。1度目はカフェで擦りガラス越しに。2度目の新初段では、君と塔矢先生に見事かわされてしまった」
盤面を挟み、まだ石の打たれていない盤上を眺めているともしれない眼差しで、芹澤は穏やかに語る。
その口調にヒカルを責めるような感情はどこにも見受けられなかった。
ただ、穏やかに、静かに語るだけで。
芹澤はヒカルを批難することは無かった。
いずれ勝ち進めば、トップ棋士である芹澤とヒカルは対戦することになる。
しかし、よりにもよって名人戦リーグの初戦で対局することになるとは考えていなかったが、逃げても致し方ないと、ヒカルは責められるのを覚悟で今日の対局に臨んだのだ。
新初段で打ったのは佐為ではなく、ヒカル自身であり、あの対局も決して手を抜いたわけではなくヒカルの全力を尽くしたものだ。
だから、正確に言うと、芹澤が佐為と打つのは今回で2度目と言うことになる。
新初段のときはまだ行洋は亡くなっておらず、ヒカルも佐為を背負ってはいなかった。
だから、saiを探す芹澤を如何様に誤魔化すか、ヒカルと佐為は懸命に悩んだものだ。
今となってみると、どうにかしなければお先真っ暗とまで思いつめ2人で相談した夜が、懐かしく思い出され、ヒカルの眼差しが無意識に緩む。
「俺も……まさか雨宿りで偶然立ち寄ったカフェで、芹澤先生と対局するなんて予想外でした」
「この対局は、全力で打ってくれるだろうか?カフェで私を負かしたときのように」
芹澤の言葉に、ヒカルの表情から一切の感情が消えた。
その消えた感情を代弁するかのように、膝に置いていた両手がズボンをぐっと握りしめる。
芹澤が尋ねたのはヒカルではなく佐為へむけたものだから、ヒカルが答えるわけにはいかない。
石を打つのは自分なのに、相手が求めているのは佐為。
その間にあって、ヒカルは胸に微かな痛みと疎外感を覚えた。
しょうがないさ。
佐為が打つってのはこういうことだ。
いつかこんな気持ちにも慣れて、何も思わなくなるのかな?
けれど、佐為はいくらヒカルが待っても無言のままで、ヒカルが視線だけ佐為の方を向けると、盤上を見つめる眼差しだけが酷く鋭かった。
■■■
対局を観戦するモニタールームで対局が始まるのを待っているのは、新初段のときの倍以上の観戦者数だった。
とにかく注目度が半端なく、対局が行われる前から海外からも棋譜が欲しいと問い合わせが寄せられたほどだ。
日本だけでなく、saiであるヒカルに、中国韓国も一種異常なほど興味を寄せていた。
囲碁を覚えて2年とは到底考えられない、ありえない成長速度と、早熟過ぎる高い棋力に。
すでに抜き去ったと思われていた日本から、両国を追撃し得る天才が現われたと。
日本のメディアも、すでにヒカルのスター性に気付き、目を付けているところがある。
ヒカルが十代でタイトルを取る日は遠くないだろう。
問題はそれが『いつか』ということだ。
まだ義務教育の中学在籍中にタイトルを獲れば、過去の記録を塗り替える大ニュースだ。
下手して行洋が亡くなったことで空位になった6つのタイトルをそのままヒカルが持っていけば、他の棋士は何をしているのかと揶揄まがいに叩かれる可能性も存分にある。
もちろん、これまで日本の囲碁を牽引してきたトップ棋士達が、いくらヒカルに才能と実力があろうともやすやすとタイトルをくれてやる気は毛頭ない。
タイトル所持経験者である桑原、乃木を始めとして、緒方や倉田もじっとモニター画面を凝視する。
ヒカルの対局を一つでも多く観戦し、研究し、どこかに小さくてもいいから隙がないか探す。
「桑原先生は、進藤くんが騒がれる以前から目を付けていらっしゃいましたよね。新初段でも対局観戦していらっしゃいましたし。どこかで進藤くんの才能を感じられていたということでしょうか?」
週刊囲碁の編集者であり記者でもある天野が、机の上にノートを広げ、右手に持ったボールペンをゆらゆら揺らしながら、桑原に意見を求める。
天野は新初段の記事を毎年担当している。
ヒカルの時ももちろん天野はこの部屋で今と同じように対局観戦したが、思えばあの新初段も普通ではなかった。
プロ試験に受かったばかりの新人棋士に、トップ棋士側から逆指名。
そして対局当日は、本因坊のタイトルホルダーである桑原とリーグ戦では常連となった緒方、そして塔矢行洋の息子でありプロになる前から注目されていた塔矢アキラが観戦していた。
行洋が亡くなり、自身がsaiであると明かしてから、ヒカルは一度も負けることなく連勝を続けてリーグ戦にたどり着いた。
対局内容も圧巻の一言に尽きる。
全て中押しで、対戦している相手がヒカルと自身の力の差に歴然として対局意欲を失ってしまう。
決してヒカルの勝ち方が、相手を貶めるような酷い打ち方だったり、勝ちが過ぎるわけではなく、棋士としての才能の違いを見せ付けられて様々と実感してでの中押しである。
これで初段。
一体何人がヒカルと対局してこの言葉を対局後に呟いただろう。
それを天野も人伝いに聞いている。
ヒカルの才能は非常識で想像を絶するものだと。
プロではない天野がヒカルと対局する機会があるのかは分からない。
しかしこれから先、もし対局する機会があったしても、プロほどの実力がない自身では、ヒカルがどれだけ強いのか対局から伺い知ることは出来ないだろう。
知るためには、プロ棋士に尋ねるしか他ないのだ。
「そんなものないわい。前も言ったがアヤツが院生の頃、エレベーター前ですれ違っただけじゃ」
「すれ違っただけ……?」
「そうじゃ。小僧とすれ違った瞬間、ただならぬ雰囲気を感じての。ワシのシックスセンスもバカにしたもんじゃなかろうて。ひゃっひゃっひゃっひゃっ」
天野の唖然とした問いかけに、桑原は軽く笑い飛ばす。
その様子を向かいの席から眺めていた緒方は、反射的にどちらかといえば桑原の勘はシックスセンスなんて洒落たものではなく、昔話に出てくどろどろしいるお化けか鬼太郎の髪の毛アンテナだろうと思えてしまい、ボソッと
「妖怪が……」
つい、口から滑りでてしまった。
しかし、本当に緒方自身、無意識に呟いたものだったから、隣りに座るアキラでされ気付かないほど小さな呟きだったのに、アキラより遠い位置である向かいに座る桑原の耳には届いたらしい。
「何か言うたか?緒方くん。最近耳が遠くなってのう。どうも聞き取り難いんじゃ。もう少し聞き取りやすいよう大きい声で言ってくれんかの?」
空とぼけて耳を小指で掃除しながら桑原が聞いて、狸ジジイが!と緒方が罵倒してもそれは心内だけで、表にはおくびにも出さない。
さすがに慣れた様子でニコリともせずタバコを吸う振りをしてかわす。
「何も言ってませんよ。空耳ではないですか?やはりお歳なんですよ」
桑原と緒方の間で火花が散り、お馴染みとなった盤外戦が繰り広げられる。
「緒方先生も進藤くんに前々から目をかけていらっしゃいましたね。進藤くんが院生試験を受ける折は緒方先生が推薦されてますし、なによりまだ進藤君が正体不明だったsaiとして打っていたネット碁で2度も対局している」
桑原では記事になりそうな話は聞けないだろうと、さっさと見切りをつけ、天野はちょうどいいと桑原から緒方に話を振った。
「目をかけるというか・・・」
話始めた緒方に部屋中の視線が集まる。
saiの正体について緒方が初めから知っている知っていないは別として、はやり思うところがあってヒカルを気にしていたのがバレてしまい、どう答えるべきか迷い言葉が詰まってしまった。
ヒカルがsaiであることは、言葉の駆け引きが未熟なヒカルを上手くひっかかけ、そうと気付かせずに白状させた。
だが、最初に緒方がヒカルに興味を持つきっかけはというと、
「俺がアイツに興味を持ったのはsaiとは無関係ですよ」
そこまで言って緒方は視線を隣りのアキラに向けた。
緒方がはじめヒカルに興味を持ったのは子供囲碁大会での口出しと、まだ小学生だったがプロ並の実力を持っていたアキラに勝った対局の為である。
それが無ければヒカルに興味を持つことなく、院生試験も推薦しなかったと断言できる。
だが、肝心の対局内容まではアキラが黙秘したことで緒方は棋譜を知らず、曖昧に誤魔化した。
アキラにとってみれば負けた対局。
アキラが言いたくないのであれば、それをわざわざ口にするのは野暮だ。
案の定、アキラは緒方から視線を向けられて、口をぐっと噤み俯いた。
もしその対局棋譜の内容が分かれば、いくらかヒカルの棋力の秘密について近づけるかもしれないと思うのだが、ヒカルとの対局を話すつもりはアキラにはないのだ。
しかし、アキラが秘密にすればするほど興味が募るのは当然だろう。
アキラくんから進藤に矛先を変えるべきか。
あっちは逆にガキの意地で口を閉ざしそうだが、囲碁の棋力と違って言葉の駆け引きはとんと下手だからな。
が、ここでもアキラは口を開くまいと思っていた緒方の予想を裏切り、
「2年前、父の経営していた碁会所で進藤とボクは対局しました。それでボクは初めて進藤を知りました……。」
「えっ!?塔矢君!進藤君と2年前に対局していたのかい!?2年前なら、進藤君もだけれど塔矢君もまだプロになってないよね!全くの偶然?」
ヒカルとの出会いを語り始めたアキラに、それまでブラブラさせていたペンをぐっと握り、天野が身を乗り出し話にくいつく。
驚いたのは天野だけでなくモニター室にいた全員である。
院生になる前の進藤の話は、白川が行っている囲碁教室でヒカルが短い期間通っていたというくらいだった。
そこに全く別の話となれば、アキラは口を割らないだろうという予想が外れた緒方を含め、皆興味を惹かれないわけがない。
全員の注目がアキラに集まる。
「そうです。ボクはまだプロ試験を受けることすら迷っていた時期でした。プロになることに疑問はありませんでしたが、このままプロになってもよいのかとも迷っていたんです。そんなとき、進藤は碁会所にやってきたんです」
「進藤君は碁会所に1人で来たのかい?誰か保護者とか大人の連れは?」
淡々と語るアキラに、記者暦の長い天野が的確な質問を入れる。
昭和の時代なら話は別だが、平成のこの現代で、子供が1人で碁会所に足を踏み入れるには敷居が高い。
碁を打つ席料の問題ではなく、碁をする子供が少なく、大人しかいない店に小学生が入るには気後れするのだ。
だから天野がヒカルが1人で来たのかと問う意図は理解できる。
そこにヒカルが誰が別の大人と連れ添って来たのではないかと いう推測と共に、その人物がヒカルが碁を打つきっかけとなり、碁を教えた重要な人物ではないのかと予測しての質問だった。
しかし、アキラはふるふると2度左右に首を振り、否定した。
「1人でした。碁会所に来ることも初めてだったようで、席料のことも知りませんでした。店にボクしか子供がいなかったので、同じ年頃の相手と打ちたかったらしい進藤はボクを見つけ、一緒に打とうと誘ってきました」
語りながらアキラは脳裏に初めてあったヒカルの姿が思い出される。
明るく活発で朗らかに笑い、小学校の運動場でサッカーをしている同じクラスメイトたちのような、言ってしまえば碁に親しいとは思えない印象だった。
声をかけられたときも、一瞬どうしようかと迷いつつ、アキラを同じ年頃というヒカルの言葉に、無意識に惹かれていた。
同じ年頃の子供と遊ぶという経験が、他の子供に比べ自分が劣っていることくらい自覚していた。
けれど碁の道に進むことを決めていた自分と、まだおぼろげな将来の夢を抱き、碁に興味のないクラスメイトと会話する話題はほとんどない。
自然、クラスの中でも浮いた存在になっていたのだが、棋力は期待できなくても、大人ばかりと打つのではなく同じ年頃の子と碁を打つのもたまにはいいかもしれないと思い、アキラは軽い気持ちで対局を受けた。
「棋力がどれくらいかと尋ねれば、それなりに強いと言い、石を打てば、人差し指と親指で石を持つ初心者丸出しの打ち方。それを見て、僕は彼が囲碁を初めて間もない本当の初心者なのだと思いました。でも……ボクは負けました。それも進藤は明らかに力を抜いていた。彼はボクに指導碁を打ったんです」
「指導碁!?進藤が君に!?」
眼差し鋭く声を荒げたのは、天野ではなく隣りに座っていた緒方である。
師である行洋の息子として、同じ塔矢門下として、アキラが幼いころから緒方は知っている。
だからこそ、アキラがヒカルと初めて対局した時、アキラの棋力がどれくらいのものだったのか緒方は知っているし、アキラが対局に同じ歳のヒカルの負けたことは知っていたが、その対局内容までは知らなかった。
だが、よもやヒカルがアキラに指導碁を打っていたとは全くの予想外だった。
当時のアキラは十分プロ並であり、現にプロ試験に合格し2段だった芦原でさえ負けることもしばしばだった。
そのアキラ相手に指導碁を打てたなら、その時点でトップ棋士かそれに追随するくらいの棋力が無ければ、到底為し得ない芸当だ。
「はい。間違いありません」
はっきり頷いたアキラに、周囲から驚愕の溜息が漏れた。
それを受けて、最初にこの話題の質問を振った天野が、
「緒方先生はそのことをご存知だったんですね?だから進藤君に興味を持たれ、院生試験を推薦したと」
「ええ……。だだ、アキラくんと進藤が対局し、アキラくんが負けたことは知ってても、内容指導碁までは知りませんでしたよ」
道理でアキラがなかなか口を開かないわけだ、と緒方は改めて納得した。
ただ負けたわけではなかったのだ。
それまで同じ年頃の子供相手に負けるどころか、気を使って勝ちが過ぎないように打っていたアキラが、反対に指導碁を打たれたのだから。
同じ指導碁でも緒方や父親の行洋がアキラに指導碁するのとでは全然話が違う。
自分と同じ歳で、自分以上の碁を打つ相手が存在する。
ヒカルと対局した直後のアキラの驚愕は想像を絶するものだったろう。
「初心者同然の打ち方……しかし、進藤君はその時点で、プロ以上の棋力を持っていたわけだ。それなら進藤君がインターネットの碁でsaiとして騒がれ、そして塔矢先生と打つことでさらに実力を向上させることは可能なわけか……」
天野の一見して辻褄は一応通っているように緒方には見えた。
小学6年だった段階でプロ以上の棋力を持ち、それを隠し続けながら棋力を磨き向上させたのだと。
しかし、アキラと出会う前となれば、さらに謎が深まる。
白川の囲碁教室に通い始めたのは2年前。
行洋の碁会所に現われたのも2年前。
そして子供囲碁大会に現われ対局に横槍を入れたのも2年前。
ヒカルと囲碁の接点は、全て2年前から始まる。