『light』がヒカル本人か否か。
直接聞いたところでヒカルは否定するだけだろう。
解決策は、直に対局してみるのが一番いい。
――saiとして散々打って騒ぎを起こしておきながら、今更HNを変えて打つなんて愚の骨頂だ。だいたいタイトル戦の対局スケジュールで詰まっているくせにネット碁を打ってる余裕なんて。もうすぐ本因坊戦だって始まるのに
対してアキラ自身も対局やイベントの出演で忙しく、碁の勉強だっていくら時間があっても足りない。ヒカルを追う立場だからこそ寝食を惜しんで勉強こそすれ、戯れにアマと打っている余裕はこれっぽっちも無いのだから。
「ねぇ、アキラさん。ちょっと待って」
これから囲碁のイベントに出席するべく玄関で靴を履こうとしていたアキラを母親の明子が引き止めた。
「お母さん?」
「ごめんなさいすぐ終わるから。形見分けって程でもないんだけれど、名人のお祝いにこれを進藤君に譲ろうかと思ってるの」
遠慮がちに明子が差し出したのは長方形の桐箱だった。行洋の形見分けというからには、生前に行洋が使用していたものだろうと推察できた。
イベントの開始時間まで十分余裕がある。少し玄関で話したところで遅刻することはないだろう。差し出された桐箱を受け取りそっと開けて、さらに紫雲色の絹布の包みを捲りアキラの目が見開かれる。
「これは……」
「アキラさんさえ良ければだけど。でも最近の若い棋士の方はこういうものはもう古いって持たないかしら。緒方さんや芦原さんも持ってらしていないし、渡されても迷惑ならやっぱり止めて」
「いえ、僕も賛成です。今日のイベントは進藤も参加するからついでに渡しておきます。きっと進藤も喜ぶと思います」
渡すのをやめておいた方がいいかと否定的になりかけた明子を止めて、アキラも渡すことに賛同する。桐箱を開けた瞬間は確かに驚いた。と同時にこれを手に持つ行洋の姿が思い浮かんだ。
棋士としての行洋と常にその手にあったもの。
一瞬自分がこれを持つ姿を想像して、すぐに首を軽く横に振る。
――僕にはまだこれは相応しくない
代わりにヒカルが持った姿を想像すると、いつものTシャツにGパン姿で決して似合うとは言い難いのに、その手にあるのが不思議と自然に思えた。ヒカルの手の中にあることをそれ自ら望んでいるような。
「よかった。じゃあよろしくお願いするわね」
賛同してくれたアキラに、心配げだった明子がパッと表情を明るくさせた。父親の愛用品を息子のアキラが自ら譲るのではなく、自分から譲渡を提案するのはなんとなくアキラに悪い気がしていたから言い出すのをこれまで何度も躊躇してしまった経緯があった
しかし機嫌を悪くすることなくアキラが提案を受け入れてくれたことに、ホッと胸をなでおろす。
「でもお母さん、どうして今頃これを進藤に?」
絹布に包み直し、桐箱の蓋を締め直しながらアキラが尋ねると、明子は苦笑いして斜めに俯く。
「……行洋さんがまだ生きていた頃、たまに行き先も告げないでふらっと出かけていく時があったの。でも心配はしなかったわ。あの人、すごく嬉しそうな顔して出て行くものだから。自分では気づいていなかったんでしょうけど、前の日から変にそわそわしてて明日はまた出かけるのねって。アキラさんよりよっぽど行洋さんの方が子供みたいよね」
「全然気づかなかった……」
行洋がヒカルと内緒で会っていたのは既にアキラも知っていたが、明子の言うような行洋の様子の変化には全く気がつかなかった。
「行洋さんは進藤くんに会っていたのね。アキラさんにも誰にも内緒で」
どこか遠くを見ながら独り言のような明子の呟きに、アキラはどう言葉をかけてやるべきか逡巡する。
妻である明子にも行洋は話さなかった。それに明子が寂しさを全く感じない筈はない。
「正直、お母さんもこれを進藤君に渡そうかどうかずっと迷ってたの。でも行洋さんが持ってた名人に進藤くんがなって踏ん切りつかない気持ちに整理がついたというか、これを持つのに進藤君こそふさわしい気がしたのよ。彼ならきっと誰よりも大事にしてくれる気がして、行洋さんもそれを望んでいると思う」
そこで明子がアキラを振り返り、
「アキラさん」
「はい」
「いつか進藤くんの心の傷も癒える日が来るといいわね」
思いがけない明子の言葉に、思わずアキラは手に持っていた桐箱を持つ手に力がこもる。そのまま桐箱をバッグに入れ玄関を出て戸が締まってから空を仰ぎ見た。
「そんな日が本当に来るのか……」
むしろヒカルは傷が癒えることを望んでいないように思えて仕方なかった。
■
イベントそのものはイベント会場を借りて午後から行われるもので、中央でプロ棋士が対局し、それを別棋士か大盤で解説。そこから少し後ろでプロ棋士による指導碁が行われるというごく一般的なイベントだった。
対局者はヒカルと7段の都築、解説が畑中。そして指導碁にはアキラを含めた若手の棋士が割り振られている。
6冠の棋士が出演するイベントということで、参加する一般客は用意した椅子だけでは足らず壁にそって立ち見が出るほど盛況だった。
特に7大タイトルのうち残り一つ、本因坊タイトル戦を控えてマスコミ取材まできている。
それだけでなくイベント会場が東京ということで、本来こういったイベント対局はテレビ中継はしないのだが中継の問い合わせが棋院に多数寄せられたことで、公式対局でもないのにネット配信が行われていた。
ヒカルが碁盤が用意された壇上袖から出てくるだけで、会場から沸く拍手喝采。季節はまだ肌寒い4月なのに夏を思わせる異様な熱気がある。
そして「進藤名人」だの「進藤王座」など会場のいたるところから上がる歓声に、壇上に上がったヒカルは困惑を隠せないようで戸惑っていたが、棋院関係者はもっと囲碁が盛り上がってくれたらと決して悪い顔はしていない。
「進藤名人はまだトークするのは慣れていらっしゃらないですし、トークもお客さんは喜んでくれるんですけどやっぱり直接目の前で名人が対局している方が全員見れますし喜ばれますね」
満員御礼の会場にこちらも満面の笑みで係員が客の対応をする。
それを横目に見ながら、
――あれを手渡すのは帰り際でいいか
イベント前は打ち合わせで忙しく、忙しいイベント中に手渡されても困るだろう。
帰り際に手短に渡そう。
勝敗真剣勝負の対局ではなく来てくれた一般客に分かりやすい対局内容が対局者に求められるため、ヒカルも勝ち過ぎることはなく、森下の研究会で一緒の都筑もヒカルの意図を組んだ流れで打ち返す。
それを解説の畑中が冗談を織り交ぜながら、客たちにわかりやすく説明していく。
一回目の指導碁が終わり、会場脇で壇上の解説を見ながら休憩しようとして見知った人物を見つけて、昔からの付き合いの長さで自然と挨拶をと歩み寄る。
「こんにちは、梨川先生。いらっしゃっていたのですね」
舞台で主立って舞っていた頃は多忙でこういうイベントに顔を出すことは中々なかったが、引退しヒカルの後援会スポンサーになってからはヒカルが出演する都内のイベントにたまに顔を見せるようになった。
「塔矢くんお疲れ様です」
梨川の隣には上野もいて、アキラに軽く会釈した。
行洋と友人でもあった梨川と会うと、どうしても脳裏に蘇る記憶がある。
今思い出しても確かにそれは現実で見た光景なのに夢のようなひと時。
恐らくあれがきっかけで梨川はヒカルのスポンサーになると決めた。
能という一つの世界で芸を磨き頂点を極めたといって差し支えない人物が動くだけの大事だった筈なのに、表面上は何も騒がれない。記憶だけが頼りで、いっそう夢幻を見ていたような不気味な気分になる。
「次の王座リーグ戦出場、おめでとう」
「ありがとうございます。でもこれからが本番です。どうにか挑戦者になっても現王座があれですからね。王座だけじゃない他のタイトルも全部……」
壇上で次の一手を考えているヒカルを見やり、アキラは苦笑する。
自分はようやくリーグ戦でTOP棋士だちと戦うようになったのに、一年遅れてプロになったヒカルはすでに6冠の棋士となり残る一つ、本因坊も手に入れようとしていた。
対局するときは常にヒカルが上座に座り、挑戦者たちを迎え打つ側である。
「勝てる気がしないかい?」
「正直、僕と彼の実力差は否めません。でも勝ちたいと思う気持ちだけは捨てずに最期まで打ちます」
視線だけアキラに向けて微笑む梨川に、アキラは首を横に振った。
勝つ気持ちを無くし勝負を捨ててしまったら、プロ棋士失格だろう。まずはリーグ戦を勝ち抜く、そうしてようやくヒカルと対等な場に座ることが出来る。
「進藤はあれから舞うことはありましたか?」
「いや。一度きりだ。だがそれでいい」
「それでいい?どうして進藤があの舞を知っていたのか、知りたいとは思われないのですか?そうすれば敦盛の復興にもっと役立つのに」
素朴な疑問でアキラは尋ねてしまっていた。
能を極めたからこそヒカルの舞に興味を持たない筈はないのに、それでいいと言及する気はないと言う梨川がアキラには信じられなかった。
能ではなく囲碁でもヒカルはその謎めいた強さを内側に秘めている。恐らく行洋だけが知っていたその秘めた謎を知りたいと思わない日はない。
だがアキラの一言にぎょっとしたのは梨川ではなく隣に座る上野で、けれど直ぐに触れてはいけない部分に触れてしまったような複雑な表情でうつむき加減になる。
「休憩時間はまだあるかな?余裕があるなら少し外に出ようか。進藤くんが出演するイベントは盛況で結構だが、年寄りにこの人の多さは少し体に堪える」
アキラの疑問に梨川は一度深く目をつぶり、隣に座る上野にここで待っているように行ってから立ち上がった。次のアキラが担当する指導碁までまだ30分余裕がある。上野にも聞かれたくない話なのかと軽く上野に頭を下げてから、アキラは梨川の後を追う。
「いい天気だ。こういう日は外を出歩くと気持ちいい」
廊下でアキラの姿に気づいた客たちがチラチラと向けてくる視線に気づきながら、会場のホールを出ると一気に会場の
熱気から開放され4月らしい暖かな日差しと涼しい気温、会場ビルのすぐ隣に整備されている遊歩道に植えられた青々と茂った桜の葉に視線を奪われる。
2人以外まわりに人がいないことを確認し、
「私もね進藤くんの秘密を全く知りたいと思わないわけじゃないよ。だがこの距離でいい。私から何か言う必要はない。彼らが気まぐれに見せてくれるもので満足しよう」
どうしてヒカルが戦前に失われた敦盛の舞を知っていたのか、もし知ることが出来るなら知りたい。
これまで生きてきた能の世界で自分の知らない世界がそこにあるかもしれないのだ。興味を惹かれないわけがない。
だが、そこは恐らく人が土足で踏み込んではいけない場所ということも、同時に察することが出来た。分を弁えず欲を出した者には相応の罰が降りかかる。
しかしそれをアキラが理解出来るはずもなく、
「彼らと今おっしゃいましたか?梨川先生は進藤から何か聞いているのですか!でしたらどうか教えてください!」
「何も聞いてはいない。ただそこに在るのを感じるだけだ。それについて、これから先も尋ねる気はない。私は彼を後援し支える立場の人間を選んだ。彼を悪戯に動揺させる気は微塵もない」
「だからこれまでずっと表立つことを避けていらっしゃったのに、進藤のスポンサーに梨川先生は名乗りを挙げられたのですか?下手なスポーンサーがついて利益だけに目がくらんで進藤を追い詰めさせないように」
アキラの問いに梨川は微笑むことで肯定した。
自分がヒカルのスポンサーとなる理由はそれが全てではないが、スポンサーになるだけの金を持っているだけに人間は欲に走りやすい。そんな者たちにヒカルを巻き込ませたくなかった気持ちはアキラの言うとおりあったのだから。
「昔からそういった類のモノに人は畏敬の念を向け恐れたものだ。それらは見る者次第で鬼にも神にもなった」
ヒカルの傍に感じる気配。悪いものではないということだけは分かる。そしてヒカルもその気配を大事にしている。
梨川のように元々能の家柄で幼い頃から能に深く関わることで、そちらの気配に敏感になってしまった背景を別として、全く無関係だった行洋はどうだったのだろう。
「塔矢先生にそれはどう映り、結果として何故隠そうと考えたのか。きっかけは進藤君の方から塔矢先生に話したようだが、塔矢先生は図らずも知ってしまった事実を幸福と捉えたか不運と嘆いたか。私ならばきっと感謝しよう」
「感謝、ですか?」
アキラの瞳が大きく見開かれる。
「自分を選んでくれてありがとう。話してくれてありがとう。代わりに自分に出来る限りのことをしよう。君たちを必ず守ろう。私ならそう考える」
「だからお父さんは出来る限りを尽くして、saiを隠し守ろうとした……」
自分の胸一つに全てを納め、誰にも話さず、ヒカルが窮地に立たされれば慣れないネット碁を打ってヒカルのアリバイを作った。
「先ほどの上野は済まなかった。私の身近な者には普段から気づいてもそちら側には決して自ら立ち入るなと皆に言い聞かせてある。塔矢くんに深い意図はなかったのは分かっているが、いきなりで驚いたんだろう」
だから気にしないでくれと前置きしてから、
「人は強欲な生き物だ。だからこそ自分を律し、分を弁えなければいけない。でないと魅せられるだけなく、魅入られて囚われるかもしれないよ。塔矢先生のように」
話の途中まで桜の木を見ていたのに、後半に振り返りアキラをじっと見据えて言った一言に、アキラは急の手のひらに汗が滲み出してくる。
そして何故梨川が自分を外に連れ出したのか理由もここに至ってようやく察することができた。
――進藤にこれ以上深入りさせないための釘差しか
行洋という影の庇護者は失ったかもしれないが、それに勝るとも劣らない怖い支援者をヒカルは確かに得たらしい。
「脅し、ですか?」
「年寄りの忠告だと思って聞いて欲しい。恐らく進藤くんが背負うものは私たちが思う以上に重いものだろう。それでも塔矢くんが知りたいと欲するなら進藤くんを酷く傷つけることを覚悟なさい」
「そうして進藤が回りを振り回すことは黙っていろと梨川先生はおっしゃるのですか?ただ振り回されて我慢するだけなんて!」
思えば、小学生の頃初めて駅前の碁会所であった時からアキラはヒカルに振り回されっぱなしだ。
プロ以上の実力があった自分に指導碁を打ち、ネット碁で騒ぎを起こし、行洋が亡くなってからは自身がsaiであることを認め怒涛の快進撃を続けている。
「逆に問うが、君は真実を知った後どうするつもりなのだね?」
「知った後?」
問われてアキラは咄嗟に何も言い返せなかった。
だた真実だけを欲して、知った後のことなど何も考えていなかった。
「真実を知ることが出来て満足するか、知ってしまった真実に今よりも進藤君を責めるか、そういうことを考えたことは?」
「考えたことがありませんでした………」
「本人の望む望まざるに関わらず選ばれたのは進藤君だ。背負っているのは進藤君だけで、他人がどう足掻こうと共に運命を背負うことは出来ない。真実を知りたい君の気持ちは分かる。しかし無理やり誰かが聞き出したところで進藤くんが今のように心を閉ざすだけでなく、二度と碁を打たなくなるかもしれないことを覚えておきなさい」
静かな声に言葉を返すこともできなかった。
自分が目先のことしか考えていなかった自分の未熟さを様々と目の前に突きつけられる。
「……………」
「そういえばイベント前に進藤君と少し話したが明日久しぶりにゆっくり休めると言っていたよ。皆には内緒にしてくれと口止めされたが、タイトル戦ばかりでたまにこっそりネット碁を打つと息抜きになると。どうやら彼は塔矢先生の姿を私に重ねているようだ」
急に口調を明るくさせて梨川が話題を変えてきて、咄嗟に話題についていけなかった。
「梨川先生?」
「君に本当の進藤くんが捕まえられるかな?塔矢先生が真に守ろうとした進藤くんを君は何を犠牲にしても見つける覚悟はあるかい?」
「進藤を見つける……?」
ヒカルがまた懲りずに素性を隠してネット碁を打っているらしいということに怒りを覚えるより、謎かけのような梨川の問いかけの方がアキラの頭の中を占めていて反応できない。
そんなアキラに、
「そろそろ会場に戻ろう。君の休憩時間もあるだろうし、私もいい加減戻らないと上野が探しに来てしまう。今夜は進藤君と食事をする約束をしているんだが、よかったら塔矢くんもどうかな?」
「いえ、今夜はちょっと用事が……」
「それは残念だ。今度は是非塔矢くんも一緒に何か美味しいものを食べにいこう」
朗らかに微笑んで会場の方へと戻っていく梨川の後ろ姿が消えてから、たっぷり5分はその場に立ち尽くしていただろう。
だが、前へと歩み出したアキラの眼差しには一片の迷いも消えていた。