~014~
『ならば、何だと言うんじゃ? まぁ如何な命令であろうと従う……までなのじゃが……』
忍個人としては、バトル展開がご希望だったらしく、幾分やる気をなくした御座なりの口調になっていた。
本当に任せてしまっていいのか不安になってきた……。
でも、改めて聞き返してみると、とんでもない台詞だよな――如何な命令であろうと従う。絶対服従の宣言。
人間の欲には、いろいろあるけれど、支配欲ってのもまたその一つだもんな。
「じゃあ、『ワン』と犬のように吠えてみてくれ』
つい出来心で、ゴールデンウィークの折、朽ちかけた倒壊寸前の廃ビル、叡考塾にて忍に初めてドーナツを食べさせてやった時に(本来はあの軽薄な男、忍野メメへの手土産のつもりだったのだけど)、達成出来なかった唯一の心残りを口にしたとしても、まあ、まさか、なれの果てにして搾りかすに成り下がったとはいえ、伝説とまで謳われた怪異の王。
その気高き誇りは、確固たる信念は、健在のはず。
『ワン!』
躊躇なしに言いやがった……ここは吠えたと言うべきか。
しかも、しゃがみ込んで両手を地面(座席のクッション部分だが)にそえて、いわゆる『お座り』のポーズに、脳内に響く声に合わせてリップシンクまでも…………完全に犬になりきっている。
ほんと、魔が差しただけで、本気でもなんでもなかったんだけどな…………。
元貴族としての最後のプライドは、今この時をもって見る影もなく消失し、落魄してしまったようだ。
そんなにドーナツが大事なのかよ……なんて浅ましい奴なんだ……。
つっても、僕の言葉には絶対遵守と言っても過言ではない強制力があるんだもんな……吸血鬼の主従のルールは血の盟約、魂の絆、絶対不可侵にして、揺ぎ無き掟。
主の命令には逆らえない。それが本人にとって、どんなに不本意で不条理で不合理な内容でもだ。
心の中では苦渋に耐え忍んでいるに違いない。
『ほれ、次は何をすればいいのじゃ? ――――ふっ……くっくっ、くくくくくく。こんな容易いことで、ドーナツが食べ放題なんて、笑いが止まらぬ、濡れ手に粟の利益じゃな。あるじ様の扱いなんぞ、既に掌握しておるわ。造作もなきことよの。かっかっか、ちょろいの!』
心の声が駄々漏れである。
訂正。心の中では私腹……はたまた至福に酔い痴れ、僕の事を嘲弄してやがった。
何とも痛ましいくも居た堪れない話ではあるが、互いが互いに似たような思考だったんだな……犬は飼い主に似るとも言うもんな……この主人にしてこの
もし、世にいる犬の……ペットの思考が読み取れる道具があったとすれば、案外皆、この忍みたいな思惑を抱いているのかもしれない。
餌を見せなければ、芸をしない犬ってのはよく聞く話だし、普段からの点数稼ぎに余念がないのであろう。
媚を売って、自身の生活水準を上げるのに苦心していると思うと、遣る瀬無い気持ちになってくるな。
そういや、『尻尾を振る』って言葉も、『媚びへつらって、人に取り入る』って意味で使われている言葉だから、昔からそういった見解が持たれていたのだろうか。
打算が渦巻く、シビアな世界である。
あと聞き捨てならない台詞があったな。僕は一言も食べ放題なんて言ってないぞ!
僕は「ミスドに連れてく」と言っただけだ。
言い換えれば、忍をミスタードーナツに連れてってやるまでが契約の範疇で、そのまま何も買わず帰ることだって可能なのだ!
食わせてやるとは一言も言ってない。これぞ叙述トリックの応用! ただの屁理屈ともいう!
と、そんな意地の悪い事をして、また泣かれても困るので(女の涙は武器になるとはよく言ったものだ)、野口先生ぐらいの犠牲(出費)は覚悟している……が、まかり間違っても食べ放題などあり得ない。
こいつの胃袋に底があるのか解ったもんじゃないし、それだけは断固として阻止しなければなるまい。
って、こんな事をしてる場合ではなかった。
千石を待たせているので、そこまで時間の猶予はないのだ。
忍への無茶振りが出来るまたとないチャンスに後ろ髪を引かれながらも、懸案事項である本題を切り出す。
「単刀直入に言う。お前、千石とキスしてくれないか」
そう。これこそが僕の考え出した作戦。
作戦はいたって簡単、僕の代わりに忍にキスをして貰って、千石に気付かれる前に影の中に引っ込む。
忍の俊敏な動きなら、その程度容易いことだろう。
名付けて、『忍法影武者』。
“忍”法が『忍』の名前にかかっているのと、影を通じた僕達だからこそのネーミングである。
世に言う身代わりの術と言い換えてもなんら差し支えない。
あれ、何処からとも無く、ブーイングと、落胆の声が………あと僕のネーミングセンスの無さを嘆く声が聴こえてきた気がするぞ。
そして何とも不名誉極まりない名前で呼ばれた気もする。
僕のこと意気地がなく、情けない根性無しの駄目男、いざとなったら尻込みして二の足を踏んでしまうような侮蔑を含んだ名前で呼ぶんじゃない。僕の名前は阿良々木だ!
律儀に心の中で幻聴に対してもツッコミを怠らない、骨の髄までツッコミ体質な阿良々木暦である。
まぁ気のせいなのだろうけど……気のせいのはずなんだけど……気のせいだったらいいのにな……。
『千石とはお前様の後ろに居る小娘のことか。ふむ、近くで見ると、本屋の小娘と性質も髪型もつくづく瓜二つじゃの』
千石の顔を見定めた忍が、徐にそんな謎めいたことを言う。
本屋の小娘? 誰だそれは? 僕にそんな知人はいないぞ?
『しかしなぁ……あの作品は好かん』
作品? 架空の話なのか?
苦虫を噛み潰したような顔になって、嫌悪を露にする忍だった。
『見た目は金髪の幼女でも、その実500歳を越える伝説の吸血鬼。まぁあっちは600歳前後じゃったかな。ううむ、キャラが丸被りで、いい迷惑じゃ。お前様もそう思わぬか? 我があるじ様も、女をはべらすという性質ではあの年端も行かぬ教師といい勝負じゃろ』
…………本屋で千石と似通っている性質……幼女の吸血鬼……そして女をはべらした教師? って魔法先生のことかよ!!
穿ったこと言うもんじゃありません!
そして、僕のことを何だと思ってんだよ!! 僕にもあのサウザンド・マスターの息子さんにもいい迷惑だよ!!
『――して、そこの小娘とキス? 儂には、お前様の言っている意味がわからん』
って肝心な内容の方は今ひとつ伝わっていなかった。
『あ~あれか。我があるじ様はサフィズムを鑑賞したいのか?』
僕が言及するよりも先に、一人納得したように忍が推論を提示するのだけど、
「サフィズム? 何なんだそれは?」
今度は、僕が忍の言っている言葉の意味――“サフィズム”という語句の意味が理解できなかった。
『わからぬか? お前様の想い人と、奴隷の小娘とのやり取りを散々目撃しておるじゃろうに』
想い人ってのはガハラさん――戦場ヶ原ひたぎのことで、奴隷の小娘ってのは、もしかして神原のことか?
それにしても、奴隷の小娘って…………神原本人が僕のエロ奴隷と公言しているのだから、忍に非はないのだろうけど、もっと言葉を選べよな……。
「全然検討もつかねえよ」
『ふむ。そうか……レズビアン――つまり女性の同性愛者のことで、現代風に言い直すなら、百合とかいったか』
「ちげぇよっ!!」
最小限の声音を用いて、一喝する僕。
あんなもん見ても全然嬉しくないし、僕にとってそれは最近の悩みの種なんだ!
仲良きことは美しきかなって喜んでもいられない、一度は離縁してしまった二人が仲睦まじく交友を温め合うのは大歓迎だが、愛を育むのは遠慮して貰いたい。
Sっ気のある戦場ヶ原と、そもそも見られることに無上の悦びを感じる変態、露出癖、百合属性がある神原なのだ。
それこそ、わざと見せつけるように、あられもない淫らな格好で、あんなことやそんなことまでっ!!
というか、また話が脱線してる。今は千石への対処が先決だ。
再度、早口で僕の計画の詳細を忍に伝えた――のだが、忍はなんとも曖昧に頷き、生返事を返すだけだった。
「なあ、忍……お前、ほんとに解ってるのか?」
『お前様の目論みは重々承知しておるよ…………しておるが……』
と言葉を濁してから、
『確認になるのじゃが、これは命令か?』
「違う。これは自分勝手な僕の願いだ」
『ふっ。かかっ、つくづく人のよいお方よの。その言葉、しかと承知した』
結局、甲斐甲斐しくも僕の言葉を受諾してくれたのだった。
~015~
「じゃあ千石……いくぞ……」
「うん、暦お兄ちゃん……撫子は、いつでも準備OKだから……」
僕の声にびくりと反応したが、それも一瞬のことで、すぐに受身の態勢――そっと唇をつき出す千石だった。
薄目を開けているのを指摘したこともあり、今も双眸はしっかりときつく閉じられていた。
僕の頼みの綱であるところの忍は、僕と千石との間に佇立状態で、いつ千石にばれてもおかしくない、綱渡り的状況である。
取り敢えず現時点においては、忍の存在を気取られた様子はなく、忍と千石の背丈の問題も、千石が座っているので、丁度いい塩梅の高さだった。
上手く事が運ぶかは、忍の綱の太さに祈るしかない。
しかし、千石を騙すみたいで、あまりいい気分じゃないよな。
それでも、僕にとって大切な妹的存在の女の子の唇を奪うなんて真似は、どう考えてもよくない。
心苦しくはあるが、ここは適切な処置として一時凌いでおいて、千石が落ち着いたら、事の詳細を伝えればいい。
千石もこの極限状態で、パニック症状に陥って、冷静な判断力が欠如しているに過ぎないのだ。
嘘も方便ってことで…………。
と、それらしい言葉で言い逃れし、言い繕うことはここまでにしておく。
だってそれは全て自分に都合のいい自己弁護にすぎないのだから。
僕には、阿良々木暦には――戦場ヶ原ひたぎという歴としたとした彼女がいるのだ。
それこそ、妹達の唇を奪った僕だけど、千石は―――いくら妹的存在とは言っても、それは妹ではない。
僕は千石を一人の女性として見ているのは確かで……大変不本意であるのだけど、節操なしで名を馳せている僕だから、僕だからこそ、本当に越えてはいけない一線はわかっているつもりだ…………我ながら説得力に欠ける発言だとも承知している。
(頼んだ、忍……)
心の中で一任し、「千石、いくぞ」と、千石に向けた言葉でありながら、その実――忍への合図を送る。
事の次第を見守るため視線を下に向けると、なぜか力強く鋭い黄金の眼と視線がぶつかる。
合図を送ったら直に行動するように頼んでいたのに……何やってやがんだ?
早くしないと、千石に気付かれてしまう。
怪訝に思っていると、忍が笑みを――それは取って置きの悪戯を試そうと目論んでいる子供が浮かべる、無邪気さと邪心が織り交ざった、不敵な笑みと酷似していた。
なんだその表情は、と僕が言い知れないおぞましさに襲われたのも束の間!
急転直下――そこからは怒涛の展開、刹那の早業だった。
瞬きする間に起こった不測の事態なのだが、僕にはその一連の出来事が、あたかもスローモーションのように感じられた。
バナナの皮で滑って階段から落下するというような危機的状況に見舞われたとすると、その瞬間、周りの風景がやけに緩慢になったり、様々な思考、通常では在り得ないほど多くの感情が駆け巡ると聞く。
死活に関わる状態になると、脳の処理速度が跳ね上がり、どうにか状況の把握に専念しようとするのだとか。
どうにも感覚的な話なので、実証などできないし、錯覚、勘違いの類なのかもしれないが……。
忍が細腕を伸ばして(多少跳躍したかもしれない)僕の胸座を引っ掴むと、その掴んだ状態で下方――斜め下に一気に引っ張られる。
昨日僕の血液を摂取したばかりだから、忍の力は“人間”の比ではなく、不意打ちなど関係なしに抗う術などなかった。
されるがままに、バランスを崩され前のめりに倒れ込む。
当然、倒れこんだ先には千石が居て、依然、目蓋を下ろしたままの唇をつき出した体勢で、僕の口付けを待ち構えている。
胸座を掴まれている関係で、必然的に顔が、というより頭部が押し出されているので、このままでは千石に頭突きをお見舞いする破目になってしまう。
血塗れの惨状が瞬時に脳裏に過ぎり、咄嗟の判断で首を上に逸らす僕。僕自身も忍に血を分け与えた相互作用によって、動体視力や身体の反応速度が普段より底上げされていた賜物だった。
だが、それは最悪を回避しただけであって、このままでは衝突事態は避けられない。
避けられない――はずだったのだが、いくら時が経っても(数秒に満たない僅かな時間ではあるが)、痛みも衝撃もなく僕は文字通りの意味で、千石の“目と鼻の先”で――、吐息がかかる距離――、紙一重の隙間を保って――、僕の唇と、彼女の唇がぶつかる間際――、唇が触れ合うその瀬戸際で静止していた。
いや、この場合、“静止”という表現は適切ではない。
もっと正確に表現するなら“寸止め”である。有ろう事か寸止めされたのは、僕自身だ。
(忍、何しやがる!!)
声には出さず心中で非難を浴びせる……それが通じたのか定かではないが、忍が念話で語りかけてくる。
『阿呆』
忍は短く一言、呟いてから、
『あまり動揺なされるな。少なからず、儂にもお前様の心情が伝播するのをお忘れか? 気持ち悪くてしゃあないわ。あぁあぁあぁ、何が悲しゅうてこんな呆気の眷属になってしまったんじゃろうな……』
心底呆れたように、迷惑千万であるというように、侮蔑と落胆が合わさった愚痴を漏らす。
『我があるじ様よ、これは忠告じゃが――こんな浅知恵、十中八九そこの小娘には看破されるじゃろうよ。儂の唇と、お前様の――雄の唇が同一なわけなかろう』
言われてみれば、そうかもしれないけど……それじゃ、万策尽きたってことじゃないか。
って、それはそれとして、何で僕にこんな真似しているんだよ!?
『あまり儂を失望させてくれるな。女の一人や二人にたじろかされるとは実に嘆かわしい限りじゃ。ほれ、さっさとやってしまえ』
そう言い残し忍は僕を見捨てて影の中に沈んでいきやがった。
この鬼! 悪魔! 人でなし! ……………いや、鬼だし、悪魔みたいなもんでもあるわけで、人でもないんだけどさ。
恩着せがましく言うつもりは毛頭ないけど、お前を助けてやった事、忘れやがったのか!?
何が吸血鬼の絆は魂の絆だ! 主従のルールは絶対で、主の命令はどんなに不本意なものでも逆らえない、じゃなかったのかよ!
そんな責任転嫁も甚だしい思考に耽っていたのだが……………………僕は致命的な思い違いをしていることに、今更ながら気が付いた。
忍は僕に念を押して確認していたではないか。
忍に命令かと問われた僕は――これは自分勝手な僕の願いと、僕自身がそう宣言していたのだ。
そして、忍はそれを受諾した。
命令でないのならその裁量は忍に委ねられ、生かすも殺すも忍次第。
結果、僕の願いを棄却した。
拱手傍観――見殺しにした。
だが、その見解さえも大間違いだった。
この吸血鬼が……この悪魔が、そんな生ぬるい処置で満足するはずなかったのだ。
影に沈んでいったかに見えた忍が、最後に僕の足首を持って体勢をくずさせ――断崖絶壁に追い詰めただけでは飽き足らず、最後には突き落としていきやがった! とんだ『吊り橋効果』だ!
人の窮地をあざ笑うかの如く悪魔の所業。
その弾み、有ろう事か本当に……盛大に……八九寺との唇の端が触れ合ったというレベルの話とかじゃなく、正真正銘のマウストゥマウス。唇と唇。
僕は…………阿良々木暦は、妹的存在である妹の同級生にして中学2年生の年下の純真無垢な、穢れを知らぬ女の子……千石の、千石撫子の唇を奪ってしまったのだった。