~008~
「千石、怖くないか?」
「うん、大丈夫。全然怖くないよ」
対面に座った千石の言葉は力強かった。どう見ても恐怖を抱いているようには見えない――寧ろ、表情は嬉々としている。って事は、怖がっているのは僕だけか。
考えてもみれば、千石ってジェットコースターとかも心底楽しんでいたようだし、これぐらいへっちゃらだよな……。
「そっか……なら、いいんだけどさ…………」
現状を説明すると、僕と千石は観覧車に乗ってるのだった。
これだけでは、僕が観覧車に乗って怖がっている、高所恐怖症の情けない男子高校生になってしまうので釈明させて頂くが、現在進行形でこの観覧車が揺れているのだ。ユラユラではなく、ガタガタ。
鉄が擦れる音が、怖いの何のって! 断続的に聞こえてくる鉄の軋む音に、否応なく全身が総毛立つ。
原因は、整備不良とか観覧車の不具合ではなく、強風に煽られているから。上空で不安定に揺れ動くゴンドラは恐怖以外の何物でもない。
内心では震え慄いているのだけど――千石が居る手前、表情や言動にはおくびにも出さず、平静を装っている。
地上がどんどん遠のいていく。見下ろせば、人の姿が豆粒のよう。『見ろ! 人がゴミのようだ!」なんて心の中でのたまいつつ、口にしたのは至極まともな感想だった。
「にしても、すごい景色だな」
窓の向こう側には緑豊かな山並みが広がっていた。勿論、エンジェルランドの全貌を見渡すことも出来る。
突風に煽られ揺れ動くゴンドラのせいで、内心では、そこまで景色を堪能しているわけではなく、軽微の現実逃避といって差し支えない。
お喋りに興じれば、幾分気が紛れそうだという、身も蓋もない考えでもあった。
「うん、いい景色だね。人が蟻さんみたいに見える」
園内を移動する人の姿が、巣の中を縦横無尽に行き来する蟻の姿に見えたのか。なかなか発想が柔軟で、僕との感性の違いがよくわかる。
今日の千石は饒舌とは言えないまでも、いつもに比べれば口数が多く、よく自分から喋ってくれる。自分の殻に閉じこもっているよりは、断然いい傾向だ。
「暦お兄ちゃんのアホ毛がもう一本あったら、蟻さんの触覚みたいでよかったのに」
「まてまて。確かにアニメでは、僕の頭髪の一部が意思表示までする鬼太郎もビックリの摩訶不思議な物体Xとなっていたが、実際にはあんなセンセーショナルなもんはついていない! あんなアホ毛は架空のものだ! フィクションだ!」
なんで僕の周りの人間は、僕を蟻にしたがるんだろう。戦場ヶ原なんて、蟻が好き過ぎて、蟻の巣キットなんて買ってやがった(蟻の名前はアリリキ)。
しかも、蟻が如何に素晴らしい生命体か、僕と逐一比較しながら御高説下さった。どちらが上で、どちらが下の立場かは言う必要もない。
話が前後してしまったが、この観覧車が本日最後のアトラクションとなっている。帰宅時間を考慮すると、閉園時間までいることは難しかったので、僕の判断でそう決めたのだ。
僕がその旨を伝えると、千石は少々不本意そうにではあるが、頷いてくれた(本心としては、もっと遊園地で遊んでいたいのだろう)。
千石の気持ちに応えてやりたいのは山々だったけど、あまり遅くまで拘束するのもよろしくない。
一応千石は、親に帰りが遅くなると伝えてはいるが、それでも限度がある。ここは我慢してもらうしかなかった。
そんな訳で、最後を〆るアトラクションとして千石がチョイスしたのが、やはりと言うべきか、この遊園地で尤も人気の高い大観覧車。
エンジェルランドの看板を背負っているといっても過言でなく、この遊園地自体のパンフレットや市販の情報誌なんかにも、一押しのアトラクションとして紹介されている。
パンフレットによると、最高到達点が120Mにも達するという、かなり大型なもので、『天国に一番近い遊園地』の謳い文句通り、高さに関しては徹底的に力を入れているようである。
一周にようする時間は約20分。エアコン完備で夏は涼しく、冬は暖かい。またゴンドラ内にはスピーカーが設置されており、音楽を聴きながら景色を遊覧できる。
無音の中で話すよりも、多少BGMが流れていた方が、心も落ち着き話が弾むものだ(今は強風の為、幾分効果が薄れているのは否めない)。雰囲気作りや、沈黙を緩和するのに適した、心憎い配慮である。
しばし、観覧車から見える景色を語らいつつ、折々に世間話をしていた(主に漫画についての議論)。
そうして、観覧車に乗って五分ほどが経過して――丁度、僕達の乗るゴンドラが、観覧車の中腹辺りまで上ってきたところで唐突に千石が躊躇いがちに口を開いた。
「ねえ……暦お兄ちゃん。少しの間、目を瞑っていてほしいな」
「……………え?」
千石の背後から照らす夕焼けの赤さとはまた別の――自身の発汗による赤ら顔。
ここで熱でもあるんだろうか、なんてお門違いな間違いする奴なんていないだろう。
だって、これはどう考えても“あれ”だよな。
観覧車の中で二人きり。男と女。千石の恥ずかしそうな顔と、極めつけの―――このいかにもな常套句。
そこから導き出される答えは――――接吻。
いやいや、別にこんな古風な言い回しをする必要などないのだけど、余りにも予想外な展開に、僕は驚き戸惑っているのである。
「……ちょ、ちょっと待ってくれ千石!」
ただ、現状は理解できたとしても、千石の真意が分からない。大人の女性に憧れた、夢見る少女的な感覚なのだろうか?
年上の男と付き合えば――交際した男女の愛の営みを経験すれば、自身も大人の仲間入りが出来るなんていう、勘違いも甚だしい思い込み。
僕は法規上ではまだ二十歳に満たない子供だけど、千石から見れば十分に大人の区分けにされるはずだ。だが、そういうものは往々にして時が経過すれば、後悔へと変ずるものだ。
若気の至り。千石に早まった真似をさせるわけにはいかない。
「な、なぁ千石……千石にはまだ早いんじゃないのか?」
僕の言葉に千石が首を振る。
「そんなことないよ、もっとちっちゃい子だって……」
「でもさ――」
最近の子は、気が早いんだな。千石より年下となると、下手をすれば小学生ってことになる。しかし、ここは模範となる解答を提示してやらねばなるまい。
「千石の気持ちが分からないでもないけど、後々に後悔することになるぞ。冷静になって後で思い返してみれば―――」
「そんな事ないよ。撫子……ずっと我慢してたんだよ」
僕の口上を遮り、切実に訴えかけるように――千石の嘆願は僕の心に楔となって打ち付けられた。
畳み掛けるように、更に千石が言葉を紡ぐ。
「それに、チャンスは今しかない……よ」
千石のような恥ずかしがり屋な子にとっては、人目に晒されるのは、何としても避けたい重要事項なのだろう。
この観覧車という衆目の視線から隔離された空間は、千石にとって待ち望んでいた場所というわけだ。
「……ねえ、暦お兄ちゃん」
力強く、それでいて酷く脆いような二律背反とした不思議な声音。明確な言葉ではないのだけど、千石の呼びかけの意味は催促だ。もしそのまま言葉が続いていたとしたら『はやく目を瞑って』だろうか。
「でも……」
言葉を濁す僕。千石の想いを無下にすることは憚られるし、今日は千石のお願いを訊いてやるつもりでここまで来たのだ。
僕の心が天秤のように揺れ動く。正に今のゴンドラと同じように。
「暦お兄ちゃん」
更に千石が言葉を重ねる。
結局――千石に押し切られる形で、僕は促されるままに目を閉じてしまった。
自分の意志が薄弱で、状況に流される。一時の感情に左右される。強い想いに簡単に淘汰されてしまう。
薄くて弱い阿良々木暦――そう、僕を揶揄した人物の顔が浮かぶ。
正しく……その通りである。
~009~
全くの暗闇。目を閉じているので当たり前なのだが、視覚が閉ざされた分だけ、聴覚がより鋭敏になっていた。
僅かに聞こえてくる物音。ゴソゴソと何かを漁るような…………何かを探している?
吸血鬼の名残として人間の能力が底上げされている僕なので、聴覚も例外ではない。確実にとはいかないまでも、大まかに千石の動きを推測することができた。この閉じられた空間ならば、普通の人間だって十分聞き取れる範囲内だろうか。
「暦お兄ちゃん……もう、いいよ」
と、千石は――僕に“何も”しないまま、そう言った。
あれ? おかしいな。僕、千石にキスされてないぞ?
心中で訝しがりつつ、ゆっくりと目蓋を開く。
まず、最初に目に飛び込んできたのは、逆光となって降り注ぐ、夕焼けの赤い光。
そして、窓枠の下には『天使』がいた。黒髪の天使が其処にいた。
より明確に言い表すのならば、天使の姿をした千石である。
別に純白の羽衣を纏っているわけでもないし、背中から白い羽が生えているわけでもない。千石の衣服や、身体に変化があったわけではない。
目を瞑ってから開けるまでの僅かの間に変貌を遂げたのは、千石の頭部と、頭の上だ。
彼女の頭上に、天使の光輪が浮いている。しかも。いつのまにか……いやいや目を閉じている間にだが、麦わら帽子は膝の上に置かれており、その代わりに――千石のトレードマークの目を隠す前髪がかきあげられ、おでことおめめが顕わになっていた。
「ど……どうかな?」
妙に甲高い緊張した声で千石が僕に問う。
「……ん? あ、ああ。似合ってるぞ。思わず見蕩れるぐらいによく似合ってる。天使がいるのかと思っちまったぜ。うん、本物の天使みたいだ」
在り来りな表現。しかしこれが一番適した言葉とも言える。
天使。『なでこエンジェル』だ。
これはお世辞でもなんでもなしに、本心からの言葉だった。
後ろから射す光が後光のように千石を照らしている。それが、より千石の姿を幻想的に浮かび上がらせていた。
改めて千石の可愛らしさを実感する。
よくよく観察してみると、その天使の輪っかは、このエンジェルランドで発売されている作り物。
そういえば、園内で装着している人の姿を結構見ていたな。大人子供問わず、つけていた気がする。セットで小さな羽根なんかも販売していたはずだ。
本来は、頭に載せるのを目的としたものなので、髪を掻き上げる用途はないのだが、千石は、それをカチューシャの役割もかねて装着しているようだ。
いつの間にそんな物を購入していたのだろうかと思ったが、千石がお花を摘みに言っている時なんかは離れていたし、きっとその時にでも買ったのかな。そう見当を付ける。
つうか僕、めちゃくちゃ恥ずかしい勘違いしてたな。何がキスされるだよ!
こういう自惚れをしないように極力気をつけてきたつもりでいたけど、やっちまった。もうソードマスターヤマトの担当さんばりに、やっちゃったぜ☆
なんで千石が僕にキスをしようというんだ。僕の頭は欠陥製品で御めでたい頭だな……滑稽極まりない。
千石が僕を慕ってくれているのは、『お兄ちゃん』としてであり、一人の男としてみているわけないのに。
しかしながら……千石に気付かれずに済んだのは不幸中の幸いだった。ふぅ……命拾いしたな……。
僕がほっと胸を撫で下ろしていると、徐に千石が立ち上がった。
揺れ動くゴンドラの中で立つと危険なので、声を掛けようとするも、千石はすぐに備え付けのベンチシートに腰を下ろした―――なぜか僕の隣に。ソフトクリームを食べた時みたいに密着している。
「せ、千石?」
「あ……あっちの景色も……見てみたかったから」
「そうか、悪いな。僕、そういった気遣いに疎くてさ。じゃ、僕も反対側の景色をみるとしようかな」
いろんな角度から景色を眺めた方がいいに決まっているのに、気の利かない奴だな僕は。
そう言って千石が元いたベンチシートに座るため、席を離れようとするも、千石の手が僕の半袖を握っていて立ち上がれなかった。
「な、撫子。高いところが怖いな」
「いや……散々絶叫マシーン乗って……」
「ある一定の高さを越えると、急に怖くなるんだよ」
「………………なら、仕方ないな」
それならば乗らなければいいとも一瞬思ったが、怖いものみたさという心理があり、恐怖はある種の快楽に変わるものなのだ。
でなければ、絶叫マシーン然り肝試しなんかの、スリルを体験する催しが成立しなくなる。
だから、『怖いから乗らない』はイコールで結ばれるとは限らない。
なんたってこの観覧車の高さは別格だもんな。それに加えて、この揺れだ。千石が怖がるのもなんら不思議ではない。
まあ全然怖がってるようには見えないのだけど……。
「撫子、遊園地に付き合って貰ったことへのお礼を、暦お兄ちゃんにしたいな。な……なんでも言ってみて」
隣に座った千石が囁くような、か細い声で言う。
「急に言われても、何にも思いつかないし……いいよ、気持ちだけで十分だからさ」
感謝の気持ち、千石の申し入れは大変嬉しいことではあるが、そもそも今回遊園地に付き添ったのは千石へのご褒美なのだから、そんな気遣いは不要である。
「んん……でも…………撫子、暦お兄ちゃんにお礼しなくちゃ、気がおさまらないよ」
だが千石は恩義を蔑ろにしない、出来た子だった。
「あ、そうだ!」
大きく手を打ちつけ、これは名案とばかりに代案を提供してくれた。
「こ、暦お兄ちゃんが欲しいなら撫子のパンツをあげるよ」
「何っ!? なぜ僕がそんなモノを! そんなモノ貰えるかよ!」
「ブラのほうがよかったかな?」
「違う違う! 僕がなんで下着を欲しがるんだって話だ! どう考えてもおかしいだろ!」
こんな破天荒な発言はお前の担当分野じゃないはずだぞ、千石撫子!
「えっと神原さんが、いろいろ暦お兄ちゃんの好みを教えてくれたんだけど……違ったのかな?」
痛いほど納得したよ! ……あのヤロウ、千石に妙な教育施しやがって!
「在り得ないだろ! 断じて否だ」
どこに人様の下着を欲しがるような男が居るってんだ……嘆かわしい。ああ、嘆かわしいったら嘆かわしい。
「あんな奴のいう事を鵜呑みにするな。信用するなら羽川のような真っ当な人間のことをだな――」
「ええっと……羽川さんに『もし阿良々木君が下着の類を欲しがってもあげちゃ駄目だよ』って言われてから、逆説的に欲しいのかなとも思ったんだけど……」
まさかの羽川さん! 千石に告げ口をしやがったな……いや、千石への警告か――羽川って僕をあまり信用していないのか。結構ショックが大きいぞ。
「なら、眼球を舐めてもいいよ?」
追い討ちをかけるように、千石が爆弾を投下した!
信用される要素など何処にもなかった。そんな赤裸々なことまで話ちゃうのかよ! 羽川翼ぁあああ!!
「いやいやいやいやいやいや…………どこに、人様の下着を欲しがって、胸を揉むより、眼球を嘗めたいなんてそんな高度な変態じみた真似をしたがる奴がいるんだよ!」
「胸を揉む? 何かなそれ?」
「ッ!」
ウルトラ・ミス!
そこまで詳細には伝えてなかったのか! 自ら墓穴を掘っちまったぜ!
「あ。そう言えばララちゃんがおっぱい揉まれたって、そんな話を………『妹の胸は、胸のうちには数えられないとか言って毎日毎日触られて、やんなっちゃう』って言ってたような……」
「あのヤロウ……勝手に話を捏造しやがったな、そんな頻繁に毎日触るわけないだろうに……」
「ってことは触ったことはホントだったんだ」
ボソリと千石が刃物のような言葉を呟く。
「ッ!!」
誘導尋問だった。
なぜか千石は軽蔑の眼差しではなく、悔しそうな表情になっている。
「だったら撫子も、暦お兄ちゃんにとっては妹みたいなものなんだし……撫子の胸もさわっ――」
「馬鹿な。どこに妹の胸を行きがけの駄賃とばかりに揉んだり、キスしたりする兄がいるんだよ……はははははは」
千石が取り返しのつかない発言を言い切る前に、早急に弁解をはかる。嫌な汗を流しつつ、空々しく口を開く僕だった。
「キスってどういうことかな?」
「アッチョンブリケ!」
思わず、医師免許を持たない凄腕の闇医者に付き従う助手の口癖が出るってもんだ。
連鎖反応。芋づる式で、どんどんと僕の性癖が明るみになっていく!
いっそこのまま、八九寺関連の事も続けて打ち明けてしまうのも一興かと思ったが、僕の利益は微塵もなかったのでやめておく。僕の人生を振り返ってみると、ほんと救いようがないよな。
「撫子は天使だから……暦お兄ちゃんのお願いなら、何だって叶えてあげるよ。暦お兄ちゃんは撫子にお願いする以外、選択肢はないんだよ!」
改めて、千石が宣言する。もうこれは命令とも言える領域だった。こうまで強く言われてしまったら、もう断ることも出来ない……か。
ならば、ここは当たり障りのないお願いで切り抜けよう。
「じゃあ、後でジュースでも奢ってくれよ、それで十分満足だからさ」
「え? 何かな暦お兄ちゃん。風で良く聞こえなかった」
いや、風は吹いてはいるけど、ゴンドラ内に居るから風音なんてそれほど聞こえはしないのだが……まあ千石が聞こえなかったなら仕方がない、再度言い直すことにする。
「帰りにでもジュースでも奢ってくれよ」
「え? 何かな暦お兄ちゃん。風で良く聞こえなかった」
千石が意にそぐわない要求は聞こえぬふりして同じ言葉を繰り返す、RPGの住人になってしまった!
『さっきまで普通に会話が成立してただろうが!』と、もう少しで、渾身のツッコミを放っていたところだったが――これは、千石が僕の恩に報ようとした想いからきたものだ。
無理をしてこんな体裁を保っているにすぎない……はずだ。
その想いに応えてやるには、それなりに達成が困難なお願いしなければ、千石も気が済まないってことなのだろう。
こんなにも気を遣わせてしまって、申し訳ない限りである。
しかしながら難しい問題だなこれは。
折角だから、またサンドイッチでも作って来て貰おうか……いや、でも今度一緒に作る約束してるしな……なかなか考えが纏まらない。
そんな風に思い悩んでいると、千石が更に問題を難しくした。
「制限時間はこの観覧車が地上に戻るまで……だよ」
時間の制約までついた!
この観覧車限定となると、必然的に千石に“何か”をして貰わなければならない。この流れで一体何をお願いするのが正解なんだろうか?
生半可なお願いじゃ、千石は僕の提案を棄却してしまいそうだしな。正直もう機械的な千石の声は聴きたくない。
だが、そうは言っても観覧車は動き続けているのだ。考えているうちに回りきってしまうだろう。
少々卑怯ではあるが、このまま時間切れで有耶無耶にしてしまおうか?
そんな浅はかな考えが過ぎったその時に――それは起こった。
不意にゴンドラ内に流れていたクラシック音楽が止み、観覧車内に取り付けられていたスピーカーから、アナウンスが聞こえてきた。
『観覧車をご利用の皆様に、ご連絡申し上げます。大変申し訳ありませんが、強風の影響により、暫くの間この観覧車は停止致します。安全確保の為の処置となりますので、何卒ご容赦下さい。大変ご迷惑をお掛けしますが、そのまましばらくお待ちください。安全を確認しだい、運行を再開します』
そんな一方的かつ事務的な声が流れたと思ったら、ガクンと大きくゴンドラが揺らぎ、停止した。
幸か不幸か、そこは観覧車の頂点部分、一番真上である。
どうやら、風の影響で観覧車が停止してしまったらしい。
停止したことにより、幾分揺れはマシになったが、それでもガタゴトと揺れ続ける観覧車。
これも僕たちの安全を考慮した結果の対策なので、文句を言う筋合いはないけど、なぜ、こんな時に限って!
大いなる意思は、僕の逃げを許さないのか!!
特に千石はこの緊急事態――観覧車が止まってしまったことなど、気に懸けていないようだった。
千石は相変わらず、可愛いつぶらな瞳で僕が何をお願いするのか、見つめてくる。
「今なら、誰にも見られてないから、撫子、大丈夫だよ……」
傍らの天使が、そんな事を耳元で囁く。それは天使の囀りのはずなのに、何故か、悪魔の誘惑のように聞こえた……いったい何が大丈夫だと言うのだろうか……。
不思議だ。観覧車が止まったとは言っても冷房の類は作動しており暑くもない筈なのに、妙な脂汗が滲んでいた。
それに僕自身、あんなに怖がっていた、観覧車の高さや揺れなんかどうでもよくなってきている。
蛇に睨まれた蛙。
なぜかそんな言葉が脳裏に過ぎるのだった。