【完結】使物語~なでこエンジェル~   作:燃月

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なでこエンジェル~その1~

 

~001~

 

 千石撫子。

 そもそもは、下の妹、月火が小学生だった頃の同級生で、数多くいた友達の一人。時折、阿良々木家に遊びに来ることがあり、僕と月火(火憐含む)が同室ということもあって、遊びに付き合わされて顔見知り程度の仲になったのだが、所詮、顔見知りなのであって、友達と呼ぶには疑問が生じる、そんな不確かな関係だった。

 

 月火との関係も、中学が別々になったことにより途切れてしまい、必然的に僕との接点もなくなった。

 ところが、蛇に纏わる一件が切っ掛けとなり、僕と千石は数年ぶりに再会するに至る。

 蛇が結んだ縁というとアレだけど、それが合縁奇縁となって、僕と千石は長い期間を経て、再度交流することになったのだ。

 

 今では、僕の数少ない友人の一人。僕のことを『お兄ちゃん』として慕ってくれている、可憐で内気な女の子である。今更説明するまでもないが、『お兄ちゃん』と言っても、あの傍迷惑で破天荒な肉親の愚妹達とは違う、僕にとって大切な『妹的存在』だ。

 

 

 そんな、目に入れても痛くないほど可愛い存在である千石と、この度、二人でお出かけすることになった。

 行き先は遊園地。無論、デートなんて事はなく、僕の役回りは付き添いの保護者みたいなものだけど。

 

 

 なぜ二人で遊園地に行くのかと、当然の疑問が出てくると思うので、簡潔に説明させて貰う事にする。

 

 事の起こりは、僕がある重大な任務を千石に依頼したのが発端となる。任務の内容は、あるキーワードとなる台詞を、標的となる人物の口から引き出すという、諜報活動めいたモノだ。その成功報酬として千石が要望したのが、『遊園地に行きたい』というものだった。

 

 しかし相手は、幾多の挑戦者たちが無残に散っていった難攻不落の鉄壁で、千石も善戦はしたものの、残念ながらその任務を果たす事ができなかった。

 本来なら、任務失敗という事で千石の報酬は無しになるはずだったのだが、結局は千石の奮闘を労い、健闘賞という形で遊園地に連れて行ってやる事になったのだ。

 

 情報保護の観点から、少々抽象的な説明になってしまったのは大変申し訳ないが、経緯は大体こんな感じである。

 

 

 

 でもまあ、千石も遊園地に行きたいだなんて、変に大人びていないと言うか、年相応の子供らしさがあって、ほんと心が温まるよな。本当は僕なんかとじゃなく、同年代の友達と一緒に行けたほうが楽しいのだろうけど、そこは我慢して貰うしかない。

 

 そう思うのなら、月火も一緒に連れていけば済む話なのかもしれないが、今日は千石へのご褒美ということもあり、お金の負担は全て僕が賄うつもりなので、それだけで手一杯なのだ。

 まあ、幾ら財布に余裕があったとしても、あいつに奢ってやるつもりなんか毛頭ないけど。妹の扱い関してはシビアな僕だ。

 

 

 けれども、バイトもしていない、親からのお小遣いのみで生活している僕としては、少々手痛い出費であったのは間違いない。

 遊園地の入場料(園内フリーパス)の値段を事前に調べておいたのだが、手持ちの財布の中身では足りなかったぐらいだ。

 

 その為、親に頼んで僕個人の貯金(財源は全てお年玉だ)から差っ引く形で、軍資金は確保してある。

 通帳、キャッシュカードは親が保管しているので、自分では引き出せなかったりする。

 不便ではあるが、自分で管理していると、恐らくきっと……いや絶対、『肉体美を追求した芸術の参考書』の経費に消えていた筈だ。

 

 

 そんなこんなで、手荷物のチェックをしていると携帯電話から着信音が鳴り響く。

 画面を確認すると、千石からだ。彼女は今時珍しく携帯電話を所有していないので、これは自宅からの電話になる。

 手早く、通話ボタンを押し、電話を耳にあてる。

 

『もしもし、暦お兄ちゃん?』

「よう。千石」

 

 千石の囁くような小さな声に、気さくに返事を返す。

 

『お、おはよう、暦お兄ちゃん。今日はどうぞ宜しくお願いします』

 

 僕の声に安心したのか、幾分、声に張りがでたようだ。やっぱり千石は礼儀正しくていいよな。

 

「おう、おはよう。もう準備できたか?」

『うん。ばっちりだよ』

 

 主語のない会話だったが、僕達二人には、これで十分に意味が通じていた。と言うのも、予め僕に電話をかけてくるように頼んでいたからなのだけど。

 僕と千石の家は、同地区のご近所なので、下手に駅前などで待ち合わせするよりも、そのまま自宅前で合流したほうが勝手がいい。だから千石の準備が出来次第、僕に連絡するように頼んでおいたのだ。

 

 それならば、変にお互い待つこともないし、僕が自転車で千石の家に向かえば、そのまま二人で自転車に乗って駅まで行くことができる。

 自転車を持っていない千石への配慮でもあったし、無理に待ち合わせをして、徒歩で向かわせるのもどうかと思ったからだ。

 

 あと何よりも、千石は待ち合わせというものをちゃんと理解していないふしがあるので、その対処でもある。

 かなり前の話になるが、僕が学校から出てくるのを四時間近く待ち続けた前科がある、気が長い女の子なのだ。

 考え過ぎかもしれないが、平気で夜明け前から待ちかねない。後悔先に立たずとも言うし、同じ轍を踏まさない為にも取れる策はとっておいた方がいい。

 

「そうか、じゃあ今から向かうよ」

『うん。わかった』

 

 準備完了の合図を伝えるだけの、会話目的の電話じゃないので、手早く要件を済ませ電話を切る。

 服装はいつもと代わり映えしない、半袖のパーカーにジーンズ姿。ま、動き易い服装なのだから、問題ないだろう。既に準備をしてあった鞄を引っつかみ、リビングに居る月火に悟られないように玄関に向かう。

 

 細心の注意を払って、音を立てずに扉を開け、無事脱出成功。

 月火の声が聞こえた気がするが、きっと気のせいだ。

 

 因みに火憐は不在だ。今朝方、僕がまだ布団の中で気分よく眠っている最中――鳩尾を踏みつけ、蹴り(“叩き”と同義)起こした上で、

 

「……兄ちゃん。あたし負けないから。絶対帰ってくるから…………約束する。大丈夫。心配すんなって」

 

 と、一方的にそんな不穏当な台詞を残して、颯爽と駆けていったのは薄っすらと覚えている。兄を足蹴にしやがった恨みは鮮明にだ。

 だけど心配した覚えなどない。まあ約束したからには、ちゃんと帰ってくるのだろう。

 余計な厄介事だけには巻き込まれないで欲しい。言うまでもないが、これは優しさではなく、僕に面倒が降りかかるのを懸念しての願いだ。

 

 

 そんな訳で、手早く自転車を引っ張り出し、逃げるように千石の家に急行したのだった。

 

 

~002~

 

 仄かに温かい早朝の日差しを感じながら、悠々と自転車を走らせる。徒歩でも十分圏内の距離。自転車だと、ほんの数分足らずの時間で到着するので、焦る必要もなかった。

 ここら周辺はよく八九寺と遭遇するラッキーポイントなのだが、残念ながら今日は見当たらない。と言っている間に、最後の曲がり角に差しかかる。もう千石の家は目と鼻の先だ。

 

 

 角を曲がると、千石の家の外観と一緒に、軒先で僕を待つ千石の姿も見えた。

 紫外線対策か、はたまた視線避けのためか、黒い水玉リボンがついたカンカン帽(かたく編まれた、小さなつばの麦わら帽子の事だ)を被っているのが印象的だった。以前に被っていたキャスケットの帽子よりも断然トレンディーだ。

 

 最後の直線でそんな事を思いながら自転車を漕いでいると、千石も僕に気付いたようで、顔を綻ばせてくれる。

 

 

 

「きょ、きょきょ今日は、よ、よよよりょしく、お、おお願いします」

 

 僕が停止するなり、千石は奇怪な台詞と共に勢いよく腰を曲げる。その拍子にぽとりと帽子が落下した。

 近所に住む年下の女の子に、帽子が落ちるほどの角度で頭を下げられてしまった。

 

 さっきの電話では、もっと落ち着きのある対応がとれていた筈なのに……難儀な奴だな。なんでコイツこんな緊張しているんだ? いや、そんな事より、今の構図は大変よろしくない。

 自転車のスタンドを立て、帽子を拾い上げ、軽く手で汚れを払ってから渡してやる。

 

「ご、ごめんなさい。暦お兄ちゃん」

「……なんでそんな畏まってんだよ」

「ごめんなさい」

「……謝れたら余計に困るんだけどさ」

 

「ごめ……ううん。今日は暦お兄ちゃんに撫子の我が侭を聞いて貰うんだから、失礼のないようにって思ってたら、緊張しちゃって……」

「いや、千石。そもそも先に我が侭を言ったのは僕なんだし、これは千石が頑張ってくれた事に対するご褒美なんだからさ。気にする必要なんてないんだぞ」

「うん。ありがとう、暦お兄ちゃん。改めまして今日は宜しくお願いします」

 

 今度は、軽くぺこりと頭を下げる千石だった。堅苦しいような気もするが、それで千石の気が楽になるのなら、それでいいのだろう。

 素直にお礼が言えるというのは、それだけで美点だし、お礼を言われて嬉しくないはずがない。

 千石の慎ましやかな物腰を少しでもいいから、妹達に見習って貰いたいものだ。千石が本当の妹なら猫可愛がりしてしまうだろうな。

 

「おう、お願いされた。今日は一緒に楽しもうな」

「うん。暦お兄ちゃん」

 

 花が咲いたように微笑んで頷く千石は、一段と可愛らしく見えた。 

 その要因は、千石の今日の服装にあるのかもしれない。自分の服装に関しては無頓着な僕だが、人様の着る私服姿には興味津々なのだ。

 依然、羽川の私服姿は見るには至っていないけど。

 

 

 それはさて置き、今日の千石の服装を紹介しよう。

 

 上半身は、薄く淡い緑色の総レースの半袖で、胸元にはアクセントとなる小さなリボンが施されている。網目から中に着込んだ服が薄っすらと透けて見える装いで、風通しもよさそうだ。

 その中に着込んでいるのが、Aラインの真っ白な小花柄のキャミワンピース。少々スカート部分の丈が短いようで、陶器のような滑らかで真っ白い素足が露になっていた。

 足元は涼しげなサンダルを履いており、その為、生足が際立っている。

 

 全体的に肌の露出が多い大胆なコーディネートだ。

 またも危うく、僕の為に恥ずかしいのを我慢して、できうる限りのお洒落な格好をしてくれたのかと見当違いの思い込みをしてしまう所だった。

 

 いやはや無防備と言うか何と言うか……まあ、本人はただ単に、暑さ対策で薄着にしただけなんだろうけど。

 それに露出の多さは、健康的な出立ちと言い換えることもできる。

 しかし妙に胸元が開けていたり、生地自体が薄いので目のやり場に困ることに変わりはない。

 

 

 あと装飾品として、首からはネックレスが下げられており、胸の辺りにある宝石がキラキラと煌めいていた。しなやかなデザインで派手すぎず、胸元を華やかに彩っている。

 それと、腰にはいつも通り、千石お気に入りのウエストポーチを装着していた。

 

 う~む……ポーチは年相応の可愛らしさがあるのに比べて、ネックレスに関しては、大変申し訳ないが千石には少し早い気がする。

 別に似合っていないと言うわけではないのだが、小学生が口紅を塗っているような……少々不釣合いな感じが否めない。

 

 それこそ、千石のお母さんの持ち物だと言われた方がしっくりくる程の高価そうなものだからだ。

 あの宝石ってダイヤじゃないのか?

 僕に真贋を見抜ける程の審美眼はないのだが、とても模造品には見えない。

 

 まあ、千石の服装、身なりに関してはこんなところだ。

 

 

 それとは別に、目に見えて気になると言うか、触れなければならない所が二点程あるので、順を追って言及してみよう。

 まず、一つ目。

 

「千石。お前が髪を括っているというか、編んでるの、初めて見たよ。珍しいな」

 

 麦わら帽子に目がいって最初は見落としていたが、今日の千石の髪型は三つ編みだった。

 艶のある黒髪が半分に分けられ、丁寧に編み込まれている。丁度イメチェン前の羽川(今はショートカットだけど)みたいな感じ。

 

「そ、そう……羽川さんに教えてもらったんだけど、べ、別に今日のためにとっておいた髪型じゃないよ」

「ふ~ん。そうか」

 

 なるほど。羽川直伝の三つ編みだったのか。だとすれば羽川の髪型を思い浮かべたのは偶然ではなく必然だったわけだ。

 

 千石が何に対して弁明しているのかは解らないが、そりゃ、髪型ぐらい日によって変えるだろうし、今日たまたま三つ編みにしたい気分だったのだろう。

 女の子なんだし、髪型をアレンジするのはいいことだ。女子がヘアスタイルを変えるのは好きだし大歓迎である。

 

「ど、どうかな?」

 

 僕を窺うように下から目線で見上げてくる。

 ちょっぴり不安そう表情を見ていると、Sでもないのに嗜虐心が刺激され、思わず苛めたくなってしまう。か弱く繊細な千石を苛めるなんて有り得ないけど。

 

「うん。似合ってる。千石の大人しそうな雰囲気に良くあってるし、可愛いな」

「わ……はわ、はわわわ」

 

 頬に手をあて、狼狽える千石だった。恥ずかしがり屋さんだし、面と向かって褒められる事に免疫がないのだろう。

 

 

 そして気になる点、二つ目。

 

「なあ、千石。そのバスケットは何なんだ?」

 

 言うまでもないが、バスケットと言っても、籐≪ラタン≫で出来たピクニックバスケットである。

 片手で持ち運べる程度の大きさで、蓋の淵には赤と白で出来たチェックの布が巻かれており、趣味のよい一品だ。

 一応片手で持てるサイズだが、千石が両手でしっかりと持っていたのがずっと気になっていた。

 

「えっと、お弁当。今日の昼食が入ってるんだよ。暦お兄ちゃんの分もあるから心配しないでね」

「マジか。それは却って気を使わせちゃったみたいで悪いな」

 

 昼ご飯なんかも、遊園地にあるレストランで奢ってやるつもりだったのに。こんな所にまで気が回るなんて流石千石だ。

 

「ううん。そんなことないよ。そんなの気にしないで」

 

 それに何とも奥床しい。ほんと、うちの妹達に爪の垢を煎じて飲ませたい。

 

 

「でも、今日は暦お兄ちゃんとデートできるなんて、撫子、嬉しいな」

「そうなのか。ま、そうだな」

 

 この物言いでは、僕と一緒に出かける事自体が嬉しいという風に受け取れてしまうが、千石が本当に言いたいのは、遊園地に行けるのが嬉しいと言うことなので、そこを取違えてはいけない。

 

 千石はこういう不用意な発言で、同級生の男の子達を魅惑していたのかもしれないな。天然とは恐ろしいものだ。

 あと一緒に出かけるだけで、デートなんて言葉を用いるのはどうかと思ったが、これぐらいの年の女の子からしたら、おませに背伸びした表現を使いたいものなんだろう。

 

「僕もこれで、年甲斐もなく遊園地が楽しみで、遠足前の小学生みたいに、なかなか寝付けなかったんだぜ」

「ふふ、そうなんだ」

「千石も目の下、ちょっとクマが出来てるぞ。さてはお前も眠れなかったのか?」

「え? うん。今日着ていく服を選ぶために夜通し悩んでたわけじゃなくて、撫子も、楽しみで眠れなかっただけだよ」

 

 なぜそんな例を出したのか解らないが、まあ、結局は僕と一緒だってことなんだよな。

 

「一応、親御さんに挨拶した方がいいか?」

「え? 暦お兄ちゃん、それって『娘さんを僕に下さい』ってことかな?」

 

「違うよっ!! お前はテレビドラマの見すぎだ! 何でこの流れで、いきなりそんな一大イベントが発生すんだよ! 大切な娘さんを預かるんだから、保護者的立場としての責任もあるし、挨拶しといた方がいいかと思っただけだ!」

 

 びっくりする発言をする奴だな。思わず内気な千石に対し本気でツッコミを入れてしまったじゃないか。

 

 あれ……ちょっときつく言い過ぎたかもしれない。千石がしょんぼりして、うな垂れてしまった。ってあれはボケではなかったのか?

 駄目だ。千石の要求している答えが見つからない。

 ああ、そうか! あれはノリツッコミを希望していたのか。

 だが『進んだ時計の針を戻すことはできない』のだ。今日これからの行いで挽回していくしかない。

 

 

「………保護者」

 

 千石は、ポツリとそんな小さな呟きを漏らす。なぜか不本意そうな顔でちょっと怖い。

 

「……でも、同級生の女の子と遊びに行くって事にしてあるから……ちょっと、困るかも」

 

 言葉を続けた千石は、更にその表情を曇らせていた。

 

「そうなのか? 別に後ろめたい事じゃないし、正直に言ったらいいのに」

 

 でも確かに千石が、僕たちの関係を親に説明するのは難しいかもしれない。

 なんで『同級生だった友達の兄』と遊びに行くんだって話だ。

 未だ千石の両親とは、電話での接触もないわけだし、突然見ず知らずの男が、「一緒に遊園地に行ってきます」なんて言っても、安心させる所か、余計に心配させてしまう結果になるか……。

 僕と千石は至って健全な関係なのだが、妙な勘ぐりをされても面白くないし。

 う~む、そこまでは頭が回っていなかったな。

 

「ん~。まあ、それなら仕方ないか」

「でもちゃんと、今日は遅くなるって言ってあるから大丈夫だよ」

「そうか。なら心配ないな」

 

 ま、なるべく早く帰るつもりだし、責任もって家まで送り届けるのだから問題ない。

 

「うん。もしかしたら今日は帰らないとも言ってある」

「待て! 帰るよ。ちゃんと今日中に帰ってくるよ!」

 

 千石は不測の事態に備えて、念には念を入れただけなのだろうけど。それは心配し過ぎである。

 だけど『蛇』の一件では、塾で一夜を明かす事になったのだから、可能性が皆無というわけではないのか……いやいや、あんな事態がそうそう起こって堪るか。

 

 

 と、何時までもこうして立ち話をしていてもしょうがない。さっさと駅に向かわなければ。

 

「よし、千石。出発するぞ」

「うん」

 

 千石からバスケットを受け取り、自転車の前カゴに入れてしまう。

 それから僕がサドルに跨り、ふらつかないように地面を踏みしめ、千石が後部座席に腰を下ろすのを確認してから、自転車を漕ぎ始める。

 

「千石って自転車乗るのは初めてだよな。なるべく揺らさないように気をつけるけど、しっかり掴まってるんだぞ」

「そうだね……うん。そうする」

 

 そう言って、力いっぱい僕の腰に手を回す千石だった。

 従順な彼女は、僕の言葉の通り『しっかりと掴む』ことにしたようだ。

 千石の控えめな胸が押し付けられているのはその為である。

 

 なぜか、脇をしめて、無理やり胸を強調するような不自然な格好になっているのも、「怖いよ」と言いながら、身体をこれでもかと密着させてくるのも、自転車に慣れていない、恐怖心からくる畏縮みたいなものなのだろう…………。

 

 これが千石相手でなければ、ともすれば、色仕掛けされているんじゃないかと勘違いしかねない状況だな。

 うん。僕が健全な判断力を持った、実直で紳士な『お兄ちゃん』でなければ危なかった。

 

 

 そこからは、千石が喋れる状態でもなかったので、特に会話らしい会話もなく駅に向かっていく。

 忍に血を分け与えたのが、丁度昨日だった事もあり、身体能力が底上げされていて、いつも以上に足取りは軽い。

 千石の華奢な体格は見た目通りの軽さで、重さを感じることはなかった。

 

 しかしながら千石の、僕に抱きつく力は尋常ではない。

 この子の何処にそんな力が隠されているのか、全く、不思議なものだ。よほど自転車に乗っているのが怖いのだろう。

 

 

 そうこうしている内に、駅近くの繁華街に差し掛かる。

 そこで自然と目に入ったショーウィンドウには、自転車から落ちないように、必死に僕にしがみ付いている千石の姿が映っていた。

 

 

 なんとも微笑ましい光景だ。

 

 ………光景なのだが、でも、なぜだろう…………。

 

 

 それが、被食者となる獲物を捕まえて押さえ込み、とぐろを巻いて絡みつき締め付ける捕食者――――あたかも、腹を空かした蛇が、食事をする為の下準備に精を出している姿に見えてしまったのは、一体全体どういうことなのだろう?

 

 

 


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