~108~
"目覚める"と、そこは真っ暗い部屋の中だった。
混濁した、不確かで茫洋とした意識。思考回路が混線していて、状況が掴めない。
無理矢理叩き起こされ――それも悪夢に魘され続けた後みたいな、目覚めの悪い不快感が伴う覚醒。脳を締め付けるような鈍痛もある。実際、意識を取り戻した直後ということもあって、頭の中がこんがらがっている。気分は最悪だ。
えっと…………どうなってんだ?
僕はどうしたんだっけ? って、ここは何処だ?
疑問が次々に浮かんでくるが、答えは出ない。
と、手に何か握っている感触があることに気付いた。
寝ている体勢のまま、何かを持っている右手を眼前に移動させる。
「…………これは」
歯車のエンブレムがついた、突起がある黒い球体。
グリーフシードだ。
そうだ、ワルプルギスの夜と戦っている最中に僕の意識が途切れて――ああ、そうか。結局僕は………………情けない話だ。無責任なことこの上ない。
大よその事情は察することができたが、まだ不明な点が多い。
少し意識がはっきりしてきたところで、上半身を起こし改めて今いる場所の特定を試みる。
明かりのない、真っ暗な部屋だが、この吸血鬼化した眼でならはっきりと視える。
固い床。テニスコート程の広い空間。
部屋の中が暗いのは、カーテンで締め切られているからのようだ。遮光カーテンってやつか。
或いは、時刻が夜ってだけなのかもしれないが、壁に掛かった時計からではAMPMを判別することはできない。
部屋の天井には、無数の穴が空いている。均等に配置された小さな穴――防音対策とかで音楽室なんかで見たことがある。ってことは、そのものここは音楽室なのかもしれない。
ただ、学習机や椅子のようなものは見当たらない。教卓机らしきものがあるだけだ。
無人の部屋に僕一人。
やはり、依然として状況は掴めない。ここに至る経緯が判然としない。
いや。僕一人ってことはないのか。僕の影には鬼が住んでいる。
ならば、手っ取り早く彼女に訊けば済む話だ。
「おい、忍」
『おぉ。お目覚めか。我があるじ様よ』
忍野忍。金髪金眼の吸血鬼。
運命共同体の半身に対し、この状況に至った経緯を教えてもらうことにした。
頭がうまく働いていない半覚醒状態なので、質問した後の僕はほとんど相槌を打つだけだ。
そうして大よその成り行きを忍から訊き出し、やっと状況の半分程度を把握できたところで――部屋の扉が開いた。
最低必要限、身体を横向きにしてやっと通れるぐらい扉を開いた状態で、身を滑り込ませるように入ってくる人物。
心情的に一番会いたくない相手であり、だからこそ一番に会っておかなければならない相手。
「やぁ阿良々木くん。気が付いたようだね」
「……おう」
「中々起きないもんだから、待ちくたびれて、少し席を外させてもらってたよ」
いつもの調子で、語りかけてくるその男。
しわくちゃのアロハ服。清潔感に欠けるボサボサな髪と無精髭。全体的にあまり近寄りたくない風体をしている。まぁ言わずもがな、その人物の名前は――忍野メメ。見た目は、三十路を越えたおっさんである。
この暗がりの部屋の中にあってでも、ちゃんと僕が起きていることを認識しているようだ。
まぁあの廃墟と化した、学習塾を寝床にしているような奴なので、夜目も利くのだろう。
「えっと、忍野…………その………………ごめん」
深々と頭を下げ――誠心誠意、自身の過ちを認め僕は忍野に謝罪する。
その僕の謝罪に対し、
「どうしたんだい、いきなり? そんな畏まって。出し抜けに謝られても、僕としては挨拶に困るね」
困惑……というか顎先を指でなぞり、迷惑そうに顔を顰めている。
「いやいや、お前はどうせお見通しなんだろ? "僕が何をしたのか"」
いつも。いつだって。こいつは全てを見通している。
「んー横着は感心しないかな。僕はエスパーじゃないんだから、ちゃんと順を追って説明してくれなきゃ。僕はね、意思の疎通――対話ってものを大事にしているんだ。まぁ僕の場合、一方的に話すことの方が好きなんだけどね。根がお喋りなもんでね」
おちゃらけた態度で僕を諌める忍野。
確かに言われた通りだ。お見通しだからと言って、それで手順を省力するような真似をしていいはずがない。
「……わかった。じゃあ……何から話したものやらって感じなんだけど……」
「その前に――」
と、僕の口上を止め忍野は続ける。
「阿良々木くん。まずは君の状態を元に戻そうか。一応結界が張ってあるとはいえ、やっぱり周囲への刺激が強いからね」
「……ん? ああ、そりゃそうしたいのは山々なんだけど、封印の影響で、忍が外に出れないんだよ」
忍野が施した忍への封印処置。その効果でフルパワー状態の忍は、影の外に出たとしても、問答無用で僕の影に逆戻りしてしまうのだ。そんな状態では、血液の循環作業を行うことができない。
とはいえ、時間経過でフルパワー状態からは脱却するので、ちゃんと影の中から出ることはできるのだが、経験則から言って最低4時間は必要だ。
どれぐらい気を失っていたのか忍に確認したところ、ワルプルギス討伐完了後から、一時間程度しか経過していないらしいし、まだ血の調整――チューニング作業を行うのは無理だと思われた。
――のだが。
「それなら問題はないよ。阿良々木くんが気を失っている間に、忍ちゃんの封印は解除しといたから」
なんて、軽い調子で言ってくる。
伝説の吸血鬼を封じる封印なのに……いいのかよ、そんな扱いで――いや、いいのか、"僕がそうさせてしまったのだ"。
「おっと、いけないいけない。僕がいちゃ、お邪魔だよね。また席を外させてもらうことにするかな。あと一つ注意事項だけど、まだ日も出ているから、不用意にカーテンを開けちゃ駄目だよ。ん、じゃあすぐ戻ってくるから、よろしく」
なんて言葉を残し、忍野はまた部屋から出て行ってしまった。
ってやっぱり、あの締め切ったカーテンは日光対策だったのか。
ちなみに、ここは音楽室ではなく見滝原中学の視聴覚室らしい。
忍の話では、この部屋を用意したのは忍野なのだ。まぁ学校側に対して許可をとることもなく無断使用なのだろうけど。一応、避難所として見滝原中学の体育館が一般市民に開放されているけれど、校舎内への立ち入りが許可されているとは思えない。
もう一つちなみに、他の人物の動向も伝えておこう。
忍探知機によると――ほむらの傍には巴さん、杏子、そして美樹の反応が集まっているようだ。多分、気を失った巴さんと杏子の介抱をしているものと思われる。
あと魔法少女になった戦場ヶ原、それと一緒にいるであろうまどかちゃんの行方も気掛かりだが、詳しい状況はわかっていない。この見滝原中学の内部にはいるようだけど…………。
戦場ヶ原の思惑が――全く読めず、不気味で仕方がない。ほんと、何を企んでいることやら……早急に問い質したいところだが、現状、後回しにするしかなさそうだ。
そんな訳で――部屋の中には僕と影の中から出てきた忍――二人きり。
だと思ったら、いつの間にか、部屋の隅に白い獣が姿を現していた。
興味深く観察するように、視線を向けてきている。追い払うことも考えたが、後々こいつとは話がしたいので放置しておくことにする。
「忍。お前には苦労をかけたな。改めて礼を言わせてくれ」
「礼などいらんいらん」
僕は当然知っている事柄だが――フルパワー状態とはいえ、今の忍はあの大人バージョンの麗人の姿ではなく、8歳前後の可愛らしい幼女姿のままだ。それは彼女なりのケジメ。肉体年齢の操作は忍の意のまま自由自在に調整できるので、敢えてこの姿を保っているということ。
あの気高き美しき鬼の姿は、もう喪失した過去のものなのだ。
そして――
忍と血の調整――血液の循環を開始する。徐々に僕から吸血鬼としての力が消失していく。
まぁ御存じの通り、吸血鬼としての力を完全に失う訳ではなく、少なからず吸血鬼の残滓を残したままなのであるが、これで、もう太陽の光に怯える必要はなくなった訳だ。
行為を終え、僕の膝に乗り抱き合った状態の忍は、不敵に悪戯っぽく笑う。
「まぁお前様の気が晴れんというのなら、ドーナツでも買ってくるがよい。それで儂は満足じゃからな。寧ろ大喜びじゃ!」
「わかった……そう言ってくれるなら是非もないよ」
「何個でもよいのじゃぞ? お前様のさじ加減で構わんのじゃからな? 別に一個じゃろうと十個じゃろうとな。それでお前様の評価が変わることはないと宣言しておこう」
「…………………………」
今度は満面の笑みを浮かべて忍は捲し立ててくる。
僕の度量が試されている。絶対これ、一個しか買ってこなかったら、僕の評価が下落するやつじゃん!
「ふぅわぁあああああ」
忍の大きな欠伸。小柄な体躯なれど、吸血鬼としての証である鋭い牙がよく見える。
「慣れんことをして疲れた。儂は寝る」
そう言って、忍は僕の影の中へ。
確かに、彼女には負担を掛けてしまった。忍には多大なる迷惑をかけたのだ。
それこそ一店舗分のドーナツを買い占めるぐらいじゃとても足りないほどの。ここはバイトも視野に入れてドーナツ資金を貯めるしかなさそうだ。
~109~
さて、少々遅くなってしまった感も否めないが――僕が何をしたのか、どういった『選択』をしたのか、包み隠さず明かすとしよう。僕にはそのことを開示する義務がある。
聞き手となるのは、戻ってきた忍野メメ。
忍野は行儀悪くも、教卓机に腰掛けて――煙草を取り出し、僕の話を訊く体勢に入っている。例によって、煙草には火がついていない。話す気が削がれる態度だ。なんて愚痴っていてもしょうがないので、早速、本題に入る。迂遠な言い回しなど用いず、結論から言ってしまおう。
「僕は……忍の力に頼った。お前に封印されていた忍の力を使ったんだ」
「それは僕だって承知していることじゃないか。だからこそ、僕はこの街に大規模な結界を張って、外部に吸血鬼の力が露見しないよう取り計らったんだから。うん、あれは重労働だったよ――まぁ、あの被害を見て察する輩は出てくるだろうけど。それはそれとして、僕は君が忍ちゃんの力を頼って吸血鬼化していることに、今更ケチをつけたりなんてしないぜ?」
「そういう意味合いじゃなくてさ、全盛期の力を取り戻した状態の忍自らに、戦って貰ったってことだよ」
「ん? それはおかしくないかい? 忍ちゃんの封印はちゃんと機能していたはずだろ? 僕が解除するまで忍ちゃん自ら戦うってことは不可能なはずじゃないか。それに、じゃあその服装はいったい何なんだい? 随分といかした服だけど?」
嫌らしくも、わざとらしい口調で忍野が訊いてくる。
「……これは忍の物質創造能力で作ってもらったもんだよ」
くそ、忍が寝る前に、普通の衣服を用意して貰えばよかった。恥ずかしいったらない。でも僕の着ていた服は乱気流に呑み込まれた際、切り刻まれてしまったし、これしか着るものがないのだ。これは替えの衣服、代用品である。
こんなのでも全裸よりはマシだ。
しっかし……貴族趣味とSFファンタジー要素が組み合わさったこの服のデザインセンス…………忍の趣味全開の一品。
まぁアイツ、漫画も好んで読んでるもんな。俗世に染まり過ぎている。というか悪ノリし過ぎだ。
「何だい、僕はてっきり、阿良々木くんが魔法少年になったのかと思っていたのに」
「嘘つけ」
対話が大事っていうより、人をおちょくるのが好きなだけじゃねーのかこいつ。
ともあれ、僕はキュゥべえと『契約』なんかしていない。まぁその可能性はなくはなかったが、他の選択肢を選んだまでだ。そういった苦境に立たされる可能性は考慮していた。
話を戻そう。
「忍の封印は……ちゃんと機能していたけど、それは羽川から授かった『秘策』を使って対処した」
言うなれば最後の『切り札』。
ワルプルギスの夜と戦う前に提言していたはずだ。
"ちゃんともしもの時の備えは用意してある"――と。
"不確定要素が多い戦いであるからこそ、最悪の事態を想定した場合の切り札を用意している"――と。
"それは羽川参謀が用意した秘策である"――と。
そう――羽川翼は、想定外の事が起こることを見越して、対応策を予め用意していたのだ。
予定調和とは言わないまでも、織り込み済みだったのだ。
もしかしたら、怪異を殺す妖刀――『心渡』こそ、その秘策ではないのか――そう考えた人がいるかもしれない。でもそれは違う。そうではない。
だってそれは、羽川から提示されるまでもなく、元々僕の中にあった切り札である。
「なら? その秘策ってやつで、封印を解除したってことなのかい?」
「解除なんてしていない。専門家のお前が施した封印なんだ。あれを破る手段なんて僕達にはないよ」
「そうなのかい? じゃあ、いったいどうやって、忍ちゃんが戦ったっていうんだい? 繰り返しになるけど、忍ちゃんは影の外に出られなかったはずだろ?」
「ああ、その通りだ。忍は封印の影響で影の外に出ても、すぐ影の中に強制的に吸引されちまう。でも言い換えれば――――"一瞬なら、一時的とはいえ外に出られる"ってことだろ」
「なるほど。けれど、そんな一過性の対処じゃ、何の意味もない。忍ちゃんが逐一影の中に出たり入ったりして戦ったとでもいうのかな? さながらスタンドのように」
「いや、そうじゃない」
解かった上で惚けて指摘してくるような、忍野の鬱陶しい態度には目を瞑り、僕は続ける。
あとスタンド言うな。
「一瞬だけでも外に出るってのは、『秘策』を行使するにあたっての手段と言った感じかな」
「へぇ、というと?」
忍野が合いの手を挟んで先を促してくる。こういうところは意外に聞き上手な男だ。
「忍に『魅了』を使ってもらったんだよ。一瞬あれば、それで十分だったからな」
吸血鬼の数ある能力の内の一つ『魅了』。一種の瞬間催眠。
その力を行使するぐらいわけはない。吸血鬼にとって一瞬は一瞬に成りえない。
そうして僕の身体の主導権を乗っ取ってもらったという寸法だ。
肉体の主導権を完全に奪われた状態。
その効果は絶大で、僕の意志では表情筋ひとつ動かせなくなっていた。どれだけの苦痛を受けようとも、それで僕の表情が変化することはない。戦っている最中は、ずっと無表情だったはずだ。
僕は忍の『操り人形』と成ったのだ。そう言った意味では、ある意味服装も弄られ、『着せ替え人形』みたいな役割も果たしていたが…………。
「…………つまり、僕の肉体を操作し、忍が戦ったってことだ」
この手段を選んだのは、事前に羽川からの忠告を受けていたから。
――『もしキュゥべえくんに契約を迫られ、それに頼らざるを得ない状況に陥ったら――その前に、この手を使って。阿良々木くんにとって、それは不本意で、当然受け入れられる手段じゃないのはわかっているけれど、阿良々木くんと運命を共にする忍ちゃんのこともちゃんと考えてあげなくちゃいけないよ。うん、私が口出しすることじゃないよね。でも、くれぐれもこのことは忘れないで』――
キュゥべえとの契約に踏み切りそうな僕は、この言葉を思いだし踏み止まることができた。
自身の魂を糧に契約するキュゥべえとの取引は――僕と一蓮托生の運命をしいられた、忍に対する裏切り行為に他ならない。
勿論、この件に関して羽川に責任はない。ある訳がない。
全ては僕が自分の意志で選択したことなのだから。
「………僕は……忍に全てを丸投げしたんだ」
僕は安易な力――忍の力を――全盛期の力を取り戻した彼女の力を頼った。
忍野がその力を忌避して、封印までして封じ込めた力を――裏技のような方法で掻い潜り、強引に使用したのだ。
忍野が認めたのは、あくまでも、吸血鬼化した僕自身で戦うことだ。
キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードとしての力を取り戻した忍野忍が介入することは認めていない。だからこそ封印という方法をとっていたのだ。
面と向かって言われたことはないけれど、それが忍野の線引きだったはずで、僕はそれを承知していながら――蔑ろにした。
言うなれば、僕は禁忌、禁術の類に手をだした罪人だ。
暗黙の了解を踏みにじり、足蹴にした――僕は忍野からの信頼を裏切った。
これで、僕と忍の無害認定は剥奪される。
僕は忍野の恩を仇で返したのだ。
訥々と、僕は忍野にそのことを告げる。懺悔するように、言葉を絞り出す。
「それが――僕の下した決断だった…………全て僕の責任だ。どれだけ言葉を尽くし謝っても、それで済む問題じゃないってことぐらいわかっているけれど、それでも謝罪はさせてくれ。どんな罰も受ける覚悟だ」
そんな僕の切実な想いに対し――忍野は言った。
「流石は委員長ちゃんだね。こんな手を思いつくなんて。はっはー。しかし、見ようによっては、これは僕の落ち度でもあるのか。いやー専門家として恥ずかしい限りだ」
「…………おい忍野、僕の話ちゃんと訊いてたか!?」
いつもに増して、胡散臭い道化じみた物言で、羽川の手腕を褒めるようにへらへらと笑っている。
なんだ、その軽い飄々とした態度は。人の謝罪を何だと思っているのだ。
真剣に謝っている僕が馬鹿みたいじゃないか。
思わず謝罪している立場なのを忘れ突っかかってしまう。
「訊いてるよ。まったく。阿良々木くんは元気いいねぇ。何かいいことでもあったのかい?」
例の軽口を挟み、僕の神経を逆撫でしてから、忍野は続けた。
「だからこそ、一つ訂正しておこう。忍ちゃんが使った能力は『魅了』じゃないよ。委員長ちゃんだって、そんな表現は用いなかったんじゃないのかい?」
「は? どういうことだ?」
確かに、羽川は『魅了』という言葉は使っていない。これは僕の後付けの解釈なのは認めよう。
「まぁ同系統の能力ではあるし同種の力だけど、似て非なるものだ」
「……わかんねぇよ。何言ってんだ?」
「『魅了』ってのは吸血鬼の中でも限られた種だけが行使できる特殊能力なんだよ。忍ちゃんといえども、『魅了』は使用できない。いや、忍ちゃんなら使用できないってことはないのかもしれないけれど、今回は使用していないはずなんだ」
「でも現に僕は、忍に操られてたんだぜ?」
「うん、それは否定していない。だから、似て非なる能力って話だよ。忍ちゃんが行ったのは、主従関係にある吸血鬼。その上位者だけに許される絶対服従の強制力とでも言うのかな。血の盟約。魂の絆を結んだ吸血鬼。その主従間に於ける強固な掟。下位に位置する者の叛逆を阻止する力。支配権の占有――『隷属化』だ」
「…………ん? でも結局効果は一緒なんだろ?」
「全然違うよ。だって『魅了』ってのは総じて意識のない操り人形を作る能力。自我を持つことは許されない。相手の意識まで乗っ取るものだ――でも、君には意識がちゃんとあったはずだぜ? 最終的に意識を失っていたとはいえ、それは途中で外的要因が絡んでのことだ。それは君自身がよく知っていることだろ? なんせ阿良々木くん自身が体験したことなんだからさ」
「…………それは」
「あの炎に包まれた魔女と相対した時、攻めあぐねていたよね? それはどうしてかな? まぁ炎に気圧されて、躊躇したって考えるのが妥当なんだろうけど、それだけじゃないだろ? これは僕の憶測になるけれど、忍ちゃんが、君に判断を委ねたんじゃないのかい?」
敢えて口にしなかったのに…………やっぱりお見通しじゃねーか。どこまでも見透かしたような男だ。
忍野の指摘する通り、あの灼熱の黒炎を身に纏わせたワルプルギスを前に、忍は躊躇していた。
それがもし、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードとして、彼女自身の肉体で戦っていたのなら、そんなことはなかったのだ。
だってそうだろう。吸血鬼の能力をフルに使えば炎を無効化することなど本来容易い。
闇と同化すれば、難なく対処できたはずなのだ。
でも、僕の身体を使っている関係上、肉体の操作で翼を生やすことはできても(僕だって身体の一部を植物に変化させることはできていたので、その延長みたいなものだ)、肉体そのものを闇や霧といったものに変化させることはできなかった。
あの戦いは、あくまでも――吸血鬼化した『阿良々木暦』にできることを最大限、発揮していたに過ぎないのだ。
あれでも能力の大部分が制限、限定されてた状態だったのだ。
故に僕の肉体が足枷になっていた――ということだけではない。
一番の足枷になっていたのは――
尤も重荷になっていたのは――
忍が憂慮したのは――
僕の精神だ。
吸血鬼の肉体は、身体にダメージを蓄積させることはないが、精神へのダメージはそのまま累積する。外傷のように瞬時に回復することはない。
そして肉体の支配権は忍にあれど、痛みそのものは僕自身にくる。
あの炎に身を投げ入れれば、当然、その地獄の苦しみを味わうことになる。
だから忍は躊躇した。僕に判断を求めた。本当にいいのか、と。
結果として、忍が心配していた通り、あの地獄の炎に焼かれている最中に、僕の精神は焼き切れた。
吸血鬼化していたとはいえ、人間としての精神が色濃く残っている僕には、耐えきることができなかったのだ。
とはいえ、僕の意識があろうがなかろうが、忍が僕の肉体を操作しているのだから、ワルプルギスを倒すことに支障はなかったわけだけど。
こんなこと言ったって、何の弁解にもなりはしない。
せめてもの責任として、最後まで見届けることが僕の使命だったはずなのに……どんな言葉で罵られても仕方がない。
しかし――僕の返答を訊かずして、忍野は喋り出す。僕が言わなくても、わかりきっていることだと言わんばかりに。
「阿良々木くん、君は僕に責められることを望んでいるように見える。そうしなければ許されない、いや許されるつもりなんて、君にはないんだろうね」
おちゃらけた雰囲気はなく、人を小馬鹿にしたような態度でもなく、茶化すような言葉でもない。
どこまでも真面目な、真剣な表情で忍野は言う。
「でもね。僕は君を責める気なんてこれっぽっちもないよ。全てを丸投げにしたと君は言うけれど、最終的には君の判断で忍ちゃんは動いたんだろ? あの炎に身を投げ入れるゴーサインを出したのは君自身だ」
「……そうは言っても、吸血鬼の不死性があったわけだし…………命の保証はされていたからであって」
「おいおい、阿良々木くん。命の保証があったところで、そんなの他の誰にも真似出来るはずないだろう? そういうところがズレているよね君は。まぁ阿良々木くんの場合、命の保証がなくても、同じことをしたと、僕は愚考するけどね」
「………………でも…………僕は! ……何の力にも」
「忍ちゃんの功績が大きいのは確かだけれど、それは君がいたからこそだ。誇っていいよ。この結果は間違いなく君の力が寄与してのことだ。そもそもさ。丸投げしたというのなら、それは僕のことだ。僕は君に全てを委ねていたんだから」
きつい叱責を受ける覚悟していた僕にとって、それは全く予期していない流れだ。
その言葉に僕は面食らってしまう。
否定的な台詞を並べ、人を揶揄することに長けた皮肉屋は、らしくもなく実直に言うのだった。
「阿良々木くん、君はよくやったよ。僕は心からの敬意を表するよ」