~021~
結界の中は、辺り一面お菓子で埋め尽くされていた。
クッキー、チョコレート、ドーナツ、ワッフル、キャンディー、プリン、カップケーキなどなど――多種多様のお菓子が見渡す限りに広がっている。
しかも大きさが半端なく、身の丈を越えるモノさえあり、その異常な光景には圧倒されるものがある。
食べきれない程のお菓子に囲まれた光景は、少女が夢描く『お菓子の家』と通ずるものがあるかもしれない――けれど、決して心躍るような代物ではない。
第一に――鼻腔に粘りつくお菓子の臭いは、胸焼けを催す程で、結界内部は甘ったるい臭いが充満していた。
バニラエッセンスの入った瓶を、そのまま鼻に突っ込まれているかのようで、思わず鼻を摘まんでしまう程。強烈な悪臭というレベルの臭いだ。
とは言え、忍に血を吸って貰った関係で強化された嗅覚が、人並み以上に臭いを嗅ぎ取っているだけかもしれないけれど。
それでも、異常な臭気が蔓延しているのは間違いない。
そしてもう一つ――お菓子に紛れ、極彩色に色付けられた医療器具が、オブジェのように点在していた。それがなんとも不気味で、この空間の気味悪さに拍車をかけている。
これもまた、お菓子同様、現実ではあり得ない大きさで、前衛的な美術作品のように見えなくはないけれど、僕の感性では受け入れられそうになかった。はっきり言って趣味が悪い。
結界に潜り込んだ場所が病院だったから、内部もその影響を受けているのだろうか?
先日の――青空広がる『委員長の魔女』の結界とは大違いで、得体の知れない混沌とした異空間だ。
なるほど、あの時ほむらが言っていた意味が、ようやく理解できた。
こんな場所に長時間いるのは、出来れば避けたい。心が不安定になってくる。
「…………何の恨みがあるの?」
結界に侵入して平静を取り戻したほむらは、押し殺した声で呟く。
その声音からは、ありありと怒りの感情が読み取れ、心なし涙声にも聴こえるような聴こえないような……いや、これはきっと気のせいだ……そういうことにしておこう。
「恨みって……あれは、あの子が勝手に早合点しただけだろ?」
「鹿目まどかには近づかないでと、そう強く言い含めていた筈よ……それに、私に関わらないでとも!」
僕の弁解にほむらが反発する。
確かに、そういった意味では、僕に非がないとは言えないか……ならばここは、
「ちゃんと誤解だって事は説明するからさ、そう目くじら立てるなって」
責任を持って事後処理するのが、筋と言うものだろう。
「その原因を作っているあなたに言われても、余計に腹立たしいだけね…………まぁいいわ。今はあなたの相手をしている暇はない」
僕の相手を切り上げると、一瞬にして魔法少女に変身するほむら――シンプルな魔法少女の衣装に身を包むと、予備動作もなしに一目散に駆け出した。
女の子ながらに華麗なフォームで、風を切るように――長い黒髪を靡かせ、どんどんと遠ざかって行く…………。
って、おいっ!
待て待て待て待て!!
こんな所で取り残されたら洒落になんねぇだろーがっ!!
ほむら曰く――結界に飲み込まれた人間の命はほぼ絶望的。
行方不明となった人の大部分は、魔女の結界と取り込まれ、抜け出せなくなってしまった結果なのだと、そう聞き及んでいる。
そりゃそうだ。魔法少女でなければ結界の出入り口を作製することは不可能なのだから。
必然的に、彼女とはぐれるということは、死に直結しているといっても過言ではないのだ。
僕にとってほむらの存在はライフラインとも言える。
不意な出来事に、出遅れてしまったが、どうにか先行するほむらに追い付くことができた――これも吸血鬼化した身体能力のおかげだ。
ふぅ肝を冷やした。危うく置いていかるところだったぜ。
追い付いた僕に気付いた彼女が、舌打ちしたのはきっと幻聴の類だ。
その気になれば、例の瞬間移動を駆使して僕を置いて一人で先を行ってしまうことも可能だった訳だしね……本気で僕を置き去りにしようなんて、考えているわけないじゃないか…………これは、ちょっとした悪戯心で、ほんの少し魔が差しただけなのだ。
そう信じよう。
そして――――魔女の使い魔とおぼしき一団が、せっせとお菓子を運送しているのを尻目に、入り組んだ通路を走ること数分。
『chocolate flavor』と記されたネームプレートが掛かった扉の前で、巴さんに追いつくことができた。
巴さんは急接近する気配を察していたらしく、胸の下で緩く腕を組み、寧ろ出迎える様な佇まいで、僕等を待ち受けていた。
本人の自覚はないようだけど、そのポーズは、お胸様の自己主張に大変貢献しており、健全な男子にとっては眼福の極みです。本当にありがとうございます。
心の中では、スタンディングオーベーションだ!
「やっぱり、暁美さんだったのね……ってあなたはあの時のっ!?」
数秒遅れでほむらの横につけた僕の姿を見咎め、巴さんが目を見張る。
ほむらの登場は予期していたようだが、僕の登場に関しては、想定外だったようだ。
出会い方がアレだったもんな……巴さんが驚くのも無理はない。しかもこんな特異な場所で再会すなんて、夢にも思わなかったことだろう。
ともあれ、戦場ヶ原の暴言毒舌をもろに浴びて、再起不能になったんじゃないかと心配していたが、見た限りおいては、壮健そうで何よりだ。
まぁ心に負った傷が完治しているとは、限らないけど……とは言っても、ほむらの話では心配いらないって話だし、これで一つ懸念が解消した。
あとは、僕からだけでも謝罪しておこう――なんて思っていたら、ほむらがすっと歩み出る。
「巴マミ。今回の獲物は私に任せて、あなたは手を退きなさい」
軽い挨拶も会釈さえなく――巴さんの反応を一切合切無視して一方的に告げた。
「…………それは、どういう事かしら?」
僕の存在に気を取られていた為か、少しの間を置いてから、巴さんは言葉を返し――意識をほむらへと傾注させていく。
きつく細められた眼差しからは、警戒の色が窺える。
「端的に言わせて貰えば、あなたの手に負える魔女じゃないってことよ」
ほむらは何の気負いもなく、至極直截的に言い切った。
不躾な言葉に、巴さんが不快気に顔を顰めるのも無理からぬこと。
もっとオブラートな物言いが出来ないものかと諭したいところではあるが、ほむらが殺気立っている原因は、僕の所為だもんな……いや、元からこんな感じだったっけか?
巴さんに話しかけようにも、気軽に割って入れる雰囲気でもないし、取り敢えず、今しばらく静観を決め込む。
「はい、そうですか――で引き下がるとでも思って? 私もそれ相応に手強い魔女と戦ってきたつもりよ。どんな魔女にだって負けはしないわ。それに美樹さんが私の到着を待っているの。卵が孵るにはもうしばらく猶予はあるようだけど、はやく迎えに行ってあげなくちゃ」
「別にあなたの力を見下しているつもりはないのだけど。ただ、今回に限っては相性が悪い。あの子の安全も保証する。だから、ここは私に任せなさい」
尚も高圧的な態度を崩さずほむらは言う。
その言葉は、明らかに巴さんの自尊心を傷つけていた。巴さんの表情が目に見えて険しくなっていく。
「私が負けるとでも?」
「ええ。最悪、戦えば命を落とすわ」
「言ってくれるわね」
一触即発――険悪な雰囲気で魔法少女達は睨みあう。
「お言葉だけど暁美さん。キュゥべえのことで忠告してくれたのは有り難いと思っているけれど、だからといって、前面的にあなたのことを信用した訳ではないのよ。それに……あなた私に言ったわよね。魔法少女の戦いに一般人を巻き込むなって――」
言葉を切り、視線だけを僕に向ける。
詳細は判然としないが、どうやら二人の間で、事前に何らかのやり取りがあったようだ。
「――そこの彼はいったい何なのかしら? ただの一般人……ってことでもないんでしょうけど、部外者を同行させるのはどうかと思うわね」
つーか……僕の存在が、巴さんの猜疑心を増長させている……そりゃ彼女に取ってみれば、怪しさ満点だもんな。彼女が警戒するのは当然と言えば当然だ。
「ふっ、魔法少女体験ツアーなんかを企画したあなたに、そんな事を諭されるなんて、思いもしなかったわ」
鼻で笑い、嘲弄するようにほむらは言った。なぜ更に挑発するような真似を!? あれか? おっぱいのあまりの格差を僻んでいたりするのか!? だとしたら、それは仕方ないなって、そう思うけど。
「おい、ほむら、そうかっかするなって。もっと穏便に話をだな……」
売り言葉に買い言葉――明らかに二人とも冷静さを失っている。
このままでは、言い争いが過熱していくことが目に見えていた。これ以上は流石にまずい。堪らずなだめに掛かる、殊勝な僕である。
しかし、それがいけなかった。
「あなたは黙っていなさい!」
仲裁を煩わしく思ったほむらが声を荒げ僕を一喝した。
その一瞬の隙をついて、巴さんが行動を起こす。いや、起こし終えていた。
巴さんが右手を翳すように突き出すと――何処からともなく無数のリボンが現れ、僕とほむらを包み込み、一気に締め上げた――気付いた時にはもう、身動きすることは叶わない。
拘束目的の仕様なのか、リボンには鎖が仕込まれていた。
力を込め引き千切ろうとするも、より締め付けが強固になるだけで、どうにも脱出は無理そうだ。首から上ぐらいしか動かせそうにない。
「あまり占有だとか、早い者勝ちだとか言い出すのは、信条に反するのだけれど――この魔女は私が狩らせて貰うわ」
「馬鹿っ! こんなことしてる場合じゃ――うっ!」
拘束の力が強まったのか、訴えは途中で遮れ、苦悶の表情を浮かべるほむら。言葉を発することも儘ならない様子。
相当な負荷が掛けられているようだ。
「始末が終れば、ちゃんと解放してあげる。それまで大人しくしていて頂戴。さもないと――安全の保証はしかねるわよ」
脅しとも取れる言葉を残し、巴さんは扉を潜り、魔女の下へ向かってしまうのだった。
~022~
「何よ?」
僕が口を開く前に、ほむらは牽制するようにそう言った。
クールを装っているが、仄かに頬が赤い。
不意打ちとは言え、大口を叩いていた相手に、ものの見事に返り討ちにあって……尚且つ、現在進行形で醜態を晒し続けているこの現状が、恥ずかしいのかもしれない。
手足を拘束されての宙吊り状態ってのは、中々に見ない光景だ。
蜘蛛の巣にかかった虫、或いは、何処となく蓑虫を彷彿とさせる。
「何って言われてもな」
まぁ僕も一緒に捕まっているのだから、彼女を非難する資格があろう筈もなかった。
「なぁ、お前の能力で抜け出さないのか? 瞬間移動で脱出できそうなもんだけど…………って悪い」
無言で睨まれた。そうか、出来ればとっくにやってるってことですね…………。
ううむ……困った事になったぞ……巴さんを救援するつもりで駆け付けたのに、何故こんな事態に陥っているんだろう。
そもそもだ――
「なんで同じ魔法少女同士で、いがみ合っているんだよ? 魔女を倒すのが目的なら、一緒に協力すりゃよかったんじゃないか? 別にグリーフシードだったっけ? それに固執してるわけでもねーんだろ?」
「そうね。でも巴マミは私を信用していない。無論、私も――そんな相手と一緒に共闘したところで、余計なリスクが高まるだけ…………」
拙い連携は得策ではないって考えか……それはそれで、正論な気はするけど……。
「いや、でもさ。端っから喧嘩腰で仕掛けることはないだろ?」
もっと穏便に話を進めれば、何もここまでされることはなかったはずだ。
僕の存在が要らぬ疑念の種となったのは否めないし、鹿目さんに妙な誤解をされて、気が立っていたのも解かる。
しかし、それを差し引いたとしても、もう少し上手く立ち回れないものだろうか?
「は? 喧嘩腰? 私はちゃんと誠心誠意お願いしていたじゃない」
「……………………え?」
ほむらの言葉に、耳を疑わずにはいられなかった。
あれが、誠心誠意……だと!?
まさかこの女……本気で言っているのか? いや、どう見てもこの感じ、冗談を言っているようには見えないし、冗談をいうタイプの人間でもない。
暁美ほむら……人にものを頼むのが下手過ぎるだろ!! コミュ障かよっ!?
いろいろ物申したい所ではあるが、自覚がない相手に言葉を尽くしても、無意味そうだし……そっとしておくとしよう。
呆れるのを通り越して、不憫になってきた。
この話題を続けると居た堪れなくなってくるので、早急に話題を切り替える。
「つーか、そんなにやばい魔女なのか? 巴さんだって、自信あったみたいだし、杞憂なんじゃねーの?」
「そうね。杞憂であればそれに越した事はない――――だけど…………」
ほむらは途中で言葉を噤み、その先を発することはしなかった。
それが却って巴さんの顛末を予期しているようで――言い知れない焦燥が膨れ上がっていく。
――――そして、遂に、
「まずい……孵化したようね」
僕には解らないけれど、魔女が生まれた気配を感じ取ったようだ。
顔を顰め、悄然とした面持ちで唇を噛むほむら。それは巴さんを憂いてのことなのか……だとしたら。
どこかでまだ楽観視していた自分を戒める。
事態は、焦眉の急を告げていた。
歯を食いしばり、爪が食い込むのさえ厭わず手を握り締め、渾身の力で拘束するリボンを引き千切りにかかる!
だが――リボンに仕込まれた鎖が肌に食い込むだけで、全く手ごたえを感じない、寧ろ、僕が暴れた事により、一層締め付けが強まっていく。
大蛇に巻き付かれたような心地だ。
「無駄よ。巴マミの拘束魔法は、魔女をも捕縛する。あなたがどんなに足掻いたところで切れはしない――こうなってしまえば……彼女が魔法少女としての力を失わない限り、解けることはない」
客観的事実に基づいて、冷めた調子でほむらは言った。
「っんなの! わかんねーだろうがっ!!」
それでも、僕はほむらが言うところの、悪足掻きをやめるつもりはない!!
魔法少女としての力を失うだって? つまりそれは手遅れってことじゃねーかっ! 縁起でもねーこと言ってんじゃねーよ!
血管がはち切れんばかりに、力を振り絞る!
みしみしと筋肉が悲鳴を上げ、体内を巡る血が沸騰しているようだ。
火事場の馬鹿力でもなんでもいい!
こんな所で手を拱いている場合じゃないんだよっっ!!!
「くそがぁあああああああああっっ!!!」
気合一閃――蛮声を張り上げる!!
――その結果。
「……まさか……本当に!?」
ほむらが信じられない光景を目にしたと、瞠目する。
口を開け茫然とし、結構まぬけな表情を晒していた。
その理由は他でもない。僕を締め上げるリボンが『切断』されたが故の驚きだ。
縛めが解け、宙に投げ出され落下するも、身体能力が向上していたおかげで難なく着地することができた。
リボンは落下途中で、跡形もなく霧散した。
「コレもお願い。この拘束を破るなんて、正直、見直したわ」
すかさず、せっつくように催促してくるが……そんなこと僕に言われても困る。
ほむらが珍しく褒めてくれてるってのに…………心が痛くなる話ではあるが……。
「いやこれ。別に僕の力ってわけじゃなくて……」
「吸血鬼の力ってこと? 別にいいじゃない」
ある意味ではそうだけど、そうじゃない。ほむらは勘違いしている。
「そういう事でもなくて」
「歯切れが悪いわね、何? 勝手にリボンが解けたとでも言いたいの?」
「……違うけど」
「御託はいいわ。だから早く」
僕の心情的にはどうにかしてあげたいのは山々なのだけど、それは現状難しいのだ…………だって。
『我があるし様よ。これだけは心得ておくがよい。儂はあるじ様の味方であっても、だからと言って決して人間の味方という訳ではない。お前様の窮地を救おうとも、そこの小娘を助けてやる義理は微塵もないという事じゃ。というか、あるじ様への蛮行の数々、儂の心中も穏やかではないのじゃよ。迂闊に頼まれでもしたら、手違いで首ごと叩き斬ってしまうやもしれん。そこのところは念頭に置いておくがよかろう』
このように、先手を打つように釘を刺してきたのだから、無理強いもできないし…………。
ほむらの心証はどうも芳しくないようだ。気難しい幼女である。
誤解のないよう念のため説明しておくと、僕を捕縛していたリボンを切ったのは、僕の火事場の馬鹿力でもなんでもなく、この忍野忍の手柄である訳で…………ほむらは知る由もないが、僕が『引き千切った』のではなく、忍が『切断』したのだ。
どこまで本気かは知らないけれど、下手に頼みでもしたら、ほむらの命が搾取されてしまう。
そんな訳で――
「悪い、ほむら。僕の力では、どうすることも出来そうにないや」
「え? なに馬鹿な事を言っているの?」
「大丈夫、巴さんの事なら僕に任せておけ――」
僕の言葉が理解できないとでもいう風に、唖然とするほむら。
きょとんとしたその表情は、哀愁を誘う。
雨に打ちひしがれる捨てられた子犬を、見て見ぬふりして立ち去るような心苦しさはあるが、ことは一刻を争う事態なのだ。罪悪感に苛まれるけれど、致し方ない。
「――じゃ、そういうことで」
ほむらには申し訳ないが、ここで我慢して貰うしかなかった。
「嘘、置いてくの!? 待ちなさい…………待ちなさいってばぁぁああああああああああああ!!」
悲痛な訴えを背に受けながら…………巴さんの後を追い、扉を潜るのだった。