湯水の湧き上がる音。星明かりに照らされた幻想的な風景。静謐を保つ空気。
それら全てが斬島葵の意識から、都会の喧騒を遥か彼方へと追いやる。
あしらわれた何処か荘厳な印象を受ける天然岩を、雫の滴る指で弄ぶ。緩やかな身体の動きを、心地良い熱感と圧力が柔らかく包み込んだ。
しんと静まり返った緑を眺めていると、気のせいか世界に一人きりのような気分になる。
「だーれだっ!」
……本当に気のせいだった。
唐突に視界を両手で塞がれ、背後から驚くほど柔らかな双丘がぎゅぅっと押し付けられる。
背中に伝わる感触から、彼女がバスタオルを巻いていることは理解できた。もしも一糸纏わぬ生まれたままのいけない姿だったのなら、葵の理性もいけない事になっていたかもしれない。
驚きのあまり硬直状態になる葵は、少し詰まりながらも何とか言葉を返した。
「り、竜胆先輩ですか?」
「そうです、あたしです!」
うん、そんな気はしてた。
……いやいや、そんな事よりも。
「なな、何してるんですかっ?! 離れて下さい、可及的速やかに!」
「えー」
「えー、とかじゃなくて!」
狼狽した声音で告げると、仕方ないなぁと言った様子の竜胆は身体の拘束を解いてくれた。つい最近、似た会話をした覚えがある。こういうのは、確かデジャヴと言った筈。もしくは既視感だっただろうか。
……いやいや、そんな事よりも。
「あの、竜胆先輩……もしかしてこのお風呂、混浴ですか?」
「
「……
マジか。葵は驚き過ぎて、何故か英語で言葉を返した。大仰に肩を竦めてみる。
誰もいないからと、タオルを巻いて湯に浸かっていて本当に良かった。
竜胆と密着状態だった葵は、彼女の手を振りほどいて少しだけ距離を取る。
よほど葵の反応がお気に召したのか、竜胆が悪戯っぽい微笑みかけてくる。
入浴してから初めて竜胆と視線が交差し、その姿に不覚にも葵は目を奪われかける。
朱の点す髪がしっとりと濡れて、陶器のように透き通る白い肌にまとわりつく様が艶かしい。更には豊満な双丘が、彼女が纏っているバスタオルを押し上げて過剰なまでにその存在を主張してくる。
──これ以上はいけない。
葵の心臓が警鐘を打ち鳴らしている。何も見なくても、自分の頬が赤く染まっていることが分かった。この状況は非常によろしくない。
──まずは落ち着こう。KOOLになるんだ。
葵は頭を抱えて、この現状を打開する案を考える。
「じ、じゃあ僕はもうお風呂上がるので、竜胆先輩はごゆっくりどうぞ」
「まだ葵の服、乾いてないと思うなー。更衣室で乾かしてるんでしょ?」
「……ぐ、ぐぬぬ」
そうだった。葵が川に落ちた時に濡れてしまった衣服は、ハンガーにかけて乾かしてる最中である。
そして恐らくまだ乾いていない。つまりはお風呂から上がったところで、着る服がないのだ。
「……なら、竜胆先輩が先にお風呂から上がって下さい。僕は服が乾くまでゆっくりしてるので」
「だが断る!」
……なぜなのか。
竜胆は熱い果実のような唇に白い指を添わせ、考えるそぶりを見せた。そして何かを思いついたようだ。
「だけどあたしのお願いを一つ聞いてくれたら、考えないでもないかなー」
「マジですか?」
「うんうん」
「分かりました。
視線の先で、小悪魔が嫣然と微笑んだ。
「じゃあ……背中を流して貰おうかなー」
「え゛」
☆☆☆
至極当然の事ながら、言葉には責任が伴なう。
自らの発する言葉によって引き起こされる複数の事象を想定し、それを覚悟した上で対処しなければいけないからだ。口は禍の門という言葉もあるくらいなのだから、言葉はよく吟味し反芻し慎重に選ばなければいけない。
だから何も考えずに、
葵は端正な顔をまるで苦虫を噛み潰したように歪めて、自らの発言を悔やんでいた。ぐぬぬ。
しかし幾ら過去を悔やんだ所で、過ぎた時は戻らない。砂時計は無慈悲にも滴り落ちていく。
「葵、準備出来たよー」
「……」
「何でもするんだろー」
「あー、分かりましたってば!」
ぞんざいな口のきき方で半ば投げ遣りな気分のまま、葵は湯槽から立ちあがった。重苦しい足取りで白いバスチェアを片手に持って、竜胆のいる洗い場へと向かう。
竜胆は髪や脚などの背中以外の部分を洗い終えてバスチェアに座り、何処かで聞いたようなメロディを口ずさみながら両足をブラブラさせていた。
バスチェアを竜胆の後ろに置いて座る。そして一言。
「……じゃあ竜胆先輩、今から背中を流します」
「うんうんっ」
「終わったら、先輩はお風呂から上がる。そうですよね?」
「いかにも!」
それにしてもこの小悪魔、ノリノリである。だけど葵は全くノリノリじゃなかった。だって恥ずかしいから。
葵の視線の先で、竜胆は素肌を晒している。いや流石に、バスタオルで胸などは隠しているけれど。
しっとりと濡れた朱の点す髪を身体の前に垂らすと、艶々とした見惚れるくらい綺麗なうなじが見えた。スラリとした背中は瑞々しく、肌も透けるように白い。
月明かりと星明かりが照らす彼女の肢体。其の姿は扇情的であると同時に、決して穢れることの無いような神聖さを秘めていた。思わずはっと息を飲んで、しかしすぐさま我に返る。
いやいやどんなに綺麗でも、ここにいるのは竜胆だ。葵をその傍若無人な振る舞いで振り回す、ワガママ姫だ。
よし、大丈夫。ちょっと落ち着いてきた。
葵は薄桃色のスポンジにボディソープを染み込ませ泡立てる。辺りには微かに花の香りが漂って、それを契機に竜胆の柔肌にスポンジを当てた。
可能な限り優しく、スポンジで背中を撫でる。白い泡が背筋を伝って、床に落ちて弾けた。
「あっ……きゃっ……」
「……」
「んっ、んっ……あぁっ……ひゃうっ?!」
「竜胆先輩……わざと色っぽい声を出さないで下さい」
「だってそのほうが葵は、嬉しいかなーって」
「嬉しくないっ!」
ちょっとだけしか嬉しくないっ!
葵は本音と建前を見事に使い分けていた。でも実際は恥ずかしい気持ちの方が強く、早く終わらせたいから嘘では無いのだ。
「なー、葵」
「なんですか?」
「こういう時、かゆい所はありませんか? って聞くんじゃないの?」
「え、嫌ですよ。めんどくさいな」
「……何でもするっていったくせに」
何も考えずに、
あとその質問って美容院でするものだと思う。
「あーこほんっ……お痒い所はございませんか?」
「背中の真ん中らへんが痒いかも!」
「はい、もう直ぐ終わるので我慢してくださいね」
「ちょっ」
「はい、綺麗になりましたー。お疲れ様でしたー!」
不満そうな竜胆の視線には、気づかない振りでやり過ごす。白い泡にまみれた竜胆の背中を、シャワーで流した。
洗っている時間はほんの少しの時間だった筈なのに、どっと疲れてしまった。
「はぁ、やっと終わった。じゃあ先輩……僕はまたお風呂に入って景色でも見てるので、早くタオル巻いて下さいね」
「最後のアレはどうかと思うんだよなー」
まだ言ってるし。
しかし葵としても、あの要求を聞く訳にはいかなかった。聞いてしまったら最後、さらに過激なお願いが何でもしますという言質を盾に突き付けられる。火を見るよりも明らかだ。
湯に浸かり洗い場から出来るだけの距離を取る。竜胆がバスタオルをその肢体に巻きつけている音が、聞こえないように。
タオルを巻き終えたのだろう、やがてその音もしなくなった。そして竜胆の声が聞こえてくる。
「最後はちょっと雑だったけど、背中流してくれてありがと……葵」
「やけに素直ですね、先輩」
彼女の言葉を意外に思った葵が、振り向きざまに言葉を投げる。すると竜胆は脱衣所の扉の前でにっこりと笑った。
「だから
訂正。
彼女は素直なんかじゃなかった。
やっぱり彼女は悪戯好きの、小悪魔だ。