とある愚兄賢妹の物語 作:夜草
閑話 休憩
とある学生寮
今日で長かった夏休みは終わり。
今思えば例年にましてファンタジックかつアクロバティックで一生忘れられないような夏休みでした。
と言っても、当麻さんと過ごす日々は365日全部忘れてませんけどね。
でも、あまりに衝撃的だったせいか私は一つの案件を忘れていました。
それは当麻さんの宿題。
きっと当麻さんの事だから補習でやったつもりになっているに違いありません。
だから、昨夜のメールで『詩歌、明日の早朝は来なくても良いぞ』と送ってきたんですね。
全く、毎年の宿題は私がみっちりと面倒を見ているんですよ。
今年も面倒を見るに決まっているじゃないですか。
それに、そろそろ
あと、昨夜、陽菜さんから送られてきた動画の件についても聞きたい事がありますしね……フフ、フフフフ。
なので、私は先生とあー君のチョーカーを作った後、少しだけ仮眠し、超特急で当麻さんの部屋に向かっています。
たとえどんなに宿題が残っていようと、私が教鞭を取る限り、不可能を可能にしてみせます。
ええ、高校受験の時の二の舞にはさせません。
「ふぅ~、到着です。ん~、時間を見てみますと、まだ3時ですか。ま、気にしない気にしない」
当麻の部屋の前で匂いを確認し、髪を整え、服装の乱れを直すと満面の笑みを浮かべて準備完了。
そして、詩歌はゆっくりと中の2人を起こさないようにそぉ~っと扉を開け―――
「当麻さん、来ちゃい、まし……た?」
―――ると、そこには紐で縛られ芋虫になっているインデックスがいた。
…………………
詩歌の肉体はその瞬間完璧に硬直してしまったが、その間にも脳内では超速の思考が駆け巡っている。
まずは目の前の状況を精緻に分析。
まだ学生のほとんどが眠っているであろう早朝というより深夜。
薄暗い床の間。
倒れている可憐な少女は間違いなくインデックス。
でも、何故か体と口を紐で縛られ、凄く犯罪チックだ。
インデックスもこちらに救いを求めているように見ている。
それにスフィンクスが下剋上のようにインデックスの上に乗っかっている。
そして、気配から察するとここにいるのはインデックスとスフィンクスのみ。
さてこの光景から推測される現在の状況を羅列してみよう。
1、 床で倒れているのは、実はインデックスさんではなくとても良くできた人形。ズバリ当麻さんの趣味。
2、 当麻さんが急に未発達なインデックスさんの身体に欲情。逃げられないように身体を縛った。
3、 当麻さんがドSに目覚め、インデックスさんを強引にドMに調教中。
………………
「フフ、フフフフ、フハハハハハ! 1でも2でも3でも! どれにしても最悪です! これは魔性に堕ちた兄をせめて妹として生かさず殺さずといった程度にお仕置きしないといけませんねぇ!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
急に靴紐が切れ、黒猫の大群が前を横切り、目の前の樹木にカラスの大群が止まっている。
「んん!? 何だ!? 帰ったら、命が危ねぇ気がする」
当麻はかつてない不幸の予感に頬を引き攣らせる。
学園都市の外から安住の地、自宅に向かっているはずなのに何故か魔王城を目指しているような気がする。
だが、寝不足だし、そろそろ体力が限界だ。
何故なら、ついさっきまで闇咲逢魔という魔術師と共に彼の知り合いの呪いを解いて救い出す為に学園都市の外に出ていたからだ。
しかし、予想に反して、命懸けだった。
外泊許可証がないから魔術でサポートしてもらいながら学園都市から人目を忍んで強行突破。
それだけでも一苦労だったのに、呪いをかけた魔術師と一戦交える羽目になったからもうほとんどガソリンが底をついている。
鍛えてなかったら本当にヤバかった。
「こんなの絶対平凡な高校生の1日じゃねぇ。……日記にまとめたら昨日だけで1日1冊終わるぞ」
今も肉体的にも精神的にも疲労して、両肩が下がっていることを実感している最中だ。
でも、今日は始業式、学校に行かなければならない。
本音を言えば、今日は1日中ベッドに飛び込んで眠ってしまいたかった。
だけど、残念ながらその欲求に従う訳にはいかない。
何故なら、夏休みにそれ以前の記憶を失った当麻にとっては、転校初日みたいなものだ。
記憶を失くしているという事実を、出来ることなら詩歌以外に知られたくない。
だから、授業のない今日1日を有効に使って、詩歌から聞いたかつての自分が築き上げた人間関係をチェックしておかなければならない。
でも……出来るのだろうか。
誰にも悟られることなく、以前の自分と同じような学校生活を本当に送れるんだろうか。
(はぁ~、詩歌に学校に来てもらいたくなってきた。ったく、ダメ兄だな。アイツの兄としてしっかりしないとな……っと、そういえば、昨日は珍しく詩歌に会わなかったな。夏休みの間はほとんど顔を合わせてたし……そう考えたら調子がおかしくなってきた。今日は朝は来るなって言ってあるから、放課後にでも会いに行くとするか)
そんな考えを神様は見ていて下さったのか、普段の頑張りに免じて当麻に神様はご褒美を……
「お帰りなさい、当麻さん♪ ご飯にします? お風呂にします? それとも、ワ・タ・シ――のフルコース地獄めぐりにします?」
ドアを開けたら、満面の笑みでドス黒い覇気を漂わせながら妹が出迎えてくれた。
「ふぅー、夢か」
ここは危険。
今すぐ隣の土御門の部屋に避難しよう。
当麻はそのまま後ろに下がり、ドアを閉め―――
「お・か・え・り・な・さ・い・と・う・ま・さ・ん」
―――られなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やはり先ほどの前兆は正しかった。
1日振りに見た妹は魔王と化していた。
「た、只今、帰りました、詩歌様」
神様なんてロクな奴じゃない。
確かに詩歌に会いたいと思ったが、今すぐにとは思ってない。
この状況がご褒美なのだとしたら、神様に小1時間は説教してやりたい。
「はい、おかえりなさい、当麻さん。それでどれにします?」
思わず、お金を払ってしまいそうなスマイルを浮かべながら、3つの選択肢、
・食事
・風呂
・地獄めぐり
を提示してくる。
「と、当麻さんはお風呂がいいなぁ」
絶対に最後の選択肢を選んだらあかん。
このまえの竜神流裏整体術48手フルコースだとしたら、いくら自分でも激痛でショック死してしまう。
「そうですか。お風呂を、水責めを御所望ですか」
「え……?」
「ご安心を。暑苦しい夏ですから、大量の氷で南極のようにキンキンに冷やしてあります」
どうやらこちらも心臓が止まりそうだ。
「え……え? え?」
「ちゃんと全身に浸かってくださいね………頭まで」
違った。その前に窒息死してしまう。
「ご飯! やっぱり、ご飯がいいです!」
「え? 拷問? 全く―――」
「『ご』の字しかあってねぇよ! 拷問じゃなくて、ご飯を! いや、もうご飯はいりませんから拷問だけは止めてください!」
ダメだ。
予想はしていたけど、どの選択肢も命に関わる、全部NGだ。
くっ、今日は学校に行かねばならないというのに。
「大丈夫ですよ。ちゃんと生かさず殺さずに仕上げてみせますから。インデックスさんと2人で頑張りますから楽しみにしといてくださいね」
―――ガチガチ……
すると、部屋の奥から
「とうまぁ~……覚悟しとくんだよ」
くそ!
本気で2人は仲が良いからな!
きっと、神裂の時以上のえげつない
頼む。
2人が本当は優しい事は知っている。
だから早く。
一刻も早く。
いや、一秒でも早く。
2人に眠る慈悲の心よ目覚めてくれ!
「くっ、届けこの思い!」
それは純粋な祈りだった。
長年教会につかえている敬虔な神父でさえもこうはいかないだろう。
それほど当麻の願いは純粋――――
「大丈夫です。十分に届いています。だから、早く床に顔つけ、額が擦り切れる程の、所謂こすり土下座をしてください。いや、ここは日本人らしく、腹をかっ捌くのはどうでしょうか?」
――――なんだけどなぁ……
「切腹!? これは、死ねって事ですか!? 詩歌さん!!?」
「煩いですね。そこまで嫌なら粉砕にします?」
「はぁ!? 粉砕って何!?」
妹は優しい慈悲の笑みを浮かべて、恐怖に震える兄の問いに答えてあげる。
「“粉砕”とは読んで字のごとく、粉のように砕くという―――」
「いやいや、当麻さんは意味についてなんて聞いてませんよ! 何を!? どこを粉砕するおつもりですか!?」
おっと、どうやら質問の捉え方が違ったらしい。
うっかり癖のある詩歌さんである。
「ふふふ、『あ』で始まり『ま』で終わる3文字で人の身体で大切な部分ですよ」
そのヒントで思い浮かぶのは1つ。
頭だろう。
頭しかない。
頭を粉砕すると言っている。
「う、嘘でございますよね、詩歌様?」
その問いには答えてくれないが、その虹彩を失った眼を見れば分かる。
嘘ではない。本気だと。
純度100%本気だと分かってしまう。
「私が固定します。インデックスさん、先ほどスイカを丸かじりにしたように」
「わかってるんだよ、しいか」
ヤバい、2人は本気、練習までしてきている。
2人の奥、部屋の中には、あれがお前の末路だと宣告しているように、いくつもの真っ赤に染まった無惨なスイカの残骸が散らばっているのを見ればその熟練度は窺い知れる。
「逃がしませんよ」
逃げる隙も与えてもらえず、両手両足を完全に封じる拷問関節技もとい竜神流裏整体術で捕らえられてしまう。
「ぐおおおお!」
殺人的な痛みに耐え切れず悲鳴を上げる。
―――ガチガチガチ……
しかし、目の前に抹殺級の脅威が迫っている。
早く人間圧搾マシーンを止めなければ。
「ま、待てインデックス、話し合おうじゃないか」
先ほども説明した通り、当麻は闇咲と共に魔術師と一戦を交えている。
当然ながらそんな所へか弱いインデックスを連れていく訳にはいかなかったのだが、そう説明した際、叩く蹴る噛み付くと大暴れし、詩歌に連絡しそうになったので、やむなく縄縛術の心得のある闇咲によって強引にお留守番させてもらった。
その怒りのエネルギーがインデックスのパワーを何倍にも跳ね上げている。
「ふん! 話す言葉なんてないんだよ! 全く、魔術師と戦うって分かってるのに1人で行くなんて! どれだけ不思議な力を持っていたって、とうまは馬鹿なんだから!」
「そうですよ。置いていかないって、約束したじゃないですか。全く、迷惑ならいくらかけても構いませんから、心配だけはかけさせないでください……」
2人の声は若干震えていた。
きっと、彼女達は当麻が帰って来るまで、一晩中心配し続けたに違いない。
「ごめん」
当麻はそれだけ言った。
それしか言葉が出なかった。
ここまで自分の身を気にかけてくれた人にこれ以上不安がらせる訳にはいかない。
が、
「今です! 気が緩みました!」
「わかったんだよ、しいか!」
油断する訳にもいかなかった。
早朝、1人の男子高校生の断末魔が響き渡った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当麻が帰ってくる前に詩歌が作った朝食を食べ終わっていたインデックスはお仕置きが終わるとすぐさまベットで寝てしまった。
どうも昨夜の疲れが溜まっているらしい。
しかし、詩歌にはまだやるべき事があったので、朝食後、当麻に正座させる。
それは宿題―――ではない。
昨日のデートについてだ。
当麻に陽菜から送られてきた動画を見せ終わると聖母のように慈悲深い笑みを浮かべながら悪魔のような尋問を開始する。
「さて、当麻さん。美琴さんとのデートは楽しかったですか?」
当麻は決めた。
もうあの店には絶対に行かねぇ!
「いや違うんだ! 聞いてください、詩歌様! あれはな―――」
浮気がばれた亭主のように床に頭を擦りつけながら必死に、それはもう必死に弁解する当麻。
インデックスと詩歌の必殺ツープラトン技を喰らい瀕死状態なのにこれ以上、詩歌のお仕置きを喰らったら間違いなく学校どころではなくなってしまう。
せめて、お命だけは―――と思ったのだが、予想外な事に詩歌はちゃんと当麻の話を聞いている。
おかしい……
いつもなら、問答無用で、『言い訳は嫌いです』とか『足と手どちらが良いですか?』とかいってお仕置きするはずなのに……
「当麻さん、お仕置きがご希望なんですか?」
鋭い。
相変わらず詩歌は鋭い。
「いやいやいや、そんな事は微塵も思ってもいませんよ。当麻さんは優しい詩歌さんの方が好きですからね」
「ふふふ、ここ最近、当麻さんがドMに目覚めたのではないかと勘繰っていたんですよ。それが杞憂だと知って、私とっても嬉しいです。でも、例え当麻さんが妹からのお仕置きが癖になり、その快感を楽しみにしている世間に許されざる性癖の持ち主でも私は―――」
「お前は一体兄をどう思っているんだ!!」
女性心理は不可解だ。
当麻が思うに、女性の精神構造は男と別次元で成り立っているような気がする。
本気で安堵の息を吐いている詩歌に対して、時間を賭けてでも意思の疎通を図りたい。
(つーか、
と、今後の妹の教育方針について、特に常識について真剣に取り組みたいと思う当麻だった。
閑話休題
「言っておきますが、私は別に怒ってませんよ」
「ほ、本当か、詩歌」
「ええ、美琴さんから当麻さんにお世話になりましたとの報告を聞きましたしね。むしろ、その事については感謝しているくらいです」
良かった。
何故、美琴と偽デートしただけで、こんなに怯えなきゃいけないのかと今さらながら思うが、とりあえず、本当に良かった。
(無論、感情では納得していませんがね)
ゾクッ!
いきなり寒気が……あれ? 怒っていないんですよ、ね? ね?
と、視線で訴えるがスルーされてしまう。
何だか怖い。
「そ、そうか! まだ2時間くらい時間はあるし、当麻さんは宿題に取り掛かりたいんですけど……」
「そんな事よりも当麻さんは休むべきです! 私、この前忠告しましたよね! 当麻さんは無理し過ぎだと!」
詩歌の気迫に当麻は呑まれる。
本気で怒っている。
当麻の身体を誰よりも知っているから、誰よりも心配しているからこそ怒っている。
あの時の父、刀夜が息子を心配するのと同じように、それ以上に詩歌は本気で心配している。
全く、さっき反省したばかりだというのに……
……でも、それなら帰ったらすぐに休ませて欲しかったような、とは言わないでおこう。
「はぁ……私も当麻さんの事は言えませんが―――とそんな事を言いたいんじゃなくてですね。ご褒美です。今回のお礼です」
いつの間に机を退けて部屋の中央に敷いてあったベットの上で正座。
そして、詩歌は自分の膝を、パンパンと叩いた。
「宿題の事は後ででいいです。今は、疲労回復が優先です。最低、30分は休んでください」
そうか……結局宿題はやらせるつもりなのか……厳しいなぁ……
「……で、それは何だ」
いつものマッサージじゃないよな。
その体勢は……
「膝枕です。女の膝枕は、男を癒す力があるんですよ」
笑顔で膝を叩き、さあさあ、と促す詩歌。
(まあいいか……)
簡単に提案を受け入れてしまう自分が当麻は不思議だった。
本当に不思議だった。
まあ今の自分はそれほど疲れているのかもしれない。
当麻は詩歌に手を掴まれ、導かれるようにして、その膝の上に頭を乗せた。
視線が自然と上を向く。
「さて、当麻さん……先ほども言いましたが美琴さんから話を聞きました。今回も私の“甘さ”のせいで危険な目に合ってしまわれたようですね……」
そうか……詩歌は美琴との偽デートの事ではなく、『海原』の事について、尻拭いをさせてしまった事を自分に謝りたかったのか。
「私は当麻さんに甘えてばかりです。当麻さんがいつも助けてくれ、どれだけ甘えてもそれに応えてくれるから。だから、私もつい当麻さんに負担をかけてしまって」
「……詩歌」
詩歌は微笑んでいる。
だけど、その微笑みをよく見れば、唇の端が僅かに震えているのが良く分かる。
精一杯に感情をコントロールしようとする表れだ。
表向きはいつも通りに振る舞いつつも、内心では様々な思いが嵐のように渦巻いているに違いない。
「どうか、今は私に甘えてください。私は当麻さんを甘えさせ、当麻さんの手となり足となって働きます。可能であるなら息を吸う事さえも代わって差し上げましょう。だからどうか、ご自分のお身体をもっと大切に。もし仮に、あなたが私の為に身を削って苦労して、その結果倒れてしまわれるのであれば……私は、上条詩歌は、あまりに立つ瀬がありません。もちろん、あなたはいつもご自分の為にやっていると仰るのでしょうけど……」
詩歌は当麻の事を案じている。
それと同時に自分を責めている。
きっと、詩歌は誰よりも自分の“甘さ”に厳しく、誰よりも致命傷に繋がるかもしれない事は分かっている。
詩歌の優しさを、詩歌という人間が弱点だと1番に否定する。
詩歌の甘さを、詩歌という人間が欠点だと1番に否定する。
詩歌の他人を信じてしまう癖を、詩歌という人間が危険な悪癖だと1番に否定する。
そうあの時、詩歌の理性は、奥の奥の暗い底にある絶対零度の理性は『あの魔術師を始末しろ』、それが皆を護る最善手だと答えていた。
でも、それができなかった。
どうしようもなく“甘い”幻想を貫く為に―――
「―――それで、いいんだ」
優しく、そして、厳しい声だった。
「詩歌は……詩歌は今のままでいい。お前の“甘さ”、“優しさ”、それは、“強さ”なんだ。救われた奴は大勢いる。俺も詩歌の“甘さ”には何度も救われている。だから、“甘さ”を捨てなくていい。その“甘い”幻想を捨てないで欲しい」
その時、詩歌の唇の震えが止まった。
そして、少しぎこちないが精一杯いつもの満面の笑みを浮かべる。
「そうだ。だから、詩歌はいつも笑っていてくれ」
詩歌の“甘い”笑みこそ当麻にとって何よりも守りたかったものだ。
これを守りたい、ただそれだけで心に力が湧いてくる。
「ありがとう。嬉しい。とっても嬉しいよ、お兄ちゃん」
詩歌の綺麗な手が、当麻の頭を撫でた。
慈しむような優しい手つき。
おでこに触れる柔らかい指先から、当麻を労わる詩歌の気持ちが伝わってくるようだ。
それに頭の後ろに感じる柔らかさ、体温。
たったこれだけで変わるものなのか。
こんなにも心が落ち着くものなのか。
思わず眠りに誘われそうな心地良さに、疲れも何処かへ消えていく。
決めた。
今はこのまま甘えてしまおう。
「詩歌……少しだけ、このまま眠っても良いか?」
「はい、もちろんです」
花が綻ぶような詩歌の笑顔を確認して、当麻は目を閉じる。
体調を万全にする最も効果的な対処法である睡眠を取るべく真剣に意識を閉じにかかる。
大丈夫、元々、医者からは不死鳥のような回復力だと言われている。
少しだけ体を休めれば全快になる。
今は学校よりも身体を癒す事が最優先。
何故ならそうしなくてはならない確固たる理由ができてしまったから。
早く体調を万全にし、詩歌に通常モードに戻ってもらうこと。
いつもの誰にでも愛され、誰にでも優しく、何でもできるような天才……怒ると怖いが、そして、実は泣き虫な、自分の大切な、大切な妹、上条詩歌を復活させるという、何にもまして最優先される理由がある。
そうでもしないと、兄としての威厳を保ってはいられなくなりそうだ。
その時、
「――、………、 、――――」
身体が覚えている。
頭で忘れていても、身体が、細胞が、そして、心が覚えている。
この優しい音色に身体が自然と弛緩し、力が抜けていく。
これが、ご褒美か……
これだけで昨日の“不幸”に支払った代償は十分過ぎる、お釣りが出るほど元が取れた。
記憶を失う以前に聞いたような、幼い頃、母が唄ってくれた優しい子守唄の旋律に身を委ねながら、当麻は段々と意識を落としていった。
つづく