とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

85 / 322
最終信号編 救いの果てに

最終信号編 救いの果てに

 

 

 

道中

 

 

 

「芳川か? ああガキなら保護したぜ」

 

 

打ち止めは無事保護。

 

あとは注入されたウィルスを取り除けば事は解決。

 

身体の不調も、培養器で調整を再度かければいい。

 

まあ、アイツは尻拭いをするとか何とかで1人で厄介な敵を惹きつけるとか言っていたが心配はいらないだろ。

 

 

(リミットまで、まだ時間は十分にある。こっちは余裕だったな)

 

 

「で、どォすンだ。先にガキだけでも連れて戻るか」

 

 

そうだな。

 

ここで打ち止めを芳川に預けた後、アイツの様子を見に行くのもいいのかもしれない。

 

 

「ン?」

 

 

そこでふと、打ち止めを運び出そうとした時、電極に繋がったコードが巻き付いている事に気付いた。

 

 

「オイ、クソガキの頭に電極みてェなモンがついてンだけどよ。これって剥がさねェ方が良いのか?」

 

 

『電極? おそらく<妹達>の身体検査用キットだわ。剥がしても問題はないわね』

 

 

そして、今度はコードと繋がっているノートパソコンのモニタを見る。

 

 

「BC稼動率ってェのは」

 

 

『ああ、それは最終信号の脳細胞の稼働率ね。ブレインセルでBC』

 

 

ギョッとした。

 

人間の脳細胞を一つ残らず監視しているなんて並大抵のことではない。

 

少なくてもノートパソコンで処理できるとは思えない。

 

しかし、<妹達>は電撃使いなので、彼女の方から何らかの補助をしているのかもしれない。

 

どちらにせよ自分には未知な領域だ。

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 

ちらり、と熱に魘され、呼吸が荒くなっている打ち止めを見る。

 

 

「なァ。この機械を使ってこのガキのウィルスを駆除できねェのか? ここからガキを連れて帰るにしても結構時間がかかるしよォ」

 

 

『無理ね。それはただのモニタだから、書き込みには専用の培養器と<学習装置>が必要よ』

 

 

ふむ、と一方通行は少し考えて……気付いた。

 

何か、電話の向こうから雑音が聞こえる。

 

 

「オイ、オマエ今、研究所にいるンじゃねェのか?」

 

 

『あら、気がついた? 私は今そちらへ向けて運転中。機材も準備してあるわ。キミが研究所に引き返すよりは時間を短縮できると思ってね』

 

 

「ウィルスコードの解析は終わってンのか?」

 

 

『8割方と言った所かしらね』

 

 

―――大丈夫、時間までには間に合わせてみせるわ、と芳川は力強く言った。

 

 

「そォかよ」

 

 

何か、普段の彼女らしくないと一方通行は眉を顰めつつも、少しだけ肩の力を抜いた。

 

ようやく事態の解決まで後数歩という所まで辿り着いた。

 

 

「ったく。どこまで面倒臭ェ事に巻き込みゃ気がすむンだ、このガ―――」

 

 

「み、ミ―――」

 

 

その時、不意に少女の口が動き出した。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

「み、さか、は……みさ、ミサカ、は―――」

 

 

まるで強烈な渇きに襲われた人間が水を欲するように、震える唇を動かす。

 

2度、3度、打ち止めの身体がビクンと震えた。

 

異常事態。

 

 

「み、サ―――…カ、ミサ。カはミサ! カはミサカはミサカはミサカミサカミサカミサカミサミサミサミサミサミサミサミサミサミサm>iju0058@Misagrミサqw0014codeLLGミサカミサカieuvbeydla9(jkeryup@[iiG・・**uui%%ebvauqansicdaiasbna・・――――ッ!!」

 

 

まるで身体を食い破って出てきたかのように理解不能の暗号を絶叫し続ける。

 

電極が繋がっているノートパソコンのモニタの中は荒れ狂い、無数の警告文が矢継ぎ早に表示され、画面を埋め尽くしていく。

 

 

「くそ! オイ芳川、これはどォなってる!? これも何かの症状の一つなのかよ!!」

 

 

『………なんて…こと……』

 

 

電話の向こうから驚きに息を呑んだ音が聞こえる。

 

その間にも打ち止めは痛いくらいに目を見開き、口からは呻き声のようなものが洩れ出している。

 

手も足も、身体の全てが震えている。

 

BC稼動率――脳細胞の稼働率も70%、83%、95%ときて……100%を超えても、そのまま先へ伸びていく。

 

そして、BC稼働率ですら次々と出てくる新たな警告文に塗り潰される。

 

ま、まさか!

 

そんなバカな!

 

起動するのは、9月1日の午前0時じゃなかったのか!

 

 

『0時発動というのはダミー情報だったんだわ―――』

 

 

最悪の事態。

 

 

『ウィルスコードよ、それ…もう起動準備に入っているわ―――!!!』

 

 

―――定刻と共にウィルスは起動準備に入り、以後十分で起動完了。

 

 

絶望と共に思い出す。

 

実験に参加した科学者の一人、芳川桔梗の言葉を。

 

 

―――<ミサカネットワーク>を介し、現存する全<妹達>へ感染。

 

 

<ミサカネットワーク>、第3位の劣化クローン、<妹達>が持つ電気操作能力を利用して作られた脳波リンクを介し、現存するミサカの全てにウィルスが感染してしまうことを。

絶望と共に思い出す。

 

芳川が予測した、ウィルスの内容を。

 

腕の中の少女がどうなるかを。

 

 

―――そして、暴走を開始。

 

 

人間に対する無差別な攻撃。

 

世界各地に散らばる1万弱もの能力者が、一斉に……

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

(間に合わなかった―――!!?)

 

 

もう間に合わない。

 

いくらウィルスを組んだ天井がすぐ側にいるとしても、全てを吐かせて、尚且つワクチンコードを作る時間の余裕はない。

 

得体の知れない感触が頭の裏をジリジリと焼く。

 

しかし、その正体を知る前に芳川の冷静な声が思考を断ち切る。

 

 

『聞きなさい、一方通行。こうなった以上、次の手を打たなければいけないわ。ウィルスは<ミサカネットワーク>上へ配信される前にコードを“上位命令文”に変換する為の準備期間がある。時間はおよそ10分間。残り6,7分という所ね』

 

 

―――もう分かってるわね。処分なさい。

 

 

その冷静な声に思考が凍る。

 

この殺しにしか使って来なかった力で、最小限の被害を黙認する事で、たった1人の『助けて』すらも言えない少女を殺す。

 

 

『その子の命を奪う事で、<妹達>の暴走から世界を守るのよ』

 

 

世界…を守る……

 

違う。

 

守りたかったのは、それじゃない。

 

世界じゃなく自分を認めてくれた人を守りたい。

 

しかし、

 

 

「……どォ転がろォと、殺すしかねェンだな。俺には」

 

 

『それは……そうする事で最終信号を救ってやる事にもなるのよ。ウィルスが発動すれば彼女の心はズタズタに引き裂かれてしまう―――!!』

 

 

だから、そうなる前に笑って、殺してやれ……

 

 

「クソッたれが……」

 

 

もう打ち止めは助ける事ができない……――――

 

 

「クソったれがああああっ!」

 

 

叫ぶことしか、出来なかった。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

胸の奥がジクリと痛んだ。

 

あのLevel0に殴られた時とは違う痛み。

 

そうこれはアイツと最低最悪な再会した後に<妹達>を殺した時と同じ……失う痛みだ。

 

しかし、比べ物にならない。

 

自分の力ではこの現状を打開する事はできない。

 

最強と謳われながら、ありとあらゆる“向き(ベクトル)”しか能がなく。

 

今まで人殺しにしか使って来なかった。

 

そう、思いつくのは他人の皮膚に触れて血液や生体電気を逆流させるくらいしか―――

 

 

(……、?)

 

 

そこまで考えて、一方通行は何かが引っかかった。

 

 

(生体電気、逆流……―――)

 

 

―――あー君の能力はありとあらゆるベクトルを自在に操る事が出来ます。

 

 

そうだ。

 

 

―――本当にすごい能力です。おそらく、

 

 

ああ、そうだ。

 

 

―――あー君の力は大抵の事なら何でもできるじゃないんですか?

 

 

ああ、できるさ! できるに決まってンだろォが! 俺を誰だと思ってやがる!

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

打ち止めを殺さない為にはウィルスを削除するしかない。

 

そのためにやる事は2つ。

 

1つは、打ち止めの膨大な人格データの中から、ウィルスコードだけを検出する事。

 

もう1つは、打ち止めの脳内の電気信号を操り、検出したウィルスコードだけを正確に削除する事。

 

 

「オイ、芳川」

 

 

一方通行はポケットにある電子ブックを取り出す。

 

手の平にすっぽり収まる大きさのそれは元々、打ち止めの行き先を予測するために作られた物で、ウィルスを注入される前の打ち止めの人格データが収められている。

 

 

「脳内の電気信号さえ制御できりゃあ<学習装置>がなくても、あのガキの人格データをいじくる事ができンだよな?」

 

 

『何を……』

 

 

言いかけて芳川は何かに気付く。

 

<学習装置>は人の脳を電気的に操作する事で人格や知識を強制入力(インストール)するための装置だ。

 

 

『……まさか、キミ自身が<学習装置>の代わりをするというの? 無理よ。いくら君の能力でも人間の脳内の信号を操るなんて……』

 

 

「できねェって事はねェだろ。“反射”ができた以上、その先の“操作”ができたって不思議じゃねェ」

 

 

一方通行の能力はベクトル操作だ。

 

皮膚上の体表面に触れる、あらゆるもののベクトルを自在に操る。

 

触れてさえしまえば、他人の生体電気に干渉することだって出来る。

 

そう、出来る。

 

脳内の電気信号を、この手一つで制御することが、<学習装置>の代わりをする事ができる。

 

 

「要はウィルス感染前のデータと照合して余分を消しちまえばいいんだろォ!?」

 

 

超能力開発を授業に盛り込む学園都市にとって、学園都市最強の能力者とは、それ即ち、学園都市最高の頭脳をもつという事。

 

街を流れる風の流れを粒子レベルで精巧無比に予測演算もできる思考回路なら、元のデータとの照合し、ウィルスだけを削除する事も可能だ。

 

そして、手元には打ち止めが正常の時の人格データが収められた電子ブックがある。

 

 

『できっこないわ! 後数分しか残されていないこの状況でそれをやるなんて無理よ! 失敗すれば<妹達>だけでなくたくさんの犠牲者が出る事になるのよ! それはキミも十分分かってる―――』

 

 

余計な雑音しか出ない携帯を投げ捨てる。

 

今、己の耳に聞こえるのはあの時、自分の能力は何でもできると、称した少女の声。

 

その声で、その時見た微笑みで、一方通行の思考回路は一気に加速していく。

 

そして、覚悟を決める。

 

あの出会いも。あの会話も。あの笑顔も。

 

そして、自分を認めてくれた者を1人失う覚悟も。

 

その全てを失う痛みを受け入れるだけの覚悟を。

 

この人格データは、打ち止めがウィルスに感染する前のもの。

 

この情報に従って修正を行なえば、感染後に得た記憶は全て消えることになる。

 

つまり、自分と出会う前に……

 

 

「……だから、何だってンだ。忘れちまった方が、このガキのためじゃねェか」

 

 

傍にいるだけで危険と隣り合わせ。

 

自分と付き合うにはそれ相応の強さが必要。

 

だから、打ち止めは帰らなくちゃならない。

 

化物のいる血みどろの世界じゃなく、アイツが照らす優しい光のある世界へ。

 

そう、だから忘れられた方がいい。

 

むしろ、最初からいなかった方がいい。

 

でも、アイツと3人で食事した時の光景は……

 

 

「クソッ、こんなんで迷ってるようでは、アイツにやられっぱなしじゃねェか! いつまでもやられっぱなしってのは気がすまねェンだよ!」

 

 

電子ブックのスイッチを入れ、画面に表示される膨大な量のテキストを、滝が流れるような速度でスクロールさせながら処理していく。

 

全てを処理するのに52秒。

 

目を閉じて反芻するのに48秒。

 

目を開いて自分の記憶と画面を照らし合わせるのに65秒。

 

計2分45秒。

 

 

「よし」

 

 

準備は整った。

 

全てを終わらせる準備は、整った。

 

一方通行は手を握り締め、ぐしゃり、という音を立てて電子ブックを粉々に砕く。

 

 

「準備完了だ、クソヤロォ」

 

 

助手席に沈む打ち止めに手を伸ばす。

 

じっとりと、身体に汗が滲む。

 

演算に一点集中するために、“反射”を解除したからだ。

 

“反射”という絶対防御を脱いだ一方通行の体は環境にすら押し負けるほど弱い。

 

にも構わず、打ち止めの額へ触れる。

 

高熱を帯びた皮膚から生体電流を掴み、そのベクトルを掌握していく。

 

 

「ったく、このクソガキが。人がここまでやってンだ。今更助かりませンでしたじゃ済まさねェぞ」

 

 

そう言って、笑った。

 

おそらく鏡があれば自分でもびっくりするほどの優しい笑みを。

 

殺しにしか使って来なかった力で人を救う。

 

滑稽だ。

 

滑稽にも程がある。

 

 

「……面白いじゃねェか。愉快に素敵にビビらせてやるよ」

 

 

覚悟を決める。

 

最後の覚悟を決める。

 

 

「いくぜェ!!!! コマンド実行」

 

 

能力を注ぐ。

 

ベクトルを変える。

 

<妹達>の、打ち止めの運命を変える。

 

殺すためじゃなく、救うための戦いを始める。

 

ウィルス起動時間まで、あと52秒。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

頭の奥が焼けるように熱い。

 

人間の脳がどれだけ繊細なのかを思い知る。

 

ほんの少しでも集中を乱しただけで、精密な電気信号のやり取りが狂ってしまう。

 

下手をすれば、打ち止めの脳を焼き切ってしまうのかもしれない。

 

それでも、

 

 

「ははッ! ザマァ、みやがれ! 楽勝だってンだよォ!!」

 

 

いける、と確信した。

 

予想以上にウィルスの進行は進んでいなかった。

 

もう、ウィルス起動準備に先を越されていた分は完全に追いついている。

 

この調子なら確実に間に合う。

 

ウィルスコードを時間内に完全修正することが出来る。

 

ガリガリと塗り潰されるコードを思い、寂しそうに笑う。

 

自分はウィルスと共に一体何を排除しているのかと。

 

手の中で電気信号が躍る。

 

ノートパソコンの画面を埋めていた警告文が一つ、また一つと消えていく。

 

データを上書きする速度も上がっている。

 

ウィンドウとウィンドウの隙間も大きく開かれていく。

 

そして、打ち止めの様子もだいぶ落ち着いてきた―――

 

 

がさり。

 

 

その時、いきなり音がした。

 

ウィルスコードを上書き修正しながら目を向けると、

 

 

「邪魔を……す、るな」

 

 

血走った眼で、こちらに拳銃を向けている天井の姿があった。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

残りのコードはあと僅か。

 

しかし、まだ手を放せない。

 

断片的に残ったコードが誤作動を起こせば、打ち止めの脳が壊れる恐れがある。

 

だから、1つでも警告文が出ている状態のままにしてはいけないのだ。

 

そして、演算に集中している為、“反射”を使う事はできない。

 

 

「く……っ!?」

 

 

今なら分かる。

 

あのLevel0が退かなかった理由が。

 

アイツが最後まで不敵に笑っていた理由が。

 

生存本能を超えて、人を救おうとした奴らの気持ちを理解する。

 

 

「邪魔を、するな」

 

 

今の天井は狂気に支配されている。

 

そして、一方通行が何をしているのかは理解できないが、その僅かに残された正気が死なれては困る打ち止めから悪魔を追い払えと駆り立てる。

 

この瞬間においてだけは、その選択は正しいが、普通なら一方通行は、銃弾はおろか核兵器だって効きやしない。

 

“反射”を切ってるかどうかなんて見た目で区別できるはずがない。

 

しかし、今の天井は普通じゃない。

 

 

『残りコード数923……』

 

 

作業はまだ終わらない。

 

嫌な汗が身体にまとわりつく。

 

後一瞬で、打ち止めからウィルスを完全に除去できる。

 

しかし、後一瞬が命取りだった。

 

 

「邪、ば、を……ごァああ!!」

 

 

乾いた銃声が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

「Error.Break_code_No000001_to_No357081.不正な処理により上位命令文は中断されました。通常記述に従い検体番号20001号は再覚醒します」

 

 

ポン、と。軽い電子音と共に、最後の警告ウィンドウが消滅する。

 

危険なコードは全て上書きされた。

 

そう打ち止めは助かった。助かったのだ。

 

しかし、

 

 

(全く。考えが甘すぎンだよ。アイツの甘さでもうつったのかァ?)

 

 

一方通行は撃たれてしまった。

 

額が裂け、真っ赤な血が溢れだしている。

 

意識も徐々に奈落の底に堕ちていくかのように真っ暗になっていく。

 

 

(今さら、誰かを救えば、もう一度やり直せる事ができるかもしンねェだなンて)

 

 

そして、

 

 

「うォォアァあああああああぁああぁ!」

 

 

狂気に支配された鬼がそこにいた。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

どうして、私が生きているんだ。

 

訳は分からないが、今の一方通行は“反射”を使わなかったようだ。

 

ならば、この<衝槍弾頭(ショックランサー)>を頭部に受けて生きていられるはずがな

い。

 

<衝槍弾頭>は弾丸に特殊な溝を刻む事で、弾丸の空気抵抗を操作して『衝撃波の槍』を作り出す特殊弾頭だ。

 

普通のものよりも殺傷能力は5倍も10倍も高く、空気摩擦の熱で弾頭表面の溝が解けてしまう為、回収されてもそのテクノロジーは解析する事はできない。

 

現在、対暴走能力者用に開発が進められている。

 

しかし、そんな事はどうでもいい。

 

ウィルスは起動しなかった。

 

もし正常に起動していれば、『武器や能力を駆使して、手当たり次第に人間を殺せ』という命令文を出した後、取り消し防止のため、この最終信号は自分の心臓を自分で止めて死ぬはずだったのだ。

 

にも拘らず、最終信号は生きている。

 

つまり、この計画は失敗してしまった。

 

私の、人生が、終わった……

 

 

「うォォアァあああああああぁああぁ!」

 

 

天井は絶叫し、自分の人生を粉々に打ち砕いた者へ銃口を向けた。

 

助手席で眠り続ける小さな少女、打ち止めに。

 

そして、狂気に支配されるがまま引き金を引い―――

 

 

「―――、させるかよォ。くそったれがァ!!」

 

 

銃弾が弾かれた。

 

打ち止めをズタズタに引き裂くはずだった<衝槍弾頭>が弾かれた。

 

死の淵から起き上がって来た死体によって。

 

避けた額からダラダラダラダラと血を流すその少年が、天井の銃口を遮るように手を広げていた。

 

“反射”により弾かれた弾丸は綺麗に銃口へ吸い込まれ拳銃が内側から爆発した。

 

グリップを握りしめていた天井の手首がズタズタに引き裂かれる。

 

 

「う、ぐ……ァあああああ!?」

 

 

天井は失敗した。

 

<衝槍弾頭>は『衝撃波の槍』を作り出すが、その時の空気抵抗により、普通の弾丸よりも一瞬だけ遅れてしまう。

 

ほんの一瞬。

 

しかし、その一瞬で打ち止めの治療は完成し、土壇場で“反射”を取り戻した。

 

その結果、頭蓋骨に罅を入れられたが死の淵の直前で踏み止まる事ができた。

 

しかし、詳しい事情を知らない天井には、死んだ人間が甦ったという悪夢にしか見えない。

 

 

「……ハッ、それは何をしているつもりなのだ? 今さらお前のような者が」

 

 

だらしない笑みを浮かべて、天井が叫ぶ。

 

どうやら度重なる悪夢に自暴自棄になってしまっているらしい。

 

 

「テメェに言われなくても分かってンだよ。こんな人間のクズが、今になって誰かを助けようなンて思うのはバカバカしいってことぐらいよォ。全く甘過ぎだよな、自分でも虫唾が走る」

 

 

誰かを助ければ、自分も救われるかもしれない。

 

そんなのは甘い幻想だ。

 

何千もの人間を殺しておきながら、今さら命が大切だとか言うなんて、本当に救いようもない。

 

屍の山を作りあげた虐殺者が、人に救いを求めるなんて、間違っている。

 

ヒーローみたいに人に救いを与えようなどと馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

 

そんなこと誰に言われなくても痛いくらい理解している。

 

しかし、

 

 

「けどよォ、このガキは、関係ねェだろ」

 

 

だからこそ、

 

 

「俺達がどんなに腐っていてもよォ。どうしようもねェ、人間の屑だったとしても」

 

 

この温かさは、穢れた自分でさえも包み込んでくれた温かさを、

 

 

「このガキが見殺しにされて良い理由にはなンねェだろォが!!!」

 

 

奪う事を見過ごす事はできない。

 

どうしようもない屑だからこそ、分かる。

 

たとえどんなに格好悪くても、不釣り合いでも、分不相応でも、そして、自分がどんなに傷つこうとも絶対にそれは守らなければならない。

 

1万近くの<妹達>を殺したからと言って、残りの1万以上の<妹達>を見殺しにしていいはずがない。

 

 

「綺麗事だってのは分かってる、今さらどの口がそンな事言うンだってのは自分でも分かってる! でもな、今のテメェがやろうとしてる事は絶対に見過ごすなンてできねェ! もう、俺のせいでアイツのクソ甘ェ理想を傷つける訳にはいかねェンだ! アイツとの約束を破る訳にはいかねェンだよ」

 

 

そして、詩歌を裏切る訳にはいかない。

 

詩歌の甘い理想は守らなくてはいけない。

 

そう……自分を認めてくれている、唯一無二の友だから。

 

ここで打ち止めを守れないようなら、あの温かみを、1度失ったと思ったはずの温かみを、手放さなければいけなくなる。

 

もう2度と手放したくない温かみを自分の手から手放さなければならない。

 

夢のようだと思うが……いつか、あのヒーローの友であると堂々と思えるようになりたい。

 

 

「……、つ、がァあああ!!」

 

 

もう一方通行の意識はほとんどない。

 

後数秒もしないうちにぶっ倒れてしまうだろう。

 

だから、残された意識を振り絞り、最後の一撃に全力を籠める。

 

鮮血に塗れながらも気迫と共に吼える。

 

 

(一瞬でもいい。1%でもいい。アイツらみてェに力を)

 

 

脳裏に浮かぶはあのLevel0と、上条詩歌の渾身の一撃。

 

ヒーローみたいに決着をつけたあの一撃。

 

幼い子が正義の味方に憧れるように、焦がれたあの理想像。

 

相手ですら救う最強の活人拳。

 

あれから何度も夢見てきたそのフォームは、奇跡的にあの時の詩歌と重なった。

 

 

「く、来るな! 来る―――」

 

 

天井の言葉は、それ以上続かなかった。

 

真正面から一方通行の拳を受けた天井はあの時の一方通行と同様、重力の法則を無視したかのように、空中で二回転以上回ってから地面に叩きつけられ、気を失った。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

拳を振り切った後、足がもつれたようにバランスを崩す。

 

慌てて踏み止まろうとしたが、足がもう動かなかった。

 

額の傷が一際大きく痛んだと思ったら、次の瞬間には痛みの感覚が消えていた。

 

全身の感覚がなくなっていき、力が抜けていく。

 

そして、そのまま倒れようとした時、

 

 

「あー君!」

 

 

優しく少女に抱きとめられた。

 

最早それに応える気力もない。

 

しかし、一瞬、微かに、僅かだけ、血塗れなのにも関わらず、一方通行は笑った。

 

少女の顔を見て笑った。

 

血塗れになるのにも拘らず、一方通行を抱き止めながら少女はすぐに頭の傷口を調べ始める。

 

必死に何かを、おそらくは応急処置をしようとしている少女を、一方通行はぼやける視界でじっと見つめていた。

 

手元が震えているのがわかる。

 

今日、自分が脅迫しても、あの時、全身ボロボロで絶体絶命に追い込まれた時も、一度も僅かたりとも震えなかった少女がこんなに慌てているなんて、こんなに焦っているなんて……

 

 

「大丈夫です! 絶対に助けます! あー君は死にません! 死なせはしません!」

 

 

それは、少女が自分自身に言い聞かせているようでもあった。

 

どこか遠くから、救急車のサイレンが聞こえてくる。

 

おそらく銃撃する前から通報してあったのだろう。

 

しかし、そんな事よりも目の前の少女から目が離せなかった。

 

自分の血で張り付く前髪を払えのけながら、必死に応急処置を続けている。

 

必死に自分を助けようとしている。

 

 

「死んでは駄目です。折角また会えたのですから。また一緒に遊ぼうと約束したのですから。死んでは嫌です。もう私は誰も失いたくない……」

 

 

自分と触れている所から、温かなナニカが浸透していく。

 

痛みが和らぎ、全てが癒されていく。

 

しかし、それよりも詩歌の顔から目が離せなかった。

 

いつもの微笑んでいる顔ではなく、しゃくりあげながら泣いている顔。

 

初めて見る顔だ。

 

楽しそうに黒い笑みを見た時は、嫌な予感がした。

 

喜びに満ちた微笑みを見た時は、温かさに包まれた。

 

憤怒の顔を見た時は、背筋が凍った。

 

そして、初めて見た泣き顔は……

 

 

 

無防備で……

 

 

 

弱くて……

 

 

 

そして……

 

 

 

 

 

一方通行は不覚にも愛おしいと思ってしまった。

 

 

 

 

 

<自分だけの現実>という形で完全に把握したはずの精神に、いつの間に根付いていたナニカが芽吹く。

 

 

(あァ……泣くンじゃねェ、よ…し…いか……)

 

 

考える事はたくさんあるが、今はまず彼女だ。

 

こんなにも自分を心配してくれる、こんなにも自分の為に泣いてくれる。

 

この子の涙はどうしたら止まるのか。

 

どうしたらいつもの温かい微笑みに戻ってくれるのか。

 

そうして、最後まで少女の泣き顔を目に焼き付かせながら、意識が深い闇へと呑まれるまで、一方通行はその答えを探し続けた。

 

 

 

 

 

とある学生寮 当麻の部屋

 

 

 

『よかった……当麻さんになにかあったかと―――えっ!?』

 

 

空から雪のように降り注ぐ無数の穢れなき光の羽。

 

『約束を守れなくてごめん。後は頼む』

 

 

それは“死”を運ぶ死神。

 

 

『ああぁぁああぁああっ!!!』

 

 

それは、大切な人を“奪った”。

 

 

『駄目です! あれには触れてはいけません!』

 

 

それは、積み重ねてきた思い出を“消した”。

 

 

『離せ! 助けるんだ!! 助けなくちゃいけないんだ!! だから、どけ! 私の邪魔をするなぁあぁぁっ!!!!』

 

 

それは、絶対の約束を“破った”。

 

 

『お願いです! これ以上、私の目の前で犠牲者を増やさないでください!』

 

 

それは……

 

 

『逃げてぇぇぇ!! お兄ちゃああぁぁんッ!!』

 

 

それは……

 

 

『お兄ちゃん、ねえ、お兄…ちゃん、おにい……約束守れないなんて嘘でしょ、お兄ちゃん……今日の夕飯はお兄ちゃんの好物なんだよ、ねえ、早く起きてよ!! お願いだから早く起きてよ!!』

 

 

それは、心を“殺した”。

 

 

『あ、ああぁ、ああ』

 

 

初めて、“不幸”に負けた、屈した、敗北した、惨敗した。

 

 

『いやああぁああああああぁあああああぁああ!!!』

 

 

決して壊れる事がないと思っていた絆が断ち切られたその日。

 

全身が引き裂かれるような絶望感を味わった。

 

喉が潰れるほどの声で、世界の果てまで届くような声で、泣いた。

 

この運命を脚本した神を恨んだ。

 

でも、

 

 

『―――その幻想をぶち殺すッ!!』

 

 

その幻想(じごく)を帰って来てくれた大切な人が砕いてくれた。

 

救ってくれた、甦らせてくれた。

 

しかし、今も、心の奥の、深い深い、暗い暗い深層にその傷跡は残っている。

 

決して癒える事のない傷跡が……

 

 

 

 

 

道中

 

 

 

腕の中で友の鼓動が弱まっていく。

 

穴の開いた額は血塗れ、口の端から血の泡が溢れだし、瞳から急速に生気をが消えていく。

 

そして、瞳を閉じた。

 

あの絶望を再演するように穏やかな笑みを浮かべて逝こうとしている。

 

 

「どうして、どうして……神様(アンタ)は陳腐なストーリーを作んだ! そんなに人を“不幸”にして楽しいかッ!」

 

 

吼える。

 

天に向かって、吠える。

 

傷跡が開いた痛みに耐えきれず慟哭する。

 

 

「だがな―――」

 

 

絶望はしない。

 

どんな“不幸”にも負けない。

 

もう2度と敗北しないと誓った。

 

あの時の弱かった自分はもういない。

 

 

「―――皆笑って終わらせる。そう決めた。だから、覚悟しな。こっからはシナリオ変更だ」

 

 

冥土帰し、世界最高の医者から教えてもらった応急処置はしたが、それでも一方通行の生死は危うい。

 

これ以上できる事はなく、後は天に無事を祈って、救急車を待つしかない。

 

が、詩歌は大人しく神に運命を任せる性質ではない。

 

 

「<調色板>、混成、<梔子(くちなし)>」

 

 

詩歌の体が純白の輝きを放ち始める。

 

今まで、詩歌は多種多様な能力を見てきたが、他人の傷を治すのに特化した能力には出会っていない。

 

<肉体再生>というのがあるがそれは自己再生能力を高めるもので、他人の傷を治すようなものではない。

 

だが、ないなら作ればいい。

 

その可能性に気がついたのは、三沢塾の後日に遡る。

 

 

『インデックスさん、人の傷を治せる魔術ってありますか?』

 

 

三沢塾で応急処置では救えなかった人達がいた。

 

その時の、生まれて初めて死に触れた時の後悔を詩歌は忘れていなかった。

 

 

『うん、あるよ、しいか。例えば、<天使>をイメージして……』

 

 

魔術には回復魔術というのがある。

 

読んで字のごとく人体を回復する魔術の事で宗派・法則・術式は様々。

 

風邪薬では骨折を治せないように、患者の状態に対して適切な呪式を使用しなければ効果がなく、呪文を唱えればどんな傷でも治ってくれるというような便利なものではない。

 

その数多の回復魔術の中から、詩歌は汎用性の高いものを<魔導図書館>の異名を取るインデックスから教えてもらった。

 

それは、偶像の理論、<天使>の力を利用したもので、患者に見立てた人形を直すことで患者自身の傷も治す、というものである。

 

そして、<御使堕し>の時、<天使>を取り込んだ詩歌はその力を使って、神裂と土御門の怪我を一瞬で完全に治癒した。

 

つまり、詩歌にはその知識と経験がある。

 

そして、どんな異能でも扱える詩歌にとって、魔術と能力は、違いはあっても根本的には似たようなもの。

 

<天使>の時に得た経験を魔術の知識と、詩歌の柔軟な思考、多感な発想力で補い、回復魔術を<調色板>で再現する研究は、ここに一つの果実を実らせようとしていた。

 

 

 

「今から神様(テメェ)が描いた現実(ストーリー)に―――」

 

 

 

その果実こそが、詩歌独自の回復魔術、他人の傷を回復させるのに特化した<治癒能力>。

 

 

 

「―――私の幻想を投影するッ!!」

 

 

 

その時、全身に戦慄が走った。

 

詩歌の半径1mの空間が温かい空気で包まれ、純白から変化した梔子色の、赤みを帯びた濃い黄色の輝きが一方通行の体へと伝播していく。

 

おそらくこれが<梔子>なのだろう。

 

一方通行の血が徐々に止まり、肌に生気が満たされていく。

 

そして、額に空いた穴も小さくなっていく。

 

一度行使すれば、後はそれを維持する気力と集中力の勝負。

 

詩歌の顔は青白くなっていき、脂汗が溢れていく。

 

自分の中から生命力(マナ)そのものが吸い上げていくように、一方通行に流れていくのが分かる。

 

この力は、自分の生命力を利用して行使しており、使えば使うほど生命力は減っていく。

 

戦闘直後で、精神力と体力が大幅に削られている状態では生命力が枯渇するのかもしれない。

 

 

「……くっ……」

 

 

気を抜いていなくても意識が飛びそうになる。

 

<梔子>の負担だけではない。

 

そう詩歌は<調色板>の限界に近付いている。

 

そして、魔術の理論を能力に応用しているのだ。

 

いくら詩歌といえど、その2つの反発力を完全に殺しきる事はできない。

 

 

「まだ…まだ……」

 

 

それでも詩歌は止めない。

 

不屈の精神に強靭な体力、そして、絶対の覚悟。

 

一方通行の額の傷が治るまで堪え続け、最後の瞬間まで、気力を振り絞り続け……………

 

 

――――これで大丈夫。

 

 

完全に傷口は塞がっていないが、血は止まり、肌色も正常に戻った。

 

体内の生命力も十分に補充した。

 

一方通行の表情に安息が芽生える。

 

生気が甦るとはこういう事を言うのだろう。

 

後遺症が残るかもしれないが、これなら、後は冥土返しに任せれば絶対に命は助かる。

 

 

「あなた、大丈夫!?」

 

 

そして、救急車と同時に一台の車が止まり、1人の女性が駆け寄ってきた。

 

詩歌はそれを見届けると、全身の骨が抜かれたように崩れ落ち、微笑みながら安らかに眠りについた。

 

そして、温かなの燐光はそのまま自然と拡散していき、<梔子>はその後、“不幸”に打ち勝つ上条詩歌に相応しい切り札の1つとして加わる事になるだろう。

 

なぜなら、梔子色の元となった梔子の花言葉は、『優雅』、『洗練』、『清潔』、そして――――

 

 

 

 

 

――――『私は幸せ者』、『幸せを運ぶ』。

 

 

 

 

 

病院

 

 

 

「手術完了。と言っても、ほとんどする事がなかったけどね?」

 

 

その声がする方、手術室の扉へ、芳川は振り向く。

 

緑色の帽子で髪を完全に包み、同色のマスクで口と鼻を塞いだ中年の男がそこにいた。

 

彼はたった一度の敗北、とある少年の記憶と少女の心を救えなかったのを除いて、どんな困難な手術も成功させ、どんな患者も死の淵から甦らせてきた事から<冥土返し>と称される世界最高の医者だ。

 

如何なる怪我や病気にも打ち勝つ。

 

そのために手段は選ばず、『外』の医学界はおろか学園都市理事会すら認知しない新技術や新理論すらも利用する。

 

彼の信念はただ一つ。

 

決して患者は見捨てない事。

 

ただそれだけを胸に己の道を突き進む。

 

その腕は神の摂理すらも曲げ、未知の理論を用いた特殊生命維持装置を開発し、老衰・寿命ですらも克服したと言われている。

 

しかし、ただ一つの試作モデルを造り出した後、寿命の研究は続けているという話は聞かない。

 

そして、それは、とある窓のないビルの一室に安置されているという話だ。

 

と、それはさておき、

 

 

「あの子は生きてるの……」

 

 

「当たり前だね、誰が執刀したと思っているんだい? といっても、正直危なかったんだけどね。流石の僕も死人だけは治せないからね?」

 

 

芳川は投げ捨てられた通話中の携帯から一方通行が撃たれた。

 

しかも額のど真ん中に撃たれた事が分かっていた。

 

そんな所に撃たれてしまえば誰であれ即死の致命傷になったはず。

 

 

「彼女のおかげだね? 救急車が来るまでの間にどうやら応急処置をしたらしいんだけど、これは応急処置ではなく治療と呼ぶべきだね? 君は頭を撃たれたと言ってたけれど、その傷もほとんど完治していたね? 本当に面白いチカラを使う子だよ? まあ、それ相応のリスクもあるみたいだけどね?」

 

 

「……、」

 

 

芳川は呆然とその言葉を聞き入った。

 

現場に着いた時、芳川が見たのは車の中で眠っている打ち止めと血の海で倒れている見知らぬ少女、そして、彼女に抱きかかえられている血塗れの一方通行。

 

そこには何の治療道具も薬なく、救いの術はなく、ただ凄惨な地獄しかなかったはずだ。

 

しかし、かの最高の名医は“すでに治療が施されていた”と称した。

 

たとえ冥土返しといえど、人の身。手術道具が揃っていなければ治療はできないはずだ。

 

……いや、彼は“面白いチカラを使う子”、と言った。

 

ということは、能力で一方通行を生かしたというのか……

 

 

「でも、まぁ、対応が早かったけど前頭葉が傷ついたのは間違いないからね? 日常生活には支障をきたさない程度だけど、完治したとしても、言語機能と計算能力、この2つには少なからず影響が出るね?」

 

 

「計算能力……」

 

 

それは一方通行にとって致命的ともいえる。

 

向き(ベクトル)』の変換には『変換前のベクトル』と『変換後のベクトル』を計算しなければならないからだ。

 

無意識の“反射”すら、1番簡単な演算式を無自覚に行っているに過ぎない。

 

彼はもう力が使えなくなるかもしれない。

 

1番簡単な反射でさえも。

 

 

「まぁ、問題はないだろうさ」

 

 

冥土返しは芳川の表情に何か勘付いたように、

 

 

「僕のお気に入りの生徒とも言える彼女が120点とも言える満点を超える点数を出したんだよ? 先生として完璧なフォローで応えてみせるしかないだろ? それに、どうにもならない事をどうにかするのが僕の信条でね? 彼の言語機能と計算能力は必ず取り戻す、必ずにだ」

 

 

最後の一文だけが、ふざけた語尾上がりの言葉遣いとは違った。

 

芳川が息を呑む前に、冥土帰しは一転として飄々とした声で、

 

 

「もっともこれは本人の了承が必要だろうけどね? 君も厄介なものを作ったみたいだし、それを利用させてもらうよ? 1万もの脳をリンクさせれば、1人分の言語や演算ぐらいは余裕で補えるだろうからね?」

 

 

1万。<妹達>。<最終信号>。

 

その時、一緒に病院に運び込まれた打ち止めの顔が浮かんだ。

 

 

「ッ! そういえば、あの子は!?」

 

 

「ああ、あのライオンのおチビさんかい? あの子はもう大丈夫。心配しなくても良いよ。幸い、ウチでも似たような子を預かっているからね」

 

 

「ちょっと、待ちなさい。ここにも……培養器が?」

 

 

「患者の身に必要なものならば、僕は何でも調達するよ? そして、話も聞いたね? 何でも1万のクローン体を使った並列演算ネットワークがあるらしいね? そいつを使ってあの少年の脳をの欠損部分を補わせてもらうよ? なに、失った記憶を取り戻すのではなく、あくまで欠損機能の代用だからね、それほど難しい事でもないよ?」

 

 

飄々と告げる冥土帰しの顔に一瞬だけ翳りが生まれた。

 

失った記憶。

 

そうそれは彼の唯一の敗北。

 

 

「けれど、あのネットワークは同じ脳波の波長を持つ者だけで作られるものなのよ。波長の違う一方通行が無理にログインすれば波長の合わない彼の脳は焼き切れてしまうわ」

 

 

「なら双方の波長を合わせる変換気を用意すれば良いね? ま、デザインとしては内側に電極をつけたチョーカーというところかな? 幸い、そのスペシャリストがすぐ近くにいるしね?」

 

 

簡単に言うが、それにどれだけの技術と予算が注ぎ込まれるのだろうか。

 

しかし、それを知っても彼は躊躇しないだろう。

 

そして、開発費は誰にも要求しない。

 

そういう人間なのだ。

 

 

「さて、そろそろその作業に取り掛かるけど、君はこれからどうするんだい?」

 

 

「……どうする、とは?」

 

 

「今回の件は『上』に知られたみたいだね? 実験は凍結ではなく完全なる中止。つまり君は完全に解雇だ。君はもう研究者といては生きていけないはずだよ?」

 

 

そんな事は言われなくても予想はついていた。

 

自分以外の研究者は実験が終わると同時に逃げた。

 

その時から覚悟は決めていたはずだ。

 

しかし、胸にぽっかりと穴が開いたような言いようのない寂寥感に襲われる。

 

 

「……そう…他にどんな道があるというのかしらね」

 

 

「あるね? 道なんていくらでもある」

 

 

その言葉に、芳川は遠い記憶、自分の夢が学校の先生だった事を思い出す。

 

甘いのではなく優しい先生。

 

一方通行や最終信号、常識の『じ』の字も分かっていない彼らに1つ1つ大切な事を教えていく、そんな道かもしれない。

 

それはとても魅力的だ。

 

 

(そう言えば、あの子は――――)

 

 

ふと、そこであの場にいた最終信号と一方通行以外のもう1人の人物の顔が脳裏に浮かぶ。

 

 

「先生」

 

 

その時、遠くから1人の少女がこちらに駆け寄ってきた。

 

男女を問わずこの近くにいる全員が、中には動き止めて、彼女に視線を集まっている。

 

堅苦しさがなく、思わずこちらまで微笑んでしまうような、温かで穏やかな微笑み。

 

自分に注目が集まるのに慣れているのか、時折、自分を見つめている患者達に向けて絶妙な角度で首を傾げると、無言で頬笑みを返す。

 

それだけで、彼女に視線を送っていた者達は何故か満足する。

 

彼女に反応してもらった、それで充分だと。

 

 

「顔は知っているだろう? 彼女が僕のお気に入りでね。将来はここの看護師になって欲しいんだけど、先生になるのが夢らしいから誘えないのが残念だね?」

 

 

冥土帰しが冗談か本気か分からない事を言っているが、そう、彼女はあの場にいたもう1人の女の子。

 

きっと、彼女が冥土帰しのお気に入りで、一方通行を救ったのだろう。

 

 

「私に手伝って欲しい事があると聞いたんですけど、一体何の用なんですか?」

 

 

「うん、そうだけど。もう体は大丈夫なのかい?」

 

 

「はい、おかげさまで。それで、先生、2人の容態は?」

 

 

「2人とも命に別条はないよ。でも、少年の……―――」

 

 

そこで冥土返しは少女に先ほど自分に話した内容を簡潔にまとめて説明する。

 

少女は一瞬だけ翳りを見せたが、それでもすぐに力強く微笑む。

 

 

「―――だから、君の力を借りたいんだけどいいかな?」

 

 

「はい、もちろんです。先生からのお願いですし、あー君の為ですからね。<妹達>の波長もあー君の波長も分かりますし、すぐにできると思います」

 

 

え、あの子がスペシャリストなの!?

 

それよりもあー君って、一体誰の事…―――ハッ、まさか……!?

 

そして、会話が終わると、彼女はこちらに振り向いて、

 

 

「あなたが病院に連絡してくれた方ですね。本当にありがとうございます」

 

 

そう言うと、折り目正しく丁寧に、唖然とするほど綺麗なお辞儀をする。

 

それを見てようやく彼女が着ている服があのお嬢様学校の名門常盤台中学のものだと気付く。

 

 

「私、あー君、一方通行の友達の上条詩歌と言います。是非、詩歌と呼んでください」

 

 

それはまるで聖母のような優しさがあり、見ただけで万人が恋に堕ちる天使のような微笑みだった。

 

詩歌の微笑みに目を奪われながら、あの時の一方通行の顔が思い浮かぶ。

 

 

(くくっ、なんだ。あの子も意外と単純ね)

 

 

少しだけ可笑しそうに笑うが納得した。

 

 

「芳川桔梗です、よろしくね、詩歌さん」

 

 

帰ったら本を。

 

素直になれない男の子がお姫様のような女の子に恋するお話を読もう。

 

いつか、子供たちの恋愛相談も受けれるような先生になるために。

 

 

 

つづく


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。