とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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御使堕し編 神の力と聖人

御使堕し編 神の力(ガブリエル)と聖人

 

 

 

海辺

 

 

 

静寂が包みこむ砂浜、そこに一人の魔術師と一組の父子がいた。

 

そして、子、当麻が父を守るために一歩前に出る。

 

 

「待ってくれ、ミーシャ。何か様子がおかしい。確かに父さんは誰とも『入れ替わって』ない。けど、他の誰かと『入れ替わって』いる事にも気付いていない。きっと、<御使堕し>の影響を受けているんだ。どういう理屈か、知ら、――――ッ!?」

 

 

処分するのを引き止めようと説得を試みた時、ぞわり、と当麻の喉が凍りついた。

 

華奢で小柄な体には考えられない程の殺意。

 

喜びでもなく、怒りでもなく、哀しみでもなく、楽しみでもない。

 

ただ、殺す。

 

感情という雑音が無い純粋な殺意。

 

10mほど離れているのに気配を感じただけで、当麻の両足は地面に縫い付けられ、胃袋に重圧が落ち、呼吸が乱れ、心臓が暴れ回り、思考が止まる。

 

ゆらり、とミーシャの細い手が、腰のベルトに伸び、L字の釘抜きを引き抜く。

 

その凶器を見ただけで、一瞬、標的とされた刀夜の胃も肺も腎臓も肝臓も脾臓も、その他の臓器も活動を止め、血流の流れが止まった。

 

 

「……はっ…はっ……」

 

 

目を見開き、脂汗を流し空気を求めて喘ぐ息遣いが当麻の背後から聞こえる。

 

 

「待、て。――――ミーシャ、話を!」

 

 

それでも何とか声を掛けようとするが、ミーシャの耳には届かない。

 

 

(くっ、そ! 絶対にやらせるかよ!)

 

 

自身を極限まで奮い立たせる。

 

 

「待てっつってんだろ!!!」

 

 

吠えた。

 

圧倒的に格が違う相手に当麻は吠えた。

 

そこで、ミーシャは凶器を横に振って、当麻という対象を見た。

 

 

「―――ッ!!」

 

 

ただ視線を合わせただけで、自分の存在が薄くなっていく。

 

上条当麻という存在が薄くなっていく。

 

黒い染みが視界を犯していき、ミシミシという不快な音が鼓膜に響く。

 

足元から溶けていくような脱力感。

 

体中が乾いていく。

 

やがて、何にも考えられなく――――

 

 

『お兄ちゃん、頑張って。不幸になんて負けるな』

 

 

あの魔法の呪文が当麻に勇気を与える。

 

徐々に視界が明るくなり、意識が覚醒し、手足に力が戻る。

 

 

「絶対にこっから先は行かせねぇ!!」

 

 

そして、全身に覇気を纏い赤い死神と対峙する。

 

ミーシャは当麻を敵と認識し凶器を振り上げた。

 

その時、

 

 

「そこから離れなさい、上条当麻」

 

 

怒声と共にヒュン、と風鳴りの音が聞こえた。

 

見えない斬撃とも言うべき何かが、砂を走って2人の勝負に待ったをかけた。

 

 

 

 

 

わだつみ周辺の道路

 

 

 

「あ、土御門さん。ちょっといいですか?」

 

 

「ん? どうしたんだにゃー、詩歌ちゃん」

 

 

「少し調べてほしいものがあって……」

 

 

4人が上条家に向かう少し前、詩歌は少し土御門に調べてほしいものがあった。

 

 

「調べてほしいもの? <御使堕し>に関連の事かにゃー?」

 

 

「ええ、多少は触れているのかもしれません……」

 

 

そこで、詩歌は少しだけ躊躇いがちに間を置く。

 

 

「ミーシャさんについて、です」

 

 

「ミーシャ=クロイツェフ? アイツがどうかしたのか?」

 

 

「名前です。……最初は偽名の線を疑ったのですが、それにしても“ミーシャ”というのはないです。ロシアで“ミーシャ”というのは“男性”の名前でつけられるものなんです」

 

 

「ッ! 確かに、詩歌ちゃんの言うとおりだぜい」

 

 

ロシアではミーシャという名は男性につけるべきもの。

 

だから、今のミーシャは、女の子に“一郎”と名付けられているようなものだ。

 

 

「今、起きている事件の名は<御使堕し>。その本来の目的はアレを人の位に落とすこと。そこで少し考え過ぎなのかもしれませんが、ミーシャさんの正体がアレだとしたら女性に男性の名前が付けられてもおかしくはない。アレは両性ですからね。そして、アレにとって、名前というのは自分が神に作られた目的そのもの。他人と交換できるワケがないんです」

 

 

初めてミーシャの名前を聞き、<御使堕し>の本来の効果を聞いた時、詩歌は彼女が恐ろしい爆弾なのかもしれない、と考えた。

 

かもしれない、ではない。

 

今まで、当麻の“不幸”に一番付き合ってきた詩歌からすれば、嫌な予感と言うものは現実になる、という認識である。

 

だから、恐ろしい爆弾だ、と断定していた。

 

 

「アレが敵に回ったら最悪です。人類の歴史はここで終わるかもしれません」

 

 

「ほほう。詩歌ちゃんはアレの恐ろしさを知っているようだにゃー」

 

 

土御門は感心したように軽く拍手をしながら詩歌を褒める。

 

 

「私は一応、まだ体の出来上がっていない女子中学生なので、今、これ以上体を鍛えてもあまり伸び代が少ないのは分かっていますからね。そして、当麻さんは馬鹿ではないのですが、知識方面ではあまり期待できません。なので、いざという時の為に、インデックスさんを先生に、魔術関連の知識を勉強する事にしたんです」

 

 

『敵を知り、己を知れば、百戦危うからず』。

 

 

とてもシンプルで、なおかつ、非常に強力。

 

詩歌は魔術という恐ろしさを知ってしまった。

 

そして、今後、その魔術というものが大切な者に危害を加える事を予期した。

 

勝たなければ、皆が殺され、大切なものが壊されてしまう。

 

だから、100%に近い必勝の術を求めた。

 

己の身体能力について熟知しているし、<幻想投影>は未知な部分も多少あるが大体知り尽くしている。

 

科学側の知識、特に能力に関するものは相当な知識量があると自負している。

 

しかし、魔術側の知識はあまり自信がない。

 

得体が知れないというのは、それだけで恐ろしい。

 

だから、その弱点を補うため、<魔導図書館>との異名をとるインデックスに教えを請うことにした。

 

 

「インデックスさんにアレの恐ろしさは十分に教えてもらっています。知ったとしてもどうにもならないと思いますが、知らないよりはましですからね。土御門さん、ミーシャさんが所属している<殲滅白書>に確認を取ってもらえますか?」

 

 

数多くの“不幸”を味わった進化の天才は、いつか生半可ではない化物になるかもしれない。

 

いや、その“甘さ”という弱点が無ければ……

 

土御門はその不安要素できる限り消そうとする詩歌の姿勢に頼もしさとともに恐ろしさを感じさせられた。

 

 

 

 

 

海辺

 

 

 

ミーシャに待ったをかけた人物、神裂火織が対峙し、その正体を言う。

 

“ミーシャ”というのは、ロシアでは“男性”に付けられる名前。

 

調べれば、ロシア成教のシスター、サーシャ=クロイツェフは、“入れ替わっていた”。

 

<御使堕し>の影響を受けているならミーシャも誰かと入れ替わっていなければおかしい。

 

だが、だとするならば、今、目の前にいるクロイツェフに入れ替わっている少女は誰だ。

 

 

「忘れたのですか、上条当麻。<御使堕し>の名の由来を」

 

 

瞬間、ミーシャの両目がカッと見開かれた。

 

ドン!!という地を揺るがす轟音とともに。

 

 

そして――――茜色に染まる空が、星の散らばる夜空へと切り替わった。

 

 

天上には禍々しい蒼き燐光を放つ巨大な満月。

 

 

今の月齢では半月。

 

 

それより今は夕闇で、星と月だけが地上を照らす夜闇の時刻ではない。

 

 

これは時間―――ではなく、『天体単位で地球と太陽の位置関係を操った』という事。

 

 

天体制御(アストロインパクト)>。

 

地球上にいる今の生命が成り立った最大の要因は今の太陽との距離。

 

もしその距離が遠かったり近かったりすれば生命が誕生しなかった。

 

そして、地球の自転は時速1666km強―――それが、もし、急停止すれば、凶悪な慣性の力が働き、地球表面の地殻が丸ごと吹き飛ばされて……世界が終わる。

 

これは、人の行使する魔術のレベルではない。

 

つまり、目の前の存在が、人の位を超えた存在である何よりの証。

 

そして、守護対象である『月』を主軸に置いて、『夜』を呼び出したのは、後方に座する『流れる青(アックア)』の属性強化のため。

 

 

「つまり、彼女は旧約においては堕落都市ゴモラを火の矢の雨で焼き払い、新約においては聖母に神の子の受胎を告知した者」

 

 

神裂が淡々と目の前の超越者の正体を暴いていく。

 

そして、当麻はようやく悟った。

 

今、起きているのは<御使堕し>。

 

『入れ替わり』は副作用に過ぎず、本来の効果は、その名の通り――――天の位の<天使>を人の位に落とす。

 

そう、目の前の超越者は<天使>。

 

<天使>とは神の書いたプログラムを忠実に実行する、自我を持たない強力な存在。

 

人の力では太刀打ちできない程莫大な力を秘めており、世界ですらも終わらせる事ができる。

 

そして、その<天使>の名は―――

 

 

「―――<神の力(ガブリエル)>。常に神の左手に侍る双翼の大天使、ですか」

 

 

その答えに応じるように、超越者は覚醒した。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

天使(エンゼル)>とは力の塊で善悪などなく、神の意思に従う者。

 

人を救えば天の使いと崇められ、地に堕ちて泥に染まれば悪魔と恐れられる。

 

だから、地上にあるべきものではなく、天上に住まわなければ、もし、感情が芽生えれば―――堕ちてしまう。

 

ミーシャが<御使堕し>を止めようとする、術者、刀夜の命を狙う理由は、考えるまでもない。

 

<御使堕し>は<天使>を地上へ落とす術式。

 

ならば、“落とされた”<天使>が、“堕とされる”前に、元の場所へ帰ろうと思うのは当然のこと。

 

ミーシャは何も弁明せず、ただL字の釘抜きを天上へ振りかざす。

 

 

ゾグン!! と心臓を氷の杭が貫くような悪寒。

 

 

頭上の月が、一際大きく蒼く輝いた。

 

眩い月の周りに生まれる、光の輪。

 

輪は満月を中心にして一瞬の内に増殖し拡散、夜空を圧倒的なまでの光で埋め尽くした。

 

更に輪の内部に光の筋が走り回り、複雑な紋章が描かれていく。

 

魔法陣。

 

それも単に巨大なだけではない。

 

ラインを描く光の粒一つ一つが、それだけで別の魔法陣を形成している。

 

水平線の向こうまで広がるまるで海を泳ぐ魚の群れのように、地を歩く蟻の行列のように、何億何十億もの魔法陣が規則正しく描かれ、更に巨大な魔法陣を築き上げている。

 

 

「正気ですか、<神の力>!」

 

 

これには、今の予断を許さない状況だからこそ冷静に努めようとする神裂を慌てさせる。

 

今、この<天使>は、“ただ1人”を狙う為だけに、旧約に記された世界を一掃した神話上の術式を持ち出したのだ。

 

素人の当麻も、神裂の表情からその切羽詰まった状況を感じ取り、

 

 

「何だって? おい、あの<天使>は一体何を始めようって……」

 

 

「あれは、かつて堕落した文明を一つ丸ごと焼き尽くした火矢の豪雨です。あんなものが発動すれば人類の歴史はここで終わってしまいます」

 

 

あまりのスケールの大きさに思考がストップした。

 

 

 

 

 

海辺附近の道路

 

 

 

「ほぉ……綺麗―――なんて言えませんね、全く。神の命なしに<天使>は人を殺せないと聞いていたんですが。あれを見るに爆弾に火がついちゃって暴走していますね」

 

 

人の理屈を一切無視した力。

 

『天上へ戻る』という命を果たす為に、世界がどうなろうと知ったことではない。

 

今まで共に行動していたのは、標的を見極めるため。

 

<御使堕し>の術者を、確実に殺さねばならない相手を見極めるため。

 

 

「やはり、あの時、あれが当麻さんを襲おうとした時の勘は当たってましたね。あそこにいるのは間違いなく『上条詩歌の敵』。ふふふ、おもしろい。いつか、<天使>と勝負してみたかったんです」

 

 

 

 

 

海辺

 

 

 

「<神の力>は私が抑えます。あなたは刀夜氏を連れて一刻も早く逃げてください」

 

 

当麻は神裂が何を言ったのか理解できなかった。

 

素手で核ミサイルと相手しろと言われているような状況で。

 

何の躊躇もなく、何の遠慮もなく、何の容赦もなく、何の恐怖もなく、何の焦燥もなく。

 

自然に神裂は当麻に背を向けて<天使>の前に立ちはだかった

 

何故? とかろうじて搾り出して問えば、神裂は振り返りもせず答える。

 

 

「理由などありません」

 

 

神裂は神裂にできる事があるからここに立つ。

 

<一掃>は人類には敵わぬ至高の到達点―――だけど、彼女は本当につまらない、と断じる。

 

己の目指す到達点には遠く及ばない。

 

 

 

神裂火織はその道を歩むかのように、一歩進む。

 

 

 

ああ、と当麻は思う。

 

たった1m―――だけど、その背中を止められない。

 

たった1歩―――だけど、その背中に追いつけない。

 

強さ、怖さ、鋭さ、重さ、速さ、冷たさ、熱さ―――は関係ない。

 

ただ、違う。

 

<神の力>に敵対する者、神を裂く者の背は、その役に相応しくあまりに“違って”いた。

 

これより始まる戦は人ではなく、人という壁を越えた超越者同士の死闘。

 

下手をすれば巻き込まれただけで、人は死ぬだろう。

 

そこに、上条当麻に、割って入る余地などない

 

だから、

 

 

「私がここで時間を稼ぎます。恐らく、30分が限界でしょう。あなたは、今すぐこの<御使堕し>をお願いします」

 

 

<一掃>の発動には時間が掛かる。

 

いかに<神の力>といえど、この規模の術式を完成させるまでには時間が掛かる。

 

これは余裕ではなく、過去に文明を襲った<神戮>も、大概はある程度の“待ち時間(しっこうゆうよ)”があった。

 

“人の規格”を超えた者に勝とうとするなど考えただけで一笑に付される馬鹿げたことで、そして、自分達の勝利とは、<天使>に勝つ事ではない。

 

 

「上条当麻。詩歌を守りたいなら、一刻も早く刀夜氏を連れて<御使堕し>を解除しなさい。それが今取れる最善の方法です。元々、あれは<御使堕し>を止める為に<一掃>を持ちだしたのです。つまり、逆に言えば、<一掃>が行われる前に<御使堕し>が止まってしまえば、<一掃>を行う必要性はなくなる」

 

 

そう考えられませんか? と最後にミーシャに問う。

 

凍える<天使>は答えない。

 

どうでもいい。

 

そう、どうでもいいのだ、<神の力>にとって、当麻達が止めようと、<一掃>で止めようと、<御使堕し>を止めれれば何だって構わない。

 

当麻はチラリ、と刀夜の顔を見た。

 

確かに、刀夜を<神の力>の近くに置いておくのはあまりに危険だ。

 

もしかしたら、心変りして、刀夜を殺すのに全力を尽くすのかもしれない。

 

だが、

 

 

「けど、お前は? あんな<神の力>なんてもの相手にするなんて……」

 

 

「勘違いしないでください。私は何も無駄死にをするつもりはありません。勝利すると妄言しませんが敗北するとも断言せず。私がするのは互角で平等な“足止め”のみです」

 

 

犬死にするようなものだ、という言葉を先読みするように当麻の言葉を神裂が遮る。

 

 

「だから、あなたは一刻も早く<御使堕し>を解除してください。その努力が私の生存確率を確実に引き上げてくれます」

 

 

神裂はさらに一歩前に出る。

 

 

「そして、何より、私は魔術師の争いで民間人を犠牲に出すつもりは毛頭もありません。上条刀夜は死なせません、この身に代えても」

 

 

「……、いいのかよ。本当に」

 

 

「ええ。不躾な話で申し訳ないのですが、私はあなたの事を信用しています。かつて一度、私の目の前であの子を救い、詩歌が絶大な信用を寄せるあなたなら私の人命を救ってもらえると信じています」

 

 

神裂はそれ以上何も言わない。

 

だが、当麻を信頼しているという気持ちは伝わった。

 

だから、当麻は最善を尽くすことにする。

 

神裂の信頼に応えるために。

 

 

「頼んだぜ、神裂! 俺もお前を信用する!!」

 

 

少しでも神裂の生存確率を引き上げる為、無駄な行動を避け、ただその一言だけ言って急いで刀夜の腕を掴んでこの場から立ち去る。

 

ちょっと待て、どうなってるんだ、という刀夜の叫びを黙殺して。

 

<神の力>の視線が刀夜たちを追いかけようとするのを邪魔するように神裂が身体で遮る。

 

 

「あなたの相手は私です。人の話を聞きなさい、そも天使の役は神と人の間の伝令も兼ねているはずなのに……」

 

 

そこで神裂は場違いに小さく笑った。

 

 

「それにしても信用するときましたか。この私に対して。しかも私までも。全く三沢塾戦にて調子が狂うと言ったステイルの報告も馬鹿にはできませんが、しかし確かにその一言は最良です。私の生存確率は、あなたの一言で確実に引き上げられました」

 

 

そう言って、神裂は腰の太刀、<七天七刀>の柄に手を伸ばす。

 

神裂の戦闘準備に応じるように、今まで黙って見ていたミーシャが、ポツリ、と人外の声で、

 

 

「―――q愚劣rw」

 

 

ズバン!! とミーシャの周囲が爆発する。

 

そして、背後にあった海水が突如として間欠泉のように噴き上がり、背に殺到する。

 

膨大な量の海水は、瞬く間に巨大な氷の翼を形成していく。

 

50mを優に超えているであろう翼が何十と集まり、<天使>の背後でバサリと広がる。

 

それは何人にも越えられぬ壁にも見えたし、触れれば切れる鋭利な水晶の扇のようにも見えた。

 

天に刃向かいし、凍える数十もの翼。

 

最後に頭上に一適の水滴が浮かび、輪と変形する。

 

そのどれもが深海の海面のような、黒の濁った死を招く蒼。

 

その全体を<天使の力(テレズマ)>が隅々まで行き渡っており、その一本だけでも振り下ろせば、山を跡形もなく吹き飛ばせるだろう。

 

戦場では兵器とまで恐れられる神裂でさえ、その圧力に体が凍った。

 

 

「全く、大層な役目を安請け合いしてしまったものです」

 

 

神裂は僅かに重心を落とす。

 

 

「さて、それでは、<唯閃>の使用と共に、一つの名を」

 

 

神裂火織は告げる。

 

己の身と心と魂に刻みつけた、もう1つの名を。

 

 

「―――『Salvere000(救われぬものに救いの手を)』」

 

 

 

 

 

わだつみ

 

 

 

夜の闇に溶け込むように黒い影が蠢く。

 

 

(さぁって、まずい事になってきたぜいまずい事になってきたぜい。致し方なかったとはいえ、もっと早くアレをぶち壊しておけば良かったかにゃー)

 

 

戦場から遠ざかるように、争いから逃れるように。

 

 

(過ぎたる失策は忘却すべし、頭を切り替えポジティブ思考。よし、見方によっては邪魔な神裂は足止めくらってるし、今なら自由に動けると考えてみるぜよ)

 

 

ブブブ

 

 

その思考に待ったをかけるように懐にしまってある“拝借した”携帯が振動する。

 

電話ではなく、メールであった為、とりあえず携帯を開いて送られた文面に目を通す。

 

 

『蝙蝠さんへ  巣はともかく卵は許せないので、鳩は籠から飛び出します。  鳩より』

 

 

(あちゃー……やっぱり、色々とばれてたようだぜい。くそ、なかなか思い通りにいかないにゃー。この文面から察するに自分から籠の中に入ってくれたようだぜよ。結局、飛び出しちゃったけど。まあ、鍵はしていなかったんだけどにゃー)

 

 

悔しそうにちょっとだけ顔をしかめると携帯を閉じて懐にしまう。

 

 

(鳩ちゃんがあまり派手な事をする前に魅惑の裏切りタイムスタートだぜよ。悪いねえ、カミやん。どうもこの問題を収拾するには、最低でも誰か一人を生贄にしなくっちゃなんないみたいだぜい)

 

 

楽しそうに笑って、黒い影、『Fallere825(背中刺す刃)』、土御門元春は闇に走る。

 

 

 

 

 

海辺

 

 

 

青を司る大天使が70mの<水翼>を一本、天高く振り上げる。

 

一瞬の間を置いて、何の躊躇いもなく神裂の頭上へと真っ直ぐに振り下ろされた。

 

塔が崩れ落ちたような錯覚。

 

<水翼>はそれ一つで大地を抉り飛ばし、地図を変えてしまう。

 

まさに、天罰というに相応しい神々の一撃。

 

矮小な人間には止める事はできない―――

 

 

スパン!!

 

 

―――はずだった。

 

 

「心外ですね」

 

 

神々の天罰は人には止められない……はずだった。

 

鞘より引き抜いた<七天七刀>で、<水翼>を横一線に切断した。

 

そして、断ち切られた<水翼>の残骸は爆散し、夜の闇へと消えていった。

 

 

「この程度で止められるなどと、本気で思われていたなんて」

 

 

信じられない。

 

ミーシャはもう一度確かめるように<水翼>を振るう。

 

右から、

 

 

「あなたは神裂火織という生き物を過小に評価し過ぎではありませんか?」

 

 

左から、

 

 

「そもそも、私をただの十字教徒と見ているのが間違いの始まりなのです」

 

 

最後に正面から、迫りくる<水翼>を悉く斬り払う。

 

1本なら偶然、2,3本なら奇跡、しかし、4本ならもうそれは必然だ。

 

しかし、おかしい。

 

人が<天使>の一撃に対抗できるのもおかしいが、それよりも、そもそも十字教徒なら十字教の<天使>には逆らえないはずなのに。

 

 

「我が術式は<天草式十字凄教>のもの。江戸の世にて、弾圧されし切支丹がそれでも神を信じるために編み出された、日本独自の十字教様式です」

 

 

十字架やマリア像を持つだけで処刑される厳しかった時代を生き抜くために、信者達は神道の木札を“十字架”に見立て、仏教の仏像を“マリア像”と見立てた。

 

そうして、仏教や神道によってカモフラージュを行った<天草式>は、いつしか融合し過ぎて、どれが建前で、どれが本音か分からなくなってしまった。

 

つまり、一種の独自の創作宗教になっていった。

 

多角宗教融合型十字教術式・<天草式十字凄教>。

 

十字術式にできない事は仏教術式で。

 

仏教術式にできない事は神道術式で。

 

神道術式にできない事は十字術式で。

 

そう、状況に合った術式を使い分ける事で其々の弱点を補う事ができる。

 

<天使>に逆らえないと言うなら、<天使>の出てこない宗教の仏教と神道を用いればいい。

 

さらに、日本神道には暴走した神を鎮めるために対神格用の術式すらも存在する。

 

 

「忘れましたか、私の名を」

 

 

そして、極めつけは、

 

 

「我が名は神裂」

 

 

その名の通り、神裂はその腰に下げた長刀、<七天七刀>の柄に触れ、ある種独特の呼吸法を用いて体内の魔力を練ることで、自身の肉体を“神を殺す者”へと作り変える。

 

 

「神を裂く者なり」

 

 

常人では辿りつけない“人の規格”を超えた域にも、血管筋肉神経内臓骨格、全てを“神を殺せるように”組み替えられた神裂なら辿り着ける。

 

 

「……」

 

 

<神の力>は黙って、敵を見据えながら、斬り飛ばされた<水翼>に、新たに海水を取り込んで元の形と大きさを取り戻していく。

 

それに対して、神裂は<七天七刀>に手を添えるのみ。

 

静寂。

 

常人には感知できぬ、1秒を千等分にした僅かな静寂の後、<神の力>と“神を裂く者”は命の削り合いを開始した。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

(なるほど……これが<天使>ですか……)

 

 

圧倒的なまでの威圧感。

 

遠目で見ているだけなのに、緊張で身体が凍りつく。

 

ただ佇んでいるだけだっていうのに、どこまでも巨大な存在感。

 

<天使>とは“人の規格”から外れた存在。

 

そんなものに対して戦おうと考える時点で既に間違いだ。

 

だから、刺激しないように努めた。

 

味方と思われなくてもいいから、敵と思われないように。

 

でも、今はそうも言ってられない。

 

何故なら自分の大切なものが敵だと識別されたのだから。

 

まず、冷静に相手の力量を詳細に感じ取ろうと<異能察知>を装着する。

 

 

(まあ……――――)

 

 

<異能察知>から見える莫大な力に数秒目が奪われる。

 

人が視界に入りきらない巨人を見上げる為に上を向かなくてはならないように、<天使>のかけ離れた力量を理解するのに時間がかかった。

 

 

(……でも、何とかしますか)

 

 

立ち向かう。

 

おそらく、この前、負けた一方通行以上の相手。

 

それでも負ける訳にはいかない。

 

ここで負けたら、大切なものが壊されてしまう。

 

だから、立ち向かう。

 

ついでに、向こうがどう思っているかはしらないが敵だ。

 

神の使いとされてる<天使>は上条詩歌の敵だ。

 

だから、全力で立ち向かう。

 

たとえ超越者であろうと、何が何でも、勝利をもぎ取ってみせる。

 

 

「あと少しだけ見させてもらいますね、私の宿敵さん」

 

 

今にも助けに行きたい衝動を抑え、百分の一秒の熾烈な<天使>と<聖人>の戦いを前に、詩歌はただじっと見に徹する。

 

宿敵に勝つために。

 

その常人には“見えない”、百分の一の世界を見る。

 

結界を張り、入れ替わりを防ごうとした魔術師でさえ、完全には逃れられなかった<御使墜し>。

 

肉体と精神への影響を与えるその効果を、この場で、本当に逃れられたのは、“ただ1人”。

 

 

 

―――――どくん―――――

 

 

 

心臓が高鳴る。

 

その異変に、彼女は気付かなかった。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

戦局は固定されていた。

 

ミーシャの<水翼>の前に、神裂は防戦一方だった。

 

迫りくる数十もの<水翼>を切り裂き、数千もの氷の破片を打ち払い続ける。

 

しかし、斬っても斬っても、<水翼>はあっと言う間に再生してしまう。

 

さらに、攻撃が止むことはなく、むしろ更に激しくなっていく。

 

百分の一秒単位の速さでガトリングのように次々と襲いかかってくる<水翼>。

 

瞬き一つですら自殺行為になりかねない状況。

 

そして、如何に<聖人>といえど、人間。

 

世界中を探しても二十人もいない、神に選ばれた<聖人>のみが所持を許される<聖痕>。

 

人の身でその強大過ぎる力を酷使した代償にはそれなりの対価が支払われる。

 

つまり、<天使>と同じ位置に居続けるのは、相当な無理がある。

 

だが、ミーシャに慈悲はなく、攻撃の手を緩めない。

 

数十本もの<水翼>を別々の生き物のように動かして、より一層凄まじい乱撃を繰り出す。

 

それでもまだましな方だ。

 

何故なら、ミーシャは<一掃>という世界規模の術式を構築しながら、戦っている。

 

もし、神裂との戦いに全力を注げば、もう終わっていただろう。

 

防戦一方なのは戦力差だけではない。

 

<神の力>はクロイツェフという人の位に堕ちている為、不完全な<天使>だ。

 

決死の覚悟で挑めば、相打ちも可能なのかもしれない。

 

だが、神裂にそのつもりはない。

 

命が惜しいからではない。

 

ミーシャ、<神の力>さえも斬りたくないからだ。

 

<天草式>の粋を集めて作り上げられた“神を裂く者”として矛盾しているのかもしれないが、神裂は斬りたくない。

 

何故なら、神裂から見れば<神の力>でさえも<御使堕し>に巻き込まれた被害者の一人に過ぎない。

 

だから、助けたい。

 

在るべき場所に帰らせてあげたい。

 

当麻に言った通り、神裂は足止めしかできない、いや、足止めしかしたくない。

 

 

(……、上条当麻に<御使堕し>を解除してもらう以外、この戦闘を無傷で終わらせる事はできません。お願いします。こんな馬鹿げた戦いで結末を迎える前に、早く―――)

 

 

<御使堕し>が解除される、その時まで延々と足止めをし続ける。

 

 

(―――お願いします。この<天使>を助けてください)

 

 

その時、

 

 

「―――ッ!?」

 

 

不意に重圧が軽くなった。

 

絶え間なく続いていた攻撃の手が、遂に緩んだ。

 

<天使の力>が尽きた訳ではない。

 

不完全といえど<天使>、<天使の力>はほぼ無尽蔵である。

 

神裂の祈りが届いた訳ではない。

 

人の身といえど<天使>、人に対して慈悲を抱く事はない。

 

では一体何が?

 

 

「お待たせしました」

 

 

いつの間に神裂の背後に少女がいた。

 

美しく背筋をピンと伸ばしている姿からは世界の中心軸であるような存在感が漂っている。

 

 

「火織さん、私も参戦します」

 

 

上条詩歌は、自分を脅かす者など存在しないかのように微笑んでいた。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

別人のように、違っていた。

 

それは女性という存在が形になったような、完璧な微笑みだった。

 

いつもの愛らしげな少女の温かみはなく、その実年齢よりも幼く見えるその容姿よりも何倍も大人びた瞳。

 

透明でどこまでも深い、果てまで見渡せてしまいそうな眼差しには、人間性というものが欠けていて、何故かこの<天使>よりも上位の存在を相手しているかのよう。

 

でも、それは夏の夜の夢か幻のように儚く、瞬きした瞬間には、元の彼女に戻っていた。

 

神裂はすぐに正気に戻り、

 

 

「詩歌!? どうして―――いや、今までどこに?」

 

 

「蝙蝠さんが用意してくれた籠の中です。でも、今の状況も大体ではありますが予想が着いています。そんな事はさておき、火織さん。お借りしますね」

 

 

そういうと、小鳥が止まり木に休息するようにそっと、詩歌は軽く神裂の身体に手を置く。

 

先ほどまで命を削り合う戦場だったと言うのに、詩歌のペースに呑まれてしまったのか、時間が止まったかのように両者の動きが止まり、ミーシャでさえも、突如現れた乱入者、詩歌の事を感情の無い目で観察している。

 

 

「よし。これでいけますね。……後は―――」

 

 

「何をしているのですか!? 早くここから立ち去りなさい!」

 

 

あまりに突拍子もない事態に神裂に動揺が生まれる。

 

しかし、詩歌は軽く<異能察知>の位置を直すと、神裂とは逆に冷静に、冷徹に、冷血に、ミーシャを見据える。

 

 

「<神の火(ウリエル)>、<神の薬(ラファエル)>、<神如き者(ミカエル)>、そして、<神の力(ガブリエル)>……インデックスさんから教えてもらった内容と照らし合わせると、あれは<神の力>ですか……」

 

 

「何をしているのですか! 詩歌、ここは人が踏みいる事さえもできない領域です」

 

 

詩歌の物怖じのなさに焦る。

 

素人の詩歌がこのままここにいれば、ほぼ確実に死ぬ。

 

もし、そうなれば、当麻に会わせる顔が無い。

 

だが、しかし、今の神裂に詩歌を庇いながら<神の力>を足止めする余裕はない。

 

 

「落ち着いてください」

 

 

心が静まった。

 

明確に、しかし、不愉快にならない程度には控えめな声。

 

不思議とさっきまでの焦りや行き過ぎた緊張感を薄れさせ、余分な力を抜かす微笑み。

 

戦場であっても、幸せの錯覚をもたらしてくれる存在が神裂の隣にいる。

 

 

「大丈夫です。必要なものは全て揃いました」

 

 

勝利を確信した深く強い瞳。

 

そして、兄と同じように理由もなく信頼してしまうカリスマ。

 

それは<天使>との戦いを繰り広げた神裂でさえ説得させるだけの力があり、全てを覚悟している事が伝わった。

 

 

「<幻想投影>で火織さんの力を投影しましたので、今の私は“人の規格”を超えた者です」

 

 

その時、神裂は詩歌から自分と同じ波長を感じた。

 

そう全く瓜二つの波長を。

 

詩歌が自分と同じ<聖人>と化した事が分かった。

 

 

「火織さんと同じようにミーシャさんの力を投影して、鎮めます。そのためには近づかなくてはなりません。火織さん、辛いですけど、力を貸してください」

 

 

(これが、<幻想投影>……全く、本当に調子が狂わされっぱなしです。普段なら素人の戯言だと切って捨てるのに、この兄妹に付き合っていると自分が馬鹿らしくなってきます)

 

 

「あなたに彼女を救える事ができるのですか、詩歌?」

 

 

「はい。火織さんとなら<天使>に勝って、鎮める事ができます」

 

 

大切な仲間を傷つけたくないから孤高の道を選んだ神裂に協力を求める。

 

1人ではできないが、2人ならできる、と手を差し伸べる。

 

 

「当麻さんが神の力でさえ殺して見せるなら――――」

 

 

一拍、間を置き、こちらに戦場であっても安らかな微笑みを向ける。

 

詩歌の微笑みを見ると、2人ならあの<天使>に勝てると、そんな夢を信じさせられてしまう。

 

 

 

 

 

「――――私は神の力でさえ生かして見せます」

 

 

 

 

 

その時、一瞬、神裂は詩歌の姿に自分の理想を見た。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

<神の力>、ミーシャは当麻と詩歌の内側にナニカを感じ取っていた。

 

当麻の場合は、天敵に出会ったかのような錯覚に陥る。

 

矮小な人間と何ら変わらないのに、その内側から<天使>ですらも殺す力を持ったナニカの鼓動のようなものを感じた。

 

感情というものが無い異能の塊、いや、異能の塊だからこそ当麻の存在に恐怖した。

 

感情が無いのに恐怖した。

 

だから、あの時、ミーシャは当麻の事を敵と認識した。

 

そして、上条詩歌の場合は、当麻とは全く逆。

 

自分達の母、そう神と同じ創造主に出会ったかのような錯覚に陥った。

 

矮小な人間と何ら変わらないのに、その内側から<天使>ですらも産む力を持ったナニカの鼓動のようなものを感じた。

 

もしかしたら、<幻想投影>の本質は投影ではなく、異能を“生産する”。

 

触れた異能をその身に“産む”事なのかもしれない。

 

そのせいなのか、詩歌の事を敵だと認識する事ができない。

 

だから、初対面時、詩歌に反撃してもいいのか迷った。

 

だから、今、詩歌の姿を見ただけで攻撃の手を止めてしまうほどの戸惑いを覚えた。

 

しかし、それも夢か幻のような錯覚にすぎない。

 

ミーシャは1、2分で正常に戻り――――

 

 

「hsfk敵oidj認pkuji識zxcda」

 

 

――――詩歌を敵と認識した。

 

 

 

つづく


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