とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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大変お待たせしました<(_ _)>

そして、申し訳ありませんがまたリハビリです(^_^;)


閑話 先輩の家庭教師

閑話 先輩の家庭教師

 

 

 

 これはまだ、上条当麻が中学生のころの話。

 

 

 第七学区

 

 

「ところで、お前は『白い鰐』という話を知っているか?」

 

 とりあえず、もう机に向かいたくないー、とばたんきゅーと集中切れして仰向けに倒れた当麻に、テストの採点中の先輩がふと訊いてきた。

 

「? なんですかそれ」

 

「なあに、都市伝説だけど。扱いに持て余して捨ててしまったペットの鰐が、暖かく栄養も豊富な下水道という環境下に適応し、成体となるというお話だ。

 おかげでマンホールから白い鰐が出てきた、と巷で話題となってるけど」

 

「いや、それはウソでしょ」

 

 と否定する当麻に、ぴくん、と片眉を反応させる。

 

「その理由を教えてほしいけど」

 

「あー、妹がしばらく働いてたアニマルカフェで知ったことですけど。爬虫類系は、日に数時間か日光浴できないと成長にはまずいんだって。そう考えると、日光の入らない地下で育つとは思えないんですよね」

 

「ふむ、そうだろう。陽の下でなければ、まともに成長することはできない。もし、『白い鰐』なんてものがいるならそいつはまともじゃないだろうなぁ」

 

 ふむ。

 先輩がこの話をした意図がさっぱりだが、きっと何か意味があるのだろう。そうに違いない。

 なにせ、この部屋。

 第七学区。とある学生寮……ではなく、教員向けのマンション。試験的な意味で毎月セキュリティが更新され続けるのが厄介なものの、やはり全体的な設備は学生寮のものより上。

 普通の学生、(一部例外はあるものの)チューガクセーがここに住まうには敷居が高く、上条当麻も誘いがなければこんなところに足を踏み入れることはなかったろう。

 しかし、ここに雑談をしに来ているわけではないのだ。

 

「やっぱり『センパイ』はすごいなあ。女子高生ってのは何でもできるんだな! バイクにも乗れるし、バイトもできるし、どんな相談だって涼しい顔で答えてくれるし。こうして、勉強も見てくれるだからなー!」

 

「はっはー、そんなに褒めても何も出ないけど」

 

 まるで新居も同然に清潔感の行き届いた、女子高生の、部屋で、上条当麻、勉強中。

 

 一体全体どうしてこのような事態になったかと思えば、

 はじまりは、<一端覧祭>で見学しに行った高校で、先輩――雲川芹亜と出会い、メルアドを交換したことだろう。

 あの後、受験戦争に向けて、一層ヒートアップした妹とのマンツーマン授業を受けていた当麻であるが、そういつもあっちこっちで引っ張りだこな妹が愚兄の世話できるようなことはなく、また勉学面で妹の世話になる状況からどうにか脱却したいと思っていたこの頃。しかし、ひとりで机と向き合いにはどうにも集中が続かない。

 まるでそんな思考を察知したかのようなタイミングで、先輩からメールが入ったのだ。

 

 もしよければ、私がお前の勉強を見てやるけど、と……

 

「まあ、厳密にはまだと頭につくけど、お前は私の後輩になる予定だからな。先輩として面倒を見てやろうと思ったのだけど」

 

「たった一年違うだけで、こんなにも面倒見がいいなんてオトナだよなあ。やっぱ中学生より高校生は品というか格があるよなあ」

 

「私に任せれば、お前を私のところに確実に合格させてみようではないか」

 

「えー、急遽、志望校的にもうワンランク上を狙ってるんですけど……」

 

「それは無理だけど。裏口入学させようにも、私の力及ばずながらな。(いや、むしろ他校(よそ)に行くようならば積極的につぶしていくつもりだけど)」

 

「今なんか不穏当な単語が聴こえた気がするけど、気のせいでせうよね? まさかそこまで当麻さんはダメなレベルなのでせうか!?」

 

 上条当麻の学生寮には賢妹が足繁く通ってるが、けして嫌気がさしたわけではない。それに賢妹の教鞭は大変質が高い。マンツーマンで受ければ、一日ごとにテストの点数をまとめたグラフが右肩が上がりで日に日に伸びていくことだろう。しかし、それでも兄なのである。

 夏休みに三沢塾で受けた散々な試験の結果から、当麻は文句を言える立場ではないのはわかっているものの、やはり、年下の子、それも妹から教えてもらうより、頭を下げて年上の先輩に付いてもらった方がブライド的に抵抗感はない。

 とりあえず、三日。男子三日も会わずんば、妹に心配されることのないくらい自主勉強できる状態にまで持ってく。

 先輩は、そんな愚兄の心中を酌んでくれて、ならば、とわざわざ自室に招いて、こうして無償で勉強を見てくれているのである。

 美人は何をしても美人という言葉を実体験でよく知るけれど、今も向かいで両手を組んで顎を乗せるポーズ(机にただでさえ豊満な胸をのっけながら)をとってる彼女はふと時計に視線を送り、

 

「眠くなったら、そこのベットを使うといい。何なら泊っていってもいいけど」

 

「お構いなく。全然眠くないので大丈夫でせうよー」

 

「ならば、そろそろ糖分摂取をしたまえ。この部屋にあるのは好きに摘まんでもいいけど」

 

「いえ、まだ大丈夫ですんでー」

 

「うっかり寝落ちしても、お前の妹には“ちゃんと”連絡してやるけど」

 

「―――それはホント結構です」

 

 テーブルの中央にはチョコレートやキャラメルの入った籠。部屋のわきにはミカンの入った段ボールがあり、冷蔵庫にはペットボトルの飲み物(なぜか酒類まで)が常備されている。正直に言えば、少しは手を伸ばしたい気にはなっているのだが、どうにも『ここまで世話になってお菓子までごちそうになるのはちょっと』と遠慮してストッパーのかかる小市民な愚兄。なんでここまで面倒を見てくれるのか? 一度訊いてみたところによると単純に気に入ったからなのだそうだが、そこまでのことをしたっけ? と当麻は首を傾げる。

 ……それに今頃、賢妹が受験で勉学に集中しだした愚兄に代わって掃除洗濯など自室の家事の面倒を見てくれて、作り置きをしておいてくれてるだろう。

 これまでも何度か、今日は遅いからここに泊まっていけ、と言われたりするものの、帰りを待つもののことを考えると定時になれば自然に足は帰路に向かうのである。

 

「あんまり心配はさせたくないんですよ。できれば一日一回くらいは直接顔を合わせてやらないと」

 

「なるほど。ところで、妹さんは時間を守る方かね」

 

「え、ええ、遅刻どころか5分前より後に来た記憶がないですね」

 

「心配性な方かね?」

 

「? はい。心配性というか過保護って感じではありますが」

 

 まあ、それは仕方がない。

 自分の不幸っぷりは過去にどれだけの前科を作っているか当人でさえ知れたものではないのだから。

 だから余計に、兄の尊厳を意地でも維持しなければならんのである。

 

「なるほど。ならばどう来るか、わかりやすいけど……」

 

「さっきから何を言ってるんです?」

 

「おっとそろそろ喉が渇いただろう。お茶を淹れてきて―――っとと」

 

 と席を立ち、そこから立ちくらみしたのか、よろめき当麻の肩に手を置き、ツンツン頭にその豊満な胸が当たるようにしなだれかかり、

 

 

 パシャ、と。

 今の音は、どういうことだ? 先輩は自身の隣にいる。携帯等は持ってない。

 

 

 先ほどまで先輩がいた、そう向かい側のテーブルの上に……上に……なんか小さいカメラが不自然に置かれている。倒れかかった先輩に気をとられて気づかなかった、いや、というよりは、そちらに意識を誘導された。タイマー撮影か。

 

「(現場写真をゲットだ。ふふん)」

 

 それに当麻の手が伸ばされる前に、ささっと机上の物証を回収される。心理の隙を突いた動きではあるものの、素早い動きである。

 

「何でせうかそれ?」

 

「どうやら誤操作してしまったらしい。私としたことがうっかり」

 

「いや、でも、なんか、いやな予感がするんでせうが……」

 

「気にするな。何があっても私が守ってやろう」

 

 そのままリビングからキッチンへ。

 なんだかはぐらされた感があるものの、勉強疲れでボケた頭は、それ以上勘ぐることはなく、この“親切な”先輩の言うことに従う。

 それから、用意したお茶を載せた盆を持って戻ってきて、勉強を再開。

 

 そして、また頭休めの雑談。

 

「しかし、たまにはお前の部屋に招待されてみたい気がするけど」

 

「あー、掃除はしてあるんすけどねー……」

 

「ちなみに私は、理解あるからエッチな代物を集めたりしたくらいで怒ったりしないから安心してもいいけど。

 やっぱり、『ちょっぽりミステリアスなオトナな黒髪ロングのお姉様とエッチなことしちゃう』みたいな物を集めているのか?」

 

「やっぱりって何!?」

 

「思春期の男の子というのはそういうのに憧れるんじゃないのか」

 

「別に、当麻さんの好みはそういうピンポイントに絞られてるわけじゃないでせうよ……というか、そういったものは妹がしょっちゅうくる部屋にあるわけない、絶対に」

 

 一度地獄の朗読会を体験したしな。

 

「それとも、妹モノに興味があるのか―「あるわけないでしょう!」……ものすごく反応早かったけど」

 

「いやいやいやないですって! 当麻さんは寮の管理人のお姉さんがタイプでして、たとえば出かけてる間に、部屋の掃除洗濯や料理まで甲斐甲斐しくしてくれるような。顔を合わせるたびに嫋やかに微笑んでくれたら、当麻さん的にポイントが高い!」

 

「……むしろ疑いが濃厚になったんだけど」

 

「なんで!? 一生懸命に主張したのに理解してもらえない!?」

 

「その必死さが逆に怪しくも見えるけど……」

 

 しかし、ハイアンドローの二択ならば、彼は高めを所望すると公言してるのならば、少なからずの脈はあるのではないかと先輩系軍師は思う。

 それこそどこかの後輩系女王よりはあるに違いない。

 つまり、このまま年上路線で攻めるのは間違ってない。しかし、何事も定石通りだけで、城を落とせるとは限らないのである。それも難攻不落と呼ばれるものならば、なおさら。

 

「まあ、それを信じると仮定して」

 

「仮じゃなくて、信じてください」

 

「だったら、一つ証明として私のお願いを聞いてくれないか?」

 

「なんか、いきなりでせうね」

 

「難題というのはいつでも突然降りかかってくるものだけど。それに、これまでの家庭教師の対価分も体で払ってもらおう」

 

「それを突かれると断れないといいますか。先に言っておきますけど、当麻さんは肉体労働系以外は大したことはできませんよ」

 

「安心したまえ。大それたお願いではないけど。いや、もう払ってもらってるというべきか」

 

「いったいなんなんだ?」

 

 と、そこで相手の耳を誘うように声の調子を低めに変えて、

 

「実はな、最近、妙な輩に付きまとわれている」

 

「え……? それって……まさか、ストーカー―――!!」

 

 こちらから横を向いて、ぶるりと震える(わす)体を自分の腕で抱きしめる。

 いやに不安を煽ってくるその様に、不自然さを感じるよりも、不敵な先輩のギャップさに、上条当麻は自然、真剣に表情を引き締める。

 

 そうだ。

 このマンションは管理人のいる学生寮ではなく、女子の一人暮らしだ、変質者に狙われる可能性がないわけじゃない。

 

「家庭教師に誘ったのも、お前を部屋に連れ込めば向こうが諦めるだろうと思ってな。<警備員(アンチスキル)>に連絡してあまり警察沙汰にするのもしたくないくて……すまない。勝手にこちらの都合に巻き込んでしまっていたな。でも、最初にそれを言えば断られてしまうんじゃないかと」

 

「いや、それは全然別にいいんですけど。むしろ、ただで面倒を見てもらってたのが心苦しかったので……それよりも」

 

 衣服泥棒対策に、同棲している彼氏の存在を匂わせるよう、男性下着も干しているようなもの。

 しかし、それで諦めてくれればいいが、逆効果となる場合もある。

 上条当麻という偽彼氏に、ストーカーが逆上して迫ってくることもありうるのだ。

 

「ああ、残念ながら目論見は外れて、ストーカーはさらに酷くなってな。電話だけでなく、ドアのチャイムを鳴らして押し掛けようとする始末だ」

 

 

 ピンポーン。

 

 

 チャイムが鳴る。

 まるで図ったようなタイミングで。

 っ、と先輩がそれに息を呑んだのを見て、当麻はすっと席を立つ。

 

「安心してください先輩。俺、こういうのに慣れてますんで」

 

 胸を叩いて、豪語する。

 上条当麻はこの手の輩に割と経験豊富な自信がある。

 なにせ小学校時代から現在進行形で、大事な家族が老若男女問わず引く手数多にターゲットにされていたのだ。

 兄として、それらを撃退する心得はある。

 

 よし、ガツンと言ってやろう。

 

 パンと両頬を挟み叩いて気合を入れる。

 こういうのはまず第一印象が大事だと経験上知っている。

 先輩にそのまま席で待つよう、手のひらを向けるジェスチャーをして、玄関に。

 

 もしも、そこで、まずはドアを開ける前に覗き穴やインタホーンカメラ等から相手の顔を拝んでいれば、この後の展開も変わりはしないだろうが、易しくはなったのかもしれない。

 

 だが、世話になっている恩を返すためにと張り切っていた愚兄は、安心させるためとはいえあれだけ強気の態度をとってしまった以上、そのような相手の顔を窺うような真似はできなかったのだ。

 勢いが大事。このまま殺さず、バンッ! と体当たりするようドアを開けて、

 

「おい! ストーカー野郎、俺の女になにし、て……………………」

 

 と、そこで何を見たのかはさておいて。

 まさしく、竜頭蛇尾の格言の如し。

 最初は怒鳴るような大声から、その“相手”の顔を見た途端、尻すぼみに小さくなり、最終的に声が消えた。必要とあらばマウンテンゴリラのような輩が相手だろうとぶん殴ってやるといき込んでいたが、そんな考えは吹っ飛んだ。

 そして、その“相手”に何か反応を返される前に、緊急避難の『おすし(押さない素早く静かに)』の鉄則に従い、一言も言わせずに速やかにドアを閉じて、カギを掛ける。ノブを回して二度施錠確認し、そのままドアに背中を預けて、ずるずる玄関床にへたり込んだ。

 

 

 ………………

 …………

 ……

 

 

 ま ず い!!!!!!

 

 

 ドンドン ドン ……

 

 訪問客の意識が時間の矢に追い付いたのは、3分ほど経ってからのことだ。

 その意識が彼岸から帰ってくるまでの間に、当麻もどうにか過剰に働く心臓ポンプを落ち着かせることに成功していた。

 

 ドンドン ドン ドンドン ……

 

 辛抱強く、または執念深く、定期的に続く、妙に響き渡る音。

 来訪を報せる呼び鈴(チャイム)を最初に使っていたのに、来訪者は扉を叩いているという、なんていうべきか、畏怖すべき鉄拳催促とでもいうべきか。

 この学園都市でも上流な人が住んでそうなマンションの玄関は、当麻の学生寮と比べれば、要塞の如き堅固さだろう。

 最新防犯の基準を優に満たす扉は頑丈で、鉄球クレーンでも持ってこないかぎり破られる事はないはずだ。

 そんな扉がどういうわけか、何度目かのノックで悲鳴を上げるように軋んでいるイメージが当麻には見えて、扉の向こうから滲み出るオーラからか、このまま出てこないのならいずれは城門突破も辞さない構えというのがひしひしと伝わってくるのだ。

 

 生まれてからの付き合いだ。この控えめな、けれど背中に伝わる無言のノックの仕方で彼女の機嫌の良し悪しを察することくらい訳ない。向こうも気配でドアに張り付いていることはお察しだろう。ちょうどドアノブの辺りにノックの振動――ツンツン頭の脳天にあたるところを故意ではなくピンポイントに狙ってきている! それも微妙にモールス信号っぽく意図のあるリズムで。が、あいにくその手の知識のない、絶賛受験勉強中で詰め込む余裕のない男子学生には伝わらない……だから、けして無視してるわけじゃあ―――

 

「ふむ、どうやら『アケテ』と言ってるようだけど」

 

 そこは物知りで頼りになる先輩がわざわざ訳してくれた。

 

「どうした? 開けないのか?」

 

「先輩、今日、帰りたくないです」

 

 ガタイのいい不良が来ても当麻はビビらない。変質的に狂っているストーカー野郎であろうとその手合いには慣れている。

 けれど、“彼女”だけはダメだ。

 なんだかもう庇護の立場が逆転してしまっているが、本能的恐怖を前にそんな恰好は気にしてられないのである。

 

「おおそうか。気が変わったか。もちろん、構わないけど。気の済むまでゆっくりしていくといい」

 

「ありがとうございます先輩! それで、このドアって間違ってもピンセットで開けられるようなレベルじゃないですよね?」

 

 上条当麻は『三匹の子豚』の童話の如く、真剣に侵入者(オオカミ)対策に住居のセキュリティを案ずる。

 ここがレンガの家じゃなかったら一息で終わってしまうのだ。

 そんな不安に若干涙目となりつつある年下の男の子を前にして、お目当ての発言を引き出せただけでなく、雲川芹亜は密かに母性的なものがきゅんとくるものを感じつつも、色香たっぷりな先輩系の余裕は崩さず、安堵させるように述べる。

 

「そうだな。私が持つ鍵を使わずに無理やり開けようとすれば、センサーが反応して警備員ロボットが向かってくることになってる。それも週間毎に対能力者レベルが基準のセキュリティが試験的とはいえ最新のものに組み直されていくだろうから、そう対策は取れないだろうなぁ」

 

 そして、都合のいいメイド見習い(くもかわまりあ)に風呂から食事やら支度させてお泊りの準備は整ってある。

 

「ふふ、それに軽く一ヶ月の非常食の蓄えがあるから篭城戦にはもってこいだけど。今日からここに住―――」

 

「よし。とりあえず一時間は大丈夫」

 

「お前が想定する危機に対して、私が選んだ防衛設備はその程度しか安心が買えないのか」

 

「それまでに何とか説得できる文句を考えねーと!? やばいーっ!!」

 

「妹じゃないけどその反応はプライドにくるものがあるぞ」

 

 と、腰を落ち着けるのはまだ早かった。

 相手はレンガを吹き飛ばせないオオカミではなくて。

 手を放したら空も飛びかねないその行動力に、突破できない障害(カベ)などない。

 

「―――!!」

 

 前兆の感知とはまた違う、ある少女限定の、上条当麻の危機的直観が働いたのはベランダ。

 おい待て、ここは八階だ。

 まさか外壁をよじ登ってきたとでも……

 その疑問は、口に出すまでもなく先輩が答えてくれた。

 

「そういえば、お前も見ただろうが、このマンションは今、外壁の塗装工事をしている最中でな。

 <重力子寄木板(グラビトンパネル)>という作業工事用に使われる足場は、設定さえ弄れば消防車の梯子のように高所へ登ってこれるけど」

 

 もっとも、そんなことを実行する奴は見たことなかったがな、と。

 

「先輩、その、窓の方のセキュリティは……」

 

「(一応、狙撃されにくいポイントを選んではいるが)ドアほどじゃないなぁ。精々強化ガラス程度だけど」

 

 きっと、多様な分野に手を伸ばしている知能ならば、いや初見であっても何となく即興で足場を組み替えることもやってやれないこともない(可能だからと言って本当に実行するかは別問題だが関係ない)。

 また、今も身震いするほど上条当麻がよく知る彼女は見かけによらず運動神経に優れている。抜群、と言ってもいいだろう。

 だから、やってくるまでそう時間はかからない。きっと余命(タイムリミット)は三分もない。

 

 

 そして、上条当麻の推測通りの3分後。

 

 

 新たな声が聞こえた。

 

「お邪魔します」

 

 部屋の主、雲川芹亜の視線が向かった先には、ベランダの枠に足をかけ、軽やかに外からやってくるストーカー……ではなく、お嬢様学校の制服を着た少女――上条詩歌。上条当麻の妹だ。雲川が何か言うよりも行動を起こすよりも早く、カギのかかっているはずのベランダの窓をあっさりと開け、律儀に靴を脱いでから部屋に入る。そのままこちらに最低限の挨拶だけ済ませると矢のような勢いで玄関に行き、そのドアが開け放たれていることを視認して。

 

「これはフェイクですね」

 

 くん、とその小さな鼻を鳴らす。

 

「きっと慌てて逃げたというにして見せたいのでしょうけど、建物内の反響音がないことからして、おかしいです。第一行動パターンから考えても、外に出て私から逃げ切られるなどと思わないでしょう」

 

 それに理論的な説明ではないけれどなんとなく気配でも、逃亡者がまだこの室内にいることを把握している。さて、出入り口を確保した以上、逃げ場はない。彼は外に出ることを危険と考え、この建物のセキュリティを頼みの綱とした篭城戦を考えていたようだが、妹の電撃戦の方が一枚も二枚も上手。

 その後も望み薄である袋小路に。

 

「それに、“余計な小細工を入れ知恵したであろう誰かさん”は、部屋の外に出したくないでしょうし」

 

「ほう、そうか」

 

 と、面白げに笑みを深める部屋の主の反応を流し目で視認。

 事の顛末を全部見ていただろう目撃者に隠れ場所を吐かせるのが最も簡単なのだろうが、上条詩歌はその答え合わせはしないし、今、賢妹に対して目の前にいるのは後輩の問いに何でも答えてくれた親切な先輩ではなく。

 すっと雲川芹亜から視線を外して、詩歌は隠れられそうなところ――玄関近くの脱衣所の方へ意識を向ける。

 

 脱衣所に愚兄の姿はなかった。詩歌が、心なしかドスンドスンと足音を立てて濡れた脱衣場に迷わず踏み込んでいく。

 

「そこにある傷だらけの携帯、先輩のかもしれませんが……詩歌さんはとても見覚えがあります」

 

 荒事に遭遇しやすい愚兄の扱いは荒っぽい携帯が、脱衣所の洗面台それも歯ブラシを入れたカップの後ろ、ちょうど陰をつくって見逃しやすいところに置かれていた。

 重い腰を上げた雲川芹亜も、現場を確認する。

 

「では、誰のものかと思う?」

 

「さあ、誰でしょう。……フフフ」

 

 雲川芹亜は幻視した。

 賢妹の頭上の背景に、隠れ穴に飛び込もうとして突っかかっている、頭隠して尻隠さずなネズミを前にした猫のような狩人の眼が浮かび上がっていたことを。

 だが、親切な先輩は助ける気はなくて、ゆっくりとこの捕り物を鑑賞してる。

 

「本当に、どういうつもりなのでしょうか」

 

 アコーディオン式の引き戸を開けて、賢妹が風呂場を覗き込んだ。

 

「なんにしても、どうせバカなことになってるでしょうから、あまり時間はかけるつもりはありませんが」

 

 <学舎の園>にしか売られていないような、高級高品質のシャンプー等が並んだ鏡の前。

 上を見れば換気扇がカラカラと回り、下を見れば妙に濡れている床タイル。

 湯船には蓋がされていて、上条当麻はいない。

 

 ―――また一度、見る。

    湯船には蓋がされている。上条当麻はいない。

 

 遠目で現場を窺っていた雲川芹亜が二度確認したところで、まさか、と背筋に戦慄が走ったその時、湯船からこぼれ出た湯がひたりと側面を流れ滴る。

 

 雲川芹亜は、お泊りの可能性を考慮して、妹の鞠亜に風呂の準備、湯船に湯を溜めていた。

 

 注視すれば蓋は閉まりきっておらず、位置も微妙にずれてる。というより、内側から持ちあげられて、ぷかぷかと浮いているよう。

 それこそ湯水のように大富豪でも、掛け流しの如く湯船いっぱいになってもお湯を入れるようなものはそういない。ごく少数はいるかもしれないが、雲川芹亜はそんな面倒で無駄な成金趣味はしない。

 

 コイツ世界を狙える器かと驚愕するほど、見事な墓穴の掘りっぷりだった。

 

(ぶはっ!? ぷふっ!! お、おい、これは、私を殺す気か!!)

 

 ともあれお湯がいっぱいの風呂桶に飛び込んだ命がけの後輩(仮)は、雲川芹亜にはどうあっても道化にしか見えないのだ。

 いや、半分ほど蓋を外していても、入浴剤で白濁した湯の中を見ることは叶わないだろうが、当人の必死さは容易く予想できるというもの。

 

 風呂場に隠れてろ、とは言った。

 もし彼女が状況証拠から判断し部屋の外から出ていれば、難は逃れていたはずだったが、それが不発になればもう諦めるしかない。しかないのだが、彼は諦めなかった。

 それほどに必死に駆り立てるものとは、一兄としてのプライドか、もしくは彼女への恐怖か。

 

 助け舟を出してやるべきか。

 いやしかし、そうしてやりたいが腹筋が痛い。今口を開けば爆笑でまともな言葉を発せないだろう。

 

 そうこうしてるうちに、ぼこんと泡があがってきた。

 

「何ででしょうか。将来は、バスタブに居住しているかもしれないと心配になってきました」

 

「確かに頭より体が動いてしまう人間というのは、外野から見れば頭がいいように見えないけど。そういう人間が、理に合わないことをしてくれるおかげで世の中は結構よくなっているけど」

 

「残念ですが、これ放置したら、ドザエモンにしかなりませんし、詩歌さんとしてはできれば自首してほしいですね。

 ……こうまで粘られると意地でも出してやりたくなってます」

 

 賢妹が感極まった口元隠すよう手の平を、桜色の唇にあてている。熱情と冷たさの落としどころにさまよわせている瞳は、底光りしながらとろけている。

 それは、いつまでも隠れている冷たい怒りとそれをどう調理してやろうかと嗜虐的(サディスティック)な悦びとの葛藤である。

 ああ、これほどまでに清純な少女の、淫蕩とも感じさせられる陰影の温度差には、視界に入っただけで背中は粟立ち、大人さえも陥落しかねないだろう。下手をすれば、被虐的な快感を求める趣味に目覚めかねない。

 

 なんにせよ、後輩はあわれ。

 言うまでもないだろうが、もう、とっくの昔にばれてる。

 

「とりあえず、温度上げ(おいだきをし)ましょうか」

 

 と、笑顔のまま操作盤のスイッチを(連打で)押して、湯の温度を上げる。ギリギリ火傷しないところまで。

 一気に加熱されることはなくても、やがて湯だつほどの高温に達するだろう。かの天下の大泥棒が味わったという五右衛門風呂の釜茹で地獄となりかねない。

 そんな秒読みで危機的状況が加速する中で、白湯は大きく、中でもがき暴れているように、波打って、

 

 ……ぼこん。

 

 外の様子をうかがい知れない湯水の中で、愚かな後輩が戦い続けている、その生命の証の気泡が風呂の水面ではじけた。

 そのたびに雲川は腹筋の制御に忙しい。表情筋の方はすでに諦めても、お姉さんの余裕を保たねば。

 

(すまん。助けられる余裕はないけど。だが、やっぱり面白いなお前、いや、この兄妹は)

 

 上条当麻は、愚かだ。それも実の妹から呆れられるほど。けれどそれは何も知らない無垢な子供の愚かさとは違う。バレているのに子供たちの無垢さを守ろうとサンタさんを演じる父親と同じ、気遣いや優しさが変な感じに発酵した悲しい道化のそれである。

 

 ……ぼこぼこぼこぼこぼこぼこぼこがぼ、ガタ、あっ、がぼ、ガタン、あち、がぼ、んぐ! がばごぼ――――「もういいから、いい加減に出なさいまぬけのとうさん!」

 

 

 

 結局、我慢しきれず妹の方が熱湯に手を突っ込むまで、頑張った。我慢比べという勝負は勝ったが、この試合は大敗である。

 そして、妹の細腕に一本釣りされて墓穴から生還したずぶ濡れの愚兄は、引きあげる際に同じくらい水を被った賢妹の前で、正座をしていた。

 ただし、露骨なくらい目はそらされているが。

 

「こ、これは……ええと、だな。ほら……あれだっ、ドジってジュースを頭からかぶって濡れたから風呂に入らせてもらったんだよ」

 

 行動との前後関係がなければ、その説明で通ったかもしれない可能性はゼロではなかった。

 しかし、風呂上がりの肌にだらだらと不自然な汗を浮かべており、目が泳いでいる。いっそ溺れてしまっているくらいに。

 

 確認しておくが。

 愚兄が先輩の部屋に通っていたのは勉強のためだ。

 

 そう、そもそも前提からして、やましいことなんて本当にないのに、ややこしいことがあって空気が凍りついてる。

 一秒、二秒、三秒……と徐々に重くなるツンツン頭を、額が床面着陸する土下座ポーズになるまで下がったところで、閻魔様こと賢妹が口を開く。

 

「当麻さん。放課後は学校に残って自習すると言ってませんでしたか」

 

「は、はいっ! これにはよんどころのない事情があって―――!」

 

「二乗も三乗もありませんっ! ここで重要なのは私が納得できないということです!

 あのだらしのない顔も、どうせ先輩に頼られて浮かれてたんでしょう!」

 

「し、してないぞ!」

 

 賢妹の声に生えたトゲが心臓に刺さって動悸が止まりかける

 これまでの経験から、十中八九、愚兄を色情魔だとか思い込んでるだろう。日々積み上げた兄妹の信頼感が足りてないのか、地味に落ち込むのだが。

 

「まあその辺にしておいてやれ」

 

 だからか、そこへ割って入ってくれた先輩が女神に見えた。

 さりげなくポイントを稼ぐ先輩に賢妹はにっこりと笑顔で挨拶をする。

 

「お久しぶりですね、雲川芹亜先輩。学祭以来でしょうか」

 

「ああ、会いたかったよ妹さん」

 

「申し訳ありません。うちの当麻さんが、とてもお世話になったようで」

 

「……うちの、ね」

 

「はい、うちの当麻さんです」

 

 その普通のような異様なような挨拶が交わされた瞬間―――愚兄は、

 バチッ。

 と、崩壊質な空電の弾ける音が聞こえた。

 

「実は会う以前から、どことなくそんな予感はしてたんだけど……」

 

「先輩と前世の因縁なんて真っ平御免ですが」

 

「コイツに妹がいると知ったその日から予想できてはいたが……まさか的中するとはな。いや、いや。面白い観察対象が人の縁で芋づる式に見つけられたことを喜ぶべきか」

 

「詩歌さんも鞠亜さんから姉がいると聞いた時から……とても厄介なお人がいることは直感しておりました」

 

 時間がなくて別れてしまった後の、二度目の顔合わせ。

 後に生還した彼はこう証言する。

 

『あの瞬間、何かが破れた。ああ、鋏のようにな。2枚の刃が交わった時に、間に合った何かがジョッキんって破断する―――そんな幻覚(イメージ)が見えた』

 

 ただ無言で向かい合っている。それだけで、未知のAIM拡散力場が生み出すドップラー効果でもあったのだろうか、部屋をぐにゃりと震撼する……

 

「そんな、バカな……」

 

 戦慄に汗を拭う際、いつの間にか腕に鳥肌が立っていることを知った。

 

 文面にして状況を説明すれば、上条当麻は二人の美少女に囲まれているのだが、それはけして、両手に花ではない。

 

 女と女に挟まれる男と書いて、『(うわなり)』。

 これは歌舞伎十八番の一つ、後妻(うわなり)打ちをモチーフにした芝居を意味する隠語である。

 江戸における婚姻風習に、夫が前妻と別れてすぐに後妻をとった場合、前妻が予告の上で後妻の家に襲撃をかける―――それが、後妻(うわなり)打ち。

 ルールは無用。いくらでも援軍を参加せても構わない乱闘、その絵図はまさしく修羅場、女の合戦である。

 と、決着する前に仲裁が入り引きあげていくというのが様式である。

 

 そして、女に挟まれる男の字面は、『(なぶ)る』と読むこともあるのだ。

 

 困らせたりいじめたりして面白がる。おもちゃにしてからかう。という意味もあるよう、もしもそんなのに挟まれてしまえば、クロスボンバー的にミンチである、ギロチン的にアウトである。

 

 つまり、今の上条当麻のポジションは非常にまずい。死地である。

 

 ―――逃げよう!

 

 二人の無言の睨み合いしてる間に、上条当麻は緊急避難の鉄則『おすし』を守り、速やかに腰を浮かして―――

 

「おすわり」

 

 下した。

 もちろん正座で。

 賢妹のたった一言で、肉体が愚兄の意思を裏切る。ここで動かなくちゃ死ぬぞ! なのに生存本能さえ覆されては驚愕するしかない。がくがく震え、当麻は信じられない気持ちでこの状況を反芻する。

 

「ぐぅ……!? 逃げなくちゃいけないのに……!? 当麻さんの馬鹿!! 裏切ったぞ!! この15年信じて寄り添ってきたはずの肉体が意思を裏切って詩歌の言うことを聞くなんてーっ!?」

 

「どうして逃げようとするんです。詩歌さんは和やかに先輩とお話ししてるだけじゃないですか。心外です」

 

「いや、なんか空気が物騒というかなんというかでせうね」

 

「そうか? これでも私は会話を楽しんでいたつもりだけど」

 

「こちらは楽しんでませんけど。このくらい、女子の会話では鍔迫り合いにもなりません」

 

「斬り合いであることは否定しないんだな……」

 

「あんまりごちゃごちゃというようなら、お尻にシャワーヘッドを突っ込んで、マーライオンのように口から水が出るようにしてあげましょうか」

 

「怖いよ! 実際にやりそうだからより怖いよマイシスターっ!」

 

「まあ、待て妹。虚偽の申告をさせていたのは私だ」

 

 指先でカップの縁をなぞりながら、己の非を認める芹亜。

 

「内緒にしていたのは謝ろう」

 

「先輩に悪意がないことはわかっていますから、もういいです」

 

「さっきの写真は無理やり撮ったものだけど。ここしばらくは、放課後は密会をしていたがな。どうだ嫉妬したか?」

 

「それで、先輩から見て、当麻さんは合格できそうですか?」

 

「おや、はぐらかす? お前がそうくるとは推理外れだけど」

 

「こちらも、先輩がそこまで好意を持たれるのは予測外ですが、まあ、予測外なのが予定調和なのでしょう残念ながら」

 

「彼、なかなか面白くてな」

 

「私の兄ですから」

 

「自慢か」

 

「自慢です」

 

 賢妹と先輩は、お互いに余裕に微笑んだまま見つめ合っていた。どちらも一歩も引かない様子は仲が悪いようにも見えるが、ある程度相手の内心(はらわた)が知れたからこその遠慮のなさにも見えた。

 

「お前の兄はいるだけで刺激的だけど」

 

「なんか珍獣的な感想ですよね、それ」

 

「それに今の時期に、兄を“ごたごたに”巻き込むのは妹の望むところじゃないだろと思ったけど」

 

 目を細める詩歌。それに、くすくすと意味深に笑みを深める芹亜は、小石を落としてその器の水深がどれほどものかを推し量るように、問いを投げかける。

 

 

「珍獣と言えば―――『白い鰐』、という都市伝説を知ってるか」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <白鰐部隊(ホワイトアリゲーター)>―――それは、学園都市の一暗部の組織名。

 

 『過酷な環境に適応して突然変異を起こしたワニの話になぞらえ、子供達を強制的に鍛え上げる組織』

 『潜伏、移動に地下水道を利用している』

 『下水道とは『闇』の暗喩であり、不用意に踏み込んだ者を引き摺り込んで喰らわれてしまう』

 『研究者の間で噂される“あるリスト”の制約を破るための能力者育成プログラムが、対超能力者(Level5)用の安定した大能力者(Level4)量産ビジネスに変質した』

 

 など、一時期そのような荒唐無稽な都市伝説が流されたが、それはすべて事実である。

 

 とある有名な研究者の手足となるために、脳まで改造された子供達による戦闘部隊。

 所属する構成員の4、50人が皆Level4の<油性兵装(ミリタリーオイル)>であるなどと『大人の都合が通じない超能力者をプロジェクトから排除する為の、安定戦力としての大能力者』達の部隊であり、同時に『尖りすぎた超能力者より安定した大能力者の量産を図る計画』でもある。

 超能力者に対抗するために『超電磁砲の弾丸を受け止める』などと人を人とも思わない過酷な訓練を繰り返していたようで、また任務をこなす毎に同期の者たちが死んでいき、精神が摩耗した結果、生存者達は『運用側への恐怖』と共に、『特別な存在(エリート)』と自負するようになり、またそれが極まって『上には歯向かわず、任務だけを忠実にこなす兵隊』となった。

 

 しかしその計画は半ば破綻した。

 

 成功したかに見えたプロジェクトであったが、統括理事会のひとりが後ろ盾となり推し進めた『第7位を除く、第1位から第6位までの超能力者の能力を使えるサイボーグ』に負けて、流れてしまったのだ。

 結果として、主とした運営側がいなくなり、組織は壊滅。およそ半数が生き残った彼女たち<白鰐部隊>の残党は、反逆因子として処分されそうになり―――

 

 そんな彼女たちのひとりと出会い、皆を救おうとした者がいた。

 

 西東颯太(さいとうそうた)、という長点上機学園のスクールカウンセラーを務めていた男性。

 集めた情報によると、いつもニコニコと笑顔を絶やさず、学生たちの評判も良かったが、その『相談に乗る』という仕事を名目として学園側から、厄介なモンスターペアレントや苦情の対応を任されるなど貧乏籤を引かされていた。

 けれど、『子供たちのため』という信念のもと、けして弱音は吐かず、そんな彼だったからこそ、<白鰐部隊>の心ない殺人機械になり果てた女子生徒に手を伸ばせて、その人間性を取り戻せたのだろう。

 そして、その女子生徒と関わるまでは『闇』と一切関わることがなかったが、彼女との出会いから、他の<白鰐部隊>の少女達も救いたいと思うようになり、<白鰐部隊>に所属していた学生らの所在情報を収集し始めた。

 ―――だが、それがいけなかった。

 すべてを救おうとした彼は、あまりにも目立った。

 深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いてる。

 『獣』と呼ばれるまでに道具として堕ちた元<白鰐部隊>の女子生徒を人間に戻したというその手腕を買って、反逆因子抹消のために『闇』に身柄を確保されることになったのだ。

 

 もともと、苦情対応で相当に無理を重ねていた西東颯太は、睡眠障害、自律神経失調症、胃潰瘍、胃腸炎、円形脱毛症、耳鳴り、偏頭痛、視野狭窄を併発して患っており、とてもまともに働けるような状態ではなかった。

 故に、ちょっとその背中を押してやれば、事故に見せかけて回収することは容易いことであった。

 

 そう、<一端覧祭>で常盤台中学からの勧めもあって、長点上機学園に見学に来ていた“ある女子中学生”がその事故現場に居合わせなければ、成功していただろう。

 

 この一年で統括理事会入りが内定していた大人たちの代表であった一大物を崩し、危険人物としてこちらがマークしていたあの『蜂の女王』の先輩として接しられている時点で評価に値するその少女は、電撃作戦とばかりに迅速に件を解決に導いた。

 

 

 

 雲川芹亜の一言に、一度、話題についていけない愚兄に視線を走らせてから――なにかアイコンタクトでも送ったのだろう――詩歌はひとつ息を吐いて、

 

「先輩の言う『白い鰐』がどういう意味なのかはわかりませんけど、彼女たちは今皆病院で調整のため入院してます。リハビリ中の先生と一緒に。

 ……それで、どこでそれを知ったのか、お尋ねしてもよろしいですか、先輩?」

 

「ほら、言うだろう? 秘すれば花なり」

 

「秘せずは花なるべからず、ですか」

 

 物事は秘密にしているからこそ花になる。明らかとなればその価値は失せてしまうもの。

 他人に隠しているものは、本当は大したものではない。本当に素晴らしいものは自然とそう悟らされてしまう。

 

「どういう意味でせう?」

 

「バカも黙っていれば利口に見えるものです。これ、科学ではないですけど、世阿弥の風姿花伝です。ちゃんと受験勉強はしてるんですか」

 

「コイツの頭の出来は思ったよりも深刻でな。裏に手回しして、本気で下駄を履かせてやろうかと検討中だけど」

 

「いいえ、先輩の手を煩わせることもありません。もし全部当麻さんが落ちたら、そのときは責任を取って、あまり世俗慣れしていない常盤台生のための『一般市民サンプル』として引き取って見せますよ。操祈さんも喜々として協力してくれるでしょうし」

 

「待て、あまり耐性のない娘のところに放り込むのはむしろ危険だと思うけど」

 

「もしもしお二人さん! 当麻さんがんばってますよーっ!」

 

「でしたら、ちょうど案件も終わりましたし、次回から詩歌さんが当麻さんの家庭教師をします。これ以上、先輩に借りを作るのは怖いので」

 

「別に貸しと思わなくていいけど。コイツと一緒にいるのは楽しいからなぁ。色々と」

 

 と小型カメラを取り出し、

 

「これに写ってる通り、親密な仲だ」

 

 肩に手を置き、その凶器的な胸を男子学生の頭に当てている写真である。

 

「ちょ、先輩それ―――」

 

「当麻さん……」

 

「いや、これは違うぞ」

 

 何を言い訳してるんだ。これではまるで恋人に浮気を見つかったかのような。

 

「当麻さんは、ここにお勉強しに来てたんですよね?」

 

「そ、そうです!」

 

「で、どうでしたか? 先輩に、抱きしめられて? 正直に感想を教えてくれると詩歌さんは嬉しいです」

 

 にじりにじり寄る賢妹に、落ち着けと両手を前に出しつつ後退。

 

「は、はい、気にはしないようにしてたんでせうけど、やっぱり柔らかかったであります!」

 

「よろしい。では、勝負です!」

 

 がしっと右手を捕まえ、それを自らの胸元へ持っていく。流石にそれは兄抵抗。

 

「おい、手を引っ張るな! 触らせようとするんじゃありませんッ!」

 

「勝負から逃げるつもりですか!?」

 

「そんな勝負はしなくていいし、そもそも勝利条件がわからん!」

 

 おまけに、これだとこちらが勝負から逃げたことになるのか?

 そもそもどうしてこんなことに!

 あと数cm、ちょっと手首を返すだけでとてつもなく柔らかいものにあたるところに右手があるが、愚兄的にこの男子の幻想(ユメ)的な(ぶつ)に喜んで右手でタッチするのはアウトだ。社会的に殺される気がする。

 というわけで、

 

「詩歌だ! 詩歌の方が勝ちだ! そういうことでお願いします」

 

「ほう」

 

 と今度は何やら先輩の方が不穏になるも、そこへ詩歌が間髪入れずに、

 

「じゃあ、どっちに勉強を見てもらいたいですか?」

 

「それは先輩にお願いします」

 

 あっさりと愚兄はその幻想をぶち殺すのである。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 先輩に家庭教師を頼んだ。

 

 愚兄の言葉に、詩歌は反応を返さなかった。視線すらよこさない。賢妹の無言は心の肌にひりひりと痛みを塗りこんだが、それで参るほど面の皮は薄くはないつもりだ。

 しかし、反論がないということは、こちらに任せてくれていることなので。

 

「……じゃあ、帰ります。これ以上はお邪魔になりそうですし」

 

 と席を立つ詩歌を、当麻は見た。詩歌はついと視線を逸らした。

 んっ……とだけ、声が出た気がするが、気のせいかもしれない。

 ゆっくりと。

 兄妹は不自然なくらい長く、でも自然に目を合わせて。

 それから、当麻は口を開いた。

 

「―――ちょっと先輩とあいさつだけするから、先で待っててくれ」

 

 詩歌はうなずいた。声は出さないが、顎の先が首に付くくらい深く、強く。

 

 

 

 もうそろそろ時間だ。

 それにここ最近、妹と一緒に変えることもなかったので、ちょうど近況報告を聞く機会だ。

 とはいえ、

 

「先輩」

 

「なんだ後輩」

 

「お願いがあるんですけど、次からは手加減してくれるとうれしいでせう」

 

 苦笑気味であるも、当麻の見るその目は、芹亜を真っ直ぐに、そして強い。

 先までの情けない雰囲気は、不思議とない。

 ここで、その目を見せてくるかと思わず裡に震えがきてしまう。

 

「いやなに。ずっと警戒されっぱなしだったからな、ちょっとお返ししてみただけど」

 

「それでわざわざ呼んだんですか、ここに」

 

「怒って掴みかかってきてキャットファイトスタートも想定してたけど、案外あっさりとおまえの言うことを聞いて引いたな」

 

「一応、兄としての信頼はあるんですよ」

 

「一応、ねぇ」

 

「ええ、その事件については聞かされてないけど」

 

 賢妹が事件に巻き込まれることを愚兄は望まないが。

 それでも兄妹の信頼信用は揺るぎない。

 なにせ、

 

「兄バカな発言だと思われるでしょうが、俺は詩歌以上の天才は知りません」

 

「ほう、それを私の前で言うのか……」

 

「―――だから、あいつは才能を言い訳にすることはできないでしょう」

 

 賢妹は、愚兄が足りないものの何もかもを有した、紛れもなく天才様だ。

 諦めることが許されないほどに。

 運が悪かった、不幸だった、などと言えないほどに。

 

「そして、その才能以上に優しいんです」

 

 詩歌の<幻想投影(チカラ)>は、救い足りえない。

 同調――同情できるだけで、そんなものは同じキズを舐めあうような、ごまかしだ。

 それは救いには程遠く、ならば、消してしまった方が救いとなる。

 

 もしも特別な力で救うなどと思い上がってるならば、妹は誰の助けにもならなかったろう。

 

 救うというのは、やっぱり優しさが必要で、誰かを想う気持ちの表れがあってこそ。

 

「それを兄として誇りに思ってるけど、同時にそこが、まあ、心配になるというかなんというか」

 

「……お前の分析、正しいかもしれないけど、兄バカをこじらせすぎて、逆に聞いてる方が恥ずかしくなるぞ」

 

「えっ!? そ……そうでせう?」

 

「そうだ。妹のこと好きすぎるだろ」

 

 頷きたくはないものの、心当たりは確かにある。

 学校でも世間話に最中にふとしたことでシスコン呼ばわりされることもあるし、比較的に仲が良かったと思われる女子と話があって盛り上がった時でさえ『なんだか上条君って、妹さんの話が多いよね』という発言をもらってからなんとなく疎遠となってしまったり。

 

「その調子だと、恋人ができたことも一度もないだろう?」

 

「!? なんで知っ―――……あ、いや、そうだよな。彼女がいたら、さすがに先輩に家庭教師とか頼まないもんなー」

 

 合理的に推理可能と思われる根拠を見出したものの、現実逃避だという自覚はある。案の定、先輩はそれを突く。

 

「それ以前の問題だけど。顔はまぁ……悪くはないけど、ああ小姑になりそうな妹のことばかり気にしているようなら、生涯独身となりそうだなお前」

 

「将来まで絶望されてる」

 

「まあ、安心しろそうなったら私が飼ってやる。男一人、その小姑もおまけにつけても養ってやれるくらいできるけど」

 

「いや、それは男子的に羨ましいものでありますが、当麻さんとしたらヒモはNGなので」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 一物一価の法則(ロウ・オブ・ワン・プライス)などというものは、経済学者たちの幻想に過ぎない。

 何故なら現実には格差というものが存在し、百万もの大金をはした金のように扱う資産家もいれば、わずか一円に嘆く男子学生もいる。喉の渇きに苦しんでいる砂漠の旅人にとってグラス一杯の水の価値は同じ重さの黄金に勝る。

 

 つまり、幸せと不幸の違いは、個々人の感性次第

 

 雲川芹亜にとって、金に糸目をつけない娯楽よりも、彼らとのやり取りは何より青春というのを感じられて、笑みに綻んでしまう。

 

 しかしだ、楽しい時間は過ぎ去ってしまうとどうしても寂しくなってしまうもの。

 

(よし。こうなったら、兄を絶対にこちらに入れさせてやろう。そうすれば、妹の方もセットでついてくるだろうしな)

 

 上条当麻が去り、部屋に一人になった雲川芹亜は思い出し笑いでもしかたのように、くっくっと肩を揺らす。

 

 まったくこの少年に惚れた相手は大変だな。あの妹が女性を見る評価基準だとしたら、相当に厳しい条件だ。

 しかし、あの素質はやはり貴重である。

 

 ほぼ赤の他人というには寂しいが、それでも知り合って間もない人間に、家庭教師をお願いする。

 あの少女を前に、他の手段を選ぶ。自分を優先できる。

 

 そう、芹亜が分析する、その少女を手にすれば、全能感、多幸感、勝利感に麻薬のように酔えるだろう。

 エアコンにネット通販、GPSと連動した地図カーナビなど、一度でも味わってしまえば以前の不便な生活は考えられなくなるのと同じように。

 少女という他者を助ける才能の利便性には、それだけで人の心の有り様を捻じ曲げてしまうブラックホールと呼べる。

 故に、きっとあの少女は誰のものにもならないだろうが。

 

 それに、最も近しい少年はまともなのだ。

 

 無理なく、ごく自然に、普通の兄妹が、できてる。

 それがどれほど、稀なのか。

 きっと当人たちさえ知らぬことだろう。

 

「ん」

 

 妹――雲川鞠亜経由でメールが来た。

 

「……まったく、そんなに借りを作りたくないのか」

 

 内容は、このマンションをうろついていた不審者一名を<警備員>に引き渡したのでご安心ください、とのこと。

 愚兄たる少年が対応に追われるほど、外見資質ともに稀有なあの少女は極上の釣り餌になるだろうし、しかしそれにしても迅速な解決である。

 それよりも、これだけミステリアスに惑わしたつもりであるが、その先輩の言を、法螺話とせず、信じたのか向こうは。

 

「ホント、面白い兄妹だけど」

 

 

 

つづく


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