とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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世界決戦編 緋色の女

世界決戦編 緋色の女

 

 

 

とある少女が封じ込めてしまった記憶

 

 

 それは、古代の神とも、黙示録の獣とも言われる『天使』が触れた直後―――少女が『神上』に至る前の―――空隙の中の寸劇。

 

 

 ―――少年の右手が動いた。

 ただ在るだけで、現実の物理法則を塗り替える異常に、触覚神経から情報を司る脳への伝達の行程を短縮(カット)した右手の独立した反射反応。

 その時、少年の目には、ひどくゆっくりと、五本の指が開いていようであって。

 まるで不可視の糸に引っ張られるように、ぎこちなく白い首へと誘われた。指先に触れようと向けられ―――

 

「――――――――――――――っ」

 

 寸前で、翻った。

 ぐらりと、無理矢理な回避にその身体がよろめいて、顔を歪めてしまう。

 こんな時でさえ―――

 右手が大切なものを殺そうとしている、この瞬間でさえ―――

 少年は、惹かれている。

 ただあるがままにその匂いには、逆らい難い魔魅があったろう。正常な判断を全て打ち消し、熱い泥濘に誘い込む、芳しい香り。見るだけで欲情を誘う、甘くて、濃厚な気配を発する肢体。そして、ただ在るだけで周囲の世界を侵食していく、一口ではとても食いきれないほど巨大なもの。

 どれもこれも、脳髄の髄から破裂するのを実感させるほど。

 この幻想は―――あまりにも美味しそうだった。

 

「……何を……考えてんだ!」

 

 鼻を抓み、きつく瞼を閉じて、少年は血を吐くような言葉を搾り出した。

 右手には、飢え渇いた涎の代わりに手汗が酷い。奥歯を噛み締めし過ぎて、唇の端からはつぅ、と血がこぼれている。

 ぐ、と拳を握り締める。

 あまりの強さに血が引いて、肌が白くなるほどに握り締めている。

 衝動を堪え切れず、己が在り方のままに幻想を殺してしまえば―――終わってしまう。

 たとえ身体(かたち)は残ったとしても、記憶(なかみ)はなくなってしまう。少年のことなど何もかも忘れ去る。思い出など完膚なきまでに壊される。

 そう、理解できた。

 気を抜けば、迫ってしまう。

 押し倒して少女の首に手を掛け―――その幻想を―――噛み砕くように握り潰して―――。

 これ以上、少年は少女に近付かない。

 殺したくないから、手を伸ばさない。

 

 

 ああ、それでも。

 一線を超えてしまった進行はその意志を超えたところで動いている。

 

 

 空腹でも、喉が渇いているわけでもない。しかし、少女の肉体は、それが少年にとって必要不可欠の栄養であるかのように誘い、残さずに食さなければならないものであると内から訴えてくる。

 右手で触れていても、少年の異常は消えない―――だから、これは、“そう”なのだ。

 

 ぱき、と。

 途端に、奇妙な音が響いた。

 

 ぴしり、と続くプラスチックの板に亀裂が走るような。ぴしり、ぱきり、ぴしぱき、ビキビキバキバキボキボキベキベキ!! と。留まる事を知らない亀裂の大合唱が見えないところから確実に変質させていく。

 その右手を――幻想を殺すのに最適化していく。

 その幻想を――少女を殺す使命を果たす時間が、もうすぐ。

 その時を想像するだけで、少年の口元に笑みに緩み―――

 

「づ、あが……」

 

 いずれ世界は死を迎えるだろう。

 この世界が閉じているにせよ、現在も拡がっているにせよ、消費熱量の増大はいずれ手に負えないものになると言われている。

 際限のない広がり、際限のない消費、際限のない成長の末に待つのは、希望に満ちた未来などではなくて、開闢の前の無に戻る。

 故に―――あまりに強過ぎる存在はこの世界において、全てを狂わしかねない害悪であるが―――その世界をも超えかねない存在を殺して―――世界を延命させるための、新たな容量の空きを作る救済措置でもある。

 例えば北欧神話では巨人から世界が創られるように、誰かの肉体から世界をつくることは、数々の神話にもあることだ。

 その時代の終わりに現れるという業を負った少女は、数個分の世界を内包している。

 そして、少年は世界を存続させるための、人類の夢を背負った。

 殺して―――その死から世界を存続させるための新たな生をつくる、それが抗えぬ己の重責。

 ならば、それに抗う、抵抗する理由がどこにある。

 

 ―――とくん、とくん……。

 

 ひどく。

 ひどく弱まった微かな鼓動。それに伝わる少女の呻く、目覚めの呼気。

 

 途端に。

 ッッッドグン!!!!!! と。

 少年の鼓動が、世界を震撼したイメージが叩きつけられる。

 ガチガチガチガチ、という嫌な音。それは、歯の根が合わなくなって生じたもので、尚必死に耐えている。

 <幻想殺し>としての機能。

 『神浄の討魔』というシステム。

 その名が示し、魂に負った使命を果たす時間がきた、お役目通りの標的を貪ろうとする本能を、理性で必死に抑え込んでいる。

 だが、それも長くは続かなかったのか。

 

「……ッッッハ!!!!!!」

 

 だんっ、と一歩踏み込み、留まる。

 だが、もう伸ばせば届く。

 

 

 ―――不幸だ。

 

 

 口ではなく裡から発せられたようなその呟きは、彼自身のもの。

 それに、ついに目を開けた少女は、己に近付く夢、ではなく、少年の顔を、見た。

 その右手は、きっと、自分を殺すことでしか救えない(止まらない)

 なんて、不幸だ。

 殺すという意味しかもたらさないものが、殺したくないという意志で、お互いを殺し合う。その矛盾があまりにも痛々しくて、半ば神懸かっていた少女は呼吸すら忘れてしまった。

 でも、それは些細な、ほんの一瞬だけの幸運だと言うこともわかっていた。

 彼は、自分のような存在を正したい―――全人類の夢から実った希望たる『神浄の討魔』というあり方には逆らえないのだから。

 全知全能であったものが希望から殺され、その死から生まれて殺された欠損を補うために投影することを獲得し、夢が形なくある欠片を記録してきた『神上の死生』を以てすればこの身が願望機たりえる―――ならば、彼がヒーローであることを叶えよう。

 もうそんな、苦しむ顔はみたくないのだ。

 

 だから、いい。

 殺されるなら、彼の手で―――そう、覚えてしまうほど。少女は酔っていたように、また無垢にその目を瞑り、その手を広げて。この采配を受け入れた。

 少年は少女を殺す。その為に、近しい存在であって、ずっと傍にいたのなら……

 

 

 けれど、彼は最期まで“世界を救う”ことができなかった。

 

 

「ばーか」

 

 たとえそれがどのような状況であろうと、少女の前には見栄を張る。口から出る応答は平然としたものであって、

 

「兄が、妹に、手を出す、わけがないだろ」

 

 今も、この右手は少女の胸中を抉るべく照準を進めていて、この理性が焼き切れれば―――――こんなもの、放置することなどできるはずがない。

 

 

「お前を殺せないから―――

 

 

 少年は、らしく笑って、

 

 

 ―――俺が、死ぬしかないな」

 

 

 目を開けた少女の、二つの(ひとみ)に映るは、自らの尾を喰らう竜(ウルボロス)か。

 少女の人格が魂の髄まで初期化(ゼロ)に殺す『右手』を彼自身の左胸に突き立てていた。

 

 だから、少年には感じなかった。

 己が己に食い尽されるのが、どれほどの様であるか。

 だから、少年には聴こえなかった。

 何もかも、死んでしまった少年は、少女の慟哭を届くことはなかった。

 

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!???」

 

 

 これは、少年の失敗談。

 選択の過ちを知ったのは、すぐあと―――

 

 

ホスピタル

 

 

 表も裏も全部合わせれば4ケタ単位で知り合いがいる。

 その知り合いの知り合いに頼めば、それのさらに倍の人数を集えるだろう。そこから無能は選別するかもしれないが、頑張れば――全てを売れば、奴らが要求した数の繋がりを持つことは、けして不可能ではない。

 『学生代表』によって、不在であっても動きづらくなった。

 開発しきっていない未完成の『ヒロイン』はそこまでの吸引力を発揮していない。

 たとえ、餌が良くても、その生簀に魚がいなければ意味がない。

 呼び込まなければならない。だけど、そうするだけの力はない。

 だから、私がどうにかするしかなかった、“不要な装置”は“処分”されてしまうのだから。

 

『わかった、―――が困ってるなら、協力するよ』

 

 隠し続けてきた、己の影を踏む。

 なんてことはない。

 これまでも弱者をいたぶるときに弱者の気持ちなど微塵も考えず、強者が相手ならプライドも何も捨てでも命乞いをする。

 自分は自分勝手で都合のいい少女だ

 

 でも。

 だけど。

 

 小奇麗に大きく振る舞うことも、仕事として殺しの技を磨くことも必要のない、裏表のない、だからこそ最も柔らかな部分。

 

 だから、後に、媒体(クローン)提供者(ドナー)が一蓮托生であると知った今。

 

 この『収容所』を破壊しては―――

 

 

 

 『ホスピタル』――一施設と化した『クローバー』の奥で、科学の深奥を覗いたそのときだった。

 学園都市を蠢いている『闇』の中の一つと、浜面仕上は遭遇する。

 

「!?」

 

 それは、ぺたりとした足音だった。

 保管する水槽以外の光源のない霊安室じみたこの部屋は、真正面から聞こえるぺたりぺたりという足音の正体は見えなくても、特に不思議ではない。

 初めて覚えたこの建物内の人の気配とあってだけではなく、何か別の予感が、浜面の意識に引っ掛かっているのだ。

 その正体が何なのか把握もできず、また見つかる前に隠れることも考えられない内に、次の情報が滑り込んでくる。

 

 

「何だ何だ。結局、誰かと思ったら見知った間抜け面がいるじゃん」

 

 

 それは甲高いソプラノの声だった。

 浜面の知っている声だった。

 

「あれでも、麦野の自爆に巻き込まれたって聞いたんだけどこれはどういうことかな」

 

 それは学園都市で自分たちを見送ったはずの少女の声だった。

 震える声で自分たちに助けてくれと懇願した人物の声だった。

 

「まーでもそれって結局、運良く生き残ってても、“殺してもかまわない”ってことだし」

 

 ウェーブのかかった長い金髪。人形のように白い肌。低い身長にこぢんまりとした体型。常に姉妹お揃いのペレー帽を被り、ミニスカートがお気に入りで、足はストッキングで隠す癖があったはず確か。

 そんな細かいとこまで知っているような仲で。―――けれど、最近まで家族がいることも知らなかった関係で。

 ぺたりぺたりという足音の接近に合わせて、全容が浜面の視界へと飛び込んでくる。

 

「……フレン、ダ……っ!?」

 

「結局、誰が相手だろうと『侵入者は排除する』ここでの仕事には変わりないんだしねぇ」

 

 凍りついたように、動けなくなった浜面。

 ああ。

 そこに立ってたのは、紛れもなくフレンダだった。

 直視難い水槽の蒼褪める明かりを背後にして、そこにいる。それが自然体だからこそ、より彼女の異質さが際立って感じられる。

 息を呑む。

 漂う沈黙。

 建物の内腑が蠕動する音だけで満たされた、世界で最も窮屈で心身を圧迫するコンサートホールにたたずみながら、これから狩る相手の出方を窺うように、またもう一度発言の真意を求めるように見ている。

 ……窓もなく、中を通り抜ける新しい涼風もなく、生物じみた建物内に澱む異様な空気でかいた薄い汗が肌にべたつくのが気持ち悪い。

 それでも、零度の凍える環境から切り離されたおかげで、薄着でも寒さの心配はなく、また監視カメラの類もないここへ仲間と落ち合うために入ったのだと信じてしまいそうになる。いや、……今からでもそういうことにしないかと、提案すらしたくなった。時折、視界の端で水槽の液中で揺れる三つにわかれた影だけが、この静寂のコンサートに無粋さえを添えている。

 それが動くたびに、浜面仕上は時間が止まっていないことを思い出し、

 それが人の脳であると知るたびに、浜面仕上は現実に追いついていけないことを自覚する。

 だから、問い詰めようとフレンダを急かさず、彼女の言葉だけを信じると待った。

 もしもジョークと言えば、浜面はその場で踊りだして歓喜の雄たけびをあげてかまわなかった。

 そして、フレンダは小さく息を吐き出して、何かを呑みこむように俯く仕草をした後、浜面が普段よく知るフレンダの表情で、

 

「……ああ、そっか、未だに“こんな簡単なこと”もわかっていないんだ。結局、浜面は一から十まで全部説明しなくちゃならないくらい間抜けで頭の回転が悪いのを忘れてたってわけよ。

 だったらこれまでのよしみで、冥土の土産に教えてあげる」

 

 一拍の間を置き。

 決定的な罪を告白するように、彼女は断言する。

 

 

 

「私はね、浜面。<アイテム>を売ったの」

 

 

 

 不似合いに穏やかな声音は、なにも擦れはしない。

 だから、それは普段フレンダが口にするのと同じような、日常会話と変わらない響きを含んでいた。

 なのに、途端に空気が一変した。あたかも到来の兆しの見えた春から過ぎ去ったはずの冬へと季節が遡ったかのように、仲間の顔を見て安堵した雰囲気が凍えるようなそれにとってかわる。

 フレンダの表情が変質したわけではなかった。その顔も、日常的に合わせるのと比べてもほとんど変わっていない。にも関わらず―――

 

 

 何故、浜面仕上の身体は凍りついたように動かないのだろうか?

 

 

 蛇ににらまれた蛙のように、指の一本も満足に動かせない浜面に向かい、フレンダがにこりと笑って口を開く。ぬめるように蠢く舌が、何故だか異様に目についた。

 そして、浜面はその続きを耳にする。

 

「あの随分とやり手な『学生代表』のおかげで、私たち暗部で、鎖として機能していた人質や条件は白紙に戻された。<アイテム>も例外なくね。まあ、あの独立記念日での騒動と、新しいリーダー誕生の恩赦って感じ。

 だけど、それは一度だけのチャンス。

 また狙われないとは限らない。

 そしてそれは私たちで守らないといけない。

 でも、私には麦野みたいに超能力者じゃないし、暗部に生きた人間のほとんどに言えることだけど、攻めることは得意でも、守ることには向いていないわけよ。

 しかも麦野が『不戦の約定』をもってる『学生代表』からの誘いを断っちゃったおかげでさあ、そっちに媚を売るわけにはいかないし。

 そんな中で、強い反乱分子としてマークされてる<アイテム>なんてトコに所属してたら、ますます狙われるじゃない?

 だったら、切って当然よね」

 

 告白するフレンダを見る浜面の目は、張り裂けんばかりに見開かれていて、当惑を浮かばていた。

 その眼差しは言葉よりも雄弁に語っていた。

 『学生代表』討伐のためロシアへ連れて行かれた(フレメア)を助けてほしい、と。

 そう、ボロボロになり果てた体で精一杯に懇願したのは、全部、演技(ウソ)でもう用済みだからさようならと微笑みかけるこの人物は、一体、誰だ?

 

「……フレ、ンダ」

 

「結局、人って、幸せになるために、何でもしなくちゃいけないわけ。

 世の中が綺麗事だけで縛られてて、やっていい努力がわずかにだけに決められていたら、幸せじゃない人間はますます幸せを勝ち取れなくなっちゃうじゃない?

 だから、私は悪いことをしたなんてこれっぽっちも思ってない。私は神様から与えられた等しいチャンスを最大限に活用しただけ。

 結局、不幸ってのは連鎖するものだってわけよ。

 一度落ち始めると、なかなか抜け出せない。そこから抜け出すには、運とか人の助けとか、そういう他力本願なものだけじゃ到底足りない。落とし穴から抜け出すには、誰かを土台に踏みつけて、そして邪魔なものは重りになるから切り捨てて―――そうして、やっと出れる」

 

 この上ない距離を感じる。

 フレンダとの間には何も遮るものはないはずなのに……まるで鉄格子か金網越しに話しているかのような、そんな遠さを。

 浜面仕上は知らない。

 フレンダ=セイヴェルンがなぜ暗部にいるのか。その要因となった出来事(ハジマリ)を。

 だから、叫ぶように。己の無知をさらけ出すようになっても、伝えなければいけないことだと思ったから、

 

「なあフレンダ……。どうして……どうして俺たちに相談してくれなかったんだよ!?」

 

「はあ、相談?」

 

「そうだよ……! 俺たち<アイテム>は仲間だろ? 仲間ってのは何があっても無条件で味方になってくれる、家族同然の存在じゃないのかよ! ……俺たちに相談してくれれば、学園都市の闇が相手だろうと力になれてかもしれないだろ! 最初から、俺たちに全部頼ってくれれば、絶対にそんな裏切るような真似しなくても済んだじゃねーか!」

 

 怒りを覚えるよりも、フレンダの宣告が悲しかった。だから、言わずにはいられなかった。フレンダは<アイテム>を最大限に活用したと言い切った。浜面の前で。

 つまりそれは自分たちに、仲間に相談するよりも、裏切る方が効率的に活用できると断言したのと同じだからだ。

 

「なに新入りで下っ端の浜面のクセに説教? けど結局、麦野がいるから無理。裏切りは絶対に許さない。滝壺は、とにかく。絹旗も状況次第じゃ同情してくれるかもしれないけど。麦野は絶対に私を殺す。私のために死んでもらわないと困るってわけ」

 

 フレンダは浜面よりも付き合いが長く、そして、仲間のことを承知していた。溜まらず感情論になる浜面よりも冷静に。

 

「私は私の人生のためならどんな奴にだって尻尾振るし、使えないものは何だって切り捨てられた。結局、<アイテム>でさえ例外じゃなかったってわけ」

 

「……っ、フレンダ!!」

 

「滝壺は浜面のこと好きだし、絹旗も多分懐いてるし、麦野もなんとなく気に入ってるんだと思うけど……」

 

 話の途中。

 手品のようにスカートのお尻側から出現させた無骨な球体が落ちる、それをフレンダは踵で弾いて足の甲に回し、爪先から床に転がったのを視界の端で見届けてから、作り笑顔をして不自然なく目を閉じた。―――真正面に視線を固定させていた浜面に全く悟らせない早業。

 コロコロと転がり浜面の足下に辿り着いた球体が───閃光を放ちながら破裂した。

 

「―――っ、うおっ!?!?」

 

 部屋の気味の悪い暗さに慣れていたせいでより。

 状況すら考慮に入れて、戦術を組む暗部の人間は、一気に迫ると同時に踵を叩いて爪先より仕掛け靴の刃を出す。

 

 ひゅん、と。

 

 寸前、光に驚いて後ろに転んだ相手の首元がこちらの狙いよりズレて、掠る。

 

「………………………え?」

 

 一瞬。

 浜面は何が起こったのか、よく分からなかった。

 いや、違う。

 脳が、目の前の事実を拒絶した。

 

「結局、私には、そこらの<スキルアウト>と変わらなかったってわけよ」

 

 フレンダが……自分に、攻撃をしたのだ。

 

「……なっ……!?」

 

 首を危うく切られたところだが、大した傷でもなく、痛みも感じなかった。それよりも……冷たく、寒い……頭を思い切り殴られたような衝撃があった。

 浜面を見据えるフレンダの視線。穏やかで、静かな、その表情を、浜面仕上は茫然と見つめていた。

 

(なんて、目ぇしてんだよ……っ!)

 

 穏やかではなく、穏やか過ぎる。

 静かではなく、静か過ぎる。

 この『ホスピタル』でさらに印象が強くなったせいで、そのことに思考回路が麻痺していた。

 

 連想するのは、底の見通せない古びた井戸。

 溜まった水は、穏やかに――濁り、静かに――腐る。

 その奥底に沈んでいる“それ”は隠されていた。

 

 ああ、ようやく気付く。

 浜面が感じていた違和感は、見当違いだった。

 理性があるように見えたフレンダの行いに“それ”を感じたから、違和感を覚えた。

 そうではなかったのだ。

 浜面が、勝手に穏やかだ静かだと思い込んでいただけで。

 フレンダは最初から最後まで、自分に忠実に考え、話し、行動していたのだ。

 己の奥底に潜む“それ”―――誰からの言葉も受け付けず、如何なる想いも届かない、そんな静謐な狂気に従って。

 

 

箱庭 上空

 

 

 ごうんごうんごうんごうんごうんごうん……という腹に響く低い音とともに地面が揺れる。

 

 学校の体育館ほどの広大な木の床―――しかし、これさえこの施設からすれば先端頭部にあたるほんの一部。

 

 全長30kmほどの巨体で、高度1500mもの大空を泳ぐ魚を連想させる、それがこの移動要塞<ホテルエアリアル>。

 

 そこに、合わせて数十億の信徒を抱える三大宗派に、欧州国連合の首領らが地上を俯瞰し、観戦している。

 

「荒れるな。これまでが穏やかであったとしか思えない惨劇の始まりだし」

 

「えっ!?」

 

 第二王女の言葉に、身の丈に合わない荘厳な衣装に身を包む、少年か少女の判別もまだできないような子供は思わず声を上げたが、両隣に付き従う内の片方、真っ赤な修道女の女性もそれに頷いている。

 見ればもう片方も、拘束衣を身に纏い、鋸や金槌などの拷問機具で身を固めている金髪の少女――サーシャ=クロイツェフが、夏以降に覚えるようになった震えを身体を抱くようにして抑えている。

 

「あらあ? サーシャちゃんってば、ぶるぶる震えちゃって。高いトコ苦手だったかしらん。でも、そう言う怖がりなトコはむしろラブリーよ♪」

 

 恐るべき猫撫で声に、鉄壁の顔面表情筋がピクッ、と震えたが、(一応は)直接の上司である相手で、またすぐ隣に自分らの主教がいて、他の宗派の代表も揃っている状況なため懇切丁寧な対応を心掛けて。

 かつ邪魔っけな前髪越しの眼光で、あまりふざけるなよ、とサインを送る。

 

「解答ですが、違います。ワシリーサは私の身体のことを知っているでしょう」

 

「ええ、知ってるわよぉ。だって私がじっくり開発したんだもの。あまりに悶えちゃうから、日頃からヘビーな拘束服を装着して自分で自分を縛っちゃってブゴォーッ!?」

 

 ゴン!! と対人拷問用の魔術効果が付与された金槌を居合抜きのように放ち、すくい上げるように顎にヒットさせ強制的に言封じ。

 セクハラ発言とはいえいくらなんでもキレ過ぎじゃないかと思われるが、相手は傷一つないどころか顔色一つ変えないのだ。

 確かな手ごたえはあったはずなのに。

 

「やーごめんごめん、そうよね、サーシャちゃんの特殊(アブノーマル)な性癖を暴露する気はなかったんだけど。大事な部下の個人情報は守らないといけないわよねー」

 

「質問ですが、だったらちょっとは空気を読めよパワハラ上司。そんなんだとロシア成教が変態の巣窟だと勘違いされるでしょうが。お願いですから、少しは上司らしくしてください。付け加えて解説しますけど、そもそもこの拘束服は貴様が書類契約して逆らえない私に職権乱用させて強引に着せたもののはずです」

 

 皆さん誤解しないでください。組織の恥部はあくまでこのワシリーサとかいうクソ野郎だけですから、とできることなら言いたい。英国の第二王女に控えている紳士服に身を包んだ男――騎士団長(ナイトリーダー)が気の毒そうに同情見溢れた視線を向けてる。

 だが。

 ワシリーサ。

 シンデレラに似た、あるロシア民謡におけるヒロインから取った偽名を自分に付ける、この見た目年齢二十代後半ギリギリの実際年齢不詳の女性。

 ロシア成教『怪物狩り』の特殊部隊<殲滅白書(Annihilatus)>の統率役である彼女は、確実にサーシャよりも、<殲滅白書>の誰よりも上位だと言える最強の実力と古参の経験を持った人材であることは間違いない。

 代行者訪問の際の混乱に乗じて、『右方のフィアンマ』と通じていたニコライ=トルストイ司教から組織のトップを救いだしたのはワシリーサで、この拒絶反応にも似た魔力の異常感知体質を狙ってサーシャを攫いに来た刺客を追い払ったのもまた彼女だ。

 ニコライ司教の造反で二つに割れて組織力の下がったロシア成教だが、正教の教皇と清教の主教とも通じている実力者(ワシリーサ)が擁護して盛り立てているからこそ、この経験不足のまだ幼い少年――ロシア成教<総大主教>は今この場に参加できるのだ。

 

「ま、そうねぇ。……これまでが“受け身で”事態の安定を維持していた彼女が、サーシャちゃんみたいにぎっちぎちに縛っていた羊の皮を脱ぎ捨てたということがどういうものか。ある程度は予想がつくでしょうね」

 

 ロシアには来なかったけど、出身地の日本や同じユーラシア大陸のアジアで三度も猛威を振るった人化した怪物――『金毛白面九尾』の事例もある。

 それは怪獣というより、天変地異じみた現象の類だろう。

 東洋に伝わる化生、九尾の狐は、平穏な世の中を迎える吉兆であり、幸福をもたらす象徴、天上より遣わされし瑞獣としての半面を持ち、普段は絶世の容貌と国一番の智能をもった美女賢女に化けているが―――その化けの皮を剥がされれば、怪物としての本性を現し、国を滅ぼさんほどの暴威を振るう災厄。

 

 今や、ローマ正教や学園都市と同じく、『神上』を手にした『右方のフィアンマ』、そして『上条詩歌』の分身体は個人で一勢力に値する存在。

 

 これらを、二虎競食の計で潰し合うのがこの盤上のこちらに望ましい展開だ。

 

 そして、イギリスおよび第三勢力からすれば、“首輪を付けている虎”に是非とも勝ってもらいたいものだ。

 『学生代表』という一勢力の代表を、英国の内乱で失したなどと国家の今後に関わる不名誉を避けたいからこそ、高みの見物に甘んじるが、暴走して討伐した方が“箔”がつくだろう。

 それに、もうこれは今後のために最大限利用する出来レースなのだから、

 

「この先、誰が勝者となろうが、我々が彼女に対して特異な術式を打ち込んだ以上、最後は定まっている」

 

 対神上術式。

 異能の力が剣の形をしていたり、銃弾の形をしていれば、それは通じない。物理的に破壊しようにも魔導書としての機能が異能である限りそれを血肉と変えて補うからだ。

 だが心を覗かれたり、感情を高ぶらせる―――そして、恩恵を受けやすい性質には、呪いが特に掛かりやすい。

 媒介のない故に触れず、そしてそれ自体が毒だとすれば、対処は困難を極める。

 そう、呪いだ。

 これは神を堕とす

 <御使堕し(エンゼルフォール)>により大天使を宿したサーシャ=クロイツェフが属するロシア成教が得意とするのは、『怪物殺し』。

 

 かつて、十字教は、他宗派異教の神々を取り込んでいく天使たちの人気が主さえ脅かすほど高まり、民間で白熱しすぎた天使信仰を危惧した当時の教皇が、三大天使を除いて、天使名の資格を剥奪し、堕天させたことがある。

 

 異なる神秘や異なる伝承を自己流の折り合いをつけ、異教の神々を十字教の天使として取り込んだ上で、“あまりにも、神よりも強くなりすぎた”という罰の下、その名を奪い禁ずる。

 

 自分らの法則に適応させて裁いて、他の二宗派の協力の下にかけた縛りはその価値存在を喪失させる<禁呪>か。

 

「私個人的には助かったけれど、少女一人にロシア成教一派閥が返り討ちにされたなんて、不名誉は早々に返上しないと今後に差し支えるしねぇ」

 

「世界を運営する者として、舐められるわけにはいきません」

 

 ロシア成教の総大主教の少年が重たい口調でいう。

 

「すでに、かの代行者には、ロシア成教が総力を掛けて準備した術式<七つの大罪>の『色欲』が楔となるよう打ち込まれています」

 

 数ある<仙人>の逸話の中にその秘めた力を失ってしまう<仙人>の話もある。

 大地に恵みの雨を降らす竜王を、己の都合で洞窟に閉じ込め国中を困窮させた一角仙人は、旋陀夫人という美妃の『色欲』に溺れて、神通力を喪失した。

 これはそれと同じ、『色欲』から始まる破滅。

 

 一番軽いとされる『色欲』から始まり、残りの七つの大罪、後者ほど重い――『暴食』、『強欲』、『怠惰』、『憤怒』、『嫉妬』、『傲慢』を始めれば、『神上』さえ罪のひとつに応じてその力を七分の一ずつ削ぎ落とす

 ―――そして、七つ揃えば、存在を保てず、己の名さえ忘れる、すべてを失われる。

 

「我々が築き上げてきた技法も、そして世界の力をも喰らう性質。

 ―――それはなんという『暴食』だ。

 

 世界の戦争を阻めるほどの力を我がものにしたいという欲求。

 ―――それはなんという『強欲』だ。

 

 科学というひとつの世界を負った代表の役目を放棄している現状。

 ―――それはなんという『怠惰』だ。

 

 自己の目的のために、世界さえ勝手に変えてしまおうとする行為。

 ―――それはなんという『憤怒』だ。

 

 組織が担うべき世界の運営に、個人で手を出すという思考。

 ―――それはなんという『嫉妬』だ。

 

援助を拒み、独力で世界を相手できるという計算。

 ―――それはなんという『傲慢』だ」

 

 手綱がしっかりと縛られているかを確認するように、再度、術句を唱える総大主教。

 最初で最後の『色欲』こそはまだ明確に定義付けはしていないが、すでにこちらはその身に余る総力の6/7を第三勢力は握っている。

 

「―――彼女は羊皮を破り、その獣の本性を露わにした」

 

 人はもちろん完全ではない。そしてその不完全な人間が作ったのだから、法律(ルール)も完全ではない。

 だけど、人類が生きてきた歴史の中で、愛する者、かけがえのないものを守ろうとしてきた思いの結晶が法。

 そして、その法を曇りなく輝かせるためにいるのが、我々だ。これからのためにも、背負える荷物は少なくしなければならない。

 

 故に、背負ってもらう大罪は、<七つの大罪>というシステム上のものだけではない。

 戦争とは実際に武力行使をすれば、双方の不興を買うことは言うまでもないが、第三勢力は加勢していない。

 無論、戦争の引き金を引いたローマ正教、それに賛同したロシア成教、クーデターを起こしたイギリス清教によってもたらされた被害はけして軽んじられるものではない。大小関わらずそうした被害を数えていくならば、何日も何日もそれも丸一日筆記し続けても足りないだろう。

 だから、責任を軽減させるための材料にする。『右方のフィアンマ』と同じく、それが世界大戦を生んだ『火種』であると主張して。主張せねばならない。

 

 

「この世界に大乱を招いた悪として、我々の手で―――殲滅します」

 

 

 と、幼き総大主教は、我知らず、奥歯を噛み締めていた。

 そうでなければ、幼き少年は畏怖の声を漏らしてしまいそうだった。

 激しく渦巻く水面より、静かにたゆたう淵の方こそ底が深いことを、凡庸の目は見抜けず、超人の心胆でなければ腰を引かす。

 

「………」

 

 彼の目に、騎士団長とは左右反対側に第二王女の斜め後ろに侍る、イギリス清教の代表(アークビショップ)代理である東洋の女教皇は、堰を決壊させる寸前のダムと映った。雨水が上から下へと流れていく自然の定理を無理やりに逆らって堰き止められているその我慢の限度が来つつあると見ただけで兆候を覚えた。

 それは溜まりにたまった鬱憤を瀑布氾濫の覇気と変えて、存分に化外の力を振るうだろうか。

 誰かが嵐を呼び、雨を降らすのならば、それをきっかけに。

 だから、裡を必死にこらえる極東の<聖人>ではなく、第二王女が口を開く。

 

「その言葉を借りるなら。終わるまで羊の皮を被っていたかったことであろうがな。あやつは」

 

 危険を回避できた機会を二度も逃すのは、馬鹿としか言いようがない。

 世間でどう思われているかは知らないが、あれは自らことを仕掛けるようなタイプではない。量体栽衣、と不慮の損害を被っても、傷口を最小限に留めるように努めてきただろう。

 ジャンケンにおいて後出ししかできない、チェスにおいて後手番しか選べない。反撃することが基本方針だということ。

 しかしそれは相手の出方次第、つまり、先行権を放棄している、ことでもある。

 ただ、彼女の場合は、相手からまだなにも『攻撃』をしていない段階から、『反撃』に打って出るようになるほど速く、だからここまで通じてきた。

 それは先手を打っているようなものだろう、と思われるだろうが、実際は何かをされないと、何もすることができない。敵意を向けない限りは、何もしてこないのだ。

 アクションではなく、リアクションのタイプ。カウンターパンチャーと言ってもいいだろう。

 

 ご破算となったが会談の準備を整えていたのに、イギリスの最後の局面において、問答無用の不意打ちを――暗殺の呪毒まで用いた――仕掛けたローマ正教。

 自分達から多くの支持を得た代表であった者に対し――弁明の機会を一切与えずに――援助もせずに滅多打ちを仕掛けた学園都市。

 

 そして、この大戦(ゲーム)には、“本来、戦闘の必要がない”。宝探しであって、殺傷や破壊活動は禁じてまでいる。

 

 まずは受け止める彼女に対して、最初の機会に対話ではなく暴力を振りかざし、対応された後に不条理だと暴論を喚き散らし、そして己が行いについては言及しない。

 

 武力行使という安価な先手を打ったことを、短絡浅慮だと思わなくもない、『軍事』を司る者としてそれもまた交渉の一環だとも考えているが、野蛮人となりたくないならば、せめて自覚はすべきだろう。

 

(だが、これも結局、自業自得だの。同情はせん。力で徹底的に抑えつけてなかったからこうなったのだ)

 

 キャーリサは、性悪説の人間である。教育を施されない人間が万物の破壊を楽しむのは、自我の芽生えていない赤子を見ることでわかると思っている。悪だの善だのの概念がない人間の行動が本能を示している。モラルは教育ありきの概念で、破壊は元々悪ではないのだ。

 本能から発生する破壊衝動を抑えるのは、そうしてはいけないという共通ルールがあるためだ。

 ルールが存在すれば、往々罰則も敷かれるだろう。例えば人体の破壊を成せば、応じて懲役、罰金、あるいは死刑を強制される。

 

 では───ルールも罰則も無視して完全な破壊を成せる手段を得た人間はどうするだろう。

 

 倫理教育をしかと受けた人間ならば、それでもこれまでの道徳感に従い続けるだろう。人を殺すのは、理由がどうあれ悪いことだ。人の権利を侵害する最たる死は忌避すべき行為。どんな力を持っていようと、殺さないと決めてるから殺さない。そういう人間は多いとは思う。

 

 キャーリサは違う。殺したいと思い、理が通れば殺すだろう。見境なく殺すのではない。殺した方が良いと思えば殺す。生きているだけで自分にとって害悪となる存在であれば容赦はしない。罰則だのルールだのが適用されない世界なら、間違いなくそうするだろう。そうすべきだ。無論、そういう人間は自分だけでない。意味を求めて破壊を成す。それは悪ではないとキャーリサは考える。

 

 では、このような利己破壊者は、快楽破壊を求める者とどう違うだろう。自分は、快楽を求めて壊す者を壊すだろう。それが気に食わないから快楽破壊者は利己破壊者を壊すはずだ。そしてまた、利己破壊者は快楽破壊者を壊すのだ。末路には───人はそれを戦争と呼ぶだろう。

 キャーリサのような破壊者は、破壊に快楽という意味を見出した者と変わらない。個々の理などそれぞれ違う。自分の害悪になる人間など、どこにでもある。生きとし生ける人々が『殺したいモノ』を確実に殺せるとしたら、世界の半分が消えるだろう。

 そして誠に遺憾であるが、キャーリサの見ている世界には、そういう人間が溢れかえっている。

 

 ……まあ、あの腹黒は、性善説を支持しながらも、性悪説にも賛同してる。

 

『どちらの『見方』も正しく、したがって立場によって自身を律するために両方を良く学習して実践すべし。

 幼いころは性善説を学んで悪習悪徳の不利益を知り、大人になったら性悪説を学んで善幸功徳の施し方を知るのがいいんじゃないですか。

 もっと噛み砕くと、

 子供のうちは悪いことをすれば怒られるのだから正直に生きることを学び、大人は善行を模範として行い生活していけば皆が気分良く暮らすことができる―――という感じでしょうか』

 

 と、ふざけたことを言っていたが。

 

 今、上に立つ者からはよく見える。

 この十戒が敷かれた箱庭の中でさえ、その己が欲望という杯の乾きを潤すために、他者の血涙という名の酒を満たそうとし、大きく口を開けて喉を鳴らしている。

 

(青臭い愚か者に尚その血に塗れた道を選ばせたのは、誰なのだろうな)

 

 これから一番の罪人が、誰なのかが明白だとしても、屍山血河を望んだのは彼ら自身であり、彼女はその頂に立つことを選んだのだと。

 

 

雪原

 

 

 原毒となる知識の記された羊皮紙(ひつじ)装衣(かわ)―――それが外に漏れないよう内に隠し包む肉体の変生変化。

 

 

 模倣から始まるのは、技術だけではない。

 生命さえ、突き詰めれば前の世代からの投影なのだ。

 

 テセウスの船、という話。

 一艘の船があったとして、破損した箇所を修理していくとする。

 一枚一枚、舟板を取り替えて、舵を取り替えて、船首を取り替えて………

 そんな風に、修繕に修繕を繰り返した末に、すべての部品が入れ替わってしまったとき、それは同じ船と言ってもいいのかどうかを問う思考実験だ。

 

 名前はもちろん変わっておらず、前と同じ。

 だが、元の部品がひとつも残っていないなら―――すべてとは言わずとも、ほとんど変わってしまったなら、それは同じ船とは言えない人もいるだろう。

 形骸化した、有名無実の船であると。

 そう、東洋の『六道』でいう転生を一周するほどであったなら、もう―――

 

「近代西洋魔術は旧い自分を殺して新しい自分に生まれ変わらせようと言うもの。

 この思想の礎を設定したクロウリーの<トート=タロット>に、ひとつの時代として『神の子』の死の象徴が対応する大アルカナの『吊られた男(ハングドマン)』。

 北欧神話の主神が世界樹に吊り下がるのをモチーフにされたものだそうですが、それを意図的に強調するよう意味を抽出すれば、『完全に己を殺した時』が更なる高みへと進む通過儀礼だとも導かれる」

 

 纏っていた気配が変わった。姿も声音も何一つ変わらないのに、もっと決定的な何かが変わっていた。

 以前に見えた本物に比較すれば、清楚は妖艶に裏返り、無垢は淫蕩へと反転している。

 ことりと首を傾げる仕草一つで、如何なる男でも―――いや女の心でも奪ってしまうだろうその圧倒的な気配いや女の心でも奪ってしまうだろうその圧倒的な気配。

 

 顔の造作は何一つ変わらないというのに、少女の面は聖人たちの身を濡らした贖罪の血よりなおアカい、薔薇色の唇から紡がれる嫣然とした響きに震わされれば、如何なる君子も女を得るために理性をかなぐり捨てるだろう。

 朱い唇を手の甲で覆って、微かな声を夜気に偲ばせながら、向けられたその瞳が含んだあだの、何と凄まじい事か。

 脳のすみずみまでを、炯々と双眸に灯る妖しげに揺れて誘い火の如き光が侵略するのは一瞬のこと。

 

「―――」

 

 言葉はない。

 ただ見るだけでよく、ただ感じるだけでよかった。

 自分という存在の全てが、その存在に吸い込まれてしまったかのようだった。

 

 傾国の美姫という。世の賢王を堕落さえ、一国を傾けるほどの美女のことだ。しかし、この幻女が相手ならば、どのような王も没落を喜びこそすれ、一片の悔いも抱かずに逝くだろう。

 例え得られるのが、その甘い吐息ひとつ、憂いの瞳の一瞥であろうとも、命を差し出す者は引きも切るまい。

 

 『箱庭』に私が一人いるだけで良い、とそれはいった。

 

 この姿を見て、この声を聞いて、この匂いを知って、この力を感じて―――そこまでして、私を求めずにいられる人間なんて、いないでしょう?

 

 その通りに。

 

 そして、引き寄せるは人だけに非ず。

 翼のないのにその背中に負う何かがある。その後方、遥か天空まで広がる、広大な空間。そこに巨大な何かがある。ただし、『巨大』とはあくまで比喩的な意味であり、観測ができてはいない漠然とした気配。

 至る所に偏在して、もはや世界を構成する一要素として溶け込んでおり、空間という概念を調節してその背後に控える。

 個として存在すると同時に、無数の存在の集合でもあるという『数』で括ることができないのならば、人間の認識では正確に捉えることのできないのもなるほどといえる。

 言うなれば、100年に一度だけ結ぶその実のみを瑞鳥は食物とするともいわれる竹の林。

 地下茎を大地に這わせ、随所から地上に茎を伸ばして広大な林を形成していく。単独種からなる群落。林そのものが一個体といえる。だけど人には地中の根がどのようにして生えているか見えないから一本一本の竹に見える。

 

 それらが“邪魔な重し”が取り除かれて地表に顔を出しつつあるのだ。

 

 

「かの『神の子』は、跪いた<罪深い女(The Sinner)>に憑いた七体の悪霊を祓った。

 その悪霊は、過去のローマ教皇に『七つの大罪』を示すものだとも言われています」

 

 

 <罪深い女>。

 それは『神の子』の殉死と復活に関わる『マグダラのマリア』を表す名のひとつ。

 食卓に着いた『神の子』の足元に駆け寄り、足についた汚れをその涙で濡らして、自らの髪で拭う。そして、腕に抱えた壺より香油を塗った。

 『神の子』に香油を塗る行為は、『神の子』が油を注がれし者――この者こそ救世主(メシア)であると祝福するということである。

 

 そして、ここに我こそがこの歪な世界の歯車を正す救世主と名乗る者がいて、その身に六度も受けた『神の子』の救済により、その身に六重に取り付いていた(戒めていた)『七つの悪霊』――『七つの大罪』が祓われた。

 

 

デモン(Demon)

 ―――本来は仏教用語である悪魔は、西洋のデモンに対応する語がなかったため、そのような単語が後からあてはめられたというのに過ぎないものだけれど。

 科学における情報社会の暗喩、その意味は、『ある特定の条件が満たされれば、自動的に起動し働きだすプログラムの手続き』のことを言います」

 

 

 例えば、『プログラムにバグなどの異常が発生した時』→『その異常を所有者に報告し、所定の場所に情報を蓄積し、強制停止させる』というような。

 

 <七つの大罪>の枷が『右手』によって除かれた今、競合していた己が刻んだ第七の虚数『色欲』から<邪悪の樹>の十の虚数が、より深く根を張り付いた。

 

 

「つまり、あなたの『右手』は、審判として縛られていた神代の悪魔を祓い―――新代の悪魔を起こしてくれました」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

(反転、ではなく、回帰。まだ存在が確定する(殺される)以前に戻った……だとするなら、もはや『上条詩歌』とは別物だ……)

 

 幼き聖母が赤い翼を生やして描かれる絵画伝承はあるが、通常、半人半獣は、十字教の悪魔のモデルだ。

 あの世界最高であり、最悪の魔術師だった『人間』も<魔法名>に『黙示録の獣(Beast 666)』を名乗っていたなど、獣とは十字教の人間に忌嫌われる姿。

 だが、あれが生粋の悪魔憑きだとしても、この『右手』は理想的な悪魔払い。

 一瞬、身体から切断されたとも思ったが、『第三の腕』は、ある。

 傷痕などどこにも残っておらず、既に記憶さえも忘れかけている。

 夢だったように。ノックダウンした直前の記憶は現実味があまりにないように。―――いや、あれは現実と錯覚してしまうほど強烈な幻想だったのだ。

 でなければ―――この“喪失感”の説明が―――

 

「ああ、そうだ。どちらにしろ蘇ってきたならまた潰せばいい―――また、奪えばいい。世界に災厄をもたらす悪魔は俺様が滅さなければならない存在()なのだからな」

 

 両者の眼光が、中空で衝突し、火花を散らす。

 あたかも、舞台の最終幕のような、奇妙な静謐さがあたりに満ちる。

 もし、誰かが今、いや今この場を俯瞰するとしたら、ここが、何の障害物もない大地が、個人にて一勢力と同価値の者同士がぶつかり合う、すなわち一大決戦の戦争に等しき戦場だとはとても信じられないに違いない。

 だが、そんな静寂は瞬時のこと。

 

 たちまち、世界は、宙天に二つの太陽がある矛盾を正すために相手を落陽させん、修羅の空気を取り戻す。

 

 『第三の腕』から放たれる一撃。

 込められた力は地を砕き、振るわれる一閃は空を薙ぐ。

 人と物を問わず、形ある物は砕かれぬはずはないのだと、天地人、その全てに己が業を謳い上げるかのようであった。

 この天上天下に敵うモノなど存在しえない力に対し、

 その変生変化したケモノが羽翼を生やす腕を振るい、

 

「―――」

 

 耳が焼け焦げるような衝撃音。聖者の手と怪物の爪がぶつかり合い、

 両者の狭間にある宙空を歪ます。その衝突は時間の断層、空間の断絶にさえ干渉し、時空の法則である相対性理論とともに『右手が災厄を掃う』と言う予定調和が今ここに崩される。

 

「何だと……?」

 

 互いの手には重い衝撃が跳ね返り、耳に軋むような不快な音響が木霊し。連続する。『右手』は降すべき、砕くべき障害難敵と認識。フィアンマが意識するより速く自動的に出力を始めている。それにケモノは真っ向から受け答えて―――互いが互いに超越せんとするため、緩まる気配はなく、むしろ激しく加速する一方だ。

 

 攻撃も。

 防御も。

 入り混じって―――交錯し、錯綜する。

 歪んだ不協和音が―――空気を裂く。

 

「ありえん」

 

 <聖なる右>。

 そこに系統だった術理はない。あるのは、特別なモノへと至るための研鑽を重ねて、昇華した術法ではなく、ただ生まれもった特別なる力を揮い、幾多の障害を打ち破ることを宿命づけられた業であった。

 故に、『右方のフィアンマ』はこれまで本当の意味で“戦ったことはない”。

 勝負になった事がないからだ。

 あえて技巧を凝らす必要などどこにもない。この右手を振るえば、それだけで“勝つ”のだから。

 これまで、フィアンマが超えてきた全ての者たちがそうであった。

 しかし。

 眼前の相手は、フィアンマが繰り出す全ての攻撃をことごとく凌いでいる。

 それは受け流し、力を逸らすのではなく。

 真っ向から打ち合い、斬り結び、弾き飛ばす。

 その一連の動きは、ついに視認できなくなり、他の術を出して牽制する余裕もなくなる。

 なにせ。

 この星の破壊を目的としての打撃があったわけではない、ただの、波紋としての現象なのだが。

 移動の際に地に足を踏みしめるその予備動作だけでも、地盤は鉄槌を幾度も叩きつけたように陥没、また地割れを起こし。

 そして、余波として生じた凄まじい風圧が嵐の如く粉塵を巻き上げ、その衝撃がすべてを物語る。

 

 大地が抉れ。

 地形を変え。

 気象を崩し。

 

 天の祝福をも地に堕とす。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」

 

 いつのまにか自分が吼えていたことに、フィアンマはようやく気付いた。

 相手は沈黙し、絶叫するのは己の方。

 さらに強く速く『第三の腕』を振るう、振るおうとする―――その矛盾を。

 振れば当たり。

 当れば終わる。

 だというのに。

 速度も威力も不要な、万能である力であるはずなのに。

 フィアンマは安直な腕力に頼っている。その右手に宿っている『本質』は健在だというのに。

 崩せない。

 この矛盾が示すのは―――限界か。

 

 それを意識した途端、様々な儀式や核を組み込み、特別な血肉を手に入れ、完成に近付いていたフィアンマの腕が、急速に衰えていくように細くなっているように見えてくる。

 

「そうか。俺様の『右手』を投影したのだったな」

 

 納得できる理由をあえて、口にして述べる。

 以前もそれで僅かばかり拮抗させた実例がある、ならば、打ち合えるのもわからないでもない。―――のに、不安が、過る。

 

 偶像という幻想から生み出された灰毒で、その力を拘束した。

 

 しかしその程度のものだろうか?

 俺様がこの力を完成させるために欲したのは、その程度で手に入れられたものだったのか。

 

 たかがニセモノの死を用いた呪詛程度で弱体されてしまうようなものを―――『世界そのもの』などと見てもいいのだろうか。

 本当はあんなものじゃないのだろうか。

 『右方のフィアンマ』と互角に渡り合った――あれどころではない。

 放置していれば英国大陸を地図から消していたとも思われる圧倒的な力すら、アレにとっては、あらかじめ制限のかかっているようなものなのではないか。

 己を抑圧するなど、フィアンマにはとても理解できない。同情などできようもない。だが、聖堂の奥から出たときの解放は、覚えている。

 今、この時、審判役から解放されたという宣告を理解する。

 このままでは聖者も、聖者が救おうとした世界をも、壊される―――!!

 

「う―――おおおおおおおおおお!!!!!!」

 

 今こそ己が救世を果たす時!

 フィアンマが過った不安を払拭せんと―――力の限り咆哮した。

 そして、加速だけに留まらず乱打戦はさらに加熱する。

 一撃で決めようなんて気はまるでない、とにかくまずは相手を捉えようというだけの、連撃による乱打戦―――

 防御のことなどまるで考えもせず。

 一心不乱に。

 乱打戦―――

 否、泥仕合のように、互いの手数が積み重なる。

 

 そして、こういう展開になれば、有利は決まっている。

 

 

 

 常人には及びもつかない高等なレベルで繰り広げられる乱打戦が故に、一撃一撃など、いちいち追っていられないが、しかし。それでもしっかりと目を凝らして見ればそれは瞭然。

 少し考えれば当たり前だ。

 上から見下ろすのではない、同じ土俵でやり合った経験は、両者、天と地も違う。

 

 『絶対勝利』

 

 だが、と思考する。

 

 ただそれだけだ、と。

 

 造作もないことであった。フィアンマの構成は確かに絶対的であったんだろう。だが、いくら不条理であろうともその一撃、その一閃が次手へと繋がっていないのである。

 両者の力量が隔たっているならば知らず、そうでない相手に、攻撃の組み立てを考えずに挑めないで、どうして勝利を得ることができるのだろう。ただ力任せに己の力を振り回すなど、子供でもできるのだ。

 そして、ソレは戦闘中にさえ徐々にコツをつかんでいく怪物だ。

 

「ふざけるな!! それは俺様が振るってこそ、真価を発揮すべきものだ!! 物真似如きに敵う道理はない!!」

 

 たとえ同じ能力だとしても、慣れているこちらが勝つ。

 ―――そう考えているなら、仕掛けのひとつにかかってる。

 相手に合わせただけ、こちらの方が使い慣れている、それは正しい。

 決定的な錯覚を二つ起こさせるための仕掛け、慣れているのは確かにフィアンマだが上手く扱えるのは本来の持ち主とは限らない。

 

「―――理解しました」

 

 手を払い、長く鋭く伸びた鉤爪にまとわりついた返り血をびゅっ、と払い、振り落とす。

 

 細く尖ったその爪は血を落としても、血濡られた。

 

 緋い、紅い、朱い、アカい。

 

 そして聖者の『右手』と打ち合っても砕けぬほど硬く、そして聖者の肉体を力を込めなくても易々と刺し貫く。鎌のような形状の鳥獣の爪。

 

 

「―――<神の如き者(ミカエル)>形式付与<爪紅(ツマクレナイ)>」

 

 

 瞬間、合わさった赤羽根から変じた蕾がその閉じた花弁を開かせ、実を膨れ上がった。極小の天が、壺のような蕾の前面に展開。空間と時間を再構築した、小さな宇宙卵。

 

 <聖なる右>。あらゆる難事からも救世するその世界の自浄作用とも言える力は、“世界そのもの”を破壊することはない。

 

「『爪紅』―――その意味は、鳳仙花(ホウセンカ)。その花の名の由来は、『鳳凰』と『仙人』の二語が合わさった合成語。

 東洋には、花の形が空想上の鳥である鳳凰の羽ばたく姿を昔の人々はそう連想し、仙人がその種子を人々に与えたという伝承がある」

 

 『昔、仙境――山奥で道に迷った若者、空腹のために倒れてしまった。そこへ鳳仙という名の仙人が現れて、衣服の袖から壺を取り出し、その壺の中から釣り上げた魚を若者にふるまった。鳳仙は、その仙法に驚く若者を更に、壺の中に誘う。

 若者が壺の中に入って見たのは、広い田畑や屋敷が建ち並んでいた、ひとつの世界。そうしてこの壺中天にある鳳仙の屋敷で若者はもてなしを受け、故郷へ帰る前に土産としてその美しい羽根のような花が咲き、壺型の実を付ける種をもらった。

 それが、鳳仙花。

 

「ぐ、うぅぅっ……!!」

 

 絶対勝利する右手が世界を食い破ろうとする。ただ振るえば終わる絶対の威力で世界を燃焼させ、蒸発させ、蹂躙する。

 だが、しかし。

 

「―――“私を殺せなかった”ように、あなたがコレを壊すことはできません」

 

 絶句する。無敵とも思えた右手の光は、赤羽根の花吹雪に、完全に阻まれていた。

 神の如き天使長の属性を極め、『神の子』としての救世を十全に発揮したならば、この世のあらゆる難事に勝るだろう。

 それが、光を掲げた堕天使、地獄の魔王さえも、何もかも。

 しかし、神を殺せようが、世界は殺せない。神がいなくなろうが、世界は変わらず運営される。天は神が滅びようが依然として広がり、その空を鳥はその翼で飛び続ける。

 『世界を壊せば、世界を救うことができない』という矛盾(エラー)に、フィアンマは封じざるを得ない。

 

「また西洋の伝承にも鳳仙花は伝えられている」

 

 それは、ギリシアの神話だ。

 オリンポスの宮殿で開かれていた宴会で、来訪した神々へと贈るために用意した金のリンゴがひとつなくなってしまった。

 そして給仕をしていた女神の1人に疑いがかかり、その女神は天国を追放されてしまった。

 だが、それは無実の罪であった。とある意地の悪い神の悪戯だったが、誰もそのことに気づかず、その後に追放されてしまった女神が、汚名を晴らそうと、各地と駆け巡って無実を訴えたが、結局、目的を果たすことが出来ないままに疲れ果て、哀れな最期を遂げ、

 死後になっても無実を訴え続けようと、鳳仙花になったという。

 鳳仙花が触れたら果実を見せるように開くのは、その女神が『自分は無実だ』と訴えるからなのだと。

 故に、それはひとつの意味を持った―――

 

「……受けても構いませんが」

 

 受けようとすれば、大天使の羽根をもいで突き落とされる。

 

 結果が見えた憐憫と共に洩らした、呟き。

 視界全面を覆い封じる紅吹雪に紛れながらも隠れることなく、真正面からの、取り分けて鋭くも無い、下からの薙ぎ払い。

 爪先を合わせる様に打ち返さんとする『右手』、お互いの力が打ち合う衝撃に備え、無意識にフィアンマの肩に力がこもる、それは経験から来る無意識の身体反射。

 その目の前で起こった事に、フィアンマが驚愕の表情で反射的に後退した。

 

 ―――透り抜けた?

 

 『右手』から伝わるのは今までにない手応えだった。

 手応えが、吸い込まれる手応え。

 同じ場所にいるはずなのに位置が――位相がズレてるという、世界の理から外れた超常。

 

 後退した分の距離は、それを読んでいた香椎の前進で完全に潰され離れず、空を切り裂く鋭い音と共に突き出された紅の爪、そしてそこから伸びた閃光を身を捻って避ける。

 しかし、まるで生き物のようにアカい閃光は止まらず、フィアンマの動きを追って流れるようにそのまま乱舞が続く。

 

「『爪紅(ホウセンカ)』。その付けられた花言葉(意味)は、『私に触るな』」

 

 フィアンマの言うとおりに、力の押し合いになったら相討ちの可能性が高いのならば。最悪、押し負ける可能性がある、勝つために、競らず、真正面から不意を撃っただけ。

 透り抜ける力ではなく、透り抜ける技を使っていた。

 <聖なる右>という『神の子』の奇蹟の一端を、最小の意味記号へと分解・適応・混合成して、可能性を引き出した。

 

「無実でありながら、原罪を負った『神の子』。その霊体が墓の前に現れた際に、自身の姿を見て駆け寄ろうとする『マグラダのマリア』に言います。

 『私に触るな』、と。

 『何故ならば、私はまだ、私の父であり我らの主の下へ昇っていないのだから』。

 そして、弟子へ『『神の子』は、主の下へ昇っていった』とお伝えなさい。そう、復活を予告する伝言を残した一場面の伝承ですが、それを部分的に曲解して『爪紅(これ)』に適応させれば、このような芸当もできました」

 

「この―――!」

 

 暴風の様なフィアンマの攻撃に比べれば、涼風のような静かな攻撃―――しかし冷や汗をかかされるのはこちらの方。

 腕を振るうにも赤羽根の花吹雪に制限され、咄嗟に『右手』で受けようと反応するフィアンマが、背筋に走る得体の知れなさに恐怖して地を蹴って距離を取りざま『右手』を振り下ろす。

 文字通り力任せの、『勝つと確信して放った』今までの攻撃とは違い、踏み込ませない為だけのうろたえた荒い牽制。

 

 それは読み切られている。

 

「そして、私が取り込んだのは<神の如き者>だけではない」

 

 その『右手』に掌を添わせる様に合わせて、振り抜く『爪紅』が掴み取っていた。

 振り下ろした『右手』の、その指先。掌で、包み受けていたのである。

 

「優先する」

 

 それは、『神の子』を人の手で十字架にかけたという“本来ならありえざる”事象を研究した『左方』の成果。『優先順位』を変更する秘儀―――光の処刑。

 

「『聖母』を上位に」

 

 『神の子』の偶像崇拝を禁じる十字教が、聖母(マリア)像を認めざるを得なかった。理念的な、また芸術的な美を併せ持つからこそ、『神の子』よりも熱心に人の心を掴んだその信仰。『後方』がその身に宿していた―――聖母崇拝。

 

「『神の子』を下位に」

 

 ぎり、と空気が硬くなる。

 その体表に触れた空気は奔騰し、その身体の内にある内燃機関が駆動し始めたことをフィアンマは理解した。身体中の産毛が総毛立つのに気付かず、見る。

 思わず目を向ければ、迎えるのは今や理性に獣性が絶妙に混じり合った瞳。そして、聖者を上回る力。

 

 正当な十字教ではない、他宗派では、最上位とされる<神の如き者>より、<神の力>が格上だと見る者もある。

 従来の法則を免除される<聖母崇拝>に、格の上下関係を崩す<光の処刑>で、『右方』の<聖なる右>を弱体化させて、力でさえも上回ろうとする。

 しかし、だ。

 三大天使―――<神の如き者(ミカエル)>、<神の力(ガブリエル)>、<神の薬(ラファエル)>、ひとつでも人の身には大きくあまる神格を三つ全てを自在に振るうか!

 

「お、の―――」

 

 荒れ狂う閃光を鎮めたのは、舞い踊る旋風であった。

 

 鳳仙花の翼は、飛燕のように飛び回り、聖者をその軌跡に羽根が囲い舞う。

 繰り出される爪は迅く、鋭利に。そして、限りなく透き通っていた―――

 暴虐の光輝は、激しく精細に編まれた閃の中で力を失うしなかった。

 

 

???

 

 

 優勢だった。

 あの『右方のフィアンマ』を、優越していた。

 

「……なんで? 前は――前に戦ったときは、競り負けたと聞いてたんですが」

 

 あの両者の戦闘は、規模が違う。遠く街外れであっても、簡単な遠見の魔術ですぐに彼女を見つけ、経過を見ることができる。

 その決着が、今後の流れを大きく決定づけることになる以上、双方一旦こちらと同じで見に徹していることだろう。

 

「ああ、そうだ」

 

 あのとき、賢妹が万全ではなかったのは、間違いない。第二王女キャーリサのクーデターを終結した、国の存亡をかけた一山を超えたと気が緩んだ直後に―――この上ないタイミングで奇襲を受けたのもあるだろう。完全に己を仕留める毒を喰らったことが、更なる追い打ちとなったに違いない。

 

 けれど―――

 あの時あの場にいなかったからこそ伝聞だけの情報で分析してレッサーが覚えた、圧倒的、徹底的な、『神の子としての奇跡を右手に振るう聖者』と『神にもなれる体質の持ち主』の差異が、今は逆転してる。

 どうしてだろう。

 これがどんな盾をも貫く矛と、どんな盾をも貫く矛とのぶつかり合いで、矛盾ではないが故に、決着はそうそう容易ではないのはわかっている。

 イギリスの戦力的援助も何も、本当に何の助けもない今―――完全に、孤立しているというのに。それも代行体であるのに。

 屈しているのは、聖者であった。

 

「ま、簡単なことだろ」

 

 苦笑して、言う。

 本当に簡単で、分かりきった事のように。

 

「自分で自分に鎖をかけていた。自縄自縛。―――それだけのことじゃねぇか」

 

 世界を崩しかねない火種を摘む。その抑圧は自分のためじゃなくて、どこまでも他人のためでしかない。

 カエル顔の医者に言われたことがある。

 背中にわざわざ負った呪縛などなくても、無意識だが自分で自分に“セーブ”を施してる可能性がある。

 そして、自分は言われるまでもなく、それを確信している。

 

 意図して作られた能力者、真似た魔術師などという異能人類であるとは違って。偶然の産物として生まれる前に、死んでいる(コロされた)、特別にして特異は、天然である時点でバランスは悪く、バグが生じて最悪、才能があまりにも過剰である。生きていくのが難しい―――というより、本来不可能なほど。

 しかし、優れた才能を活用することで、それを、補った。自らに枷を課すことで。そして無意識に性格付けることで。

 その結果が、人ではなく神が作りし、そして壊されてから自分自身で組み直された際、

 生まれついての純粋無垢は、より、純粋無垢であることが望まれ。

 数多くの人間を魅了し、数多くの人生を救済することが願われ。

 稀代の規格外が、無意識的な加減(セーブ)は、癖となってるほどしているだろうことを知ってる。

 

 まったく。

 序列第零位なんて適当に付けたのだろうが、実に的を射ている。

 

 居候の修道女が曰く、“〇”とは『何も存在しない虚無』という意味ではなく、その古代インドで生まれた概念は、“死”や“生”――力の(プラス)(マイナス)の均衡の中心に位置して、両天秤が釣り合っている状態を意味している。

 その資質からして、負ける可能性も勝つ可能性も両方、五分と五分。そして、性格は自分が火種になるのならば滅私を望む優しい理性の塊。

 

 そうしてしまったのは、自分だ。

 “本来の<幻想投影>”――『世界』が生まれる前という形のない幻想としか形容できない段階で“殺した”のは、この右手――<幻想殺し>だろう。

 すれば、『前の自分』が、そこには何らかの影響を与えたと推測される。推測であって、確証はない。肯定も否定も出来ない推測。

 

 だが、もしも。

 その影響のせいで、自分で自分を殺すように構築されているのだとして、

 最初から全てを備えた完成形に届きうる存在は、始まる以前にリセットされる際にインストールされた自らの損得は度外視する滅私な性格のせいで、思うことを思うようにやれず、したいことをしたいようにできないでいるとすれば、

 何かに恐怖しているのだとすれば、

 

 それはあまりにも………………哀れだ。

 

 そして。

 束縛を解いて、原初に立ち返ったともいえる状態で望むことは何か。

 

 抑圧され続け。

 束縛され続け。

 され続け、され続け、されるがままで。

 

 不幸を背負うことを望まねばならなかった人間が、本心から望むことといえば。

 

 ―――復讐。

 

 恨んでいない―――などと。

 自分のために―――と言って。

 

 だが―――そんなのは、綺麗事だ。

 綺麗事が汚点ということはない、むしろ美点だろう。

 

 けれど―――

 

 誰にも優しい、なんてこの世にはありえない。

 誰かに優しくするということは、誰かを傷つけるということだ。

 

 もし、全てに優しくあれる存在がいるとすれば、それは人ではない。

 

 最低限の被害に絞るなら、自分だけを虐げる。

 そんなの、けして自分から望んで得たものでは、ないだろう。

 

 善良、だった。

 ただ、善良なだけだったか。

 だが、彼女自身が善良であると思い、善良であれと望まれ、善良でなければならないと自他両方から潔癖で潔白であることを強いられてきた、だけなら。

 

 善良なだけでは、なかったとすれば。

 だとすれば。

 そう言う、戒めを、放棄してしまえば。

 

 あらゆる重荷から――あらゆる抑圧から解放されてしまえば、ヒトからケモノに帰るようになれば、復讐を望む。その立場になれば誰でも望むはずだ。否、それは復讐と言うほどに、意思が伴う感情であるかどうかは、疑わしい。復讐と言う単語が当て嵌まるには、復讐や贖罪や怨恨や逆恨みや八つ当たりという言葉が当て嵌まるには、彼女は―――ありとあらゆるものから、迫害を受け過ぎている。理性で、澱みを溜めこみ過ぎている。

 

 ならば、それはもはや復讐などと呼べない。

 それは、破壊だ。

 純粋な、破壊だ。

 申し分ない、揺るぎない、どうしようもない―――徹底的で、圧倒的で、破壊行動。

 容赦もなければ躊躇もない―――

 破壊。

 破戒。

 

 だから。

 それを、止める。受け止める。持ち得る全てを掛けて。

 戦うべき相手はあの聖者ではなく、ひとりで戦い続ける彼女を助けるのでもないのだ。

 今、余計な手出しをして、何もかも不意にするな。堪えろ。

 寄り道なんてしていれば、その背中には永遠に追いつかないぞ。

 

 そんな自制しなければ飛び出しそうな感情とは裏腹に、理性は確信を持っていた。

 

「俺は、今まで、負けて地に伏している場面なんて、結構見てきた。―――俺にとっては、勝ちよりも負けの方が記憶に強く焼き付いてるくらいだけどな。

 それでも同じ相手に二度も続けて負けるってのは想像つかない」

 

 

雪原

 

 

 痛み。

 この翼上に歪な第三の右手に掴まれるよう、全身に巻きつかせて防護するその上から貫通する連打の衝撃に突き飛ばされ、痛苦に悶える。そんな、聖堂から出たときには思えなかった体験。

 這いつくばり、パクパクとさせる口から出る音は言葉としての意味をもたず、少量の血液を己の右手に吐き出す、その様を見下ろされる。

 

 ああ、あれはまさに『緋色の女』だ。

 

 体中に『神を貶める呪い名』を書かれ、血のようなアカイロの衣を纏った女は、頭ひとつが禍とする首を7つもつ獣の上に乗る。

 『大淫婦(グレート・ハーロット)』であり、地上の忌むべき者や売春婦達の母たる者、『聖母』の反転した存在たる『太母』。

 数多の民族、群衆、国民、宗派の上位者たちを惑わす退廃と悪徳の象徴であり、金の杯で主の信徒の血を飲んで酔う……

 

 そして、それが現れたときこそ、世界の終りだという。

 

 今この時。

 為すべき救世の前に障害として立ちはだかる絶対悪を負いし半人半獣の少女。

 燃えるようなアカい衣を纏い、その身に逆さの樹を刻む。

 その様が、かつて預言者が見たという『火がついているのに燃え尽きない潅木(しば)』という『神の子』を身籠りながら身体に何の危害も受けなかった聖母(マリア)のイメージを連想させてくる。

 純真無垢の太母か、清濁併呑の聖母なのか。どちらにしろ矛盾を孕む存在は……しかし、美しかった。

 一夜にして散る花のような美しさ。

 命を削っているからこその美がそれにあった。

 フィアンマは思う。

 これは完全に己の落ち度であると。

 一度、降した経験があろうと、余裕をもって臨んでいい相手ではなかった。

 そう、これこそが。

 

「認めよう。俺様の敵であると―――なればこそ、乗り越えなければならない」

 

 <聖なる右>は『倒すべき敵の強度』によって表出する力の強さが変動する。そして、聖者は『倒すべき敵』を個人ではなく現象――すなわち、この惑星をも破壊し、周囲の宇宙空間にも汚染を撒き散らす大厄災という混乱そのもの、だと定めていた。

 実際、その設定でフィアンマは、科学と魔術が入り混じる一大決戦そのものを、個人で勝者となる力を得ていただろう。

 そして、それは全人類を葬り去る力に等しく、場合によって人の歴史を終わらせることができる可能性を秘めていた。

 

 深夜に月星数多の煌めきが饗宴を織り成す空も、真昼に至上へ昇り輝く光は太陽ただ一つ。

 

 それは、己でなくてはならない。

 そう、目の前にいるのが世界の終末の前兆たる『緋色の女』――その打倒こそが救世の聖者が果たすべき使命だと認めた。

 

「この世界は歪んでいる」

 

 手を地べたにつけて立ち上がるフィアンマの口から発せられた素気ない一言が、その内面を寒気が感じさせるほどに伝えた。

 

「どうしようもなく歪んでる。だから、このような争いが起こる。もはやこの世界は老朽化してガタがきてる。神様とやらが完璧なシステムを作り、全てが正しく回るように歯車を配置していたにもかかわらず、人の欲望で簡単にも歪んでしまう。

 ―――だからこそ、俺様が救わなければならない」

 

 己の力は確かに全人類に破滅をもたらすことができるであろう。

 しかし、聖者は世界征服や人類抹殺など望んでいるわけではない。むしろ、そうした『変化』から最も遠い位置にいると自負している。

 あるべきものを、あるべきままに流すことが、目的なのだから。

 

「壊れた歯車を交換する。場所によっては新たな機構を設置しよう。古い家を改修する際、内部の配線に多少手を加えるようなものだな。

 そうして、歯車についた汚れを全て洗い流した後に、改めて十字教規範という潤滑油を指して、元の滑らかな流れを復活させる。

 ………そう、考えてはいたのだがな。しかし、俺様の敵は理論値以上に強大らしい」

 

 再び、聖者は『神権』の証たる『鍵』を天に掲げた。

 

「もはや、遠慮はするまい。慎み深いやり方では届かぬと知ったのだからな。まあ、多少大雑把でも、ノアの箱舟の大水で洗い流しても世界はまたやり直せる。それから新時代は始まるのだ」

 

 昼と夜の狭間、陽と陰が混ざり合う黄昏が、その意思に染められていくように眩い黄金に変わっていく。太陽光と大気の屈折率の関係から、地球上では絶対にありえるはずのない色が、天空を支配するのは、まさしく聖者しか起こせぬ奇蹟であろう。

 

「―――ならば、全ての不浄をこの庭ごと洗い流した後に、世界を組み立て直していくことにする」

 

 ニヤリ、とフィアンマは笑う。

 今、己は神権を手にしている。これは、これはひとつの神話の中心を掴んでいるも同義。して、『神上』であるのならば、星を塵にするほどの力があり、聖者はその執行する権利がある。

 

「もっとも、ここだけに留まらず、ユーラシアの全土も呑まれるだろうがな」

 

 その瞬間。

 ドッ!! という爆音に似た衝撃波が大気を震わす。

 

 

 

 ―――黄金の空が、落ちる。

 

 

 

 それは、どうしようもない絶望だった。

 それは、抗いようのない絶対だった。

 

 杞憂――その在り得ないはずの不幸が此処に実現する

 

 極限の質量というのはもはや肉体だけでなく魂までも押し潰して、

 その表面を彩った絶対的なアカい色はこちらの精神も塗り潰していくよう……

 あまりの巨大さ、広大さ、絶大さが、現実感を喪失させる。

 

 空に望む星の距離を測り知ることができないのと同じ

 極大と極小の相対比がもたらした差、空間か時間にまでも影響を及ぼす。

 

「まったく残念だ。莫大なエネルギーである<天使の力>が地上へ電流が流れるように降下することになる。

 それでも、これで誰もが思い知るだろう。

 これは規範を破る者の頭上へ落雷を見舞う神話の罰と同じもので、従いさえすれば俺様の救いを拝める事を」

 

 物理法則などとうに無視して襲いかかってきた大量の水。黄金色の。これが地表に着弾すれば、どのような効果をもたらすだろうか。

 きっと、ここにいる全ては圧し潰されてしまうだろう。

 これもまた、救済のひとつ。

 ノアの大洪水。神が巨人族の血で汚れた大地を洪水で洗い流し、一時、地表を古代において死の場所を意味する海へと変えた。

 天上から猛威に降って荒れ狂う水に、箱庭にいる全てが打たれる。大自然の猛威が降りかかった時、人は恐怖すら覚えることができない。ただただ自然という偉大なる力を前に己の矮小さを思い知らされ、身動きもできず己の死を諦観するのみ。ましてやこれは暴風雨などというレベルではなく、超自然の日輪の如き熱をもった熱波の大津波が迫っている。

 

 

「あなたの『救済』を理解しました」

 

 

 拳と拳で殴り合っていたケモノの原始時代から、人間が最初に手にした道具は、枝。

 ただの枝を槍として武器に用いたときに生きる者を殺す為の思考が芽生え、

 ただの枝を杖として指標を示し皆を導いたときにその者が上位者の証と定められた。

 

「聖書において、蛇は悪魔の王(サタン)の象徴」

 

 聖者が鍵を手にしたと同じく、罪女もまたひとつの枝を手にしていて。それも、『蛇』のようにくねっている。

 

「楽園の悪――特に誘惑の原理をあらわし、全人類に罪をもたらしたもの」

 

 選びし枝の材料は不変の愛の象徴たるバラ科の扁桃(アーモンド)

 

「―――災厄の蛇該当。方式『アロンの杖』」

 

 預言者の反抗に際して、十の災いを起こした『アロンの杖』

 時に蛇へと変生したり、軍規模の害虫の大群を出現させたり、疫病を流布したり、稀少を変動させたりなど、唯一神より賜ったその力はあらゆる魔術師の力を凌駕し、

 神王とも称されたエジプトのファラオをの国力をも大きく削り―――海を割った。

 

「同時に蛇とは叡智の表明するものであり、死人の魂の化身といわれるもの」

 

 『蛇の如く聡くあれ』とも福音書に記されるよう蛇は賢い存在とされて、民間信仰では家つきの蛇と幸福を呼び込み、また長寿の薬の材料とも。

 

 そして、蛇形の杖で、それが連想させるものは、3つ。

 

「―――知識の蛇該当。方式『カドゥケウス』」

 

 『伝令(karys)』の神通力と知恵の神トートの威光を有し、科学の祖であり、魔術の礎たる錬金王ヘルメスが持つ蛇の杖『カドゥケウス』

 

「―――死霊の蛇該当。方式『アスクレピオスの杖』」

 

 主神が敷いた自然の理法を覆してまで、死者を再生させる力を持つに至り、蛇遣い座として天に召された医者神がもつ蛇の杖『アスクレピオスの杖』

 

 

「三つ重ね合わせて、『救済』の対を投影する」

 

 

 しりとりのように『救済』を繋げてきた『神権の鍵』

 ならば、これはひとつの記号を基点にして、羊皮紙に重ね書きしていくよう。記号意味が付加深化していく情報が重層し共鳴し、領域を充実させる。

 そうして、完成した『蛇の権杖』を天に―――超大の力を宿して、大樹の如くそそりたつ。もはや大海を割り裂かんばかりの、神話の偉人の如き姿を、ここに投影していた。

 

 

 

つづく


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