とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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世界決戦編 復楽園

世界決戦編 復楽園

 

 

 

イタリア とある古物商

 

 

 浦島太郎。

 竜宮城から帰還した青年は、そこで長い時間が経過し、自分が死んだこととなっていて母が亡くなっていた。

 それと比べたら、3年。しかしその3年で、自分は死んだこととなっていて、何もかも終わっていたことには変わりない。

 喪失した時間は長さではないのだ。

 

 報われず思い出を失った少女の悲しみと、最後まで聖女のように余人を恨まずに余の温かさを信じたことへの敬意―――そんな彼女に真っ当な幸福を与えようと決心し、しかしその行いこそが、少女の想いを最も汚すものであると見て見ぬふりをした。

 それは記憶として忘れても、調べれば記録として残っているのだ。

 だから、それ以来、この汚れた手は筆を取ることはない。至ったといわれる錬金術師ならば誰もが目指す<黄金錬成>さえ求めようとしない。

 魔導書は念を込めて書かなければ、使い物とならず、そんな気概では神秘など宿らない。

 

 そうアウレオルスは、神秘に身を置く者として終わりを悟ったのだ。

 

「イギリス清教から<必要悪の教会>の一員となれ、と勧誘が来たが断った。禁書目録を苦しめるしかなく、『ただ君に会いたかった、その理由づくり』と自身の救いでしかならなかった魔導書など私は書くことはできない」

 

 禁忌の道に踏み外してまで錬金術を極めたら、今度は錬金術を捨てて一般人に戻るというのか。思い込みが激しいとは知っていたがコイツは極端だな、とステイルは煙草をくゆらせながら思想する。

 だが、その想いが強く純粋であることもまた認めた。

 魔術というのは本質的に快感だ。

 超常の力を操れる、常人には知らない神秘を知るという悦楽。その生命として一段上に至れる優越感を欲して、『知識の探求』という欲望に抗えずに突き詰めていったものだからなれる魔導師であるなら、魔術の叡智と関わることをやめるというのは呼吸を制限するのと同じ。加えて、なにより禁書目録という最も魔術の叡智にかかわっている少女に会うための機会を欲せなくなる。窒息するほどに息苦しいはずだ。

 罪悪感もあったんだろうが、それを自分から息を止めているアウレオルスは、やはりその想いは紛れもなく本物なのだ。

 <必要悪の教会>のメンバーは複雑難解な事件解決のため、清濁併せ呑む方法を取ることは珍しくない。その中には、罪人との司法取引や非正規の、つまり『個人的な知り合い』を勝手に雇ってしまうこともままある。

 しかし、ステイルからは何も言えず、一応は懐に忍ばせてあったイギリス清教で聖別した銀と赤のロザリオをテーブルに出すことはしない。

 世界最高の錬金術師(アウレオルス=イザード)をやめ、無害な一般人(マルコ=ポーロ)のままでいる、それはつまり魔女狩りの仕事が一つ減ったということなのだから監査としては十二分。

 

「そうかい。それは結構なことだね。僕も本を焼く面倒事がなくなって万々歳だ」

 

 もう席を立ってここでお暇してもいいのだが、彼女はそうはいかないだろう。意地でも協力を取りつけない限り、食事時になろうと離れない。

 ステイルはもう一本、新しい煙草をくわえ、火をつける。

 この男の説得は彼女にしかできない仕事で、彼女の護衛は自分の仕事で放棄はしない。となれば、神父は耳を閉じてこれから先のライバルへのラブコールを聴かなかったことにするしかないのだから。精々、説得にかかる時間は、この煙草一本吸い切る間にしてくれるとありがたいとステイルは祈った。

 

 

 

「見てほしいものがあるの」

 

 先生の、アウレオルス=イザードの意志を知ってなお、インデックスはテーブルの上にそのノートを広げた。

 それに魔導書特有の魔力は感じられなかったが、試し眺めたアウレオルスの目はかすかに細められる。

 

「ここに書かれていたのは、しいかがこれまで触れてきたもの。

 自然崇拝の神道やケルト、風水の流れを視る陰陽道

 自らの知識を文字というカタチで刻む染色と脱色のルーン

 世界のすべてを観測計測推測し、そこから想像を現実化させる錬金術と、大地龍脈を活用する錬丹術。

 そして、魔術とは異なるもう一つの世界の技術。

 それらの欠片が組まれたパズルのようになってるかも。

 そう、二枚の絵を一度パズルに細かく分解してから、そのピースを一枚たりとも残さず、きちんと調和のとれた一枚の絵に合わせてしまっているようなものだから<禁書目録(わたし)>でも解読できない。こんなの<法の書>以来。……ここにあるのは、原始回帰から世界改変する惑星級の魔術、ううん、魔術なんて呼べないものだね」

 

 解読できない確かな知識、というのは知識人の欲求をくすぐるだろう。

 しかし、それでも彼女の先生の食指は動かない。

 インデックスもその解読を手伝ってほしいというつもりはない。

 科学サイドの賢人の知恵を借りて半分までは読解できており―――これが何なのかを知るには、解読する必要なかったと気付いたのだから。

 

「それでずいぶん読むのに苦労してるけど。分かってみれば単純。この源典が何のために書かれたのか、しいかの原点が何だったのかを考えれば」

 

 そして、多くの人間の力が必要なこれをたったひとりで賄うために、科学と魔術を相手取っている復活祭(イースター)を行っているのだというなら。

 

「もしかしたらそのために、しいかは―――尸解のやり方で昇天しようとしていたかもしれない」

 

 十字教に数多ある『聖母崇拝』のひとつとして、

 

 『眠りに就いた(死した)聖母を、魂魄だけでなくその肉体のまま神聖の国へと昇っていった』

 

 という<生神女就寝>または<聖母被昇天>。そして、その奇跡が記念された日は、その後に起きた二度目の世界大戦の終戦の日と偶然にも重なり、天に召されてなお縁起を呼び込んだ祝日となった。

 

 それと、道教にもその『聖母崇拝』と似たエピソードがある。<仙人>の『尸解』だ。

 錬丹術の極意書<抱朴子>に記された『尸解』という擬死――すなわち見せかけの死、その上であたかも芋虫が蛹を経て蝶へと羽化するかのごとく、抜け殻となった肉体を残して、生まれつき相応しい資質を備わっていた人間はさらにそれを肉体の枷から開花させて<仙人>へと至る。

 しかし、その抜け殻たる肉体を残すのは、『尸解』の中でも下の手法であり、<聖母被昇天>と同じく、魂魄だけでなく肉体も天へ昇華させていくためには、残された肉体を肉体にあらざる他の依代に託すのだそうだ。

 道教の百科全書<雲笈七籤>では、その『尸解』に用いられる依代には、刀剣、竹や杖といったものが好まれる。それらに薬で文字を書くマーキングを施した上で、間際に抱きながら呪を唱えるのだ。―――その『尸解』の中で至上の方法が、『剣解』。

 

 『その帝は山に葬られ、500年後に山が崩れたが、墓に屍はなく、残っていたのは剣』

 

 神仙の代表格ともされるかの黄帝の逸話だ。

 つまり、神仙へと成るには、『剣解』という手段が好まれる。

 インデックスの完全記憶能力で、上条詩歌は密かにその『剣解』の準備をしていたと思われる。

 そう、あの『銀紙竹光(たけでありけん)』だ。

 妖精という『制約』を課した以上は、『金属は好まない』と判断してのことだろうが、彼女がイギリスから常に装備していたそれは『竹』であり、『刀』である―――最上の『宝剣』に及ばずとも適正は高い筈であった。

 イギリスの事件では詩歌とは別行動が多く、ロンドンでの彼女の戦闘を直接は見る機会はなかったので、鞘に収まっていたその刀身をインデックスは確かめたことはないが、おそらく文字が書か(マーキングさ)れていたはずだろう。

 そして、

 

 『依代を抱いて眠り、身体が棺に納まれば、仙去(昇天)の儀式は成立する』

 

 条件が整っている。

 ………と、思うのだが、第二王女キャーリサの反逆から一夜明けて、エジンバラでインデックスが共に行動した際、上条詩歌は『銀紙竹光』を持ち歩いていなかった。

 いつ何が、暴走が起きるともわからないのに、儀式に大切な依代を忘れていた。―――なんて、愚兄のような間抜けな失敗をインデックスが知る詩歌がするはずがない。

 いや、『右方のフィアンマ』の予想外の奇襲があったのだ。彼が出立前に見せてもらった“アレ”を、源典を半分まで読解してから思い出すまでは、インデックスも終わってしまったと思っていた。

 本当に、あの少年が命を懸けて作った瀬戸際でその肉体を託すのに『どんな宝剣にも勝る依代』があったなんて……気づいた時には、インデックスは思わず綻んでしまった。

 

「どうするのかね?」

 

 と、これまでの現状に対するインデックスの考察を述べた後、先生が訊く。

 

「釈然、それで君はどうするのかね?

 このまま傍観する気はないとして、しかし考えだけではそれは机上の空論だ。魔力が扱えない君は、その限界をよく知っているはずだ。

 10万と3000冊の魔導書を収めた<禁書目録>の導き出した答えが正しいとして、その答えをどう生かす?」

 

「先生に手伝ってほしい」

 

 ストレートにインデックスはアウレオルスにぶつけた。

 

禁書目録(わたし)の空論を、先生の腕なら形にできる。しいかは失敗しなかった。けど、まだ成功もしてない。このまま不完全だったら、戻ってこない。だからっ」

 

 アウレオルスは、無言で席を立つ。空になった器をトレイに下げるとまた部屋の奥へと消えていく。

 かつての生徒の依頼に答えないまま。

 インデックスは席を立とうとして、しかしどう説得すればいいかわからず動けない。

 そして、戻ってきたときその手には開封された便箋。

 

「愁然、私は、私のために魔導書を書くつもりはなく、君とも会うつもりはなかった」

 

 アウレオルスの手にあった一枚の便箋から引き出された手紙をテーブルの上に広げる。

 

「……が、偶然、大きな借りのある少女からの手紙に、『もしもお見舞いに来たもう一人の女の子が訪ねてくることがあったら、“私のために”是非会ってほしい』、とある」

 

 広げられた手紙に、大きく目を見開いた後、思わず、修道女はかぶりを振った。

 そして、きゅうっと眉をひそめて、ひどく困ったような表情で―――それでも柔らかな笑みを含ませた顔で、少女は小さく溜息をついて見せた。

 

「確然、私から君に会うつもりはない。だが、手紙をくれた“彼女のためにも”君から会いに来るのは拒めない」

 

 しかし、インデックスの思い切った行動は、不確定要素だったはずだ。

 彼女は自らインデックスに協力を要請したわけではない。あくまで残したヒントを拾って、自主的に動いて結果だ。

 こちらの親切に、つけこむようなカタチではある。

 それぐらいなら、最初から協力を依頼すればよかったのに、と修道女は愚痴りたくもなる。

 しかし、彼女にはできなかった。

 自分の都合だけで、守るべき今ある立場から離れても手を伸ばしてくれとは言えなかった。

 

「いつも……いっつも、本当にずるいんだよ」

 

 その笑みは、苦笑と、自嘲と、いろんなものがないまぜになったようで、それでも困りながら笑っている。

 

「あのふたりは、何の相談もせずに私を置いていって勝手する常習犯だけど、いつにもまして、今回のはひどいかも。

 ―――何も言わなかったら、私がこうするしかないとわかってるんだから」

 

 予言ではないが、予想していた。いいや、もっと相応しく言い換えれば、信じていた。

 

「でも、もう、踊らされてあげるって決めたから」

 

 けして力強くはなく、それでも絶対に譲らないという意思の籠った言葉であった。

 

「そうか」

 

 先生が頷く。

 やはりその答えか、というように。

 その瞳が、もう一度揺れた。

 

「―――でも、ちゃんと終わってからでいいから」

 

 持ちあがったインデックスの顔がひどく爽やかだったからだ。

 

「しいかに、それからとうまにも噛みついて―――」

 

 まるで、周りの都合で遠くへと引っ越しすることになった友人と喧嘩別れした後、また仲直りのために会いに行くことを決めた子供のように。年相応にはにかんで、こう告げるのだ。

 

「―――おかえりなさいって、ちゃんと言いたい」

 

 手紙はこの男を動かすための大きなヒントに気付かせてくれた。関わらないと決めたのならば、門前払いが妥当なはずだ。その無理を通したのは―――

 

「“私のために”」

 

 だから……っ、と修道女は頭を下げる。

 それに、アウレオルス=イザードは頷かない。

 そうそれは、頷く必要のない願いだ。

 ここで筆を取らなければ、彼女の思いをまたも踏みにじることになるのならば、これ以上の抵抗は自己満足としかならない。

 世界の全てを救うと傲慢にも誓い、また蘇った(思い出した)<魔法名>は、『我が名誉は世界のために(Honos 628)』。

 

 

「俄然、私のためではなく、誰かの救いために魔導書を書くのなら、筆が折れても、腕が折れても、心が折れても、それは私が戦う理由と成りえる」

 

 

《闇》

 

 

「そう―――か」

 

 上条当麻は、驚いたことに、俯いている。

 

「そう、だな。俺がいると、邪魔になる―――か。アイツの味方であるなら、これ以上関わらずに、いっそ何もかも忘れた方がいい……」

 

 “何よ……これ”

 

 目の前に突き付けられた現実。ありのままのそれを受け入れるのに数秒呆けてしまう。

 ぽっかりと暗い虚無感だけが、胸を占めていた。

 負けを認めてしまったその姿を見つめていた彼女の脳裏に、宣告通り言葉で殺された光景がもう一度、巻き戻してはまた一度と繰り返(リフレイン)される。

 

「う―――」

 

 震える手で、頭を抱える。

 

「ううぅ……ううぅうっ……!」

 

 正常な思考能力が麻痺し、言葉にならない声を漏らす。

 

 

 次こそ―――見れるはずだった。

 己の雪辱を、ついに果たせるはずだった。

 あの忘れられない過去がそれでも少しは報われるような―――願ってきた救いが赦されるような、生きる証人となるはずだった。

 

 

 こんな弱々しい姿を見て、“彼女”はひどく裏切られた気分を味わった。“あのとき”は、あれだけの啖呵を切って、頑固で、どれだけ折ろうとしても折れなかった。どんなに苦境に立たされても、その軸だけはブレない、それがこの少年の本質だと思っていた。

 しかしそれが今は、どうだ。

 目の前にいる男は、こんなにちっぽけで、無力で、無能で、無駄で、腹立つくらいに情けない。しかし見たくないのに、瞼の裏に焼きついてるのかと疑えるくらいに瞑っても鮮明にイメージできてしまう。

 その涙目で、肩を震わせて、拒絶さ(フラ)れて、項垂れている惨めな姿を。

 こんな奴に自分は重ね合わせていたのか。

 命を賭けてでも格好を付けていたあの少年の、本当の姿がこれなのか。

 馬鹿みたいに鍛えた図体の中身は、こんな弱虫だというのか。

 

「上条当麻」

 

 同時にむくむくと、苛立ちが湧いてくる

 何だこれは。コイツは。まだ、迷って。

 違うのだ。自分が見たかったのは―――。

 疫病神に真っ向から勝った、どうしようもないくらいに馬鹿な、あの兄は………。

 

「ほんとうに、それでいいの?」

 

 また■のことを思い出しそうになって、たまらなくて、辛うじて酸欠から意識を保っていたヴェントは声を振り絞った。

 上条当麻はヴェントの方を見もしないで、泣きそうな涙をけして流さぬようこらえている。

 泣けることも出来やしない。

 泣くべきで、泣かずにはいられない、誰よりも泣いてしまいそうなのに、絶対に泣けない。

 何かのために涙するという行為は、とても特別なもの。それは、周囲に影を落とす悲嘆の表現であろうし、心の揺らめきを感染させてしまう。

 泣くという行為は特別で、それだけで周りに大きな影響を及ぼすのだ。だから―――泣けないのだ。

 これ以上は傷付けられない、

 自分がどんなに悲しくても、

 零した涙は、きっと幻想を分かち合えてしまう彼女には届いてしまうから。

 兄姉ならば弟妹の想いこそ優先しろ―――たとえ、空っぽの孤独を抱くことになろうと、涙も殺す。

 

「だって、仕方ないだろ。味方にだってなれないし、敵になんてなりたくない―――俺は結局、邪魔なだけなんだ。アイツの決断を無駄にしちゃいけないんだ。足を引っ張って、負担になって、そんなのダメだろ。もうあんなのは御免なんだよ俺は……」

 

「こんの―――」

 

 ヴェントは思わず、衝動的に叫んだ。

 切ないほどに、この少年に同情できる。共感も、理解もある。

 だからこそ、ヴェントだけは言わなくてはいけなかった。

 

「ふざけんじゃない!!」

 

 科学が嫌い。

 科学が憎い。

 救いの術を記した聖書さえ冒涜する科学は全てぶち壊し、もっと温かい法則で世界を満たす。

 それこそが、弟の人生を喰い潰してしまった己が何としてでも果たさなければならない義務だ。

 9月30日。

 <神の右席>の権力を使い引き金を引き、<神の右席>の暴力を以て自ら仕掛け、そして致命的に世界のバランスを傾けて、己こそが疫病神であると証明したあの日。

 死した弟の功績を誰よりも称え、

 生きた姉の冒涜を誰よりも叱り、

 どうしようもなく負けを認めさせられた。

 そして、あの日から、ようやく、前を見れたと思ったのに。

 

 何故、コイツは今更後ろを見ているのだ。

 

 誰よりも前を目指して、休むことも惜しんで高いところを飛び続ける鳥が降りて来ないとしても、自分だけは無理でもその後を追い続けて落ちたところを捕まえる努力をするべきだ。愚兄はそう覚悟して、全力でやれと自分の元から手放したはずだ。だけどもうその姿は見えなくなるくらい彼方まで離れてしまった。それは誰よりも前に――誰もいない場所を目指したもののせいだ。

 そして、ソイツに遠慮して、追いつく努力をついに諦めて、向こうから戻ってくるなんてありもしない期待にすがってるやつのせいだ。

 

「らしくない! そんなの、兄じゃない! 格好悪い! あんまりよ! 許さない、そんなお前を私は絶対に許さない! ふざけないでよ!!」

 

 びっくりした顔の当麻に、ヴェントは外聞もなく涙を零しながら言い放った。

 当麻の胸ぐらを掴み、まるで脅しているみたいに。

 棘だらけの言葉を。

 

「アンタがそんなんだったら、アンタに負けちまった私はどうなんだよ! 気付けよ! 止まってる場合じゃないってこと! 赤の他人を不幸にする程度で諦めてんじゃないわよ! “私と違って終わってない”んでしょ! いい加減にしなさいよ! 今のアンタは見ててぶち殺したくなるくらいイライラすんのよ!」

 

 論理的でない言葉を、衝動的に吐き出した。

 もう嫌だ。我慢の限界だ。腹が立つ。頭が沸騰しそうだ。

 どうしてこいつには『天罰』が効かないのだと愚痴りたくなる。

 

「妹の目的が『世界の平和』だとしてもねぇ、そんなの小娘がやる必然性がない、ヤツ以外でもできることじゃない! それを何にでも代理が効くからって無理して引き受けているだけで、どこかの教皇様や理事会の連中がやるべきことでしょ!」

 

 ヴェントは当麻の瞳を真っ直ぐに見据えて、捲し立てる。

 

「何で気付かないの、アイツはそれを“逃げる言い訳”にしてるだけ! たいそうなことを実行中だから、近寄るなって、触れ合うのが怖くて、傷つくのが嫌だからって、遠ざける理由にしてるだけ! それが引っ込みがつかなくなって、そのまま走り続けて、もうとっくに限界なのに、止まれなくなってる馬鹿がアンタの妹なのよ!」

 

 勝手に決めつけて、ヴェントは言葉を並べる。

 だけど、わかるのだ。理屈ではなく。似たもの同士だから、その内心は嫌でも理解できる。

 かっこつけて、逃げて、どうしようもなくなって―――幸せを取り逃がしている。

 ただの愚か者なのだ。

 

「止めてあげなさいよ、大事ならさぁ―――忘れてどうすんのよ、このロシアまで必死に追いかけて、たとえそれが奇蹟のような可能性でも終わってないんだから、背中に手が届く可能性はゼロじゃないのに! 足にしがみついてでも逃げてるアイツを引き留めて、向き直って、言ってやりなさいよ! 他人じゃなくて家族ならアンタの理想を押しつけてやりなさいよ! いい加減に覚悟が決めなさいよ! それでどれだけ嫌われたって、最低の疫病神になったっていいじゃない! “何もかも終わったあとで世界を敵に回そうが無駄だ”ってわかんないの、ふざけんじゃないわよ!!」

 

「ヴェント……」

 

 目を白黒させている当麻の背中を、ヴェントは思いっきり蹴りつけて、どかした。

 この眠りから覚めるように。

 この無意味で愚かしい夢の世界を壊すために。

 

「『門』を閉ざしたって? ハッ―――それなら私がこんな『楽園』を壊してやる。何が何でもどんな手段を使ってでも壊してやる。そして、なんでも『兄の事情』を『妹の事情』の下にするアンタの甘ったれをここで修正してやるわよ」

 

 ヴェントの双眸に、小さな火が灯った。

 しかし、それが何を燃料にしているのかは―――。

 

「全部燃やす。逃げ場は残さず燃やす。もう二度と帰ってこないように、後腐なく、どこもかしこも灼いてやる。―――この十字に全てを懸けて」

 

 炎の絨毯が広がり、暗闇に閉ざされた病棟を、仮初の街を埋め尽くす人形たちが炎に包まれた。

 

 ―――天の位から人へと落ちたものがいる。

 

 舌と鎖で繋がった剣を意匠にした十字架を握った右腕がスッと持ち上げられていき、刹那、煉獄を熾す現象が引き出された。

 

「あーあ、この血こそ弟にあげたかったのに先に向こうにやられちゃった惨めったらしい姉が血反吐に塗れて手に入れた<神の火()>をこんなところで全部燃やすなんて……」

 

 その間も、突如として発生した黄金(キイロ)の煌焔は轟々と勢い増して盛り立てて、やがて街全体に燃え移らんと視界いっぱいに瞬いて―――逆再生でも起きたかのように炎の発生源、即ちヴェントの右手へと集約されていく。

 黄の炎は、十字架を倣うよう少しずつ形を模していき、程なく質量を伴った一本の剣へと変化する。ヴェントの背丈を優に超える輝く炎の十字剣は、言葉などなくても天の威容を知らしめる。見るだけで圧倒する熱と光の奔流、肌を焼くことのないただただ神々しさを感じさせるそれは、おかしなことに知識を持たない少年にさえ説明せずとも、積み重ねてきた全てを燃料と捧げるものであると勘付いてしまった。

 そこに人生を賭けてると、彼女の顔が物語っている。

 

 <神の右席>は『天使に近しい身体』を持つが、けして『完全な天使』ではなく、単騎で世界規模の戦争すら終わらせるほどの力を持った大天使の全てを詰め込もうとすれば耐えきれずに破裂する。

 あの<神の右席>でありながら<聖人>でもある『後方のアックア』――ウィリアム=オルウェルでさえ、総量の半分が限界だ。

 

 ―――ならば、人間の内に留めさせなければいい。

 

 <神の火(ウリエル)>は、初めて『天使から人間へと下った』という極めて特殊な属性を持つ<天使>だ。

 その伝承を参照することにより『前方のヴェンド』は<神の右席>から『ただの人』となる。―――そして、肉体から行き場を失った<神の火>を外へと放出される。

 人の身では有り余るそれを還元される前に一度だけこの捧げた十字架(そと)にまとめあげた。

 『前方のヴェント』と名乗る前の、“ひとりの姉”に戻ることで成立する、<神の右席>としての才能をつぎ込んだ捨て身の術は、その『神の火()』の通り、己をひとつの剣とし、自らを焼き尽くしかねない炎を纏って、見放され闇に閉じた『楽園(エデン)』を封印する。

 

「ほんっとうに焼きが回ってきたわね。ローマ正教の裏の裏の裏の裏の裏の<神の右席>、『前方のヴェント』もこれでお終いよ」

 

 ……かける言葉が見つからない。

 すまん、と謝罪を彼女は求めていない。しかし、

 ありがとう、と告げるのは違う気がする。

 ヴェントは感謝されるためにこんなことをしたのではない、と上条当麻にはわかる。きっと病院で当麻が父親ではなく、襲撃者の手を選んだのと同じ気持ちだろう。だからこそ、余計に胸が苦しい。

 どんな思惑だったにしても、彼女は結果的に上条当麻のためにこれまで積み上げてきた全財産を捨ててしまっているのだ。

 

「……チッ。どうして、あんたがムカつくくらい辛気臭い顔浮かべてんのよ、間抜け。

 まさかどうして私がこんなことをしたのかわかんない? そんなことで罪悪感かんじちゃってるワケ?」

 

 聖句を頭の中で念じ紡ぎながら、変わらぬ調子でヴェントは悪態をつく

 

「だったら、余計なお世話よ。私は私がしたいことをする。アンタのためになんか動くわけないでしょ。

 

 

 

 

 

 ……でも。アンタは動いたのよね。

 ついさっきまで殺し合いしてたっつうのに、アンタみたいな馬鹿にでも格の違いがわかる『後方のアックア』にさ。

 私のこと<神の右席>よりも、その前に弟が命懸けで救った姉だって、馬鹿みたいに叫んだでしょ。あまりにうるさかったから聞こえたわよ」

 

 それは―――

 確かに、あの0930事件の後に回収し来た『後方のアックア』に考えなしの理想論を吠えたのは覚えている。

 だが、結局、現実を突きつけられ反論できずに見送ってしまった。

 

「ええ、本当にムカついた、ケド。求めてもない同情を勝手に押し付けられたとはいえ、借りは借り。いつまでも返さないでいると利子がついてくみたいで気持ち悪いし、弟の前であんな馬鹿な兄には負けないと誓った。だから、フィアンマの邪魔をするついでに熨斗を付けて返してやっただけ」

 

「……、そうか墓参りに行ったんだな」

 

 ヴェントは奇妙な顔つきになった。

 余計なことを言った、とそんなことを言いたげな顔。

 

「……私は『楽園』を壊す。それを止めようとしないのは結局、認められないんでしょ? 納得できないんでしょ? 我慢できないんでしょ? 不満があったんでしょ? 本当に賢く生きていく必要はある? ―――それとも、アンタは私になりたいの?」

 

「っ―――!」

 

 息が、止まった。

 単に発破をかけられただけなら、無視したかもしれない。

 だが、疫病神となることを選んだ人生や後悔とないまぜになった言葉は、気力を喪失した当麻を起こすだけの何かを篭めていた。

 

「だったら――――

 

 戦え。戦え! 戦え! 戦え! 戦え! 戦え! 戦えっ!

 そこに受動形も命令形も連用形も連体形も已然形も未然形も終止形もそして否定形もない!

 いいから戦え!! そして勝て!!

 

 ――――それが姉《わたし》に勝った(アンタ)の義務でもあるのよ」

 

 敵意など欠片もない、ただ呆然とする視線を一身に集めて、ヴェントはその言葉を吐きだした。

 心臓を抉るように。

 当麻は、ただ真摯な表情を作ると、小さく頭を下げた。

 表明する意味は、決意。

 言葉は、ない。

 彼女の前にできていた“階段”を駆ける。

 

 黎明に雲の切れ間から光が差す。

 

 それは現実世界の科学的な気象現象では、薄明光線と呼ぶ。

 しかし、それを夢と見た過去の偉人は、御使いが天と地を行き交う梯子であると信じた。

 

 振り返らずその(うえ)をいく彼を見上げる彼女は、そこで頬を伝うものに気付く。

 人を焼くことのない黄金の煌焔は、メイクを溶かし、ピアスを融かし、だけれど、その水滴だけは蒸発しない。あれから二度と表に出さないと誓い、その化粧を塗りたくっていた仮面の剥がれた顔は『前方のヴェント』ではなく―――愚兄と同類の、姉のものだったはずだ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 上条当麻は宙を駆けているようにしか見えない、光筋の階段を全てを灼いていく黄金の煌焔に肌を炙られながら、昇っていく。

 翼をもたない身であるが、足がある。

 そして、理由は何であれ、もう走り出してしまった。

 走り出した原因を思い出せなくなっても、疲れきっても、息が切れても、まだあの後ろ姿を捉えるところにいるのだ。

 もう、何も迷うな。

 何もできなくてもいい。声を出せればいい。手を伸ばせば届く。

 

 ―――人の限界を超越した運動能力があるわけでもない。

 ―――天才的な頭脳や神業を為せる感性があるわけでもない。

 ―――民衆を動かせるだけの財力も権力もあるわけでもない。

 ―――誰もが人生を投げうってしまうほど整った容姿があるわけでもない。

 

 でも。

 でも。

 でも。

 

 いつだって拳を握って戦ってきた。

 

 そうして、上条当麻は七日かけて階段を上る。

 

 偽典に記された天界は七つの階層に分かれるという。

 

 真昼の天幕の表層領域の第一天。

 夜に見せる星と月の大空の潜在領域の第二天。

 火山と凍てつく大地に覆われた悪を憎む懲罰の地、善だけが通れる黄金の門と聖なる蜜に豊饒な楽園にわかれる二面領域の第三天

 黄金の聖宮に生命と知恵の樹が植えられた実り豊かな果樹園の第四天。

 最後の審判を待つ牢獄と天の讃美歌が響く美しい大地の第五天。

 不死鳥が住まう根源領域の第六天。

 

 そして、頂の雲にある第七天は―――

 

 時間の経過も場所の高度もわからなくなったとき、階段は昇る先に浮かぶ薄い雲のある高さにまでさしかかり、そこへ飛び込んだように天気雨じみた水の壁にぶつかった。

 

《―――こちらからはただ異常を感じられるということくらいしか様子はわかりませんがそちらは大変なことになってたんですね。だいたいは予想が尽きますが、ご迷惑をおかけします。私の方からも謝ります》

 

 落ち着いた言葉だった。

 声ではなく、その指がなぞったテキストを直接読み込んでいるような感覚。

 

《しかし、あちらが中々の波乱万丈だとしても、■■■■がいないと終わらない。誰かが幕を引かないといけません。けれど、神様も帰っちゃったし、私はそちらには文字通り手も足も出ません》

 

 俺に出来ることがあるのか。

 何もないから諦めた方がマシだと言われたんだぞ。

 

《でしょうね。あの『箱庭』は閉鎖している。その限定された状況下にあって、全員の行動を投影(トレース)してしまうことで、未来観測を研ぎ澄ましている。

 そんなときに無理、無茶、無鉄砲なイレギュラーに付き合わされるのは勘弁してほしいでしょう。私も一体何度思った事やら。

 それでも付き合う方もおかしいと思いますけど。

 何度負けようと逃げよう病院送りにされようと、へっちゃらな顔してしれっと生き延び、いつの間にやら大金星をとってるハードラック。

 この、何だかんだと最後には絶対に勝つ、と反則気味な主人公(ヒーロー)なんですから、賭けたくなるも仕方ないと言い訳させてください》

 

 文面(言葉)は辛辣のようで、筆記(声音)は温かだった。とても自分に親近感を抱いていることを感じさせる。

 

《先が見えてる、なんて当たり前だと言われても、あなたはそれを何とかするために現在を全力で頑張ってるんじゃないんですか。

 一万通り近くのルートがバットエンドが予測できていたとして現実が変えられないわけではないです。

 現実は想像よりも奇なりです。

 はっきりいって、これ自虐になりますが、割と計算違いが出てるんじゃないんですか。

 

 ―――まあ、私ならそこに白紙という未来を見ますけど》

 

 多分、それは。

 彼女には救済なんだろう。

 鍛冶神ヘパイストスが泥から作った体に女神アフロディテから美貌、賢神ヘルメスから知恵を与えられたギリシア神話における原初の女、それに一つの箱をもたせて主神ゼウスが天の火を盗んだ人類への災厄として地上へ送り込んだ『全ての贈り物(パンドラ)』。

 地上にて、パンドラは箱を開け放ってしまい、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪――ありとあらゆる不幸が世界へと飛び出してしまったが、ただ一つだけ箱から出て行かずに底に残されたものが『予兆(エルピス)』だという。先が見えなくなった人間は、無駄な努力をしなければならなくなったが、人は未来を知ることができないからこそ、希望を持ち続けられるのだと。

 しかし、その予定調和を崩すのは、女の子が一生懸命に作った砂場のお城を壊してしまうようで、ひどく怒りと恨みを買ってしまいそうだ。

 

《結局、私が私を託したのは自分じゃなかった。

 そう、私はわたしに自分を救うことができると考えられなかった。

 前に言われた問題。

 『自分では解けない問題を作り、その解を答える』

 あれって、自分では解けないことを誰かの手を借りて解くというのもまたひとつの解答と成り得えますか》

 

 ああ。

 お前も一人じゃどうしようもないから、外に飛び出してまで手を繋ごうとしたんだろ。

 何もできなかった自分に頼られる資格はないが、目を覚ませば―――きっと、お前の仲間は大勢いる。

 だから……………

 

 たとえこれが自分が生み出した都合のいい幻想だとしても、この機会をどれほど待ち望んだか。

 そのときのために、どれほど多くの言葉を用意してきたのか。訊きたいことがどれだけあるか。

 だが、まだだ。

 それらを口にすることはない。

 だから、彼女は―――伝えるべきことだけを伝える。

 

《―――私を、呼んで》

 

 偶然に用意された世界なのかは分からないが、時間切れが近いようだ。

 眼前にいるその姿が、空気に溶け込むように透けつつあった。

 それでも声の質感だけは確かに、一切おぼろげさせずに耳朶に通る。

 

《そうすれば、私は起きます。加えて、お姫様にするようにお目覚めの接吻もセットすれば、確実に》

 

 思わず、口元を緩めた。

 

 お前はお姫様じゃなくて、妹だ。だから、もしかすると呼ぶ時は荒っぽくなるかもしれないが勘弁してくれよ。

 

《言っておきますけど、私を呼ぶ時はわたしも一緒じゃなきゃダメですよ》

 

 すかさず加えられた注文に、笑みが強張る。

 傷つき、疲れ切った吐息を漏らしてから、口を開く。

 その言葉にちゃんと答えられたかは分からない。

 だが消えゆく間際、少女が再び笑みを浮かべたのは―――声が届いたからだろう。

 そう思って―――そう信じて。

 最後の一段を登りきり、雲の先へ―――

 

 

???

 

 

 ………重い闇から目を覚ます。

    随分と長い間、眠っていたかのよう。

    実際の体感時間では、すでに一日以上は経過している。

 

 ………定まらない意識のまま、

    自分の手足と、身体があることを確認する。

 

 ………視覚と記憶に異常がなければ。

    この今眺める天井は、上条当麻が泊まっていた宿屋のだった。

 

 ………狭間にある虚構の街から、

    不幸の失われた楽園から、

    無事、目覚めた―――

 

「お兄さん、お気を確かに」

 

 誰かの呼び掛けが、耳朶に響く。

 その声は、真剣なものだったので、

 まだうまく力を入れられない手を振って、

 大丈夫だ、とその子の頭を撫でた。

 

「ひゃっ!? こ、この如何にも頭を撫れ慣れした指テク!? お兄さんったら寝起きは優しいですけど危険なんですね!

 あ、いえ、じゃんじゃん触ってもらって構いませんけど、いきなりは困ります。事前に『今夜は可愛がってやるぞ☆』と言っていただければ、多少無茶な注文でも、こちらからベビードールを用意しちゃうくらいオッケーです!」

 

 ―――あれ? 期待し(思っ)てたのと違うぞ? とつい片眉だけ表情筋が上がる。

 

「って、レッサーかよ」

 

 と確認すると当麻はなぜかがっくりとくる。そこに不満を覚えた獣娘は唇を尖らせ、

 

「レッサーかよ、って失礼ですね。これでもお兄さんを探すのに結構無茶したんですよ」

 

 軽口な挨拶を交わしてから、力を入れる。

 最初は深い海の底で起こそうとしているかのように重かったが、意識すれば、すぐに体は復調した。

 立ち上がり、問題なく歩くこともできるだろう。

 7日間も延々と不休で階段を上り続けていたが、肉体的にはこれまでずっと眠っていたのだから、調子はいいはずだ。

 ただ、肩に数人分かの人間を背負っているような錯覚を覚えてる。

 ……いや、錯覚ではない。

 そこに人生を懸けてくれた、ひとりの姉の断片が息づいてる。それに加えて、もうひとり―――

 

「まだ休み足りない―――ってことはなさそうです。よく眠れたそうですね。そのお顔を見ればわかりますとも。イギリスからのあなたは本当の意味で眠れてはいなかったんですけど、興味本位で聞きますが、どんな夢だったんです?」

 

「さあな。途中から滅茶苦茶にされた夢だった気がするが、ほとんど何も覚えてない。―――けど、あれは良い夢だったよ」

 

 あの『予兆』された幻想で、泣く人間はいなかったし、新たな一歩を踏み出す笑顔もあった。そこに不満を抱くほうがおかしいほどに、祝福された未来だった。

 普通、それを壊すというなら躊躇いもするほどになりそうだが、

 

「やはり、諦めていないようですね」

 

 言われて、よりハッキリと自覚する。

 その通りだ。

 どうも自分は、まだ諦めていないらしい。

 一度は負けたというのに、いったいどこで劇的な心境の変化でもあったのか、それとも、もともと叩けば直る単純な精神構造だったのか。

 どちらでもいい。

 大事なのは、今、心が曇りのなく晴れやかなことだ。

 後を託されたこともあるだろう。

 その命を狙われた敵であるけれど、どうしようもなく同類の姉に全財産を賭けられてしまったのだから、どんなに大穴だろうと全力で走らなければなるまい。じゃないともう一度、今度は蹴りではなく凶器度満点の鞭で尻を引っ叩かれそうだ。

 本当、もう呆れを一周くらいまわって、我ながら単純だと感心してしまう。

 今こうして、戦うと決めた時点で、迷いはなかった。躊躇いも。

 残った不安は『それでも香椎を止められるか』という点なのだが……

 

「お―――おおお、お―――!!」

 

「あん? どうしたレッサー」

 

「ちょっ、ちょっと待ってください。ほんの10秒だけ猶予をください!」

 

 断りを入れてレッサーは突如、凄まじいダッシュで走っていった。そのまま扉を開けて部屋の外へ脱出、その後、ひょこっと出口から顔を出してこちらを盗み見る。

 アイツの精神構造は未だに計りかねるなー、と頭をかきながら見てると、

 

「(やばい。覚悟を決めたっぽいお兄さんと目を合わせただけでドキドキさせられたとは……この状況だというのに思わず英国人財補完計画(はにーとらっぷ)のオ・モ・テ・ナ・シを実行に移すところでした。これがつり橋効果ってやつですか)」

 

 はあはあ、と何やら不穏な単語が聞こえてきたような気がするが深呼吸するレッサー。

 1分ほどで落ち着きを取り戻したのか、何事もなかったように戻ってくると、コホン、と咳払いをひとつ。

 

「で、これからどうするんですか? お兄さんが眠ってる間に、もう半分以上過ぎちゃってますよ」

 

「まだ終わってないなら十分だ。いい加減に魔術師の連中のやり方も少しずつ分かってきたし、妹のことなら一番よく知ってる。―――問題は、学園都市だな」

 

 

出張都市

 

 

 人が力を求めると罰せられるというなら、世界はとっくに終わっている。

 

 

 人が火を使うようになっても、世界は終わらない。

 人が石油を使うようになっても、世界は終わらない。

 人が核を使うようになっても、世界は終わらない。

 人は触れるべきものではないものに触れて、多くの犠牲を出した過ちを糧に、そのたびに大きく前に進んできた。

 ならば、どれほど力を求めても、どんなに禁忌の手段でも、世界は続いていくのだろう。

 

 

 アゲハチョウ。

 尾の先端に人の大きさほどの『繭』をぶら下げた、四枚羽の真っ白な機体。

 

「く、」

 

 機体の中心に黒夜海鳥は笑う。

 

「くか、」

 

 <一方通行>は、触れたモノの『向き』を変えるというもの。運動量、熱量、電力量。それがどんな力であるかは問わず、ただ『向き』があるものならば全ての力を自在に操ることができる、ただそれだけの力。

 

「くかき、」

 

 その四枚羽()は、窒素だけでなく、大気に流れる風の『向き』をも掴み取っている。

 世界中にくまなく流れる、巨大な風の動きその全てを、この蝶の羽ばたきは掌握下に置く。

 それは、かつて最高の頭脳をもつ能力者が脳に障害を負う前、『実験』の最後の絶頂で辿りついた同じ境地。

 だが、黒夜海鳥はその先を行く―――ッ!

 

「くかきけこかかきくけききこかかかきくここくけけけがげげげごぎくげげごがげぎがごげぎぎぎ――――ッ!!」

 

 黒夜海鳥は嗤いながら、もっと寄こせと叫んだ。

 そのベクトル操作は、天候を―――さらには現実科学では観測できない『何か』の流れも統べようとする。

 『FIVE‐Over.DM(DarkMatter) Accelerator』

 

 少しずつ『箱庭』の環境系を変えていく力―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 脅したにも関わらず、ディグルヴは追い出そうとはしなかった。むしろ落ち着くまでは集落にいるべきじゃないかと引き留めてくれたりした。

 しかし。

 

 浜面仕上は言った。裏切ったのは、彼女だと。―――本当にそうか?

 

 自分ら学生の多くから人気のあった代表。―――その自分の周りに集まってくる者に対しての価値観ってどうなのか?

 身の回りにたくさんの人がいたら、1人1人に対する扱いは薄くならないのか。―――そんなことはない。

 どうして? ―――ならば、逆に訊こう。

 こんな自分の命懸けに踏みとどまったのだから、全のために一を捨てるような性格だと言えるのか。

 自分の周りにたくさんの人がいるという理由で、ぞんざいに扱う人間が、どうして親しまれるというのか。才能があって能力があっても敬遠されることだってあるのに。

 自分と繋がりのある人を粗末にしていれば、人望なんて集まらない。

 あの時、小さな少女の願いを聴いて、あの人を助けたのは―――

 

 そこまで考えると、あそこにはいられなかった。

 

 それに滝壺と絹旗はとにかく、片目を抉られ、片腕をもがれた麦野は、あの村の設備では応急の処置はできても、治療はできない。

 そもそも学園都市の能力者はそのレベルに関わりなく、専門の機関に行かなければならない。

 有り金を全部出す、だから頼む、と集落の人たちに土下座し、みっともなく土下座し、小柄な老人から青い4WDを一台、“借りた”。

 

「その、色々と、済まん。いつかアンタらに借りは返す」

 

「期待しないでおこう。仲間や惚れてる女のためだからって、あまり無茶をするなよ」

 

 と説得と嘆願の通訳と手伝ってくれたディグルヴに礼を言うと4人を乗せた車を走らせ集落を離れ。

 

 そうして、主戦場から離れて、短期間で築き上げたとは思えない、学園都市の出張基地エリアへと浜面たちは辿りついた。

 

 学園都市の一学区がそのまま出張してきたと称される基地。土地の広さに制限がないせいか、これは本物の学園都市よりも大きいだろうか。そして、まだ建てられてそれほど日数が経過していない出張都市は、周囲の誰にも踏み荒らされていない新雪と同じように最新のまま綺麗で整理されてる。<スキルアウト>が溜まり場としていた第十学区とは比べるまでもない。……とはいえ、あそこは駒場の旦那らが少しずつ人を寄りつき易いよう努力しているのは知ってるし、浜面には理由がなくても週の半分は立ち寄るほど居心地が良い。

 少なくとも、この生活感がない街よりは。

 

「前もって調べた情報から来たんだが、ここが『ホスピタル』、か……?」

 

 にしては―――奇抜な建物だ。

 清潔というより病的な白で全体を塗装されて、正面は完全な正方形をしている。高さから考えて中が吹き抜けということもないだろうから、3階――いや、4階建てくらいはあるだろうか。

 入口は観音開きに二枚。幅は普通の扉よりやや広い。扉二枚で3mはあるだろう。ただし、外から建物内が窺える透明な材質ではなく、少なくとも正面から見る限り、窓らしきものはひとつも存在しないのだから変に見える。

 

(まさか、『窓のないビル』まで出張して来たっつうのか? まあ、出入り口があるだけそれよりはマシなんだろうが)

 

 試しに横に回ってみれば、側面もまたほぼ正方形。

 つまりこの建物『ホスピタル』は立方体なのだ。

 当然のごとく、側面にも一切窓はない。換気扇らしきものさえ見当たらない。多分反対側も五十歩百歩だろう。裏側に回った。勝手口も窓も存在しない。

 この建物には、口を開けられるのは出入り口の一ヶ所だけなのだろうか。これはいわば完璧な立方体なのである。サイコロのようなものだ。

 

(相手に潜入されないよう、息苦しさを我慢して余計な穴を塞いだっつうのか。そんな馬鹿な)

 

 そしてこれは今更な話なのだが、人がいない。この出張都市に、誰もいない。

 <アイテム(自分達)>以外に何人参加しているかは知らないが、ここに、一切、人気がない。

 ここまですんなりと来れたのは、警備も防衛もなく誰にも引き留められなかったからだ。

 

(おいおい、『病院』に医者も看護師もひとりいないっつうことはねーよな)

 

 きっと避難とかで安全な建物の中に引き籠っているんだ。

 それが勝手な思い込みだというのは重々と承知していたが、浜面にはこれ以上調べることもできないので、すごすごと正面に戻った。

 イヤホンもないし、扉を開けて中に入るべきか。しかし何となくそういう気分となれなかった。それでもこの中がたとえ吃驚箱であろうとどうなっているのかというような複雑なことを考える力はない。

 まずは――安全な車内に、彼女たちを乗せたまま――先兵となって、前に立つが、開かない。取っ手がある。自動ドアではない。浜面は扉を軽くノックする。

 叩いた感触から、金属製でもコンクリートでもない材質で、けれどあきらかに重たそうな扉は、どうにも人を受け入れてくれそうにもない雰囲気を持っている。

 ……いやこれは、歯医者に初めて行った幼児と同じ心境なんだろう。仮にも『ホスピタル』が患者を拒むはずなんてないんだから。心の持ちようだ。

 でもいくら待っても何の反応が返ってこない。『病院』から何も感じ取れない。

 今も戦いは終わっていないことを思い出す。主戦場は独立国家であったが、出張都市が攻め込まれないとは限らない。ここは学園都市の要の陣地なのだ。もしかしたら、すでにこの街は占領されてしまったのではないだろうか。

 

 そんなはずはない。

 

 それだけはわかっている。

 たとえ第三次世界大戦が始まっていたとしても、学園都市は速やかに敵を撃破し勝利するだけの戦力を蓄えていた。過去に、<スキルアウト>のころからの知己半蔵が教えてくれたが、大規模テロ0930事件から学園都市は軍事関連に力を入れ、準備している。

 これほどあっさりと負けるはずがない。だから、この出張都市は安全地帯には間違いない。この建物も扉や壁に使われてる材質は触れただけで、自動車が衝突してもびくともしないと予想が素人にもつくほど。頑丈。要人とか警戒とかいったレベルのものではない。執拗に外部からの進入を拒んでいる。まるで堅固な要塞。けれど怪我人を門前払いはしないはず。きっと。でもこの扉を開けるのは、何としても厭だった。

 中にはいればきっと看護師ぐらいは迎えて、急患です、って言えば医者を連れてきてくれて診てくれる。そうだきっと―――。

 

「よし……………開けるぞ」

 

 扉に手をかける。

 地獄の釜の蓋でも開けたような音がした。

 ぶしゅうう―――と。

 厭な気分は晴れず、“最悪に”、と頭に加えるほどより酷くなった。

 『病院』が身震いしているようだ。

 『病院』が生き

 

 

 

 要塞(病院)は、扉を開けはなったそのときだけ僅かに外界を受け入れるが、それを閉じた瞬間から完全に独立した小宇宙を確立する。空間は深く静かな重低音と青味がかかった人工的な光線で満たされ、空気は澱み、緊張して、振動している。自然光が一切入らない世界では、存在するモノすべてが蛍光灯の洗礼を浴び、映画のフィルムのように現実感(リアリティー)を奪ってしまう。要塞の内部――『病院』の中は確実に外の世界から切り離された亜世界であった。

 

「おい……」

 

 浜面には、思わず発したその自らの声すら、一度電気信号に分解されて再構築された、拡張器(スピーカー)の音声――そう、電話の受話器から聴くような――のように思える。あまりここに長く滞在すれば、沈んだ機械音が頭を芯から呆としそうな影響下。

 内部の様相はその外観に負けず劣らずの異様さを示している。

 扉を開けて、出迎えたのはトンネル。患者の憩いの場や看護師の受付なんてない。扉とほぼ同じ幅同じ高さの廊下が真っ直ぐに続く。床も壁も天井も病的に白い。

 

 理性の限界が試されている。

 

 天井には縦に一列になった照明燈が埋め込まれているようで、左右の壁には等間隔で扉が並んでいる。もちろん扉は透明でもないし、窓もない。必要最低限に、武骨だ。

 廊下の突き当たりもやはり扉がある。

 

「おい、誰かいないのかーっ」

 

 ……何かおかしな気分だった。

 

 どこか忍びこんでいると自覚があるものの、見つかるかもしれない危機感がまるでない。麻痺しているのだろうか。

 この『ホスピタル』がどれほどの広さなのか、浜面には見当もつかない。音もない、人気もない。外と繋ぐは出入り口だけの建物は、中に入れば間取り(レイアウト)がかなり非常識で過剰に扉だらけなので広いのか狭いのかわからない。

 それでもまっすぐ進んで扉を開け、進む。次は右隣の扉を開け、進む。……それを延々と繰り返し、入ってから30分ほど――この程度の建物なら一周できるかできないか――のところで、開けた空間に、一際に大きな扉があった。

 ここに来るまで何度扉を開けたのかは数えてないが、もうすでにノックとか一言断りを入れるマナーを守らなくなるほど遠慮がなくなっていた。医者、もしくは看護師を見つければ、文句を言ってやりたくなるほどだ。

 

「誰でもいい。せめて話せる奴がいてくれよ」

 

 ようやく目ぼしいと思ったその部屋は足を踏み入れた途端にひどく肌寒い場所で、天井に明かりがない。電源を消しているのだろうか。

 扉が閉まらなくても、ここは施設内でも特に亜世界な空間で、気圧の変化に圧迫された内耳の圧力調整に耳抜きが強いられた。

 そして、環境に合わせた鼓膜が、自身の鼓動(うち)ではない振動(おと)を確かに捉えた。

 

「何の、音だ……?」

 

 呟いて、浜面はくらりと目眩を覚えた。

 続いて、気付く。この空間の匂いが、明らかに病院の薬品臭さとは違う。

 急いで引き返して逃げるか? いや、正体を確かめなければ、安心できない。

 部屋の照明燈(ひかり)を入れようと扉付近の壁を探るも、スイッチはない。

 どころか、音もなく勝手に開けていた扉は動き、閉ざされた。

 

 

 ―――ここは………何かヤバい………っ

 

 

 ガタガタと身体が震える。

 カチカチという奇音だけが、脳髄を駆け回る。

 浜面仕上は、暗闇の中で、周囲を見渡した。

 明かりはなく、部屋は暗い。

 けれど、その奥。

 夜の海に浮かぶ、ウミホタルの生物発光を思わせるような、仄かに青白く光ものを見つけた。

 そちらの方から、音が聴こえる。

 そう、これは水の泡立つ音だ。

 

「―――」

 

 浜面は声もあげず歩きだした。

 前に。身体が重い。足を引き摺るように。

 左右の壁に更衣室のロッカーのようにずらりと並べられた冷蔵庫よりも大きめなサイズの機材が無数。

 音源、それから光源となっていたのは、その上にひとつひとつ乗せられている、ガラス張りの(はこ)

 ちょうど人の頭ほどの大きさだった。中には得体の知れない塊が匣ひとつに3つほど入っていて、ちょうど実験室のホルマリン漬けのように、ネバネバとした液体の中でふわふわと浮いていた。

 

「―――――はは」

 

 学園都市の闇に堕ちてから、こんな話を聞いたことがある。

 

 『プロデュース』の被験者は、脳のどこに<自分だけの現実(パーソナルリアリティ)>が宿るのか調べるために、クリスマスケーキみたいに脳味噌を切り分けられた、とか。

 

 その人の怒りを買えば死なすことさえも許されない。猟犬の如く追いまわし脳と心臓だけを回収されて延々とそのままに生かし続ける研究者がいた、とか。

 

 <冥土帰し(ヘブンキャンセラー)>とかいう偏屈な医者が残した『負の遺産』を応用すれば、死にかけた人体を一度骨まで溶かしてまた生体へ復元させることができる、とか。

 

 闇がある学園都市だ、根拠のない眉唾物の噂も多いし、小さな事実に尾ひれ背びれが付いて広まることも多い。

 だが―――。

 

 

「なんだよ、……なんだよこれ。これじゃあB級のホラーの方がまだマシじゃねぇか」

 

 

 『ホスピタル』――『収容所(hospital)』の奥にあったのはすべて。

 どこからどう見ても、大脳、脳幹、小脳と三つに分かれた人間の脳にしか見えなかった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ひひひ」

 

 出張都市の中央に建てられた『シェルター』の最深部にある部屋で、女性の笑い声が響く。

 

「ひひひひひひひひひひ!! はっは! ぎゃはは!! あー駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だっ!! いひひいひ! わ、笑いが、止まわっ、死ぬ! 笑いで死ぬう!!」

 

 医者、あるいは学者然とした白衣を羽織った見た目30代ほどの女性は、両腕を抱くようなポーズで、マニキュアを塗った爪を腕に喰い込ませるほど、まとめずカールに整えたせっかくの長髪を乱してしまうほど、笑い、嗤い、哂う。

 その部屋には彼女以外にも、精巧な作り物のような少女が置物のように椅子に座り、その横に直立不動するピンク色の白衣にカーディガンを羽織った看護師がいるが構わず。

 どうせひとりには自意識はないお人形さんで、もうひとりは気にしない。

 

「……先生。計画はまだ終わっていませんが」

 

「良いよ良いよ。予定通りに事が進んで第四位に第一位の削除は成功してるんだし、それ以上に、<幻想投影>はこちらの都合のいいほどに化け物になってる!! はっはぁ これでルート確定!! 大・逆・転、っが超楽しみだよん!」

 

「プラン通りにせよ、まだ過程にあることに変わりはありません。緊張を弛めるべきではないのでは?」

 

「分かってるって。でーも経過でも楽しむだけの余裕は持たなきゃ人間らしくない」

 

 目元に涙すら浮かべながら、女医は念のために進行具合を確認する。

 

「それじゃあ、全てを巻き込み、世界を一新する最終フェイズを始める前に復習ね。力点は?」

 

「新『学生代表』に役割を設定済みです」

 

「反作用」

 

「旧『学生代表』へ誘導済みです。反転した反動は、こちらの予想以上に影響が大きかったものと推測されています」

 

「第四位」

 

「能力暴走による自爆にて消滅」

 

「第一位」

 

「『ダイヤ』が<幻想御手(レベルアッパー)>にて取りこみました」

 

「<ミサカネットワーク>」

 

「『スペード』が<最終信号(ラストオーダー)>から掌握しています」

 

「<駆動代体(インテリア)>の製造」

 

「『クローバー』が一万体分製造をすでに終えています」

 

 仕事が早いようで何より、と女医は適当に褒める。

 

「過去に、脳だけで能力が使用できないかという試みがあったけど、というか私の病院(トコ)で試したけど、結果は失敗。やはり、脳とは肉体の中の一部品であるとする説が正しいと証明されるものとなった。あなたのように、人間のカタチを経由しなければ脳は脳として能力を発動できないもの」

 

 統括理事会に迫るほどに台頭してきた『学生代表』が暗部にまで介入してきたおかげで、学生らの徴兵が困難極まるものとなったが、代案はいくらでも用意できる。

 その脳が能力力場を発生させることしかできない道具であるならば、あの第五位が遠隔操作で利用していた副産物<外装代脳(エクステリア)>と同じく、『ホスピタル』で保管された復元された脳情報を『クローバー』の<未元物質>が用意した『駆動鎧』という身体(入れ物)と遠隔接続するだけでひとり分の『能力者』として補える。

 そしていくらでも補えれば、いくらでも失うことができる。

 

「まあ、<未元物質>の助けを借りても、精々強能力者(Level3)から大能力者(Level4)の間ぐらいの戦力だけど、その『駆動鎧(からだ)』は普通の人体と比べて性能は遥かに優秀。例え破壊されても脳さえ無事なら別の『駆動鎧』と再接続すれば済む。生産性から多様な能力性は第三位の量産能力者計画(レディオノイズ)を上回る。間違っても一体を製造するだけで学園都市の総資産の一角をまるっと飲み干すほどじゃない。それに“ひとつの身体に、脳がいくつでも登録できる”」

 

 その数、10000人。

 そして、そのオリジナルは、一人一人が組織や体裁と言った強固なシステムを個人の力で撃破できる可能性を持った――“反乱分子となる可能性を秘めていた”者たちだ。

 

『“あの子”のために俺たちは戦う』

『俺たちを救わなかった『魔王』を倒せ』

『ああ、俺たちこそが『英雄』だ』

 

 出張都市から独立国街へと送りだされる群体は声高にそう叫んでいることだろう。

 残留思念、とでも呼べるものか。

 採取され、保存されていた“資料”からの情報として獲得して、それぞれに性格ができている。

 

 CDをプレーヤーに入れるとかと同じように。物質表面についた細かい凸凹を『クローバー』の<未元物質(ダークマター)>からなぞって取得された目には見えない『何か』は、所詮は紛い物。

 そこからできたのは入力された情報から3Dにコピーされるのと同じ。

 

 だが、それらは本物と同じ性質(ヒーロー)を再現されて、同じように『彼女(コントローラー)』で動かせるのだ。

 

 

『<人的資源(アジテートハレーション)>プロジェクト。

 

『学園都市の中核となる先端技術研究開発計画の阻害要因となりえる可能性をもった――俗にヒーローと呼称される――不確定因子には、対応するように弱者という庇護対象(ヒロイン)が出現する。

 このプロジェクトの目的は、庇護対象を人工的に生み出すことにより、通常戦力・手段の積み重ねで消滅することが難しい特異性をもったイレギュラーなヒーロー達を最小の犠牲で迅速に共倒れさせることにある。

 ヒーローに、ヒーローを倒させる。

 その衝突のエネルギーは綺麗に相殺されることなく、別のヒーローへ干渉を起こす可能性も否定できない。

 ようはビリヤードのように、無数に盤上におかれた『ヒーロー』というボールを、『庇護対象』というキューが突いて弾くことで、ボール(ヒーロー)行く先(行動)を決め、それが他のボール(ヒーロー)にぶつかるか、または『(暗部)』に堕とす。

 

『意のままに『ヒーロー』を動かすために重要なキューである庇護対象(ヒロイン)

 これは強者の中からでも出現されることはあるが、統計的に見れば弱者の中から生まれる場合が圧倒的に多い。それに、弱者であり、無能であり、幼稚であるほうが、庇護対象としての資質は好ましい。

 事実として。

 超能力者という強者を倒しその実力を示した上で、無能力者という弱者の言論を統括し、弱者自身が自分の意見を預けられ、集団における代弁者のような役割を担った『学生代表』は、有能であるが故に庇護対象ではなく、多くの弱者を背負う、現学園都市における最大の阻害要因となる指導者(リーダー)となった。

 崇拝象徴(アイドル)という属性は強まったが、弱いことを武器にする庇護対象(ヒロイン)として属性は逆に弱くなった。

 同じとは見られない。

 人間離れが限度を超えてしまった。

 あまりに優秀過ぎた―――誰も助けようとは思わないほどに。

 過去に試験された武装無能力者(スキルアウト)を用いた予備計画で、『学生代表』になる前でさえ反応は特に顕著でもあったが、さらに圧倒的強者となれば、より圧倒的弱者な庇護対象という属性に、弱くなってしまうのだ。

 

『庇護対象を完全に捨てさせるために、学園都市から切り離す。

 それは見知らぬ他人にさえ影響を及ぼそうとするあまりに強まった崇拝対象としての自然な行動を助長したものであったが、それは箍を完全に外すことに成功。

 

『弱者とは“自分達に身近な、自分達だけの味方”が欲しい。どこへでも行き、誰でも救ってしまうようなやり方は、何の約束もしてないが自分達だけを守ってくれるという強者への絶対的な信頼からくる選民思想を持ってしまえば、認められない。

 かけられた期待は大きければ大きいほど、裏切られた時の反動は壮絶。

 それを無視したのは、致命的だったのだ。

 

『そこへ、予備計画に用いた『彼女』を見捨てられた被害者として作り変えたキュー(庇護対象)が噛みつけば、ボール《ヒーロー》の滅多打ちが始まる大物喰い(ジャイアントキリング)が起こり、あとは『彼女』の影響が弱い、所謂重いボール(ヒーロー)を削除すれば、一切の負担なくヒーローが存在しない安定した世界が作り出せる』

 

 

 庇護対象(ヒロイン)が計画の要。

 だから、『彼女』はより属性を高めるため、単純問題を解くことそのものに疑問を持たないよう、看護師『ハート』が複数操れる6つの超能力の内“<心理掌握(メンタルアウト)>により”脳が調整されている。

 餌を得るためにクイズを解く、鳩程度の知性が残っているほうがこちらには望ましい。見た目だけは庇護欲をそそる容姿を保っていれば問題ない。

 文字通り、お飾りで傀儡(くぐつ)の“お人形さん”でいいのだ。

 

「この地球という惑星の上では、優秀な者ほど奴隷に堕ちやすい。資源がある土地ほど、侵略の対象になり易い。最先端な技術を持つ学園都市に敵が多い。けれど、それは仕方のないこと。日本も昔、累進課税制度のおかげで一部の金持ちの税率は、色々合わせて90%くらいだったのよ? 江戸時代の農民でさえそこまでの搾取は受けていない。まともな神経をしている人間だったら、馬鹿馬鹿しくやっていられない数字よね。なのにどうして彼らはそんな高額の税金を払っていたのか―――それは高額の税金を払うことこそが社会貢献であり、富豪の義務であるという“空気”を、世間が、弱者が作ったから。

 本当の支配者は―――能力ももたず、優秀でもなく、特別でもないのに、“弱い”ことを武器にし、そういう“空気”がつくれる存在」

 

 どこまでも圧倒的強者である『右方のフィアンマ』とは対極の思想。

 

 

 

反乱分子(ヒーロー)の能力と高性能低安価の身体をもつ駒。『ホスピタル』――第二位の贋作から派生し、ついに生産性だけを追求し“一施設と化した”『クローバー』が創造したのが、<駆動代体(インテリア)>。

 ―――ヒーロー(こいつら)が、正気に戻ったらどうなるかしら」

 

 かつて第三位が、不治の病をおった患者のために“何の疑いもなく自ら進んで”己のDNAマップを採取されたように、『彼女(弱者)』の声に募集されて、『それが正しい行いである』として『大脳皮質の一部を提供した』。

 それらオリジナルも含めて全ては、この能力者たちにしか通用しない(AIM拡散力場を介した)『不自然な天啓』の存在を知らない。

 それは人間の行動を強制するような命令を飛ばすのではなく、気付かれないように方向性を整えるものだ。

 しかし。

 もしも知れたとなれば、彼らの怒りはどこへ向くだろうか。

 人は騙され易い生き物だとしても、好き好んで騙されたがる人は珍しく、騙され利用されていたと気付けば、その方向性は反転する可能性が高い。

 前例とすれば、第五位のように。

 誘導されて頭の一部を提供され、しかも培養されたそれらが壊されればオリジナルにダメージが跳ねかえって廃人となりかねないと知れば、ひとりではなにもできない庇護対象は、最悪の地獄に堕ちるだろう。

 

「ま、“装置”としてなら大事にするけど、この娘の未来()なんて私にはどうだっていいのよね」

 

 そうして、学園都市と同じく、この独立国――『箱庭』を含む区域に多種多様で強力な、けれど『『魔王』を倒す』というひとつの指向性が与えられたAIM拡散力場が満たされれば、あとは<最終信号(ラストオーダー)>の代役となるよう調整された<番外個体(ワースト)>に『ウィルス』を打ち込めば―――全ての条件は、達する。

 

 

 第一位の演算方法の一部だけしか植え付けられなかった『ダイヤ』、黒夜海鳥。

 

 粗悪なもうひとりの第二位の欠片を兵器利用し憑かれた『クローバー』、シルバークロース。

 

 一個の第三位の細胞から悪意の中で培養されたクローン『スペード』、ミサカワースト。

 

 そして、ただひとりの少女の『声』を聴き集められた1万人分の脳を乗せた<駆動代体(インテリア)>。

 

 どれも、本物にはなれない贋者だ。

 

 しかし、本物が退いた戦場で君臨するのはこの贋者だ。

 

 

「安い言葉だけど、統括理事会のひとりである私が保証してあげる」

 

 

 ―――あなた達は、本物の道化(ヒーロー)よ。

 

 

 

つづく


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