とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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世界決戦編 失楽園

世界決戦編 失楽園

 

 

 

雪原

 

 

『そうだな。半分は待ってやったんだ。もう、脇役の活躍は充分だろう?』

 

 

 『熾』とは燃え盛る炎を意味し、熾天使とは、『獅子の如く吼える、輝く雷光の空を燃えて飛ぶ蛇』ともいわれる。

 強烈な光を閃かせ、凄まじい魔力の奔流と尾を引かせて大蛇の如き軌跡を空に描く。

 香椎はその光景を視認した途端、作業を止め、速やかに独立国外の外を目指して駆けだしていた。

 その行動を視認した聖者は、一度、熾天の鎖をほぼ垂直に高く上昇させてから―――

 一気に、螺旋と捩じりながら襲撃を仕掛けさせた。

 

 

 空気が揺さぶられた。

 

 

 最初から容赦などない。

 狙いの焦点を合わせ、一点に標的を襲った。

 まさにこれは神話だった。燃える鎖竜の通った跡は、地盤さえも溶け落ちている。エリザリーナ独立国同盟の街に、大きく一直線が引かれ、十戒の加護のある建物を木端微塵に噛み砕く。

 雲が生じた。

 大気が割かれ、気圧差が生じた結果に生まれた、飛行機雲。それは箱庭の天候にさえ、大きく爪痕を残すほどの一撃。

 だがしかし、天使軍を統括する手綱から求めた手応えがない。さらに姿を見失った。すり抜けられた? また空間を転移したか? いや、もう見つけた。瞬き一つの間に、紅一点は速やかに復元が始まる国街の外へ出ていくのを捕捉した。

 

『ふむ。サイズが大きいと狙いを定めるのも面倒だな』

 

 主の呟きに、天使軍は熾天の鎖から陣形を変える。

 北欧神話の世界蛇のごとく、先の見えない長さで連結していた鎖が個々に別れ、“火が点いた”。

 

 ギリシア神話における勝利の女神ニケのイメージが混ざり、今の翼の生えた人の姿が代表的な天使の容姿となったという。

 それ以前のイメージ。かの預言者が言うには、天使は『複数の眼のついた燃え上がる車輪』であると。

 <天使の力>を運搬する、燃える車輪。

 ブォ!! と、雪原に着いた途端、その回転数が一気に増す。雪氷が液体のプロセスを無視して気化する昇華。スリップするタイヤのように地面を削り取った直後、弾丸のような速度で一斉に襲い掛かってくる。大質量の次は大数量での突撃一択。極めてわかりやすい攻撃手段であるものの、歯車は勢いに任せて空すら走破する可動域で、重力の縛りのない複雑な軌道を描いて接近。

 回避を選択しようにも、数多ある熾天の車輪の一つ一つには複数の目が備わっており、炎を撒き散らしながら追随する。

 

 その光景は見る者に巨大な歯をイメージさせるだろう。

 牙ではなく、歯。

 鋭く突き刺さるものではなく、奥歯のように平たくその圧力でもって全てを押し潰し、咀嚼し、丸呑みしていく天使の大口。

 

 車輪刑。

 フランスで有名な方式だ。車輪や歯車を模した巨大な金属部品を用いた殴打・撲殺系の処刑法。『車輪』の用途は折れた四肢を縛り付けるための拘束具から罪人の手足を折るために直接的殴打する鈍器まで様々にあり、機能性や合理性を考えれば、鉄槌や棍棒のほうが打撃系武器として優秀だが、あえて車輪の形を保っているのは、太古、太陽に対する贄の儀式を取り込んだ結果だろう。

 そう、<神の如き者>が象徴するのは、『太陽』だ。

 

 だがこの程度、<天使>の総攻撃で蹂躙した程度で死ぬはずはないと、聖者はよく理解している。

 

「―――<一方通行(アクセラレーター)>方式フルングニル」

 

 北欧神話、雷神トールの敵の巨人フルングニルは、決闘において一撃で敗北したが、破壊されたフルングニルの武器は砕け散るとその破片がトールの額を割って突き刺さった。

 その応用で、『標的となる者の強度や格式は関係なく、敗北からの勝者に確実にカウンターを成功させる』という呪い返す術式がある。

 その法則で『反射』の性能を<天使>にさえ通じるように組み上げ、必ず相討ちに持ち込む結果を生むように“運命の流れ(ベクトル)をもっていく”―――『勝利』の結果を『反射』するのだ。

 火炎を盛らせ稲妻を走らせる車輪は滅多打ちにしながらも、一撃を香椎に喰らわす度に車輪天使ひとつが砕け散っていく。

 そして、<歩く原典>の復元能力により、体を再生していく。

 人を越えし熾天の車輪に対抗せずに轢かれて、己を捨ててひたすらに力に逆らわない捨己従人の境地。

 

『なるほど。それが<聖なる右(この力)>への防御策というのか』

 

 破壊力はいらない。―――触れれば終わるのだから、相手を壊す努力は必要ない。

 速度はいらない。―――触れれば当たるのだから、当てるための努力は必要ない。

 しかし、絶対的な勝利が運命づけられているのなら、その後の相討ちもまた絶対となる。

 そう、上条当麻がロンドンで最後に呪詛返しを成功させたように―――

 

 はずだ。

 

 

「だが、前の俺様と<生命の実>を完全に取り込んだ今の俺様を同列に見ているなら間違いだな」

 

 

 その声は、真上から聞こえた。

 

「『本来あるべき』を全出力で振るえば、すべては救済される。この俺様の腕には本来世界全土を救う力がある。それを今ここに証明しよう」

 

 攻撃を喰らい相討ちに持ち込みながらも、香椎はエリザリーナ独立国街から遠く遠くに離れた無人の雪原へと移動していた。

 そこへ来るのを待ち構えていたように天空に浮かぶ聖者と、また探し求めついに見つけたように地を這う代行者が、ついに相見えた。

 その空間は、森も村も都市も見えない、ただ、雪原と凍土地帯特有の苔が疎らに転がる岩に張り付いていた。

 半数にまで数を減らした熾天の車輪は、両者を中心に円陣と囲むように周囲へ飛来し、呼吸するように体構成を復元していく香椎が、静かに空を仰ぎ見た。

 一日が立ち、再び天上に昇る太陽を背にする、赤色の人影が浮かんでいる。

 <神の右席>の『右方のフィアンマ』だ。

 

「何、これまではほんの前座だ」

 

 完全な固定化に成功し、長さが不揃いの『右手』の指を広げた猛禽の羽根のごとく、

 そこへ無限と溢れ出てくる<天使の力>が、聖者の第三の腕から伸びる『右手』の手中へと収束し、物質と化して一つの『鍵』を形作った。

 

「この通り、もうすでに片割れは、俺様の手のままとなっている」

 

 全人類へ救いを定める最後の審判の先駆けか。

 世界を閉ざす『鍵』が、“刺した”空間が捻られ歪む。それはまさしく黒天体(ブラックホール)に等しい。

 

「さて、この右手が掴む救世がどれほどのものか、その一端を体感させてやろう」

 

 杞憂。

 空が落ちてくるのを心配するのは馬鹿馬鹿しいと過去の人は言う。

 二つの赤い人影の距離は未だに100m以上は離れていた。―――しかし、天と地は、この一時、概念が崩壊する。

 

 “抜かれた”その空間から広がる白天体(ホワイトホール)から“何か”が生まれた。

 

 

「―――神道式黄泉津醜女封錠。天津神アマテラス招来」

 

 

 ―――光。輝き。ああ、それはもうひとつの太陽を思わせる。

 

「天の威光は常に太陽により表れる。光の届かぬ地の底とて主の威光が届かぬことはない。真昼の如き眩い光をもって、この世を浄化せん」

 

 背負った車輪は、まさしく『日輪』。

 そして、太陽とは、頂にあるだけで常世を退ける。

 ゆっくりと(まわ)る輪の中央から放たれるは、空を洗浄し尽すかの如き光の奔流。

 暴力的なまでの眩さは、絶えず白の雪原に降り注ぎ、目標とした紅一点を呑み込んでいく。終わらない。終わらない。それは大地へ恵みではなく、ノアの方舟と同じ、完全なる浄化をもたらさんと天から下される神罰だ。

 

「まだ、終わりではないぞ」

 

 軽々しく、フィアンマは『鍵』をまた捻り、抜く。

 

 

「―――ケルト神話式フォモール封錠。光の神ルー招来」

 

 

 『日輪』はその形状を変化する。

 速度を増していく回転に伴って、凸レンズに通されたように世界を満たした光が中心に集束。

 さらに、金剛石のように凝縮されたカタチを固定化することで、陽光は『槍』として鍛え上げられた。

 『槍』は蠕動する。放たれる時を今か今かと待てず漏らす残滓だけで、空間に神々しい爪痕を残すそれは、人の手に収まる規格ではない。間違いなくアレは、神業級に届かんとする暴威の塊。

 極光を浴びて、いまだ動けぬ身には躱せまい。

 極度に圧縮された太陽が墜落してきたかの如き、美しき紅蓮の螺旋は疾駆するだけで、大気中の水分を残さず沸騰させ、地表に突けば、凍れる大陸全土が絶対零度の戒めから融かれる。

 

 

「―――ギリシア神話式テュポーン封錠。天候神ゼウス招来」

 

 

 今度は、天空より落雷が発生した。大気に滾っていた氣という氣が残らず突き立った『槍』を避雷針にして集中したのではと思われるほどの『雷霆』であった。

 そうそれは、世界を一撃で溶解させ、全宇宙を焼き尽くす雷。星一つの防衛機能を誇るはずの十単さえも、焦がされる。

 

(まず世界を限定的に囲んだ上で、この何重にも折り重なり、混在する数多の神秘をひとつずつ選んで閉じている)

 

 

 第一の太陽は、神道で岩戸に隠れずその威光を表に出せばそれだけで、黄泉の侵攻から“世界を救った”太陽の化身。

 第二の光槍は、ケルト神話で見たモノを殺す邪眼を灼熱の槍の一投が貫通し、妖精へと降して“世界を救った”光の神。

 第三の雷霆は、ギリシア神話で天災を司り、恐怖をもたらす怪物を、天上の雷により奈落へと落とし“世界を救った”十二神の長。

 

 

(悪霊、邪神、魔獣……この世界に深く浸透している滅ぼす災厄を閉じ込めるということは、神の加護や恩恵に余力が生まれる、つまり封印に割かれていた分の神格を自由に振るえるということ。言ってしまうと、今、フィアンマは神話伝承における『救世』を行使できる権利を持っている)

 

 その技術は大仰でも何でもない。近代西洋魔術における儀式場や十字教の聖堂教会においても、『ある一定の空間内をひとつの宗教の色で染めること』は基本中の基本だ。『他宗教を代理にたてる』天草式などという例外は存在するものの、十字架の横に仏像を置くのは、基本から離れている。

 ひとつの形、ひとつの色を保つことで、ひとつの純粋の価値を崇めるのが宗派のブランドを作っていく。

 だが、フィアンマのはその桁が破滅的、圧倒的、究極的―――絶望的に過ぎている。

 天然の真水から超純水を作成するかのように一切の不純を取り除かれた空間は、人の常識では測れない理外の現象を起こしているのである。

 それはあたかも、全世界全宗教が備えてきた救済の希望を思うままに切り崩し、振舞っているかのように。

 <天使の力>を凝集して形を整えて<天使>を召喚するのと同じように、目の前に投影される救世の幻想もまた、厳密には各々の宗教の神秘や世界の位相が溜めこんだ、ある種の力の塊で、いざという時の『終末に対する保険』だったはずだろう。たとえこれらが終末を知らない人が勝手に想像し、勝手に畏怖し、勝手に信じた災厄を退ける救済の力だとしても、その理屈を忘我の彼方へと飛ばすほど神々しい威容が君臨していた。

 

(救世の力……というより、厳密には災厄を世界から閉ざす鍵、ですか)

 

 十字教における『鍵』とは、上に立つ者がより至上から与えられた権利、すなわち、地上において神権を管理し、統治し、治めるために神から許された権威。それは、

 天国の鍵であり、

 救済の鍵であり、

 王国の鍵であり、

 知識の鍵であり、

 権能の鍵であり、

 福音の鍵であり。

 そして、唯一神である主から、熾天使の長へ与えられたのは堕天使の長を封じるための底無き奈落を閉ざす鍵。

 それに加えて、熾天の車輪でもって周辺の空間を『安定』、『調整』、『保持』し、一種の結界を作っているのだ。でなければ、あれだけの最高位の神威の解放と同時に<御使堕し(エンゼルフォール)>のような怪現象が見舞っていただろう。あるいは、世界自体の許容限度を超えて、ガラスのように粉々に砕け散っていたかもしれない。

 大げさな話ではない。世界を救う力とは、世界を滅ぼす力よりも上でなければならないのだから。

 それはつまり、星一つの防衛機能<歩く原典>では追いつかないということ。今も限界以上に働かせて尚、復元が追いつかない。そして、過負荷同調を行うよりも早く、それは属性を変えていく。

 

(何にせよ。確かに“仮想救世”と言えます)

 

 天から『雷霆』が大地に突き刺さる。

 それはまた変生する。

 

 

「―――拝火教式ダエーワ封錠。火の精霊アータル招来」

 

 

 絶対悪から生み出された三頭竜を山へ鎖で繋ぎ止め、大地を支配する王権の象徴『光輪(クワルナフ)』を守護した善なる火の精霊。

 崇高なる『火精』が放つ赫い波動は、竜の毒や炎の吐息、邪悪な害虫、千の魔術でさえ寄せ付けず、まるで気化するように一瞬で蒸発させる。

 そして、『火精』は大地へ封じる『縛鎖』へと固化した。

 

 

「―――北欧神話式フェンリル封錠。戦神テュール招来」

 

 

 主神を食い殺すと予言された魔狼が身体を鎖で縛られた後、下顎は大地に、上顎は天につく世界をも呑み込める口を二度と噛むことができないよう剣を突きいれた北欧神話の伝承。

 その『↑』を刻むだけ勝利の恩恵に預かれると神々の中で唯一その名に文字(ルーン)の意味がある戦神テュール、朝日の最初の光を受けると煙となって消滅してしまうその剣は、手にしたものに天下の覇権と非業の運命が約束される。

 次々と持ち主を変えながら北欧からローマ、欧州各地へと流れ、神の鞭と称され、十字教に対する災いと恐れられた大王に死を遂げさせた後は行方不明となり、様々な憶測や新たな伝説を生み、または過去の伝説が忘れ去られていく中で剣は変貌していき、最終的に所有者になったと伝えられるのは、<神の如き者>―――

 

 

「―――十字教式堕天使封錠。<神の如き者(ミカエル)>招来」

 

 

 ついに、しりとり繋ぎの如く軽く世界を破滅させる救世を連発させて紡いできた『鍵』が『黄金の剣』を展開する。

 

「よくぞここまで形を保った。が、さあ、メインディッシュの時間だ。存分に喰らえよ」

 

 <光を掲げる者(ルシファー)>と<神の如き者(ミカエル)>。

 反旗を翻し敵対者となる前は主から最も信頼のある天使長であった<光を掲げる者>は、顔ばかりではなく姿形も<神の如き者>と似ており、その実力は伯仲。

 ならば、<神の如き者>が勝利を決した要因とは何か?

 それは、主が神の武器庫から賜った鞘より抜かれた剣。

 <幻想投影>は神さえなれる力だ。

 だが、今ここで<神の如き者>の絶対勝利を模倣しようが、『右方のフィアンマ』の勝つ運命は変わらない。

 

「今また、俺様は確信しよう。俺様には世界を救う力がある。そして、この行動が、絶対的な善の到来を意味するものであるとな」

 

 蛇を刺し貫いた『黄金の剣』は、重ね着された和装を破り、その胸を刺し貫いた。

 堕天使と天使が起こした天界の戦争の終末を描いた絵画と同じ。

 焼き焦げて、鎖に縛られ伏して動けぬを踏み留めて、止めを刺す。

 

「―――」

 

 不自然極まることに血の一滴さえこぼれない。声も、ない。代行者たる少女は突如として人形であることを思い出したのか、嗚咽もなく静止した。

 

 

《病院》

 

 

 旧約の聖書で、最後の一日は休みであったが神様は7日で世界を創造したそうだ。

 

 目が覚めてから、戦争へと傾きかけていた世界情勢、目には見えない流れも変わったことを携帯やテレビのニュースで知る。

 上条当麻は何もしていないが、この一週間もないわずかで、良い方向へと進んでいる。

 だから、戦う理由もないのだから、これまで何かと戦ってきた自分も、少しは休んでも良いだろう、と………

 

 

 

「―――………当麻」

 

 その声に、目が覚めた。

 半分開いた自室のドアから、父親が顔をのぞかせていた。無精髭を生やし、くたびれたシャツの上に保温性の高そうなジャンパーを着込んでいる父親は、心配そうにこちらを見ていた。

 

「魘されていたが、腕が痛むのか?」

 

「ん……、」

 

 顔をしかめて上体を起こすと、どっと疲れを感じた。寝汗がひどい。これが二度目でもまだ慣れない。今回は途中で映像の受信が途切れたテレビ画像のように夢が断絶したから余計だ。

 あまりにだるそうに見えたのか、刀夜が言う。

 

「先生を呼んでこようか?」

 

「……いや、変な夢を見て……疲れただけ……」

 

 当麻は重い溜息をついて、背伸びをした。それだけで少し体が軽くなる。

 そういえば、あれから“連日”見舞いに来ているが仕事はいいのだろうか、とふと思う。

 

「そういや、出張でここに来てるっつってたけど……」

 

「変な心配をするんじゃない、当麻。父さんよりも不注意で怪我をしたというのに、まだぼんやりしてるのか。しっかりしろ」

 

 ベット脇の椅子に腰を下ろした刀夜は、寝癖かどうかはわからないが今日も跳ねてる息子の頭を掻きながら、そう言った。

 しっかりしていれば、ベットの中で見る夢の内容は少しはマシになるのだろうか? 意外とそういうものかもしれないと受け入れられるから、父の言葉は不思議である。

 当麻が今回も見た、奇妙な夢―――

 前回とは違い、知ってる人間、それも戦ったことのある相手と挟み撃ちにされる夢だった。

 その衝突は途中で世界が止まってしまうほど凄まじくて、それでもそのあまりに強い二人にも勝ってしまう。なんて、強い。これでは“誰も必要ない”ほどに。

 そして。その後に宣誓した内容は、思い出すだけで寒気がこみ上げ、ますます気分が悪くなった。それが戦闘以上に激しく、当麻の精神状態が限界に達してしまい―――おかげで魘されてしまったというわけだが。

 そこで、ようやくふと思うのだ。

 もしかするとこれは上条当麻の夢ではなく―――

 

「あ」

 

 その何かを意識すると、身体が、軽くなった。しかしそれは、不調が直るでも、気が楽になるというのでもない。腑に落ちない、また浮き足が立つ、そして胸に穴が開いた、と並べる言葉はこちらのほうだ。在り方として欠損してはならない大事な部分の重さがなくなっているような、それは不安の感覚だ。

 

「俺、何でこんなところにいるんだ……?」

 

 惚けているどころか、最初から置いていかれている状況だと言える。

 当麻は動く左手だけで頭を抱え、思考を巡らせる。

 呼吸が早まり、心臓の鼓動が高まっていく。焦りのあまり、全身から冷汗が噴き出した。

 

「落ち着け……今、わかることだけを整理しろ。俺はどんな状況に置かれてるんだ?」

 

 自分に言い聞かせる。

 

「俺は今……何者かの術中にハマってる。それも完全にだ。だがその相手が誰なのかは、わからない……いや、“覚えていない”」

 

 当麻は元々、難しい推測や計算ができるタイプじゃない。それでも、何かヒントは無いかと必死に探し求める。

 

「こんな状況で、俺に何ができる……?」

 

 疑念が確信へと変わって、より絶望感が当麻を押し潰した。

 この違和感を唯一自分の手で正せるこの右手は、何も触れられないように固められ、

 壊すには誰かの手を借りなければいけないのに、そんな行動は『精神不安定の自傷行為』と看做され、止められる―――。

 

「落ち着くんだ当麻!」 刀夜はぴしゃりといった。「前へ進みたいのなら、まずあるがままを受け入れなさい」

 

 当麻は口をつぐんだ。あるがままを受け入れる……?

 刀夜は冷静な物言いで、

 

「その動揺は、現状を受容できていないから生じてるんだ。不本意だとか、不服だとか、不幸だとか、こんなはずではないだとか、そういう反発を一切捨てて、すべて現実と受け入れるんだ。時計の針は一秒たりとも戻らない。実際に起きてしまっていることを嘆いても無駄というものだ」

 

「でも、違う! 何かうまく言えないけど違うんだ、父さん……!」

 

 すかさず刀夜は片手をあげて制してきた。

 

「なんらかの好ましからざる状況で、絶望の淵に立たされたとしても、世界はそれ以前とは何も変わっていない。ただ、今の当麻にはわからないというだけだ。自分の主観に基づき生じた動揺など、ただの気分の変化でしかないんだ。取り乱していたんでは冷静な思考など働くはずもない」

 

 当麻は頭に血が昇る流れを聴いた。

 

「諦めろってことか? 認めたくない現実を全て現実と割り切れってことか? できるわけねーだろ!」

 

「いいや。世の中の全てを変える術などない、それを考えても仕方がない。当麻は思考の停止が無責任に繋がると恐れすぎてる」

 

 思考の停止。あるがままを受け入れる……。難しい。問題に背を向けて逃げ出すも同然としか思えない。

 刀夜はじっと見つめてきた。

 

「いいか、全部考えることを止めて、それでまず最初に浮かんだ解決しなければならない問題があるとすれば、どんなことだ」

 

 こだわりを切り捨てるべく深呼吸する。父の言葉は、不思議だ。こんなときでも、脳に浸透させる。多少の落ち着きは取り戻した、そう自分に言い聞かせながら当麻はつぶやいた。

 

「何か忘れてるんだ。助けなくちゃいけないヤツがいる。取り返さないと、思い出さないといけないものがある」

 

「そうだ。一度思考を白紙とすれば、自身の感情に左右されず、困難に直面している誰かを思いやれるんだ。では次に、今の当麻に歪みを生じさせた原因は何だ」

 

「そりゃあ、夢……」

 

「ここで夢? 当麻が?」

 

「違う」 当麻ははっきりと言った。「夢で見てるけど、俺のじゃなくて……誰かの現実なんだ」

 

「その根拠は?」

 

「根拠なんかない。俺が、そう信じてるだけだ」

 

「大いに結構。それで充分だ」

 

 刀夜は大きく頷いた。

 

「当麻の信じてるものが揺るぎないものであるなら、後はそれを真実と証明するだけで良い。自分のためではなく、人のために動けば、常に冷静でいられる。良いか、当麻。『情けは人のためならず』だ」

 

 当麻は妙に思った。

 

「その格言、何か違くないか?」

 

「いや。これで正しい。世間ではよく曲解されてるが、人に情けをかけることは、その人のためにならないから行うべきではない……。そう捉えられがちだが、しかし本当の意味はこうだ。人に情けをかけることは、その人のためではなく、やがて巡って自分のためになる、だから進んで行うべし」

 

「へぇ……知らなかったな」

 

「自分の感情を優先したい衝動にかられた時には、すぐに思考を停止することだ。他人に目を向けるんだ。客観的で冷静な思考が取り戻せる」

 

 本当に不思議だ。父さんの声を聞いてるだけで、少しずつ冷静になってくる。

 

「じゃあ横になって楽になるんだ。無理をしてはいけない。それで一度リセットした後は、その夢のことだけを考えながら、その内容を父さんに教えてくれ」

 

 刀夜の目が真剣に――いや、険しくなった。夏休みからだが、息子の当麻でも見たことがないような表情だ。

 

「安心しなさい、当麻。私は当麻の味方だ。生まれてきてからずっとお前のことを一番に大事に思ってきた」

 

 それは、ウソじゃない。誰にも侵せぬ、絆や愛情のようなものがある。いや、『ようなもの』などと誤魔化せるものではなく、疑うまでもなく、本能で理解できる。

 だから頼って―――任せてもいいんだ。

 どんな些細なことでも、隠さなくていい。話せば、楽になることだってある。

 当麻は生まれたばかりの赤ん坊が最初の呼吸をするように、舌足らずでも大事な保護者の今日の出来事を一生懸命に口にするように伝えた。

 けれど。

 

 

 瞬間―――病室が、震撼する。

 

 

 地震か。それも大きい。震度にすれば、5以上はあるだろう。

 途方もない衝撃が走り、室内を照らしていた電灯が音を立てて割れる。天井が軋み、床がぐにゃぐにゃと歪む。しかし、(こだま)して、窓枠を大きく揺らしたのは爆音。

 

「当麻はここにいなさい。父さんが様子を見てくる。何かあったらすぐナースコールを押すんだぞ」

 

「待ってくれ―――!」

 

 息子をベットに押さえつけるように寝かす。

 それを当麻はすぐ待ったをかけようとするも、右手が重い。空間に、楔と埋め込まれたようにベットから降りることができない。

 病室を出ていく刀夜の背中を見送り―――

 気配が遠ざかってすぐ、窓ガラスが激しい音と共に外側から割られた。

 

「うおっ!」

 

 外から投げ込まれて窓を割ったモノ。それは全長1mは超える、有刺鉄線を巻いた凶器的特徴があまりに濃い鉄槌(ハンマー)で。

 身を竦ませながらも、割られた窓の向こうを見れば、何かが渦巻く風に乗って現れた。

 

 黄色い色彩。

 目元に派手な化粧。

 顔中にたくさんのピアスを取り付けた女。

 中世の女性服を基調としながら派手な黄色に染められたそれは意図的に他人から嫌悪されることを望んでいるような格好で、

 

 じゃらり、と。

 舌から細い鎖と連結した、剣のような十字架が吐き出される。

 

 当麻は瞠目し、その闖入者に見覚えがあって―――名前を呼ぼうとした。

 けれど、それよりも早く、その人物は激情を堪えるような掠れた声で怒鳴る。

 

「いつまで寝惚けてるつもり、アンタ……!」

 

 9月30日、『天罰』を利用した術式をもって、学園都市の全機能をほぼ完璧に停止させ掛けた魔術師で、<神の右席>のひとりとして、それまでとは一線を越えた実力を見せた―――『前方のヴェント』であった。

 

 

独立国街 ニホンダルマ

 

 

 『謎の筆記体で知るされた羊皮紙の古書』、『蛇や昆虫が収まった謎の液体の瓶』、『何かしらの動物の小さな顎』、『紫色のいかにも魔女が作った秘薬な粉末』……オカルト方面に限定してそろえられた品揃えで、注文さえいただければ人間の頭蓋骨も用意できる(自称)『軽食・土産物屋』―――また出張拠点である『ニホンダルマ』。

 そこで目を覚まし、血液の流れがまだトロい正常力かなり低い思考能力のレッサーを、アップで待ち構えていた顔は、長身で短い銀髪の女性……

 

「……あれ? こっそりベットに潜り込んで、お兄さんと一夜を明かす予定だったのに何でドS教官志望のベイロープが?」

 

「おはよう、レッサー。早速だけどご期待通りの目覚まし(ビンタ)が必要なようね」

 

 パチリと瞬きするレッサーに、青筋立てて受け答えるベイロープ。まずい。あとちょっと軽口叩いたら本気で実行しかねない。

 <新たなる光>は、フットワークの軽さから結社とならず、四人組でチームにそれぞれ役割分担が決まっている。

 単身で敵陣へと乗り込んで、チョロチョロと挑発撹乱しながら情報収集する斥候偵察(スパイ)

 位置座標を正確に掴んだところで遠距離高威力の雷撃で相手を一網打尽する砲撃手(アタッカー)

 状況に応じて、広域へ各種ステータス異常妨害を行い相手の回避性能を削ぎ落す後衛(バックアップ)

 翼による高機動の飛行術式で敵陣深くに切り込み孤立している前衛を回収する殿役(ヘルプ)

 その中で最も身軽なレッサーが斥候偵察(スパイ)で、チームの中で彼女にしか扱えない属性補助霊装をもつベイロープが砲撃手(アタッカー)

 で、向かいのソファで絡み合ってる二人。仮眠をとっているフロリスが殿役(ヘルプ)で、同じく仮眠中で他人の布団に潜り込む悪癖を発揮しているランシスが後衛(バックアップ)だ。

 基本的にリーダーは決めていないが、<新たなる光>の中で一番の年長で最も攻撃力があるベイロープがなんとなくそのポジションに収まっている。ただ前へ前へ突っ込んで暴れるレッサーよりも、後ろから指揮を執るベイロープの方が冷静でいられるのでこの方針がベスト。

 

「……んー。んんー?? ありゃ、動く? 私ガチガチの縛りプレイされてませんでしたっけ? いえ別に、いくらベイロープに責められてるからってそっちの方面に開眼なんてしていないんですけど」

 

「そのまま放置してくれた方が大人しくて扱いが楽だったけど、運良く私達と一緒に英国から現地入りした“能力者”が解いたわよ。それより食べながらでいいから、アナタが実際見聞きして集めた情報を報告してちょうだい」

 

 ベイロープから差し出された全世界規模に展開されるチェーン店の紙袋――ひたすら重たそうなハンバーガー、脂ぎったナゲットやぶっといソーセージといったヘビーな肉料理からサラダやポテトなどの軽い野菜系、それから付け合わせに出された店の商品でもある蝙蝠の姿焼(クセはあるがパリパリっとした翼のところはフライドチキンの脚に勝るとも劣らない)も合わせて出されたものは全部、二食分も抜かしたレッサーの小さな胃袋に収めながら、現地入りして少年とともに行動した見聞を私見も添えて余さずベイロープへと伝える。

 そうして、カロリー補給と報告が終わるとレッサーはソファの背に立て掛けられていた、名前は書いていないが自分のだとわかる<鋼の手袋>をとって立ち上がる。

 

「どこ行くつもりレッサー?」

 

「こうしてベイロープと同じようにコテンパンにやられちゃったわけですけど、今回の件は一応お兄さんの味方だと啖呵切っちゃいましたから」

 

「もう一度言ってみ? 尻を100発叩くから」

 

「女性の尻はもっと艶めかしく取り扱うものであるといい加減に学習しませんか!? ベイロープの不当な責め苦に心は快感を覚えませんけど、体のスタイルが安産型になってきてるんですからね!!」

 

 呼び止めたベイロープだが、元気になってるレッサーはいくら躾けたところで言うことは聞かない。思えば、口が軽く足が軽い彼女が、あの民間人の少年についていくと決めた時も一度は止めたが逃げるように飛び出していってしまった。

 だがそれも『イギリスのためになる』という考えがあっての行動だ。単独行動を主にするレッサーでさえ、<新たなる光>における絶対の基準は守り、守らされるもの。

 部屋の空気が変わったことに、仮眠をとっていたフロリスとランシスも目を覚まし、ベイロープのわずかにあった遊びを消した顔色を窺う。

 

「レッサー……少しは冷静になりなさい。今、アンタがしようとしてることは私達のリスクとメリットの計算が合わないことよ」

 

「いいえ、ふざけてなんかいませんよ。お兄さんを取り込むことは、イギリスの利益となります。先程報告でも言いましたが、あれが代行者に与える影響は少なくないものとみて間違いありません」

 

「公的機関の<必要悪の教会(ネセサリウス)>が動いてる。その時点で、私たちの仕事は裏方のサポート。あの対象は今回の件のキーとなりうるのかもしれない、とあなたはそう言って彼についていったけど。だからといって、イギリスの利となる代行者と敵対してまで、博打をすることなの? 本当にイギリスのためを思うなら、速やかに手を引くのが賢いやり方ね」

 

「……、その様子だと、支援はあんまり期待できそうにないですねぇ」

 

「私達にはあの少年に領分を侵してまで価値があるとは思ってないの。あなたもどうせ下手な口約束したから、妙に意固地になってるだけでしょうよ」

 

 それに、とベイロープは伏せていた情報を明かす。

 

「天草式の連中が警護にあたっているけど、あの少年がどれほどの怪我を負っているか教えてあげる。まずは全身打撲と脳震盪。さらに念入りに四肢が壊されていたけど、一番酷いのが右腕。治療しても使いモノになるかどうか怪しいぐらいに指先から肩までひとつひとつの骨が丁寧にすり潰されている、もう赤黒い塊。それでそのまま街の外へ放り出して、吹雪の中に放置しようとしてたんだから下手をすれば死んでたわ。それを止めた東洋の<聖人>が<魔法名(殺し名)>を叫んで彼女に斬りかかったけど、『必要がないものに私がすることはありません。あなた方の善意に期待します』ってそれっきりまともに取り合わなかったそうよ。アレが“本来ならあったイギリス清教のサポート”なしに孤立してるのはそういったのが理由になってるんじゃない。

 英国の利となるとはいえ目的のために足手纏いになるのならば家族をも潰せる。―――そんな相手に誰も近寄ろうとは思わないでしょう。

 天草式に救出されたけど、絶対安静にしなければならない状態で、今回の件に参加するのはまず不可能。魔術も何もあんな使いモノにならない右手が打ち消すし、意識さえ回復していないから、今も予断を許さない。

 ハッキリ言って、あなたがあの少年がアレへの対抗策となるという意見も疑わしいわね」

 

 聞き終わり、しばらく考えるように呆けた後、なるほどじゃあ仕方ねぇや、とレッサーも認めた上で、

 

「ベイロープ」

 

「何よ」

 

「お得意の<知の角杯(ギャラルホルン)>を準備するだけの時間を上げますから、今からちょっと本気で喧嘩しましょう。あなたを私達の天辺からおろしてあげます」

 

 

《病院》

 

 

「いつまでボケっとしてんのよ! 早くそこから出るわよ!」

 

 まさか、まだ夢の中にいるのか―――。

 混乱する事態についていけない当麻の前で、ヴェントは投げ込んだハンマーを肩に担ぎながら、当麻ではなく警戒するように周りを窺っている。

 

「出ろって……」

 

 父親に悩みを打ち明けてたら、唐突に建物を襲撃し、窓が割られたかと思うと、上条当麻の敵だった魔術師に出ろと言われた。入院している怪我人が、何の理由があって病院から出なければならない。それも凶器をもって、恫喝するようにだ。

 それでまず連想できるのは、拉致誘拐。

 刀夜に言われたナースコールで応援を―――いや、彼女を相手には余計な被害が増えるだけだ―――

 

「……!」

 

 だが、頭で考える余裕は与えられなかった。

 ヴェントがその舌と繋がっている十字架をハンマーでブッ叩いたのだ。途端、虚空から不気味な音を立てて風塊が当麻にめがけて襲いかかる。

 身を捻って躱し直撃は回避したが、吹き飛ばされた。

 くの字に折れ曲がって逆さになったベットからどうにか頭だけでも抜け出して、

 

「いきなり何すんだ!?」

 

「つべこべ口答えしてんじゃないわよ。アンタの否定(意見)なんて聴いてない。私が出ろっつったら出るの。アンタがどんだけバカでも、その法則は覚えなさい。ここから出たかったら、私に逆らうな。分かった?」

 

「分かるか!」

 

「なら、痛みと一緒に教えてアゲル」

 

 口答えしたら、有刺鉄線を巻いたハンマーを亀のようにそこだけ外に出てる当麻の頭に叩きつけられた。

 当麻は慌てて下敷きになったベットから飛び出るように転がる。

 

「避けんじゃないわよ、ブッ潰すわよ」

 

「やってから何言ってんだテメェ! 挨拶代わりに俺を殺す気か!」

 

「ナニわかってるじゃない」

 

 遅れてきた風塊が真横から迫り――だけど、右手は動かず――避け切れず代わりに咄嗟に盾にしたのは左手―――その判断は不幸で、身体で受けた方が遥かにマシだった。

 

 メキメキメキメキィ!!!!!! と。

 掌で受け止めた上条当麻の左腕が大きく弾き飛ばされた。

 あまりの衝撃に左肩の関節がねじ曲がり、彼の身体は空中で軽くに回転は回される。

 

(あ……―――)

 

 そして、爆発する痛みはあまりに、あまりにも想像以上だった。

 

「が、ぁ!? ァァァあああああああああああああああああああッッッ!?!?!?」

 

 ■の縁が薄れている今、一の感覚が、五の感覚になる。

 左手の触覚(苦痛)から、視覚()聴覚()嗅覚(匂い)味覚()を共に伝えた五倍の幻肢痛が全身を駆け巡り、五乗の情報量が脳を焼く。

 耐えきれず、あまりに過剰な体験に意識が切断されたが、この感覚と思考は手放さない。

 

 五感で   左腕は   手に入れる。

    理解し   幻想を

 

 吹っ飛ばされて、落ちて。

 その後も転げ回る。

 幸いにして折れてはいないが、肩の関節は間違いなく外れて、それも落ちた際の衝撃で嵌まったようだ。舌を噛み切りかねない痛みがまた襲ったが、それでも風塊を左手で受けるよりは1/5以下なので我慢できた……あまり嬉しくない不幸中の幸いだ。

 

「何でその右手を使わないのよアンタ?」

 

「ッッ、見てわかんねぇのかテメェ!? 怪我してっから動かねぇんだよ!?」

 

 はぁ? 意味わかんないわね、とやった張本人は謝罪する気はゼロで心底不思議そうな色を顔に浮かべ―――すぐに消す。

 

「まあ、いいわ。元気そうだし、アンタに構ってあげる余裕がこの状況にはない―――」

 

 どこか焦りを滲ませるヴェントは、無理やりにでも連れて行こうと動いた時、新たな声が響いてきた。

 当麻には聞き覚えのある、そしてこの場に来てほしくない一般人の声だった

 

「当麻……! 無事か……!」

 

 頭に過るのは、夏休みに嘘つきに殺意を向けられた瞬間。

 来るな父さん! と当麻が叫ぶよりも早く―――背後で、キンッ、と弾く音。

 そうそれはヴェントが反射的に十字架をハンマーで引っ叩いたことから生じたもので。

 刀夜に向けて、先ほど上条当麻に遊びで放ったものとは違う、砲弾と同等以上の威力をもった風塊が放たれたのだ。

 

「ヴェントォォオ―――ッ!!!」

 

 考えたわけでもなく、ただ左は動かせないからというだけ単純思考、つまりは反射的に――これまで動かそうと思っても動かせなかった――右手を振り上げた。

 

 あらゆる異能を打ち消す<幻想殺し(イマジンブレイカー)>を前に、<神の右席>の一撃は霧散して―――その手に巻きついていた石膏が砕かれた。

 

「やっぱり、それ。仮病だったわね」

 

 “骨が折れるほどの怪我をしているはず”の右手が指先まで動く。痛みもなく。

 怒りを忘れてしまうほどの衝撃が頭を殴る。

 そして、狙ったわけでも意識した訳でもなく不本意に、“思考が停止した”、上条当麻をその声は叱咤した。

 

「逃げるわよ!」

 

 刀夜が、まるで当麻の逃げ道を塞ぐようにドアの前に立ちはだかっている。

 ならば、逃げるとしたら―――窓から飛び降りるしかない。

 ここが何階かはわからないがそれなりの高さだろう。

 逃げなくちゃいけない理由なんて、ないはずだ。絶対の味方であるといってくれた家族ではなく、理不尽に激痛を味あわせただけでなく、たった今家族を狙った敵の方へ逃げるなんて馬鹿がどこにいるというのか―――。

 

「よろしい♪」

 

 だが、当麻の身体は裏切るように無意識に窓に向かった。

 一体、何を考えてるか自分でもわからない。

 実際、窓から半身乗り出しても、なお迷っていたのだが―――

 

「ごめん」

 

 今この手を引くのは、まぎれもなく“同類”なのだ。

 一言、家族に謝ると、ヴェントに続いて―――当麻は宙に身を躍らせた。

 

 

イタリア とある古物商

 

 

 世界の全てを操るのならば手に入らないものなど存在せず、しかしそれ故に確固たるものがない。

 優れた洗脳能力(マリオネッテ)をもつ人間は、周囲にいる全ての人々が笑顔であっても、けしてそれを幸せだとは思わないであろう。

 何故ならば、その笑顔さえ洗脳者は指先ひとつで生みだすことができるのだから、極上の笑顔を見ても、“指先ひとつ動かす程度の瑣事”としか思う感想がない。

 つまりは。

 まるで古ぼけて色褪せた写真のような空虚こそが、全能者がもつ心の在り方で、全能者が立つ場所は虚無へと変わるのだ。

 

 

 

 そこは、ヴェネツィアの水の迷路の穴場にあった

 簡素なつくりの倉庫を買い取り、手を加えて改築された洋装だった。

 なんでも、以前は物置としか使っていなかった別荘のひとつだったということだが、この主人が帰ってから店舗兼家屋となった数ヶ月ほどは、時々ガイドなしで穴場発掘を試みる旅行者か物好きな富豪が固定客が出入りするのを、近隣住民たちが認めていた。

 しかしながら、それでも無人だった頃の雰囲気のまま。

 まるで古い写真の中にいるようなセピア色の建物。褪せてる景色は、これ以上の風化はなく、永遠に原型を保ち続けるような気さえ覚える。

 

(……工房としての機能はないようだけど。保管庫として扱われていた時からの名残りだろうね)

 

 神秘の形跡は隠蔽をよほど適当にしなければ、感じることはない。しかし、ここにあったのは名だたるコレクターであった『骨董屋』が集めた高格な霊装だったろう。神秘が濃密。物品が押収され、隠蔽処理された後でも、残り香を覚えるほどで、それはもう時間の経過でしか薄くなることはないだろう。

 墓荒しにあったピラミッドと同じように、許可なく入ってきた人間に呪害を侵すほどではないとはいえ、この前科者が敷いたテリトリーで危険な目に遭った経験がある。

 主人がこの応接間から奥へ向かったのを見計らって、

 

「失礼するよ」

 

「む、ステイル」

 

 軽く会釈と最低限の形だけの断りを入れるとステイル=マグヌスは煙草を咥え火をつける。ストレスが溜まる職場での習慣であると同時に、魔術的な意味をもった実益も兼ねている。主人の許可なく室内に紫煙をくゆらせるのはマナー違反だが、そこにある“臭い”を紛らせ薄める即興簡易的な結界となるだろう。

 礼儀を欠く態度にインデックスにしかめられているけど、この子を守るためならば骨董店中にカードを張り付けておきたいところなのにそこまでしなかっただけでも抑えていると評価してほしい。

 

「平然、問題ない。灰皿はテーブルの上にある。そして、茶を用意した」

 

 と、二人の前のテーブルにそれぞれティーカップが差しだされる。

 中身は湯気が立つ紅茶。おそらくは淹れたばかり、けれどここにお手伝いがいるはずもなく、となるとこれは主人自らの手でしたものなのか。角砂糖の入れ物がステイルではなく彼女よりに差し出されるのをみると贔屓はされているとは思われる。

 

「ありがとう。ここまで喉が渇いてたから助かったかも」

 

 角砂糖を数個紅茶に落として混ぜ、臆すことなく、ティーカップを持ち上げる。

 が、そこで修道女もぱちぱちと瞬きする。

 ちょこん、と可愛らしいカスタードプティングが、ティーカップの陰に隠れていたからだ。

 

「わあ、ひょっとして、このプリンって自家製なの?」

 

「同然、料理も、基本的には“あれ”と同じだ。レシピを守り調合を間違わず作業を淡々とこなせばいい」

 

 講師が真面目に数式の理論を語る調子で、甘い菓子について述懐されたのだから、横で見ていた神父の目が思わず引き剥かれる。

 

「うん。セージやパセリ、ターメリックに山椒と唐辛子と言ったコンビニやスーパーで普通に売っていそうな調味料さえ、適切な知識の基に処理すれば魔女の薬が作れる。しいかも一緒にお菓子は大さじ小さじと料理のように適当じゃなくてきちんと計量することが大事だって言ってたかも。これって、哲学者の卵(フラスコ)を用いる湿潤法と同じだよね」

 

「そうだ、必然、灰や砂を砂糖と卵黄に変えたところで、物事の本質は変わるまい。“あれ”は………なんて、君に教えるまでもないことだな」

 

「ううん、これらはあなたに教えてもらったことなんだよ」

 

 そう言われた主人は、懐かしむよう少し表情を緩めた。あの表情を作るだけの余裕もなかった数ヶ月前は、顔の皮膚どころか瞳の光が欠片とさえ動かすことができなかった。それでも、彼は感情表現が苦手な部類ではあったけれど、喜怒哀楽が表現できた『人間』であったのだ。それが『彼女』の前には、その数年前が特に思い出される。

 そう、この笑顔と会うためだけに『三日に一度のペースで魔道図書館へと提供する魔導書を書き上げる』なんて青臭くも精を出したものだ

 

「毅然、相変わらずのようだ、禁書目録(インデックス)

 

「そうだね。先生も変わってないんだよ」

 

「陶然、昔と同じように君が私をそう呼んでくれるのは、とてもうれしい」

 

 マルコ=ポーロ――アウレオルス=イザードは、ステイル=マグヌスの前代の<禁書目録>のパートナーであり、同じ悲劇の末路を辿ったもの。

 それ故に同情することができるだけの関係であり、また敵対することとなった。

 シャッターを切るように一度数秒の時間をかけて瞼を閉じて、インデックスから視線を外すと再び硬い表情で隣にいるステイルと向き直った。歴代のパートナー同士は共感はできても傷の舐め合いはもちろん、“ライバル”との慣れあいなど望んでないし、求めてない。

 ステイルもインデックスに目配せで会話から下がらせれば、硬質な声で口火を切られる。

 

「それで。忽然、何の用だ」

 

「まあ、ひとつは遅れてしまったが<必要悪の教会(ネセサリウス)>の監査だね」

 

「憮然、ロシアで学園都市とローマ正教相手に仕切りをしているというのに、ご苦労なことだな」

 

「不完全であったとは言え、未踏である金色のアルス=マグナに最も近づいた錬金術師は、“想像の限り”世界を思い通りにする力があった。その危険性を無視するのならそれこそ僕は正気を疑うね」

 

 錬金術には様々な宗派があり、『賢者の石の作成』、『魂の格を人間から天使への昇華』、『原罪からの解放』、『唯一神との合一』などと派閥ごとに掲げられる目標は色々ではあるが、それらを為すための『公式』や『定理』を知ることで、『世界の全てを頭の中でシュミレートする』という究極的な目的へと至ると考えられている。

 

 そして、『頭の中で思い描いたモノを、現実世界に引っ張り出す』ことは魔術世界ではそれほど珍しい手法でもない。

 

 反魂香、アストラル投射、雲外鏡、生霊、ドッペルゲンガー、サタンやマーラの誘惑に力比べで北欧の雷神を負かした一匹の猫、マクベスが見た亡霊ではないが、故人の亡霊、妄念の形、強い恐怖の対象など軽く例を上げただけでこれだけある。『頭の中にしかないもの』を現実に引き摺りだす伝説は、世界中にあらゆる時代に散らばっているのだ。

 実際に、人の力でその伝説を正確に再現できるかはまた話が変わってくるが、それが煙の中の幻影であれ、エクトプラズムなどの仮想物質で形作られたイミテーションであれ、重要なのは具体化のための方策ではなく、“何を想像するか(イメージソース)”。

 

 つまり、究極へ至った錬金術師は『自分好みの世界を作り直す』ことができる。

 

 ステイル=マグヌスは、爆破解体された棟を復元させた金色の奇蹟の一端を目撃している。

 

「已然、“私はまだその領域へは至っていない”。そもそも錬金術とは、未だ完成されていない学問だ。呪文自体は完成したとしても、100や200の年月で儀式は完成できない。そして、親から子へ、子から孫へと作業を一子相伝と分担したとしても伝言ゲームのように儀式が歪む―――そんなことを知らないとは私こそ君に魔術師風情としての正気を疑おう」

 

 ただし、

 

「と、言いたいところだが、闇然、私はローマ正教『隠秘記録官(カンセラリウス)』を辞めてから3年間の記憶がない」

 

 その衝撃的な事実を彼は、手に持ったティーカップの紅茶にさざ波を起こすほどの動揺なく普通に、そして冗談や嘘など混じりけもない真面目な顔で語った。

 ありとあらゆる拷問手段を用いる魔女狩りの一員を前に――まず隠し通すのは無理だが、だとしても――本当の事を自白する人間はいないだろう。

 しかし、その原因理由も既に推理されている。

 

 三沢塾での一件で、アウレオルスは記憶をも喰われ、自分が何者かさえもわからなかった。

 だから、こうして学園都市で見舞いにきたインデックスはとにかくとして、“記憶喪失した事件以降一度たりとも顔を合わせなかったステイル=マグヌスを知っていた”ことの方がおかしいのだ。

 

 英国で非公式に解決された『塗潰し通り魔(ブラックジャック)事件』

 そこで『彼女』が<禁書日記>(インデックス=ダミー)の最後に書き加えられた一節――『忘れたモノを思い出す』の効力は、魔導書を実際に魔力を込めて書くことで(ライン)を結ばれていた代筆者へと呪詛返しの如く|届いたのではないのかと。

 

 つまりその推理が正しいとするのならば、アウレオルス=イザードは3年間の記憶を忘れたのではなく、日記に書かれていた“3年前の記憶を思い出したのだ”。

 

 何としてでも救いたい人間のために外道へと堕ちた3年間は、“最後の日を日記に代筆した後のことなので”、思い出せなかった。

 

 一個人ではなく、<グレゴリオの聖歌隊>を用いて、2000人を直接操って呪文を並行詠唱させ、さらに呪文と呪文をぶつけることで120倍の追加速度をもたらす相乗効果により、仮に400年かかる儀式を半日で済ませた―――その<禁書目録>さえ知らない、誰も完成させたことのない大いなる術(アルス=マグナ)へ至る方法を編み出した偉業も、

 至るために2000人の回路の異なる能力者(学生)を禁忌反応で死なせ蘇らせ続けた罪悪も、

 そして、理から外れた<吸血鬼>から無限の生命を頂こうとした壊れた執念も、

 <禁書日記>に書いた過去よりも未来のことだったから、思い出せなかった。

 

 

「故に、悄然、私は禁書目録と顔を合わせるつもりはなかった」

 

 

《街》

 

 

「うおおおぉぉおぉおお―――おお……っ!?!?」

 

 窓から飛び降りた。

 幸い、高さはそれほどでもない。落下地点には柔らかい雪が敷き詰められるように積もっている。それらの好条件に加えて―――自分の身体を捕まえて重力と相殺するよう押し上げる旋風が、着地の衝撃を殺した。どうやら初めて自身の意見に従ったことが、彼女の機嫌をよろしくしたようである。

 

「間抜け面してないで、こっちについてきなさい!」

 

 落下の際に離れたフードの下、露わになったその短い(ショート)亜麻色の髪。けして明るい色ではないそれが、今の上条当麻の目印。置いていかれるわけにはいかない。舌を動かし、鎖で繋がった十字架を揺らし、身を翻すヴェント。風を味方につけた彼女は猫のようにしなやかな動きで、丈の低いが柵を飛び越える。病み上がりで裸一貫よりはマシな病院服で飛び出した当麻もできれば500mくらい先にある門を通っていきたいところだが、柵に手をつけてよじ登る。その際も、柵の上の冷たい雪に突っ込んだ両手に冷たさは覚えたが―――右手は何の支障なく動いた。

 

「―――」

 

 病院の敷地から脱走する前に、柵の上でバランスを取りながら当麻は先までいた病室の窓を見上げた。命令された勢いと、衝動にかられて飛び降りてしまったものの、心配をかけている味方――保護者へ背を向けた罪悪感を払拭する言い訳にはできない。

 

「………」

 

 その父である刀夜が、見下ろしている。距離があってもその表情が、ひどく裏切られた、と口ほどに言っている。後悔が刃となって胸を突き刺す。

 実の家族から逃げ、かつて殺しにきた敵の誘いに乗る。―――理解できない状況だということは百も承知だ。

 今からでも引き返すべきではないかと頭では迷っている。―――それでも上条当麻を急き立てる理由のない衝動はまだおさまることはない。

 

「―――あそこに戻ったら、後で絶対に後悔するわよ」

 

 その一言がさらに後押し(ブースト)して、拮抗する理性と本能の天秤を傾ける。馬鹿に拍車をかけた当麻は、生足で踏む零度の感触を分かっていながら、柵から凍っている路面に飛び降りた。

 

「私は後悔しないけどね。今のアンタには一秒すら惜しい状況」

 

 ヴェントの後を追う。

 彼女の言うとおり、今の当麻はどこかどうしようもない焦りを覚えている。枷が外れた右手が心臓のある左胸を掴むが、鼓動は静まらない。

 おそらく、その答えを教えてくれるのは、自分の抹殺の指揮を執ったヴェントであると感じた。

 そう直感したからこそ、今はこの敵の隣に並ぶことを選んだ。

 

「だったら頼む、このままで終わりたくない。さっきの半殺しだって忘れるし、<神の右席(アンタら)>が欲しがってるこの右手だってくれてやる」

 

「そんなのいらない」

 

 凍えて足の感触を麻痺(とば)してでも追いすがる当麻のペースに合わせることなく、走りながらヴェントは舌を出して吐き捨てる。

 

「アンタの右手が欲しかったのは、フィアンマで、ローマ正教を引っ掻きまわすヤツが私は気に食わないし、許さない。アンタの命を狙う教皇(ジジィ)の申請書類だって、とっくに破り捨てられてる。―――自意識過剰もほどほどにしなさい」

 

 詰め寄るのを制するよう、ヴェントは振り向かないまま、肩に担いだハンマーを真横に振り伸ばし、その柄が斜め後ろに縋る当麻の眼前で止められた。

 眼球まで、ほんの数cm。

 

「でもっ! それでも俺が今必要なのはアンタのだ。ヴェントの手を貸してくれ!」

 

 だがその茨の如き有刺鉄線にさえ噛みつく勢いで迫る当麻に、彼女は告げる。

 

「右手で邪魔したら叩き潰して落とすから」

 

 

 ゴオッ!! と。

 直後に、上条当麻の足場が浮き上がった。

 

 

 数十mも持ち上げられた当麻は理解に数秒の時間を要した。

 ヴェントの指揮から突如、足元から斜め上へと飛び出してきたのは、船。

 前もって地面に潜水していてそこから出現していたのかと勘違いするような精製速度(スピード)だけではなく、その大きさ(スケール)も異常。

 透明な氷で構成された帆船は、顔を出している部分だけの全長でさえ、40mはある。

 ヴェントと当麻を乗せた一隻の帆船は、歩行路から脇に停まっていた車両を蹴散らして、なお加速するよう路面を滑る。

 行く先々の雪を補填材料に取り込んでおり、建造物を巻きこむかなり荒い主人の航路で削られようと原形を維持してはいるが、アクションスタントでも、ブレーキもレールのない暴走列車の上を片手で張り付くのは無茶苦茶であり、曲がり角を横滑りで切り抜ける時は半身が浮く思いだった。

 

 ―――その街を破壊しながら進む強烈な光景は、当麻は一度見覚えがある。

 

 そう、あれは記憶を無くして初めての海外旅行で行った街―――

 

「イタリアのキオッジアで、ビアージオ=ブゾーニが指揮していた<アドリア海の女王>と護衛の<女王艦隊>を覚えてるでしょう?」

 

 風を切る速度をもろに受ければ、靴無裸足の二本足では振り落とされかねず、命令通りに右手では触らないように気をつけながら左手でしがみつく。

 舵を切る代わりとばかりに巨大なハンマーをくるくると回しながらヴェントは己を乗せる巨大構造物の正体を種明かす。

 

「人間の魔術が使えない<神の右席>でも、私も調整に関わったあの<聖霊十式>は一部だけでも操舵できるだけの親和性が私にはあったってわけ」

 

 先程の病院での揺れは、この帆船に備え付けられた砲台<聖バルバラの神砲>を撃ち込んで生じたものだ。『風』と『水』の二重混合属性の一撃は複雑で強大な威力を誇る。

 

「―――そして、私が司るは<神の火(ウリエル)>。奈落(タルタロス)と世界に通じ、最後の審判で開かされるその門を任されたからこそ、私はここへ航海することができる」

 

 『天罰』の術式霊装が復元していないが、それでも内にある<天使の力>は健在。

 この『女王(フネ)』はあらゆる難所も突破できるほどチェーンされている―――!

 

 だが、そこまでして、上条当麻を連れ出そうとする理由は何だ。

 

 抹殺か―――いや、その書類はもう破棄されている。

 この右手を手に入れようと―――いや、欲しているのはフィアンマであり、ヴェントはそれとは敵対していると言った。

 そもそも、“もう戦争は終わっているはずだ”。

 それは事実なのに、妙に―――何かがざわつく感覚があった。

 

「なあ、ヴェント、訊きたいことがあるんだが……」

 

「逆に、アンタに訊くけど」

 

 問い掛けようとして問い掛けられて、当麻は戸惑うしかなかった。

 ヴェントの目的が何なのかいまだにわからない。それなのに、何故か彼女の言葉に、どくん、と心臓が跳ねた。

 

「誰もいない雪の中を遭難したけど、学園都市と関係を結んでる病院に運び込まれて、助かった。そして起きたら全部終わっていた」

 

 その淡々と聞かされるセリフに空気を入れられていくように、当麻の中にあった嫌な予感が膨らんでいく。

 

 聞いてはいけない。

 聞いてしまったら、もう後戻りできない。

 そんな彼の根拠のない不安を知ってか知らずか―――。

 いや、何もかも知った上で、容赦ない口調で―――。

 

 

「―――なんて、アンタに対して神様がそう都合よく助けてくれたなんて思ってないでしょうね?」

 

 

 ―――上条当麻の時間が、ぴたり、と一瞬止まる。

 

 

『そんな『泥船』でどこにいくつもりですか』

 

 

 風を切る音も、進撃する帆船への悲鳴も、聞こえない。完全なる静寂に包まれる中で、その声だけを聞いた。

 幻聴ではない、実際に空間に響く波として。

 しかし、この声は/(彼女)のものだったか、/分からない(思い出せない)

 

 

『十字教では海の嵐を鎮め、船の安全を守るエピソードがあります、聖エラスムスという『船乗り』の守護聖人もいます。海の嵐は『水』と『風』の二つが混ざったものであります、そのエピソードを介すれば、部分的に『水』への干渉も可能になる。

 ―――と、残念ですが<神の火>が司る属性は『風』や『空気』ではなく、『土』。東洋の五行では、『水』は『()』を生かしますが、『土』は『水』を濁してしまう。相克。その関係をついて<神の火>の本性を起こしてしまえば、無残に結合は脆くなる』

 

 

 刹那に挟まれた説明が理解に刷り込まれる。

 囁くように小さく、

 けれど響くように大きい、

 /全く(とても)、聞き覚えの/ない(ある)声音。

 

「なっ……!?」

 

 そして一瞬に。スイッチが切り替わったかのように音が戻った世界で、氷が泥に変わった船は、その通り、脆く崩れた。

 落とし穴にはまったように下半身が沼に埋まる。

 

「やはり来たわね……!」

 

 ヴェントが歪んだ声を出す。

 

 

『“ここ”へ来れる可能性を持つ該当者でも、動機がないと思っていましたが、あなたの本性は、そういうことですか。コソコソと嗅ぎまわられていたとはいえ、直接に(まみ)えることがありませんでしたが―――それでも修正可能な誤差です』

 

 

 ―――それは、アカい靄がかかったは薄い人型だった。

 

 ヴェントがその警戒を露わにする姿。

 上条当麻が動けなくなってしまう顔。

 二人の上空へ停滞する人影は、目らしき二つの光点を頭部にぽかりと浮かべながら、こちらを見下ろしている。

 

 背筋が一目合わせただけで凍りつく。

 おぼろげで鮮明ではない様子だというのに覚えさせる異様な圧迫感。

 強敵と対峙する緊張感とはまるで別物だ。

 これは、けして比喩ではなく、この空間そのものに押されるような強い『拒絶』。

 

 それに、それでも、上条当麻は、口を開こうとして、息が詰まった。

 当麻が沈黙した理由。

 それは―――背後から上条当麻の頭部こめかみにあるものを当てたからだ。

 

「ヴェ、ント……?」

 

 有刺鉄線が巻き付けられた凶器である。

 それこそが風を操る霊装の本体ではないが、叩きつければ物理的な破壊を生む凶器だ。ヴェントの細腕で、重そうなそれを片腕だけで水平に構えていられるのが不思議である。

 

「ハジメマシテ、ってところかしら? 投影体でなかったら、船の弁償代代わりに叩き潰してやりたかったけど、それ以上の接近は許さない」

 

 当麻のうなじ辺りで、ヴェントは濁った笑い声を上げ、

 

「また眠らせることになるんなら、いっそここでコイツの頭をふっ飛ばしたほうがいいわよね。少なくともストレスの解消にはなるわ」

 

 肩口から頭の横を通り、腕が伸びてくる。その手の先にある凶器。握り締めるその手の平を頭部の方へと柄をすすっと滑らせる。鈍い光を反射させる、尖った槌頭。

 短く持った鉄槌の先端が、当麻の喉元を正確に狙っていた。あとはもう手首を返すだけで、刺さるだろう。

 

「私がどういう人間か、知らないんでしょう? たとえ知っていても、ただの脅しとは判断できないでしょう? 貴女が、論理的に考えられるなら」

 

 くすくすとした笑みが、当麻の後頭部を総毛立たせる。

 ヴェントの行動がまったくわからない。そして、ピタリと静止してしまったアカい影はもっとわからない。

 

『……この場でその行為は無意味です。わたしの目的を果たすに何の支障もありません』

 

「気分を害する答えだけど、あなたには有効なようじゃない。ちょっと暴露しようとしただけで、姿を隠して出てくるなんて」

 

 ピクリ、とアカい人影が腕を動かそうとした。

 すぐにヴェントが鉄槌をもつ腕に力を込め、牽制する。

 

「最初は、どこか遠くへ飛ばしたと思ったわ。実際にイギリス清教には昏睡状態のニセモノを掴ませていたようだしね。協力者を騙すほど巧妙で、丁寧に世界(コイン)の“裏”と“表”には“狭間”が差し込まれていたのよ。―――そして、わずかな隙でそれを作ったとは、とても思えないくらいにもう一つの世界を作っていた」

 

 世界の創造―――。

 当麻の心臓が痛いほど高鳴っていた。それなのに身体が重く、指一本動かせない。

 

「誰にも知られず、誰にも気づかせないまま―――『箱庭』の現実()幻想()の境界線上に、ひとりが放置されていた。その狭間に、もうひとつの『箱庭()』があったのよ。その家族の父親のみならず、医者に患者、街に住む人々に至るまで、彼らに関わる全ての設定が為されていた。たったひとりを囲うため“だけの”街を創り出し、関係者の情報まで書き込み、都合のいい事実(ウソ)さえ用意した……」

 

 そこで当麻の思考が、許容量を越えかけた。

 眼前の相手が何を語っているのかこれまで一番に理解し難い。

 

「私がかろうじて入り込めたのは、『左方のテッラ』と学園都市の第一位のおかげかしら……あなたの処理能力がこの狭間にまで回らなくなったあの時、ごくわずかな罅に過ぎないそれを勘付くのが少しでも遅ければ、それも修復されていたでしょうね」

 

『……』

 

 たとえば、ヘッドライトに道路を横断中の歩行者が照らされた際、対向車からも同じようにヘッドライトを浴びせられると、光に挟まれた歩行者は光の中に消えてしまい、見えなくなる。運転免許の教本にも記されている、典型的な落とし穴だ。

 それと同じように、“裏”と“表”に挟まれたこの空間はどちらの側にも認識できないものだった。

 がしかし、点滅ともいえる刹那の間だが、片側の光の照射がトラブルで途切れたために、“歩行者(狭間)の影”をヴェントは幸運にも目撃することができた。

 

「その狭間は、“表”では誰にも見つからず、“裏”では何も干渉できない、定義する基準がない世界。全てが終わるまでは行けず、そして帰れない。存在を知れるのは創造したアナタだけ。と思ってたけど―――蜘蛛の糸(わずかな縁)は繋がっていた」

 

 言い放ち、上条当麻へ視線を送ろうとするヴェントの視線を―――

 

「そう、コイツが幻想(ユメ)の中で現実を見てしまうほどに―――」

 

「お――い――」

 

 片手で遮り、ヴェントの会話を止めたのは当麻だった。

 

「……なにを、言ってる……」

 

 目を見開いた状態で、繰り返す。

 『現実だと思っていた全部が夢で、夢だと思っていたのが現実だった』なんてヴェントの語った内容は突飛過ぎて、笑い飛ばせば済むだけの話だ。

 それなのに―――胸を急かすように裡から叩く、心の在処からの鼓動がそうさせてくれない。けして寒さからではない、噴き出す冷たい汗と胸を叩く音が、激しく当麻を責め立てる。

 早く、幻想から起きろ―――とでもいうかのように。

 

「もしもそれが本当だとしたら……どうして、こんな真似を……」

 

 混乱する当麻を手放し介抱してから、ヴェントは再び投影体へ顔を向けた。

 

「なーんて言うまでもないわよねぇ? コイツの右手は触れられないくらい手に負えないし、ここまで企てたことを全部台無しされるんじゃないかと恐れたから、テメェを除いて誰にも見つからない場所に隠蔽した―――いいや、殺すという選択肢もあったのかしら。なのに、どうしてわざわざこんな世界ひとつ用意するとか面倒なことに手間暇かけるなんて……ま、用意周到で用心深いとはつまりは心配性なアナタの本来不要な作業が、致命的な穴になったってわけだけど。それ以外にもミスはあったんじゃない。

 ―――ねぇ、上条詩歌のお兄さん?」

 

 

 

 ついに出された一言は、原初の人間が口にしてしまった善悪を知る知恵の果実か。

 ならば、そこまで唆したヴェントは、楽園から追放される大罪を犯させた蛇だろう。

 彼女のせいで、彼女のお陰で、上条当麻はついに気付いて、そして思い出してしまったのだから。

 そうだ。

 上条刀夜があんなに堂々と嘘をつけるはずがなかった。

 生まれてきてからずっと息子の味方だ―――なんて、一度この『疫病神』と殺そうと白状した父親の舌で言うなんて、できるはずがなかった。

 しかし、仕方がない。

 賢妹は、その尊敬する父の葛藤を知らなかったし、愚兄も知ってほしくなく聞かせなかった。

 

『まず、実体でここには入らないのは、観測者として立場を判断してのことです。

 そして、監視()だけで限度とするつもりでしたが、警告()を届かせたのは、異分子との接触から、あまりに愚行が目立ちました。

 手は出しませんが―――言葉で殺します』

 

 改めてその声を聴いて、上条当麻は息を止めた。

 正誤のズレを把握した認識に伴い、朧げな投影体が変化する。靄が小柄な身体へと切り取り、髪の先や指先まで輪郭を固める。ただし、その表情に人間らしい表情が灯ることはない。

 それだけなのに。

 ここまで保っていた最後の理性が崩れて、頭が真っ白になる。

 

「―――」

 

 上条当麻もそしてヴェントさえも、血の気を失い、無意識に後ずさっていた。

 

 あまりに幻想的で―――あまりに現実味がない。

 そこに見えているのに、身体の奥底から震えがこみ上げるほどその存在するか否かからまず疑いたくもなる。

 対して、その少女は―――。

 こちらを凝視していた。

 アカい、見開いた目を向けていて、視線を感じさせない。

 遠い景色を画面の向こう側から覗いているようだ。

 その存在感も、その眼の挙動も常識では説明することはできなかった。その空ろな存在がこの世にある万の理を歪に侵食しているとしか思えない。

 それでも、ヴェントの横から―――当麻は迷いなく前へ出た。

 

「一体何を望んでるんだよ……」

 

 むしろ懇願するように、迷子みたいに手を伸ばす。

 

「きちんと話してくれ。何を考えてるか……俺が協力できることなら、何だってしてやる。お前の悩みも、苦しみも、俺には背負わせてくれないのかよ。本当に何にもないのかよ」

 

『“アナタがいる限り、わたしは何も望むことはない”。アナタはここにいればいい。ただ、眠っていればいい。やがては、鈍間なカメの現実もウサギが夢見る幻想に追いつくことになります。

 アナタも、正夢、という言葉くらいはご存知でしょう』

 

 かの始皇帝の逸話のひとつに、『邪悪な海神たる大魚を弩弓で射殺す夢を見たら、現実世界でも大魚が死んでいた』というのがある。

 夢の中――つまり、無意識領域も含めた人間の頭の中の想像。

 エクトプラズム、テレズマ像による天使召喚(アルマデル)など、『頭の中の想像を現実に持ってくる』というのはポピュラーな術式だ。

 類感を利用し作り上げた場上に、天使を想像することにより、現実の世界に目には見えない力へと干渉し、偶像の天使を形作る。

 

『それは、川の流れ、雲の流れ、人の流れ、血の流れ、目には見えない流れ―――より鮮明に正確にイメージするほどに完成度は高まります。形が似ている物を扱う類感もそのためのイメージの補強と見ることもできます。

 そして、学園都市の学生であるなら<自分だけの現実>を当然に理解しているはずでしょう』

 

 観測者が観ることで初めて事象は確定するが、観ないモノだからといってゼロと確定するわけではない。

 超能力の基本<自分だけの現実>は、あらゆる事象の『可能性』――現実の常識とはズレた世界を観測し、世界に干渉する。

 

『その箱に隠された猫という、見えない部分を観る、起こり得た『可能性』を考慮すれば、より完全な観測(シュミレート)、そして、より完全な想像(トレース)ができる。

 ―――一種の信仰です。『見えないものをある』と願う点において、科学と魔術は通じている。魔術と能力は、似て異なり、異なるようで似ている。能力者を開発する原理を考案した人物は、魔術師であった可能性が高いと思われます』

 

「ハァ? ふざけたことを言うわね」

 

 ヴェントの眉間が歪む。視線ではなく、その凶器を以て今にも貫きかねない口ほどに脅す目は、しかし次に続く言葉に更に捻じれるよう歪む。

 

『『たまたま環境が整った』ことにより発生する才能を持った天然能力者<原石>の存在があったから、その特別に才能なきモノが追いつこうとするために生まれたのが魔術、その特別に整備した環境により才能を高めることで人工的に作るのが科学。どちらも<原石>に目指してから始まったと見れば、起源(スタート)は同じなのだから、“共通点はない”とはけして言えない』

 

「っ―――!」

 

 凶器を向けているヴェントのこめかみが引き攣った。

 

『あなたたち<神の右席>は<天使>と相似した身体の恩恵から、人間の持つ魔力と<天使の力>のエネルギーの相似性を利用し、ダイレクトに<天使の力>を操作する、相当特殊な例でしょう

 扱える力の量は大きいですが、その質が対応した<天使>――アナタならば<神の火>――に限定されることにより――一部の例外を除き――“一般的な魔術が扱えない”。

 界の圧迫に拒絶の反応を考えれば制限の違いはあれど、その程度の差異を考慮しない見方で例外(共通点)を見比べてみれば、アナタは能力者にも似ている。魔術師(魔術)能力者(科学)の中間に位置するような』

 

「やめろ!」

 

 悲鳴のような叫びが、解説を引き破いた。

 一度敗れたとはいえヴェントは、科学が嫌いで、科学が憎い。<正体不明(カウンターストップ)>――風斬氷華という人造の天使は、その人格を無視して存在ごと否定した、それまでの標的であった上条当麻を無視して抹殺に向かうほどに。

 そうだ、彼女は科学を破壊するために力を手に入れたのだ。

 その<神の右席>としての力が、科学の産物(能力)と似るなど訊くに堪えない。

 それまでの憤怒に倍する――いいや、比較にならぬほどの敵意が、『天罰』を有していた<神の右席>の総身から迸っていた。隣にいた当麻さえ、思わず怯んでしまうほどの猛烈な威圧であった。

 土塊が崩れた泥沼の中で、融けず氷の原型を維持していた<アドリア海の女王>の部品――大きな十字架に似た装飾の(いかり)を、ハンマーの頭に引っかけて、一度体軸ごと回して遠心を付けてから、頭上のアカい少女を狙い、天へ抛る。

 『風』と『水』の混合属性は、単一属性よりも遥かに複雑で強力な効果を生む。

 

「弾けろ―――!」

 

 ヴェントが突き動かす怒りのままに吼えた。

 しかし、当麻は全く別の感情に突き動かされる。

 

「っ、まさか……? これは……―――」

 

 いつのまにか第三者となっていた上条当麻は、話の流れが別に向けられていることに気付いた。

 そして、矛先を実際に突き付けられているのは―――

 

「―――“ヴェント”、“危険だ”!」

 

 その声は、間に合わなかった。

 主人の命を受け、桁外れの力に固められた巨大な氷の錨はm『風』と『水』が掛け合わさった爆風を起こして、数万数十万の数百mサイズの鋼槍よりも鋭利な氷杭となって、四方八方に飛び散る。一帯に串刺し地獄を連想させる剣山を出現させ、そこに込められた戦意と殺意が断罪に刺し貫く………はずだった。

 ヴェントの術式は未発のままの花火と同じく、錨は山なりの弧を描いて、そのまま力なく地に落ちた。

 

「……か……はっ!」

 

 同時、ヴェントの身体が、ぐらりと体勢を崩し、沼地と化している地面にくずおれる。

 生存するための機能が最低限に縮小され、抗することなど考えもできず視界が急速にぼやけていく。

 

「ヴェント!」

 

 その言葉さえ、ひどく遠い。

 かろうじて、意識を繋げるのが精一杯でそれ以上のことができないまま、糸の切れた身体を少年に抱き抱えられる。

 やはり、ヴェントを挑発していたのか―――

 上条当麻はなんて表情をしていいのかわからないまま、こちらを睥睨する相手を見上げる。

 たとえヴェントが攻撃を直撃させても、ただの映像相手には精々鬱憤しか晴らせないだろう。代わりに、実体はない投影体が直接害することもできない。

 ―――だが、たとえ映りの悪いカメラの画像からでもその存在を意識するだけで成すものがある。

 

 それの復元をローマ正教はまだ成功していない。

 だが、この場に限り、彼女には関係ないのか

 

 <天罰術式>

 向けられた敵意に応じて脳活動に必要な酸素量を強制的に制限し、仮死状態に陥らせるもの。

 かつて学園都市の機能にかつてないほどのダメージを与えた恐るべき術式。

 

『では、話を戻します』

 

 だが、淡々と会話に戻れる彼女は、それ以上に恐ろしい。

 

『アナタはここで何もせず、眠り続ける。それが最善です』

 

「ふざけるな!!」

 

 上条当麻もまた感情のままに叫んだ。それさえも、投影体に揺らがせることはない。

 

『何の問題があるんです? アナタに見せた夢に不幸はなく、世界は回っていた。人は幸福を求め、不幸を嫌うもの。それがすべて叶うというのに、あなたは何故それを否定する?』

 

「夢望んだ幸せを願って叶ったら、そりゃ最高だろうな。けどな……こんなの、プロサッカー選手になりたい子供のために、父親がチームクラブをまるごと用意してやるようなもんだろ! こんな与えられた幸福に、一体だれが納得するっつうんだ!」

 

『本当に幸せになりたいなら、手段にこだわる必要性はありません。それが我慢ならないなら、結局こだわらなくて済む程度の覚悟だったにすぎません』

 

「大事だから、手段にだってこだわりたいんだろうが。なあ、大事な人を助けたいと思うことは、そんなに悪いことかよ」

 

『いいえ、否定はしません』

 

 一度引くように、影はそう言う。

 だが、その引きは望むタイミングで、次への溜めに踏み込むようで。

 それで慎重に言葉を選ばず言質を取られた上条当麻は、油断していたとしかいえない。

 言葉で殺す……その宣告は、ヴェントだけに当てはまらない。むしろ―――彼に向けられたものなのだ。

 

 

 

 神は人の子を作り全てを与える手筈を整えたが、人の子はその完璧さに不安を覚える。

 人の子は孤独に生きるにあらず、さりとて楽園にすむ他の動物ではその心は満たされず、神は人の子の心を満たすべく力を振るう―――だが、その人の子への神の寛容に、創造主たる神へ歌で奉仕する役目を負った朝の子は人の子に嫉妬する。

 

『では、問う前にもう一度確認します。

 『本体の眠りをサポートする』―――私はその保険(バックアップ)だと、“アナタにだけ”確かにそう言いました』

 

 その言葉により鮮明に、記憶を思い出した。

 あの燃え盛る悪夢の中で聞こえた言葉も一言一句と蘇らせることができる。

 

『だけど、アナタは何も聞いていない。分かろうとしない。―――そんなフリをした』

 

 その瞳は、鏡だ。

 映した鏡像は、真実を写す。

 上条当麻の嘘は、彼女にだけは通じない。

 

『インデックスには、ウソをついていたことを正直に話して、謝ったから許されたのに』

 

「待て……待ってくれ……」

 

『アナタは、変わらない。少しも反省しない。考えなしに、自分の都合で自分を殺して、同じ過ちを繰り返した』

 

「そうじゃない……! 俺は、本気で、お前の味方で―――」

 

『またウソをつく。

 アナタが味方でいたいのは、本体。

 なのに、その本体の『眠りをサポートする』わたしの手伝いをアナタはしたいんです?

 言っておきますけど、わたしは二度と本体を起こすつもりはありません。

 幸い、本体の身体は、二つの法則で過飽和した世界の問題を解消できる素材として再利用できます。

 これで世界の問題の半分は解決できるでしょう。

 それでは、もう一度訊きますが、追求しますが、

 

 アナタは、世界のために本体を使い捨てにするわたしの手助けをしてくださいますか?』

 

 崩壊させる問い掛けを唱えられ、上条当麻は身がよじれるような苦痛を覚える。

 本音か虚言の意識はない。だけど、今、罪悪感が形となって自らの首を絞めていると錯覚するほどに。息が停まりそうだ。どうしてこんなにも苛まれるのだ。それではまるで―――

 

「俺はお前を、敵にしたくなんか……」

 

 大きく息を吸い込もうと開かれた当麻の口が、意思なく勝手に動く。

 止めようとしても―――止められないことを、吐き出してしまう。

 それを舌の根から引き抜くように容赦なく、

 

『それは“優しさ”じゃなくて、“逃げ”だってわかってるんでしょう。

 インデックスの時はまだよかった。アナタは、彼女を傷つけないようにと配慮したのは言い訳ではなくまぎれもなく本心でしたから。

 でも、今のアナタは何も考えずにウソをついた。もし愚鈍さを言い訳にするのなら、最低です』

 

 ドミノ倒しのように、自分自身さえも誤魔化した幻想を次々と暴かれ、悟らされていくようだ。―――眠りはむしろ慈悲深いのだと。あのままこの世界(ユメ)の中にいれば、気付かないまま、まだ幾許かの救いがあったのだと。

 

「……そう、なのか」

 

『そうです。

 アナタはわたしを恐れて、一度たりとも立ち向かったことがなく、コソコソと顔色ばかり窺っていた。

 御坂美琴が戦ったときも、レッサーが応援に駆け付けたときも、ヴェントが暴挙に及んだときも、ただ見ていただけ。

 でも、それでいい。アナタは、何も、しなくていい。

 アナタに悪気なんてなかったんでしょう。

 何でもないことかもしれないんでしょう。

 ただ、アナタの手はわたしを殺すことしかできないだけ。殺して、夢を奪ったのは不幸だと嘆くだけ。

 ただ、わたしは自分のために自分を殺した(ウソをついた)アナタに、何もかも期待できないだけ。

 もう、認められない』

 

 記憶が定かなら―――この自分は、彼女のことを新しい、自分が知っているものとは違うと自らの口で伝えたはずなのに―――

 この無神経が、わずかにも繋がりがあったかもしれない彼女からの信頼を断ち切ったのだ。

 

 

『夢の中にまで繋がってしまうほど、わたしとアナタの間に縁が結ばれているのは事実。

 けれど、アナタと縁をもった本体(からだ)を捨ててでも、わたしはアナタと縁を切りたい』

 

 

 もうその心はとっくに遠ざかっている。

 一生かかってでも信頼を勝ち取れないところまで―――もうずっと遠くに離れてしまっている―――

 

「俺は、そっちに行ってもすることはないのか」

 

『ありません。アナタがこちらに来ても、誰一人と救えないまま9982通りのパターンで、死亡します。邪魔でしかありません』

 

 伸ばそうとした手が、火に触れたようにひっこめる。

 無謀と断言する彼女からは、何か決意めいたものを感じた。

 この手の届かない場所へ、もう心は遠く触れ合うことのないほど離れていても、視界から見えるその雰囲気から強く感じる。拒絶を。

 何もかもを振り切ろうとする、必死ではなく決死の意志が―――ビリビリと肌を震わせる。

 それに上条当麻は、動かない、言い返せないまま―――

 

『………以上、最後通牒は終わりです』

 

 一度たりとも手助けなんて求められない。すべてを独りでやり遂げ、『契約の箱庭』をつくりあげ、管理している。そのために自分の全てを費やすだろう。

 それほどの覚悟を抱いた者には、どんな説得も通じない。かける言葉もない。彼女の意思を覆すほどの重みのあるものは、上条当麻のどこにもない。

 

『<神の火>が広げた『門』の修正が終わりました。

 回線()を繋げた観測()も閉ざします。

 もうこれで余計な現実(ユメ)を見ることはないでしょう。

 現実とも箱庭とも途切れた狭間で、終わるまで眠っていてください。

 わたしは夢を観ることはできなくても観させる方向性の修正はできます。

 今度こそは正しい幻想(リアル)の中で目覚めてください』

 

 就寝に照明を落としたように、世界は黒、黒一色となる。

 元々何も存在しなかった『箱庭』の試作品(プロトタイプ)

 人も、建物も、景色も除かれ、そこは初期化モデルとなった世界の果てと同一。一欠片の光もなく、この闇は人間には晴らせない。

 何もない奈落の底では眠っていることしかできない。

 ここが終点だ。

 そして、言うとおり、忘れろ。

 愚兄がそばにいると彼女は“ぶれる”。乱れ、悩み、揺れる。ノイズが走る。つまり苦しめてしまうことが上条当麻にはわかっているのだ。

 

「…………っっ……っ………っ………っ」

 

 無念、どころではない。

 忘れ、遠ざかるということは、身体が引きちぎられるようなものだろう。それほどに、愚兄にとって存在は重い。―――それでも今更我儘を言って、その歩みを止めさせてはいけないのだ。

 邪魔をしてはいけないのだ。

 事実、自分が先読みした未来(ユメ)は平和であった。誰一人も死んでいない。上条当麻が動けばその予定調和が崩れてしまうだけで、動いても一人も助けられない。

 なんて、無駄だ。

 その自覚が、強烈な挫折感と繋がり、視界――意識まで暗黒に閉ざす。

 

 

雪原

 

 

 <幻想投影>の分身体を始末した。これでこの戦いの勝利だ。後はこれが隠し持つ『本体』を暴くだけ。

 そう、フィアンマの救世はまだ終わっていない。

 これでようやく欲した材料が揃った―――スタート地点に立った段階なのだ。

 己が持つ救世が正しいものと確かめられたのだから、この催しに参加した価値はある。だが、本番はこれからだ。

 そうして、すでに準備が整っている次の計画『プロジェクトベツレヘム』へと意識を向かわせたフィアンマは、

 

「っ―――?」

 

 突如、足元から動く気配と揺れに息を呑んだ。圧倒的な蹂躙を幾度も喰らった相手が、まだ動けることにも驚きだが、それ以上に。

 反射的に後ずさったのは、ビリビリと、空気の震え。

 いや、空気ではない。

 微動しているのは、位相だった。

 震えているというよりも、取り込まれているような感覚だった。

 世界が、大源(マナ)をその位相ごと喰われて、今ここに本性(かお)を出しつつあるものに、吸い寄せられるようにして悲鳴を上げている。

 

「なん、だと……―――」

 

 フィアンマの、呼吸が止まった。

 いや、呼吸ばかりではなく、視覚も聴覚も第六感さえも―――ほんの一瞬、あらゆる感覚が喪失した。

 魅せられただけで心臓を貫かれたと錯覚する、天上の業物が初めてその美しく波打つ刃紋を抜いたのだ。

 

「………ふう」

 

 止めを刺された、仰向けのその姿勢のまま―――溜息をつく。

 そして、空を仰ぎ見ながら、焦点を結んでいない眼は、機械仕掛けの願望機(デウス・エクス・マキナ)を思わせる。

 そして、ここにはいない誰かへと告げるように。

 

「ようやく―――完全に縁を切れました」

 

 そして―――ゆらりと。

 ゆらりと、彼女は―――上半身を起こす。

 計6度の救世を喰らったダメージがまだ完治していないのか、着用している十単の着付けが崩れていて―――胸元が肌蹴ていて、黄金の剣で刺し貫いた傷はなく、そしてそこに刻まれた逆さの大樹の入墨がその枝根を胸元から五体の端々にまで一気に伸ばす。

 

 “それ”は―――美しかった。

 

 女という美の概念の理想型を塗り替え、人が想像しうる限界を更新する。

 洋の東西、古代と現代で異なる美の基準など、“それ”には関係ない。どこにあろうが、誰であろうが、“それ”は芸術であり、神に奉じられるものであり、ひいては神から寵愛を受ける美の究極と認めざるをえまい。

 たとえ、“それ”が人のカタチをしながら人ならざるモノであっても。

 その肌に蛇の鱗や獣毛を帯びていたとしても。

 体表から蜃気楼と空間を歪ませる熱を立ち昇らせていたとしても。

 腰のあたりから滑らかな魚の尾を伸ばしていたとしても。

 おそましく、それでも、美しい。

 そして羽を得た蜉蝣のように、羽ばたけるのは極僅かと、儚い。

 

 ―――伝説に曰く。

 創造上における翼あるものの王は、燃え盛る身体の前半分はメスの麒麟、後半分は鹿、頸は蛇、背は亀、紋様は竜、項は燕、尾は魚―――多様な生物が火の中で入り組んでいる天然な合成獣(キメラ)であり、各部位に文字が刻まれているのだ、と。

 

「これで……周りと合わせるのは止めれます。他人の力を投影して、少しでも長持ちするよう調整をしなくても、後一日なら十分に持ちます」

 

 小源(オド)大源(マナ)

 <幻想投影>という特性は、“その区別する境界がない”。

 人の身体が耐えきれず、燃えてしまうというのならば、“火そのもの”と化す。

 その特性を、世界の力を吸い上げる魔導書の<原典>を利用し、人の枠を超えて発揮できるようにした。

 だが。

 それが『外』のだけでなく、“『内』にある世界の力をも汲み上げる”ためのものだとしたら。

 全ての生命、全ての生体、生命の誕生(ハジマリ)、進化、思想―――そして魂の記録にして原型(オリジン)の設計図を内包した裡。

 それが今、全開に解放される。

 

「―――けど、アナタに盗られたものは返してもらいます」

 

 束縛から解放された香椎は―――静かにそう宣告し。

 フィアンマの方向に向かって――翼のような十単の袖を振っただけのようにも見えたが、しかし――第三の腕を、蹂躙し、破壊し、掻き毟った。

 抗せぬはずもない<聖なる右>へと、アカい色線が加速。余波が破滅の渦さえ巻いて、かくも無敵であった救世の神話を嘲笑うように掻き毟っていく。

 汚濁を抱えながら正常であり、醜悪と化しながら崇高であり、魔王でありながら御使いよりも神聖な。

 血意が凝り固まった奔流が、聖者の『右手』を吹き飛ばし。

 そして。

 その根元に植え込まれた<生命の実>を抉り取った。

 

 

 

つづく


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