とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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世界決戦編 裏切りと復讐と

世界決戦編 裏切りと復讐と

 

 

 

とある死んでしまった少年の記憶。

 

 

 ―――雪が降った中学生でいる年の最後の日、

    天使と、   に会った。

 

 

 頭上に輪を浮かべ、黄金の長髪を流し、総身光り輝き、ゆったりとした白い布の装束に包まれた、存在。

 性別の判別が難しいが、少なくとも外観の見た目だけなら女性的に見えて、もっとよく見ようとしても、その頭部、手、足と服は一体化しているかのように境目のようなものがない。

 その面相もまた感情の境目もない、つまりは喜怒哀楽すべてを表しているようで、人とは根源的に異質。

 こんな科学の街でこんなオカルトが“お出迎え”に来るなんて、どうやら自分の想像力は随分と逝ってしまっているようだ。

 

「いいや、今の君は死んでいない。そして、これは夢ではない」

 

 寝惚けている状況ではない、とでも付け加えそうな調子で、金髪の天使は自分の背後を視るように言う。

 

「そうだな。これは、“君が死んでしまった”ことが発端だが、興味本位で、“つい触れて”しまった私に責任がある。

 君に少しこの状況に関して必要な知識を必要な分だけ授けよう」

 

 信用できない。

 しかし、ウソをつく雰囲気も騙そうとする気配もない。

 

「まずは、hhgde不abの正体から説明を……」

 

 言葉が、ブレた。まるでステレオのヘッドホンを左右逆さまにつけたように音源の方向そのものがズレた。

 それは発した天使自身も怪訝そうで、調子を確かめるように喉を手をやり、

 

「……残念だ。ヘッダが足りない。この世界は、この程度の『意味』すら表現できないようだ。wgbud崩wsruiを回避するためにも、仕方ない、アレ、と呼ぶことにしよう」

 

 この街の科学技術さえあれば、脳髄だけを生かすことが可能で、それに外部から電気を流してやれば延々と脳だけで夢を見て生きていけるだろう。

 だが、脳だけで生きていけたとしても、肉体がなければ自己を確立できない。

 魂は遍歴を積み重ねた知性と、その殻である肉体があってこそカタチをつくる。

 肉体という人それぞれの環境が、多種多様な人格を形成する。

 無論、知性だけでも人格を育成できるが、知性だけで育成された人格は自己を省みないモノとなるだろう。

 それは最早、人格ではなく、ただの演算装置と変わらない

 脳の働きによって生まれた知性は人格となり、肉体を統括する。更に調整すれば適合した人格は、肉体以外の環境にも<自分だけの現実(パーソナルリアリティ)>と干渉できるようになるだろう。

 

 精神と肉体、そして魂、その三つの事柄で作られた生物が人間。

 

 精神は脳に、魂は肉体に宿るものだと。

 

 しかし、アレの魂は肉体以外にまた別の環境――shd根awと通じている。

 

 一は全、全は一。

 世界のすべてと繋がっている一部を持つのならば、世界を思うがままに変えられる。

 世界()肉体()に投影させるのではなく、肉体()世界()に投影させることができるとすれば。

 作り直すのではなく、新しい世界で古い世界を上書きができれば―――それだけで世界そのものが“死んだはずの人間”を救うだろう。

 

「故に、アレは形のないモノには特上の器だ。私のようなものを引き寄せる、『力』と結びつきやすい性質があったが、とりわけ、君とは非接触下でさえ、影響が出ていた。これは、hdk接sa……これもダメか。

 『全く別の法則』で語るが、『神の子』と似ているというだけで恩恵を持つものが存在する。それを『片利共生』と見るならば、君たちの場合は、『相利共生』だろう。

 今、こうして“右手以外は消し飛ばされた”はずの君が生きているのも、今まで、アレが“人で踏み止まっていられた”のも、血縁の恩恵があったからだ」

 

 神話伝承(オカルト)で語るなら、

 

 ―――竜王の血を浴びることで、無敵の呪いがかかるよう。

 ―――不死鳥の血を飲むことで、不滅の祝福がかかるよう。

 

 純性を失わずに主となる神の子を身籠ったという偉業を成しえなかったのも、

 齢十五もいかずに誰と知らぬ子を身籠ってしまった末路を辿らなかったのも、

 

 世界を救う奇蹟を殺しながら、疫病神と言われてもどうしようもない罪を犯しながら、たったひとりの自由を守っていたのは、まぎれもない。

 

 体内に流れる血の守り、体表を覆う血の縛りが、この『天使』のような形なき幻想を寄せ付けなかったからだ。

 

「その右手と関わっ(触れ)ていたからこそ力を現出させるのに時間と回数に制限が課されていたが、ある意味、その右手を克服しているという見方をすれば、私達のような存在とは一線を画しているのだろう。実際、“その状態”が血縁による制限が解かれたものと仮定すれば、『力』の質を考慮せず、単純な量だけで比較するならヒューズカザキリや私、hboie存abをも凌駕する。

 それも、ヤツが手を拱いているのも理由なんだろう。

 しかし、世界は、世界自身で破滅の原因となる出来事を防ぐようシステムが構築されている。歴史を見る限り、必ず。その最たるものである右手と結ばれてしまっているのは、“そういうこと”なのだ。

 まぁ、これ以上は言葉で説明しても無駄か。今、私をここに現出させているこの状況は、10万年分に匹敵する影響を与えたのだ、といっても君には理解できないだろう。

 

 ―――百閒は一見にしかず、そろそろ自分の目で現実を確かめてみてはどうかね」

 

 目を逸らしていることを指摘されて。

 突然の寒気が背中を震わす。それでも促されるままに首を―――

 

「―――、だれ   ぁ」

 

 一瞬、わからなかった。

 思わず、声が漏れてしまった。全身が総毛立った。視界の端に捉えただけで命令系統がグチャグチャになった。麻痺しながらもあの『天使』を注視できていた自分が、“直視するのはまずい”と第六感に振り向きかけていた頭をグルンと蹴り回される。

 

 それでも、“忘れていた家族”を、“忘れてはならない大事なモノ”を思い出した。

 記憶が希薄になっている。そして、意識からも遠ざかっている。もはや視覚内に捉えていない限り、記憶を保つことも難しい。

 存在が漠然と“大き過ぎて”、その痕跡すら人の精神で真正面から受け入れられるものではなくなっている。

 

「面白いほどに対極だ」

 

 こちらの様子を見て、天使は笑みを作った。

 明確な意思表情であるのに、何を考えているか全くわからない。

 しかし、その呟きには確かに異形の感情がこもっていた。

 人ならざるものの、人ならざる意志を秘めた声音。

 人ならざるが故に、その意思の温度は誰もはかれず、しかし表情の変化は誰の目から見ても明らかであった。

 

 

「君が“ヒーロ”ーだというなら、君と対極であるアレは本来なら“■■■”じゃないのかね」

 

 

とある眠っている少年の記憶。

 

 

 目を覚ました時、部屋は真っ暗だった。

 

「―――うっ……!」

 

 身体を起こそうとして、激しい頭痛に襲われる。

 頭がぐらぐらと揺れ、身体が重い。熱があるのか、それとも風邪でも引いてしまったのだろうか、と顔を歪めながら考える。

 なんとか上半身だけを起こすも、眩暈がした。ずきずきと痛む頭と、人形のようにだるい身体、そして、この場に縫い止める枷のように石膏で固められている右手が、目覚めたばかりの当麻を苛立たせる。

 

「くそ―――なんだ、あの……ヘンな夢……」

 

 自由に動く方の左腕を拭うように閉じた目の上に乗せたまま、呻き呟く。

 夢を見た。

 それも奇妙な。

 科学の精神学問のひとつに夢診断では、夢とは無意識に記憶を組み立ててみせる自己表現であるというが―――

 

 《扉を開けた途端、無数の光線に撃たれた》

 

 あれは、視界がフラッシュバックになったようで、夢の中なのに意識が飛んでしまいそうだった。

 しかし、そのような経験が“ない”とは言えない。

 憶えるのがいやになるものであるが、不幸体質な自分は光線はないが不意打ちで電撃をぶっ放されることもあるのだ。その慣れてしまっているが普通ならトラウマものの記憶を、眠っている脳が拾い上げたのなら、不思議ではない。

 けど、その夢の続きは、このあらゆるご加護を打ち消して“無能にしてしまう右手をもつ”自分にはありえないことだった。

 

 《光線を撃ってきた相手とその仲間をたったひとりで倒した》

 

 それも、“相手の超能力を使って”、だ。

 夢だからか、当麻の身体は勝手に動いて、空を飛んだりして、奇襲を容赦なく仕掛けてくる三人の少女を翻弄しながら倒してしまった。

 能力も魔術も使えない、3人以上に囲まれたら逃げを選択する男子学生が、高位能力者の集団、しかもそのひとりはあの――後輩と同じの超能力者(Level5)級を真っ向から相手取るなんて……自分はスーパーヒーロー願望でもあったのか―――と、その直後は思った。

 

 《お前は『■■』だ、と言われた》

 

 こうなってしまったのは、“守るべきものを守らなかったからだ”、と彼らに責められた。

 

 反論は、しなかった。

 

 

独立国街

 

 

 天女や精霊といったこの世ならざる美をもった女は東西問わずあらゆる伝承に出てくる。

 

 北欧神話における天女――<戦乙女《ヴァルキリー》>は、死した戦士の魂をヴァルハラへと連れて行き、舞を魅せてその心を優れた部下(エインヘリヤル)として『教育』する。

 とある<戦乙女>が、その逸話を基に組んだ己の影を使う術式<九人祝い(ナインサポート)>は、『男性へ魅了(チャーム)をかける』という効果で、<聖人>の補助役を依頼されるほど有能な職人をも抵抗できなかった。

 

 

「一から十二の円卓へ告ぐ。数に収まらぬ王に仰ぐ。宿されしは癒しを与えるもの、我はその意味を正しく知る者、湖畔の乙女たちの導きをもって英霊がその座に眠ることをただ願う」

 

 

 復元される街中で、五人の位置へ忍び寄ったのは、紅一点の少女の足元から伸びた、彼女の色に反して“青色の影”。

 まるで液体が流れていくように滑らかに“青色の影”を通して少女と繋がった騎士らは跪き首を垂れて、各々の得物を両手で捧げ持つように差し出している。

 

 騎士王物語にも、<戦乙女>と同じような存在として、<湖の乙女>がいる。彼女らは、最期に剣を預けた騎士の魂をアヴァロンへと連れて行くという。

 

 五つに分かれた少女の青影は騎士らの前に現れたように――まるで湖から浮かび上がるように――平面から立体、『騎士の最期を看取る』女性像となり、武器を預かると騎士らを包むようにまた形を変える。

 そのサッカーボールのような十三角形の陣の意味は『傷つけぬ束縛』。

 物理的な拘束ではなく、囚われた者の肉体と精神を切り離し……本来なら、ローマ教皇が扱ったモノは、“敵を”その肉体の中で永劫に空回りさせる――暗く寒く深く苦しくどこを見渡しても一縷の希望すら見えない虚無と孤独の中で何十年も時間を輪転(ループ)させる――『背信者(ユダ)』の最後を追体験させるもの。

 それが、2000年の時と20億もの信徒を結集して成す術式であるせいか、それとも<神撲騎団>用にアレンジした術者の意向か、孤独の檻に閉じ込められることなく、その“仮初の躯”と“魂”が“分離のままに”留められていた。

 

 そうして、武器を預け、湖の乙女(青影)に抱かれた騎士に“代行者”は告げる。

 

「『トリスタン』、『ユーウェイン』、『ベイリン』、『ラモラック』、『ケイ』……あなた達にこれを授けましょう」

 

 <神撲騎団>の繋がった視野から―――見られていることから逆算する共感能が邂逅した時点で、その位置を探り当てている。

 全知覚がまともに作用しない暴走の最中でも、座標位置さえわかっていれば、香椎には十秒あれば事足りた。

 そして、

 

 “偶像は『箱庭』に守られない”

 

 だから、ルールに救われない。そして、ルールによって救えない―――“そうなるように”仕組まれていた。

 

 “私に応えられる限り”、と戦前会議の質疑応答で断っていたように。

 適用されるのはこの“香椎(ウサギ)だけのものではない”、と“騎士(偶像)たちの死地となる”情報は意図的に隠していた。

 

「『円卓の騎士』。その聖騎士王(アーサー)は『神の子』に対応され、十三の円卓に並ぶ者たちは、それぞれが十二使途に対応されている。あなたは本来騎士王の配下(もの)であるそれを、『神の子』の優先順位を変更する<光の処刑>の特性と『裏切りの騎士(ランスロット)』という称号を相乗的に組み合わせたことで、総ていた」

 

 この『契約の箱庭』を維持しているのは別だが、法則を組むのに関わったのは、英国だ。

 一ヶ月も経っていないついこの前の、あるいは、<大覇星祭>でその存在を確認した時から、この大決戦が起ころうが起こるまいと関係なく、英国は現代に蘇った不死の騎士らを研究していただろう。十三騎士団の原型が英国の円卓騎士からとられていたことから、魔術大国を拠点とする魔女狩りの<必要悪の教会(ネセサリウス)>が対抗策も編み出していたとしていてもなんら不思議ではない。もしそうだとすれば、彼女にその方法を伝授し、審判役とは別に『見つければ優先的に撃滅せよ(サーチアンドデストロイ)』などと主教から密命と依頼されているのかもしれない。

 それはその存在の危険度以上に、『ブリテン・ハロウィン』で十字架による国土の侵略を企て、民に慕われ人心を集めていた第三王女を利用し贄にまで捧げようとした過去の亡霊への怒りが、それだけ強いものだったとも言えるだろう。

 

 今、紅一点の代行者の足に備えて、彼女の手を以て、自らの手を汚さずに復讐は果たされる。

 

「円卓十三騎士団の<聖騎士王>と称された人造兵器を知っている。

 <人造聖人>の『太陽の騎士(ガウェイン)』という『騎士王』の影を知っている。

 『騎士派』――円卓十三騎士団の原型を知っている」

 

 理外の衝突より、知覚からようやく思考まで回復させたテッラだが、まだ状況を呑み込めていない。

 ただ、致命的なことだけは悟っていた。

 

「古今東西の装束には宗教的な意味があります。古い時代の巫女に神官、姫君のドレスからシスターの修道服まで、もちろん、騎士にもそれは当てはまる。そして、その多くの場合は、その装束は清浄であることが常とされ、“一切の不浄を許しはしない”」

 

 その中でも、これは<神撲騎団>にとってはあまりに破格……いや、異常に過ぎる“騎士の洗礼”だ。

 

 テッラはそれ視界の端に捉えた途端に反射的に止まってしまった。いっそ無視して襲いかかってしまえば良かったものの、入れられた魂が“それ”に引っ掛かってしまった。

 

「……何です?」

 

 ここからでは指揮官である自分を除く<神撲騎団>らに付けられていた“それ”の詳細が見えず、元が聖職者であった『左方のテッラ』であるが身を竦ませる。悪寒がする、今すぐに取り外さねば終わってしまうと本能が告げている。 “それ”は爆弾だ。既に設置されて、後は無線のスイッチを入れれば爆破するだろう。しかし、“それ”に手を出してはならない、“授与を邪魔してはならない”と裡なる『英雄』が阻む。<神撲騎団>に意識して命令しても、忠義を尽くすように跪く形を崩そうとはしない。たとえ『魂』だけであろうと<魔術生命体>、主人をも“裏切る”。主従の縛りがどうとかとか言う問題ではない。そう、“それ”は聖職者に無視できても騎士には抗いようのない“誉”だ。

 裡の葛藤に動けず、身を震わせながら、注視する。騎士たちの左膝に巻かれている黄金の装飾が施された青い足止め――いや、“勲章”に、刻印されたその文字は―――!

 

「彼らに付けたのは、<ガーター勲章(The Order of the Garter)>。14世紀に、『黒太子』との異名を持つエドワード3世によって創始された『英国の最高勲章(The Most Noble Order of the Garter)』」

 

 『黒太子』エドワード3世がウィンザー城で彼の父と同じく好んだ『騎士王(アーサー)と円卓の騎士』の故事に基づこうと円卓を使用した饗宴を催した際に、共にダンスを踊っていた、後の黒太子妃であるソールズベリー伯爵夫人ジョアンの靴下止め(ガーター)が外れて落ちた。

 これは当時恥ずかしい不作法とされていたので、周囲から嘲笑されたがしかし、『黒太子』はそれを拾い上げ、『聖ジョージが竜から姫を助けた』という姫帯の伝説(ブルーリボン)にも倣って、“ある文句”を言って自らの左足に付け、その場を治めたという。

 以来、左膝に付ける靴下止め(ガーター)は、現代の栄典においても、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の“騎士団勲章(order)の最高位”となった。

 

 勲章(ガーター)の大綬の色は、『竜を縛り、その味方に付けた姫帯(ブルーリボン)』の青に、赤バラと白バラを合わせたテューダー・ローズの金の刺繍が施され、先端部の記章に竜退治の英雄(聖ジョージ)が白馬に乗った姿がかたどられている。

 

 そして、中央部に『黒太子』が述べた言葉が刻まれている。

 

「―――我、」

 

 呼びかける。この騎士らは、不死だ。いくらパーツを失おうが、指揮官の力で元に戻る。だが、それはその“仮初の肉体が”であり、今は不死身の器から湖の乙女の抱かれた手の内にある精神が分離している。

 ―――しかし、これは正教(こちら)の基盤も組み込まれてなければ……

 そこでようやくテッラは、この術式に関わっているのは魔女狩り連中(イギリス清教)だけでないことに気付く。

 

ローマ教皇(老いぼれジジイ)……っ)

 

 して、

 終いに紅一点の代行者は、その勲章に書かれた『黒太子』の“ある文句”――起言(キーワード)を告げていた。

 

 

 “ 悪意を抱く者に災いあれ(Honi soit qui mal y pense)

 

 

 かつての敬虔な修道騎士であり英雄の魂から切り離された仮初の骸からしゅぅしゅぅと、白い煙が立ち上り始めている。溶けている。肉ではなく、存在そのものが溶けて昇華されていく。そして、肉体を失った宿主の魂は、<湖の乙女>に抱かれて、あるべき場所へと還っていくのだろう。

 

 <湖の乙女>による英雄の魂の昇天と、<ガーター勲章>による不死身の肉体の浄化が、攻略不可能とされた障害を取り除いた。

 

 

 

「―――優先する! 聖灰を上位に!」

 

 一気に5つの駒が還った、しかし意識は完全に回復した。すぐさま聖灰を己が武器へと変える。

 が。

 それをも、空を切り振り袖をはためかせただけで、不自然にそよ風の如く払い流した。

 

 

 

(何だ、ありゃァ……?)

 

 同じく、暴走から回復した一方通行は見ていた。

 和装の表面に――黒く――白く――赤く――浮かび上がるのは、ホラー映画んでも出てきそうな、オカルトじみた紋様や筆記体の呪文、ときに英数式の計算式腿混じっている。ひとつひとつの図面は機械のプリンタではなく、手書きで記されてるのだと理解でき、そのアナログな手法に反して、恐ろしく正確なものだともわかる。なにせ円の中に五芒星などを描いたシンプルなものではなく、びっしりと、円の縁も円の中も、そのすべてに細かく血管のような紋様なのだ。それは大きく小さく、騙し絵のように視点を変えればまた別の顔をのぞかせ、意識の仕方、集中の仕方によっても同じ図であっても違うパーツに見えてくる。文字の方は基本的に崩したラテン語だが、具体的な内容はわからない。

 そもそも、具体的な意味があるのかどうかも不明で、こんな状況でなければそういった服の様式(デザイン)なのだと思うだろう。

 だが。

 学園都市能力者の中での最高の頭脳としての思考ではない、一方通行個人の直感的な印象としては、

 

(……“表紙”みてェな感じだな。題名だけで見せられても、肝心の中身は開いてみねェとわからねェンだが……)

 

 十単の和装だ。十数枚重ねてる全てに描かれているのだろう。

 だが、あまり踏み込むのは危険であると―――そこのローマ正教の男の反応を見れば、大凡に計れる。なんて命知らずだと絶句していた、その顔を窺えば。

 

 

 

「この『箱庭』は偶像()を守らないことは誰よりも知ってる。だから、自分の身を守る術は自分で用意しているのは当然」

 

 しかし、“それ”はそんなものではない!

 研究者であった思考が大声で糾弾したいとテッラの口元が戦慄く。

 

「古代中国には紙の束を使って鎧をつくる技術があったし、今ではその逆に布地で書本をつくることだって可能です」

 

 そして、ついに我慢は決壊する。

 

 

「まさか、単衣(ソレ)は、<原典>、だとでも……」

 

 

 そうだとするなら、己の一撃を受け止めたのもの納得だ。

 これまで、<原典>は誰も破壊できたことがない。

 高純度の異質な知識の塊である書は、文脈が、図面が、まるで高度な陣図のように作用する。いわば人の手を借りずに『自らの知識をより多くのものに広めるために』動く自律型装置となっているのだ。

 地脈や龍脈といった『世界の力』から洩れる微弱な力をかき集め、何百倍にも増幅し……そして自らの書物の中にある知識が万に一つも焼失・破棄されないように、徹底的に防衛・迎撃を促す。

 その効力は羊皮紙の自然風化を許さず、ありとあらゆる魔術師が束になってかかっても、絶対に破壊することはできない。

 対処するには、力を貸している惑星から離すか、壊すかしないとならない。

 もしも『教会』ひとつの<歩く教会>など比較にならない『世界』ひとつの防衛機能であろう<原典>を装備できたのなら、何人にも破壊することはできないであろう。

 

 だが、“本来ならば”、この理論は破綻しているのだ。

 

 選ばれたモノ――<神の右席>であるテッラでさえ、ページをちらりと見ただけで気絶しかねないほどの頭痛に襲われ、読めば人の人格など強制的に粉砕してしまう代物だ。

 そうそう簡単に手懐けられるものではなく、そんなものを四六時中まとっていれば、外的要因よりも先に己の内側から『汚染』されて滅ぼされるに決まっている。

 二日も保たずに自滅する。平然としている今が信じられない。この『堕天』している己よりも汚染されているはずなのだ。

 

 だから、その例外たる<幻想投影>以外にこの理論は活用できない。

 

 あの『右方のフィアンマ』がふざけて言っていたが、『<知恵の実>を食したという『原罪』から許された『聖母』』と同じであるからこそ、智毒の汚染は苦とならないとでもいうのか?

 

「<速記原典(ショートハンド)>と呼ばれる魔導書に近い霊装を知っている。

 <暦石>という写本ではない本物の<原典>に触れたことがある。

 <禁書日記>を改変した技術がある。

 その応用のまとめであるこれを名づけるなら、<歩く原典(ブックカバー)>とでも言いましょうか」

 

 理解できても、それは目の前の存在が埒外であることを証明しただけだった。

 

「<原典>の基本原理を三つにまとめれば、『自動修復』、『自律防御』、『自己保存』」

 

 そのうちの安定性である『自動修復』を未完のまま、一度きり発動するだけの必要最低限の条件を書き込んだ『自律防御』に特化した、書物としての本来の役割である『自己保存』を無視したものが<速記原典>だろう。

 こうした魔導書の改良は珍しくはない。

 かつて、暗号解読に長けた元ローマ正教の修道女オルソラ=アクィナスは、解読法は間違っていたとはいえ、その魔導書を封印するために誰にも読めないようにすることを考案していた。

 <原典>が一種の魔法陣であるのなら、魔法陣を崩すように一定の配置で文字や文節を付け足すことで、レバーを操りレールを切り替え、魔導書の機能そのものを逆手に取ることもできる、と。

 

「あなたの思う通り、<原典>の『汚染』を完全に抑えることは、無理がある。

 しかし、先に説明したように『衣装』とは、常に『清浄』である概念が働いています。

 そして、オルソラ=アクィナスが提唱した打開策のように、無理に消すのではなく、加える。染色と脱色のルーンの魔術原理のように文字に『色』を付けるように、<強制詠唱(スペルインターセプト)>のように呪文に割り込ませるように―――新たなプログラムを追加したことでその方向性を誘導することはできます」

 

 西洋の魔術において、文字だけでなく、その色もまた重要な意味が込められており、特別視されるものもある。

 例えば、四大天使の黄、緑、青、赤。

 色付けをすることで、属性の威力を高めることだってできた。オリアナ=トムソンは、『文字』と『色』の組み合わせでいくつもの効果を発揮することができた。

 

「ここに付けた『色』は、黒、白、赤。

 富や財産、そして物質結合からの結末である死を顕す、(ニグレド)

 不老不死と永遠、黒からの復活『小作業』と呼ばれる再生を顕す、(アルベド)

 不完全な状態を脱し、新しい調和の基に行われる再結合、神との合一を成す方法の完成を顕す、(ルヘド)

 とりわけ、占星、召喚と並ぶ魔術の基本の学問であり、科学で行われる実験の原点といわれる『錬金術』における一つの物体が変化する過程を表すもの」

 

 そして、錬金術師にとって究極的な目標ともされる、大いなる作業(アルス=マグナ)で得られる、最も純粋なアカい物体を―――賢者の石とも第五元素(エーテル)ともいうのだ。

 

「この『衣装』の<原典>は、“本体から欠落した私に足りないものを補うよう”に調整してある。もっと言えば、本体が人であろうとして拒んでいましたが、<幻想投影(イマジントレース)>の制限を自己改造で改革しました」

 

 『自動修復』の制限拡大―――『結成の黒(ニグレド)』に染色。『世界の力』だけでなく、そこに干渉する魔力に力場を取り込むように設定。

 

 『自律防御』の機能限定―――『再成の白(アルベド)』に染色。魔力と力場をも取り込むように設定した以上、魔術能力を攻撃と認識できず迎撃は不可能。自己の復元に留める設定。

 

 『自己保存』の出力変更―――『完成の赤(ルヘド)』に染色。取り込んだ魔力に力場をも保存する情報と認定し、生命力として消化しないようそのままの形で、自己完結した保存庫(タイムカプセル)という身の血肉にし古傷に刻む。して、情報を読者(装着者)が『汚染』をフィルターとして濾過し、その身を持って外へ再現す(広め)るように設定。

 

「意識を乗っ取ろうとするような赤い靴(衣装)には経験があり、そこから対応策は編んでありますが、下手に許し過ぎると心がないとはいえ、果たすべき目的まで忘れてしまいそうになりますから、あまり頼りたくはないのは本音です。こちらがいくら『汚染』を抑えようとしてもそちらから無理やりに覗けば、勝手に『毒』をもらいますし。眠ることはできません」

 

「―――優先する! 聖灰を最上位に! <原典>を最下位に!」

 

 走りながら、修道騎士は己が組み立てた呪句を叫んだ。

 断頭台刃(ギロチン)だけではない、鉄球、棍棒、大斧、長槍……数多の武器に、聖灰粒子の霞が急速に集束して具現化。その闇色の切っ先は全て、穢れながらも美しいアカい少女に向けられる。

 それらはすべて『破壊不能』を“破壊する”という『矛盾』を成せるように設定されたもの。

 『神の子』でさえただの人間が処刑できるよう『優先順位の変更』するのが<光の処刑>だった。

 刹那、

 

「―――違います」

 

 ほんの小さな呟き。

 ただ凪いだまま、彼女はそれを見つめるだけ。

 

「あなたの刃は確かに私を捉えても、一度『古傷』と刻んだ今、それは、火を火で燃やす、水を水で濡らす、と同じこと。―――だけど、問題はあなたにもある」

 

 設定さ(呪わ)れてしまった以上は防げない。より攻撃術式を受け易いようになってしまっている負の防御力。しかし、そもそも防ぐ必要がない。攻撃を喰らって、その幻想を()らって―――すでに己の物として消化を終えている。

 

「『ランスロット』という不純物が混じって、“堕天”しているあなたに<大天使>の性能は発揮できない。それ以前に理論の部分でも問題があります」

 

 背筋ばかり可能まで震わせる悪寒。

 隙間なく串刺しにされた中から聞こえた声に、テッラは前を凝視する。

 しかし、殺意のラインを越えた凶暴極まりない敵意の行方は、太陽に近づこうとした蝋の翼(イカロス)と同じ末路であった。

 

 ―――まず、知覚(現実)を疑った。自分が定めた常識など取るに足りない。黒の蝗害に蹂躙されるが如く、無情な処刑刃(ギロチン)はその肉へと食い込んでいった。―――そして、凶器はすべて、生地と接しているその研ぎ澄まされた刃は擦り斬りながらも分解されていた。それはもう食事というより、大気を体内に取り込む呼吸で。

 黒から白、そして赤。捕食され、消化され、吸収された。武具の雪崩も、光に釣られ火に入る虫のよう。こちらの命に背いて聖灰が霞と散ったそこに、処刑を受けたにもかかわらず変わらないままでいる香椎の姿があり。

 

「人に取り憑いた悪魔(アスモダイ)を祓い、堕天使(アザゼル)を牢獄に封じ込めた。<神の薬(ラファエル)>。

 神が下界に広めることを禁じていた天界の叡智伝授を許され、医学の知識に長けて人々に癒しを与える<大天使>がその手に持つ杖は、『錬金術』の象徴であるヘルメスのと同じものだとも言われている」

 

「私と、同じ……『左方』の力を……?」

 

「<戴冠の剣(カーテナ)>から<大天使の力(テレズマ)>を効率よく扱う霊装作製法は取得しています」

 

 その足元から噴出する旋風に、アカい少女は右手を掲げた。

 一瞬、後光のように霊体がその嵐に映り込む。人外の美を孕んだ憂愁の双眸。それは己が何度も夢想したその概念の理想形。

 

「それで触れてみたところ、<神の薬(これ)>の本来の属性(扱い方)は、“土”ではなく、“風”―――」

 

 前提からの間違いを指摘すると、その手に解答例を示す。

 純白、と本来の色の聖灰がその手元に渦巻いて集い、模ったのは、先端に翼が飾られ、二匹の蛇が螺旋と絡み合った杖。

 死にゆくものを穏やかに逝かせ、死せるものを生き返らせる、騎士(ヒト)が持つ剣ではない、神々の道具。

 

 

「―――<神の薬(ラファエル)>方式<螺旋の蛇(カドゥケウス)>」

 

 

 ―――ああ、見てしまった。

 

 遠近法が狂っている。同じ『左方(チカラ)』を手にしているはずで、ならばそこにいるのは鏡映しの自分自身。でもよく見れば見るほど現実感がなくなって、つまりは、それは『左方のテッラ』より一回りどころではなく十回りも違うスケール。

 そのアカい鏡に映るのはテッラと同じ姿形(チカラ)をした巨人なのだ。

 

 <神の右席>――己と同じく天に選ばれたのではなく、愛されている者がそこにいる。

 

 聖職者の両手が己の胸を掻き毟り、声なき絶叫を上げた。

 

《アア! アア! アア!! アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア―――!!!》

 

 とめどなく、際限なく、けれどどこまでも声とならない絶叫。

 聖職者の何もかもを侵略して、裡で金切り声を上げさせ続ける。

 怯えているのだ。

 歓喜しているのだ。

 魂が震え、魂が歌い、魂が嘆き、魂が哭いていた。

 自身が神に選ばれた特別であると信じて続けた生涯の研究が、前提からして間違っていたものだと、そう訴えており―――自分自身も納得してしまったのだ。

 

(これこそが……)

 

 これこそが、原初の魔術だ。

 多くの宗教家から忌み嫌われようと神を冒涜し、人が己が手で願いを叶えようとした末の結晶。

 

 矮小な人の手ですくい取れるものなどごく微量で、人ならざるモノたちの行いを100%再現できることなど不可能だというのに。

 ひたすらに狭い枠で深い溝に切り取り、只管に掘り下げる。手に負えるところで妥協するしかないと人は認め、神々の一記号を最大限に活用とする。

 故に、その人より天使側であったはずの自分ができなかった<模倣神技>……いいや、真にすら迫った模倣を、<投影神技>、と呼ぶべきか。

 

「……おお、――――おおおおおおお」

 

 ついに、言葉が漏れた。

 『左方のテッラ』が、敬虔な聖職者であり貪欲な研究者の顔で感涙していた。確かに覚えた筈の恐怖、嫉妬、言葉にならない猛烈な感情さえもその涼風の前に流されるしかない。その右手にかざした杖に、大天使の翼が開いたようで、後光を一身に受けた自分は自然と膝をついていた。

 ああ、間違いなく―――この光だ。

 今でもなお憶えていた。地獄に通じる竈に堕ち、総身を穢れにまみれさせてなお、血も涙も捨てようとも、この信条は色あせることなく、心に刻まれたままだった。

 たとえその過程が、実験という理由で屍の山を築き、同僚に否定され、どんなに人道に背いていたとしても―――己が教徒を救いに導くことと比べれば、一考にすることのない小さき瑣事で……

 はらはらと流れ落ちる己が涙の清冽さに、テッラは唖然となった。

 自分は迷っていたのか。自分は曇っていたのか。

 神はすべてを見ている。最後の審判を怖れて生にしがみつく自分はわかっている。間違い、と認めれば……

 

「―――我、癒しを与える光輝なり」

 

 そうして、

 

「―――我、叡智を授ける光輝なり」

 

 意味を重ね、

 

「―――我、悪魔を祓う光輝なり」

 

 振るわれる杖の翼から羽ばたき散り、小さな天使のように飛び回る翡翠結晶の羽毛が、修道騎士を囲み、

 煌めき反射する光の(ライン)が、それぞれの羽毛を頂点として結ぶ六芒星――<神の薬>がソロモンの王に与えたとされる悪魔を屈服させる指輪の紋様――の陣形を描く。

 

 

「あなたに『神聖の国(天国)』行きのチケットは渡せない」

 

 

 ―――緑光は鎧の甲冑を透過し、漆黒の堕天した人より天使に近しい肉体へ浸透した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ローマ正教の聖職者は倒れたまま起き上がることはない。

 他の騎士連中とは違い、肉体は残っているようだが、

 

「―――ソイツ、殺したのか」

 

 一方通行は、問うた。

 あの一瞬で、あの紅一点の少女から飛躍的に高まっていた“圧のようなもの”が最高潮だったことを肌は覚えた。会話の最中に、粒子加速器を思わせてぐるぐると回転しながら発散していた、感じ取るだけで激しい頭痛とともにますます視界を赤く染めていったそれは、決着がついてすぐ収束に向かって、今はない。話ができる状況にまで落ち付いている。

 

「元々が瀕死のようでしたから、けど成仏せずに残っているところをみると命は助かってるとは思います」

 

 わざわざ訊くまでもないようなことに応えながらも無感情に凪いだ瞳で、相手を見下ろしている。

 テッラの状態はむしろ安定に復していた。亡霊を祓われ、堕天から引き揚げられた肉体が、結果として魂に侵食していた毒素を抜かれていた。

 ただし、<神の薬>は“人”を癒し救うものだ。堕天使や悪魔に対しては苛烈。一度堕天した以上、『後方のアックア』と同じく、<神の右席>としての神性は喪失しているであろう可能性が高い。

 

 だが、それは一方通行にはどうでもいい。

 だが、彼は終わるまで止まっていた。攻撃介入することなく、待っていた。暴走からの回復のためなのかもしれないし、思考がまだ追いついてなかっただけなのかもしれない。ただ、白い少年は一連を見ていた。

 そして、相対しているのが、彼ひとりとなった。

 

 援軍を、邪魔者が来る気配はない。

 その衣装から感じた“圧”も治まっている。

 相手の出方次第、様子見―――情報を引き出すか。

 一方通行は行動の指針を選択し、改めて香椎を正面から見据える。

 

「どうして学園都市を裏切って喧嘩を売りやがった」

 

「戦を仕掛けた覚えはありません。そもそも学園都市に反逆罪はなかったはずだと思いますが」

 

「ンなこと訊いてんじゃねェ。お前は何モンで、何が目的だ?」

 

 それから、ぼんやりとこちらを見た後、口を開いた。

 

「私は、『上条詩歌』と同じ力と、同じ目的を持っている。

 ただ選んだ手段が違うだけ。

 指導者(ヒーロー)を選んだ前の私にはできなかったことをする。

 そのためになんとしてでも、ローマ正教と学園都市を戦争させるわけにはいかなかった。どちらの勝利も結局、解決にはならないのだから」

 

 声に、感情を感じない。

 本音か虚言かもわからず、だからこそ真偽を探るようにより聞き入る。

 

「私は考えた。愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶというのなら、成功者の事例から考えた。どのような指導者を目指すべきだったのか。歴史上、あるいは聖書、神話、伝説に登場する偉大で理想的な九人の指導者、そう学園都市で<才能工房(クローンドリー)>が目指していたものでもあった『九偉人』であったなら。自分がもしも……

 

 トロイア戦争のヘクトールであったなら、

 東方遠征のアレクサンドロス大王であったなら、

 元老院と対立した終身独裁官のカエサルであったなら、

 預言者の後継者のヨシュアであったなら、

 聖地の王のダビデであったなら。

 

 民族の独立のために戦ったユダ=マカバイで、

 英国を守護した騎士王のアーサー王で、

 フランク国王にしてローマ皇帝となったシャルルマーニュで、

 第一回十字軍を指揮したゴドフロワ=ド=ブイヨンで、

 

 ……もしも自分に、そうした戦争を左右できるほどの力があったなら」

 

 掲げた手の平を見詰め……閉じながら一息。掴もうとしたものを掴めなかった様が示すのは、自嘲だ。

 

「その結果、眠っ(失敗し)てしまった」

 

 たかだか十の半ばほどの少女が、過去の指導者に己を重ね合わせたという。

 見ていて痛ましいほどの諦観のはずだが、その面影が表すと何故かそう覚えない。そして、落ち着いたはずの鼓動は早くなる。

 

「過去を見て、本体が指導者になろうとしたのがそもそも間違っていた。後ろを見て出された答えでは、いずれも、いつだって、いくども戦争を完全に止めるのは不可能だったのだから」

 

 歴史に載る成功者達だけでなく、自分自身さえも、悩んで思慮をして、導き出された答えをそれは否定する。

 

「何故なら、倫理観が発達しない」

 

 問いを投げかけるよりも先に、言葉を繋げていく。

 

「二度に亘る世界大戦の惨禍によって、ありとあらゆる人類、民族、地域が、同時に、壊滅的な打撃を受けるに至るまで、戦争は、忌避すべきものでこそあれ、してはならない禁忌なのだと徹底的な倫理観は人々の間に生まれやしなかった。

 ならそれ以前の時代、時の指導者がいくら不可能だと結論付けたところで、無能の烙印を押され、その座を追われるだけでしょう。

 もしも、夢みたいな話ですが、泣けば三度目が止められたのなら、枯れ果てるまで泣いたでしょう。それと、同じ。本体の身体ひとつで戦争が止められたのなら、捧げても構わない。

 犬猫は傷付け合うことはあるが、殺し合うことはしない。

 そんな犬猫でもしないことを、ヒトはする。してしまう。それも自分自身の意思ではなくて。

 知っていますか? 戦場で人を撃った兵士たちに『何故人を撃ったのだ?』と質問し、最も多かった回答は『自分の命を守るため』―――ではなく、『上の人間にヤれと命令さ(言わ)れたから』だそうです。

 何百万という犠牲を払った大戦の果てに築き上げられた理性。平和への信念を。人としての発展を。まさか隣人愛を説く主の教えこの世界万人に広めたローマ正教に、人の犠牲を無駄にせず発展に繋げてきた科学の最先端である学園都市が、二度も懲りずに三度目の世界大戦(馬鹿)をするだなんて、ヒトとしての理性を捨て、ケモノ以下に堕ちることを両方とも認めてしまったら、一体これから何を信じ、何を頼ればいい。

 堕天使を人の手で創っただとか、もうひとつの超能力開発機関だとか、差異を理由に?

 世界のバランスが傾いてしまうからとか不安だから?

 なんて、馬鹿馬鹿しい。そんなとっくに崩れているものに命を賭けようとするなんて。

 魔術だとか、科学だとか、そんな差別が違和感と思わずに受け入れられていることに曇らせている目を覚まさない。線引きのなかった時代があったというのに、今の世界の価値観が何かおかしいことに気付かない」

 

 何も、言えない。

 どこか歯車の一部が錆びついたせいで、普段の攻撃的な思考の回転が鈍くなっている。そんな感覚だった。

 そう、まだ戦闘中であったはずだ。止めたいのならば、無理やり力づくにでもすればいい。だがそれは、“許されないこと”だと裡が止める。

 

「私は神になど祈らない」

 『無神論』

「私は人の理解をしない」

 『愚鈍』

「私は人の手などいらない」

 『拒絶』

「私は人の声に摩耗してる」

 『無感動』

「私は人の形を壊せる」

 『残酷』

「私は人の心を裏切れる」

 『醜悪』

「私は人の目を弄ぶ」

 『色欲』

「私は人の力を奪う」

 『貪欲』

「私は人の枠に留まらない」

 『不安定』

「私は人の幻想などより、現実を求めます」

 『物質主義』

 

 一言一言の度、呼応して十単から洩れる“圧”が濃くなり、酷なる。

 

「殺す、という選択肢がないだけで如何なる手も使います、必要とならば、相手の手足をもいで転がすようなこともしましょう」

 

 ―――微笑みながら、

 

「この場は、殺そうと思っても殺せない」

 

 ―――瞳を輝かせながら、

 

「だから、ひとりで、何でもできる」

 

 ―――美しささえ伴って、

 

 それ以上はダメだ。

 危機感に煽られたように鼓動が早まる。

 言わせてはいけない気がする。

 彼女が自分でそれを認めるような発言は―――しかし、言った。

 

 

「―――『魔王』にだってなれる」

 

 

 炯々と軌跡()を引いて揺れる瞳を作った笑みで細め、はっきりと言い放った。

 

 声、言葉。

 それは、大いなる衝撃を伴って胸へと抉り込まれる。

 剣でも、矢でも、槍でも届かないところまで穿つそれは、言葉と表情による刃だった。

 

 人の心を奥底まで見透かし、そこにあるものを引き出すかのような眼差し。

 賢い、とかそういうレベルではない。

 一体どこまで踏み込んでいるのかはわからないが、人が触れていい範疇を遥かに凌駕しているのではないか。

 

「世界中が殺し合う大戦が起きれば、戦犯であれ、英雄であれ、そんなケモノ以下のケダモノたちが歴史上に祭り上げられていく。人が、ヒトデナシの下で飼われ、利権を奪い合うことで、まるで餌を奪い合うようにそうした生態の真似事をさせられる。ならば戦争が始まるということは、世界がそうしたケダモノたちによって動き出すことに他ならない。少しでも理性があるなら、そんなことはあまりに屈辱的で、侮辱的で、恥辱的で想像したくもない最悪………とは、言い過ぎですか?」

 

 

 いいえ、あなたは当然そう思いますよね―――?

 『二万人を殺せば無敵になれる』と言われて『実験』に参加し、半ばで耐えられなくなったあなたなら―――

 

 

 暗に、そう告げられている気がした。

 この胸の高鳴らせた瞳の正体に、ようやく気付いた。

 アレに抱いていた感情は、前のとは違う。

 畏怖―――。

 人の心を鷲掴みにし、引きずり出す、指導者ではなく支配者の、『魔王』の眼。

 一方通行は本能的に、彼女ではない彼女の瞳に、どうしようもない感情を抱いているのだ。

 

「死んだらやり直すことができない。生きていればまた機会があるというのに、大勢の人が死ぬ、第三次世界大戦が起きるのなら、共通じゃなくても共有の標的へと流れを差し向けた方がずっとマシでしょう。

 この『箱庭』にいるのは、言葉を以て話し合うことでは満足できす、暴力をして傷つけ合うことをしなければならない人。

 ですが、誰も殺させはしない。暴力のレベルがどこまで高まろうと、死線のひとつ前に一線を引いた。

 第三次大戦で使う予定(はず)だったのに殺し合えず、溜めこまれた鬱憤を吐き出さなければすまないというなら、納得するまで捌け口となって付き合いましょう。

 後腐なく遠慮しないよう言い訳も用意してあります。

 人としての心がないのだから傷つけていい、と『魔王』となればそちらに都合のいい理由ができるでしょう。

 魔女狩りの異端審問で使われるような文句ですが、その通りですから。

 皆さんどうぞ『勇者(ヒーロー)』になってください」

 

 両手を広げるのを見て、悟る。

 己が負う傷なんて加味していない。本当に、ただ人が死ぬようなことがなければなんでもいいのだ。そしてまた、殺したのであれば、それがいかに強大であろうと嫌悪している。平和のためであれ、正義のためであれ、ただ愚かであると。

 優しいのではない。その向かう先が、その他の正常な思考から見て優しいと映るだけ。ならば世界を敵に回すような状況を受け入れているのも、むしろ当然。

 そうまでして殺意を否定しながら、肝心の己自身を、そうした交渉のために切るべきカードとして切ったのである

 だから死という絶対であるはずのものを、こうも躊躇わず、否定する。しかして一方で、その行いが正常な思考を持つ他者に対し、どれだけの影響を及ぼすかは理解できているのだ。

 

「壊れてやがる」

 

 貼り付いた口内から粘つく舌をはがし、ようやく一言、発せられた。

 間違いなく。にもかかわらず、綺麗事をここまで貫けるのか……

 無色透明だったはずの少女の面影は、この世に存在する全ての色を掛け合わせた先に到達する闇の色――漆黒に染まって、万象の何もかもを塗り潰す、絶対の無垢な色――純白が重ねられ………血のようなアカイロとなっている。

 そして、白い少年はすでに呑まれていた。

 

 

「―――そういうあなたはこんな戯言に『最強』を随分と錆びつかせているようですが」

 

 

 一方通行が一言発したのを一区切りと。

 

「話し合いの最中に、言葉ではなく拳を振り回す人間は愚者と呼ばれますが、ならば逆に、真剣勝負で決着がついていないのに無駄口叩くなんて愚者のすることで、そんな戯言に耳を貸すなどそれ以上の愚者。

 最強であるあなたは戯言を聴いている分だけ、あなたの力は錆びつき、迷って意思は脆くなる」

 

 振り向きもせず、嘲笑うように、

 

「強いフリばかり上手なクセに、自分の力じゃ一歩も前に踏み出すのにも躊躇する弱虫はもうなにもできない」

 

「……なンだと」

 

 一方通行は低い声で応じた。これは挑発だ、と。まだ警戒すべきだ、と。自分の頭に“都合のいい”言い訳が並べられていく。

 

「『どれほど強い暴風も中心点まで踏み込めばそこは無風地帯の安全圏』、と言わないと詰んだのが分かりませんか?

 あなたは本来、“やられたからやるとか、大切なものを守るためとか免罪符を用意しないと不安を覚える心性の保有者”。攻撃しなければ何の害もない『反射』を基本設定にしていたのがその表れ。

 壊れてる、と口では言いながら、壊れた機械(スピーカー)と全然思えていない。

 今、あなたの目の前には『魔王』がいるのにそんな『魔王』と会話しているこの現状で、いいえ、最初に話しかけた時点ですでに『魔王(わたし)』を『上条詩歌(大切なもの)』と勘違いして重ね合わさっているのは明らか。

 そして、一度でも懐に潜り込まれたら、あなたは甘くなる。

 結局、『最強』は『魔王(わたし)』を害する『勇者(あいて)』じゃありません」

 

 『反射』してれば聴かなかったのに、後悔したって遅い。

 『反射』せずに戯言を受け入れたのは、本心では……聴き逃したくないから、

 

 気付けば言葉を聞き入ってしまっていたのだ。音を呑み込む純白の雪原のように、雑音を打ち消し、激しい感情までも吸い込んで無くしてしまう。

 そして、一度鎮火されて湿ってるようでは再点火はより難しくなる。

 

「もう、戦いは終わっている。あなたと、あなたは戦う必要はない」

 

「随分とふざけたことをほざいたモンだなァ―――ッ!」

 

 殺意――精一杯にかき集めた――が滲んだ唸り声を上げ、怒声の代わりに強風が――直接ぶつける狙いは定めず――無秩序に周囲を荒らす。

 怒っているはずなのに、激しい感情がトリガーとなる黒い翼は噴出しない。

 空気に毒されるな、為すべきことをやれ。

 邪魔者はいなくなり、チャンスは目の前にあるのだ。

 

 だが、“うまくいかない”。

 

「“私から”あなたと戦う理由はない。

 “反撃という戦う理由”だって、あなたには“あげられない”。

 これでどうやってあなたは戦う言い訳をするおつもりですか?」

 

 たとえ<超電磁砲(レールガン)>と<妹達(シスターズ)>の関係性と同じものかと理解しても、前の『実験』の時と同じように『自分と同じ生きている人間』と『薬品とタンパク質の合成から生まれた人形』で違うとは認識できない。

 

 言葉を知悉している。

 そして、木原数多(研究者)よりも一方通行の心理を把握している。

 ありきたりな暴力反対を述べてはいない。先のあの聴き入ってしまった言葉の羅列すら、『魔王』を宣言された後では、迫真なだけの演技だったように思えてくるのに有言実行と筋を通しており、その言葉を理解できるからこそ……『反射』もできない。

 ……だが、

 

「あなたの人間性が信じられるものだと改めて思います。あの子の言うとおり、きっとあなたは『実験』で彼女たちが『戦いたくない』といえば、何もしなかったんでしょう? 彼女たちの犠牲であなたが得た理性を簡単に捨てて、ケモノに還るほど愚かではないと証明できたんですから。

 あなたにこの戦争に参加する理由はなく、命を賭ける価値もない。

 それはけして引け目に感じることではなく誇るべきもので、今この時あの子のそばにいないことを恥じるべきで。

 きっとその“小さな繋がり”を守れることだけで十分、それでいいと思います」

 

 彼女は、迂闊だった。

 

「……テメェに『魔王』は無理だ」

 

「本体はしなかっただけ。できないわけではなかった。ですが、“私はすることを選んだ”。

 かつて、この世界には、“ひとつの黄金時代を作り、その黄金の時代から背を向けた人間”がいた。その時は、同士だけでなく、家族までも彼を裏切者、敵――『魔王』としたそうです。

 それを世界をひとつにまとめたと見れば、『九偉人』の指導者たちと同じ一考する余地があるでしょう」

 

「ンなのは関係ねェ。無理なモンは無理だ」

 

 否定する。

 根拠がなかろうと否定する。

 

 夏休みの終わりに伝えられた、<最終信号(ラストオーダー)>から<妹達(シスターズ)>の総念。

 

 自分達は自分達として生きる。

 それはけして誰からも否定させない。

 自分ひとりの死に涙を流す人がいるから。

 

 けして実験動物(モルモット)ではない人間の目をして宣言し、無機質な命に魂を吹き込んでくれたと感謝された。

 そしていつのまにか打ち止め(小さな少女)はこの面倒を見るべき携帯のメモリ(小さな繋がり)に入っている。

 

 誰かと重ね合わせることは、即ち彼女たちの決意の否定となる。

 

 雉も啼かずは撃たれまい。

 あそこで“あんなこと”を言わなければ、“初めて”アカい少女を見ることはなかった。

 そして、思い出すことも。

 それを指摘するつもりはないし、違う、と思えれば十分だった。

 それだけで理論武装を纏ってなくても、今、力が使えると納得できる。

 『戦う理由がない』というが、彼女は一言も『戦いたくない』とは口にしていない。

 であれば、

 

 

「テメェは『魔王』にはなれねェ理由は腐るほどあるが。―――そのひとつが、今ここでこの血に汚れた両手がテメェの四肢をブッ潰しちまうってことだなァ」

 

「生憎、それは不可能です」

 

 

 一方通行の行動は決定された。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 交わされる雪を含む白い鎌鼬は流星のような尾を引き、弾けて、消える。

 まるで予定調和の如く、擦れ違い、あるいはぶつかり合い、または混ざり合い、旋風と言うよりは結晶が割れるような音を立てて相殺。

 得物は持ち手によってここまで扱いが変わるのか。

 ローマ正教の聖職者と同じ力であるはずだが、方向性(ベクトル)が違うのを一方通行は悟る。

 

 翼の生えた蛇が絡み合う白杖を振るうたびに繰り出される、<天使の力(テレズマ)>が変換された『風』はあまりにも滑らかで威圧的なところがすこしもない。

 しかし、その『風』が向けられるものにとっては防御不能の恐ろしさを持っている。放たれる風撃があまりにも洗練されているため緩やかに感じられるだけなのだ。相手の回避行動さえ見越して放たれる香椎の一手一手は、その見た目とは裏腹に、致命的な鋭さがある。

 息を詰めても漏れる白い呼吸の景色の中で、両者は淡々と作業を繰り返す。

 

 それでもこのままでは詰むには千日手に等しいほどの手間はかからないことを香椎は計算していた。

 

 “時間に”制限があるからだ。―――だから、先に仕掛けたのは一方通行。

 

「攻める気が全然見えねェな。時間稼ぎで蹴りを付けるつもりか」

 

 

 大天使の『風』に、<一方通行>という悪魔は両手を突き出した。

 

 

「そんな余裕があるとは思えないンだが」

 

 ゴウッ!! と音で斬れるのならば、確実にその決着を付けている。

 ひび割れるような冷たさを備える極寒の大気を切り裂き、異常を撹拌するように『風』が奔る。

 『反射』されて。

 

「『左方のテッラ(前のヤツ)』と同じなら、もう慣れた。前から組み上がっていたベクトル演算式の調整も済ンでンぞ」

 

 加えて、空気の流れを制御して発生させた竜巻を四本―――さながら猛る獣の咆哮の如く、傲然と迸る。

 固体も同然に凝縮された超高圧の疾風は、まるで見えざる巨人の指が大地ごと掬いあげるよう、対象を360度に囲み迫る。

 

「―――優先する」

 

 前方から『反射』で返された『風』で、逃げ道は竜巻の四指に潰されている。

 紅一点の少女は頭上に掲げた白杖から『左方のテッラ』と同じく粒子を集合させた傘を形成し、足元まで伸ばして全身を覆い隠す。滑らかな弧を描く楕円形の球体は、まるで卵のよう。万物より上位に設定されたこの加護()は、正しく絶対の盾で、“あった”。

 

 その行動に―――余裕がない、と一方通行は見る。

 これまで敵意から前兆を覚えていた攻撃は大抵弾かずに、流すか、躱していた。

 それが出来ていない時点で、判る。

 この機会を、逃さない。

 

 ドン!! と爆音が炸裂。

 脚力のベクトルを操作し、余波も収まらぬうちに一方通行は暴風域に突っ込んでいく。

 

 “道”が、できている。

 大気中の物体が超高速で移動するとき、周囲の空気は引き裂かれ、逆に背後の空間に真空を残す。

 当然、その真空には周囲の大気が巻き込まれ、先行する通過物を後追いする気流を生む。現にモーターレースにおいては先行車の背後に後続車が密集し、『スリップストリーム』を利用して加速を増幅させるテクニックが実在するのだ。

 大気を削り取った『風』は、まさにこれと同様の現象を副次的に引き起こして、“一方通行の道”を作っていた。

 

 さらに、この“追い風”に『翼』が乗る。

 

「あの医者なら、“命だけがありゃァ十分”。だから、まずは『とりあえず』両腕をぶった切る」

 

 『風』を喰うように巻き込みながら凄まじい勢いで噴出したのは、仄かに緑が混じっている白い翼。

 たとえ聖灰の護りがあろうと―――既にその矛盾は崩壊しているのだ。

 

 距離を潰すのに、0.5秒。

 上から下、卵に閉じこもる前の立ち位置から予測し、その翼で殻の守護を木端にし、三枚に下ろすのにさらに0.5秒。

 

 ドガガガガガガガッッッ!!!!!! と星ごと砕かんばかりの大音響の爆心地に、聖灰で模られた『卵』は殻ほどもなく。

 計算通り、両腕を毟り取られた少女の姿。

 

「……………」

 

 その光景に、予想した苦い味が口内を満たす。

 勝った。

 この手応えは、間違いない。

 一方通行にも掴めた『風』は、あの『実験』で世界のすべてを手中に収めたと絶頂した感覚を思い起こさせる。また新しい世界をひとつ経験したという。だが、仮にもアイツの分身が、そう易々と手綱を奪われるヘマをするのか? 一度は破られているのを目撃しておきながら、亀のように閉じこもっていると思考するか? 一方通行の経験が、これが目晦ましだとすると―――罠。

 

 

下にあるものは、上にあるものの如し(As above so below)

 

 

 どこからともなくその声が鼓膜を震わすより早く、その詩歌(香椎)の姿が――“一方通行”に変わって、砕け散ったのだ。

 鏡のように。

 より詳細に記せば、翡翠()色の結晶と散って―――

 

「なン……!?」

 

 ばかりか続く一秒で、今度は一方通行が小石にでも躓いたように膝をついた。

 

 

 十字教、神道、仏教を扱う多角宗教融合様式・天草式十字凄教は、その魔力の質を変えられる性質を生かして『十字教絶対的存在の神をも他の体系から巡って裂くことができる』。

 ならば、十字教の大天使<神の薬>が持つとされる<螺旋の蛇(カドゥケウス)>の共通項から莫大な<天使の力(テレズマ)>の質を変えることができれば――同じ杖を所有していた最古の錬金術士(ヘルメス=トリスメギストス)が、十二枚のエメラルドの板(エメラルド・タブレット)に数十行の寓意にまとめて記した、『相似類感の神秘』に至ることが可能となる。

 

 

 ―――“竜巻の断罪刃(ギロチン)が、一息に両肩を切断した”。

 

 肉体と精神の反応(リアクション)遅れ(ずれ)が生じ、熱と異物感が、両の肩から指先の骨肉に駆け抜けた。

 錯覚だと理解しても、何の救いにもならぬ現実の激痛。

 

「あああああああああああああああああああああああああああああ」

 

 絶叫は、内臓の如く喉から吐き出された。

 ぶちまけた。

 掴み出した。

 『五体満足で両腕は繋がっている』―――『だが、確かに両腕は壊した』――まるで、自らの能力を、“反射されて”自らで味わったか如きその幻肢痛(イメージ)は『反射』を透過するほど巧妙に視覚から脳に刷り込まれ、現実との差異(ズレ)を埋めるように両肩は脱臼し、両腕は折れ、両手は内部から破裂していた。

 そこまでは把握している。

 『『焼けた鉄棒を掴んだ』と思いこんで火傷する』催眠の現象も科学で解明されている。

 だが、学園都市最高の頭脳を騙せるほどの催眠がそうあるはずがない―――だとすれば、根拠はひとつ。

 物理的に間違っているなどと、この場は不合理に狂って、反則じみた別世界には通じない。

 法則全ての演算を組み終えた―――なんて、過信だ。

 倒されるはずがないと、逆に何を根拠にした。

 考察も反省の時間は終わりだ。

 『箱庭』の法則が働き、傷は癒え始めている。

 一方通行は倒れたまま、その奥にいた相手を睨みつけ、

 

(ふざけ、やがって)

 

 瞬間。

 よくわからない新種の痛みが、第一位の背中を走り抜けた。

 そこにあるのは、無機質な視線。眼球。目玉。

 あまりに活がない。

 あらゆるベクトルが凪いでいる。

 あまりに無風で――生きていないと錯覚する――それは死人のような貌で第一位を凝視している。

 憎悪もなく歓喜もない。如何なる意思の発露もない。

 ―――しかし、構わず。

 『類感』の呪いが相手と鏡映しに反射(跳ね返)され自滅しようが、構わず。

 

(倒せるかどォかなンざ関係ねェ。ぶっ殺してでもコイツを止めるって決めたンだろ!!)

 

 ズァ!! 白い翼が今まで以上に膨らみ、100以上に破裂する様に枝分かれする。

 

(……たとえここで死のォが何だろォが、そンなことは問題じゃねェ)

 

 立ち上がる。

 『攻撃を反射される』―――学園都市最強の超能力者が“全く感情を動かさず”に戦闘を仕掛けてきた<スキルアウト>に能力者へしてきたと同じ。そして、自身の能力をそのまま返された彼らは決まって、絶望し、立ち上がれないものがほとんどだった。

 だが、一方通行は立ち上がる。それと全く同じ仕打ちを受けたというのに。

 最強の自負ではない、もとよりそんなものはない。執着したのは無敵で、最強の称号はどうでもいい。

 だから、ここで一方通行を突き動かせたのはもっと別の―――から手に入れた『それ』が今まさに点火させる。

 一気に起爆させる。

 

「ああそォだ!! 認められねェンだ! 携帯電話のメモリに入れたのは勝手だが、それでも俺の手の内に入ってンだ!! だが、ソイツは『魔王』なンかじゃねェぞ!!」

 

 そもそもアイツはヒーローだとか『魔王』だとかこだわりを持たない、単に我儘だった。自分の携帯に勝手にアドレスを登録していたくらい図々しい奴でもあった。

 

「左方に<神の薬>、後方に<神の力>。癒しの風と預言の水の螺旋は安寧と停滞へと導き出すもの」

 

 シャン! 鈴鳴りに似た澄んだ音と共に<螺旋の蛇>から飛び散る羽毛結晶の煌めきが、翡翠()から瑠璃()が交ざり、色が混じわる。

 『風』と『水』――翡翠と瑠璃の混合霧は、数十もの純白の翼にとりまいた。

 

「っ!」

 

 その霧に包まれた瞬間、翼に込めていたベクトルが狂った。

 すべての翼は制御剣を失い、あらぬ方向へ勝手に振るわれ、ぶつかり合う。

 

 <螺旋の蛇>の所有者がひとつのギリシア神話の伝令神ヘルメス――その『情報伝達』の属性をさらに“もう一つの大天使”と重ねて強化し、<一方通行>の第六感に間違った方向(ベクトル)の誤情報を掴ませた。

 

(チッ、方向感覚を狂わせたのかァ? だが、慣性をねじまげたとしても驚かねェぞ!)

 

 一方通行は速断。

 仕切り直し、とその霧から距離を取る。

 

 ゴッ!! と。

 白い翼を羽ばたかせ、学園都市最強は一瞬で上空1000――2000mに到達し、さらに―――

 

「追儺」

 

 と、香椎は一言から紡ぐ。

 

「後左の風水は速やかに失われる。其は後左の風水とは逆転し安寧と停滞を破られ、災難と転機を招き寄せるもの」

 

 がくん、と。

 見えない鎖に繋がれたように、上昇が止まる。猛烈な磁力で引き寄せられるような格好に近かった。

 

 

「時に神の理へ直訴するこの力。この転機に災難を退けん」

 

 

 湖の乙女(香椎の影)騎士の剣(『左方』の力)を受け取ったが、元より、『上条詩歌』に仕えていた大天使がおり、その技法は投影(記録)している。

 火、水、風、土、これらの四属性の一つ一つはそれぞれの力の端を担っていながら、しかし同時に、広義的に他のすべての属性にも影響を与えるもの。

 相生相克――東洋における五行の理と同じで、故にその応用による<五行連環(繋ぎ)>が可能―――『聖母』の特性(減罪)が更にその無理を押し通す。

 

 

「―――<一天=花鳥風月>」

 

 

 白杖の石突を宙空(そら)に向けて、投擲。

 自らその四つの翼で飛翔するか如く、重力の軛を無視して加速する。

 だが、一方通行は自らの障害を正確に捉えていた。こちらに向かい、正面衝突と迫る白杖の軌道も逐一把握できていた。

 そして。

 最強は、回避のことなど頭から捨てた『反射』の力を過信しているわけではない。これまでの戦闘で科学(こちら)の法則が通じない違法(イレギュラー)と紅一点の少女については思い知らされている。さらに肌に覚えるベクトルからの予兆速度が速く遅く、取得情報に狂いがある。

 先手は打てず、先読みしようとすれば裏目に出る。

 従って必ず初撃は譲る―――が、もとより、互いに引き寄せられているのだから回避できる術はない。

 そう、両者とも。

 意識さえ飛ばなければ、演算さえ保てれば、一撃さえ凌げれば、状況は絶好に転じる。

 

 

 落下を開始する。

 

 

 超音速の速度で凄まじい勢いで迫りくる純白の羽と、それと同様の超音速で投擲された青と緑の螺旋の白杖。

 お互いはまるで惹かれあうようにほぼ同じ直線状を疾駆し、裏切るように白杖を見失い、過たず、一方通行の眉間に杖は吸い込まれて――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――弾かれ散った。

 

 耐えた。

 耐えきった。

 『反射』が作動したかを意識もせず、一方通行は加速する。

 上空1km を切った。この速度軌道ならば1秒もいらずに標的を撃破。

 

 この身をひとつの槍に。

 数十の純白の翼の羽の先端を揃えて穂先とする。

 どのような護りで固めようとそれは迷わず一方通行に貫通するに違いない。

 だから。

 なのに。

 

 ―――まずい、と脳裏に過った。

 

 だが、遅い。既に第一位自身の意思で、行動は定まっている。今更、この動きをキャンセルすることはならない。

 

(この状況で回避の素振りもねェ。瞬きひとつもしてない。また、罠か。この速度で、一体どんな隠し玉を用意して待ち構えていやがるのか! それとも―――)

 

 

 “お”

 “や”

 “す”

 “み”

 “な”

 “さ”

 “い”

 

 

 不可視の網に絡め取られたように、一方通行はその精神を静止させた。

 <螺旋の蛇>は、『眠りしものを起こし、目覚めてるものを眠りに誘うもの』。

 ふたつの大天使の<天使の力(テレズマ)>で補強された今、『天罰』による仮死と同じ効果――生体活動に必要な分だけの酸素量に制限する――現象を起こした。

 たとえいくらか『反射』で防いだとしても、ほんの僅かにズラせればいい。

 

 

 もう終わった、と。

 

 恐ろしく怜悧な思考はそう告げた。

 

 生じるのは、一瞬の思考の空隙。

 だが、その“一瞬”は致命的なタイムロスとなる。

 何故なら、眠りに落ちている間も第一位のベクトルは動き続けている。

 

 自転車にとっての1秒と、自動車にとっての1秒は違う。

 レーシングカーと比較すれば違いはさらに大きく。

 超音速戦闘機ならばなおさら。

 たった一瞬の寝落ち、たった刹那の意識の空隙。

 

 それは、高い速度にいればいるほど重大な結果をもたらす。

 

 

 

 それは傍から見れば、鷹が地を走る獲物を強襲するように迫った一方通行が空中で掴まれ投げ飛ばされたようであったが、香椎は、“投げていない”。

 意識の空隙によって一方通行が自ら体の制御を見失い、飛空するベクトル制御を誤り、バランスを崩し、大きく乱気流(タービュランス)に巻き込まれたように体を回転させてしまったのだ。

 届くはずの翼が、香椎の頭上を僅かに擦過して空を裂く。―――それまで。

 ぐるんっ! と一方通行の身体が宙を回る。回転する。ひとりでに転ぶ、どころか、巨大に爆長した翼に振り回されて宙を高速で乱舞して落下する。そのまま自らの背中を固い地面へと叩きつけることになるだろう。

 

 それは、てこの原理や体重移動を肝とした合気道の隅落しか―――いや、触れてもいないのだから、神に投げ飛ばされる役を担うことで奉納とする精霊相撲の決まり手とも言うべきか。

 何にせよ、意識を回復させた一方通行が見たのは、最悪な再会したあの一瞬を今ここにまた強く焼き直すもので、走馬灯のような1秒を20に分割したその刹那に、少女の唇が動くところだった。

 音声――大気を伝播する振動では間に合わない。

 読唇術なんて覚えがないのに、一方通行は“それ”を読めた。

 

 

 “あ”

 “|”

 “く”

 “ん”

 “、”

 “ ”

 “ ”

 “ ”

 “ ”

 “ ”

 

 

 あまりに“それ”に意識が奪われ、強烈なG に対するベクトル演算を怠り、ブラックアウトでまた意識を途切れさせ―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 追ってくる気配はない。

 人気のない路地を選んで、けれども目立つ赤色の残光を描きながら飛ぶように奔る。

 十分に距離を取ったところで、香椎は顔を上げた。

 最後にほんの一瞬だけ意識が途切れたが、制約を課していた本体よりも、今こそ、初めて第零位と認定していた実力を発揮できているのかもしれない。

 やはり、“足手纏い”がいないからか。

 

「予定通り……問題はない。このまま―――このまま―――失敗をしない。そうでなければ―――私がいる意味なんて、ない」

 

 あの少年と本体を反面教師(ガイド)としながら。

 ただ戦いがないことを、平和というのではない。

 それは、おそらく―――どうしようもなく、戦いを経なければ見つからないものなのだろう。

 

「ええ、わかってる」

 

 <原典>の作用か。

 この清らかな空気に包まれたはずの『箱庭』で、地中から這い上がるように、または背後から抱きかかえるようにして。

 次々と伸びる、己以外には見えない、姿なき者の腕が救いを求めるようにすがりつき、しがみつく。

 まるで蜘蛛の糸にすがる亡者のような幻像が、自身に群がるその使命感を忘れさせず。

 同時に、言葉にならない虚無感と、ともすれば投げやりになってしまいそうな喪失感もわずかにあることを覚えて。

 それでも『箱庭(ここ)』に迷い込んだ世界の全てと敵対し、己に負けた無念を同行者として百鬼夜行に引き連れて、望みの場所へと届ける。

 ならなければならない。

 できなければ、眠ることはできない。

 

 そう。

 浄化された亡霊と同じに。

 必要とあらば、寝所から何度も揺り起こされる。

 勝ち続ける者の義務を果たさなければ眠りなど許されない。

 

 

「誰かに――してもらおうなんて……何より私が許さない」

 

 

 頭の中で、組み上げる。

 

 取得した<神の薬>から―――

 編纂した<螺旋の蛇>から―――

 再現した<翡翠碑文>から―――

 

 『トート・タロット』を引き出す。

 ヘルメス(トート)を組み込んだ、<黄金の夜明け団>の『タロット』とは異なる――アレイスター=クロウリーが作成した理論。

 

 この作業を終えれば、またひとつ―――『魔王』に近づく。

 

 そのために、しばらく思考できる場と時が欲しいと周囲を探したところで、

 

 ―――香椎は空を、見た。

 

 それは、ありきたりに地面を這って移動してこなかった。

 地球上の法則である重力による負荷に逆らい、空中でS字と左右にくねりながら蠢き進む。

 銀色に光る巨大な蛇のような飛行物体は、“鎖”、だ。

 

 一部品(パーツ)が、直径5m程のサイズの、鎖の一般的な形状(フォルム)である楕円状ではない同心円状が連なったもの。

 それら同形同大の円環は高速回転しながらも互いに擦り合うことのないよう、間をあけて接触しないまま連結していた。

 その長さは果てがなく続いているように見える。

 実際は巨城の陣地から境界線上の国へ伸ばされたものなのだろうが、それが数十km単位であるなら人の視界の物差しでは、どちらも一望できないのに変わりない。

 

 だが、その北欧神話に出てくるヨルムンガンドを彷彿させるスケールが金属の蛇の恐ろしさではない。

 

『たかだか『左方のフィアンマ』ひとりで終わったとは言わせんぞ、俺様の嫁』

 

 鎖。

 

 大天使にして守護聖人たる<神の如き者(ミカエル)>は、最大級の堕天使を縛る鎖と悪魔の王を投じた穴を戒める鍵を持ち、その封は、千年の『安定』、『保持』、『調整』するように設定されている。

 

 加えて、天使長でもある<神の如き者>は、天使軍を率いるもの。

 

 どこからともなく聞こえる声は、期待する様に問い掛ける。

 

 

『それらすべてが<天使>に相応するしない……どっちがいい?』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――」

 

 一方通行の肌は目に見えない『空気の流れ』を敏感に感じ取る。それは単なる気体の流れ、という意味ではない。地響きすら覚えるほど大勢の、今ここに押し寄せようと津波になる感情の流れのようなものだ。

 その刺激を受けて雪に埋もれていた状態から目覚めた一方通行は、まず無駄な消費を避けるべく、電極のスイッチを切り、

 

「誰だ」

 

 そこにいた人物は、雪原用の、白いぴったりした戦闘用の衣類に身を包み、のっぺりした仮面のような、顔全体を覆う特殊なゴーグルを付けている。あの第二位の力が利用されて製造された、今回の標準装備。であるからして、八つの小型レンズがアナログ時計の文字盤のように円形に取り付けられている仮面のせいで、目と鼻の位置、もとい人相の判別のできないが、学園都市の人間だ。隙間のない衣類なので、内側に好きなだけ詰め物をすることができるが、その見たままの第一印象は、高校生ぐらいの少女。

 チリチリ、と。

 妙な緊張感が走る。

 学園都市は、正義の味方ではないし、無償で人助けをするボランティア団体でもない。だが、自分達の味方をする『使える人間』は援助する。

 一応は、一方通行はそちら側に属しており、敵対する理由はない。

 <グループ>にも移動する際の運転や物資の調達などと支援する人間はいた。

 だが、戦闘直後で多くの電力を消費した状態でなければ、無理やりにその仮面を剥いでこの女の正体を確かめていたのかもしれない。

 そう思わせるほどに。

 その仮面の横からわずかに漏れてる耳の肌の白さに、肩まである茶色い髪の揺らめきが、何故か銀幕の一場面のように、一方通行の赤い瞳を釘づけにする。

 いや。

 違う。

 このいつ狙われるかもわからない状況下で、一方通行が目を離せなくなったのは―――彼女の背景にあの娘の姿を幻視したからだ。

 まさか、まだあの戯言の影響を引き摺っているのか。

 鏡合わせのように、一方通行と同じく、ただこちらを見つめるだけの白い人影へ、

 

「お前は、誰だ」

 

 と、もう一度きつい口調で問うた。

 いつのまにか手は首のチョーカ―に当てられて、能力が使える状態になっている。

 して、相手は仮面を取らず、表情を見せず。時計盤のように設置された小さなレンズだけをわずかに動かし、こう答えた。

 

 

「『スペード』、もしくは<番外個体(ミサカワースト)>。第三次製造計画(サードシーズン)って言えば、ミサカのことはわかるかな?」

 

 

 その声に、一方通行は完全に硬直した。それだけ今の発言は、目の前にいる存在(ミサカ)との遭遇は予想外であり、彼にとって無視できない意味を持ち合わせていた。

 決定的な。

 致命的な。

 意味を、持ってしまっていた。

 

 

 直後。

 一方通行の電極が、突如に効力を失った。

 

 

 学園都市最強の超能力者は――夏休みの最終日に脳に重傷を負ったが、それでもあの少女の迅速な処置によって、能力演算を必要としない日常における動作ならば、彼女達(シスターズ)の補助がなくても支障は無いはずなのに――それでも、今は杖を落とし、ただただ茫然と眼を見開くことしかできなかった。

 白い喉を引き裂くようにして、一方通行の唇から、掠れた声があがった。

 

「まさか……お前は……」

 

「へぇ、<ミサカネットワーク>を切っても、人の言葉を理解できないような状態にはならないんだぁ。なーんにもできない第一位を思う存分遊んでから殺そうと思ってたんだけど。ミサカはちょっぴり残念」

 

 記憶にある、自らをミサカ、という特徴的な口調。

 何ひとつ涙するところなどないのに、その声はひどく胸に響いた。執拗に胃の底を掻き回し、第一位の脳をどろどろに溶かした。

 その電極は、ここ学園都市から遠く離れたところにいようが彼女達の援助を受信できるよう改造が施されていた。だが、それは今、彼女に握られていた。

 

「けど、『反射』が使えないんだし関係ないか。ミサカは、この決戦の行方なんて興味ない。そんなのインプットされたオーダーの最下位。ミサカの最優先すべき目的は、戦力外と判断した場合の第一位の抹殺のみ。ミサカはそのために、そのためだけに、わざわざ培養器の中から放り出されて、手術台で体を改造(いじ)られたんだからね」

 

 そこまで言うと『スペード』は、第一位の杖に目をやった。

 支給時のものとは形状が変化している。多少の改良が施されているようで、おそらく電極の力を完璧に失っても自立できるようにしたかったんだろうけど、結果は芳しくない模様。

 

「何度立ち上がろうとしても立ち上がれない―――まるで今のあなた。

 さっきの戦闘を見てたけど、馬鹿だよねぇ。ミサカ、笑いをこらえるのに必死だったよ。第一位なんて、<ミサカネットワーク>から乖離しちまえば、楽勝なのに。

 けど、ミサカの分を残してくれたのはよかったよ」

 

 ニヤニヤと。

 仮面に覆われていても伝わる、これまでの<妹達>とは明確に違う『表情』――悪意を含んだ笑みを浮かべながら、

 

 パン―――と小さな風船が割れるような音。

 熱、補助が切れても痛覚は途切れない、2cm程度の鉄釘が右肩に赤黒い染みを作る。

 

 砂皿緻密が使っていた磁力狙撃砲と同じ原理。フレミングの左手ではなく、もっとシンプルに電磁石からの反発を利用して撃ち出した。

 『スペード』は第三位(オリジナル)と同じ超能力者(Level5)には届いていないが大能力者(Level4)――出力は2億V、音速を超える速度で射出することも可能だ。

 だというのに、会話ができるこの至近で、動けぬ相手の体内に鉄釘が留まっているのは、標的を少しでもいたぶるための演出であろう。

 

「ほら、その無様な顔をもっとよく見せてよ。そのためにミサカ、あなたが起きるまで待ってたんだから。1万人近く、1万回近くミサカ達を殺してきたんでしょう? だったら、1発ぶちこんだだけじゃ全然物足りない、1万発やったって最低ラインには届かないよ」

 

 鉄釘以上に突き刺さる言葉だった。

 事情を知らない赤の他人から好き勝手にぶつけられる言葉などとは違う。

 だが、一方通行はその声を『反射』することはできない。

 

「それじゃあ、普通に死んじゃうだけだからさ。最低でも1万倍は人権を踏みにじらないと帳尻が合わない。本当なら利子を含めて3倍返しじゃ済まないんだからね、まずは実験動物(ミサカ達)のところまで堕ちてきてくれなきゃ」

 

 言って、ついに仮面を剥ぎ取る。顔を露わにする。

 今度こそ、一方通行の息は止まった。

 また深い眠りに落とされたのではない。単純に仮面の下に遭った素顔から目を背けたかったからだ。

 偽者だ。

 特殊メイクだ。

 何らかの能力を使っているんだ。

 そう思いたかった。だが、この悪夢は現実だ。

 

 ビニール人形のように内側から歪む顔の皮膚。

 繊細で整っているはずの少女の顔が、憎悪の炎で炙られたらこうなるだろう。

 それは単純な怒りではなく、少女の表情筋が凝り固まって二度と元の顔に戻れなくなるほど極限の笑みを拡げている。

 

「元々、ミサカはあなたを殺すために生み出された。

 別に生まれたくもなかったのに、無理やり生み出された。

 <最終信号>からの信号を遮断するために、皮膚を切り開いて得体の知れない『シート』や『セレクター』を山ほど埋め込まれた。

 あなたさえいなければこうならなかった。

 生まれてくるにしても、こんな未来のないやり方じゃなかったはずだった。

 だから、堕ちてよ。

 誰にも助けてなんて言えない地獄に」

 

 第一位は、動かない。

 紐の切れた人形を誰から生まれることを望まれなかった悪意は一言一言の度に蹴る。

 

「ねぇ、無視しないでよ。ミサカ達のネットワークを利用して代理演算を行っているんだから、第三次製造計画のミサカはミサカネットワークの稼働状況をモニターすることで、あなたの感情がわかる。起きてるでしょ。聴いてるんでしょ。それともまさかミサカがミサカじゃない偽者だと思ってるの?

 だったら、言ってあげる。

 残念、同じだよ。

 これまで<最終信号>も含めて、他のミサカ達が1万近く殺されておきながら、あなたを糾弾しなかったのが不自然だと思わなかったの?

 ミサカはあの人みたいに聖人君子じゃないし、清く正しいお姫様でもないのに。あんな“壊れている”わけでもないのに。

 だから、答えは簡単。

 自らの意思で恨まなかったんじゃなくて、ただそれを理解し、表現するほど『人間らしい感情の処理方法』が不完全だったから表に出なかっただけ」

 

 彼女は最初に言った。第一位を殺すための存在だと。

 だから本気にしなくてもいい。

 それら口にする全ては戯言で、単に演出されたものだから、いちいち真に受けるのは馬鹿なのだ。

 しかし、どうしても『番外の悪意』を避けられない、作戦の一環だとわかっていても逃げられない。

 もしかしたら。

 あの子のあの笑顔は、自分を許してくれたものではなく、単に<学習装置(テスタメント)>によって急速に形成された人格が、憎悪や恐怖といった負の感情を正しく認識できるほど成熟していないだけではないか。あれだけのことをした自分が、そうそう簡単に許されるはずがないではないか。

 そういう懸念が、どうしても一方通行の柱をぐらつかせる。

 

「でも、このミサカは、番外個体(ミサカワースト)は、他のミサカと違って負の感情を表に出しやすいよう脳内物質の分泌パターンを意図的に再調整されている。巨大なネットワークの中から負の感情を読み取り易いように。つまり、『ミサカ達には憎悪の感情が存在しない』のではなく、『存在しているものの、それを表に出すための手段がない』だけだということをこのミサカが証明してる。

 全ミサカ、あの<最終信号>さえもこのまま『人間らしく』成長すれば、あなたに憎悪し、正当な復讐の権利を使う可能性がある!! それが成功して命を落とすか、失敗してあなたが全てのミサカを殺すか。いずれにしても、あなたの思い描く都合の良い未来はやってこない」

 

 『スペード』、番外個体は顔を踏みにじるように足を叩きこんでいたところで、ふと止まる。

 またひとり、何かが近づいてくる。

 学園都市最強の負の遺産がまた一つ。

 

「おいおい、あんまり『卒業生』を虐めてやンなよ。壊れちまったらどうすンだよ」

 

 首を傾け頭だけ振り向けば、とてつもなく目立つ外見の少女がそこにいた。

 

「頭だけあればいいんじゃない?」

 

「脳味噌だけのほうが楽だが、身体から切り離した状態で機能維持できるほど単純な器官じゃない。生きたまま脊髄と神経系を残して切除するのも面倒だし、多少効率が悪くても身体ごと残した方がマシなのよ」

 

 年齢は12歳程度。年相応にイルカのビニール人形を小脇にかかえている。肩甲骨の辺りまで伸びた黒い髪は、アクセントのため耳元だけが金色に色を抜かれていた。

 そして、何よりも服装がこの極寒の環境下であるに関わらず、白いコートに袖も通さず、フード部分だけを頭に引っかけて羽織っただけ、その下はパンク系、とでも言うような小柄な体を締め付けるように黒い革と錨でできた衣装。

 寒さに対し圧倒的に防御力が足りないというのに、身につけている本人はその感覚をどこかに置き忘れているように平然としている。

 水を差されたことに、『人間らしく』不満げな表情を浮かべるも、絶頂に至って殺してしまってはもったいないと考え直し、番外個体は復讐の対象を踏みつけたまま、陽気に、

 

「でも、あんれー? 『ダイヤ』ちゃーん。もうひとりの成功例(生き残り)はどうしたのかにゃーん? 担当じゃなかったのー?」

 

「一世代遅れの優等生なンて必要ないさ。初戦見たけど、ありゃあ全然変わってないねェ。ンなら余計な部分は削いだ方が良い。攻撃性の一点で“最も近づいてる”個体は私だ。都合のいい『犬』を作りたいのならとにかく、実戦でぶっ殺すのに、防護性なンざ邪魔だ」

 

 そして、『悪意』が『最強』を食らう。

 

 そのコートに張り付いていたイルカのビニール人形が、爆ぜた。

 中から出てきたのは、もうひとつの脊髄。

 それらは『ダイヤ』――黒夜海鳥の身体を伝い、背中へと接続されていく。

 

 質感はビニールなどの石油製品に近いか。そして、見た目はもうひとつの脊髄というより3m以上はある細長く、接続した部位から反対の先端部には赤子のように小さな手がついている腕と見える。人のような肌色で、作り物のような光沢で、硬く、滑らか。矛盾した項目をそのまま実現させてしまっている。

 

 これは、<幻想御手(レベルアッパー)>という脳波調律によるネットワーク接続デバイスと同じモノ。

 ただし、第一位に、<一方通行>の演算思考パターンに専属するよう改造されている。

 

 <暗黒の五月計画>

 成功例はたったの二人。演算方法の一部分を意図的に植え付けることで能力者の性能を向上させようというプロジェクト。

 個人の人格を他者の都合で蹂躙されたその結果、彼女らは『反射』と『ベクトル制御』、各々の方向性(ベクトル)で力を取得し―――それ故に、その理想モデルとされた学園都市最強の超能力者との“脳波の親和性が高い”。

 

 そう、かつて、<大覇星祭>で第五位の脳を木原幻生という開発を受けていない研究者が乗っ取った時以上に、第一位の能力を引き出せる。

 

「一定の水準を超えた機械化人間(サイボーグ)は、駆動鎧(パワードスーツ)と変わらねェっつっても、未だに金属加工で人間を作る方法なンざ確立できちゃいないンだよねェ。結局、(コア)には生物の部品が必要だって訳よ。ミクロ方面は細菌やバクテリアの方が優秀だしさァ。パンを作ってんのはイースト菌サマサマだって話だよ」

 

 つまり演算のコアとして利用するには、“生身の部分”が必要だ。

 

「脳を損傷した第一位は外部ネットワークからの代理演算を。

 トラウマ持ちの案内人は低周波治療器を使って精神安定を。

 つまり、今回は<暗黒の五月計画>で得られなかった部分を手に入れるために、俺が第一位の脳を蹂躙する。

 人体ひとつにこだわる必要なンかない。チカラの制御を人体の外部から補う技術は仮組みされてる。この身体が人工物を取り込ンでいるように、超能力者の脳を取り込む」

 

 人格を塗潰したオリジナルを『道具』として扱う、『道具』として1万近くも使い潰されたことと同じ状況に堕とす、それはある種の復讐か。

 

 

 

つづく




遅れてしまいましたが、これからもよろしくお願いします。

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