とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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世界決戦編 十の戒律

世界決戦編 十の戒律

 

 

 

 ・『契約の箱庭』における十の戒律。

 

 

 『正解は、たったひとつ』

 『偶像があってはならぬ』

 『情報を徒に広伝してはならぬ』

 『二日の期限を破ってはならぬ』

 『両陣営はその父母(代表)の決定に逆らってはならぬ』

 『人を殺してはならぬ』

 『尊厳を貶めてはならぬ』

 『無関係のものを盗んではならぬ』

 『嘘を広めてはならぬ』

 『他勢力の資源を壊してはならぬ』

 

 

中央聖堂

 

 

 中央広場に面した、四角い石の建物。元々は大きな教会の中の建物のひとつであったそれは、少し前までは軍事施設で、今は何百年も前の設立当初の姿に原始回帰。それは主の恩恵ではけしてなく、最新(いま)ある人の技術で蘇っている。

 

 その中央に出入り口にまで敷かれた絨毯を挟んで、二つの勢力は対立している。

 ただし、ここに人の姿は片手で数える程度だ。

 自由参加と定めて用意してある席には空きが多く、両勢力の要求で代わりに監視用の霊装である水晶球と粘土細工のような小麦粉を練って作った小さな人形、反対側には映像機器が搭載された駆動鎧などが置かれている。『精神文化的にも成熟した国家』を名乗っているからには防衛施策の一環で、遠方からの形の見えない呪を弾く防衛線や電波を乱すジャミングが張られて、そして、“彼女”が目を光らせていたようだが、今は限定的に解除されており、その場にいなくても参加できるようになっている。

 

 ここは縮図。

 

 ロシアからの間接的支配から脱却するための経緯から、東西に300kmに細長く伸びたエリザリーナ独立国同盟。

 もしも天上から俯瞰できれば、新興国家は、この“絨毯”に重ね見れたであろう。

 

 南方には、要塞。基地などと呼べるスケールではない。あれは、もはや一つの都市。複数の合成鋼板を組み立てて製作される『ログハウス』から、速乾性の強化セメントが使用された『シェルター』を、超音速爆撃機から物資を受け取った建設用駆動鎧が驚異的な速度で建築し、中核に防衛兵器を自律生産する『ファクトリー』が設立。ついでに『ホスピタル』も揃っている。向こう十年戦争が続いたとしても、独立して自給できるようになっている。自分達の技術の流出を嫌って、終われば自爆したり回収したりするための仕組みが取り付けられているが、絶対の勝機で臨むため今回は『外』に売るための型落ちしたものではない、設計はもちろん材質からしてケタが違う、その面積も。最大大陸に土地が狭さで遠慮する必要もないせいか二三学区の土地を合わせても広大な、技術の粋が集約した第二四番目の学区がこの異国に出張して建設された。全ては母体の奪還のために。

 

 北方には、巨城。フランスのモン=サン=ミシェル修道院に聳える巨大な尖塔を、イタリアの聖マリア教会を支える複数の柱を、インドヨセフ教会の荘厳なパイプオルガンを、文化遺産の特に重要とされる部品を“模した”量産品の建築物が山となっている。二十億の信徒を抱え、世界各地に多くの教会修道院を建造してきた最大宗派正教。様式も設計思想も、土地や時代、文化によって様々で、そこから生み出された各々の個性もまた多様。数千、数万、数十万とあるであろう。それらが始めから最終形の決まったジグソーパズルのようではない。壊れた精密時計のために小さな歯車を自作するかのように、本来ありえない使用法で無理やりにはめ込まれて別の新しい機能を会得している。ただし、最後の仕上げされておらず、まだ“未完”に留められている。これは十字教の歴史をひとりの聖者の手中で絡み合った結晶。詰みへの一手のために。

 

 どちらも半径40kmを超え、この一週間も待たずに完成されたものとは、思えないひとつの文明。

 学園都市とローマ正教。

 だが、場合によっては一番の大敵と成りえるのは異教でも異端でもないかもしれない。

 ステンドグラスが濾過した慎み深い光の中、直接間接問わず、視線をもっとも向けられるのは、境界線に立つ管理者である。

 

 

 

 宗教的に友情や愛情、交情の証でもあり、科学でも『隠し要素』の総称として浸透している『イースター・エッグ』。

 この習慣は、十字教および『復活祭』よりも古くから存在し、またその起源を語る伝承は数多い。

 そのひとつに、『神の子』の復活は『赤い卵が存在する』ことと同じくらいにありえないと当時のローマ皇帝が言ったため、『マグダラの聖母』が貧者として赤い卵を皇帝へと贈り、『『神の子』が天に上げられた』と主の教えを説いたという逸話がある。

 『卵』は、墓から抜け出して、復活する『生命』の象徴。

 『赤』は、その血によって世界を救う『神の子』の贖い。

 以来、『赤い卵』が、『イースター・エッグ』の基本形となったという。

 

 その<赤い卵(イースター・エッグ)>を用いるゲームもまた数多い。

 

 イギリスでは、『エッグ・ジャーピング』という伝統的な行事があり、それは互いに自身の卵を相手の卵にぶつけ合い、最後まで無傷な卵を持っていた方が勝者というもの。

 また、アメリカで、広場に数万の『イースター・エッグ』を隠して、見つけた者がそれ手に入れるなんてイベントもある。

 

 

「ローマ正教ないし学園都市の内、十の戒律を厳守される『箱庭』から『上条詩歌のイースター・エッグ』を見つけ出したものを、この大決戦の勝利者とします」

 

 

 まだ沈黙を維持してる場を、一度見やる。見聞きしている情報を主へと伝達する道具の数々に囲まれているので確認のしようがないと思われるが、香椎はその共感能は聴衆たちの傾聴ぶりを手応えとして感じ取っていた。

 最初で最後の会議で、今まで秘匿されてきた決戦形式が開陳。

 直前に発表、と随分と遅まきに失しているわけであるが、どのような戦いになるかと分かっていれば、科学と魔術の大決戦以前から暗躍し、場合によっては、事実上の勝敗がそこで決してしまい、最悪、無秩序の戦争へと発展しても不思議ではない。

 して、主導権を握ろうとするための牽制も含めて、四六時中刺客を差し向けられたが、準備が整うまでは決戦形式を明らかにしないことで―――大決戦という成果と自らの立場を守った。

 

『そうか。これでようやく俺様が全てを手に入れるお膳立ては終わったというわけだな』

 

 重い沈黙した空間に、男の声が響いた。

 その音源は、玩具のような練った小麦粉で整形された小さな人形。しかし、聴き間違えることだけはない。

 第三次世界大戦の引き金に手を掛けた人物で、学園都市が今大決戦に参加した目的のひとつである対象。

 『右方のフィアンマ』。

 漂う使い魔たる粉人形の背景に、聖者の嘲笑が浮かぶよう。

 

『『復活祭』ときて、『約櫃』に『十戒』とは随分と魔術(こちら)を贔屓にしてくれるんだな。いいぞ。その方が、大分手間が省ける』

 

『ちょおーっと気が早いんじゃない。まず前提からして、覇権を争う大戦をするわけじゃないと思うんだけどね?』

 

 そこで口を挟んだのは、甘ったるい女性……香椎よりだいぶ幼い少女の声。その音源は、撮影器具の横に並べられたモニタ。『右方のフィアンマ』と同じく直接は参加していない。背景は、浮かばない。

 最終会議前に自ら『学生代表』と名乗ったが、証拠にスクリーンにライブ映像で海千山千たる統括理事会の承認上も見せられたので――姿は見せなかったが――この人物に全権を預けているようだった。

 

『これから争うのは、あくまで<幻想投影>の本体の所有権だったはずよ? 本来なら学園都市(わたしたち)の所有物だった素体を、わざわざ景品として出してあげてるの。こっちは夢と希望を与えてる立場なわけ。おわかり? だーから、納得のいく説明をしてもらえるかしら?』

 

 聖者からこちらに睨めつけるように向けられるレンズには、極微量の、だが極微量で致死になる、殺意というには一歩分足りない毒意がこめられていた。

 とはいえ、実際に不平を訴えているというよりも、牽制の意図であることは明らかだった。香椎を牽制することで、自分達の有利に交渉を引き出す、会議の主導権をあわよくば奪いに来たのだ。

 

「ご不快に思われたら申し訳ありません。ですが、前提条件に一方的な肩入れの事実はございません」

 

 しかし、この第一責任者も―――ある種卑怯ともいえる強かさを身につけている。

 

「あなた方がよくご存知の“どんな異能にも対応できる本体の性質”を利用し、既存の法則をぎりぎりまで取り払い、もっとも原始的な範囲に収めた形式で編まれている以上、魔術側も科学側も平等に“守らされます”。このあたりは、これまで幾多の『協定』の違反者を“学園都市と協力して”罰してきた英国の審議を通ったことを信頼していただければ、証明になると思いますが」

 

 するりとかわして、ついでにしれっと、逃げ込んだ後ろ盾たる代表国の実績もアピールする。

 科学の総本山と交流を結んでいる魔術大国のイギリスの他にこの役を担えるものはないと納得している以上、そこを疑うような追求することはできずに口を閉ざすしかないのだと。

 

『………』

 

 沸騰寸前まで高まった圧力はそのまま、注視するレンズの瞳孔はさらに絞られる。

 

「この場にいるのなら口頭で発表を済ませても問題ないと思っていましたが、質問があれば答えます。私に言える範囲でありますが」

 

『では、まず俺様から確認させてもらおうか』

 

 

 応答が終われば、両者に“それ以上の不満はなく”、最終会議は終わった。

 

 

道中

 

 

 ぶつぶつぶつぶつぶつ………

 

 お経のように唱えられる不気味な文句。

 部屋を出てから、上条当麻は二宮金次郎スタイルで通学の合間に単語帳を暗記する。

 今日の一限の初っ端にテストがある、と昨日の深夜過ぎに思い出してから単語帳を自作したので、睡眠不足もいいところだった。

 もう、あの夏休みの宿題事件からまだ二月も経過していないというのに、我ながらどうしようもないドジぶりに、自分でもちょっと呆れる。

 

「こうなったら、テストの後は睡眠時間にあてるか……」

 

 聴けばその次の二限の化学を担当する小型担任が泣きそうなことを呟きつつ、右に左によろめきながらもなんとか前を進む。

 が、そんな不注意な“ながら移動”、不幸と評判の愚兄でなくても危険で、

 

「―――さん!」

 

 呼びかけられた時には既に遅く、足元に転がって来るそれに気付かなかった。

 どこからか飛ばされてきた空き缶を踏んだ愚兄は転んで、尻餅をついて青天になった。

 

「痛たた……」

 

「はぁ、もう。単語帳を見ながら歩いてるからです」

 

 愚兄の顔に影がかかる。

 日差しを背にしているから逆光になって、間に合わなかったがこちらに声をかけた人物の顔がよく見えない。

 まぶしそうなこちらの様子を察したのか、その人物は少しだけ体を起こして、

 

「おはようございます」

 

「……おう、おはようさん」

 

「だめです、開口一番がそんなぶっきらぼうで適当なのじゃ、この優しいかわいい妹を満足させることはできません。兄ならば今日一日を乗り切るためのガッツある朝の挨拶ができないと。というわけで、もう一度。―――おはようございます!」

 

「おはようございますマイシスター!!」

 

「そ、そんなヤケにならなくても良いんですよ?」

 

「お前がやらせたんだろ……っ!?」

 

 疲れてきた……

 朝イチからからかわれると、気力体力の削れる音が聞こえてきそうである。

 ここらで主導権を握らないと、道端で尽き果ててしまいそうだ。

 

「……もうちょい早く声を掛けてくれたら兄は助かったんだが、詩歌さん」

 

「当麻さんが隙だらけ過ぎるのがいけないと思いますが、兄の要求に応えるとなると最低24時間体制で見張らないとなりません。見かけて早々の挨拶前に呼び掛けるのでは間に合わなかったですしね。うん、男子たるもの敷居をまたげば7人の敵がいるといいます」

 

「おいおい、日本は世界でトップクラスの治安だぞ。歩けばモンスターとエンカウントするようなところじゃねーだろ」

 

「モンスターは知りませんが、この日々飽きることのない学園都市は、道を歩けば能力者や、それからごくたまに魔術師に遭遇する環境ですね」

 

「この街を常識に当てはめちゃいけなかったな」

 

「当麻さんの場合は、愚兄たるもの敷居をまたげば7人の美少女がいると言い換えるべきでしたね」

 

「言い換えなくて良いからね。不良より美少女のほうがうれしいが、残念ながら当麻さんはそんなモテモテじゃないからな」

 

「寝惚けてなくても鈍感は変わりませんでしたね。ほら、目の前にさっそく一人目がいるのにそんなセリフを」

 

「美少女なのは否定はしねーけど、自分で言うんじゃありません。そもそも、妹はカウントしません」

 

「むぅ~!」

 

 愚兄の頭上で詩歌はオーバーに頬を膨らませて拗ねて見せる。

 それにやれやれと呆れた様子を見せながら、

 

「んで、詩歌は何でここに? 確か、今日は朝から病院に寄ってたんだろ。逆方向じゃなかったか?」

 

「ふっ、詩歌さんのやることなすことすべてに理由をつけちゃあいけません。なにしろ、私も私が何をやってるかわからない時があるんですから」

 

「うん、何か納得できるな」

 

 計算高いとよくよく思い知らされる妹だが、時には何にも考えていないのではないかともわせるまるっきり理に反した所作を見せる。

 学校の先輩も、『あれはお前と同じで天然の気もあるから厄介なんだけど』と言っていた。

 『天才と馬鹿は紙一重』というように紙一重というほどに密接なら、天才と秀才の分かれ目は『馬鹿になれるかどうか』である。

 世間から最優の生徒と言われれば、普通、物事を考えることに長けた性格をどうしても想定してしまうのだが、実際の本性は、考えることに長けているのと同時に、考えないことにも長けているのだとか。

 考えても仕方がないことがあったとしても、普通、人は考えて続けてしまうものであるが、意図的に思考を停止できるのだとすれば―――知略戦においては、ひとつの優先権が得られる。

 また生態系ピラミッドの頂点に立つ肉食獣はその気配が近づくだけで草食獣の獲物は逃げてしまうが、同じ弱者である草食獣ならば無警戒に接近を許す。それと同じで、人によっては何にも考えない方が受け入れやすい場合も多々あるのだ。

 それに加えて、天然である方が発揮する愚兄(じぶん)には望めない運の要素も関わっているのだから、自然体である方が危険は回避できるのだという。

 

 ただし、考えることを止めるということは忘れて(諦めて)しまうというわけではない。

 むしろ―――………あれ? 先輩のご高説の先は何だったけ?

 

 なんて、考え込んでいたら、視線の先にあるものに気付いてしまった。

 

 すぐ目の前に立っているから、角度的に胸のふくらみが思い切り強調されていた。

 ほんの少し身じろぎをするだけで、胸の揺れがはっきりわかる。

 怖くて指摘できないし、するつもりもない。

 それどころか、スカートの奥が見え―――そうで、これぞまさしく紙一重で見えないでいるのも、もちろん指摘しない。

 口は災いの元。雄弁は銀で沈黙は金なのである。

 

「んん? 当麻さん?」

 

 だが察しの良い彼女は、些細な態度の異変に気付いて、不審そうな声を上げる。

 

「なんだ?」

 

「なんか変です。変な視線を感じます」

 

「それは気のせいだな」

 

「では、なぜ私の目を見て話をしないんです? いったいどこを……」

 

 言いかけて、すぐ気付く。愚兄の視線がどこに向かっているかに。

 

「……当麻さん?」

 

「なんでしょうか?」

 

「あまり見てると……死にますよ?」

 

「それはどちらが?」

 

「さあ、どちらだと思います?」

 

 と、革靴を履いた右足が持ち上がり、クレーンゲームのように縦横移動したのち下腹部を踏む直前の体勢で止まる。すすっとスカートが擦れて、キャットガーターに挟まれストッキングに包まれた太股がより露わとなるが、もちろん、お嬢様の貞淑スキルか持ち前の幸運が働いているのか、絶対領域の奥は見えない。何となく残念で不幸だと思ってしまうが、そのガードの固さに兄として安心しよう。

 して、あとは落とすだけ。

 踏み下ろす、という行為はどこか和やかなものだが、破壊力は見た目よりずっと凄まじい。二文字で変換すれば、震脚。重力と体重を加算し、さらに筋肉の動きを加える、人体で考え得る限り最高の打撃力である。

 その男子の死刑執行台が、後はスイッチを押すだけの状態。

 デコピンもやられるまでの間が一番恐怖倍増するというが、だからと言って、往生際が悪くても、ひとおもいで介錯してくれと簡単に往生してしまうわけにもいかない。

 

「は、はは、さっぱりわからんなー。ところで詩歌さん、ひとつ訊きたいことがあるんでせうが」

 

「なんです? この体勢、割と疲れるんですが、落としてからでいいですか?」

 

「是非、そのままの体勢で頼む。頑張って」

 

「わかりました。では、手短に、男しての辞世の句をどうぞ」

 

「命を懸けて大切なものを見守り続ける男って、格好良くないか?」

 

「言葉だけなら賛成です。このタイミングだと、当麻さんはわりと最低の部類に入りますけど」

 

「恥を忍んで大事なもののピンチに目を光らせる兄って、尊敬できないか?」

 

「それ、本気で言ってるなら軽蔑しますよ。現状で、恥を忍んでるのは妹の方ですよね?」

 

「おいおい、それこそ言いがかりだぞ」

 

「今は私が正しいと……っていうか、その」

 

 語尾が消え入り、急にこちらから目を背けてしまう。

 落ち着きなく体をもじもじとさせ、何か言いたそうにしている。

 

「どうした?」

 

「うん……そろそろ立ってほしいかなーって。一応、角度的に見えないと思うんですが、これ以上は隠すのも難しくなるし、見つめないでくれると嬉しいかなー……」

 

「……あー」

 

 そういう態度には、どうにも弱い。

 つい現実から目をそらして呆けてしまったが、物理的に目をそらすべきだったのだ。

 そんなクールダウンした頭、済ませた耳が聴きとった彼女の息遣いから、表面上は取り繕っていても、恥ずかしそうにしているのがわかる。

 なんて、今更であるが、

 

「すまん。俺が悪かった。でも、わざとじゃないんだ。それは悲しい事故で誤解なんだ」

 

「とわかってます。むしろ下着を見られるくらいならいつもの当麻さんのアレを考えると穏やか―――いえ、けして見られたいってわけじゃないんですが、減るものじゃないですし、詩歌さんひとりの犠牲で済むなら安いというかですね」

 

「おう、正直、状況が衝動的すぎて、目が離せなかっただけで故意じゃないというか。冷静になってみれば、妹の袋とじを覗こうなんて絶対にありえないわけでありまして……」

 

 ―――ドンッ!!

 と、両足の間の地面を右足が踏み抜いた。

 

 壁ドンではない、床ドン。

 重力と体重と筋力+アルファの女子力(物理)。

 そんなことはありえないと思うが、イメージ的に一瞬体が浮いた気がした。確認したが、いくらなんでもアスファルトの地面にひび割れは、なぃ……ぁ……今のでできたものではない、と思う。

 

「すみません、足が滑りました」

 

「嘘だ! 絶対に嘘だ!」

 

「ふ、ふふっ、優しいかわいい妹のではお楽しみ頂けなくてどうもすみませんでしたっ! 絶っ対に袋とじは開けませんからご安心をっ! フンだ……」

 

「いや、兄が妹のを見て、役得だとか思っちゃNGだろ!?」

 

「ああ、もうとにかく事故だってわかったから、いい加減に立って! 仏の顔もあと三秒!」

 

 そっぽを向きながら差し出された詩歌の手を取り、当麻は引っ張られて立ち上がる。

 冷たいアスファルトのせいで、すっかり体が冷えてしまっている。尻についた汚れを叩いて落とす。

 

「そんなに汚れてないですよ」

 

「こっちは見えないんだよ」

 

「それより寝癖が気になります」

 

「そっちも見えないんだよ」

 

「身嗜みを整えるなら、鏡を見てください」

 

「へいへい」

 

 そう言って、手持ちの自分のカバンを探るとシンプルなデザインでありながら一目で高級品とわかるようなエチケットミラーを取り出し、器用に片手で開いたそれを掌に乗せて、こちらに差し出す。

 この癖っ毛が手櫛で直るなら苦労はしない。どうせツンツンしてるんだし目立たないだろう。

 この兄は……と賢妹がこぼす溜息を無視して、

 

「それで、わざわざこんなとこまで寄り道して、何かあったの?」

 

「んー、別にこれといった理由も事件もないけど、当麻さんが困ってる匂いがして」

 

 と、鼻に指を当てて、クンクンと鳴らすポーズ。

 

「どんな匂いだよ……」

 

 制服の袖を嗅ぐがこれといった臭いは無いはず。それに困ったことなんて、朝食のメニューが適当過ぎて不満な居候にどう夕飯で挽回するか……

 

「登校中に必死に暗記していたところ見るに、今日はテストでもあるんですか?」

 

「あ」

 

 そこでようやく単語帳の存在を思い出した。

 転んだ拍子に手離して飛んでいった行方を………見つけた。ちょうど手鏡に映っていたのだ。と、すぐ近くにドラム缶型の掃除ロボットも。

 

「うおおおぉぉ!?!? 一夜漬けの成果がぁぁ!?」

 

 振り向きダッシュ。だが、ぎりぎりで救出は間に合わないか? もうすでにセンサーで単語帳(ゴミ)を捉えらた全自動掃除ロボットは人食い鮫の如く接近。その常時開かれた大口が獲物を―――そこへ、グランダーで通る影。愚兄転倒の原因となった空き缶だ。それが横回転しながらも地面を滑り、単語帳と清掃ロボットの間に割って入る位置で停止。カーリングで言えば、自軍のストーンを守るために置かれたガードの布石。掃除の優先順位が変わった。

 

「当麻さん、早く」

 

「おう!」

 

 見ていないが、咄嗟に身代わりになるよう、ちょうど足元にあった空き缶を詩歌が蹴ったのだろう。当麻は間一髪で単語帳を掻っ攫った。

 

「セーフ! 詩歌、助かった! これでお兄ちゃんの補習は回避できましたよー!」

 

「どういたしまして。当麻さんの徹夜が無駄にならなくて良かったです」

 

 自作した単語帳を確認する。

 Circle=○ Star=☆ Cross=× Square=□………よし、問題ない。

 これは無能力者には地獄の補習である『すけすけみるみるくん』に使われるカードではない。

 前に賢妹から、自分のようなタイプには、英単語は訳語で覚えようとせず、絵で理解する。ネットの画像検索で上位に出てくる画像を印刷して単語帳をつくった方が覚えが良いのだとか。『思考過程が何であれ解答できれば問題ないんですから、漫画世界史や漫画科学実験に描かれていない重要事項をコマに追記してそれを参考書にすればいいんです。頭は悪くないのに興味がないことには全く集中力の発揮しない当麻さんが文字ばかりの本とか暗記しようとしたって、途中で眠くなっちゃうから無理でしょ?』、と(妹に何か諦められているような気がしないでもないが)なるだけ自身に覚えられやすいパターンに当てはめるべきである。

 そうして、ある程度の助言のついでに、

 

『ま、赤点を取っても詩歌さんはそれほど気にしないんですけどね。留学したら留学したらで同じクラスになれるかもしれませんし♪』

 

 兄としては何が何でも学業を頑張るだけの理由もくれた。

 

(青髪ピアスらを先輩と呼ぶのも結構あれだが、妹と同級は不登校レベルで兄的尊厳が幻殺(ゲンゴロ)だぞ!?)

 

 日常的に色々とトラブルに巻き込まれているせいで成績だけでなく出席率も不安だが、そこは出来の悪い子ほど教師魂が熱くなる生徒思いの担任に土下座でも何でもして、どうにか……どうか……頼む神様仏様小萌様……

 

「……まったく、一夜漬けだなんて。夏休みの宿題忘れのときに、その二の舞は絶対にしないとか言ってませんでしたか?」

 

「いや、その色々と……ね? 当麻さんの不幸体質はそりゃあもう大変でありまして」

 

「言い訳は結構です。どうせ忘れただけなんだってわかってますから、そう見栄を張らないでください。不幸ではなく、これは不注意です。さっきもそうでしたが、当麻さんは隙があり過ぎです。制理先輩が愚痴りたくなるのも無理はないです」

 

「うぐっ」

 

 ガミガミ、と説教される兄の図。

 それを第三者的な視点から見れば情けない光景なのだが……

 

『当麻君。いざという時だけでなく、もっと日常生活にも気を配りなさい』

 

 今は将来の不安と化学変化を起こして、先輩になった妹と後輩の兄というイメージができてしまった。

 まずい。

 もう想像を自然と受け入れられるくらいに慣れてしまっているが、そんな兄はいない。いくら愚兄でもない。何を考えてるんだ上条当麻。それなら、

 

『よォ、三下ァ、どっちが良いか選ンでくれよ。苦手を食らうか、毒手を食らうか、それとも俺と友達になるのかをなァ?』

 

 セーラー服を着て女装した第一位が鈴梨百合子と偽名を名乗って転校してくるか、

 

『受動形、命令形、連用形、連体形、已然形、未然形、終止形、仮定形、後は何だっけ? まァ別に何でもいいんだけど、ここテストに出るっつったんだから全部きっちり覚えてきたんでしょうねぇ?』

 

 ローマ正教から前方(まえかた)鞭怒(ヴェンド)と愛の鞭という凶器を持った新任教師に変装してやってくるか。

 どちらも暴力色の濃いメンツで学校が確実に世紀末的な何かになりそうなので嫌だが、妹を先輩と呼ばなくちゃいけない未来はそれ以上に回避したい悪夢だ。

 とにかくこれ以上明確に想像してしまうと鈴梨百合子と前方鞭怒も一緒に本気で実現しちゃいそうなので、

 

「じゃあ、優等生詩歌さんは、一夜漬けしなくても、どんな問題にも慌てずに答えられるってことだな?」

 

「まあ……少なくても当麻さんみたいなことはないですね」

 

「それなら、上条家抜き打ちテスト! ―――作麼生(ソモサン)!」

 

「いきなり何故禅問答の問い掛けなのかとインデックスさんでなくてもツッコミたいところですが、妹は兄の無茶ぶりに付き合ってあげるもの―――説破(セッパ)

 

 賢妹が挑戦を受けた掛け声を聞き届けて、愚兄は、とある意地の悪い問題を口にした。

 

「常盤台中学最高学年首席にとっての難題を作って、その正解を答えなさい」

 

 どうだ。我が身に降りかかる危機を想定し、乗り越える術も自分で考えさせる……全て受け売りだが。

 学校の先輩直伝の問題。できる人間ほどハマり易い蟻地獄。

 上条当麻の中で、何でもできてしまう賢妹にできないことを答えさせる。

 愚兄には難題が簡単に浮かぶが、その解決法までは思いつかないし、逆に賢妹には難題の方が―――

 

「常盤台中学最高学年首席にとっての難題を作って、その正解を答えなさい」

 

 当麻は頭を傾げた。賢妹は愚兄の問い掛けをオウム返しに唱えただけだった。

 だが、それがまさしく詩歌の解答なのである。

 

「そして、その答えは」

 

 詩歌の顔は崩れず、余裕の笑みで留まったまま、

 

「常盤台中学最高学年首席にとっての難題を作って、その正解を答えなさい」

 

 二度も復唱されれば、理解する。

 理屈の上では成立している。矛盾ひとつない完璧な解答だ。

 

「詩歌って、一休さんだったんでせう?」

 

「私のどこにマルコメ坊主要素があるんですか。それで、入れ知恵したのは先輩ですか?」

 

 ついでにあっさりのその背後も当てられた。

 

「ああ、昨日お昼一緒した時に相談に乗ってくれたんだよ。何でもプライドの高い妹の躾け方の達人だとか。困ってることがあったら涼しい顔して答えてくれるし。当麻さんもああいう感じになりたいんだよなぁ。先輩はお姉さんだけど、頼れる大人の兄としての手本にしてますですはい」

 

「……当麻さんは本当に先輩に甘いんですね」

 

「? どちらかというと当麻さんが甘えさせられてる方だと思うぞ? 弁当精神診断だとかで、気になる思春期特有の妹の悩みも一発でわかるって言うからさ相談の時、結局半分ぐらい食べられちまったけど――ああ、詩歌の弁当おいしかった。とても参考になったって誉めてたぞ――そしたら代わりに先輩の妹さんが作ったっていう弁当を全部くれたんだよ、良い人だよなぁ」

 

「へぇ、弁当精神判断なんて初耳ですねぇ……(確かこの時期の百花繚乱は研修合宿だったはず。しばらく寮に行けそうにないから鍋いっぱいに保存のきく一週間分の作り置きを用意したけど、隣の義兄の様子もついででいいから様子をみてあげてーっと舞夏さんからお願いされてましたし。それに鞠亜さんは姉に対してそんな世話焼きタイプじゃないし。そもそも先輩はたとえ実の妹でも他の女の手料理を許すはずがない。ちゃっかり言葉巧みに特製詩歌弁当を半分取ってますからねあの人。上条家の味盗んでますよきっと。おそらく弁当は自分で作ってきたんだろうけど、詩歌さんのと比べて自信がなかったから隠したんだろうなぁ。構ってちゃんなのに、昔からクールで何でもできて頼れる年上のお姉さんという設定を通してるからか、ねじくれたアピールしかできないのは今に始まったことじゃないし。そんなので気を引こうとしても当麻さんの鉄壁のとぼけっぷりには通用しないのは重々わかってますので心配なんてこれっぽっちもしてませんが。かといって、共通の話の種がこれしかないからって妹ネタで詩歌さんを出汁にして好感度を上げようとするのは気に食わないんですけど……―――って、何でアピールされてない詩歌さんの方が心情を察しちゃってんですか! おかしくないですか。こうなるのも当麻さんが捕って食おうかと近づいてくる先輩に対しての警戒が甘すぎるから……)フフフ」

 

「突然難しい顔したらと思ったら憐みの溜息をついたり怖いくらいにいい笑顔してるけど、何か考えごとか? やっぱり何か悩み事があんのか? そういや病院に行ってたっつうけどまさか」

 

「かといって、中学生の詩歌さんが高校の時間には手が出せないし……一年早く予定を繰り上げて……いえこうなったら、もうひとつ飛び級でもして当麻さんの先輩になろうかしら?」

 

「絶対に勘弁してくれ詩歌!?」

 

「何でそんなに嫌がるんです? 詩歌さんも結構先輩キャラには自信ありますよ?」

 

「それは年下にのみ発揮するもんだ!?」

 

 そうして、当麻の涙ながらの説得の末。

 賢妹はさっきの問答のお返しにと、暗記できているかを問題を出題し、愚兄がそれに答えるというスタイルで登校しながら、一通りのチェックを終えてから、ふと、

 

「常盤台中学最高学年首席ではなく、上条詩歌にとっての難題はあります。それは縁の下の力持ちになること」

 

「うん?」

 

「ここのところ学園都市から出ることが多かったでしょう? それで、この街が『外』とはやっぱり違うんだって実感したんです。散歩でもそれは再確認できました。……それで、現実を見せられた詩歌さんは、<幻想投影(この力)>をよく知ろうと、先生に協力してもらったんです。今朝病院に行っていたのもそう……だから、心配しなくていい」

 

「……その解決法がわかったのか?」

 

「いいえ、全然。1%にも辿りついていない可能性です。本当はもっと時間があればよかったけどそういうわけにはいきません。だから、まだ内緒」

 

「おい、ここにきて秘密とお預けはないぞ。できないことがあったってそりゃ普通のことだし特別恥ずかしがることじゃねーだろ。どんな答えだって当麻さんは笑いませんよー」

 

「言いません。願い事は胸に秘めておくことです。人にあまり吹聴したら叶わなくなるってよく言うでしょう?」

 

「んなの、迷信だろ」

 

「まあ、インデックスさんが聴いたら説教されますね。それに女というのは秘密を着飾って大人になっていくものなんですよ?」

 

「まだ高校生にもなってないのになーに大人ぶってんだか。そういうのは先輩みたいにな……」

 

「やっぱり飛び級でもして当麻さんの先輩になろうかしら?」

 

「いやいや、先輩にならなくたって詩歌さんはもう十分大人でございます!?」

 

 と、情けない少年の顔が、ふいに、―――の顔に代わって、嘆息する

 

「……でも、あんまり大人になってほしくないのが本音だな」

 

「何です、ソレ? もしかして年上のお姉さんが好みじゃなく、実は年下の子の方がタイプって言いたいんですか?」

 

「ちげーよ。何で、当麻さんの性癖を暴露しなくちゃなんねーんだよ」

 

 くすくす――と微笑む妹の横顔を見て、唐突に悟る。さっきのは、弱音なのだ。それが何かはわからないが、彼女にそういうことを吐かせる難事なのだ。スタート地点に着いた途端、ゴール地点までの道のりが見えている、多少手こずりそうな部分さえ皆無。

 ただ、時間がないだけ。

 スタートからしてゴールまでの最短距離がわかっていようと、身を焦がしてでも最高速度で走りきるだけの力があろうと、回り道ばかりをしてしまうのなら、余計に時間をロスしてしまう。ただでさえ間に合わないというのに。

 それでも、できてしまうが故、諦めることがない彼女は止まらないだろう。きっと誰かが殺してやるまでは。

 

「詩歌にとって、誰かに頼るのは最後の手段だろ? まあ……当麻さんに難しい話をされても、仕方ないんだろうけど……」

 

 いつも平気で人の地雷を踏んでいくクセにこういう時だけは慎重に、バカみたいな顔で言葉を選んだ挙句、言う。

 

「何度注意したってひとりで抱え込んじまう妹だからな―――心配になっちまうんだよ」

 

 それは兄として、普通で当たり前な――だからこそ特別な――ことを、適当に、何でもないことのように、いつでも変わることのない……

 

「本っ当に何か困ったことがあったら、言え。絶対に遠慮なんてするな。先輩後輩大人子供関係なく、俺は詩歌のお兄ちゃんなんだからな」

 

 それに、詩歌は少しだけ目を見開いてから、根負けしたようにはにかみ。

 楕円のマーク=eggを見せながら、賢妹は何てことない世間話のように言う。

 

 

「じゃあ―――その過保護に免じて、少しだけヒント。ある種の免疫を作るワクチンは、鶏鳥の卵を使って開発されるんですよ」

 

 

???

 

 

 体が、右腕が、重い。

 視界は暗く、一分の隙もない闇の中だった。

 ―――ここは、どこだ? わからない。

 平衡感覚さえ失いそうな、黒一色に塗りつぶされた世界の中で当てもなく彷徨いつづけている。どこへ向かえばいいのか、自分がどこへ向かっているのか、それすらも分からない。

 疲労と焦りが溜まって、半ばぼんやりとしかけていた目に、そのときぽつりとした光が見えた。光は人の姿をしていた。目を凝らし、

 

「―――■■!」

 

 確かに、それは彼女そのものだった。闇は、その少女の周辺にのみその支配力を失って、温かな光の存在を許している。その光を指針に駆け出した。疲れも焦りも消し飛んでいた。体が軽い。

 こちらに気付き振り向いた彼女はすぐに飛びきりの笑顔を浮かべ―――間近にまで迫ったその瞬間、その笑顔が砕け散った。あたかもガラス細工が撃ち抜かれたかのように、少女そのものがばらばらに飛び散ったのだ。

 

「■■……■■、■■!」

 

 愕然となって、その場に跪き、左片手で割れた彼女の破片を必死で拾い集めようとした。その破片で、指が切れた。反射的に引いた指から血の一滴が滴り落ちる。するとその血を弾くことなく染み込ませた破片の群れが、赤色に輝き始めて……………気付く。

 これは、何だったのだと。さっきまで自分は何と呼ぼうとしていたのだと。

 徐々に理解していく実感が、堪らなく恐ろしく、加速する鼓動を叩く心臓から送られる血液も冷えてゆく。

 

「あ……!」

 

 強い風が闇へと吹き込んできた。いや、闇そのものが風となったのだ。世界が鳴動した瞬間、ガラスの破片が、この記憶と共に急速に風化した。それらは輝く粉塵となって、光の尾を曳きながら空へと舞い上がる。飛んで行ってしまう。慌てて立ち上がって追いかけようとした。虚空へと、必死に左手を伸ばし、

 

「いくなっ……いくな、■■!」

 

 しかしあと一歩のところで指が届かない。前のめりに倒れ、闇に伏した自分を置き去りに、光を宿した風が遠ざかっていった。

 緩やかだけど逆らえない落下感に引き摺られて、堕ちていく錯覚。目覚めかけた思考はより濃い忘却の霧に沈んでいく。

 

『もうやめて』

 

 声だ。たぶん、聴き覚えがある少女の声。

 囁くように小さく、それでいて響くように大きい。

 すぐ近くから話しかけられているはずなのに、姿も気配も覚えない。まるで、幽霊に憑かれたかのよう。

 

『忘れていいんです。全部が終わるまで、ここで眠っていても、誰もあなたを笑いはしない』

 

 ……だって、参加しても、あなただけは―――

 

 ……どういうことだ?

 今確かに、守れない、と聴こえたが。

 

 もう、何のために戦おうとしたのかも思い出せない。

 

 

 

 ………………。

 

 ―――暗黒に吸い込まれるように落っこちた意識が、気付くと後頭部に溜まっていた、そして、世界が裏返るように、白く、ただまばゆく、光。

 

「―――………ん」

 

 上条当麻は、夢から醒める。

 ぼんやりとしながら天井を見つめる。

 かなり高い位置に照明がある天井。

 視界がぼやけているのは、泣いているからか。

 

「………?」

 

 目元を拭おうとして、右腕が動かないことに気付く。

 それから、すぐに、すぐそこに、

 

「当麻!」

 

 体が覚えてるほど聞き慣れた声に、覚醒したばかりの意識がゆっくりと浮上する。

 

「良かった! お前が“遭難していた”と聞いた時は……」

 

 照明の逆光で輪郭しかわからなかった正体がはっきりとしてきて、無精髭を生やしている男性が泣き晴らしたように、腫れぼったい瞼の下から充血した眼が見降ろしていた。

 何もかもが全て終わったような、ひどく穏やかな昼下がりで、そこには気持ちよい風が吹いていて、カーテンがゆっくり揺れている。

 

「ああ、右腕を動かすんじゃない。骨が折れていると先生が……」

 

 視線を横にずらすと、右腕は……石膏、で固められている。

 動かそうとすれば、ベッドの脇から席を立ち体が抑えられる。

 その必死さに、ようやくその呼び名が口先まで登ってきた。

 

「父、さん……?」

 

「ああ、当麻。父さんだ」

 

 上条当麻の父親、上条刀夜。ここが見知らぬ場所だろうと安心できる、当麻には、この上なくありがたい保護者だ。

 ただ、世界中を出張するような仕事をしていて、学園都市にはいないはず……

 いや、そうか。そう言えば、今自分は『外』に出ていて、イギリスから誰か――そう、『右方のフィアンマ』を追って……

 

「大丈夫か、当麻。あぁ、本当によかった! 心配したんだぞ。今、先生を呼んだからな。大人しく横になってなさい」

 

 状況だけを見れば、自分は雪原から救出されて、“都合よく”協力機関に属する病院に運び込まれた。

 “たまたま”、出張先で近くにいた上条刀夜に連絡が入り、駆け付けて……上条当麻と鉢合わせた。

 そして、施設が協力機関であろうと『外』に技術の漏洩の恐れがあるなら強制送還も辞さない学園都市でも、

 ほぼ無傷なため治療検査の必要性がなく、

 何より親権を握っている保護者がいる以上は無理に動かすことはしない。

 不幸体質な自分には、ありえないくらいな幸運続きだが、たまには神様も仕事をしたんだろう。

 直前の記憶はまだ思い出せないが、そう、“納得できた”。

 『右方のフィアンマ』の件も、自分ではない誰かがやってくれるだろう、と“思った”。

 親のそばで大人しく2、3日くらい療養していれば、自分はまた日常に帰れる……“それでいいんだ”。

 

「ああ、そうするよ、父さん。心配掛けてごめん」

 

「そうだ。あまり無理をするんじゃないぞ。お前は私達の大事な“ひとり息子”なんだからな」

 

 その言葉を、ひどく自然に受け入れてしまえたことが、何故か上条当麻の頭を真っ白にさせた。

 

 

???

 

 

 何度も投げ飛ばされたのは、初めてではない。

 

 たとえば、基本の受け身。

 

『こういうのは、頭で覚えさせるのではなく、体で覚えさせるのが一番です』

 

 げ、と頼んで早々に思わず引き攣る。

 達人に仕込まれより磨きのかかった彼女のスパルタ気質は、それこそ心身ともに服従させられかねないレベルだろう。

 体で覚えろっていういきすぎた根性論は、ちょっと遠慮したい。昔々のお野菜美味しいを思い出してしまいそうだし。

 そんな私を、大抵いつもあの人は口で説き伏せる。

 

『根拠のない話ではありませんよ。というか、これはスポーツ選手では共通認識でしょう。土台を作らずとも才能で成功させる優秀な人でも、やはり技術の習得には反復が必要です。

 繰り返し同じ動作(しんごう)を送ることで、筋肉を司る中枢神経と末梢神経はその電気信号(インパルス)を学習する。新しく発見した近道を、自分が通り易く舗装する感じです。反復によって神経系を調整し、伝導効率を上げ、結果、本人が考えるより早く、無意識に正しく“その動作”が行われるようになります。

 実戦で使えるようにするには、体で覚えないと話になりません。つまり、指導者は文字通り肉体に教え込むんです』

 

 愚鈍さこそ達人をつくる。

 理解はする。でも、それってスポーツ選手というより、パブロフの犬よね、と思うのは気のせいなのだろうか。

 

『ある技術だけに特化したスペシャリストは、気の遠くなるほどの反復練習から生まれるんです。ひとつ例を挙げると、何かと“異性との接触事故(ラッキースケベ)”を起こして謝罪することの多い少年Tさんは、脊髄反射レベルで土下座ができるように……』

 

 何それ、って否定したいところだけど。割と自分もやらかした際のこの人の静かな笑みの前には正座したくなることがあるのでそんな人もいるのやもしれない。

 

『別にスペシャリストになることはないでしょうが、今を逃すのはもったいない。反復は有効ですが、真に効果を発揮する期間はあまりに早いですから。大脳(神経系)の発達は十代前半が顕著ですし、この時期に基礎を固めとかないと後々に差が出るでしょう。

 この街には例外的に外部から電気信号(インパルス)を入力させる<学習装置(テスタメント)>なんて代物が……』

 

 

 

 ここはどこ? とまず最初に彼女は思う。

 窓も裸電球もない、暗い部屋の中央に置かれた椅子に身体は座らされている。白い紐に縛られたまま。前方、少し離れたところに、四角い枠から漏れ出る光から察するに、おそらくそこが扉だろう。

 それ以上は解らない。“視界だけしか”情報が得られない。動かせるのは目だけ。

 その目の前に、

 

(―――!)

 

 浮かび上がってきたのは、生気の薄い青白い肌。目の下には大きなクマ。体の線どころか骨の線まで見えてしまうくらいに痩せ過ぎな体型。うらめしや、なんて柳の下で文句を言わせたら、幽霊と見間違えても不思議ではない。

 

「無理に起こして悪かったわね」

 

 それが暗闇の部屋から現れたのだから、もう一種のホラーだろう。びくっと瞳孔が開くくらい驚いても無理はない

 その反応を勘違いしたのか、彼女はこちらに気遣う声音で、

 

「安心しなさい。この国に拷問室など存在しない。これからあなたをどうこうする気はない。“ソレ”を解いてやろうと思ってね。ただ、彼女の目を盗むにはちょうどここしかなく、私が動けるのも今しかないのよ」

 

 女性は何かを警戒するように部屋の四方に待機している部下たちに手信号で指示を出しながら、ひそめた声で、

 

「幸い、一緒に捕らえた“あなたとよく似た娘”はあなたの行動の自由を保証するのを条件に、“身代わり”となるのも協力的だったわ」

 

 すぐその心当たりが浮かび、カッと血が昇ったが、動けない。声も出せない。

 

「冷たい人間だと思ってくれてもかまわないわ。けど、国民の安全が保障されているとはいえ、1%でも不安がある以上、何もしないわけにはいかないの。立場上動けない私は、介入できるだけの影響力を持った人材が欲しい。あなたもこのまま何もしないわけにはいかないんでしょう?」

 

 歯軋りも、できない。

 しかし、利害は一致している。

 こんなところでリタイアなんてしてられない。

 

「それで一応ここまで聴こえてるんでしょうけど、確認として何か反応を返してもらえないかしら?」

 

 了承の意を込めて、ゆっくり瞬きをする。

 ここに、契約は結ばれた。

 青白い女性は、まず触れることはせず、ぐるりと自分の周囲を回る。

 

「しかし……これを解くには、時間がかかりそうね。見たところ半分は英国の魔術師のものでフォーマットは北欧式……できれば是非、イギリス清教から<禁書目録>を派遣してほしいところだけど。こんな非常時でもないと、恐ろしい猟犬(刺客)が送られそうだから余計な借りは作らない方が良いでしょう」

 

 蜘蛛の糸のように細い。縛られている様な圧迫感もなく、本当にマーカーで線を書かれたのと同じ。女性が触れようとするのだが、摘むこともできず触れられない。だが、自分の身体は動けない。

 

「掴めない知恵の輪なんて厄介なものね。術式破壊をするにもどこから手をつけていいのかしら……」

 

 ―――それは、そうでしょうね。

 

 元から存在しないものを、どうやって殺せるのか。

 力ずくで破ろうと、それは元より破れているモノ。知恵で解こうと、それは元より崩れているモノ。

 

 元より無いモノをまた無くすことができるなんて、そんな例外はひとつ。

 

 実際、自分は身体を縛られていない。カタチのないモノがカタチのあるモノを抑えることはできないからだ。

 だが、塗潰されたら話は別。“有る”部分が全て無に染められれば、それは無と同位になる。能力演算の基本原理としても教えられた、量子論の猫(シュレディンガー)。もしも全身を繭に包まれていれば、仮死と同じ状態になっていただろうが、これは要所要所の各部位だけを白く塗装されている。線引きされていない首から上の頭は働かせる。だから、今、思考はできるてる。

 この世に存在しない『魔法の紐』は縛るものではなく、白染するもの。無いものを解く必要はなく、方法もない。お手上げ。

 

 存在しない虚数は、同じ虚数でしか触れられない。

 架空の産物は、空想で存在を許容しない限り、干渉は不可能。

 

 似たような事象で検索に当たるのは、あの<大覇星祭>の二日目。

 全世界から集約された『(ウィルス)』を打たれ、『そっちの世界』に引きずり込まれて掴まれた『手』と同じ。

 第三者が何をしようと、内面をどうにかできるのは自分だけ。

 

 それに、ここで、この女性に助けられたとしても、挑めば結果は変わらない。同じではまた前に立っても止めることはできない

 最も優秀な発電能力者を撃ち抜いたあの『雷に似た現象』――正体はわからないが、けしてあれは『雷』ではない――は、元が自分と同じ能力なのに格が違うと思い知らされた。

 

 自問自答を繰り返す。

 

 父の口癖――足りないものは何?

 

 今の自分は、何もできない。一番初めにスタートしたLevel1、いいや、それ以下のLevel0。

 何もかも足りない状態だ。

 その中で、真っ先に思い浮かんだのは、勉強不足。

 

 ―――ええ、やってやろうじゃない。

 

 “偶然にも昔と同じように”、必要なパラメーターは既に揃って、この体に教えられている。

 この意識改革の過程で、元の演算式とは異なる情報入力を多数の箇所に施せば、前の能力とは変わってしまう可能性もある。

 しかし人は変わっていくもの。

 輪の中心でしかいられなかった自分が、少しずつ周りに溶け込んでいったように。

 日々、成長する。

 前は、不必要と思うものを全て残さず削ぎ落し、ひたすら自分だけの現実を追求したことで、ひとつの高み(Level5)へ到達した。

 今、それ以上の高みを目指すのならば、切り捨てるのではなく、あらゆるところから吸収しようとする貪欲さこそが不可欠だ。

 

 覚悟は、決まった。

 いいわね?

 たとえ力がなくても、戦う。

 その言葉を、嘘ではないと、ここに、証明する。

 器用な癖して、こんなときには人一倍不器用なあの人をブン殴って。

 

 

 白紙の状態からもう一度組み直せ。

 虚数も取り入れ、足りなかったものを補充しろ。

 自分を見失って暴走せず、断固たる自分の意思を以て覚醒する。

 

 

中央聖堂

 

 

 時は、流れる。

 

 あるいは早く、または遅く。

 あるいは濃く、または淡く。

 あるいは遠く、または近く。

 時間の流れはけして一定ではなく、人それぞれの主観によって伸縮してしまうものだというが、科学においては新たな発見した、魔術においても古くから親しまれた真理であった。

 主観を客観にすり替えるのは能力の神髄で、概念を実態にすり替えるのが、魔術の起源に違いない。

 今日、この国ではどうなるだろうか。

 仲介の英国仏国の息がかかった官僚や、現地の独立国付属の協力志願者が回り、隔離と準備を進めてきた。この日のため、アシスタントや偽装情報(カバーストーリー)は十分に用意されているものだ。

 そして。

 全ての避難が済んだ今はまだ眠るモノが、安置された。

 異能と関わりのないものでも、ある種の霊感が強いものであれば、視えたかも知れない。

 

 全ての準備土壌が整い、一日千秋と焦がれたように煮詰めた想いで育まれ、

 ついに、その実りの時を迎えた。

 

 

 

 第一の虚数――『無神論(バチカル)』。

 第二の虚数――『愚鈍(エーイーリー)』。

 第三の虚数――『拒絶(シュリダー)』。

 第四の虚数――『無感動(アディシェス)』。

 第五の虚数――『残酷(アクゼリュス)』。

 第六の虚数――『醜悪(カイツール)』。

 第七の虚数――『色欲(ツァーカブ)』。

 第八の虚数――『貪欲(ケムダー)』。

 第九の虚数――『不安定(アィーアツブス)』。

 第十の虚数――『物理主義(キムラヌート)』。

 

 

 最低限の要素だけを抽出し軽装化した十単の和装、

 はだけて垣間見えた、そのうっすらと赤みを帯びた胸元、

 襟元を直し、そこに刻まれた逆転した大樹を隠す、

 元々の語源は、『殻』の複数形を意味する……<生命の樹(セフィロト)>を反転した『悪』の概念、<邪悪の樹(クリフォト)>。

 近代魔術(アドバンスウィザード)の基礎を築いたアレイスター=クロウリーの晩年の秘書で、最後の弟子であったとされるイギリスの魔術師、ケネス=グラント。

 彼曰く、<邪悪の樹(クリフォト)>は『悪』ではなく、<生命の樹(セフィロト)>の鏡像であり、無意識領野の域だという。

 

「―――全て、準備は整いました」

 

 魂に。

 これらの方式を、魂魄に刻んだ。

 奇蹟治療という技術で、自分自身で直接開発(改造)した。

 今や残り四つの灯しかない『七枝燭台(メノラー)』を模した文様――<幻想片影(イマジンシャドウ)>――とは違い、描いた(掻いた)のではなく、虚数の法を、この体に刻んでいる。ある意味で、器のない今の状態だからこそ、可能なことだった。もしもまともな人間ならば、拒絶反応を起こして、たちまち存在が消滅していたことだろう。刻んだとは言っても―――その実は傷ついたの裏返しでしかないのだから。

 そう、自業自得。自縄自縛ともいえる。

 もしこうなっている現状に、運命や誰かの思惑とは異なる要素が働いていたとしたら―――それは間違いなく、これまでしてきた行いの報いだ。

 皆の期待を背負って戦っていたくせに、最後の最後で裏切って、たったひとりを優先して、失敗してしまったのだから。

 だからこそ、今、挽回する。

 

「たったひとつの例外を弾いた以上」

 

 本体のやり方はダメだった。

 この望みには、やはり敵が多過ぎる。

 だから、自分はたとえ―――になろうと、寄り道などけしてしない。ありとあらゆる干渉を断ち切り、それを貫き通す決意をここに立て、

 

「全ては想定内に進める」

 

 光に背を向け、影に隠れて、『真赤な嘘』は開始の時間通りに聖堂を出た。

 

 同時、聖堂を基点に空中に、アカい色の輝きが生まれ、この一帯に音が響く。

 鐘の音が。

 荘厳で祝福に満ちた、気高い鐘の音。

 

 <赤い卵>は、鐘楼の音とウサギ(イースター・バニー)が運ぶと伝えられている。

 この音の波が浸透していくにつれて、仕掛けは起動し、仕込んであった<赤い卵>が出現する。

 

「何が起ころうとも―――」

 

 外へ一歩踏み出し、この赤に混じる微かなざわめきを肌に覚えて上を見上げた時、空に、(かさ)が十二枚。

 

「―――誰を相手しようとしても」

 

 まだ開始の鐘の音が鳴りやまない内に、万華鏡の中心を通り―――何百何千という水晶体から拡散される光の雨が上空から爆発するように香椎へ打ち下ろされた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 何もない無人の雪原をいく二つの影。

 

 『ウル』、という北欧の神。

 主神の『オーディン』より前から信仰されていた古い神で、デンマーク語で『オッレルス』。

 一体何の役割を持つ神なのか定かでないほど文献の散逸した神であるが、一学説では、『狩りとスキーの神』と分類されているという。

 その伝承を基に編んだ移動術式は、たかが板切れなのに通常では考えられない、乗用車を軽く追い抜く速度で、他に悟られぬよう、ぐるりと大外に一周する。

 

「今の彼女は、『右方のフィアンマ』と同じ存在だ。そのままいけば、成り損ないの僕を超えて、アイツのいる領域に至るだろう」

 

「そうなる前に止めるのか?」

 

「いや、しばらくは様子見と行こう。もしかしたら、ヤツが釣れるかもしれない。きっと英国側の戦力を温存している主教も同じ狙いだろう。オシリスの時代の先にあるホルスの時代を読み取る貴重な機会を、そう簡単に潰すわけにはいかない」

 

 陽が出ているとはいえ、氷点下が常の地域をこの金髪の男性は、水色のシャツの上にベージュ系のベストを羽織っただけの格好で、同じ金髪の女性の方は深い色の実用的で分厚い生地のジャケットの上に作業用のエプロンドレスを身につけている。粗雑に見えるのだが、所作の裡から滲み出る品というものからか、英国王室御用達の侍女のような印象を与える。とはいえ、これは屋敷から裸一貫で飛びだした貴族と付き人との逃避行なんて言うものではない。

 

「さて、まず試しに一周してみたが何も見えない……ただの自然現象でないのは明らかだ」

 

 先の視界を埋めるのは雪原ではなく、乳白色の霧。

 ただの霧ではない。

 まるで線に糸を引いたように、左右果てに霧の壁がそびえているのだ。晴れ渡った空まで高々と伸び、ドーム状になって昨日までは丘の上の小屋から一望できたはずの独立国家、出張都市、複製巨城をすっぽりと覆える広さで四方を囲んでいる。

 

「内部との連絡は、取れない。電話や無線はおろか、インターネットや衛星通信に至るまで完璧にシャットアウトされてしまっている。あの『ブリテン・ハロウィン』で英国の情報網を鎖国した手腕があれば、この程度の制限はできるのだろうね」

 

「そして、出てきた人間は中の『記憶』を憶えていない」

 

 事前に知人を経て得た情報から、唯一の接点として、四隅に『門』があるのだそうだが、入るには正式な援軍として参加する学園都市かローマ正教の許可が必要であり、出るにはエリザリーナ独立国かイギリスら第三勢力からの戦線離脱の認可が必要である。

 自分らみたいな大決戦に影響を及ぼせそうな他所者、不穏分子を徹底排除させるための管理システム。

 

「どうする? 昔の伝手から、入場チケットでも頼んでみる」

 

「それは高くつきそうだから遠慮しておくよ。それにどの勢力にも肩入れをするつもりのない人間が、この『箱庭』に入る権利もない。ただまぁ、一応理由はある。壊さないようほんの少しだけ見学するための覗き穴くらいは開けさせてもらおう」

 

 また数十mの距離を滑り、乳白色の壁の前で立ち止まる。そっと指を伸ばすと、霧の表面に触れた瞬間にピリッと指先が痺れる感覚があった。

 弾くでもなく、反射する拒絶でもないが……

 

「……ああ、そういえば彼女はあの『骨董屋(キュリオディーラー)』の工房にも触れたことがあったな」

 

 

中央聖堂前 広場

 

 

 『契約の箱庭』が十の戒律のひとつ、『偶像があってはならぬ』。

 

 

『“人間ではない”審判(ウサギ)を攻撃しても、違反じゃないんだな?』

 

『判定に従ってくれれば、問題ありません』

 

偶像(ニセモノ)を壊しても、本物は傷つかないのか?」

 

『全く、<聖櫃>に守られていますので』

 

 

 

 右の瞳孔が回転する。

 

 スイッチを入れた義眼は、肉眼では遠過ぎて視認できない距離だろうと、内蔵された距離計(レンジファインダー)が正確に測定する。

 電子制御系能力に対応するように調整されたAIM拡散力場制御義体、敵の未来位置の予測演算までも行う電子制御式の光学照準器が、眼球のサイズまで小型化したのがこの義眼。

 あまりに高性能が故に長時間の使用には脳髄が沸騰するほど熱を持つが、まばたきをしなくて済むし、けして相手を見逃さない。

 

 

 閃光の餓狼。

 香椎に照準を当て、その四方を埋め尽くす怒涛の光の砲撃が放たれた。

 開幕を告げるアカく染まった空をさらに塗りつぶす、圧倒的な光。都会の夜景が星座を消してしまうのと同じよう、彼女は最先端技術から生み出された怪物として、『箱庭』を蹂躙する。

 大地から天上を結ぶ夥しい数の光線は密集した竹林のように香椎の身体を覆い隠し、さらに螺旋に捻じれてハエトリソウの如く閉じ合わさり、一斉に狙った獲物を光柱に包み込む。

 

「こっちは順番待ちなんてさせられるとイライラする性分でさ。それが面倒事ならとっとと片づけたいのよ」

 

 超能力者第四位<原子崩し(メルトダウナー)>、麦野沈利。

 この閃光は、厳密には電子。

 粒子にも波形にもならない、純粋な形のままの電子を維持し続ける力。その不可侵性を利用して対象を強引に引き裂き、焼き尽くす、粒機波形高速砲。

 喰らえば、人体など灰も残さない。

 

「だから、テメェの事情なんざどうでもいい」

 

 あの夜、プロの魔術師は分析した。

 <幻想投影>を打ち破る最も簡潔な方法は、一撃必殺。

 しかし、そんなことを思いつくのは彼女だけではない。過ごした時間は短くとも、少女と戦闘したことがあるものは、同じような方法を思いつくだろう。

 とりわけ、戦闘に―――いいや、殺し合いに慣れた怪物ならば。

 

「ここでブッコロされてろ―――!!!」

 

 徹底的に。その五体爪先まで残さない。

 遠距離に存在する目標を貫き、掻き消す。

 ひとつでも人体を殺してあまりあるそれが、周囲に展開している光球が四つだから、一呼吸につき四つほど。

 だが―――少女ごと、一帯を滅多打ちにされた一帯の建造物は、崩れていなかった。

 

 “―――なんだ、これは”

 

 襲撃現場となった広場を望む、500m離れたホテルの屋上。

 そこに陣取った超能力者は、現実を義眼で確かに見た。

 閃光を貫き、こちらに迫るアカい軌跡を。

 一条の線となって、何の遠慮もなくこちらに最短距離で迫る。

 どういうわけか。超能力者にはそれが、敵に飛び掛かるための初動にさえ見えなかった。

 

「―――っ……!」

 

 “一息でやられる”。その直感が<原子崩し>の光球を一気に倍の八つに増やす。

 

 射速度は理解している。

 到達時間も計算できる。

 位置座標も導き出せる。

 

 義眼の計測に加え、標的の速度を推量した結果、この八つの攻撃で詰める。

 どれほど速度で圧倒しようとも、その移動する先を潰していけばいい。

 これは未来予測であるがさして特別なものではなく、狩人の先を見通す徹底した計算力が成した必然の方程式。

 

 たった二秒の全弾発射の方程式を完了させる。機械の正確さで八つの光線を放つ。それは0.5秒の時間差を以て標的を撃ち抜く計算だった。

 標的の正面から見て上下左右に前後。赤い影を囲むように放たれた<原子崩し>は、1秒の後、それぞれ直角に変化してあらぬ方向から標的を破壊する。

 先ほどの奇襲が大口の狼ならば、次はまさしく毒蛇のごとき悪質さで迫る。

 

“逃げ場はねぇぞ小娘”

 

 と頂点のひとりは内心で嗤う。

 一瞬で八方を囲んだ見えざる閃光。

 

“逃げる必要性がない”

 

 とアカいウサギは口先で謳う。

 義眼が無視できずに拾ってしまった情報に麦野の焦点は赤くさせ、だが同時に、その、回避不能の間隙に置いて、いとも容易く乗り越えてくる気配を漂わせる。

 麦野沈利の連撃が女帝の威光なら、自然が起こす災害の類。

 全方位を囲まれながら、スピードを上げていく。目に留まらないほどの高速スピードではなく、回りながら踊りながら。アカい渦を巻く竜巻となって疾走し、八つの<原子崩し>をそれぞれ二回の変化を加えれば計十六撃もの乱反射を、苦も無くすり抜けながら踊り狂う。

 それは被弾を避けるために行ったランダムな回避運動などではなく。光線が屈折した瞬間に軌道を捕捉し、最適最小の動作で躱している結果。

 

「ちっ、顔だけじゃなく、戦い方もそっくりね。その目は前よりずっとムカつくけど」

 

 何一つ当たらない。己が超能力が通じない怒りを覚えながら、同時に刺すような恐れも味わっている。―――違う。前とは何か違う。前より速いとか遅いとか、前より優れているとか劣っているといるといった、数値で測れるような要素以外のイレギュラー。決定的に、質が違う気がする。数撃てば当たるものではない。

 ―――して、相手は遮蔽物のない広場から、こちらの死角にまで潜り込んだ。

 

「だが、関係ねぇ! 壁ごとテメェを」

 

 構わず、<原子崩し>が建物ごと撃ち抜く―――が、“弾かれた”。

 これは、麦野沈利の柳眉を逆立たせる。

 <原子崩し>が貫通できない? 女帝の威光が通じない?

 

 『契約の箱庭』が十戒のひとつ、『他勢力の資源を壊してはならぬ』

 

 <禁呪>にも似た制約で破ることができないせいか、『コインの裏と表』という結界と似た一切の干渉を遮断する現象などと別世界の住人は推測するだろう。

 そんなことは知らなくても、一度だけならまだしも、二度も見させられれば嫌でも法の絶対性を受け入れさせる。そのルールは事前に知ってはいたが、それでも己の能力の前には関係ないと心のどこかで思っていた。

 『第三位のような応用性は難しく、破壊力だけが取り柄』などと研究者どもから陰口を叩かれていたとはいえ、暴走のリスクを覚悟さえすればあらゆる障害をぶち抜く威力は彼女の誇りそのもの。

 それがたかが、石材の塊などに阻まれたとなれば、ヒステリカルに光線を乱舞させ、意地でも破壊したくなろう。

 しかし、前回、怒りに狂ったところを狙った相手にそんな感情は隙にしかならず、

 

『―――この娘の身体を返してほしければ………』

 

 今回は、ただで負けるわけにはいかない。

 ありえない筈の現象を、麦野沈利は受け入れた。

 遮蔽物を貫通できないとなると戦略を一から組み立て直さなければならなくなるが、切り替える。その対応の早さが、戦闘機械としても一流の証左か。

 そのとき、左耳に付けた通信機から連絡が入る。

 

『―――麦野! 北西から来る』

 

 “前回の経験”からして、今、探知するのも、補助するのも“同じ力場”なはず。

 言われずとも波長でわかる。<原子崩し(メルトダウナー)>。反射的に振り返った瞬間、麦野の横、中空で頭上を取っていた赤い指先が――忌々しいことに<原子崩し>を脚部可動型スラスターに適用させた推進力で、吹き飛ばされたかのような加速からの高速軌道で屋上目がけて一気に空中を駆け抜けた――こちらに狙いを定めている。いや、違う。もう撃った後だ!

 

「ぐっ……!?」

 

 狙われたのは顔面――より正確に言うと、義体の右眼だ。咄嗟の危機反射で躯を螺旋(ねじ)り限界まで曲げながらも、同系統の能力干渉で光線を弾き逸らした。だが、そのせいで体勢が崩れ、視界が一瞬塞がれた。その隙に―――こちらの屋上へ着地。

 視界が回復した麦野沈利はすかさず光線を放つ。

 だが、誰の目にもアカい少女の姿を捉えることができなかった。

 するり、と。

 撃ち抜いたのは、ある方向に向かって伸びた赤い残像。

 距離は迫った。その分、直撃までの余裕はなくなった。だというのに。

 

「ホントっ! コバエみたいに鬱陶しいわねっ!」

 

 むしろ自分から風を巻いて側面に赤い影は距離を詰める。ゆらりと右に傾いで、かと思えば左にしゃがみ込んで。光線を休ませる間を与えずに撃っているのに、背中に目があるかのように、こちらの思考が筒抜けであるように、右へ左へ身を泳がせながら避ける。<原子崩し(メルトダウナー)>の軌道が『視』えているかのごとく。

 最初に遭遇した戦闘が再演される。この人の心の隙を狙う“悪質”さと徹底して接近戦を挑んでくるしつこさに苛立ちと一緒に、麦野沈利に敗北のイメージを再起させる。

 

「……っ! いい加減、プチッと……!」

 

 過去を振り払って八つの光球から放つ。

 射程間距離、間合いが詰まれば詰まるほど、制御が至難とされる<原子崩し>は1秒以下では満足に能力演算ができず、自爆の危険性が高まり―――

 

「ブッツブス、ぞぉ!!!」

 

 ギロリ、と。

 周囲に固定された八つの光球の狭間から女帝の瞳が、隙を見て肉薄せんと迫る香椎を睨む。

 八発の連射後でついに至近距離に辿り着かれ、演算よりも速く拳が届く世界に突入する。

 <原子崩し>で有効打の取れない至近距離戦(インファイト)が不得意というわけではない。

 麦野の拳が左右から三発放たれる。どれも当たり所が悪ければ残らず<原子崩し>に繋げて決め技に化ける一撃である。アカい影はそれを弾きざまハイキックを繰り出し、麦野は顎を反らせて回避ざま、表情が崩れない無感動な仮面の頭を吹っ飛ばさんと光線を放ち、それは同系統の力場を展開し盾にして防がれる。

 凄まじい手数の技を繰り出し回避しながら再び繰り出す演武めいた攻防。1秒間にお互いが打ち合う手数だけが気が狂わんほどに多い。

 両者とも相手を見ているようで、その実もっと先を見据えている。それが次の攻撃を避けながら十手先を予測して戦術を組み立てている眼だと気付いた時、『手を出したらブチコロす』と言われ待機しているひとりの不良は心底ゾッとする。

 百分の一秒という驚異的な速度で観察、事象の把握、行動という思考プロセスを辿り、人間の筋反射の限界速度である0.2秒の壁すら越えて駆動し続ける。

 最早人間の繰り広げていい戦闘ではなく、裏を掻こうと熱を上げて回転数を高めていく超演算の義眼もなく相手しているのは何なんだと。

 常識外の超能力を駆使し、どれだけ複雑なステップを踏み、牽制を挟んでも、どこまでも影の『目』が正面に位置したまま離れない。地の果てまで追尾してきそうだ。敵意がなく、ただ『見』られているという感覚に、麦野沈利はおぞましいものを覚えた。

 

「見るな」 食い縛った歯の合間から息と共に声が洩れた。

 

「見透かしてんじゃねぇ!」 至近距離で<原子崩し>を放つ。それは影の額を貫いた。―――いや、残像を。

 

 影の如く離れず―――してとうとう、追い抜かれた。

 振り下ろした拳はあえなく空を切り、細い小さな掌底が、超能力者の胸を突き上げた。声を上げることもできずに地面から足を浮かせた超能力者の頭を、今度は細い脚が蹴り飛ばす。

 

「あぐっ……!」

 

 よろめきながらも倒れず、その勢いのまま距離を取って、立て続けに光線を放つ。後退しながら投げ捨てた<拡散支援半導体(シリコンバーン)>を通り、一気に拡がった散弾は面を蹂躙した時にはしかし、麦野の腕と肩に衝撃がのしかかっていた。アクロバットのような動きで光線をかわしつつ距離を縮めた香椎は、前転するや、勢いをつけた踵を麦野めがけて振り下ろしていたのだ。

 

「ぐうっ」

 

 思考がとびそうになるのを何とかこらえる。二度も同じ手で倒れるのは許さない。しかし香椎の動きは止まらない。容赦なく超能力者を仕留めにかかろうとし―――堪らず、その隙をつく。

 

 

「AIM拡散力場による『書き換え』を開始。終了まで10秒」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <能力追跡(AIMストーカー)>は、AIM拡散力場に干渉する。もしそれを極めれば、AIM拡散力場を媒介して、この現実世界にありとあらゆる能力・現象を生み出すための源たる<自分だけの現実(パーソナルリアリティ)>に自在に制御できる。

 今は『検索』までしかできなくても、『書き換え』ができるようになれば、無能力者を超能力者に、超能力者を無能力者に改造したり、能力交換も系統変更も思いのまま、<多重能力>の生産の可能性すらある。

 適性も才能も無視して、出鱈目だろうと思うがままに、結果を生み出せる。

 

 <アイテム>滝壺理后は、たった一人で学園都市の全機能を賄える人材――『学園個人』の素養があった。

 

 その『書き換え』を本気で実行しようとしたのは、対能力者兵器の怪物<失敗作り(ウィルス)>に麦野沈利が殺されそうになった、あのとき。

 

「―――」

 

 <体晶>を舐めると、スイッチが入ったように目に光が灯る。

 麦野沈利が倒されたのを見て、感情的に滝壺は動いていた。

 何の恨みはなく、それどころか薬まで開発した恩のある相手だったが、それでも何もせず仲間(アイテム)がやられているのを黙ってみているわけにはいかず、

 

『―――滝壺お願い、―――を助けて………』

 

 ここに来れなかった仲間(アイテム)のためにも、負けるわけにはいかない。

 

 1秒。

 滝壺は戸惑ったみたいに灯した眼の光が揺れた。心情的な躊躇いでも、身に起こった異変が原因ではなく、むしろ何の異変も起きなかったことから来る当惑だろう。が、

 

「うっ……!」

 

 突如、頭を押さえながら背筋を震わせた。滝壺の手がおびただしい震えを帯び、爪を立てた指が頭蓋骨に刺さらんばかりに、

 

「滝壺!?」

 

 3秒。

 この時の滝壺の視界がぐにゃりと歪んだ。耳に聞こえる音が、目に見える色が、鼻で嗅ぎ取る匂いが、舌で分析する味が、肌で感知する温度が、ありとあらゆるものが力場に転化され、

 

 5秒。

 それらが四方八方から乱れ飛んできたかと思えば、音が槍となって突き刺さり、色が手の形になって滝壺の脳味噌を鷲掴みにし、香りはその目玉をくりぬこうとし、辛酸の味が毛穴を侵食し、温度が耐えがたいまでの騒音になって鼓膜を叩きのめす。

 

「あ、ああ、あっ!? Kdエajbラーfeklx――――」

 

 7秒。

 跪いた姿勢で、滝壺理后は激しく痙攣した。天を仰いだ瞳孔が激しく、細かく揺れる。

 浜面仕上が息を呑んだ。彼女が能力を使ってここまで苦しみもがくのは初めてだ。骨が折れそうなほどに身をよじらせ、思わず目を背けたくなるがこれ以上、自傷する前に浜面は身を暴れさせる滝壺を力ずくで制した。

 

「やめろ! 能力を使うな! お願いだから、今すぐ止めてくれ滝壺!」

 

 9秒。

 だが、後1秒あっても足りない。ただ奥を検索しようとしただけで焼かれた。何もできない。眼光は、風前の灯。

 苦しみ、もう自分では止められないほど暴走は―――ふっと、消えた。

 

 バグを始めた機械を電源ごと遮断されたよう、滝壺理后は浜面仕上の腕の中で気を失っている。光の消えた瞳からつうと赤いものが流れた。

 血の涙、のようでもあった。

 

「<能力体結晶>の『ファースト=サンプル』を知っている。<乱雑解放(ポルターガイスト)>の解毒も確立済み。そして、<能力追跡>の仕組みにも触れている。暴走状態でなければ、満足に発動できないようなら、その暴走を鎮めればいい」

 

 絶対共感能力で、<能力追跡>に『干渉()』られていたことを視た。

 位置情報を見て、思考行動を観て、暴走状態を診て、拒絶症状を看て、

 より強力な干渉力で強引に止めた。

 

「学園都市は、私と接触して、新たなLevel5の『覚醒』を狙ったものでしょうが、やめておいた方が賢明です。言うまでもないですが、『崩壊』します。そのまま放置しても問題ないでしょう。このまま戦線からリタイアすることをお勧めします」

 

 飛んで火に入る蝶は、その奥まで潜り込めず翅は焼き落ちる。

 試したことはあっても、それの訓練などしていなかったのに、AIM拡散力場だけに限定せず、より強力な干渉力を持つ相手を『書き換え』ようなどとしても、無駄に過ぎる。

 とはいえ、干渉を止めるために滝壺に集中しなければならなかったのだから、無駄ではあるが無意味ではない。

 

 

「こちらにまで超気遣ってくれるなんて、超余裕ですね!」

 

 

 麦野が倒されて、飛び出してきたのは滝壺だけではなかった。

 

「超むかつきましたが」

 

 二段構えの作戦だとかそんなのは考えていない。囮になるつもりもするつもりもなかった。だが、そのおかげで接近を許した。この大決戦に参戦している<アイテム>の最後のひとり絹旗最愛。

 ただ小学生ほどの小柄な少女の特攻に見えるが、今の彼女は駆動鎧より強固で、駆動鎧をも解体できる、人間なんてぶつかっただけで弾き飛ばされる不可視の鎧――<窒素装甲(オフェンスアーマー)>を纏っている。そのはずで―――

 得意の接近戦で踊りかかった絹旗は、“リーチの差であっさりと捕まった”。

 

「―――」

 

 『一方通行(アクセラレーター)』の思考パターンを参考に、各能力者の<自分だけの現実>を最適化を企てた<暗闇の五月計画>。

 結果、絹旗最愛が会得したのは、『反射』から学習した自動防御能力。自分の周囲に大気制御系能力で作った防御フィールドを自動展開させるというものだ。

 だから、不意を打とうが絹旗に許可なく触れようとすれば必ず窒素の防壁に阻まれることになっている。

 『AIM拡散力場を掴んで引っ張ることができる』木原一族の異分子さえ、直接この身体に掴むことはできない。

 

「え―――」

 

 掴みかかろうとした両腕が、カクン、と下に落ちた。

 標的の少女が流れるような動きで、“直接掴んで”受け流された。

 

 その現象を変化させず、あらゆる干渉を浸透してすり抜ける――『奇蹟治療』の技術を貫手に応用か。

 

 そのまま理解させる時間も与えず、軸足だけで体を横に旋回させる。上から見ればコンパスで描くような美しい真円を描くサイドスロー。独楽(スピナー)はそのまま、投石を撃ち出す回転機械。

 相手の突撃の勢いを殺すことなく巧みに体重を移動させ―――

 

(超投げた……!?)

 

 それが何なのか絹旗最愛が気付いた瞬間、彼女を逆しまの体勢にぶん回され、飛び出してきた方向――仲間たちが控えていた場所に向けて投げ飛ばす。

 

(このコース!? 滝壺さんに超ぶつかる―――!?!?)

 

 人体を武器にする、凶悪な攻撃。

 大気制御系ではあるが、固定化にだけ特化した<窒素装甲>に空を飛ぶ制御はできない。

 そして、接触した瞬間に、衝撃から反射的に身を守る自動防御。

 “人間なんてぶつかっただけで弾き飛ばされる”

 

「浜面! 超クッション!」

 

「んなっ!?」

 

 滝壺理后を守ろうとした浜面仕上は、鎧を解除した人体手裏剣をもろに食らった。

 

「生憎と、余裕なんてものは一切ありません」

 

「―――だったら、こっちを無視してんじゃないわよッ!」

 

 麦野沈利に調整されたAIM拡散力場制御義体は、右の義眼と、左の義手。

 この間合いから、<原子崩し>の演算処理を『干渉』されるのならばこちらの方が早い。

 パイルバンカーに匹敵する義手から―――が激突し、インパクト面が爆発。瞬間的に音速を超えて生じた衝撃(ソニックブーム)は大気を揺らす。

 しかし、その奥の手の結果は、香椎を数歩分後ずらせただけ。

 

「今度は絹旗のをパクッた、って、わけ、ね……」

 

 <窒素装甲>の自動防御は、駆動鎧以上。

 掴んで投げた際だろう。

 そして、激突の際、麦野の顎に固定化され大気――義眼では探れない不可視――の一発を入れられた。鋭い打撃(カウンター)に脳を揺さぶられ、“かくん”とその場に麦野の両膝が落ちた。

 

「―――」

 

 ようやく動きを止めたそのアカい影を見る。睨む。

 形式化した和装で、その袖がボロボロとなっているのが、翼が毟られたようだと。その赤さも血塗れのようだと不思議と受け入れた。

 そんな状態で、自分の前で背中を晒すという偽者に―――非常に腹が立った。

 心の底から煮え立つような―――心を見透かし、その上であっさりと暴走を止め、とどめを刺さずに見逃されるのが、敵とすら思われていないと不快感がこみ上げる

 

「こ、の……私を……低く見てんじゃ……ねぇ――――」

 

 背中から、仰向けに倒れた視界―――

 

 

 いつのまにか、空が、黒く染まっていた。

 

 

 天候が崩れ、黒色の雨雲が突如として発生した、わけではない。

 それは、空を埋め尽くすほどの―――

 鴉の大群だ。

 死の怒涛だ。

 魔の殲滅だ。

 

 突出して最初のチャンスを与えられた先兵(アイテム)の役割は“生贄”。

 標的の戦力を確認し、盤上の法則を試験し、相手の一手を最前線でその身を以て受けさせる壁役。

 

 この大決戦は、宝探しでも、兎狩りでも、やはり狩人(参加者)の数は減らしておいた方が良い。

 

 それが怪物ならばなおさら。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「麦野っ!」

 

 崩れ落ちる超能力者、女帝、そして仲間(アイテム)

 滝壺理后は気を失い、絹旗最愛も本来身を守る術を放棄したせいでまだ動けない。生身の体躯のいい男性と、小学生ほどの少女が衝突すれば、どちらがダメージが大きいかなんて考えるまでもないだろう。

 そんな自分だけ動けるような状態で、駆け出そうと飛び出した。

 決着がつき、アカい少女は興味を失ったように、こちらから背を向けた。

 それを救助する好機と見て、浜面仕上は駆け出して、

 こちらに伸ばされた彼女の左手を握ろうとして、

 

 見えない手に突き飛ばされたのは、そのときだった。

 

「え―――」

 

 ゴッ!! と、何かが爆発的に噴き出す音が炸裂した。

 

 たまらず尻餅をついてから、驚いて周囲を見渡す。浜面に触れるほど、間近にいた人間は仲間以外ひとりもいないし、仲間は誰も動けない筈だ。

 

「な、ん……? だ、……」

 

 一体何が起きたんだと考えながら、ふと腹に触れた掌に熱い滑り気を感じ……それから、彼はしげしげと、真っ赤に染まった我が手を凝視した。

 

「あぁ……ぁ」

 

 自覚した途端に、世界が歪む。

 体が冷めていく。

 指先、末端から感覚が消えていく。

 

「こ、………ふ」

 

 せり上ってきたものが口から吐き出される。

 赤。混じりけのない鮮やかな赤。

 流れ弾が当たったのか。―――そう忽ち理解して、こちらを見ている彼女を見て、浜面は蒼褪めた唇で、すまん、と呟いた。

 

 

 そして、黒は白に塗りつぶされた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 がつーん、という音。

 本当に、後頭部をハンマーで叩かれた気が、した。

 ああ、ホント。

 よりにもよって。

 何の力もないくせに、こんなところまで来るから。

 ぎり、と歯を噛む。唇が切れる。理性を繋ぐ脳神経が、断裂する。

 

『―――第四位、<原子崩し>に暴走の兆候を確認。―――から、対象に――パターンを入力』

 

 そして、別の回路に接続される。

 これは人知の外にある情報であり、人知の内にあってはならない現実。―――とても、正気で飲み下せるものではない。獣の(こえ)と、脳髄が破裂する痛みで覚醒する。無論比喩だ。脳に痛覚は無い。新たに入力される情報を、脳が数値として変換した。

 痛みの大部分は、左半身から生じた。

          左半身を司る右脳が軋む。

 <自分だけの現実>に異物が埋め込まれてこの認識が悲鳴を上げる。

          右眼で視ている現実が塗り替えられる。

 

 

「―――ッッハァァァアアァァアアッッ!」

 

 

 一切を放棄した。体が満足に動けないのなら、敵を殲滅することだけを考える。

 人の声とは異なる咆哮を発し、背中に<原子崩し>の球体が変形し、接続された『(リング)』が生まれた。

 輪転するそれを中心にして、何千何万もの後光が一斉にあらゆる方向へ炸裂する。圧倒的なエネルギーからの力技で、別の法則で守られているはずの石壁が解かし、広場や周囲の建物が蒸発した。

 普通の人間ならば、逃げることを放棄したくなるような衝撃だ。

 だが、麦野沈利は攻撃を止めない。

 

「ハァアアッッ!」

 

 余計な横槍などどうでもいいが、目障りなあの偽者は、この程度では“生温い”―――。

 心の奥で響く警鐘を無視して、<原子崩し>のリングから複数の光線を放つ。

 中途で分散分散を繰り返す光線が、次々と豪雨となって着弾し、地獄を演出する。濁ったように白い後光が天と地上を繋ぎ、周囲を壊滅させていく。

 

「―――どうして浜面を守らねェンだ、よォおおおッッ!」

 

 近づけない。

 接近は間違いなく死を意味している。

 あれはもう溶鉱炉と太陽と同じだ。隙をついて死角から近づくとか、そんな小技は通用しない。あまりにも莫大な光。下手に近づいただけで、人体は融解するだろう。

 その万雷の中心で、女帝は責め立てる。

 

 地上へ降り落ちる粒機波形高速砲が、赤を白く塗り潰す―――ことはできなかった。

 同じ<原子崩し>の能力が干渉し、大瀑布のごとき閃光が触れる直前で攻撃を防いでいた。

 

「学園都市を裏切って、勝手をしやがってよォ―――」

 

 眦が吊りあがり、さらに苛烈に光線は勢いを増す。

 アカく発光する影の足が、ついに膝をついた。

 

「『上条詩歌』っっ!」

 

 偽者は逃れようとするも、女帝はそれを許さない。

 香椎の躰がアスファルトに沈み込む。地面を揺らし、頭上から押さえつけられている影の足元が大きく陥没する。

 

「誰よりも多くの力のないヤツらに夢を見させた、『上条詩歌』が! 超能力者どもをブッ倒して、テメェの偽善を押しつけた、『上条詩歌』が! そのくせ大人しくしてりゃあ良かったのに『外』にでやがって、世界大戦を止めようと欲張った、『上条詩歌』が! つまンねェミスして、死ぬこともできなかった死に損の、『上条詩歌』が!」

 

 麦野沈利が<原子崩し>のリングから光線を放つたびに、衝撃で彼女と偽者の身体が震動に揺れる。

 アカい躰が。

 眼が。

 薄らと白く―――

 

「そのどれにもケリをつけずに皆を敵に回しやがった、『上条詩歌』が! もっと守るべきモンがあったのに無視してンじゃねェェえッッ!」

 

 <原子崩し>のリングの回転数は徐々に勢いが弱まっていた。

 対し偽者は、躰が少しずつ持ち上がっていく。

 しかし、まだ一歩目は踏み出せない。

 

「私は、テメェをブチ殺す」

 

 麦野は女帝だ。

 己の人生の一切の非を許せず、自らの望みのままに自分の力を振るう超能力者である。

 だから、全部コイツのせいだ。

 彼女の中で今、最も苛立ちを覚える相手は―――眼前にいる少女の面影だった。

 

「テメェは失敗したし、マスコットにしかなれなかった! そのくせしやがって、今更、私をこんなところまで来させやがって! 大言吐いてできずに終わったんじゃ、さすがの私も萎えるンだよ! 結局、人間捨てたって、世界は変えられねェじゃねェかァ!」

 

 自分の生き様に、汚点などない。

 ゲームで言えばノーミスクリアで、常に勝ち続け、完全な頂点として君臨し続ける。

 ただひとつの、失敗もなく―――

 なんてことができず、その自分に勝ったはずの人間でさえ、失敗して堕ちた。

 それを裏切られたと思う自分の思考に―――些細な揺らぎが生じるのだ。

 

 ビキリ、と全身に“罅”が入る、そこから光が漏れ出てさらに広がる。

 瓶の中で炸裂させた火薬に内側から崩壊していくように。

 半身は光と化し、周囲も後光で埋め尽くされている。

 もう、暴走は止まらない。自分では止まらないところまで、何の刺激も感じなくなった時―――

 

 

「―――本体は、随分と高く買っていたようですね」

 

 

 一瞬、暗転。

 麦野沈利の世界は闇に閉ざす。

 気付くのに遅れたが、光と化した自分の半身を、何かが掴んでいる。

 五本の指がある、右手だ。

 ただし―――人間のものではない。血の赤が黒ずんだような暗闇、その表面は光を吸収する。

 

 藍より出でて、藍より青し。青も過ぎれば黒ずんでしまう。

 黒鏡は、光を反射せずに余さず呑み込んでしまう。

 <原子崩し>以上に、<原子崩し>の化身となる。

 <幻想擬体(AIMクローン)>――過負荷同調(オーバーロード)

 

「“どこのどなたか”は存じませんが、あまり“その名”を喚かないでくれませんか? “せっかくの眠りから覚めてしまうでしょう”?」

 

 幻想を呑み込むその右手が、光と化している頭蓋の左半面を締め上げてくる。

 

「―――」

 

 ボッ、と。

 小さく、白い煙を立ち昇り、超能力者の左顔面が人のそれに変わった。

 触られている感触はない。

 だからこそ、女帝の攻勢は続き、光のアームと化した左腕を振るい袈裟がけに叩きつける。

 その首筋に渾身の一撃をめり込ませる。同時に光のリングから差し込んだ後光が、影を全身、余すところなく塗潰そうとする。

 しかし、影は依然として存在する。

 その双眸は限界近くまで見開かれており、身体ごと瞳孔が震えている。

 極限に圧縮した濃度が黒い情報は、その身を刃となって切り刻むだろうが、凄まじい集中力で一体化している。

 

 ある精神状態において、肉体が死をも凌駕するケースが稀に存在する。

 

 戦争時、致命傷を負いながらも仲間を助けたい一心で戦い抜いた兵士。

 やはり事故で致命傷を負ったのに、娘に会いたいと強く望んで生還した父親。

 恋人の声を聴き、脳死の状態から生き返った男。

 本能とは異なる強い思いが、肉体的な死を乗り越えたのだ。

 

 欲望、欲求、希望……願望、とどれがこの強い思いを呼ぶに正しいのかは誰も知らない。

 

 だが、その強い思いを常時維持し続ければ、如何なる“不幸”にも対応ができるのではないか。

 自ら覚悟して踏み込む死地も、偶発的に起こる、日常の視覚から舞い降りてくる理不尽な窮地も同じことだと。

 あまりに単純。常に最悪の一歩手前を想定する。

 一度陥った地獄から、元の日常に帰ろうなどと思わない。

 行動における準備運動。弛緩した精神を引き締める心の初動。そんなのは、あのとき置いてきた。

 これがまともな人間では叶えられない願いというのならば、せめて速度は落とさない。一度あげた高揚(テンション)は徹底して緩めない。果てるまで滾った命の炎を燃やし続け、許された最高速を果たすまで維持し続ける。

 

 正気を失っていることに他ならない。

 思考は極限の過程で渦巻いている。狂気に浸ることでトップスピードを維持している。

 

 手加減などと相手に合わせたスロースターターを忘れ、限界寸前と燃え滾る赤熱の肉体、崩壊寸前の精神を以て、戦う前から闘っている。

 

 故に、想定を超えようが、想像を超えることはない。肉体の機能ではない、破綻した精神が築き上げた在り方。

 

「―――」

 

 ボッ。

 攻撃した腕が光から人のそれに戻る。

 少しずつ、現実に戻され、意識は鮮明さを増していた。

 

「勝手に諦めているのは心外ですが、まだ終わってない、終わらせるつもりもない」

 

 それともこう言えばいいんですか? と人に戻った耳元で、心ない言葉を棒読みでささやく。

 

「ここまで全部予想通り。代役は私一人で事足りる」

 

 暴走ごと取り込む。漆黒となった影へと向かって、後光のリングがしゅるしゅるとか細い線になり、吸収されていく。

 

 

「簡単に乗っ取られて周りを巻き込んで自滅するくらいなら、黙って現実を見てろ『麦野沈利』」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『契約の箱庭』が十戒のひとつ、『他勢力の資源を壊してはならぬ』

 

 暴走した<原子崩し>が破壊した『壊れることを禁じられた』建造物が、巻き戻し再生でも見ている様に復元する。

 

 『契約の箱庭』が十戒のひとつ、『人を殺してはならぬ』

 

 ひとりの『精神崩壊を禁じ』、

 ひとりの『暴走自滅を禁じ』、

 そして、ひとりの『死亡を禁じ』、

 この『箱庭』に入ってきたときと変わらぬ姿形のまま。

 

 『魔術側も科学側も平等に“守らされます”』―――その宣告通りに。

 

 

 

 何が―――起きた?

 頭痛が激しくて思い出せない。

 気を失う直前の記憶が抜けているが、こんな寒国の外で眠っていたせいか、震えがくるほど体は冷え切っている。

 

「っ、そうだ。麦野がひとりで……」

 

 朦朧とする頭を抱えて立ち上がって―――その光景を見た浜面仕上は、現実を疑う。

 自分の良識の限り、受け入れ難いことが起こっている。

 

「む―――」

 

 第四位の<原子崩し>、麦野沈利。

 同じ暗部に所属する<一方通行(アクセラレーター)>、<未元物質(ダークマター)>らと並び、最高位の実力者だろう。

 まだ短いが彼女の圧倒的な戦いに付き合ってきたという自負が、浜面にはあった。

 対し、話には聞いたことがあるが、実際に見たことがない少女――の影。自分が、勝った相手。

 どこまで強いのかはわからなかったが、それでも第三位をも瞬殺できるという自爆を覚悟した麦野沈利には敵わないだろう。

 そんな超能力者(Level5)が―――。

 

「ウソだろ……」

 

 呼びかけにピクリとも動かず、少女によって吊るされている。

 赤色に輝く細い手で頭を掴まれ、片手で宙に持ち上げられているのだ。

 手足をだらりと下げ、呼吸をしているかもわからない。

 やられた演技(フリ)などではないことは、付き合いが短くともわかる。どこまでもプライドの高い彼女の性格で、そんな真似は自死よりも屈辱な行為だ。

 何より、左眼が抜かれ、右腕がぐしゃりと潰されている。

 

 そんな残酷な真似ができる彼女じゃなかったはずなのに……!

 

「……先に手を出したのは、俺らだ」

 

 思わず、低い声が出た。

 それでもこちらを振り向きもせず、吊るし上げている麦野を観察している。

 もう一度。

 浜面仕上は、睨む目に再度力を入れて、絞り出すような声で言う。

 

「だけど、敵に回したのはアンタのせいだろ」

 

 浜面一人じゃ、100回やったって、敵わない。

 命を賭けるなんて二度も通じるような相手ではないのはわかっている。

 最初にあんな人を殺し切るにもほどがある攻撃をした麦野を止めなかった時点で同罪。恩人を犠牲にすれば絶対に後悔しただろうし、地獄の底まで落とされても文句は言わないが、それでも、自分たちは大切なものを救うために参加した。それが間違っていたなんて思えない。

 

「俺は、アンタと戦いたくなかった。滝壺だって、絹旗だって、ああ信じちゃもらえねぇけど、麦野だって――<アイテム>はアンタと殺し合いなんてしたくなかった!! 味方にだってなれたはずなんだ!! なのに、何でだ!! 何でこうなってんだよ!? 学園都市の大人達が、アンタの力を手に入れるために、こんなことを設計したとしてもよぉ!! 世界だとか戦争だとかそんなの無視して、アンタが大人しくしてれば何も起きなかったはずじゃねぇのかよ!!」

 

 『本当の敵』が何なのかとわかっていながら、それでも胸の奥から本音が吐き出される。怪物にならない選択肢もありながら、それを選んでくれなかった結果だから。

 吼えたて、責めたて、そして、浜面は頭を下げて、

 

「お願いだから、何でもするから、これ以上俺たちに何もしないでくれ……っ」

 

 そこで初めて、香椎が浜面を見た。けして、何かしら心が動かされた様子はない。

 観察の終わった麦野沈利を地面に下ろす。すぐさま駆けつけたいところだが、歯を噛んで自制し、そこへ、ボトッと地面についた浜面の手元の雪に埋まる。抜き取られた左の義眼と右の義手。そのぞんざいな扱いに、沸点が越えかけた浜面は唇を噛んで自制する。

 

「そうですか。では、そちらの二人に伝言を」

 

 膝をついたまま、それでも香椎を睨む。

 勝手に降参したが、それでも仕返しなどとまるで考えていないように受け入れているその様を、ありがたくと、もうしわけなくと、そして、悔しい。

 

絹旗最愛と滝壺理后(あなたたち)は、麦野沈利(彼女)を“ちゃんと”見ていないのか?」

 

「、この……っ」

 

 俺達が、仲間のことをよく見ていないだと……っ、ふざけんじゃねぇ!! ―――胃液が逆流したと勘違いするほど焼けつく言葉(もの)を呑み込む。

 強く握る手から血が出る。ここで我慢しきれずに特攻を仕掛けても、無駄に終わる手順がひとつ増えるだけなのだ。

 それから、と堪える浜面へ気にした様子もなく淡々と、

 

「この『契約の箱庭』はシステム上『誰も死なない』とはいえ、暴力が渦巻く戦場そのものとなるでしょう。いえ、どこまでも死人が出ないのだから、だからこそ、攻撃は過熱する。容赦がなくなり、“やり過ぎる”ことがなくなります。こんな酷い戦場に運びたくなかったら、境界付近まで送ります。

 “あとは私がなんとかする”ので『外』へ出て、学園都市へ帰ってもかまいません」

 

 それが伝言です、とその発言に浜面は瞠目する。

 あんまりにもあんまりな言葉だ。

 

「……ああ」

 

 と、浜面は首を縦に振った。

 起きてもきっと頷けない彼女らに代わって、頭を下げた。

 

「なんとかするっていうなら、そうかもしれないな。実際、戦争だって止めたんだからな。本当に……ドン底で会ったのが、アンタじゃなくて良かった」

 

 頭を下げたまま口走る。

 その無表情は、とてもじゃないが見られないからだ。

 いつものそれは微笑んでいたからこそ人間味に親しみを覚えられたが、完璧すぎる偶像とはこれほどに畏ろしいものだったのかと知る。

 

「もしあのときに拾われたのが滝壺や麦野じゃなくてアンタだったら、あのときにブン殴られたのがアンタの兄じゃなくてアンタだったら、色々と凄過ぎて完全に惚れちまったってたな。

 そんでもって俺みたいな人間はアンタに頼りきって―――きっとダメなままだった」

 

 助けてくれ、などと最低な言葉を吐かずに済んだ。

 聴いてないのかと思われるほど無反応の中で、浜面は最後まで言い切った。

 

「それくらい今のアンタは強過ぎる。一体何があったかはしらねーけど、前のアンタはまだ手の届くところにいたはずだった。いまは違う。だから、こんな時にも誰も助けちゃくれない。

 言いたくなかったけど―――今のアンタは、『魔王』だよ」

 

 

 

 『聖櫃(ark)』と『方舟(arc)』。

 しかし、アークは元々、『方舟』や『聖櫃』をさす固有名詞ではなく、ただ『箱』という意味。

 そもそも『方舟』というのは日本で考えられた概念であり、旧約聖書に出てくる『ノアの方舟』とは、船ではなく、動力も何もないただ水に浮くだけの『箱』として描かれているものだ。

 世界を起こす最低限のものを全て収容された『箱』が、『ノアの方舟』。

 

 世界を敵に回すのなら、ひとりで全てを成せるだけの存在にならなければならない。

 すなわち、彼の言うとおり、『魔王』。

 そして、この大決戦を機に、全てを集めてそれになろう。

 

「三次元の物体を切断すれば、その断面は二次元になる。二次元の物体、平面を切断すると、その断面は一次元の線になる。そして、一次元を切断すれば

 ―――零次元となるとされる。

 零次元は科学では解明されていない理論。だが、零次元は存在する。英国王室のひとつの技術がそれを証明している。

 引きずり出す方法もわかっている。

 それは、一次元を切断する」

 

 浜面仕上の言葉を聴いていなかったわけではない。

 ただ、新たに刻まれた“古傷”の確認と、この作業に没頭していた。

 

「零次元はひとつの世界。

 零次元と三次元は対応していたとしても、零次元はすべて合わせても『点』に過ぎない。

 その『点』さえ掌握すれば、三次元の全ての座標とリンクできる。―――転移に利用する中継ポイントともみれる。

 十一次元の空間移動系能力とは真逆に進んだ方程式だけど、その到達点はめぐりめぐって同じようなもの。

 ただ、こちらには距離や重量の制限はない。世界の方を動かす。

 <原子崩し>はミクロのレベルであらゆる物体を繋ぎとめる電子を、量子論を無視して強引に操る能力。

 零次元(世界)はその手の中にある」

 

 その足元を、そこに沈む女性を見ながら語る。唯一の聴衆が『何を言ってんだ?』と問うが、無視される。

 その手元に、ひとつの光球()が浮かぶ。点は穴となり、穴は空洞となる。

 その異常現象――彼女が攻撃されることを危惧し――ついに、少年は飛び出して、

 

 

「―――<原子崩し《メルトダウナー》>方式<零次元の極点>」

 

 

 ぐるり、と。

 周囲の景色がまるごと歪んだ。

 

 

???

 

 

 ―――義眼からの通信。標的の情報入手。

 ―――義手の遠隔における『噴出点』設置、成功。

 ―――Level6へ覚醒する可能性、Level5へ<暗黒の五月計画>の演算入力、失敗。

 

 

 暴走したLevel5の出力に耐えきれなかったのか、最後の方は義体が機能停止。

 けど最後のは、別にどうでもいい。自分達は、この大決戦の勝敗ではなく、その先を見据えて動く。

 これはあわよくばの同士打ちを狙い、今後の学園都市における危険性の高い反乱分子(裏の先輩方)を消去することを目的としているのだから。

 『怒り』――それも大切な人物が害された時という条件下で発現した第一位の覚醒に誘導するために少し演出してみたが、義手の試験運用も含めて、良い感じに作用した。

 失敗はしたけど、<暗黒の五月計画>から先のステップを試せたので収穫としておこう。

 もうひとつの<グループ>――第一位の担当は、『スペード』のお仕事。

 この宝探しだか、兎狩りなんだかの大決戦と第二位の担当は、『クローバー』、本陣の守りとお守は『ハート』……それぞれ勝手にやっているだろうし。

 <アイテム>も第四位の暴走に巻き込まれておしまい、っと『ダイヤ』の仕事分は終わり。

 『上』がお望みの『素体』を取りに行きましょう。

 『クローバー』が集めたのでもう情報(データ)は十分だったし、今回の第四位との戦闘を義体から電気信号を受信し、手の内を最低限に隠したうえで“体で覚えた”。

 というか、さっさとやらないと面倒なことになるかもしれない。

 『クローバー』と同じかそれ以上に、相手の攻撃に対して学習耐性を付ける類だとすれば、もたもたしてたらこの戦闘で殺す手段がなくなってしまう。

 いまは“まだ殺せる”が、その仮定がなくなってしまえば、それはつまり、定番にして最難度の空想――“本当の不死身”の怪物が生まれたということになる。そうなる前に確保して自爆装置でも何でも首輪をつけて閉じ込めておかないと安心できない。

 もうひとつのターゲット――『右方のフィアンマ』とやらは“何でも破壊する”という『別の法則』からくる力があるというが………

 

 

「ま、どっちにしろ、もう一人いたような気がしたけどォ、<アイテム>の掃除は最優先事項じゃないし、『魔王』を倒す『勇者』となりにいこォか」

 

 

 

つづく


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