とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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常盤台今昔物語Q&A 自己蟻(犠)牲

常盤台今昔物語Q&A 自己蟻(犠)牲

 

 

 

病院

 

 

 ―――私は、アナタを助けたいだけ。

 

 心から、嘘偽りなく、そのつもりで笑ってみせる。

 運命という言葉は、あまり信じていない。

 でもそれに近いものがあるのかもしれない。

 街を歩くだけで、救いを求める人が、わかってしまう。そういう人々と出会ってしまう。

 わかってしまう以上、見過ごすことなどできるはずがなかった。そういう背中を見て育まれた性格で、それができるだけの生まれもった才能もあったのだろう。

 これまで、自分にできることをしてきた。

 きっと―――死ぬまで、そうするだろう。

 そう思っていたから、迷わなかった。

 

 でも。

 通り魔に襲われた事件から数年の時間が過ぎ去ったけど、変わったという自覚は、実のところ、微妙だ。

 今、あの時と、同じ状況になったら、自分は、少しは違った動きができるんだろうか? と自問自答するけど、結局のところ。

 

 人を巧く倒せることなんて、自慢にはならない。

 

 人より成績が良くても、あまり価値はない。

 

 人より器用に生まれても、現実は変えられない。

 

 人より他人に優しくできても、意味はない。

 

 人より傷つきやすくても、そんなに賢くはなれない。

 

 人より相手の心に敏感になっても、それだけで誰も救えない。

 

 ―――私はアナタに救われたくなかった! 私は彼に……

 

 そんなもの。

 そんなものだと、思い知らされるから。

 こう、失敗するたびに。

 

 人間は、赤の他人の為に泣いたり笑ったりはできない。

 だから自分には泣く権利なんてどこにもない。

 赤の他人のために心から喜び悲しみ涙を流せる……それは異常であると上条詩歌は思い知らされる。

 

 

 

 自殺は、自己顕示の欲求から起る行動。

 

 精神にストレスを抱えている人は自らの体を傷つけ、時に命さえも壊すことで、不安定な自我の存在を確かめる行動に出る場合がある。

 

 上条詩歌はこれまで後悔や失望したりしたことは数多くあったが、死にたい、と思ったことがない。それゆえに、自暴自棄から命を自ら断つことを選択する思考を理解したいと、カエル顔の医者に質問したことがあった。

 そこで教えられたのが、自我を保つ思考と自らを傷つける行為――一見矛盾すると思われるこの二つは、実は一つの観念から発したものである場合が多いということだった。

 

「対人関係や仕事、勉強に試験などでうまくいかない理由を自らのせいと思う気持ち―――所謂劣等感などから生じた、内罰感情。……それが、自身への視覚的な懲戒へと駆り立てるんだね?

 そして……その精神状態が深刻な場合は、そこから思考がさらに進むこともあるね? 所謂、『自己の他者化』とでも言えば良いのかね?」

 

「自分を他人とみなす、ですか?」

 

「言い換えれば、変身願望かな? 自分の劣っているところ――嫌いなところを他人のものとして自分自身から切り離し、存在を否定してしまうものさ。そして、本人は自分が理想に描く人物像を脳内に作り上げる、概してそれは責任感が強い真面目な子ほど陥りやすい」

 

 他者を貶め、傷つけることを嫌うあまりに、今の不遇の原因が自分以外にあるということを本能的に認めない。

 確かにそれは美徳と呼べるかもしれないが、そういう性格の子は他者に対しての憎悪を突発的に抱いた時、今まで絶対と思っていた価値観や信念に混乱をきたし、自己矛盾に陥るのだ。

 故に他者に対して攻める気持ち、批判する気持ちを打ち消すように無理やり『いい子』を保とうと努め、抱いた黒い感情は自分のものではない、と拒絶するようになる。

 その結果、禍々しい心を抱く自分に対して激しい憎悪を抱くようになり、やがてその感情は『殺意』へと変わり、自己の存在否定へと発展する。

 

「それが一般的な、自殺に陥る心理メカニズムと言われてるけどね?

 ……まあとにかく、“今回の件”、君がそこまで責任を感じることではない。背負う必要も義務もない。手段には文句をつけたいところだけどね、むしろ、命を救ったことを誇るべきだ。お兄さんも知れば、きっとそういうだろう。

 それに余計な御世話かもしれないが、君は僕が知る限り一番の『いい子』なのだから、今の条件にかなり当て嵌まっているんじゃないのかな?」

 

「……先生も、お身体にはお気を付けください。余計なお世話だと思いますけど。看護師さんがここのところ高血圧だと言っておりましたので」

 

「医者の不養生かい? 安心したまえ、幾度の戦場を経験しなお不敗であるなら、心身ともに頑健でなくては務まらないからね」

 

「敵を知り己を知れば百戦危うからず、ですか。望みは、戦わずに済ませるのが最善……それで、あと一つ、質問があるのですが―――」

 

 

第二一学区 人造湖

 

 

 東京西部を切り開いた学園都市は全体的にはやや平坦な土地柄であるが、街の水源の確保として複数のダムを抱える第二一学区だけは例外的に山岳地帯となっている。

 その、この街で科学と離れた鬱蒼とした森林にある、この人造湖の淵に、立つ。

 

 

 全てを終わりにしよう。

 

 

 服の中にたくさん、たくさん、大きな石を詰め込んだ。

 この身体が、浮かび上がって来ないように。足のつくプールでさえ満足に泳げない私が、浮き輪ではなく重石を付けて飛び込むなどすれば、きっと自力では助かるまい。

 だから。

 だから。

 だから。

 きっと私だけのヒーローが来てくれる、って―――

 

 

「馬鹿なことはやめろぉぉぉおおおおおおお!」

 

 

 対岸からの、怒号。

 私が飛びこむと同時にその声は聞こえ、その気配が私を追うように飛び込んだ。

 けれど、それは私が望んだ“彼”じゃなかった。

 どう、して……?

 “彼”ではなく、駆け付けたのは“彼女”。

 おかしい。だって、この場所は、“彼”にしか報せてない。“彼女”に知る由なんて―――ない。

 “彼女”はお呼びでない。むしろ、邪魔だ。

 だって、ここは“彼”がヒーローで私を救いに来てくれるターン。

 彼ではなく彼女が彼でなく彼女彼ない彼女彼な彼女彼彼女彼彼女彼彼女彼彼女彼彼女彼彼女彼彼女彼彼女彼彼女彼彼女彼彼女彼彼女彼彼女彼彼女彼彼女……………

 

 ああ、なるほどね。

 

 今回も、そう。

 そうやって……私と“彼”との仲を、引き裂くつもりなのね。

 

 あはははははは―――わかってたわぁ。

 

 ……………。

 

 だったら、決まり。

 

 私の敵。

 

 テキテキテキテキテキテキテキテキテキテキテキテキテキテキテキテキッッッ!!!

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 どうにか引き上げることができた上条詩歌は人造湖の淵に身を預ける。

 

(石まで詰め込んでるなんて……水の中で取りだすのは本当に……)

 

 着衣水泳は余程の熟達者でなければできることではないが、かといって一度水中に落ちてから服を脱がす選択はできることなら避けた方が良い。

 もし途中で服が絡まって脱げなくなった場合、手足が動かせなくなり、泳げなくなる。

 それに身体に張り付いた服を脱がすのには大変な労力がいり、疲れる。それが他人のならなおさら。

 ならば、服を着せていた方が体温を保つことができるし、服を着たままでも空気を入れれば浮き輪代わりにもなる。

 『赤ずきん』に出てくるオオカミのように詰め込んだ石を取りだすのには苦労させられたが、不幸中の幸いだったのは、その体液成分調整による精神干渉系の能力。血液内の成分を調整することで、脳内の酸素不足だけは免れた。

 

(かといって、自分も服を脱がずに飛び込んで、彼女のに集中を割り振って自分の酸素調整を怠ったのは落ち度ですが……いや、大丈夫だとは思ったんですけど、今となっては甘い予断でした)

 

 おかげで酸欠気味だ。

 普段なら失敗なんてしない不注意一つで、動けなくなる。状況判断を怠った結果は、冗談ではなく覿面に身の程知らずの我が身へ襲い掛かる。

 些細なミス一つで絶体絶命。人生何があるかわからない……

 などと、ちょいと溺れかかっただけで頓悟観念できるわけもなく、とっとと湖から上がろうと―――

 

「……?」

 

 抱えた女子生徒の身体、その首の後ろに。

 刺さっている。

 棘のようで、けれど、棘ではない。自然なものではない、人工物――プラスチックの小さな点が張り付いている。

 

「っとと……」

 

 肩に担いだ負担の重みに、体が傾ぐ。重石は全部除いて呼吸も落ち着いてきているけれど、また着衣潜水するようなリスクで体力を消費するのは辛い。所詮、鍛えていても力では男子には敵わないか弱い女子の身なのだ。溺れる者は藁を掴んでも、藁に溺れる者を救うのに悠長する余裕はそうなく……

 難しい事を考える前に行動だ!

 なんてそんな先までの反省を一蹴する、こんな時に言いそうな愚兄の――頭が痛い――言葉が聴こえた気がして、

 不幸な人を見れば自分のリスクを度外視して飛びこむ愚兄の行動を倣うように動いてしまった自分を思い返して、

 で結局その意見に賛成してしまう。

 強引に淵に上がってから、目を閉じて思わず苦笑したその時。

 

「……っま、……で……!」

 

「え……っ?」

 

 人が人を殺す理由は、実に単純。

 つまり、“障害”。

 その存在が自分の人生の障害となった時、予定調和と信じた歯車を崩した時、それを排除しようとするのはごく自然な発想。

 レールの上の石を弾き飛ばすのと同じこと。

 

「邪魔をしないでェェェッッ!!!」

 

「うぐぅっ!?」

 

 喋ろうとした微かな声を拾おうと集中したそのときに雄叫びを浴びせられて怯む、反応の遅れを招いてしまった。

 溺れかけていたとはとても想像できないほどの勢いで激しく体当たりされ、意表を突かれた詩歌はそのまま受け身も取れずに地面に倒される。

 そして背中をしたたかに打ち、その衝撃で息が止まったその瞬間―――上条詩歌はその、禍々しい形相を鼻先すぐに目の当たりにし、ぞっと震えた。

 

(殺されるっ!?)

 

 敵意を超えた殺意。

 その瞳の奥に漆黒の闇を宿らせて、狂気に身を任せてただひたすらに、相手の命を奪おうとする独特の表情が、その顔いっぱいに満ちている。

 そして彼女は馬乗りにのしかかると、態勢を整える暇も与えず、ためらいもなくその首を両手で、爪を突き立てるほどの力を込めて掴みあげた。

 

「ぐっ、……は…あ、っ……!」

 

「私を邪魔する奴は、殺してやる……! 殺す、殺す、ブッコロス!!」

 

 彼女がいる限り、私は幸せになれない。

 彼女がいる限り、私は選ばれない。

 彼女がいる限り、私は―――

 

「ぐ……ぅ……あ…ゆ…――さっ……!?」

 

 髪を振り乱して、見開かれた瞳に狂気の暗い光を輝かせながら、さらに首を絞める両手に力を込める。

 必死にそれを引き剥がそうとするが、その手は張り付いたように食い込んで、少しの隙間も作り出すことができなかった。

 

「……ぅ、こ、この……っ!」

 

 息ができず、意識が遠のく。鬱血してきたためか、溺れ沈んでいくように視界を覆っていく斑色の闇。

 

 このままじゃ――やらなきゃ、自分がやられる……!

 それにもはや、言葉が通じるようにも思えない……!

 一体何でこうなっているのかわかっていないが……!

 

(仕方ない―――ッ!)

 

 鳥の嘴の如く指を立てた片手を見せぬよう、その側頭――耳の後ろにある乳様突起めがけ、打撃。ここにダメージを与えれば運動機能が麻痺に至る。

 

「ぐっ!?」

 

「っ、たぁぁっっ!!」

 

 一瞬、力が緩んだ隙を逃さず、肘打ちを脇に叩きこんでその身体を跳ね飛ばす。

 そして戒めから逃れた瞬間、すぐさま詩歌は地面に転がった彼女を確保しようと次の動作に移りかけたが……潜水してからすぐの締め上げに酸欠がぶり返して、足に力が入らず、崩れるように膝をついて噎せこんだ。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……くっ、ごほっ、げほっ……!」

 

「―――っ……!」

 

 その間に、少女はゆらり、と怪しげな動作で起き上がり、泥だらけになった顔ににたり、と不気味な笑みを浮かべる。

 周囲の景色もまた、嗤いに連動するように揺らめいて……

 

(まさか、これは……)

 

 茹だるような熱帯夜だった空気が、乾燥していた。

 水中に飛び込んでずぶ濡れだった制服も、乾き始めている。

 地底湖周辺にある木々や花々は、早送りのように枯れている。

 環境が、変わっていく。

 その空間に充満している力場が、ひとつに大きく偏った感情が、変えていく。

 

 しかし。

 

 上条詩歌は、視線を外さない。

 不意打ちではない以上、どんなに疲労していても負ける気はしないし、彼女の能力は直接的な戦闘力を持たない。

 もし、ここで彼女が身を翻して逃走したとしても、この間合いなら一瞬で詰めて狩り落とすことは可能だろう。

 

「っ―――」

「待って、―――」

 

 だけど、すぐさまに相手の下に駆け寄るのは無理であった。

 

 

道中

 

 

 昨年度の三学期になってから、『派閥』を引き継いだ。

 けれど、本当に任せたかったのは自分じゃないことを自分は知っていた。

 多岐の分野にわたって手を伸ばしている『派閥』であるが、前『派閥』の長が得意としていた分野は機械工学系で、それに自分は疎くて、どうしても苦手としていた。

 また先の事件で二学年の先輩方が去っていたのもあるが、一学年だった自分は『派閥』を引き継いでから、重圧に押しつぶされそうな毎日だった。

 

『■■さんの方がいい』

『■■さんがいるから』

『■■さんは来ないの』

 

 離れていく。

 求心力がないせいで。

 そして、近くにいた友人さえ、

 

『ねぇ、どうにかして■■さんに入ってもらいましょう』

 

 もしも。

 もしも自分が枝切りされなかった『木の実』だったなら、こうはならなかった。

 もしも自分を枝切りにさせた『木の実』が来なかったら、こうはならなかった。

 もしかすると、自分はまた切られて地に落とされるのか。

 いいや、まだ。

 まだ。

 まだまだまだまだまだまだまだ―――チャンスは残ってる。

 

 友人らの助言に従って、■■を誘ってみた。

 今、『派閥』の権勢は、新入生の第五位の下に集まりつつある。

 それを阻むためにも、一度、立役者――いいや、救世主となった手腕が必要だ。

 ■■の能力は、本物で、<開発官(デロペッパー)>からこのままではLevel3が限界だと宣告されたはずの私の能力を、Level4にまで引き上げたのだから。

 

 けれど。

 

 ―――もしも、■■が『派閥』に入ったら。

 入って……しまったら―――

 私はそれをみんなのように喜ぶことが……できるんだろうか?

 黒々とした粘着質なものが、後頭部にこびりついているような。

 それを振り払うこともできずに、■■の前に立って、

 

『ごめんなさい。あなたの『派閥』に入る気はありません』

 

 断られて、安心した自分がいた。

 けれど、断られてその日の『派閥』の集まりに行けずに、彷徨っていたところ―――そんなときに行き着いたのは、上条君だった。

 

 

 

『人の心を読めることを自己嫌悪すんのは間違ってんだろ?』

 

 “間違ってる”?

 自分が抱いているのと正反対の評価に、私は戸惑う。

 

『多感で人の心がわかっちまうのは、汚い面も見ちまうから確かに大変なんだろうけどさ。それでも、表面的に笑顔な奴でも、心の底では泣き顔だったりすんのがわかるだろ。そんな寂しい人を助けられるんだ。しょっちゅう鈍感鈍感って言われてるこっちの身としては素直にすごいと賞賛するしかないぞ』

 

 その声に、心など読まなくてもその声が紛れもない本音であるのがわかる。

 

『相手を理解しようと人は誰もコミュニケーションを取ろうとする。そうでなかったら、喧嘩も犯罪も戦争もどんな問題も起こらないんだろうけど、やっぱり、より多くの人は自分の幸せや他人の幸せを願って、それでもその人のことをよく知ろうと人と接したいと想ってんだ。

 お前の心を読む力は、きっと、そんな役に立つ一つで、便利な手段なんだろうな』

 

 だから、あまり自分を責めてやるな、と。

 

 それは、祝福だった。

 生まれて初めて、自分の力を、嫌わずに自覚することができた。

 目で物を見るように。

 耳で声を聞くように。

 鼻で匂いを嗅ぐように。

 舌で幸福を感じるように。

 肌で温かさを知るように。

 心を読む力は恐れるものではなく、単に一つの感覚器でしかないと彼は言う。

 生まれ変わったように、私はその場に立ち尽くすことになる。

 

 能力でその心を読めないけれど、わかる彼の側にいることは私の唯一の安らぎだった。

 だから、やがては、そのことに気づく。

 

 

 

 ねぇ、上条君。普通、家族のことって隠したがらない? 誰でも。あまり人に触れられたくないものじゃない?

 

『そりゃ単純に仲が悪いだけだろ』

 

 うん。別に仲は悪くないんだろうけど。ただね。同族嫌悪ってあれかもしれない。家族って、自分のことじゃないのに、自分のことのようで―――気持ち悪いくらいに。

 

『血が繋がってるんだから当たり前だろ』

 

 ふうん。■■さんのこと、好きなんだ。

 

『家族だからな。好きとかそういう問題じゃなねーだろ』

 

 家族、ね……上条君ってなんだかその言葉を免罪符のように使うのね。印象でモノを言ってしまったらだけど、全部家族だからで片づけちゃってるみたい。

 

『免罪符、かぁ……いや、そんなつもりはねーんだけどな。ただ、それが一番簡単な言葉であるのは確かだな』

 

 ……じゃあ、例えば、よ? 聞いてる?

 

『あん、ああ、聞いてるよ』

 

 例えば? 私と■■さんが共に危機的状況―――そう、崖にぶら下がってるとして。

 上条君はどっちを助けるかしら?

 どちらかひとりだけしか助けられない状況だとして。

 

 それは意地の悪いというよりも、楽しいちょっとしたゲームのような言い方だった。……それでも、なんとなく、そこはかとなく、自分の言いたいことが透けて見えるはず。

 

『なるほど、嫌な問題だなー……どっちも助けるのは、なしなんだろ?』

 

 ダメよぉ。私か彼女のどちらかだけ。

 それで、どっち? 上条君。

 

 比較対象の当人がいない時にこんなことを訊くのは卑怯だろう。

 だけど。

 それでも。

 心の糧となれる言質が、ほしかった。

 もう、自分には、彼しかいない。

 何もかも、彼以外に何もかもがある彼女とは違って……

 何度も言うが、理解している。卑怯だと、卑屈だと、それでも必死なのだ。

 だから、聞き流して、適当に―――などと、それを許さない雰囲気を言外に醸し出す。

 

 うーん、と彼にとっては雑談の、ただのくだらない問題にどう答えるものかと真剣になって考え込む彼を見る。

 

 しかし、すぐに耐えきれず。

 その沈黙を勝手に答えとして理解した、自分は話を進めてしまった。

 

 ……やっぱりぃ、そういうことよねぇ。そのつまり………。……あれ、……うふふふぅごめんなさい、何か自分で言ってて破綻しちゃったわ。

 

 苦笑する。

 もう涙は枯れて目に一雫を零すことはなくても、きっと今の顔は哀しく、泣いてしまってる。

 全てに負けてでも欲しかったこの一勝にさえ、自分には届かない。

 

 そこへ反射的に飛び出した強めの言葉が、その笑いを遮っていた。

 

『待てって。俺はまだ何も答えてないぞ? 人の答えを勝手に決めないでくれ』

 

 少しだけびっくりする。

 先程の会話で確かめたが、彼は、彼女を嫌ってない、憎んでいない。

 ほとんどが同じような遺伝子でできているはずなのに、圧倒的とも言える違い。才能も、幸運も、全部もっていかれているとしか思えない出来の悪い劣等生と言われてきたはずなのに。むしろ、極普通に、妹と、家族だと大事に思ってる。接することができる。

 彼は、そういう人だ。

 だから、言いだし辛い筈の解答を、冗談に、曖昧に濁したままで済まそうとしたのを遮られたのが意外で。

 その、わずかに、想ってしまう。

 そんな期待をおくびにも出さず、苦笑のまま、先を促した。

 

 ……そうなんですかぁ? じゃあ、上条君の答えはどっちなの?

 

 彼は、“一つ確認してから”、自信たっぷりに答える。

 

 

『そりゃあ、お前になるだろうな』

 

 

第二一学区

 

 

 あれからどうやって人造湖から森を抜けたのかよく覚えていない。記憶は混沌とし、至る所で曖昧だった。

 

(能力が通用しない……けどっ)

 

 集団で囲んで尚、素手で『派閥』を倒した■■に、個人で刃向うなどありえない。

 ■■を排除するには、道具が、そう武器が必要だ。

 自分の精神干渉も何故か通じないし、まともにやりあったら敵わないのはわかってる。

 腕力や体術と言ったのを必要としない、もの……

 

(早く早く早く早く―――っ! 何でもいいから■■を殺せる―――!)

 

 きっとすぐに見つける。

 人間の形をした大きなものが、何の痕跡を残さずに移動することなど、そうそう簡単な話ではない。それも今の私はびしょ濡れで、ここまで水滴垂らしてしまってる。

 もうすぐそこまで迫ってるかもしれない。

 

 ―――と、そのとき、胸元に振動音が。

 

(上条君―――!)

 

 

???

 

 

『―――さん。私だって、あなたのことが羨ましいことがあるのよ』

 

 ……えっ?

 

『私は、伸ばそうと思っても背がこんなで、後輩の子の中には私よりも高い子がいる。先輩にはもっと……まぁ、こんな感じで、最近は一つ下の幼馴染に抜かされるんじゃないかと戦々恐々です』

 

 どうやったらお姉さんっぽくなれるか、とか。

 大人な感じをどうしたら醸し出せるか、とか。

 

『たとえ同じ才能、力を持ったとしても―――あなたが私になれないように、私もあなたにはなれない』

 

 苦笑とともに肩をすくめながら、できるだけ柔らかな口調で“彼”は言葉をつないでいった。

 

『お姉さん、大人な女性。雰囲気なら出せるけど、残念ながら、私とは適性が違うんですよね。母さん、今でも私と姉妹と間違われるくらいに若々しいし。背伸びするにしても、色々と無理があるのですよ。だから、私は私をやるしかない―――と、吹っ切ることにしたんです』

 

 私を……やる?

 

『そう。ありのままに自然体でありつつ、人から良いと褒められて、自分の良いと信じることを真っ直ぐに、精一杯表に出していく、ってね。

 もちろん、人に不快感を与えるような欠点は直すように心掛けますけど、欠点ばかりを意識すると、『直す』よりもむしろ『隠す』方に気持ちがいっちゃいますから』

 

 ……欠点を『直す』と『隠す』。

 

 その二つの対処策はその効果がよく似ており、また後者の行為は消極的な言動を意識するだけで容易に達成できることが多い。

 

 会話が上手くないと言われたくないから、最初から話に参加しない。

 自分の意志がないと指摘されたくないから、そもそも人と関わらない。

 才能がない事実を突きつけられ落胆したくもないから、努力を放棄する。

 

 ……しかし、それはけして欠点を解消し、あるいは改善する行為ではなく、むしろその機会すら失わせるものだ。

 そして、その『隠す』という意思その者が人には見せられない、後ろめたい感情となって本人の心に影を落とし、劣等感や自己嫌悪へと繋がる可能性も否定できなかった。

 

 『直す』と『隠す』は、違う……

 

『ええ。そして、それに気づくことができたのは、自分自身と向き合って、良い所と悪い所をしっかり意識したおかげだと思います』

 

 “彼”の言葉を頭の中で何度も反芻しながら、ふと自分自身を顧みる。

 ……自分は。

 今までの自分は、自身に対してどう向き合ってきたのか。いやそもそも向き合ったことがあっただろうか。

 ……………。

 <開発員>から欠点を、告げられている。

 限界を意識してきた。切り離された『木の実』には上限が此処までであると暗黙に示されていた。

 自分は今も頂点で順調に実りつつある『木の実』の予備である。

 支援していた研究者たち、機材や資金等が、“選ばれた『木の実』”に集中し、落とされた自分は通常の能力開発を受けながら、『保険』として大人しく過ごしてきた……

 ……でも、その行いは果たして本当に『直す』ものであったろうか。

 いいや。

 『直す』よりもむしろ、ずっと『隠す』ことでこれまでを過ごしてきた。

 だから、それを人に知られるのが怖かった。

 それが何かの拍子に暴露するかもと、不安を抱えていた。

 その後ろめたさと、気後れが劣等感となって、自分の心を苛んでいたのは確かに事実だった。

 

 ……、だけどっ!

 

 私は、そんな風に思えない。あなただから、そんなにも心が強いあなただから、そんなことが言える。

 私は、そんなにも割り切って、自分を信じることができない。

 良い所って言われてもなにも思いつかないし、悪い所を人に指摘されて、それがどうした、なんて開き直ることもできない

 だから、私は、あなたみたいにはなれない。

 それが、わかる

 よく……わかってる

 

 自分でも、惨めな言い分だとわかっていた。それでも、言わずにはいられなかった。

 心が強い人――何か一つでも自信を持ち、他人に対して優越感を抱くことのできる人は、多少の苦痛や困難など、簡単に乗り越えてしまえるだろう。

 だが、そうではない人間にとって、『頑張る』行為そのものが苦痛で、困難なのだ。

 まして何もかもが違う、底知れぬ優秀な“彼”に自分の気持ちがわかるわけがない。

 “彼”が、確かに本心から案じてくれるのだとしても、勝者と敗者、その違いと格差がある限り、結局は勝手な価値観の押し付け合いではないか。

 ―――だけど、

 

『……ふふふっ』

 

 っ……?

 

『―――さん気づいてます? 今あなた、私と同じことを言ったんですよ?』

 

 えっ? あ……

 

 失笑に思わず目を吊り上げかけたが、自分の言った言葉が反芻されると赤面する。

 確かに、言った。

 そこに含まれる感情のベクトルは正反対に違ってはいるが、全く同じ言葉だった。

 

『さっきも言った通り……あなたが私になれないのは、その逆が成立しないのと同じ。

だから、私になんてなる必要は全然ないし、あなたの言う自分が“もう一つの『木の実』”だってそう。

 あなたなりの変わるきっかけを見つけて、あなたにできる範囲とやり方を探し出せばいいんです』

 

 元気を出して、と上辺だけで励ますのは簡単だ。

 だけどそれでは、悩みを持ち続けたままとなっただろう。

 

 お節介には違いないことは、誰に言われるまでもなく理解していて。

 それでもこの悩みに必要なのは決心を固めるための時間と、きっかけになる誰かだ。

 それが今この時で、そして自分だと信じることは、酷く傲慢で思い上がった思考かもしれないが。

 

『だから、それは、特別、新しい何かを見つけ出して、それを身につける努力じゃない。

 元から持っていた自分の何かをクローズアップして、程よく飾りつけていくだけの―――言うなれば、発想の転換や見方の改革なのですよ』

 

 もう既に揃っている。

 もしも、足りないものがあるとすれば、それは“見方”である。

 

『ええ、そういうことです。0から1にするのは大変ですけど、1をどう見せるかは思ったよりも楽です。それにあなたには、私にはないとても素敵なところがあるじゃないですか。

 長所も短所も個性。

 だから、短所と持って『隠す』と、長所と思われる機会をなくしてしまう』

 

 あ……

 

『それに、価値観とか印象とかは時と場所で変化するような、いい加減な代物で、そして、良いと悪いとの評価は、見る人によって簡単にひっくり返る。

 野花を見て綺麗だという人もいれば単なる雑草だって煩わしく感じる人もいたり、夜の星空が美しいと思う人もいれば、星なんて何十億年も前から変わらずそこにあるだけの有難味のないものと評するものだっていてもいるかもしれない。

 それどころか、同じ人でもその時の感情次第で、違う印象を持ってたりすることもよくある。

 でも、大切なのはそれが正しいか、ってことじゃない。

 自分の身近な人――好きな人たちがどう思ってくれるか。……そうでしょう?』

 

 知らず、頷いていた。

 言葉の一つ一つが、温かい。

 いい加減な綺麗事とか、口煩い説教とかとは違う。

 理路整然と、冷たく糺すものでもない、真面目に親身になってくれるからこその、“彼”なりの助言と励まし。そこには強い信念があり、相手に対しての信頼をいっぱいに含んでいる。

 

 だから、さっきまでの息苦しいほどだった胸の中の淀みが少しずつ消えて、擡げたまま固くなっていた首と肩から力がすぅっ、と抜けていくような感触を覚えた。

 

『―――さん。あなたが自分でどう思っているのかは分からないけれど、私にはない、あなたが十分に誇っても良い『いいところ』がある。それはとても素敵なことで、胸を張って自信を持ってほしいな。少なくとも、私は好きなものだから』

 

 っ? え、その……

 

 『好き』という言葉を真正面から告げられて、照れくさげに顔を伏せてしまう。

 そんなことを、真正面から言われたのは、本当に初めてで。

 でもけして不快じゃない。それどころかすごく、すごく嬉しい。

 自分にはないものを持つことに対する憧憬を抱いている相手、そんな相手に『好き』と言われて、心が舞い上がらないはずがなかった。

 

 何をしても、うまくいかない。だから、“彼”が言ってくれた良い所が、自分に本当にあるのかが、よく、わからなくて……

 

 だけど、“彼―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――“彼”は言ってくれた。

 

 だったらそれを信じるというのは、どうだろうか?

 

 えっ……、

 

 心の前向きな動きに自分で自分に少し驚く。

 自分自身を信じるってのは、確かに結構勇気がいるのだろう。それはわかる。

 でも、“彼”は信じてくれる。

 なら、もう少し力を抜いて、自然になってみたら……

 

 そう、自然に……

 

『そう(です)。今まで隠していた『欠点』。いや、『欠点』と思わされていたところを少しずつでも出して、確かめてみたらどう(でしょう)

 

 悪いままなら相談して、直せるようなら努力して、でも勘違いなら、そのままで。

 そうすれば、きっと隠してきた時よりもずっと、前向きな解決策が見つかる。

 

 

路地裏

 

 

「―――アナタのことを認めると、私はひどく惨めで、つまらなくて、情けないものになってしまう。

 私が泥をすすって這い上がって、血の滲むような想いで積み上げてきたものが全て、ただの石ころに思えて死にたくなる。だから―――」

 

 私はここで、■■を殺す。上条君の中から■■の何もかもを殺す。

 だから死んで。

 そして、私が上条君の記憶から■■を抹消する、

 そうすれば、解放される。

 それが私の、生きてきた時間で選んだたった一つの道。

 

 

 

「彼のことを理解できるのは私だけ。

 彼も、私を選んだ―――そうなるの。そうなるはずなの!

 なら、彼の隣にいていい人間は、私じゃなきゃいけないわよね?」

 

 そこで言葉を切り、彼女は銃口を向ける。

 それは彼女が、ここまで、バカみたいにボロボロの女子中学生な獲物かと思って脅しに来た<スキルアウト>がちらつかせてきたものを奪ったもの。

 

「ええ、全部、アナタが悪いのよ? 私から彼を奪おうとするから」

 

 今の彼女は、冷静のように見える。

 冷静なようで、怒り狂っている。

 彼女の瞳は病的な熱を帯びていながら、どこまでも純粋な色をしている。

 

 だから、上条詩歌は、ゆっくりと、表情を消して、感情を沈めて、言う。

 

「……………今のあなたを当麻さんに会わせるわけにはいかない」

 

「ふざけないでっ! どうして上条君の邪魔をあなたにする資格があるのよっ!」

 

「よろしい、私を恨みなさい。アナタの憎しみ全て、この私にぶつけなさい」

 

 その言葉に、一瞬目を見張ったが、それでも僅かの警戒も許さず、引き金から指を離さない。

 

「へぇ―――動かないで―――容赦なく撃つわよ」

 

 両手で構える銃。

 レディースではない、大型の拳銃。

 一発でも当れば、お陀仏だと、品のない不良が言っていた。

 と。

 

「―――これはあくまでたとえ話ですが」

 

 少し普段より低い声。

 

「弾速の初速がおよそ250m/sだとすると、この6歩分の距離――およそ5mを飛来するのにかかる時間は―――0.02秒」

 

「……それがどうしたのよ? それは人間には弾丸が避けられないということでしょう」

 

「その数字だけ聞けば確かに難しい。私も反射神経には自信がありますが、人の反応時間の限界は0.11秒と言われていますからね。ただし―――」

 

 と、こちらを指さした。

 いや、違う。こちらの持つ拳銃を指さした。

 

「それのトリガーの長さからして、ダブルアクション機構のタイプです」

 

「……? ……? だからぁ! それがどうしたって言ってんのよ!」

 

「まあ、まあ。そう逆上しないで聞いてください。ま抜けのとうさんが珍しく本でも読んで学習意欲にでも目覚めたかと思ったらモデルガンのカタログでしてね、男の子ってこういうのに憧れるものなのでしょうか。ええ、それで、ダブルアクションだということは、トリガープルがシングルアクションの2倍。つまり、5kgあるということです。女子学生、それもあなたの運動神経はお世辞にも良いとは言えない、悪く言えば運動音痴。体力テストで測った握力の結果からしてその指の力では、その引き金を引くのに、0.8秒は要するでしょう。これは短めに見積もっての数字ですが」

 

「―――? ………!」

 

「それだけではありません。引き金を引いてもその後ハンマーが落ちるまでに0.02秒はかかります。これでもう既に0.84秒。しかも単純に弾丸発射から着弾までの動作を試算したもの。更に、ここへ確実に目標に当てるために照準を合わせる動作にも時間がかかる。確実に狙った所へ命中させるには、プロフェッショナルでも0.1秒、素人のあなたは甘く見ても0.5秒ほどは欲しい所でしょう。

 ―――総計で、およそ1.5秒。1秒以上。余裕を持って避けられますね」

 

「ふざけないで! 1発くらい外したって弾はまだまだあるんだから―――」

 

「それも1秒以上はかかる攻撃に変わりはありません。しかも連射の反動も考慮すれば、2秒以上かかる可能性が高い。それでは手で殴った方が全然早い。

 確かに、私が如何に素早く動こうが、そちらが少し照準をずらせばいい。数撃てば当たるなんて言葉もあります。

 が、それでも通常ロングレンジで用いる武器である拳銃は、少なくても10m、最低でも5mは離れている状況が使用に適しています。ここで一歩踏み込めば、拳銃より拳の間合い。

 あなたは機械音痴ですが、だからこそ、素人ほど見掛けの威力に騙される。どんな一撃必殺の武器でも、当たらなければ何の意味も何の価値も何の力もないという―――」

 

「う―――うるさいうるさい!」

 

「だから、提案します。撃つ必要はありません。外す可能性があるというのなら、“私が私の手で痛苦を覚えさせた”方が確実です」

 

 

 その動きには、何の前触れもなかった。

 

 

 左手で、右の人差し指を握る。

 

「たとえば、このように指を折ったとして」

 

 木の枝でも折れたような音。

 その光景はあまりにもあっさりしていて。

 会話の流れを乱すことなく平坦な口調で、指を後ろに反らして―――ポキッ、と……骨をへし折ったのだ、そう理解するのに数秒の時間を要した。

 それはきっと圧倒的な、泣き叫びたいくらいの痛みがその部分に走ったはずなのに、しかし彼女は顔色一つ変えることなく、歪に折れた人差し指を晒した。

 

「満足ですか?」

 

「ぁ……ぁぁっ……」

 

「わかってます。これは私が自らやったことで、あなたのせいだなんて言いません。“上条君には”。だから、もしも不満ならどうぞ仰ってください」

 

「……ぅ、ぅぅ」

 

 動揺。

 これ以上にない、震え。

 そんなことなど一切、構わずに。

 

「無言は肯定とみなします。では、順番に次は、中指を」

 

 言って思い切り中指を握り、まるで自分の身体を人形のように、

 血の通ってない、

 神経なんてない、

 心のない、

 人形のように、平気で折った。

 べきり、と。

 

「その次は、薬指」

 

 ばきり、と。

 薬指が自然にはあらぬ方向へ。

 

「この次は、小指」

 

 ごきり、と。

 小指が関節に逆らった方向へ。

 

「そして、親指」

 

 ぼきり、と。

 親指が捻じれ外れた。

 

「これで右手を完全に破壊したわけですが。見た事に、見事に片手落ちなのですが、まだ満足できませんか?」

 

「あ……ああ……あ」

 

 顔から血の気が引いていく。それは恐怖と言うより、恐慌というような感情。理解できないものに対する根源的な恐れ。恨みなど塗り潰してしまう、そんな幻想をぶち殺してしまうもの。

 

「な……なにをしてるのよ!」

 

 咄嗟のように叫ぶ。

 狂った行動を前に、髪を振り乱して、

 

「あ……あなた頭おかしいんじゃないのっ! な、なにをやってるの!」

 

「おや、“これ”が、あなたが願ったことではないのですか?」

 

 平静さを保ち、淡々としたその姿は、ある種の装置めいている。

 それはまともな神経をしていなくても見ていられないような無情な振る舞いで。反射的に目を逸らしてしまう。

 

「い……痛くないの! それ!」

 

「はい、痛いです。でも、こんなことはたいした問題ではない。私にとって、痛みは日常茶飯事なものですから。

 しかし、もしもこれに不快であるのなら、あなたは人を傷つけることを良しとはしない証左でもありますが―――そうであるなら、本心は一体何でしょうか?」

 

 歪な状況だ。

 一触触発のはずだったのだが、どうして、こんな時ですら、揺るがないのだ。

 これでは、脅しているのが、私ではなく彼女みたいじゃない。

 気持ちが悪い。

 向かい合わされているこの様に、最悪の気分となる。

 

「……気に入らない。もっと泣き叫んで、命乞いなさいよ!」

 

「しません」

 

「……ぶっ壊れてるわよ。頭から常識が吹き飛んでるのかしらぁ!」

 

「この痛みは自己責任。だから、誰かの助けを期待してたとしても、希望はしない」

 

「違う!」

 

 頭を抱えるようにして、まるで狂乱しているかのようにブンブンと頭を振る。

 

「違う違う違う違う! 誤魔化さないで! 誤魔化してんじゃない! 勝手なことばっかり言って!」

 

 慌ててる人を見ると落ち着くように、凶行を見ると人は冷静になる。

 そんな風に、鏡を見て、人の振り見て、我が振り直せ、と……いやでも思わされるのだ。

 目には目を。

 歯には歯を。

 狂気には狂気を。

 

「期待するのは自由でも、希望を押しつけるのは勝手以外の何物でもない」

 

「なに、言って……」

 

 震える声を無理やりに遮られる。

 

「“上条君”が、有能ではないなんて知ってるでしょう。彼自身、その無能を知っている毎日悩むほどに。けれど、期待されても、希望されても、それに“必ず応えてくれなければならない”なんて私でも思い上がりません」

 

 必死に、歯を食いしばりながらそれでも銃口を外さずにいるのが抵抗の証のよう。

 が、

 

「客観的な事実として、私がここにいる。上条君は来ない。あなたの願いはかないません。現実を受け入れなさい」

 

「ううううううう―――………あああああああぁあ!」

 

 怨恨に満ちた形相で、鬼気迫るような睨眼で、呪詛を堪えるように唇を噛み締め。

 

 

 引き金を引いた。今度こそ、彼女に向けて。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 大きな爆裂音が響いて―――それで、終わりだった。螺旋するようにその弾丸の弾道上からずれて、しかもその動作で同時に懐に入られ、左の掌底で顎を突き上げた。身体が宙に浮く。重力から一時的に解放されて、真正面が無防備となった身体、その胸元中心に。軽量ながらも体重を全て乗せた右肘を体当たりするように抉った。

 

「ぐほぉ―――!?」

 

 身体は土の上をカーリングが滑るように転がっていき、ベンチにぶつかって止まる。

 起き上がりも、唸りすらもしない。完全に、気絶していた。

 そこへ上条詩歌は近づきながら、途中、地面に落ちている拳銃を拾う。

 

「ふぅ……。危険物回収、っと」

 

 ずしり、と腕に負荷がかかる。

 当然だ。拳銃を金属の塊で造られてると考えれば、軽く1kg以上はあるだろう。携帯カメラとは全然違う。こんなものを腕をまっすぐ伸ばしたまま、細腕の力だけで支えるなんて大の男性でもキツい。そして、学年最下位の運動能力しかない少女ならなおさら。

 つまりそういうことだ。こちらが散々まくしたてていた演説に、過剰な演出は、腕の疲労を忘れさせる時間稼ぎでもあったこと。か細い腕の疲労と疲弊の限界を待っていた。正確に狙いを付けることが不可能となり、筋肉に命令が走る微小な震えが傍目から明らかになるほどに。

 

「何事も数字に騙されたら痛い目を見るってことです。具体的な数字や論理を述べておいて何ですが、最初の弾速からして適当ですし。

 さて、首の後ろにあるこれは……―――」

 

 ―――そこで、人の気配が近づいてくるのを覚える。

 先の銃声を聞きつけたのだろうか。にしては、早すぎるが。

 

 消防士、じゃないですね……?

 

 銀色でギラギラ輝く特殊な耐火服のような、そう蜂の巣を駆除する際に身につける完全装備にも似た――対精神操作能力防具(メンタルガード)を着た大人。それも、全員がその手に、不良の拳銃など相手にならない最新鋭の銃器を携帯した一団が現れ、

 

 

「―――<即応救急>の山川、と申します」

 

 

常盤台中学 相談室

 

 

 蜘蛛の糸の構成は、足場となる場所と場所を結ぶ縦糸と獲物を捕える罠として張られた横糸となっており、ネバネバな粘着性があるのは横糸のみ。蜘蛛自身が移動するために縦糸には粘着性はなく―――しかし、それは外部と接続しているが故に、余所者を巣に招いてしまう。

 通常、蜘蛛は糸に忌避物質(フェロモン)を塗って侵入を拒んでいるが、しかしそれがなければ、所詮は蜘蛛の糸であるから流石にあまり大きなのは無理だとしても、“蟻ぐらいは平気で通してしまう”。

 

 今回に、捕まったこの学校のOBである発電系能力者は、発電系能力者であるはずなのに磁力に特化しており、電気は不得手。

 この手の精神干渉には生体電気系の制御が大きくかかわる。

 例えれば、あのOBは『テリトリーの糸に忌避物質を塗らない蜘蛛』であって、そして蟻は弱った獲物を容赦なく襲う。

 

 

 

 夏休みに入ってから、わざわざ学校に向かうのは、『派閥』や部活動等の集まりがあるか、どこかのツンツン頭の男子学生のように、補習兼受験のための夏期講習を受けることになったかだ。

 だから、学内に学生がいるのは特別不思議なことではない。

 ではないが、学生による相談窓口(ボランティア)を行っている部屋で、その椅子に座した一学期途中に不登校になった人物の顔を見た瞬間、食蜂の眉が急角度につり上がった。

 これが初めての顔合わせとなるが、もうすでに椅子に座っている人物については調べが付いている。<心理穿孔(メンタルスティンガー)>というLevel4の高位な精神系能力者にして、第五位が勢力図を広げてから、三日天下とばかりに転落した前最大派閥を引き継いだ、蜜蟻(みつあり)愛愉(あゆ)

 その蜜蟻が、誰の許可なくこの部屋に不法侵入し、主のいない場所に座っている。けれども、この部屋に伏兵を潜ませるスペースはなく、彼女ひとりだけなら好都合と思い直す。

 

 こちらは、彼女が残した――先輩に取られた『物品(カメラ)』を回収している。

 中身は確実に消去しなければならなかった『物品』を彼女は食蜂操祈が所有していることを良しとするか。

 

 答えは絶対のノーだ。

 だから、この場所に逃げこんだのではなく、わざわざ『物品』をもってくるだろう食蜂を黒幕ぶって待ち構えているつもりなのだ彼女は。

 

「くすくす、はじめまして、でいいかしらん」

 

 罅割れた鏡を見せられてるようだ。

 ストレートに伸ばしているのではなく、綿菓子みたいにふわっと広がる髪型。

 蜂蜜色ではなく、チョコレート色の髪の色。

 スタイルも、“まだ”こちらは小学生ラインを抜け出してはいないが、あちらは一足先に大人な流線形のラインのように足まわりの美しいモデル体型である。

 総合して、目の前にいるのは全くの赤の他人。

 そうであるはずで。

 にも拘らず。

 食蜂操祈にとって、蜜蟻愛愉は“近い”何かをもっているとすぐに勘付いた。

 

「あらあら、エコ贔屓に蝶よ花よと大事に育てられたわりには、蜂のお嬢さんは、まぁだお子様体型なのねえ。

 でも、知ってるかしらあ? 蝶も蛾も、本当は違いはないって話。

 くし型の触覚だとか、翅の形や畳み方だとか、色々と言われてるけどお、蝶と蛾に生物学的な違いなんてない。

 ええ、蟻と蜂も。毒針をもつか、通常個体に翅をもつかどうかの差はあれど、『超個体』を組織作る同じものとも言えるのよねえ」

 

 だから、違いがもしあるとすれば、見た人間か、本人が勝手に思い込むだけなのだろう。

 不愉快だが、食蜂はやはり近しいと感じる。

 

「つまり、蜂のお嬢さんと私は元々同じ『樹』で育った『木の実』同士だったのよお。もしも私がマスターに選ばれていたら、こっちが超能力者で、<才能工房>とかいう第五位専属の研究支援を受けていたわあ。

 知ってるかしらん? 常盤台中学に入学したふたりの超能力者は、とってもいい“実験材料”として欲しがられているコト。

 ―――だから、もしここであなたがいなくなれば私があなたに奪われた全てを取り戻すことができるのお☆」

 

 ニタニタとこちらの表情を見下すように、その容貌から不釣り合いな、“狂”すら混ざった笑みを浮かべている。

 その表情に名前を付けるならば、嗜虐、が一番相応しいだろう。

 彼女は言っていた。

 直接見えれば殺しかねない、と。

 表面上は笑顔だとしても、“スレーブにされた加害者”を前に、こちらを憎悪力全開で恨んでいるのだろう。

 その苦汁を味合わされた要因の一つを踏み躙れるこの機会に、まるで歓喜するように、その両の目を陶酔で染めながら、そこで蜜蟻は満足げに息を吐き出した。そして、苦悶しているであろう食蜂の姿を堪能しようと眼差しをそちらに向ける。

 ―――そして、気が付いた。

 

「………なに?」

 

 視線の先で、“目が合った”。

 つまりは、蜂の女王は、俯いてすらいないことを。

 自分の存在が誰かの人生を狂わせたのだと知って凍りつき、または自らが背負うべき罪業に苦悶しているはずの食蜂が、特段、何の感慨も表に出さずに蜜蟻を見ていることを。

 

 そんなはずはない、と。

 今、蜜蟻が口にしたのは認め難いだろうが事実だ。自分のせいで誰かが崩壊したなど、それを教えられて“苦痛を覚えないはずがないのだ”。聖人君子でなくても、自分は安全で誰を犠牲にするような道を歩いているのだと――その前提が崩れてしまったのだ。

 にも関わらず、第五位はこうしている今も平然とこちらを見据えている。もう言うことはないのか、と言わんばかりに。内心の動揺を押し隠しているにしては、その立ち姿はあまりにも自然だと蜜蟻には思えた。

 事実、陶酔から覚まされた蜜蟻の視線の先で、ゆっくりと開いた口から発せられた食蜂の言葉には、まったく震えてはいなかった。

 

「―――で、それでいいたいことは終わりで良いかしら、蜜蟻さん?」

 

「一応、蜂のお嬢さんより先輩なんだけど」

 

「それはお断りだわぁ。私、あなたのこと先輩だなんて塵ほども認めてないもの」

 

 その声、その態度、その表情。余裕さえ感じられるそれらすべてが蜜蟻にとって想像の外にあった。

 

「所詮、人の心を平気で弄べる蜂のお嬢さんに、奪われた被害者の声は届かないってことかしら―――」

 

 彼女はアイドルのオークションの敗者のようなものであり、自分は勝者である。いなければ、こうまで人生を奪われることはなかったはずだ、……なんて、戯言は食蜂操祈にとって、“今更な”話だ。

 

「バッカじゃないの? たとえあなたが超能力者の立場力を得たとしても、こうなっている時点で小物であるのは明白じゃない」

 

 食蜂の言葉を受けて、蜜蟻愛愉は、その笑顔の下に隠した感情が表面化するように、こめかみや頬などの表情筋が不気味に痙攣を起こす。

 それを無視する。

 一切、無視できた。

 

「成功者たる私が可能性を総取りしてなかったら、その才能力は正しい評価をされて、正しい舞台に立てた? そんな、“当たり前”のことを嘆いている、“大人みたいな目をした子供になりたがる甘ったれ”が、第五位の称号を受けた重圧に耐えられるとでも思ってるのかしらぁ」

 

 オリンピックの参加国はみんな同じ資金と同じ設備を選手に与えているだろうか?

 答えは、否だ。

 現実の競争に実力以外のものが勝敗を左右するなど珍しくもなんともない。

 全く同じ環境と条件を整えて平等で正々堂々戦いましょうなど、通用するのは大人が用意した子供のための生ぬるい箱庭くらいだ。

 だけど、それでも勝つのが人間だ。

 もしも順当にレールに乗っかっている限り、一生上には上がることができないというのなら、最低でも勝ち組の倍は努力する。誰もやらないような思い切った方法でアピールする。

 結果として最新ジムで英才教育を受けるエリート選手に、荒野を駆けて身体を鍛えた選手が打ち勝つ瞬間へと繋がるのだ。

 

「私があの人を唯一心から『先輩』と呼ぶのは、周囲の予想力を大きく覆してしまおうと、大番狂わせを成し遂げんとする気概力をもった、本当の勝負ができる“子供みたいな目をした大人”だからなのよねぇ。そうやって強いからこそ、たとえ相手が敵であっても慈悲力を与えることができる。哀れに行き詰った『デットロック(彼ら)』。大人たちが決めつけた『格付け』の結果で枝から剪定されて、地に落ちた『木の実』だったその『デットロック』に。事が終わった後に、大事な者たちを傷つけようとした彼らにさえ、先輩はその後の面倒を見ていた。

 あれは、強い。

 とても簡単に真似できるようなものではない。

 だから、超能力者なんていう陳腐力丸出しな肩書なんてなくても、『派閥』だってわざわざ率いなくても、ああして尊敬力を集められるんだゾ☆」

 

 突き刺すようにそう言ってから、開けたドアの前にいた食蜂は部屋に入り、ゆっくりと近づく。精神干渉するにしてもリモコンが照準である以上、あまり近づいたところで、意味がないというのに。ひょっとしたら、罠を仕掛けているかもしれないのに。

 

 

 

 それを見て蜜蟻は僅かに腰をあげかけたが、すぐにそんな自分を恥じるように座り直し、蜂の女王の虚勢を暴くべく舌を回転させる。

 

「ん、ふふぅ、もしかして私の心を弄ろうとしてるの? でもお、私の力より上回っていても、同じ力との干渉に阻害される以上、蜂のお嬢さんの精神操作は一切弾かれるのねーん☆」

 

「あ、そ」

 

 ともはやこちらを見ずに、ぐるり、と部屋の中に視線を滑らせながら近付く蜂の女王。

 蜜蟻の両目に紫電が走った。

 今ならやれる、という好機に湧いた確信ではない。その態度が理解できず、苛立ちが臨界に達しつつあるのだ。

 

「無防備ねえ。まーたイジめてほしいのかしらーん☆ 今度は誰も助けに来ないわよ」

 

 ぐつぐつと煮えたぎる様な激情が蜜蟻の心中を渦巻く。少しの衝撃を与えれば噴火しそうな感情の溶岩。それを蜜蟻はどうにか抑え込む。

 やり場のない怒りをぶつけるのはここではなく―――第五位は、前座なのだ。

 

 一室とは言え会議室ほどの広さがあるわけでもない普通の部屋だ。扉から窓際まで、10mもない。

 食蜂はすでに机を挟んでこちらの眼前に立っていた。

 対して蜜蟻は椅子にかけたままであるが、その手には、カードマジックのように手のひらサイズのスマートフォンが収まっている。

 そちらも、リモコンを手に持ってはいるが、今尚蜜蟻に向けようとするそぶりさえ見せない。

 

「……だからあ、<心理穿孔>に<心理掌握>は効かないって、何度言えばわかるのかしらん」

 

「そんなの言われなくてもわかってるわよぉ。まあ、コントロールはちょっと自信がないんだけど、ね」

 

 不意に食蜂の腕が振るわれる。何気ない動作だったが、蜜蟻は全く反応できなかった。

 

 

 ガヅンッ!!!!!! と。

 勢い良く、至近で投げられたリモコンが蜜蟻の顔面にぶつかった。

 

 

「なっ、あぶぅあっ!?」

 

「何を驚愕力丸出しになっているのかしらぁ? ちょっとコントロールに自信がないと言ったけど、動かない的を狙うくらいの投擲力は持ってるつもりよぉ」

 

 言いながら、ハンドバックの中に手を突っ込む。次のリモコンを取り出し、投げる。ペットボトルをゴミ箱に投げ入れるのさえ難儀するくらい不器用な食蜂ではあるが、それでもここまで近付いて、その場所から動かないのなら。

 ゴツッ!! ガッ! ガンッ!! ゴン!! と。

 鈍い音が連続する。短い悲鳴を上げながら蜜蟻は両手で顔を庇う。それは、戦闘の熟練者が見れば、呆れるほどくだらない戦いではあったが、食蜂は、“自分のような人間”――人の心を操って楽をしようとする人間が、自分の身体を鍛える努力なんてしないことを知っている。だからその間に、食蜂操祈は机を回り込んで完全に距離を詰めていた。

 まず最初にやるべきことは決めていた。

 

「ぐッ!?」

 

 その胸倉を掴み挙げて、寄りかかるように体重を乗せて強引に押し飛ばす。椅子から落とされた蜜蟻は、たまらず床に尻もちをついた。

 わけがわからず食蜂の顔を見上げる蜜蟻にかぶせるように、上から声が降ってきた。

 

「ここはあなたが座っていい場所じゃない。分際力をわきまえなさい」

 

 蜜蟻が癪に障ったのは、その内容というよりも、その声に含まれた感情に我慢がならなかったからだった。より正確にいえば、ろくに感情が含まれていないことが許せなかった。

 怒りも憎しみもなく、かといって嘲り、冷笑しているわけでもない。無理をして感情を押し殺しているのではなく、その感情の大半を占めるのは義務感だった。

 言うべきことだから言った。それ以上でも以下でもない声音。

 

 

 ここにきてようやく蜜蟻は悟る。

 食蜂が、自分をろくに相手にしていないのだ、という事実を。

 

 

「…………ッ!!」

 

 向けるは、携帯電話のカメラレンズ。

 精神干渉の『噴出点』であり、食蜂操祈をあと一歩のところまで追い詰めた武器。

 しかし、それより早く、食蜂操祈もリモコンを相手の顔に突きつけていた。

 

(単純な力のごり押し――能力の打ち合いなら上位互換の第五位の方が有利。けど、そんなのは『剪定された木の実(わたし)』が一番に知ってる!)

 

 劣等感(コンプレックス)にまみれながらも地を這う蟻と、悠々と空を飛びながら甘い花の蜜を吸っている蜂とは―――

 

「温室育ちとは、“泥仕合”の経験値が違うのよ!」

 

 待ち構えておいてなにも用意していないわけがない。

 選定された第五位を相手に無策で挑むわけなどありえない。

 スマートフォンを構えたのと別のもう片方の手。握っていた手を広げ、内に隠していた、超小型だけれど、しかし黒く四角で重厚な物体――スタンガンを晒した。食蜂操祈がそれに気付き、目が驚愕に見開かれるが、その時にはもう遅い。

 リモコンのスイッチを押したければ押せばいい。精神干渉の早撃ちで先手を取られても、一発目の精神干渉は耐えられる。絶対に。

 そして、同士打ちで電気ショックを浴びせてやる。これを喰らえば、2、3時間は意識がぶっ飛ぶくらいの、電圧で、そのリミッターは当然外してある状態だ。

 

 『痛み』はわかりやすい放心効果を生む。

 スタングレネードは閃光や音響で目をくらませる非殺傷兵器、として知られているも、厳密には知覚情報受信能に許容限界以上のものを叩きこむことによって、数秒から数十秒の間、茫然自失とさせるのである。『電気ショックによる昏倒』はまさにその系統の現象を生むだろう。

 

 そして、“蜜蟻自身と同じように”食蜂操祈は『痛み』への耐性が低い。

 Level4とLevel5の差はあっても、一瞬だけ生まれた『空白』に一手先んじて刺し込めれば、支配してのける自信がある。

 

 その危険性に勘付いたのか、リモコンを下げ、後退する蜂の女王。

 

 やはり動きは遅いし、そこまで来て怯むなど、覚悟が甘い。

 

 スタンガンの先端を食蜂の腹に食い込ませ、スイッチを入れた。

 どすん、と鈍い音が鳩尾から響く。

 決着(スパーク)は一瞬だった―――いいや。

 食蜂がこの部屋に、蜜蟻の前に立った時点で、決着はついていたのだから。

 

 

「選択を誤ったわねぇ」

 

 

 その身体――サマーセーターからぷすぷすと黒煙が吹き上げていながら、直立をしている。意識は、完全に、途絶えていないが、その衣類には確かに高電圧を受けた証拠として黒焦げが焼き付いていた。

 

「私たちにとって、発電系能力者(エレクトロマスター)は鬼門だってわかり切ってるんだし。その代表例で、徹底して反りの合わない<超電磁砲>と顔を合わせる度に摩擦力を生じさせて、時には火花が散らせたりしてるのよぉ。

 ―――電撃使い(ビリビリ)の対策力くらいして当然に決まってるでしょう?」

 

 “食蜂自身と同じように”、蜜蟻愛愉に刃物で人間相手できるほど技術も膂力もなく、また銃器には先輩が苦手意識を植え込んでいる。だとすれば、護身具として用意できる得物は、スタンガンくらいなのだろうが、

 女王蜂はまるっきり平気そうだった。意識も空白に飛んでいないし、よろけるほどのダメージを受けていない。

 

「ま、想定した御坂さんのよりはだいぶ衝撃力は軽めだったけど」

 

 ソックスと長手袋も含めて、制服の裏地が特注(オーダーメイド)の絶縁体仕様だったという話。

 そして、これから放たれる一手は、“最大”の戦力で、無理を通すようなもの。

 結局、どれほど策謀を仕込んでいたとしても格下に、大瀑布の激流を止められる道理はない。

 

 

「それじゃあ、食堂でのお礼にあなたが名前だけしか知らない“第五位の研究成果”を見せてあげるわぁ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 人間が自分から記憶を忘れるのは、それが不必要になったからではない。それを覚えていては危険だからだ。

 過去に犯した様々な過ち。それを覚えていては自我を崩壊させかねない記憶を、人間は意図的に忘れてしまう。

 そうすることで今の自分―――“健全で罪のない”自分と言う幻想を守っているのだろうから。

 

 上条詩歌が駆けつける前に、自ら“その記憶”を封印した。

 暴けるのは、同系統非干渉の定理を突き破るほど強烈な、更に演算力がブーストされた最上位の精神系能力者のみ。

 そして、それがあると確信したのは、同族の勘だ。

 

 コイツは自棄になったら、自分の記憶さえも改竄しかねない、という。

 

 暗い木々に囲まれた風景。

 ちょうど、彼女から逃げて、そして、彼から電話がかかってきた場面だ。

 救いの手が差し伸べられたと思い、その開口一番でどん底に叩きつけられた苦い思い出の……

 

 

 

『なあ、■■がどこにいるか知らないかっ?』

 

 

「……………どうでもいいでしょそんなの」

 

 聴こえないほどの小声だが、思わずつぶやいた。

 自分の安否を心配して電話をかけてきたんじゃないの。

 理解している。

 

 何も能力がなくても。

 超人的な体力がなくても。

 格段に頭が良いわけでもないけど。

 

 彼の行動力は何故だが、わずかなきっかけで縁が繋がっただけで多くの人を救うはずで。

 

 そして、彼の携帯に、一件の留守番メッセージを残したはずで。自殺を知る、きっかけがあったはずで。

 

 なのに、どうしてそこで、何の前触れもなく、知る由もない筈の、自分が望んだ演目にその名を書いていないはずなのに、彼女が現れたのだけど。

 

 そして、彼はまるで状況も何も知っていないように、救いを求めていたはずの自分に、■■の安否を気にしてる――――――――――――――――おかしいじゃないッッッ!!!!!

 

「■■さんは、大丈夫よ。今頃、寮に帰ってるんじゃない」

 

 平坦な声で、嘘をついて、でも、それだけで電話口の向こうで、心底の安堵の息遣いが聞こえた。

 

「……………ねぇ、この前の問題。どうして、あなたは私を助けようと思ったの?」

 

 私を選ぶって言ったよね、と。

 不自然な口先の揺れを伝ないよう、慎重に、確認する。

 彼なりに切羽詰まっている状況だったのかもしれないが、それでも問いかけに訝しみながらも答えてくれた、

 

『ああ、正直な。■■が“崖から落ちそうになるくらい”で危機的状況とは思えない』

 

 え?

 あれ?

 とろり、と重油のような粘っこい何かが、身体のどこかで流れた気がした。

 不安。

 異様なまでの不安が、理由が分からないまま胸の中に広がっていく。

 浮かんだ笑みが消える。頬が引き攣っていくのがわかった。

 

『むしろ、そういう状況になったら俺に選択させる間もなく、自分で崖を登っちまう。■■にそれだけの能力があるのを俺は誰よりも知ってるんだよ。

 だから―――あの例題は、“二者択一にはならない”んだ』

 

 自力で生還だろうから、“結果的に”お前を助けることになる。

 

 つまり、あの解答は、遠回しな自慢、信頼の表れで。こちらが求めていたのとはすれ違っていて。

 自分のことを救いたい一心だった―――そう思ってるいたなら、とんでもない誤解だと。

 

 確かに、身を案じるだろうというのは事実。

 不幸に見舞われたら、その苦難から救ってあげたいとも考えるだろう。

 けれどそれは意志半分で、もしもその残り半分が、

 

『むしろ無理してでも、救助者のクセに同じ救助者を救助しちまいそうだからな、俺の妹は、他人の不幸には過敏な奴なんだよ』

 

 ■■のためだったとしたら。

 

 ■■の周りから少しでも不幸がなくなるように。

 それぐらい。■■のことばかりを考えてた。今この時もそう。

 

 どこにいるのか、

 何故携帯の電源を切っているのか、

 気がかりでしょうがなかったかったから、自分に連絡を取った。

 きっと、この瞬間も何をしているのかって自問自答しているのだろうか。

 

 つまり。

 自分に対しての情は、哀れみに近いものだった。

 愛情という意味なら、そこにしかなく―――。思考がゴールに到達する。

 息が止まる。

 自分で自分の首を絞めているかのように。

 

『ああ見えて、不完全なとこが多い。ま、未完の大器って奴だな。

 何事にも夢中になれる感受性と集中力の強さは、万事を可能にするくらいだからな。

 おかげで、泰然自若でお姉さんぶっているけど、内面はびっくりするくらい純粋なんだよ』

 

 だから、微力でも俺が支えてあげなくちゃいけない―――そう誓うように彼は言った。

 たいていのことは一人で何でも成し遂げてしまうとしても、俺自身、兄としても、成長しないことには■■の役に立てない。この学園都市に来る前に、強く反省した。

 

『まあ、これが過保護なのは分かってるし、ただの自己満足かもしれない』

 

 言葉が万能でないのは、よく理解していた。

 しかし、無能な彼の言葉は無視できず、言外以上のものまで伝わってきてしまう。

 

 だって、きっとこう話している時も、彼の意識は、ずっと■■に固定されている。

 ■■の安全を第一に考えるのならば、視点を置くのは■■ではなく、■■の周囲であるべき筈で。なのに、■■の周囲にいた私のことを今、見てくれていない。

 そんなことはいちいち言われるまでもなく、そしてそれは紛れもなく―――

 

『だけど、“大切な人に対してはヒーローでありたい”と思うのは、どうしようもない願望でな。それができない愚かな自分を、俺はどうしても許すことができないんだよ』

 

 そういう、こと……。

 瘡蓋を剥がされたように、疼く。痛い。

 黒い感情がドロドロとしたタールになって、頭のてっぺんから垂れ流れて、脳神経の皺と言う皺の隙間に入り込んでいく錯覚。

 理解している。

 これは―――■■への憧れる気持ちだ。

 もちろん、単純な憧れなんかではない、その存在を潰したくなる感情。嫉妬よりももっとたちの悪い感情。

 そういったものが瘡蓋を剥がされてから垂れ始めて、もう爪先から首までを覆っている。

 身動きできない。口にまで迫っていて、呼吸もつらい。

 

 

 すぐに、通話を切った電話を捨てた。

 

 

「……嘘よ」

 

 そうだ、きっと―――

 彼は、■■に―――

 上条君は、■■さんに―――

 だって、上条君は、私が、私のことが―――

 

「じゃ、じゃないと、私は、―――あ…ああぁぁ…っっ!!」

 

 わなわな、と。

 暗がりでもはっきりとわかるほどに驚愕に目をむいた表情で身体を震わせながら、頭を押さえて後じさる。

 そして、3歩ほど下がったところでそこに木の根があることに気づかず、きゃっ、と短い悲鳴を上げながらその場に尻もちをついて倒れた。

 その背中が、小刻みに震えている。心なしか顔も、青褪めたように目の焦点が合っていなかった。

 

 そんなのはダメだ。

 そんなことを言われたら。

 それは反則よ。それはズルい、卑怯よ。あんまりだ。

 そう言うことをされたら私は―――――!

 

 

 

 そうだ。

 上条君は言っていた。

 ■■さんは他人の不幸に過敏だって……

 だったら―――

 

 

 

 心の傷を緩和するためか、直視し難い現実にフィルターをかけたのか、幻想に等しい妄想が回想にとってかわる。ありえないはずの上条当麻との会話を、たった今交わしたように錯覚する。

 多様な情報が取得する順序も不明瞭だった。霧の中を眺めるように漠然としていた。

 

 それでも結論は出た。

 

 

「……………そうだ。何もかもリセットしてしまえばいいんだ」

 

 

 誰といても■■のことしか考えられないなら。

 誰のことを好きになっても、それは、■■と比べてしまうなら。

 その人の、どこが■■に似ていて、どこが似ていないか、まずその評価が第一に来るなら。

 ―――■■が誰とも比べられない絶対であって、同時に、比べざるを得ない、評価基準なら。

 彼は■■を手に入れることはできないのだから、許されないのだから、

 

 一生幸せになれない。不幸のままで救われない。

 

 それは、ダメだ。

 だから、それを、消す。

 自分の記憶を消しても、その行動方針だけは絶対だ。

 

 そうすれば、■■から、解放することができる。

 ■■が隣にいても、■■のことを、思い出せなくなる。記憶できなくさせる。

 人の顔や名前を格納する部分で、■■の枠だけを、物理的に潰そう。

 できる。

 できるはずだ。

 もっと、もっと力さえあれば、彼の力でさえ上回るほどの改竄を―――

 

 

 場面は、映る。

 

 

「私は……私は■■さんが嫌いよ! どんな目に遭っても平気な顔して、何度でも立ち上がって! 周囲が敵になっても戦って、悪意を向けられて邪魔をされても、違う方法を見つけてその妨害を飛び越えてしまう!」

 

 そして■■の周りには、いつも知らないうちに仲間ができて、その中には敵だったものもいたのに、■■を支えようと無茶なことでもしてしまえる。

 

 私にはできなかったこと……私が無理だと諦めてきたことを、全部形にして!

 

 何であなただけ、そんな幸運に恵まれているの!? 何で私には、あなたほどの機会や環境、仲間、そして力を持つことができなかった!?

 

 私は、それが納得できない……! 納得できないのよッ!!!

 

「あなたは……あなたの存在はね、私の今までの生き方をすべて否定する。

 誰も彼もが私を裏切って、貶めて! 何もかもが信用できなくて、どうしようもなくてッ!

 ―――私は上条君に助けてほしかったのにッ!!!」

 

 いや、本当は頭では分かっている。

 間違っているのは自分で、本当に正しいのは彼女だと。

 自分に足りなかったのは、運でも力でも、才能でもない。―――ただ一つの、勇気だ。

 努力や我慢は、いつかきっと報われるもの。

 不遇や辛苦は、いつかきっと終わるもの。

 そう信じて、願って、祈り続けながら、常に前を向いて足を踏み出す、強く固い意志こそが、未来への階を積み上げていく。

 

 だが、それを蜜蟻は、ある場所で捨ててしまった。そして思いつく限りの言い訳と、自己弁護を重ねて―――ただ、逃げ続けた。

 

 それが、今の自分と彼女との決定的な違いで。

 そんなこと、今さら言われなくても、分かっている。十分すぎるほどに、よく分かっていた!!

 

「だから……だからっ! ―――アナタのことを認めると、私はひどく惨めで、つまらなくて、情けないものになってしまう。

 私が泥をすすって這い上がって、血の滲むような想いで積み上げてきたものが全て、ただの石ころに思えて死にたくなる。だから―――」

 

 

 わかった、と。

 ■■――上条さんは、それ以上の愚行を止めるべくその身を折る労苦を懸けて立ちはだかった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 “圧倒的な力技”で覗かせてもらったけれど。

 やっぱり、先輩が恐ろしくなるのは隣にお兄さんがいない時だ、とその記憶を見た感想はあるが、“あれは相当急いていた”のだろう。

 そして、やはり、とひとつの確信ができた。

 

「彼女は、私には壁。

 

 私は、あの日、あの時、彼に来てほしかったのよぉ。

 

 自ら命を絶とうとしておいて、何を無責任ではた迷惑で強欲など思うかもしれないけれど。

 

 彼には何の能力もない。超人的な体力もない。格別に頭が良いわけでもない。……でも、彼の行動力は何故だが誰よりも多くの人を救う。

 

 けど、だったら、どうして、私の場合だけ奇跡が成立しなかったと思う?

 

 何の理由もなく、歪んだ結果は起こらない。

 

 どうして……私にはヒーローが来なかったのよォォォおオオオオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 人を殺すと狂乱した人間が、良心の呵責を理由に自殺するなど、信じられない。後悔するなら最初から殺そうとするなど考えもしない。

 

 ただ、状況が、彼女を殺す――口止めが不可能な状況下にあっては、選択肢は一つしかない。

 

 ハジマリはただの嫉妬だ。

 だが、そのせいで。

 上条君が上条君以上に大事な者を殺そうとした事実。幻想ではない、真実。

 上条君は上条君を不幸にも害した者さえも助けるようなヒーローだけど。

 上条君に例外はある。81もある竜の鱗にたった一つだけ向き(ベクトル)が逆のものがあるように。

 上条君の“逆鱗”に触れてしまったら――もしもそれに追い詰められたら――本気で嫌われるから――敵に回してしまうから――私の希望はなくなった。

 

「もしもそうだとしたら余計に腹が立つわねぇ。人を一人殺しかけておいて、それなのにそれとは別の理由に悩み記憶を抹消しようとするなんて―――あなた、犯人になる資格すらない」

 

 助けてほしかった、なんて。

 嫌でも心に残る。

 告白されたというのが最期の記憶だったら綺麗な物になるかもしれないが、最期の言葉が恨み言なら、一生忘れられない思い出に、存在になれて望むところなのかもしれないが、

 あなたのことが好きだから、自分のことも好きになれ。

 なんて、脅迫もいい所だ。

 残念ながらあのお兄さんは人助けには異常なまでに精を出す性分だが、相互主義者ではない。もしあのときに会えば、どうなっていたかは結果に目に見える。そして、あんな醜態をさらしてしまえば、二度と会いたくなくなるだろう。

 

 先輩って、ブラコンだけどお兄さんに彼女ができることを特別止めようとはしないのよねぇ。自分の不幸より、その幸運を優先しようという……

 

 だから、『今のあなたを会わせるわけにはいかない』、と同じ人が好きなもの同士として言ったのだろう。が、それを相手に理解できるとは思わないし、させようともしていないのだからしょうがない。

 

「蜂のお嬢さんに……私の気持ちの何がわかる……っ」

 

「少なくともピーピー泣いてる小物だってのはわかるわねぇ。あなただって結局は怖いだけなんでしょう? “上条君”がアナタを受け入れてくれるのかどうかわからないから怯えてる。“上条君”がアナタの味方になってくれるかを疑ってる。だから、あんな試すような真似をした」

 

 気持ちは自分のことのように良く分かる。

 自分のことだけに良く分かる。

 自分のことだけど良く分かる。

 

「『上条君に嫌われたらどうしよう』―――そして、『嫌われなかったとしても』、『そんなことをしても嫌われないほど、自分が取るに足らない存在だったなら』―――」

 

「―――……あはは」

 

 蜜蟻は急に、急速に感情を、その表情から消していき――正も負もフラットに感情を削っていき――こぞって暗転するように反転していき――空々しいまでに無表情になった。

 そんな項垂れる蟻の女王に、蜂の女王はさらに、その“勘違い”を正していく。

 

「……アト、お兄さんが来れなかったのは、私が原因よぉ」

 

「…………………………………………………………えっ」

 

 その言葉は、完全に、蜜蟻の思考を、一瞬止めた。

 何を言われたのか、解っているのに、頭が理解を拒絶する。

 

「何を……言ってるの。彼女が、彼へ届くはずだったもの握り潰して……」

 

 それは、ありえない。

 あの兄妹が、他人の不幸に対して、そのような利己的な行動はとらない。どこまでも滅私で、利他的な効率を優先する。

 愚兄に届いたメールを見て、それを消してから、代わりに自分が助けに行った―――なんてしないのだ。“一緒に来る”。それは間違いない。兄妹を知るものなら、当然行き着くはずの答えであり、ならば、“賢妹だけが来た”理由は明白。

 

「ちょうどあの日は、私がお兄さんと初めて会った―――そう、歓迎会での先輩への仕返しで、お兄さんにちょっかい出して、とても電話が取れる様な状況だったと思うわぁ。私がそのアリバイ力を保証してあげる」

 

「で、でも、彼に私のメッセージは……」

 

「そういえば、あなたも私と同じ“機械音痴”なのよねぇ……

 最後の記憶を見させてもらったけど、あなた。お兄さんと先輩――兄妹だから当然、同じ姓なのに、ちゃんと、履歴を確認したのかしらぁ?」

 

 脈打つ心臓の鼓動。ときに激しく、時に驚くほど緩慢になるその音が耳に直接聞こえてくる。脳裏には、焼き付いていた“彼”との思い出が、“彼”と“彼女”のもの二つに分かれて、区別されていく。

 

「あ……」

 

 口から勝手に零れ落ちるだけの呟きは、大気に溶けて淡く消えて、

 その手から離れ落ちたスマートフォンを食蜂は拾い上げる。そして……

 

 何故今になってなのか、あるいは今だからなのか―――蜜蟻の記憶の断片がその空白を埋められて、それ以前の“誰かとの”会話までまざまざと蘇ってきてしまった。

 

「解りやすいように、もう結論力だけつけてあげる。

 アナタは、八つ当たりする理由と相手を、あの腹黒先輩に奪われたということよぉ」

 

 まったく。

 あの先輩は本人の知らないところでも、借りを積み上げていく。返済させる気はさらさらないに違いない。

 完全に動きまで止めた女王蟻の姿に、鼻に皺を寄せた女王蜂が憎々しげな目線を向ける。

 

「なによぉもう、私のあまりに上品力な言い回しに、頭の回転が止まったのぉ。

 それとも停学中の愚か者にも解るように、もっと下品力な言葉を使わないとダメかしらぁ。

 しょうがないわねぇ。アナタは被害者ぶってるけど、唯の勘違いした、それも恩知らずの無礼者よぉ。

 さ、これで理解できたかしらぁ?」

 

 もっとも、先輩がそう勘違いするように仕向けたのでしょうが無いでしょうけど。下手に自殺されるよりは誰かを恨みでも生きる気力があると思ったのだろう、またどうあっても勘違いさせてしまった愚兄にその矛先を向けさせまいとしたなどと……肩を竦めながら呆れたように深い息をつく。

 

 食蜂のその仕草に、もしくは記憶の整合性が治ったからか、蜜蟻の止まっていた思考が、堰を切って滝の如く零れ落ちる。

 

 おそらく、“それ”も無意識に行っていた心理的な自己防衛だろう。

 その記憶を第三者として読んでいたから気づけたが、いつからかあの兄妹との会話が、ごちゃまぜになっていた。

 蝶と蛾に生物学的に大きな違いはないように、蟻と蜂が膜翅類という大きなくくりに入るように。

 あの正反対のような兄妹は、本質は血は争えないというほどまったくの同じなのだから。

 認めてくれるのを、上条君。

 見捨てたのを、上条さん。

 と“()”と“彼女()”の分別がいつからかつかなくなっていた。

 思い出も、アドレスも間違えてしまうほどに。

 

 もしも愚兄に会っていなければ、これほどまでに賢妹を憎むことはなかったかもしれない。むしろ、賢妹の親友となっていた可能性さえある。

 

 心底で、蜜蟻愛愉は、賢妹を尊敬している。あるいは、憧れている。だからこそ、余計に悪意が増幅してしまった。

 

 その意味では、“兄妹”一緒ではなく、“()”と“(彼女)”と別々に関わりをもってしまったことが、蜜蟻にとって不幸であったのかもしれない。

 

 無論、それだからといって、蜜蟻の採った行動が正当化されるわけではないのだが。

 ただ、あの瞬間で、『愚兄に送ったはずのメールが間違えてこっちに来た』と先輩は、蜜蟻の不幸が何なのかを察しただろう。

 

 そして、それが原因で蜜蟻が能力の暴走を起こしていたことも。

 

 あのとき起こっていた、急激に、彼女を中心に“渇き始める”異常現象。

 <心理穿孔>は、<心理掌握>と同じ、人間の脳内の“水分”を制御することで人の心を操るもの。ではあるが、特別人間の脳内にのみ限定されるものではなくて、実際にあの先輩はジェットエンジンの燃料液の組成を変化させることもしていたのだ。しかし普通であれば起きる現象は顕微鏡クラスになるもので、肉眼で目にしてわかるような物理現象は起こせない。

 その常識を、激しい感情が塗り替えた。

 現象としては、フリーズドライに近いものだろう。空気中の水分を圧搾させて圧力を高めると同時に、対象の内部から一気に水分子を抜き取ることで、乾いたスポンジのように物体の組成をミクロレベルで穴だらけにする現象。その干渉下に入れば、ただ漠然と生物を乾いた紙粘土のようにボロボロになるだろう。―――暴走した能力者も例外ではなく。

 

 あのままいけば、蜜蟻愛愉はミイラになって死んでいた。

 故に、“あのような手段”をとった。

 自分の身をも滅ぼしかねない怒りを“理解も出来ない恐怖”で塗り潰すことで、魔の領域を薄めていくことに成功したのだ。

 ……まあ、一度似た様なトラウマを刻みつけられた心情としては、ブレーキがなくて容赦がないとは思ったが。

 

 踊らされたのは、魔女の掌の上。

 だが、それで傷ついたのは、唯一人、魔女のみ。

 

 こんな残酷な踊らせ方はない。

 こんな酷い嘘つきはない。

 

 恋敵だと、憎み恨んでいた相手は、ただの命の恩人で。

 

 謝罪の言葉も、感謝の気持ちも伝えずに、あんな……

 

「……、……」

 

 胸が、搾め木に掛けられるように痛みだした。強く押さえた手の指が折れんばかりに軋む。自然発生した苦しみが涙に代わり、一気にこみ上げてくる。女王蟻は自らの鳴き声を聞いた。落涙は止められそうにない。

 

「こんなの―――こんなのってないっ」

 

 同じ痛みを返され少女に戻り、その椅子に縋りながら、哭く。

 この感情に任せて、ただひたすらに泣く。

 

 

 それが紛れもなく本心からくるものだと見てとれた。

 

 

 ひょっとすると、蟻の女王がこの相談室にいたのも、帰巣本能のようなもので彼女の元に訪れたかっただけなのかもしれない。

 だけど、今の彼女はそれにさえ頼ることができなくなったというのなら。

 真相を暴いてしまった、またそこまで追い込んでしまった本来自分が負うべき責任として、

 何よりも、もう、見捨てることはできなくなった。

 

「いまさら何を後悔したって現実力なんか何も変わってくれないかもしれないけどぉ。元々、あなたの引き継いだ派閥力は私が吸収したわけだし」

 

 改めて。

 その手を出しだすように、食蜂操祈はこう宣言した。

 

 

「“今は先輩に頼り辛いだろうから”、“今だけ先輩たちの代わりに”、“全ての清算がつくまで私があなたの面倒を見てあげるわぁ”♪」

 

 

 

つづく


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