とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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常盤台今昔物語Q&A 近蛛(朱)者赤

常盤台今昔物語Q&A 近蛛(朱)者赤

 

 

 

 常盤台学生寮

 

 

 この学園都市に来る前の幼馴染は、幼稚園や近所の子供たちの間の中心にいるように努めていた。

 それは誰か一人が傷ついているのを庇えなかった彼女の後悔からであり、ならば自分自身がその場を支配する上位者であれば、虐めや誰かが傷つくことがなくなる。

 

 たった一人で大人に頼ることもできず暴漢から襲われた―――のに、家族以外の誰も心配せず、どころかその暴漢を英雄視する者までいる始末に、腸が煮えくり返るような想いだったとしても、その怒りを誰かにぶつけるようなことはしなかった。

 

 あの時、無力だった責任を負う、正しい解決方法で―――。

 

『なるほど。まいったね、その頃からっつうよりあの後すぐに完成させちまったわけか。何の利益にもならない霧のようなもので満足する、霧を食う仙人みたいな性格は。

 ったく、普通じゃないよ。初めて会った時からまともじゃないとは思っていたけど、小学になる前から我欲を捨てられるほど理性なんて早熟にもほどがある。

 あれがブラ……大変な家族想いでそのプライベートな時間確保が理由なんだろうけど、そのおかげで『派閥』を作らなかったのは成功だったと思うさね』

 

 それが学校で明るみに出たのは、自分がまだ入学前――幼馴染が今の自分と同じ一年目の新入生の頃、学校の理事長の孫の弱みを握って脅していた、当時最大の『派閥』を率いていた最高学年の生徒と対峙したことか。

 脅迫行為のすべてを調べ挙げられて、さらにはのこのこひとりでやってきた格下(Level3)の新入りに、当時誰にも止められなかった格上(Level4)の『派閥』の長は決闘というカタチで格の違いを見せつけ、口封じさせようと―――実際には、その『派閥』の長だけでなく、最高学年の取り巻きの子数人にも囲まれたそうだが、

 能力以外(鬼の寮監仕込みの護身術と口先)の技を駆使して、

 個人が、かつての五本の指の中の最大勢力を、多勢に無勢の定理を覆して、下剋上をなしえてしまったことだろう。

 

 それはもう秘匿された情報なのだがあっさりと教え(バラし)てくれた、幼馴染を挟んで長い付き合いのある鬼塚陽菜が曰く、『革命を起こしたけど、革新はこれから』と更に語る。

 

 不祥事は秘密裏に解決されたため表沙汰にはならないが、それでもあの場には他に大勢の耳目があった。学生の噂としては流れた。格下の新入生に負けた最高学年の『派閥』

いられなくなったものもいるし、見限ったものも当然と出てくるだろう。だが、その崩壊を瀬戸際に止め、組織を全盛期以上に回復させたのだ。

 

 それは奇をてらったことをしたわけではない。

 敷いた厳格なルールをつくったわけではない。

 脅しかけるような罰則を用いたわけではない。

 容姿能力をことさら見せつけたわけでもない。

 

『―――やったことは大まかに二つ。

 『派閥』に入っていた、まだ残っている学生たちの学外学内に問わず生徒個人の成績を厳正に評価したことと、それを日毎にその相手に報告したこと。たったその二つだけ』

 

 これまでは、『派閥』は生徒間の自主自立の一環として教師陣には見られており、学期ごとに成績表の査定はあった。

 

 幼馴染はそれとは別に第三者視点で見たのだと。

 励めば、励んだ分はその日のうちに、目にみえる形となって現れてくるようにしたのである。

 

 ただ、いうまでもないが、離脱があったとはいえ元々最大組織だった『派閥』に残っているのは10人や20人ではなく、各々の能力研究課題も多岐に渡り、得意とする分野も其々に違う。これらすべての勉学ぶりを正確に把握することなど出来るはずはない、と一様に考えた者も少なくなかった。

 

 だが、この考えはその日のうちに覆される。夕刻に各個人に送られた査定(メール)に文句をつけた者は一人もいなかったのだ。まるで、一日中、自分たちの勉学ぶりをつきっきりで査定していたのではないか、と思われるほどに幼馴染の評価は正確であった。おまけに、一日の寸評(良い点、悪い点をしっかりと分けて書いてあり、私見の改善点まで事細かに添えられていた)付記されており、これまたぐうの音も出ないほどに正確なものばかり。

 

 『派閥』の学生たちはあちこちで声をひそめて語り合った。

 

 ―――彼女、本当に人間なの? ……あれオカルトとか、そういった類のものだとしても驚かないわよ。

 ―――そんなの、あの時に十分に思い知ってることじゃない。言いたくなるのはわかるけ。

 ―――細かいことは良いじゃない。今重要なのは、彼女は私たちを見ている。教師よりも、ね。

 ―――ええ、停滞していた私達だったけど日に日に成長する実感が今ある。ま、『派閥』というより個人個人だけど。

 

 このように学生たちの話題は幼馴染のことでもちきりだったが、その評判は概ね好意的なものであった。

 

 一度は敵対し叩き伏せられた相手であるゆえに話しかけるのには勇気がいるが、いざ話してみれば、愛想がよく受け答えも丁寧かつ明晰であり、長幼の序を破る様子もない。こちらの名前だけでなくこれまでの表彰成績も完璧に覚えて、付き合いにも趣味から差し入れされるのに好物まで知られているあたり、上級生たちへの心遣いは、これまでの下級生のモノとは比較にならなかった。

 そして、一日でも幼馴染のマネジメントを受けてしまえば、そのやり甲斐は先日までの比ではない。その日の毎に形にされる評価査定。幼馴染が『派閥』に所属する学生らに提示したのはそれだけであったが、それだけで十分だったのである。

 

 この時点で、大半の者は幼馴染から送る言葉文面を無視できなくなり、むしろ進んで求めるようになり、評判を聞いて自分から頼みに来る学生も現れる始末で、その数は日を追うごとに増えていくばかりであった。

 ただ、当然のように全員が全員幼馴染を認めたわけではない。反発する者や壊滅にされたあの一件を恨む者たちも少なくなかったし、隠匿されたとはいえ、弱みを握られていることに恐れる者もいた。

 

 ある日、彼女らの中でも特に過激な者たちが、寮へ帰途につく幼馴染を取り囲んだ。

 

 彼女たちの数は10人あまり。それ以上の数で囲んで敗れたこともあって油断なく、首謀者の女学生はその能力を展開させながら、居丈高に幼馴染に詰め寄って声を張り上げたが、幼馴染の方はまるで動じた様子を見せず、脅し文句にも泰然若然と応じるばかり。

 その姿を見れば、幼馴染が周囲を取り囲む彼女たちに何の脅威も感じていないのは明らかで、静かで冷静な態度が逆に火をつけてしまう。腹を立てたその中で唯一の同級生が後ろからヒステリックにも叫びながら乱暴にその肩を掴もうとした。

 だが、次の瞬間、彼女の身体は綺麗に宙を舞っていた。鈍い音と共に、その身体は地面に叩きつけられる。

 そして、苦痛のうめきをあげる仲間の声に、一拍だけあの一件で対峙した回想が脳裏によぎり足が止まったが、鼓舞するように首謀者も周りの学生たちを煽り立て、たちまちのうちに周囲は騒然とした気配に包まれていった。

 

『あの時は、連絡が入ってねー。といっても、救援じゃない。電話でお願いされたのはおすすめの店で菓子を買ってこいっつうパシリだった。『このあと庭で宴会を開くから』ってね。

 で、お金も全部あっち持ちだったから、<屋台尖塔>の甘味処トップ10を制覇せんとちょこちょこ買い食いしながらしこたま集めて戻ってきたときにようやっと陰険陰湿な企みがあった事を知ったくらい。

 ―――心配しなかったんですか、だって? しないよ。いやいや、狙ってるやつらがいることは気づいてたよ。でも、庇う必要はないでしょ。きっちりぶっ潰さなかった自業自得だよ。まあ、ああいう奴ら嫌いだし、頼まれれば手伝ったよ、『陽菜さんが暴れた二次被害を収拾する方が大変ですから大人しくしててください』、って逆に止められてたけど。

 ―――助けは必要ない。一度目で実力差もわからん井の中の蛙――経験不足の世間知らず箱入りお嬢様なんて、赤子のようなもんだよ。簡単に捻れる。だから、能力者なのに不良(スキルアウト)にびびっちまうんだろうし。それに対し、あの聖母様は笑顔で不良(スキルアウト)をびびらす。大人と子供の実力差、大人と赤子の経験値差さね。

 子供の癇癪に大人は真剣(マジ)で相手しないし、泣いた赤子を上手にあやせるのが大人ってもんだよ。

 だから、自分を囲んだお嬢様を全員で“面談”したんだろうね―――』

 

 しばし後。

 幼馴染を取り囲んだ学生たちは、全員がその場に倒れ伏していた。

 逃げ出すこともできずに地面でうめく彼女らの姿を、幼馴染はじっと見つめていたが、やがて彼女らが動けるようになると、ついてきてほしい、と一言いい置いてさっさと歩き出してしまう。

 残された者たちは呆然とするしかなかった。それは逃げ出すには好機であったが、なぜかひとり残らずとして幼馴染の言うことに従った。恐れ入ったというよりは、もうどうにでもなれ、と捨て鉢になったのである。

 

 で、その後、襲撃者たちを学生寮へ連れてきた幼馴染は、寮監に話を付けると、庭に茶会を用意し、そこで自ら茶と菓子を提供し、ひとりひとりと話をして、時間になると彼女らを咎めることなく帰宅させた。何がなんだかわからないまま<学舎の園>に戻った彼女たちは、その翌日、自分達の<開発官>の教師陣の補佐としてだが、未曾有にも学生――幼馴染が取り立てられていることを知り、放心して立ち尽くすことになる。

 

 世界に通用する人材育成として自主自立の精神に基づき、その担任に自らを売り込んだそうだが、それまでの非公式のものとは一線を画していた。

 

 その一学生の抜擢には、孫を目に入れてもいてくないほど珠玉とする理事長からの推薦が背景にあって、異例と学校中の人間を驚かせた。

 

 明らかな敵意を向けたはずの首謀者とその取り巻きは、自分達のサポートに幼馴染が志願した。何事が起きたのか、と首をひねるのは当然であったろう。

 しかも、『次の学期末の評定までに、全員に目に見える成果を上げて見せます』と公言したのだ。

 

『―――驚くより呆れる、ってか。そりゃあ幼馴染の世話焼きを侮ったね。

 泣いたのをあやしたら、当然赤子らの御守(ベビーシッター)までセットさ。自立するまで面倒みるってもんだよ。まあ、これは二度も馬鹿をしないようしつけも兼ねていたんだろうね。

 周りは美琴っちみたいに止めようとしたけど、私は好きにやれとさえ思ったね。むしろもっとやれって私は煽った。その分、私の監視は緩くなるし、こっそり賭け事(トトカルチョ)をして……速攻で寮監にばれたけど』

 

 クラスメイトや同寮生だけに留まらず学生らの中に発言の撤回をするように再考を促す者も当然いた(約一名ルームメイトだけは煽りに呷った)が、幼馴染は忠告には感謝したものの、忠告それ自体をとりあげることはせず、宣言通りマネージャーとして襲撃者たち傍に赴いた。

 そして、これでもか、とばかりに扱き上げたのである。

 

 ……いや、これは正確な表現ではないかもしれない。幼馴染はことさら彼女らを虐めようとしたわけではないのだから。本人でも気付かぬうちに生かさず殺さず半殺しにする技術が神業だと思うが。

 

 人をその気にさせる上手さが尋常ではない。

 襲撃者らにしてみれば能力のLevelが上がらなくても後輩の戯言と処理すれば恥をかくのは後輩だけで自分達には何の問題はないわけだが、その後輩が自分達の弱みを握っていると不安に駆られたから迫ったのだ。幼馴染がそう警告したわけではないにせよ、襲撃の件も含めて学校社会における生殺与奪の権を握られたも同然の彼女らとしては、そう考えざるを得ない。

 

『ふふふ、ありがたいことに皆様とは親しいお付き合いをさせてもらっておりますので、学校生活は楽しいですよ』

 

 と当時、月に一度は必ず設けていた常盤台中学の学校生活について一受験生として話を聞く席で、幼馴染はカップを手に取り、香気を楽しむようにゆっくりと口をつけてから、そう言った。

 権謀が入り混じる伏魔殿と化した学校裏の『派閥』同士の抗争競争が大きく改められようとしていた、その中心に幼馴染がいることは教員学生問わず学内の誰もが認める事実なのだが、のんびりとお茶を飲む当時の幼馴染を見て、小学六年生の自分はそれと察するには流石に無理があった。

 

 結果、彼女らは『学生による学生のための学生のプロデュース』という新たな試みの下で背水の陣または一蓮托生と日々研鑽することとなり、劇的な改善を見せるようになる。―――そしてその功績は当然、成績査定や能力強度(レベル)の上がった能力者が目立ち、開発補助官(マネージャー)はその輝きの陰に埋もれた。

 

 ―――ひとりの兄を持つ妹ですから。年長者を立てるのが身に染みついて癖となっているのですよ、とは幼馴染の弁である。

 

 だが、Level3の彼女が縁の下の力持ちとばかりに記録には記されないが記憶に残る無償貢献(ボランティア)が次の相談次の相談を呼び込み……

 かねてからあった問題――超能力者という頂点がいなかった時代故に、発生した。『“強”能力者(Level3)“大”能力者(Level4)の意識格差』、暗黙の了解で仕切られていた劣等生と優等生――『強大差別』にも取り込んでいき……

 やがて、根の活動を精力的にしているうちに教師とは別の相談役の地位(ポスト)を確立していくことになる。

 

『『強大(きょうだい)差別』に関しては語呂が気に食わなかったのもあるだろうけどね? うちの学校に在籍してるだけで、その才能は額縁付きで保障されているようなもんさ。だからそんなことで、腐らせるのはあまりにもったいないって言ってたね』

 

 出る杭は打たれ、啼く雉は撃たれる派閥政争に優劣差別、それらは思春期の精神状態で左右される超能力に影響を与え、中にはそれに巻き込まれたくないと無意識のうちに目立たぬように抑圧された子も少なからずいた。

 

 そして、学内の環境問題が改善されても一度付いた勢いは止まらず、ついに学外へ、園外へ、区外へと悩みを拾う行動範囲を広げていった。

 

 たとえ向き合うことが難しい力でも、それを才能を自殺させるような強制的な方法で制御しようとするのは、低位の考え方。

 動物が本能的におびえる火さえ、人間は生きるための料理に利用しているし、震える人を温めることに活用できる。

 その力を使う人間の意志で制御できるよう、またその力で誰かを傷つけないよう、その助けになりたいと。

 ただの自己満足のために、他者に働きかけ続けた。

 

 

 そう、『派閥』に入り、もしくは作り、己が上に立つことに拘っていなかった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ある学生は宿舎の窓を開いて、ある学生は携帯を片手に、またある学生はごく真面目に用意された観客席に集まって、チャリティオークションが終わり、ピアノの運ばれた壇上を見上げている。

 その焦点は、身体の中心を直接炙るかのような激しい熱。集まった全員の視線と興味とがないまぜになった、激しく荒々しいまでの圧力。

 

 そんな、人の気配と時雨のようなざわざわとざわめく様子が―――ぴたり、と止まった。

 

“ああ……”

 

 一斉に溜息を、漏らす。

 それは、シルエットさえも、美しかった。

 黄金律という。

 人間が本能的に美しいと思う数字の比率のことであるが、これが生物にも適用されると言われ―――ならば、人影はまさしく黄金律の化身であろう。

 

『―――常盤台中学二年、上条詩歌』

 

 そして、その眉宇と鼻梁の長さを黄金律に形作る微笑に、いったいどれだけの人間が魂までも捧げるだろうか。

 そこにいるようで遠くに見える幽玄な風貌は、男性のみならず女性の興味も掻き立てるが、騒ぎはしない。神聖、とでも表現すべき雰囲気。折り紙を重ねたような美しい振袖の舞台衣装も、彼女の甘い秘能を、更に幾重にも隠すかに見え、そこには世界から隔絶されているかのような超越感があったと幻視される。

 つつましくゆっくりと舞台へと歩を進める。見る者が見れば、その歩幅がミリ単位で同一だったことに気付いたかもしれない。

 

「はい」

 

 少女の声音には特別な艶が聞き取れる。

 カリスマと言ってもよい。

 騒がしい思春期の学生たちが、一声で静かに座してしまうような、確かな『芯』を持った声音。けして威圧的ではなく、ゆっくりと聞く者に染み入っていく言葉。

 さて、それで少女は、緊張してるのか。

 いいや、その表情は緊張とは対極―――まるで合戦前の軍師のように不敵に微笑んでいるのだ。

 むしろ、この内側の何かを励起するかのような、心地よい熱さに、心臓は常より高くなって、少女の指先まで血を押し上げるように思えた。

 

 左胸に手を当てて、しばらくしたら、ピアノの鍵盤部の蓋を開けた。両手を鍵盤に這わせる。

 どんな曲が奏でられるのだろう、観客は固唾を呑んで耳を澄ました。

 ところが、数秒経っても、何の音も聴こえない。演奏者は虚空を見つめたまま、身じろぎ一つもしなかった。

 さらに数十秒経過。

 

 演奏者は無言のまま。鍵盤を眺めているが、指は動かそうとしない。

 

 “…………………………………………………………”

 

 辺りに沈黙が降りてきた。観客席は静まり返っている。本来なら演奏が鳴り響くはずのコンサートなのに、無音

 静寂の中、時は過ぎていく。

 

 それは実際にはわずか数分の出来事なのに、数時間が経過したように感じられる。

 

 観客の人々も同様らしい

 流石にざわめきだし、どうなっているんだあの娘、どうして弾こうとしないんだ、と。

 

 だが、彼らはやがてそれを知る。

 自分らは、引き込まれている。

 この、静寂こそが彼女の表現であり、そして、無音のメッセージなのだと。

 

 きっちり273回の鼓動を測り取ってから演奏者の右手が鍵盤から離れて、また左胸に添えられた。そこからしばらくして、詩歌はおもむろに鍵盤から指を放し、壇上の前に出るとマイクを取り、

 

 

「驚かれた方もいるでしょう。ただ今の曲、『4分33秒』は―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 静かに、無音の衝撃が屋上を走り抜けた。

 悪夢が、晴れる。

 暴走した磁力操作により能力者のイメージを形にしていた磁性制御モニターが、粉末と成り風に散る。バラバラバラバラ!! と砂袋から中身をばら撒く際の音と一緒に、見ていた眼球も、何もかも、消え去っていく。

 

 意識が、醒めると屋上に現れた“誰か”はおらず、

 去り際に、倒れていた自分達に助けを呼ぶと言っていたような気がする。

 寮監でも呼びに行ったのだろう。

 そうして。

 悪夢の幻想は消えて、楽になったところで、幼馴染の解説が耳に入った。

 

「なるほど、これが“ロスタイム”ね」

 

 そのカリスマあっての説得力なのだろうが、これは頓知だ。そして“ロスタイム”(アレ)をやる度胸はすごい。呆気にとられて馬鹿のような反応しかできないくらいに。

 何度も何度も思ってきたが、あの幼馴染は斜め上を行ってるわね、と心の中では色んなものが渦巻いている。思考パターンがさっぱり予想できない。

 “ロスタイム”(アレ)は、説明なしでは只管に疑問符が浮かぶ、けれど、説明を受けそれを理解した瞬間、観客は人生の価値観に大きな影響を受けるほどの衝撃を呼ぶだろうという類の。

 

 それは、音楽でありながら、楽譜に休止(tacet)しか記されていない。詩はなく、波はなく、情はなく……演奏なのだが、伴奏(おと)の無い曲。題はあるのに。

 とても、“あの”幼馴染が弾こうとするのは考えられないのだが、全くこちらのお望み通り、何もしないをしてくれた―――って、それだと蜂蜜好きの黄色いクマさんになる。

 そう。

 今、幼馴染は、音楽を弾いたのではなく、“引いた”のだ。衆目を集める舞台に立つからこそ赫々と際立つただひとりの沈黙が、世界から音を消した(殺した)かのような静寂を生む。

 

『この『4分33秒』は、音楽を讃えたものだと私は思います。

 演奏というものは、必ずしも楽器を奏でる技術を魅せたくて弾いているわけではありません。

 作曲をすることになった経緯、想像を超える意外な動機、観客を感動させる山場、あるいは普遍的な条理から逸脱した発想……そういう激流とも言うべきダイナミックな人間のうねりこそ、観客の興味を惹き込み、強い満足感を与えます』

 

 文章にすれば『壇上に相応しい』お堅いものであるも、ただ淡々と文章を読む校長先生のお話とは違い、これは要所要所で身振り手振りを交え、言葉に抑揚をもたせてドラマチックの波を作っている。『音読』ではなく、『演説』であり、その引き込むまでの歌うような発声と踊るような所作は、『演劇』とも呼べるレベルかもしれぬ。

 

『けれども、近代において、新たな音を楽しむことは過去の偉人たちが残した名曲が人間の視聴域できる限界点に行き着いたことで、極端な話、名曲を創り上げた音楽家が現代に現れても作曲は難しいもの。肩を並べよう、また追い越そうとより複雑に音を編んでいくには、過去を塗り替えるほど強烈なエネルギーが要ります』

 

 そう、全ては過去の模倣から離れる為に。

 偉人たちに並ぶには偉人たちの残した曲を引く、言い換えれば、既に成し遂げたおさがりを真似るのではない。

 偉人たちの影に追いつこうとするのなら、自らも産み出さなければならない。

 音楽はどんどんとその流れが加速し、複雑となりつつあった、けれど、演奏も演奏家の技量の限界に達し、音もすでに一般人の耳が理解できる限界を超えてしまっている。

 先が、ない。

 音楽というベクトルは、終わりを迎えようとしていた。

 20世紀に入ってからもいくつか例外はあるものの、停滞してきていた。

 

『しかし、この『4分33秒』は複雑さの真逆、単純さこそを追求したもの。だからこそ、見直せた。それまで現代音楽の在り方に一石を投じる革新的な、そして単純明快なひとつの答えになった』

 

 ある音楽家が『音の無い世界』の音を聞くために、無響室に入り作曲したのが、『4分33秒』。

 しかし無響室に入っても、音楽家は音楽家自身の、全身に血液を流す鼓動、脳から神経系に電流が走る音を聴いてしまうのだが、そこで音楽家はひとつを知り、そして『音楽の将来(さき)は潰えることはない』と悟る。

 

『この事実は翻って、人がどれほど刺激を求めているかを表している。なんとなれば、どんな場所であっても生きている限り音が切れることはなく、誰もが音という刺激に無関心な世界であったら、感動させる音楽もただのつまらない雑音になってしまうから。

 『4分33秒』では、一切の音を奏でていません。

 だからこそこの音楽自体は、果てしなく沈黙で無感動です。5分以上は場をもたせることはできません。

 “だからこれは、音楽礼賛の作品です”。

 もし今、観客である皆さんが肩透かしを、脱力感を感じたのなら、それほど音楽に期待していたということ―――飢えていたと言ってもいいでしょう』

 

 与えるのではなく、与えないことで刺激の実感を確認することができる。

 複雑に過ぎて聴き取れない音調を作曲家が押しつけても、読者は聞き流すだけだろう。少し眉をひそめるだけで、無視できる。

 でも、この曲の“無音を聴き入った”ときのように、音が発せられないことに不満を覚えてしまったら、もう逃げ場はない。思い知らされる。どれほど刺激を求めている、今の自分が停滞していると諦観していたとしても、世界の繋がりを求めてやまない欲望をもっているということを。

 そして、欲求がある限り、諦めるにはまだ早い。

 

『今日は、<盛夏祭(おまつり)>。

 人間、生きるに必要なものを自給しなければならないのだから、年中騒いでいるわけにはいかない。つまりは、『日常』という生存のレールから反して『祭り』に参加するということは、相当に拡大解釈をすれば、“自殺”とも言えます』

 

 ―――理解する。

 あの幼馴染が、『4分33秒』を最初に選曲したのは、時間稼ぎ(ロスタイム)の意味もあったのだろうが、その皆無な刺激の観客が感じる不満や鬱憤、反動で生み出される飢えた衝動、そういう強烈なエネルギーこそが祭りの本質なのであり、この『盛り上がる夏の祭り』と書いた<盛夏祭>に相応しいのではないかという、そんな洒落っ気もあったんじゃないかと思う。

 

『停滞したと感じた日常から、つまり自分達の生命活動そのものを激しいカタルシスと共に殺して、生まれ変わって新しい日常を始める儀式となります』

 

 瞬間、少女の言葉に聞き入っていた観客は、そこで目を瞠った。

 何故ならば、舞台の少女が手を上げ、陽を差した途端に、そのドレスの色が変化したのだ。

 名高い職人が精魂を傾けた縫製は、着こなせるのならば如何なる舞台にあってもそれだけで衆目を集めるだろう。その天高き深い蒼穹から織ったような藍のドレスが、黄昏の夕陽をそのまま溶かしたかのような真紅に、まるで生まれ変わったよう。

 

 ……おお。

 ……ああ。

 

 どっ、とざわめきが人々に渡った。

 心の底から湧きあがってくるざわめきだった。

 喝采に至るような熱狂ではなくとも、その演説は確実に人心を捉えていたのだ。

 今や輝きを纏っているかのようなオーラを放つ少女に応えるように、あるものは小さく頷き、あるものは拳を握りしめ、また科学の街にて祈るように指を組み合わせる者までいた。

 

 誰も、屋上には気づいていない―――ステージ上の彼女を除いて。

 

 

『―――では、今度は、生きてる限りずっと続くこの音の世界を、皆さんで生まれ変わるくらいに楽しみましょう!』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 卒業式の日を思い出す。

 

 

『自分は<超電磁砲>になれないと、機織先輩はいつも呟いてますね。街一つを支配できるほどの磁力使いだとしても、結局、電気も磁力も操れる<超電磁砲>の片手落ちな劣化版に過ぎないものであると』

 

 それは、天才(モーツァルト)秀才(サリエリ)の違いにも似たものか。

 秀才より位の低いのに評価される天才。

 昇れば昇り詰めるほど、超能力者に届かぬことを思い知らされ、自分という存在の卑小さだけを突きつけられる。

 卑小だと思い知らされているのに、周囲からは最高位の能力者だと誉めそやされる。価値のない自分に、最大級の価値を込めたレッテルだけが貼られ続ける。

 

『けれど、貴女は正義感の強い、高い理想を持った人、嫉妬心はあったとしてもそれで毒など盛らないでしょう。財や誉のためではなく、まして超能力者と評価されていがために、このような愚挙に踏み切ったのではない。

 元々の先輩の『派閥』は、大多数を占めながらも選挙権が与えられない、学生らの社会的な地位の弱さに憤りを覚えて、そのために確立されたと聞きました』

 

 少女は、語る。

 経済的に成功していた秀才は、慈善活動や才能のある後生の育成支援にその私財をつぎ込み、一度脱落した音楽家たちに互助会を組織し、もう一度のチャンスを与えられる場を作った。

 『派閥』で女皇が唱えた夢はとても清廉で、高潔で、平等で……ある意味では実に青臭いとも感じられるものだった。

 だけど―――いや、だからこそ魅せられたのだ、という。

 多くの人が望みながらも、実現は不可能だと諦めてしまいそうな目標に向かって努力し、そこに近付き至る日のことを信じ続ける。

 確かに衝突はあったが、女皇が他人のことを蔑ろに考えている人ではなかった、と。

 

『人の才能を見る目があったからこそ、自身に才能のないと思う人の存在を認めることができず、努力さえすれば皆が相応の成果を得られるはずだと、本気で信じていた。とても純粋に』

 

 そんな少女が評するからこそ、女皇は“ソレ”が許せなかったのかもしれない。

 <素養格付(パラメーターリスト)>。

 現在の能力の強度ではなく、その能力者の強度の限界値。

 女皇は自身がどんなに努力しようが、“天才”には届かないのだと知ったのは、不幸であった―――だが、彼女はその<素養格付>を上回る幻想を投影()せてくれた。

 

『先輩はその詳細を教えてはくれなかったけれど。

 能力者の上限値は定められている話、たとえそれが本当だとしても、人は変わることができると信じるのが上条詩歌です。

 先がないと先輩は言いました。天才秀才凡才が、やる前から決まっている。でも、それは今見た先でしょう。

 なら、私は先輩の言う先の先を見ましょう。

 今日までで“その上限値を超えた人たち”がそのことを保証してくれる。きっとまだこの街は、根本的に何かが変わってしまうことのある歴史しか持っていない、と思った方が面白くはないでしょうか。

 能力者の街である学園都市と、能力者のいない外の世界が2、30年の開きがあるというのなら、きっと今は変革の期。

 2、30年後の未来はきっと完成されたものでしょう。

 だけど、自分たちの世代は試行錯誤していかなければならない。何かが大きく変わっていくものに自分が参加しているのは幸運だとは思わないでしょうか。

 仮に今までの技術が時代遅れとなることあるとしても、事件の渦中にいるのはすごいことです』

 

 ふわふわと、あどけなく彼女は笑う。

 ひどく透明な笑みだった少女の笑顔はいつもそうなのだが―――とりわけこの時は、光に透けてそのまま消えてしまいそうなほど儚かった。

 きっとそれは単純に、在り方が眩しく思うからだ。

 この少女が諭してくれることを、嬉しく思ってしまうからだ。

 仏教で、最初に赤ん坊の釈迦を見出した仙人が『しかし私はこのお方の説教を受けられるまで生きてはいないのだ』と嘆いたというが、だったら自分はその逆だ。

 この少女と同じ時代に生まれた幸運を、噛み締めよう。

 この少女と同じ時間を過ごせる幸福を、噛み締めよう。

 しかし、噛み締めるたびに思う、そしてその思いが張り裂ける様に問うのだ。

 

『ああ、どうしてあのときまで『派閥(わたくし達)』に来なかったんです? どうして『派閥』を継いでくれないのです?』

 

 彼女が人の上に立ってくれたら、きっとそこは『楽園』になる。きっとあのようなバカな真似は頭で考えてても、しなかったに違いない。

 けれど、それは彼女にとってみれば、揺り籠は牢獄、神輿としてではなく重石。

 籠の鳥で大人しくすることができない性分で、色んな人やその才能をみてみたいだろう。だとしても、彼女に『派閥』を、女皇だけを見てほしいと思う。思ってしまう。

 

『私の出番なんて必要ないと思うくらいに、機織さんのこと先輩として尊敬していたからですよ。まあ、わかりにくい人ではありますけどね。

 高い世界に羽ばたける人材を育成すると自立を何よりに掲げた学び舎で、先輩が一度はやり方は間違っていたとしても、ソラを目指すその意思は間違ってなんかないと思います』

 

 常に纏う彼女の冷徹な印象のみで他人に語られ、表面の奥にある本質を理解されにくいそれを理解してくれるだけでなく、なんと裡の琴線を奏でてくれようものか。

 

 『派閥』は、組織である以上は、その上位者には、“怖さ”が求められる。逆らえばただではおかない、彼女は信賞必罰の定石を守ることで秩序を維持していた。

 生体磁気すら干渉するようバッチという楔を打ち込んでいた脅しも、組織を統括している長を演出する上では重要であったのも事実であるが、そんな自分にも、統べる者の責任という自覚はあって、ついてくる者たちに何らかの信賞と報いたい義務が生まれていたはずだ。

 それが、最大派閥というステータスを獲る。

 この目標を掲げて皆に示すたびに自己満足を得ると同時に、有言実行という責任もまた重さを増していく。

 どんな事情があったにせよ、自分がしたことは彼女に看過できるものではない。―――だが、その重責を負っていたのも事実で、自分の持つ優しさを彼女は評価していた。してくれた。

 

『どうしてかしら。『派閥』の誰でもなく、貴女ならわたくしのことを疑ったり、失望されたり、しないと信用できるの。

 わたくしのことを影で色々と悪く言う人は多かったけれど、真正面からぶつかってきてくれたのは貴女くらい。

 それに、わたくしが裏で考えていることも簡単に、見抜いてしまうのですから』

 

 その時の女皇自身の表情は、憑きものが取れたかのように穏やかな苦笑になっていくのが自分でわかるようだった。そして肩の荷を下ろしたように、張り詰めた空気はどこか霧散してしまったように思える

 彼女は、理解者だ。だからこそ、女皇も彼女を理解し、理解してしまえばそのあり方を独占して、縛りつけようことなどできなくなる。

 

『……でもね、ひとついただけないわ。あなたに、あのような野蛮人のようなやり方は似合わないわ。もっと他のやり方だって選べたんでしょうに』

 

『もしそうだとしても、私は(これ)を誇りに思っているので』

 

 それに、その言葉で、もう彼女は彼女の、羽休めできる宿り木(居場所)をもっているのだとわかったから……

 

『……仕方ないわね。やはり、あの日から最も成長したというあの子にわたくしの『派閥』を引き継がせることにしましょう』

 

『残念そうな顔はここだけにしてください。彼女、ただでさえ二年の上級生方を押しのけての推薦で緊張してるんですから』

 

『わかっておりますわ。でも、あなたも器用に立ち回らないとあとで苦労するわよ。『派閥』の一員とならずとも、あなたに負けたのはわたくしだけではありませんわ、卒業した後も勝者の責任として、あの子達の面倒を見なければならないのですから』

 

『はぁ……まったく、敗者の強みを遠慮なく使うところを後輩として参考してもらいます』

 

 少なからず迷惑そうな少女の表情も、自分にとっては全く大袈裟ではなく宝物だった。いくら見ても、飽きないだろうと思った。

 

『ええ、お願い。見捨てないであげないで』

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 それは信頼と祈りで紡がれた。

 清かな調べが学生寮を駆けて風を(はら)み、遥か空へと舞い上がる。

 

 十字教の教会で聴く演奏が何故信者を感動させるのか。

 

 教会の壁を震わせエコーを効かせた響きが身体共鳴し信者の脊髄に背後から鳴り響く。骨伝導から脊髄を震わす音は、ある種の生体麻薬を呼び覚まし覚醒作用で感動を高めて、それが信仰心を集めるのに一役買ったとも言われている。

 楽器と教会の共鳴の律動は、そこに人々は心の浄化を覚え、神の教えと言う悟りを幻視したのだろう。

 耳から入る音楽は頭にしか聴こえないが、骨身に染み入る音楽は体全体に衝撃を与える。

 屋外の庭――でもその周りは学生寮の建物の壁に囲まれている。

 

 

 そんな反響に感化されてしまったかのように。

 同じ代理演算を利用していたせいか、脳神経の電気信号から御坂美琴にその郷愁が流れ込んできた。

 

 

 これが、このOBの記憶だというのなら、何故こうなってしまったのか。どこでまた踏み外したのか。

 その後に映像がおぼろげながらも読み取るも、おそらく最後の悪夢とも関連があるのだろう。

 進学した長点上機学園で行われる機械の代理演算システムをテスターとなり、失敗、彼女の教員に第三位と比較されて罵倒される……

 自分だけが知るのはフェアではないと思い、美琴は口を開いた。

 こんな青春の主張じみた暴露。盛り上がる舞台の祭囃子が呼びこんだとしか思えない、颯爽とした夏の涼風に吹かれて、生まれ変わったようにすっきりした気分でないと言えない。

 

「詩歌さんはよく私を叱ってくれた」

 

「………」

 

「詩歌さんは私を捜してくれた。私を助けてくれた。私を心配してくれた。私の面倒を見てくれた。私の相談に乗ってくれた。分からないことがあったら私の先生もして教えてくれた。そして、私を好いてくれたし、愛してくれたわよ。私はそれを―――呆れるくらい知っている」

 

 少女はやけにはっきりとした口調で言う。

 

「この前は、一緒に映画を見たわね。ゲコ太の、ちょっと子供っぽいアニメだったけど、楽しく笑いながら見てくれて終わったら感想を言い合ったわ。薦めてくれた小説や論文は全部読んでるし、逆に私が今話題の漫画をおすすめしたりしてる。私とゲームセンターで門限近くまで遊んだことだってある。詩歌さん、初めての機種なら最初だけはお試しで練習させてくれるんだけど、それ以外は全然手加減なんてしないで全力で仕掛けてくるからほとんど負け。まあ、私が接待プレイは禁止だって言ったからなんだけど、一体どんだけジュースを奢ったかしら。でも、時間ギリギリまで何度挑戦しても受けてくれるし、たまに勝ったらUFOキャッチャーで好きな景品を何でも取ってくれるのよ。だから、メダルも結構貯まっていて、それでレールガンを撃とうとしたんだけど、初めてはコントロールミスで事故っちゃった。慌てて逃げようとしたところを詩歌さんは捕まえて、謝らなくて良い筈なのに一緒に頭下げてくれたのを見て、私は恥を知った。詩歌さんが作った料理は絶品よ。よく新作の味見を任されるんだけど外れはなかったわね」

 

「……あなた」

 

「私は呆れるほど知ってる。色々と怖い目も見させられて忘れたいトラウマもあるけど、覚えてるんだからしょうがないわよ。

 あの姉がきちんと評価されてることは望んでるけど、『派閥』を作って偉くなったり、230万分の1の天才として認めさせたりなんてしなくたって、私は自信をもって誰にでも自慢できる」

 

 機械演算の代理援助がなければ、第三位のような電気信号の受信読取はできない。だけど、その一言一言が、どうにも蜘蛛の脳神経()を震わせて訴えてくる

 

「だから、邪魔させない」

 

 第三位は、既に決着がついた現状であるというのに、こちらから視線を切らさない。陽気で釣られそうになる音の聴こえる中庭の様子を窺おう、などと意識を逸らしもしない。

 それを見て、ひとつ、思い出した。

 

 

 

 

 

『そして―――私の自慢の妹分は、『愚者』です』

 

 

 あのとき、勝利した後に、上条詩歌はそう妹分な天才(Level5)をそう評した。

 人は器用であればあるだけ、環境に適応することが速くなる。

 周りを囲む人を、状況を、流れを、敏感に感じ取り、それにあった対応を取ることで、集団での自らを孤立させること無く、集団の中における、自分の位置を確立していく。

 だがそれは、自分を周りに合うように変えるという事であり、生きるために変えられる程度の――言い過ぎかもしれないが――希薄な己しか無いということに他ならない。

 

『―――世界に柔軟に適応することこそが、上手に生きていく方法であり、先を読んで対応できる事こそが賢者の立ち回りである。というのなら、美琴さんは愚者であるでしょう』

 

 全てを場に合わせても、自分がないという訳でないし、人は集団で生きる存在である以上、環境に合わせて生きていく能力は必須であって、適応できる能力の高さは、蔑まれ、あるいは非難されるべき代物ではない。

 むしろ、それは正しく種としての生存戦略として、あるいは、淘汰の流れにおいて、進化としては正しいのだ。

 周囲の状況や環境に合わせて自己を柔軟に変化対応させて生き延び、己の存在を確かに、この世界に刻み込むことになるだろう。

 

『美琴さんが不器用だとは思わない。

 頭の回転も良く、何でも器用にこなせますし、詩歌さんが教えたことを最も吸収しているピカイチでお姉ちゃんとして自慢できる優等生であります。

 ―――ただ一点、生き方が酷く不器用……』

 

 周囲に流されて、環境に合わせて、自分を曲げるという生き方をしない。

 確固たる自我を持ち、それとは合わない環境と、真正面からぶつかれるのだ。

 間違っているものは間違っているといい、妥協して正しいなどと認めない。

 そうすることによって、自分が傷つくこともしっかりと理解しながら、見て見ぬふりをしたり、回り道をしてそれを避けようとはせず。

 

 

 そういった環境を、どう転がし利用すればいいかと、受け入れず、この環境はおかしいと、真正面から受け止め、目を逸らさずに打開しようとする。

 

 

『奸智狡賢の観点では残念ながら赤点、策謀の類には弱い、と一姉としては心配させられます。

 でも、感情を真っ直ぐに溢れさせるほどに、その不器用な生き方が私には好ましいし、それこそが正道王道と知っている。

 そして、正道王道は強い』

 

 先程の、第三位が出合い頭の速攻に敗れた一件も、実は際どい、と賢妹当人は言うだろう。

 それこそ第三位本人が超能力者の自分に対して上条詩歌は常に楽勝していると思っているのだろうが、実際のところ、それは正しくない。

 いや、正しいは正しいのだが。

 “楽勝以外では勝つのは難しい”―――というのが、より正しい。

 それほどに、御坂美琴は能力技術が完成されてきていた。

 同じ条件で真っ向勝負であるなら、本来は太刀打ちするのは難しい。

 それでも勝てたのは、これまでの付き合いから御坂美琴を知っていることと、同系統他能力者から投影した経験からくる引き出しの多さからであろう。

 そして、いずれその一を極めたときに、姉は抜かされることを予見している。

 絵札の騎士を十枚と揃えても、たった一枚のスペードのエースには勝てないものだ。

 

『世界を変えるのは、いつだって、不器用で、己の生き方を『曲げない』者であると私は思います』

 

 たとえばそれは劣等生と失笑されても、意見は曲がらず、心は歪まない者達だと。

 そう上手くは行かないと言われても、素直に引き下がらない、馬鹿なのだと。

 Level1から努力し続けてきて、Level5に妹分が成ったのは、報われる想いであった。

 彼女を妹分として持つことが如何に自分を震え立たせてきたのか。

 

『私が知っていた細蟹機織さんも、同じように頑固な人で―――先輩として尊敬できる人です』

 

 くすくす、と笑いながら賢妹は言う。

 学校などのように団体生活を送る場において、孤立することは誰だって不安で恐ろしい。

 特に日本社会は、他人と合わせることを美徳とする風潮で、突出しすぎる個性はあまり歓迎されないものです。

 だから、無用な波風を立てるまいと自分を律して、ときには妥協もして同調を覚えていく。

 そんな中で、自分の主張を貫く度胸と強い信念を持つ存在は異端で、異様で……そして、だから人の上に立ったのだろう。

 確かに、自分をけして安くはみせない、馴れ合いや愛想良く振る舞うということをしなかった。妥協が嫌いで、適当に決定を下すのを何よりも嫌っていて、よく協調性がないとも思われていた。

 だけどその反面、自分と同じように努力するものに対しては、優しくも頼りがいのある、情も深い人だった。

 ……そう、なんて過ぎた評価を照らいもなく言ってのける。

 

『批判も誤解も、それ以上に敵の多い人でしたが、機織先輩は理想と信念を持った人です。

 陽菜さんも、先輩のことをけしてよく思っていませんが、詩歌さんの知る限り、とても情の深い人です。ただ反りの合わない人には冷たく接してしまうために、俄然とした印象を与えていたのだけで………』

 

 

 

 

 

 思い、出した。

 そして、思い出したからには、もう。

 

「………」

 

 しばらく沈黙してからOBも、『ええ―――わたくしも存じておりますわ』と、新人にではなく、呟いて。

 

「……………、もう、邪魔なんて、しないわ」

 

 その降参とも言えるつぶやきを零した。

 今も、屋上から眼下に望める中庭の会場の皆を、この屋上にいる自分達をも振るわす音色を奏でるのは、耳を傾ける。

 

「……ピアノの正式名称をご存知かしら?」

 

ピアノフォルテ(pianoforte)でしょ」

 

「そう。音楽用語に、ピアノは『弱く』、フォルテは『強く』を意味する。弱い音(ピアノ)強い音(フォルテ)も自在に出せる、『強さ』も『弱さ』も併せ持つからそう呼ばれるようになった楽器であって―――だから、わたくしは贈ったのよ」

 

 一目で、見惚れてしまうのは何故なのか。

 それは多分、彼女を見た人の多くが感じるであろう光――可能性を目の当たりにしたからだろう。

 

 とある神に成り切れなかった男が言うに、魔神は、無限の可能性があるからこそ成功と失敗は五分五分なのだ、と。

 

 あの少女を見た誰もが感じ取ることができるのだ。彼女の前に並ぶ、幾通り、幾十幾百……億千万通りの道―――そのどれもが眩い輝きを放っていることを。

 しかしながら、まだ『完璧』じゃない。いいや、『完璧』過ぎるからこそ困った特徴をもっている。

 ヒーローのような『強さ』だけでなく、ヒロインのような『弱さ』の両方全部をもっている。行動ひとつとっても、その見方次第で賢くも映るし、愚かにも見える。敵を見逃せるその一事でも、戦っている相手にさえ同情してしまえる『弱さ』であって、手加減できるだけ余裕をもった『強さ』があるとも言える。

 超能力者でさえもあしらえながらも、人命を優先し不良の賭け事にあっさりと降参してしまうような可能性があるのだ。

 相手の実力関係なしに、五分五分のロシアンルーレットからのショット。それでも、勝負に負けたとしても結果的に勝ち続けられるのは、よほどの『幸運』をもっているからに過ぎないのだ。

 秀麗な容姿に見惚れる者もいよう。傑出した才能に惚れ込む者もいよう。そしてそれらすべてを越えて思うのだ。

 

 頼れるようで、でもやはり、守ってあげなければいけない。

 そして、こうも思うだろう。

 この少女がこれから歩む道を見てみたい、出来うるならば共に歩きたい、と。

 

 美琴は深々と息を吐く。

 それは溜息ではなかったが、限りなくそれに近い色合いを持っていた。

 幼馴染の聡明さを思えば、自身の価値をまったく測れないわけではないだろうが、おそらく―――いや、間違いなくあの姉は、自身が他者に与える影響を過小評価している。

 そこがまた、未成熟さ――『弱さ』を見る者に感じさせずにはおかない。なまじしっかりしているように見えてしまうからこそ、そこに気付いた者は幼馴染を放ってはおけないだろう。

 なるほど、まったく。

 男子にはひとたまりもないわけだ。

 

「では、ピアノの和名は?」

 

「え……、っと、洋琴でしょ」

 

 少し考え事をしたせいで、応えるのがワンテンポ遅れてしまう。

 

「詩歌さんは卒業した後、ピアノは学生寮の残るのですから、誰かが引き継ぐことになる……あなたが使ってもいいわ。きっと、整備の仕方は学んでいるのでしょう?」

 

 

 

つづく


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