とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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常盤台古今物語Q&A バグハウスAceターン

常盤台古今物語Q&A バグハウスAceターン

 

 

 

常盤台学生寮

 

 

 ―――確認作業が終わった御坂美琴は、しばしその場で、息を整う。

 

(一……)

 

 感情の潮がのぼり、絶えず高音を保つ。

 

(二……)

 

 そんな感覚が美琴の体の裡にある。

 

(三……)

 

 今の自分はもう、容易く姉の手を借りることはやめにしようと、ひとりで自立し、手を焼かすだけの存在とはなりたくない―――その拘りを捨てて思考がクリアになった。

 

(四……)

 

 代わりに、客観的に、自分自身を考えよう。

 

(五……)

 

 半呼吸、意識する。

 

(六……)

 

 夢や幻に等しく思えた現在の知覚に、一片の冷静さが生じた。

 

(七……)

 

 日常生活においても、自然と喚起される注意を、微々たるものであっても常に意識しようと思う。

 

(八……)

 

 この負けず嫌いの性分は治らないとしても。

 

(九……)

 

 でも、今なら、ほんの半呼吸だが、状況を見て判断することができると思う。

 

(十……)

 

 心の中で十を数え終わり、前を向く。

 

「―――よし」

 

 情報を精査する上で必要なのは、氷のような冷静な心。何事にも動じない思考力が何よりも求められる。

 幼馴染は相談して欲しげだったが、もう十分、彼女から教わった事は覚えている。

 

『そう、氷で作った盤上でチェスをする心構えが大事です。慎重に。まあ実際に想像すると、カーリングになっちゃいそうな気がしますけどねー』

 

 だから、美琴は十を数えて心の温度を冷やした。十を数えて無理やりにでも鎮めなければ、激情に駆られたままだった。

 

 関知しなかったが、何かあったら今度こそ責任――恥を、美琴ではなく幼馴染が負う。

 そして、自分が第五位と間違われたことや『ハリボテの看板』と馬鹿にされたことにも腹が立つが、しかしそれ以上に怒り心頭なのが―――御坂美琴の責任で、上条詩歌の評価が下がったことだ。

 そんな屈辱があるものか。怒りを覚えないはずがない。

 超能力者の名誉挽回など別に構わない。

 が、

 

 

「一度負けたことで泥を塗ってしまった『御坂美琴(わたし)の誇り』の汚名返上はさせてもらうわよ」

 

 

学舎の園 常盤台中学学生寮

 

 

 『派閥』。

 経済学から歴史政治学、物理学、高等数学から生物化学、電子科学に機械工学、変わり種で宗教学や文化学もあったが、能力発生のメカニズムを探る超心理学に至るまで、多々分野で自主的に学術研究する学生らの集まり。

 

 学舎の園内部にある学生寮のホールには複数の高位能力者達が存在し、今、まさにその園外部から訪れた“外様の少女”の演説が終了したところであった。

 女皇(クイーン)の許しなく言を発することを禁じられているせいか、それとも女皇が隠してきた企みを暴いた彼女に絶句しているからか、声無き動揺だけが場に漂う。

 

「……………まさか、そこまで知られたなんて―――ですが、だからといって、わたくしを説得できると思いでしたの?」

 

 ―――驚嘆から深呼吸を要した沈黙から、諦観と悲嘆の溜息へと切り替えて女皇はそう言う。

 

「上条さん上条さん。わたくしは知っていますのよ。上条さんが、『成り上がり』と繋がりを持つことを。あの品性の欠片もない野蛮人とはいえ、入学試験の能力審査で最高点を出した大能力者(Level4)をさしおいて、強能力者(Level3)の上条さんが最優秀成績者として新入生代表に立ったその時から、他のコよりもよく目をつけておりましたもの」

 

 もっといえば、初めて見えたときに女皇の目を奪ったのだ。

 あの壇上に立ったそのとき、館内に響くは、驚愕のうめきか。それとも賛嘆の呟きだったか。

 黒絹のごとき光沢をもって背に流れる髪、名工の手になる彫刻を見るように人が理想とする造形を形作っている容姿。

 髪と同色の瞳は、深い思慮を宿して鮮やかに煌き、澄みきった曇りなき鏡を見るよう。

 薄く赤らむ白磁の頬、その莞爾とした微笑を色づける朱が彼女に人としての温かみを添えていた。

 彼女を絵にするならば、多分場所はどこでも構うまい。窓辺で佇んでも、ドレスを着飾り宮廷にいる姿でも、あるいは剣を持って戦場の先陣をきるところであっても何ら問題ない。そのいずれもが、一幅の絵画として価値ある輝きを放つに違いない、そう見る者に確信させる。

 

「かの『モナリザ』がより美しく輝く理由には、ルーブル美術館に飾られていることも一因でしょう。

 絵画にしろ人間にしろ、飾るに相応しい環境があるとわたくしは思うのですけど。

 ですから、是非、自ら進んで、入学時にお渡しした『派閥の証(バッチ)』をおつけになって欲しかったのですけど」

 

 玉座をモチーフにしたと思われる椅子に足を組んで座りながら、指先にスティール製の花の紋様をした――ひとりを除いて全員が左胸につけている――バッチを手遊びに浮かばせる。

 

 常盤台中学の頂点に立つ大能力は、鉄筋の骨組を持つ寮内では、天上に立つことも、また引力と反発力を利用して浮遊移動することも可能だろう。

 

「今、最高の発電系能力者の座はあの『成り上がり』のようですけど、低能力者から高位能力者へ成り上がったことに世間が味方に付いただけのその場の勢い。もちろん、努力は認めますけど。―――それ以上は認めません。頂点はこのわたくしであり、力の扱いならば依然としてわたくしの方が上回っている。

 そう、故に、衆愚の目を正すきっかけとして、彼を捨て駒と利用するのです。

 わたくしの『派閥』の総力は、超能力者に匹する一軍をも上回り、盤上を、<学舎の園>から学園都市まで改革できるところまでに整っています。

 このわたくしの能力、権力はこの街に相応しく、この街もまたわたくしの城として相応しいものとなる。この好機を逃す手はなく、これ以上、大人たちの良いようにさせるつもりもありません。

 ……ですけど、上条さんの綺麗なお顔に傷をつけたくはありません」

 

 女皇を中心に、紫電の波紋が広がった。建物全体を駆け巡った衝撃と、異常な力場を移動させる際に生じる放電現象の静電気に『派閥』の側近で控えていた学生たちが顔を歪める。

 この一瞬で、ここは女皇の領域(テリトリー)と成ったのだ。

 その気になれば、“前最高級(ハイエンド)の能力者”は寮内だけでなく、<学舎の園>広域を支配することが可能であろう。建物の骨格と成っている鉄筋や、地中に埋め込まれた水道管を始めとする金属管など、鉄に事欠かない科学の街は女皇の庭そのもの。

 そして、女皇のバッチをつけた兵を揃え、仕様に改築されているこの学生寮は要塞と言えるだろう

 そうですわね……ともったいぶるようにためをつくりしなをつくりながら頬に手を添えて考えるポーズをとり。

 

「このままあなたを放置することを許してはおける余裕もない。無駄な抵抗はよした方が賢明ですのよ。あなたを捕まえて洗脳してでも―――

 しかし、ここに一人で来たその勇敢さを讃えて、わたくしは一度だけチャンスを与えて差し上げたいと思いますの。

 詫びを入れて、自ら、わたくしのものであるという証として『派閥』のバッチを左胸に刺しなさい」

 

 己のステータスを表す調度品は、たとえ能力が低くとも、傍らに侍らす(置く)だけでもいい。

 ならば、ここで格付けをさせるために頭を下げさせる儀式が必要である。

 自然と、どこか嗜虐的な表情に女皇は緩んだ。

 秘事を暴いたのは事実、ここまで自らに逆らってきた相手は久しく―――単独で乗り込んできたのは初めて。

 ただの謝罪で済ますわけにはいかない。

 

「ええ、三回まわってから、ワンと吠えてもらいましょうか? そこまですれば、これまでわたくしの誘いを断ってきた非礼も含めて、すべて許しましょう」

 

 周囲の鉄筋と玉座を同極にし、反発させることで坐しながらも女皇は誰よりも高みへと浮遊。この場にいる誰よりも上位であると示して、見下ろす。

 普通の人間であれば、女皇の視線と言葉、そのパフォーマンスに畏服し、押し黙ってしまうところだったかもしれない。ましてや反論など。

 だが、この新入生の少女は、生憎、どこをとっても普通という表現が当てはまる人物ではなかった。

 

「……………ふぅ」

 

 ―――息を吐く、

 己自身を侮辱されて激昂するのでもなく、少女の幼馴染(妹分)を蔑まれて憤激するのでもない。

 何も言わずに、女皇の注文通りに、くるりとその場で回って見せるのである。

 

 まずはゆっくりと、見せ付けるように一週目。

 もっとゆっくりに、深く息を吸いながらの二週目。

 さらにゆっくり、腹に込めて練る時間を稼ぐ三週目。

 

 ぴたり、と終わると同時に、頭を項垂れるように、その表情を隠し伏せる。

 

 動かない。

 そこに怒りや葛藤を覚えている感情の波も、抵抗する敵意も、不穏な気配もなく、しんと室内は静まりかえる。まるで深呼吸が音まで吸いこんでしまったように。

 何を考えているのかと、いぶかしむ顔をする側近と女皇。

 その関心を引き付けたところで、

 

 

 ―――領域全体に、叩きつけるように。

 ―――少女の口から超高音の勁烈な響きが迸った。

 

 

「ひゃッ?!」

 

 悲鳴じみた叫びと共に、浮力のバランスを乱した玉座は転落し、女皇が地面に崩れ落ちる。

 『わん』と文字にすればかわいいものであるが、それが並々ならぬ肺活量で、鍵が閉ざされ密閉された空間内で反響すれば、音響弾兵器クラスの威力だろう――それを、“支配下に置いた領域”も震わされて女皇はもろに喰らった。

 余裕を崩し、床へ倒れる女皇へ支えようと近づく者が数名、そして他の側近が視線を刺す中で、その焦点の少女は、お騒がせしました、と謝を述べたが、当然、殊勝な態度を見せても、恥を晒させておいては、いささかの慰めにもならなかった。

 

「貴様ッ! クイーンによくも!」

 

 側近の一人が、彼女の得物である細剣(レイピア)を抜いて――分かりやすい示威行為として――突きつける。

 

「あら、先輩の言われた通り、ワンと吠えただけですが、どうやらお気に召さなかったようですね」

 

「こちらが下手に出てるからと言って調子に乗って、あまつさえクイーンに恥をかかせるなど、無事には済まさん」

 

「恥をかかせるつもりはなかったのですが」

 

 言いながら、周囲に視線を流せば、部屋にいる先輩方の誰もが、各々の能力を展開している。いずれも最低が強能力者(Level3)、そして超能力者(Level5)に次ぐ大能力者(Level4)もいる親衛隊が、能力検査が学内の最低基準の劣等生である後輩を取り囲んで警戒している姿はどこか芝居じみて滑稽であった。だが、室内に充満する張り詰めた空気は、彼女らが紛れもない本気であることを示している。

 だというのに。

 一方の少女は武器も能力もなく、それでも落ち着きを払っているのだ。

 三人以上は逃走を選択する愚兄からすれば何の冗談だと一昼夜かけて説教したいくらいに、三人以上の乱戦はむしろ利用(武器に)できるものと捉えており、集団心理は動かせれば個人の説得より手間がかからない。

 

「恥とは、心の痛み」

 

 表情にも、声にも、一片の動揺も見られない。

 

「しかしそれは他者が強いるものではなく、己で受け止めるもの。

 光貴さんはご家族と担任にそのことを話すことを決めています。公となるかは定かではありませんが、罰を受ける覚悟はできている。犯した過ちを忘れず、恥を反省の糧として努力することを誓ってくれた」

 

「嘘よ」

 

 語気を鋭く側近は言い放つ。

 

「鍍金の剥がれた御曹司に、今さらそのようなことできるはずが」

 

「ならば、私の見る目がなかったことでしょう。どちらにしろ、あなた方にそれを裁く権利はなく、人の上に立つことは人の罪を利用する免罪符とはなりません。

 誰かの犠牲がなくては何事も為すことはできない―――それがたとえ真理だとしても、そのようなことを口にして良いのは、自らを犠牲としても、不幸と言わぬ覚悟と、不運に負けない強さを持つ不敵不屈の者のみ。

 

 ―――先輩には今、それが決定的に欠けている」

 

 内容こそ痛烈であったが、けして激語ではなかった。

 むしろ静かに、諭すようであった。ゆったりとした声は、大河の流れのように穏やかな表面の下に、力強さが潜み、聴く者すべての心に深く染み渡る。

 周りの者達に、自身の言葉が染み渡り理解した頃合いを見計らってから、言葉を継いでいく。言葉を頭に浸透させるように自然に伝える術に長けた、人に教えることに慣れた声音。

 

 

「そして―――私の自慢の妹分は」

 

 

常盤台学生寮

 

 

 すれ違いざまの女生徒らの会話から拾ったものだが、別れた後、食堂で何やら大騒ぎがあったり、また幽霊が出たそうで、そのおかげで、第三位暴走疑惑がそちらに逸れて、若干は動きやすくなったわけで―――御坂美琴は走っていた。

 

『足跡を見付けるのには一応コツがあります。なに大したことではありません。足跡を探そうと思わないこと』

 

 とこれは、確かこれは、電磁波に怯えて逃げてしまった迷子の子猫を捜す際の話。

 

 捜さないと見付かんないものじゃないの? と口答えしたが、

 

『足跡なんて分かりにくいものを最初に見付けようって考えるよりも、真っ先に目のつくような他の痕跡から辿った方が堅実です。そして、堅実は確実に繋がります。

 ほら、数学も、慣れれば暗算でも答えを導き出せるけど、複雑難解となるととっかかりからの計算過程が必要となるでしょう?』

 

 まず、世界に線を引く。それから景色を線に当てはめる。線がふと歪んで感じたら、大抵そこは何かが乱した跡である。

 自然というのはある程度規則性があって、広葉樹はできるだけ重ならない配置で葉を生やしているし、水気のない場所に粘土質の土壌は生まれないもの。

 そういう単純な規則性を線にはめてみれば―――至極細い何かが電撃使いの視界を過った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『絡新婦』は磁力線()を伝って、音を拾う。

 振動。

 糸電話。

 目を閉じて。

 建物全体に―――耳を傾ける。

 当然、不要な雑音が混じるが、それも聴覚のカクテルパーティ効果を磨いた、特定の相手に集中する技術で精度を上げている。

 

 この張り巡らした縦横無尽の『糸』の存在に建物に入る以前から気付き、そして張り巡らされた八方塞がりの『糸』の一本にも触れることなく、隠した証拠を掘り起こし、懐まで潜りこまれたのは後にも先にも彼女だけ。

 余程高位の発電系能力者でもないと知覚できないほどに極細の『糸』を、あらかじめ当然のように悟り、知っていたところで避けることのできないほどに錯綜した『糸』を、一本も揺らさずに活動されたなど、アレは想定外の経験だったが。

 

 それがあって、彼女の協力から、力の強弱――糸の細さを調整制御する加減を極めて、場全体に糸を敷く設置型だけでなく、特定の物音(相手)に反応して毒を流す追尾型の双方を使いこなす技量を身に付けた。

 

 故に宣告した通りに、

 寮内の行動は逐一把握しており、

 

 電撃使いの料理法は心得ている。

 

 一度は彼女との接触があったが、結局、<超電磁砲>は闇雲に走ることしかしなかった。

 最初と同じく、どこを目指すべきかもわからないまま、とりあえず人のいない客人立ち入り禁止区域を通るくらいしか考えずに、意味もなく再出発した。

 これはもう末期症状だ。

 負けが込んできたギャンブラーのように。

 勝つことではなく賭けること自体を目的に据えてしまったギャンブラーのように―――意味を見失っている。

 そしてこれは勝ち続けてきた強者ほど陥り易い。

 よって、ここまで決まれば。

 ここまで極まってしまえば。

 糸に絡まった虫けらも同然。巣から飛び去ることも、動くこともできなくなる。

 

 その通りに、足音が止まった。

 

 電話と同じで、目には見ることはできないが、音の反響具合からして、廊下の突き当たりか。そこで壁に背を預けて野垂れ死ぬように倒れているだろう。

 超能力者などと大仰なことを言っても、所詮は経験の浅い新入生。これまで餌食にしてきた有象無象の電撃使いと大差ない。このまま放置すれば、目論見通りに、<即急対応>が回収に来るだろう。

 が、あの日、『派閥』を単独で鎮圧した彼女は言った

 

『そして―――どれだけ贔屓目に見積もっても、先輩はまだ自慢の幼馴染には敵いません。例え世論を味方につけても、そのバッチをつけても、私の評価は変わることはないでしょう』

 

 完全に糸で絡め取った。その証拠に、微動だにしない。それも行き場のない袋小路に迷い込んで。

 しかし。

 このまま他所者に任せて、自分自身の手で下させなかったのでは、“心残り”ができてしまう。

 それに忌避する磁場を設置して人払いはしているものの、通りすがりが現れる可能性はゼロではない。

 自分の目的は、第三位ではなく彼女であって、優先順位からしたら下の、一抹の心残りを解消するための余計な寄り道に過ぎない。が、彼女にとって大事な第三位に傷を付けるのもいいだろう。

 少しでも、不確定要素であるなら、仕留めるべきだ。

 

(ええ、最後の力を振り絞るまで、一度の助けの機会を逃してまで、貴女はひとりで頑張りましたわ常盤台の張りぼて(エース)

 

 努力賞くらいは差し上げましょう、と思いながら。

 チェックメイト、と駒を進める。

 

 なんて、決行するのならせめて、彼女――上条詩歌と言う不確定要素と接触する前にするべきだったろう。

 

 余計な重荷(こだわり)を降ろした今の美琴のモチベーションのベクトルはいかにしても狂わず、異常があるとわかった上でなら心構えもしっかりとしている。

 

 チェスで一番強固な陣形は状況にも相手にもよるもので、防御に適した陣形も攻撃に適した陣形もそれぞれに一長一短があるのだが。

 しかし、逆に一番脆弱な陣形は何かと訊かれればそれは。

 相手に向けて『王手(チェックメイト)』を宣告した、その瞬間。『王手』をかけた、つまりは“終わってしまった”陣形は『敵』に対して、一番無防備になっている。

 攻撃こそ最大の防御、という言葉もあるが、攻撃の瞬間にこそ最大の隙が生じる、と逆もまた真である。

 

「―――ようやっと見つけたわよ、この電波ストーカー」

 

 御坂美琴の呟きを拾ったのは。

 雷撃の槍に貫かれたのと同時だった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 幼馴染と別れ、落ち着いて思考を再開させて、考えたのは、自分の置かれている状況。

 思い返した。

 無我夢中で走ったが―――それで御坂美琴が現在位置を見失うということはない。まして空間を知悉した自分の学生寮で、どこかもわからず迷うなんて、ここに初めてきた招待客ではないのだ。

 しかし、今、自分がどこにいるかわからない。

 ありていに言って。

 住居地の中で、“遭難”と言われる状況であった。

 あるいは受難とも。

 

(そういえば、詩歌さんが、携帯を調子から、私のことを昂ぶってる、って……確かあれって対磁コーティングした奴で、調子が悪くなるならよっぽどの―――)

 

 はっと美琴は、携帯を取り出した。

 電話やメールをするのでもない。助けを呼ぶのでもない。

 そもそも使うことができない。

 アンテナが圏外になっている。人里離れた樹海ではない、科学の街のど真ん中で、だ。

 そして、美琴は携帯を仕舞うと、廊下の中央で、眼を瞑って、それから前に5歩を真っ直ぐ歩く。

 

(……やっぱり、ずれてる)

 

 昨夜、御坂美琴は“明かりのない視界が不明瞭な建物内の廊下を迷うことなく”、幼馴染の下へ行けた。

 しかし、今の美琴は予定していた5歩先の地点を大きく外れ、あわや右側の壁にぶつかりかねないほど端に寄っていて―――いや、左側。なんと前後ろが反転している。

 もしもその歩行の様子をビデオで録画して見たら、どんだけ千鳥足なのよ母と同じか、と頭を抱えたくなる映像だったろうし、

 そして、こんな気を抜けばふらふらの状態で走っていれば誰だって、狂っていると思われるだろう。

 これで、確認は済んだ。

 

(―――磁場に狂いが生じてる。私は、まだ逃げきれていないってわけね)

 

 多くの鳥類はそうだが、特に伝書に利用されるハトは頭の中に2mmほどの磁石を持っており、それが方位磁石と同じ働きをすることで迷わずに飛行することができる。

 太陽が見えるときは太陽コンパスを、陽が隠れる曇天下でも入射光の偏光電磁ベクトルを検知することで、直接は見えない太陽の位置方角を知ることができるのだ。

 だが、電線と言った強力な磁場を発生させる建造物がハトに内蔵された方位磁石を狂わせ、しばしば目的地を見失わせて迷わせる。

 

 そして、人間にも生体磁石は備わっている。

 ―――発電系能力者ならなおさらその感覚を頼っている。

 

(おかげで目的地が全然わからなくなってたけど―――あの幽霊野郎の目的は、はっきりしてる)

 

 第六感を狂わせて御坂美琴を迷走させる。

 

 最高位の発電系能力者の視界にある『線』――磁力線は自然界の法則から外れていた。

 

 磁力線は距離の二乗に反比例して影響力が少なくなったり、

 非磁性体のステンレスなどに遮られたり、

 磁性体――すなわち鉄などの金属片に接触されると移ってしまったり、

 また、火熱に磁力自体が弱まったり。

 

(と、考えると火を扱い、ステンレス張りの厨房って、相手には死地だったのよね)

 

 そんな法則など無視しているのが、それも2パターンある。

 

 ひとつは極細で美琴の視界でさえも、そこにあるようにしか視えない。ただ、近づけば蜘蛛の巣に触れたような感覚。粘つくようだけど、払えばすぐに消える。

 影響は弱い、全く害などない。

 けして美琴の方位感覚の磁針をブレさせるものではない。

 

(だから、こんなにも騒ぎになっていない―――)

 

 最高位の発電系能力者の方向感覚を狂わすレベルの磁力を浴びれば、一般人は確実に体調を崩すだろう。鉄分を主成分とする赤血球に強力な磁場で乱されれば、人体に悪影響は免れないのだから。

 なのに、美琴が覚える限り、誰も倒れていないし、悲鳴も聞こえていない……

 

(寮全体支配下に置いたとか言ってたけど、“もしも常盤台生ならば”、超能力者すら管理する常盤台の教員組織設備を相手にするのが、どれだけ無謀かわかってるはず

 無暗に被害を起こせば、追い詰められるのは確実―――)

 

 だったら、それを回避するために手を打つはずで。

 そして、もうひとつのパターン。

 美琴の周囲にだけ、そう美琴を中心に渦を巻くように――四肢に付いた糸が絡まった操り人形のように――蜘蛛が獲物を糸で絡め取るように――『線』は歪みに歪んでいた。遭難していた最中も、ああして走っていた最中も、磁力線の渦から逃れられない。美琴には避ける術はない。

 それが絡めば絡むほど、緊密に撚りあわさった糸は束となり、毒を流しこめるだけの密度は増して、方位磁石の指針だけが内側でぐるぐると回っているように、頭蓋骨内で脳だけが振り回されてる感覚の狂いに晒されていては、いずれは目的さえ見失うほど精神的に衰弱する。

 もしくは感覚の狂いに耐えきれず、狂乱して暴れまわっていたか。あの衝動的に駆られた逃亡もその一歩手前だったんだろう……

 

 で。

 おそらく、発電系能力者の電磁波の触覚と同じように、磁力線の糸は感知するだけの受信で、受動的に反応を拾うだけ。

 特定の相手に絡みつけるだけの操作性はないはず。

 動かすには何か手が必要だ。

 

 では、能動的に“糸”を指揮し、“毒”を送信する『噴出点』が、最初からずっと御坂美琴を追尾しているのか?

 

 それを可能とするには、

 個人をピンポイントに照射する精密さ、

 しかもそれに感知させなかった隠密さ、

 感だけでなく勘さえ狂わせてた秘密さ、

 熟練した密度の濃い実力がもとめられるが。相手は分身を遠隔操作ができるだけの技術を持っていた。

 

 そして、追尾されていると仮定して、

 気配が弱わってしまえば、何かしら尻尾を出すのではないか。

 釣りでも、魚釣りは針に食いついた獲物を、糸を引いたり緩めたりして均衡を保ちつつ弱らせて、それから竿を引き上げて釣り上げるか、網で掬うかする。

 今の美琴がその魚だとすれば、故意に弱って力尽きたように倒れてみれば、相手はそれに食いついてくるだろう。

 気功だとか科学で説明のできないオカルトなんて馬鹿馬鹿しいから、新規開拓(フロンティア)精神溢れる幼馴染からその手本を見せてもらってもあまり興味も湧かなかったが。今、絡みついた磁力線を解くことはできなくても、電磁波を操れるのだから、己の生気――生体磁気を弱くなったように見せかけるくらいの仮死ならば、御坂美琴にも体現できるのだ。

 趣味じゃないから―――やらないが。

 あまり気の進まないが。

 『弱さ』を見せるなんてのは。

 

「まあ効果的ではあるわよね。実際、誘い込み作戦は当たり(ビンゴ)―――天井の隅に張り付いてるなんて、ホント蜘蛛みたいなやつね」

 

 無意識に放っているAIM拡散力場の電磁波(レーダー)をも抑え封じてしまうが、御坂美琴は、Level1からLevel5になった―――ハジマリは、全くと言っていいほど一般人と変わらない感覚だったのだ。

 電磁波に頼ってなかった頃を思い出すのに時間がかかったが、おかげで五感は良好。

 一方通行に限定した場所に誘いこんで、己の五感が刺した箇所を注視すればすぐに。

 他の天井と比べるとあそこの隅の色が濃い――やけに日に焼けているように見えた。

 

「色彩パターンのズレが妙に論理的。幽霊(アレ)も、周辺で電波の途絶が起きてもおかしくないくらい相当情報密度の高いホログラムだったけど」

 

 幽霊が、立体映像……

 理由もなく皮膚が浅く切れる現象を、昔の人は鎌鼬と呼び、目には見えない動物、妖怪の仕業だと考えた。

 けど現実には、大気中に生じる真空に皮膚が触れることが原因……

 

 ―――ではない。

 

 それは近代の疑似科学。

 今では、あかぎれ――皮膚が気化熱によって急速に冷やされたときに、組織が変性して裂けることが理由とされる。

 遭遇した幽霊(あれ)は映像で―――しかし、ただの映像にはない電磁波の接触があった。

 

「だから、幽霊の正体は―――」

 

 軽めの雷撃を放った空間が、“ブレてる”。

 まるでデジタル映像に走ったノイズのように、景色が揺れ、環状の影が一瞬見え隠れする。

 ある。美琴は確信する。

 

「枯れ尾花じゃなくて、磁性制御モニターが正体ね。光彩のRGBじゃなく色彩のCMYKを基礎に据えた画像。ブルーライトは出さないし、4K8Kよりも画質が良いって聞いてるわね。今じゃ、有機ELの方が主流(メジャー)だけど」

 

 磁性制御モニター。

 流体でありながら磁性を帯び、砂鉄のように磁力で誘導されるスライムみたいな機能性のある磁性流体。その磁性流体を『超薄型の水槽』とし、そこへ原色系の微細な粉末を混入し、磁性を利用して色のついた粉末を変移動させて画像に表現するのが磁性制御モニターだ。

 その磁性制御モニターで構成されるのは色彩のCMYK――(シアン)(マゼンダ)(イエロー)(ブラック)――を基礎に画面を構成されて、ブラウン管や液晶のテレビで用いられる、光彩の赤緑青(RGB)に比べて、印象が暗く、再現できる色表現の幅も狭い。

 ただし、画面から印刷する場合は――つまり、映像で見るより現実で見る場合は、バックライトからの発光状態で見させるRGBよりも、ごく普通の絵画と同じようにバックライトなしの自然光を吸収して見させるCMYKの方が色調の誤差はなく、『本物を実際に見るのに近い』。

 結果として、テレビの規格競争では負けてしまったが、その現実(リアル)に見せる色質から、軍用迷彩として―――テレビのようにリアルタイムで切り替えられる模様で、液晶のように不自然な発光のないリアルハイビジョンで表現可能な、次世代型の欺瞞効果が期待できる。

 

 実体がないように見えるのに、電磁波で触れられるだけの気配を持った幽霊の正体は磁力線という不可視の糸と磁性粉末という色のついたビーズを複雑に組み合わせて演出する撚り糸細工。また、他の応用例に、スピーカーとしても利用される磁性流体ならば、直接会話をするように聞こえることも可能だ。

 

 で、“見せる”ことも出来れば、その逆の“見せない”も出来る。

 

 これは攪乱。コーティングに過ぎない。磁性制御モニターの迷彩技術がかけられ、周囲の景色と一体化していたが、今の電撃で無理矢理に剥がした。糸をはいて妨害している本命(蜘蛛)は―――

 形状は長細い縦ではなく、自律で回転する円環に代わってるが、その正体はつい先ほど見たばかりの、布盾――<封健の盾>。

 

「『エースキラー』……対第三位の装備」

 

 流体金属の柔軟な利点を生かした防御に、発生させた磁場による妨害――自身の能力と組み合わせ、『電撃使いの感覚を狂わせる磁場を放出する』対発電系能力者(アンチエレクトロマスター)の必殺器具。

 その自分でつけた異名は伊達ではない、と。

 発電系能力者の最高位(ハイエンド)だと自負している。が、その感覚を気付かせずに狂わせていた。気付かなかったら迷ったままだった。

 

「さぁて、じゃあこいつに親玉のところまで案内してもらおうかしら」

 

 尻尾を――蜘蛛の糸を捕まえた。あとはそこから逆演算して能力者の位置を特定する―――!

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 学生寮の中庭の一角。

 邪魔にならないよう隅っこにひっそり、簡易的なガラス製の壁や天井に仕切られた、あ雨風を凌いで陽光を取り入れる空間。

 繁茂した緑の木々に魚が泳ぐ小池。花。何十種類もの植物。それに、遊びに来た何羽もの小鳥と何匹かの小動物。

 学生寮の庭というには植物が多い気がするし、かといって庭園と呼ぶには大げさな。

 製作者が言うには、諸々の機材設備を取り付けて、生命球に近い環境づくりしてあるのだそうで、かといって、人懐っこく子供たちと戯れる犬猫を見れば、中だけで完結しているようでも外からの参入を拒まない。

 来るもの拒まず、去るもの追わず。

 そして、木陰の下にあるテーブルは、お茶会をするには最適な場所なのだとか。

 今日はそこに、ミニチュアの建物――お菓子の家(ヘクセンハウス)が建設予定である。

 

(落ち付いて。素早く。静かに。避難じゃないけど、おすしの三ヶ条。こういうときの当麻さんは、何かにこけたりするものでしょうけど、今日はそういうわけにはいきませんことよ。これを落としたら兄の評価も地に落ちると思え! ……そぉっと、そぉ~っと)

 

 眼鏡メイドは、お盆の大皿に載せたお菓子の家を、ここまで慎重に運ぶ。

 茶色のチョコレートを材料に樫の扉を、棒状のクッキーを綺麗に重ねて煉瓦の壁を作り、透明度の高い飴でガラス窓を形成し、その内側にはシュー生地やマシュマロで作られたベットに調度品までも垣間見えて、菓子人形(何故かカエルだが)までそろえているなど随分とこだわっているような、何百分一に縮小したスケールの常盤台学生寮。

 ここまで来ると本末転倒になりそうだが、食べるのが勿体なく、手を付けることも出来なくなるのではないか。

 

「ふ、ふん! たいしたことありませんですの。どうせこれも寮の料理人に作らせたものなのでしょう。世間知らずの金持ちのその上高レベルの能力者、自分達は特別な人間だと思って歪んだ方たちがこんな……」

 

 ……さっそく、何やらぶつぶつ言ってるツインテールの女子小学生が目をくぎ付けに。

 

(いや、ここのお嬢様って、あの鬼塚も含めて家庭スキルは斜め上をいってるくらいだからなぁ……授業でペルシャ絨毯のほつれの直し方も習うそうだし。もちろん、できないやつはいるだろうけどな)

 

 それにしては、このお菓子の家ははりきり過ぎと思うが。

 妹的に、こう普段の鬱憤を晴らせるよう思いっきり菓子作りに勤しめる機会なのだろう。洋菓子から和菓子も網羅している妹も、あまり甘い物に感動のない男子的な愚兄よりも、こう目を輝かして感激してくれるほうが作り甲斐がある。

 そう、このような、

 

「うわぁー! 綺麗!」

「すっごい! お菓子の家!」

「それも食べてもいいの!」

 

「お、おう、でございますわよ!? と、っとと、だからテーブルに置くまで待って、おくんなまし!?」

 

 触らぬ神にたたりなし、

 としたかったところであるが、子供は、ひとりが気付けば、集団で群がる。

 寮の管理人――妹の師匠様が今しばらく外部との対応で手が離せないということで、迷子にならないよう施設から招待した<置き去り(チャイルドエラー)>たちをこの中で遊んでいてもらった。

 菓子細工、縫物(ステッチ)、生け花、絵画、書道、茶道など(=お嬢様なイメージの)体験ができ、学園都市のあらゆる蔵書が集まる書架の立ち入りが許されているわけだが、こう遊びた盛りのお年頃は、寮内で大人しくするなどは無理な話。というわけで、寮の管理人の監修の下、外にあるここに設けたスペースである。

 バレて騒ぎにならないよう、スニーキングミッションで運んでいたのに、見つかってしまった。

 両手は塞がれ、踏んだり蹴ったりするわけにもいかない状況下で、必死に説得を試みるも、無論、元気の良い子供側がそんな説教を斟酌するはずもないのである。これでは―――とそこで

 

「―――ジャッジメント! ……ですの」

 

 颯爽と。

 

「あなた達! そんなことしてここまで折角のヘクセンハウスが崩れてしまったらどうするんですの!」

 

 捨てる神もあれば拾う神もあり。

 先程のツインテールの少女がどうどうと制しながら、目標地点のテーブルへ。

 

(助かった……。にしても、手伝ってくれる予定だった土御門さん家の舞夏さんはどうしたんでしょうねー。さっきすれ違った、雲川さん……だったっけか、助っ人頼もうとしたんだけど、彼女もお菓子の家(これ)みた途端に、調理室に駆けこんで行ったし)

 

 と、何にせよ<風紀委員(ジャッジメント)>?の娘が仕切ってくれたおかげで難を脱した。

 

(これで全部運び終わったぞ……あまり、昼飯が食べれなかったしな。あの程度じゃ、成長期の食欲は満たされませんことよ~)

 

 お菓子の家に群がる子供たちから、離れて周りを窺えば。

 お菓子の家とは別にテーブルには色とりどりのクッキーを並べた大皿がある。

 あるいはドライフルーツ、あるいは砕いたナッツを表面に散りばめており、美味しそうに焼き上げられている。

 ひとつ、つまみ食いしたが、口の中に入れれば広がる甘い香り。

 表面のドライフルーツやナッツはもとより、生地に含まれた生姜(ジンジャー)の苦みがその甘さを引き立てて、多幸感を数倍にも引き上げてくれた。

 他にも小さく焼き上げられたサクサクとした薄桃や抹茶色の生地に、クリームやジャムを挟みこんだマカロンなどと並べられた大皿ごとに多様な種類に広げられて、飽きさせることがない。いいや、これだけの美味しさなら、ずっと同じでも飽きることはなかったろうけれど、豊富なバリエーションはその味と同じぐらいに、食べる者を楽しませてくれる。

 では、クッキーをもう一枚、つまみあげようとしたとき、

 

「ゥワン!」

 

 と鳴き声が跳ねて、小さな影が右手にあったクッキーを奪い取ったのである。

 それは、子犬だった。

 

「わん、わん、わん!」

 

「こ、こら! てめぇ! 人のお菓子まで取るな!」

 

「わん!」

 

「わんじゃねぇ!」

 

 もみ合いつつ、スルリと子犬が抜け出す。

 随分とすばしっこく、あっという間に区切られたエリアの隅まで逃げて、安全圏でクッキーを頬張る。

 縁日のヒヨコを無事に鶏にまで育て上げた飼育スキルの持ち主で、(とある幼馴染の新入生が寮入りし今年から動物的に厳しい環境になったそうだが)、こうして寮に集まってくる犬猫らの世話をしてると聞いているが、人懐っこい、というか人慣れしている。

 そのはしっこさに、げんなりと肩を落としてると、眼鏡メイドの足元に、また別の小さな毛むくじゃらの動物がじゃれついてきたのである。

 

「そんなことしたって、やらねーぞ。確かここにあるのは動物にもあげてもいいやつだって聞いてるが、それは子供たちに……まさか、舐められ―――うぉ!? おい、やめ―――ぃや!?」

 

 ぶんぶんと尻尾を振る豊かな感情表現を見せる子犬がスカートの中に入り込む。

 女子でなくとも悲鳴を上げたいところ。ひょっとすると、自分に付いた彼女の匂いで懐いているのか? もしくは一番カモり易い相手だと思われたのか?

 ぞろぞろと小動物が眼鏡メイドの下に群がっていく。

 仕方なしに、おばあちゃんのきびだんごならぬお嬢様手製の菓子をあげていると、ふと、日差し避けの陰で臥せている犬、ゴールデンレトリバーがこちらを見ていることに気づく。

 

『………、』

 

 何歳かは分からないが、もう大人だと言ってもよさそうな大型犬は、小動物から格下に扱われ、いいようにおちょくられている眼鏡メイドを見て、犬の感情なんて読み取れる能力はないのだがどことなく、呆れているように見える。

 

「あー、えっと、おひとついかがでせうか?」

 

 なんとなく、目上を相手にするように敬語となってしまう。すると、ゴールデンレトリバーは鼻を鳴らし、さも義理だと言わんばかりに、こちらにまで近寄り、右の手のひらに乗せた菓子を摘むように銜える。

 

『君に一男性として同情して来たわけだが』

 

 どこからかナイスミドルな渋い声。

 

『ふむ。丁寧に作られているな。楽しませようとする作り手の意図が見える。嗜好品は葉巻だと決まっているが、ごく偶にはこういうのもいい』

 

 眼鏡メイドは声の主を捜すも、ここには子供たちしかいない。ロマンスグレーな老練の紳士などどこにも見当たらない。

 幻聴か?

 不慣れな仕事――それもそうそう体験しそうにない女給の――に気疲れしていたのだろうか。

 

『人の目から解放されたいのなら、屋上へ行くと良いだろう』

 

 礼とでも言うように、尻尾を一度振って、ゴールデンレトリバーはひとりで去っていった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 かつて常盤台中学を含む<学者の園>には、建物どころか、土地に流れる地磁気を掌握することで街を丸ごと自分の領域に乗っ取れる能力者がいた。

 

 

 <希土拡散(アースパレット)>と呼ばれる希土類にエネルギーを込めて爆弾に変える大能力者(Level4)がいるように、磁性――己のAIM拡散力場を移した(マーキングした)金属片を、磁波分析機能を備えたパッシブソナーとする大能力者。

 それは長距離でも自在に遠隔操作できる<液化人形(リキッドシャドウ)>と同じように視覚外でも動かすことはできず、攻撃能力も精々が妨害で、防御能力もまるでない、人が触れればそれで磁性も掠れてしまうような弱小な能力の『噴出点』をもった、地雷――磁雷。

 その磁雷は、他の磁雷と結び()を張り、金属片を震わす周囲の繊細な音波振動に、人が放つ微かな生体磁場からの磁波とを拾い、そこから伝ってきたその形を脳内で細分析再構成し――弦楽器(ピアノ)の音を聞くだけでその音階を聴き分けられる絶対音感とおなじように――その全ての動きを把握できていた。

 

 そんな盗聴すらも可能な哨戒兵器(レーダー)を<学者の園>の至る所に張り巡らせていた。蜘蛛の巣、まさに蜘蛛の巣だ。

 

 そして、蜘蛛には毒がある。

 

 彼女が指揮する派閥に属する子には、左胸にバッチを付けることが義務付けられて、聴診器のように彼女たちの心音から、心の動き、動揺を計る。そして、コントロールした。

 支配下に置くために、精神、感情操作にも手を伸ばしていた。

 一説に――これは科学ではなくオカルトの領域になるが――スポットにされる霊場は、不協和音じみた特異的な磁場であって、近寄り難さもその影響。気功などと呼ばれるものは、生体磁石からの磁気エネルギーを応用した干渉作用である、などとあるが。

 薬にもなれば、毒にもなる。毒も利すれば、薬にする。

 生体磁気への干渉という麻薬じみた心の毒。

 それを磁雷の『噴出点』から放散し、その一帯を、生体磁石を狂わす魔境に変貌しながら、人心を扇動する。

 

 物理干渉と精神感応、共に使いこなす――100m短距離走とフルマラソンを両方を極めているような――貴重な能力者。

 それが常盤台の暴君が曰くに『絡新婦』―――

 

 常盤台中学の前女皇(クイーン)細蟹(ささがに)機織(はたおり)

 

 発電系能力者(エレクトロマスター)と一口に言っても、その範囲は多岐に亘るのだが、その頂点に立つ最高位(ハイエンド)こそが、<超電磁砲(レールガン)>と呼ばれる超能力者序列第三位である―――『絡新婦』は、その“成り損ない”。

 噛み砕いて言うなら、磁力使い。

 一応は発電系能力者の部類でありながら、自ら直接電気を発生することのできない。

 が。

 “成り損ない”が故に正当性、正統性には大いに欠けるが、しかし『成り損ないではあっても出来損ないではない』――そうであるが故の利点があり、実力があった。

 

 御坂美琴が超能力者として台頭する前の一時、細蟹機織こそ<超電磁砲>である、と―――

 

 過去に女皇(クイーン)と呼ばれながらも、とうとう<超電磁砲>になれなかった、なりきれなかった、なることを諦めてしまった、それは彼女なりの負け惜しみであるが―――しかし、それだけにかえって見栄も衒いもなく、逆説的に真理をついてると言える。

 

 

 

 虫――故障――バグ(bug)

 

 二面が同時展開される盤面で、故障を引き起こす虫の巣窟―――まさに、アリに巣食われ、クモが張り巡らされた今の常盤台学生寮で敷かれているのは、バグハウスチェス(bughouse chess)

 

 そんな学生寮(バグハウス)の屋上。

 すでに中庭ではチャリティオークションが始まっており、時間的余裕はあまりない。

 少し空腹を覚えたが、我慢するしかない。食堂でゆっくりランチできる状況ではなかった。

 美琴たち以外に、人の気配はまるでない。

 普段は鍵がかけられている立ち入り禁止区域だが、発電系能力者ならば、そのロックを外すことは容易である。この学園都市で密室状況などそうそう作れるものではないのである。

 縁から下を覗かない限りは、上にいることを気付かれない、まして磁気制御モニターのカモフラージュ能力があり、そして今注目すべきは“OBから例年以上に高価な品がオークション”にかけられた舞台上なのだから―――だから、今ここは死角だ。

 

 何かを隠すとき、全てを隠そうとすると、逆に何かが見えてしまうもの。

 本当に相手から隠したいのであれば、死角を作るのだ。

 相手の目を引き、耳を引き、興味を引いて、隠したい対象が相手の意識の空白に入り込むようにする。

 

 人間の認識能力には限界がある。

 故に、その限界を超えさせれば、意識の空白は自ずと、そこに生じる。そう、死角、というものだ。

 

 それができるのは、内部からの精神操作による意識干渉か、もしくは外部にある意識以外の部分に干渉するか。

 

 後者の原理の一例として、とある眼鏡メイドがお客様の眼前に拳を寸止めし、反射的に意識が衝撃に備えることでいっぱいになったが、実際に踏まれている足の感触はまるでわかっていなかった。

 この場合、相手の意識を一点に集中させてしまい、他の全てを死角にするという、技術。

 他にも雷が落ちた音に、皆が敏感に反応する、その瞬間は無防備となる。

 逆に木の形が人の顔に見えたり、暗がりから何かが見ているような感覚を覚えたり、周囲の全てに警戒し、広く薄く意識を分散させてしまう、磁場が特異な樹海(パワースポット)ような場所に、無暗に走り回っても無意識に立ち寄らない一点だけ隠しスポットを作る、など。

 

 この認識不能を演出でやるような、計算ずくの意味不明、計算高き複雑怪奇。

 

 故に。

 己の感覚に頼りがちな電撃使いにはけして辿り着くことはできず、自縄自縛――磁縄磁縛に蜘蛛の糸が絡まって身動きが取れなくなる。不安定な磁場に同調してしまい、迷っていることを気付かずに迷子となる……はずだった。

 

 だが、今御坂美琴は、その絡新婦(クモ)の前にいた。

 

 咄嗟に叱声を発しかけた美琴は、しかし、寸前であやうく思いとどまった。この場はすでに相手が糸を張り巡らせた盤上(テリトリー)だと、と考えて。

 直情な美琴にとって、わざわざ怒声をこらえるために意思を振り絞るなど滅多にしないことだったが、この時の美琴は疑いなく心身を怒気で染めていた。こらえることが出来たのは本当に偶然に過ぎない。

 

「……そう、結局わたくしの前に現れたのは彼女ではなく、第三位」

 

 屋上まで持ち込んだ椅子に掛けながら、動揺もなく、最小限の眼球の動きで、美琴をとらえた。高精度のセンサーにも似た虹彩が美琴を見つめている。

 その顔は今朝に見えたモノとパーツパーツは瓜二つ。それでも既視感はなかった。全身から放つオーラの密度がまるで違う。

 アレは本物。

 美琴は固唾を呑んだ。

 風のない湖面のように平穏で、機械の如く冷たい、隙のない鋭敏さに満ち溢れた彼女。

 

「行動力はあっても直情的な第三位は、ルーク。……チェスの中で最も遅く展開される駒のために、新参者――『ルーキー(Rookie)』とも呼ばれるのですが。

 『王座交換(キャスリング)』とは、そういう新人の出しゃばりからくるものなのでしょうか。

 アナタが来なければ、きっと彼女が駆けつけただろうに」

 

 お前などお呼びでない、と―――

 

「それはこっちのセリフよ。卒業生(OB)が今さら出しゃばってくんじゃないわよ」

 

 その視線を一蹴する美琴の強い眼差し。

 御坂美琴は、走りながらも頭の中で情報を整理し、この相手の正体が、前女皇の細蟹機織だと気付き、そして、彼女に関する話も思い出していた。

 

「一体何の恨みがあるっていうのよ。詩歌さんは、アンタの『派閥』を、潰してなんかいない。むしろ過去の事件から卒業までに“立て直したんじゃない”」

 

「ですが、“わたくしの『派閥(誇り)』を継いではくれなかった”」

 

 細蟹機織は、敗者。

 だから、勝者にこそ『派閥』を継いでほしかった。

 

「破裂させたあの王座(イス)。一度は外したものを今日つけ直しましたけど、アレはわたくしが贈ったもので、最初は、<魔女の咆哮>を設置されていたのをご存知?」

 

 

 『ダモクレスの剣』という逸話。

 玉座に座る僭主ディオニュシオスを羨んだダモクレスは、彼からこう言われる。

 

『ならばあなたがこの玉座に座ってみるか』

 

 と、意識を上に誘導され。

 その真上に、細い糸で吊り下げられた一本の剣があることにダモクレスは気づいた。

 いつその剣が、頭上から降ってくるかわからない―――それが人の上に立つ者の座る椅子なのだと、君主たるもの常に自分が危険な場所にいるという心構えをしておくべきなのだと、ディオニュシオスはダモクレスに示したのである。

 

 その倣いを、卒業の日に行い、自分からの吹っ掛けに彼女は乗ってくれた。

 

 

「ねぇ、理解できますか? わたくしは彼女と戦い、負けた。だとしても、誰もが誰かを騙し合う世界で頂点を狙っていた『派閥』の長です。一度や二度の敗北で、諦められるでしょうか。彼女はあの頃の派閥世界に戦って、その汚い面を見てきたはずなのに。そのわたくしが贈った、あのピアノ――地雷()を付けた玉座(The throne)に座ることができた。疑える他人を信じることができるのですよ」

 

 その台詞には少しの涙が混じっていたかのように思えた。けれど『絡新婦』は、けして泣いてなんかいない。美琴はじっと、見張るように睨みつける。

 

「当時の『派閥』を生きたわたくしたちにしてみれば、ああ、なんて嫌味な話でしょうね。あれほど聡明であるはずの彼女が、誰よりも他人と対等であろうとし、何より尊敬する。いえ、それこそが強さなのでしょうね。

 わたくしにはとても真似できない。いいえ、彼女の人を、その才を見抜く天賦の目にはきっと誰も敵わない」

 

 そうして、その人たちが動きやすいように環境を整え、実力を発揮できるようにする。

 それが、どれだけ難しいことなのか。当時の『派閥』の多くは、そのことに気付き、それを成している人物の価値に気付いていることだろう。

 であるなら、上条詩歌個人が誰に遠慮することもなく力を揮うことが出来るとなればどれほどのものをもたらすのか、と考えてしまう。

 期待は、夢想を呼び、それはいつしか野望に成る。

 

「なのに本人は、まったくその気がない。己の栄誉も地位もまるで求めやしない。もしも彼女が率いてくれれば、『派閥』を新参者の第五位に呑まれてしまうことはきっとなかったでしょう。けど、いくら誘いをかけても彼女にしてみれば、単なるお手伝いでしかなかった」

 

 それは……

 御坂美琴が超能力者に到達した時、強能力者のままでいる彼女への嫉妬にもならなかった思いが、その言葉に同情する。本音を言えば、自分以上の実力があるはずなのに次のステージに向かわず、その下で踏み台となっているなんて―――してほしくなかった。

 

「勿体ないでしょう。惜しいと思うでしょう? 洒落になりませんよね。

 格の差をつけたというのに、その上に立とうともしてくれない。あれだけの輝きを秘めてるというのにあくまでも影働きに徹する。あのとき、あの王座に座ることができた彼女ならば、わたくしは全てを捧げてもよかった。いつかいつかとそう言われるのを待っておりました。ですが、ついに卒業までこの想いには応えてくれませんでした。

 上条詩歌は、わたくしの『派閥(誇り)』ではなく、“不幸”にしか興味はなかった」

 

 笑顔でありながらも、その話し方は切々としている。歯がゆさが言葉の端々から滲み出るような気さえした。

 

 

「ですから、これから“不幸になるわたくし”を救ってもらうことにしました」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 なぜこうも回りくどい方法を取り、その目的はなんなのか。

 

 

 あの幽霊から、必ず被害者を出すと予告した。あの致死させる兵器で。

 できることなら、この<盛夏祭>を中止にしたくはないが、被害を出させる前に招待客及び学生教員全て建物から避難させるべきだろう。

 しかし、それもルールで禁じると脅した。

 

 ―――相手は何で、密室状況というミステリを作り、幽霊なんてオカルトを演出したのか……この学園都市でそんな非科学的なモノは馬鹿馬鹿しいとしか思われないのに……私は幽霊なんて非実在は信じられない。現象には必ず理由があるとしたら……

 

 幽霊がいない、可能性はゼロにはできない。

 これが学園都市でなければ、密室で幽霊が出たと大騒ぎにはなるだろうし、その上、人に害を成したとなれば、『悪事千里走る』と格言通りより印象が強くなり、七不思議の怪談として残るだろう。いや、学園都市だとしてもその手の話は広まる。『ボタンひとつで天才を作るクローンドリー』や『裏の情報を調べればハウンドドックが拉致りに来る』、『ハジマリの研究所は虚数学区にある』、『24時間視線が張り付いてくる誰かが見てる』など、ネットに載ってる都市伝説サイトで流行ってるのを聞いた事がある。

 だがそれは『無理矢理恣意的な自分なりの解釈』や『現実的にその話が実現可能か否かの解説』が入ったとしても、そんなのは『科学的に考えてそれは不可能だから』と潰される。

 話としてはそれなりに面白いのかもしれないが、本当に面白いだけ。他人を説得するには絶対的に何かが足りない―――そう、御坂美琴はそう思う。

 作ったとしても結局徒労に終わる。意味がない―――だがそれに、意味を持たせるのだとすれば―――

 幽霊が出たという可能性がゼロではない―――その逆説に、可能性をゼロでなくするために幽霊を出した―――

 ならそれはいったい何の可能性、何のための可能性―――

 

 御坂美琴が現れなければ、あそこにいたのは上条詩歌で。

 あいつは上条詩歌に一生の傷を残すと宣言して。

 しかし。

 上条詩歌は、御坂美琴が知る限り解決できなかった問題がない。あの細蟹機織も上条詩歌の実力は敵味方両方のパターンで目の当たりにしているはずだ。

 超能力者でさえ抑え込めてしまうような天才を相手にどうやって勝てるというのか?

 

 

 いや、()()()()()()()()()()()()()()()―――どう?

 

 

 どうなる?

 どうする?

 

 

 実際問題として。

 御坂美琴は、科学で説明できないものは考えられない。幽霊なんて、まったく信じていない。火のない所に煙は立たないと言われようと、その煙だけを見てなんでも鵜呑みして大騒ぎすることなどしない。

 だから、いくら悪評を流されようとも、腹が立っても、彼女を知っている美琴自身の評価が下がることはけしてない。

 

 しかし、噂とは誇大にして広まるもので。

 そのたった0.1%にも過ぎない瑕疵がある限り、それが100.0%の否定はできないと、『幽霊』の犯行を信じる人間がいれば―――

 それに左右される大衆は、その『濡れ衣(看板)』を被った(背負った)人物のことなど見てはいない。

 

 そう。

 つい先ほど御坂美琴と同じ。

 

 それに、そもそも上条詩歌は―――

 

「きっと、忘れられない日になる。上条詩歌にわたくしの存在は永遠に刻まれることになるんですから」

 

「――――――――――っ!」

 

 常に無自覚にも意識していた礼儀正しさも殴り捨てて、空気を切り裂くような声にならない悲鳴を上げそうになる。

 思考が雷光の速さで廻り、最も重要な着眼点に至る。ミステリやオカルトなんか彼方へ立ち消えてしまうくらいの圧倒的な欺瞞に。逆演算で根源的な着地点に辿り着く。

 

「どうしてこんなこと、考えられんのっ!」

 

 なんて、歯がゆいのだろう

 事実というのは、もっと気持ちのいいものじゃないのか? 数式の解なら正答すればすっきりするものなのに、真実を喝破した時、人はもっと、爽やかな気分になるはずじゃないのか? これが、“こういうの”がそうだと言うなら―――

 

 そう、と細蟹は頷く。

 

「<魔女の咆哮>が降されるのは、わたくし。あのグランドピアノの弦は、紐。鍵は、剣。叩いた振動を共振し―――この王座に落とされる」

 

 バグ《Bug》。コンピューターのプログラム上の不具合で、隠微に蠢く(バグ)に喩えてこう呼ぶ。

 そして、バグハウスとは、『精神病棟(Bughouse)』、とも読める。

 

 

「破綻してるわよアンタ。そんなの自殺と同じじゃ……」

 

「自殺じゃないわ。だってわたくし、幽霊に殺されるんですもの。そして、上条詩歌が仕掛けに気付けば、その手でわたくしを幽霊から救ってくれる機会がある。気付かなければ、紐が切れて幽霊が椅子に剣を落とされる。ね? わたくし、殺されたくないわ。だから、第三位ではなく彼女に会いたかったのに。彼女ならきっと救ってくれるもの」

 

「そんなの無茶苦茶よ。そんなことして死んだら何になるのよ」

 

「彼女のモノになるわ。あのとき、継承できなかったものを、幽霊に殺されたわたくしの遺産として受け取ってくれる。きっと“無念を晴らしてそうとしてくれる”―――」

 

 勝つのではない。

 決して解決できない問題を作り、千日手(引き分け)の局面に持ち込むつもりなのだ。

 

 あるものを見つけるのならまだしも、ないものを見つけるのは難しい。

 そして、ないものが、元々ないものだとしたら、見つけるのは不可能だ。

 証明などできない。

 解答のないQ(問題)には、解答不能と言うA(解答)を出さなければならないのに。

 『幽霊の仕業』なんて非科学(オカルト)が、『自殺の可能性』を不明確に邪魔する。『科学の絶対性』を阻害する。

 そして、解決できない以上、幼馴染は事件と関わり続ける。『絡新婦』の幻想と構われ続ける。

 そうして。見えない糸に絡め取れて―――自分から離れなくさせるのだ。

 

 

「だから、邪魔者もここで幽霊に殺されて、彼女に無念を晴らしてもらいましょう」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 思考さえも、脳の物理的な活動の結果とすることで、人工知能なんて分野が発展する。

 

 思考という概念を脳が一枚岩となって活動している、ただのニューロンとシナプスによる電気反応に過ぎないというなら、それは機械と変わらないではないかというセンチメンタリズムな反対意見も理解できなくもないが、美琴は現代生理学をそこまで侮っていない。

 

 機械と人間とを同じものだと考えて、全体どのような不都合が生じるのか。

 完全な論理(ロジック)と整然な理論(プログラム)によって人間活動と人間行動の全てが説明できたとして、あるいはそれと似た模造品の作りだせたとして、それのいったい何が悪だというのか。

 

 有機物の塊を無機物の集合体で表現する行為は褒められるものでこそあれ責められるべきものではない。

 とにかく、今日プログラムやアプリケーションで人間の思考を再現するのは、理屈の上では可能だというのは既に常識になっている。まして、学園都市ならば完成し終わってるだろう。

 

「代理演算リクエスト。能力ブースト指定」

 

 能力演算を外部の人工知能に代理させる。

 脳の破損によって人格の変化が出る場合もあるなら、逆もしかり。

 代理演算ソフトと音波信号や点滅信号でリンクさせて、演算機能の性能(スペック)を格段に拡張することも可能だ。

 

 が、それは数年前に、暴走事故を起こした実例もあり、リスクを孕んだ補強だ。

 さらに、機械(リアル)接続による能力の向上――思考を機械に預ける行為は、下手をすれば人格全体に悪影響を及ぼす。

 

「<封健の盾>に組み込んだのは、わたくしの『派閥』で研究していた成果のひとつ、代理演算システム。素質のない子には無理でしょうが、わたくしならば―――」

 

 『絡新婦』。

 暴君が広めたその異名が暗に示すのは、蜘蛛のような戦術だけではなく、『新しく機械をその身に取り込む』素行のことをいい、一文字は省いている。

 機械――機巧――絡繰(からくり)――<絡繰新婦>。

 目新しい絡繰に自らを試験者(テスター)に志願する婦女。

 細蟹機織が得意としていたのは機械全般で、超能力者(Level5)を目指す為に能力者に適合した代理演算を開発しようとしていた。

 

「―――!」

 

 もう胸元辺りに迫っていた“透明化した布盾”を、御坂美琴は自身の磁力で掴み取った。

 電磁波の触覚として、確かに何かを押さえている感があり、電流を通せば磁性制御モニターの膜は剥がれて露わとなる攻防一体の金属布。

 

「どうやら二度も不意を打つ阿呆ではないようですわね。ですが、たかがひとつ、歩兵(ポーン)を取ったところで。チェスの駒数は16、わたくしの手足はまだまだございますのよ」

 

 既にこの屋上は、蜘蛛の糸のように見えない罠で取り囲まれている。

 細蟹機織は片手で自身の肩あたりを撫でる。

 きゅる、という動作音。

 そこにもある。彼女の周囲には彼女以外のモノを電磁波は捉えている。

 

「量産型で領域に妨害磁場を発する『ポーン』が8つ、高速で飛び回る『ナイト』が2つ、頑丈で盾となる『ルーク』が2つ、鋭利で外敵を切り裂く『ビショップ』が2、代理演算を統括する『クイーン』が1―――そして、接続者であるわたくし『キング』」

 

 こちらの電撃(攻撃)をいなせる護衛が十数もあるとは、発電系能力者には絶望的な戦力差。かつ、磁力使いの能力を応用した磁気制御モニターでこちらの視覚から隠し、かといって電磁波のレーダーに頼れば、そこを付け込んで、磁場で攪乱――死角を作り、反撃に転ずる。それが敗北した流れで。

 

「ちなみに、先程は、わたくし。『ポーン』のみであなたのお相手をしていたのでございますわよ」

 

 空中に停滞し、景色と擬態している布盾達は、刃物めいた鋭い音を引いて御坂美琴へと襲いかかる。

 それは、計算しつくされた破壊の嵐。

 しかし、そのうちの多数の『ポーン』は―――美琴を狙っていない。

 美琴を目標としていない。

 目的は空間の制圧。ただ、美琴の逃げ道を塞ぐだけだった。

 

「……っ」

 

 逃げる方向を予測して、そこにあらかじめ『ポーン』を放った―――というような話ではない。対して狙いも付けず、ランダムにその方位を塞ぐことによって、美琴がその『ポーン』に反応し、逆の方向へと逃げるように誘導しているのだ。

 性質の悪いことに、電撃使いにとって不快な磁場を発生させるため、反射的に忌避してしまい、無視できない。

 行動を制限する、壁。

 点でありながら面。

 面でありながら立体。

 言わば、『ポーン』を囮、捨て駒として使っている。

 

(私の読みより二手―――いや、三手先を読んで、動いてる)

 

 これならばいっそ数に任せて一斉に蹂躙してくれた方が助かった―――タイミングを見計らって進路を限定されたら、どうしても動きが単調になってしまう。集中力が乱されること甚だしい。

 もちろん、『ポーン』が捨て駒と言うことは。

 直後、それ以上の本筋が―――来る。

 

「―――いいえ、それよりも遥か先を読んでおりますわ」

 

 椅子に掛けたまま、余裕を持った仕草で、<絡繰新婦>は美琴に指を向ける。

 動かす駒は、『ナイト』。そう指示した時点で近距離まで迫っていて―――そして、美琴が形成した反発磁場を飛び越えるように躱して。

 布盾が、美琴に叩きつけてきた。

 

「……ぐぅっ!」

 

 屋上にあっては、砂鉄は存在しない。武器や防御に使える物がない。

 跳び下がったところは、『ポーン』が囲う袋小路で、その隙間から刀の如き『ビショップ』が差し込む。

 美琴の肩口が、浅くだが斬る。牽制としてはなった電撃さえ平べったい『ルーク』に包まれるように避雷される。

 

「今のあなたは、その斧を大きく見せようとして、車輪に踏みつぶされる蟷螂のよう」

 

 <絡繰新婦>の演算能力は大能力者のはずだが、超能力者の<超電磁砲>を上回る速さで演算式は完了している。三手先を読んで行動しても、あっさり二手上をいく。

 それもそのはず。<絡繰新婦>はただ己が駒に『襲え』と命じただけで、終わっているのだ。

 尚且つ、代理演算で機械と繋がっている<絡繰新婦>の防衛を<超電磁砲>は突破できず、詰めの失敗はしない。

 最早、運命という車輪は止まることなく、蟷螂の斧は無為に終わるのみ。

 

「人間対機械の一例として、コンピューターとのチェスゲームがありますが。

 その際、電子頭脳が発揮されたその演算力は、1秒に2億手の先読みを行い、かつ過去の棋譜の情報から対戦相手となる人間の思考をも予測してみせたといいます」

 

 厳密なプログラムに従って普通には理解できない理屈で、しかも超高速で動作する。あらゆることを可能にし、人間とは全く違う膨大な言語暗号によって作動し、人間が100年かかってようやく近付いた境地に5分で到達してしまえる。

 

「チェスのようなゼロ・サム・ゲームには必ず最適の手がある、というゲーム理論はご存知かしら?」

 

 チェスの駒の動かし方は数学的に限られている。故に、必ず『最適の一手』というものが存在する。だから極端な話、最初に駒を動かした段階で、もう勝敗は決していると言ってもいい。

 未来予測という観点で、人間の思考能力は機械に遠く及ばない。現に学園都市の研究者がこぞって先の結果を見せてもらおうと予約している<樹形図の設計者>は、分単位でスケジュールが埋まっている。もしも<樹形図の設計者>が撃墜されたなんて事態になれば、百を超える分野で、数十年単位の足止めが起こってもおかしくはない。

 学園都市最強の第一位の頭脳でさえ世界中の気候を掌握するには困難だろうが、学園都市最高の機械頭脳は気候を完全に予報している。

 つまり機械思考を借りている以上、超能力者だろうと敵わないのだと。

 

「もう先は見えております。あと15手でわたくしの勝ちで終わる。所詮は人間の集中力がそう長続きすることはなく、第三位に勝ち目はない」

 

 しゅんしゅんしゅん―――とあちこちから空気が裂けるような音がこだまさせる布地が、彼女にとっては核シェルター以上の防壁であるかのように、低くこだまさせる。

 さながらメトロノームのように。

 正確にリズムを刻む。

 正確にビートを刻む。

 失敗は、ない。

 それに対し、

 『看板(エース)』を背負った少女は。

 

「………」

 

 と、目を細めた。

 その間にも美琴は、その防御の隙間を縫おうとし、そしてそれが未遂に終わるという不毛な行為をただ淡々と続けている。

 

「まだ詰んでいるの(チェックメイト)先読みできない(わからない)んですか、『ポーン』から成り上がりの『ルーク』。往生際が悪いのはみっともないですわよ。それとも第三位の代名詞であるレールガンでも―――」

 

 挫ける、など。

 諦める、など。

 屈する、など。

 その手の概念を一切無視するように――負けず嫌いの『強さ』を存分に――突破を試み続け、失敗し続ける。

 認めよう。

 その防御は金城鉄壁。しかし、

 

「アンタに合わせて言ってあげるけど」

 

 何もしてないように見えるのに触れられない空城完璧には及ばない。

 

「『キング』が自殺するのはその時点で負け確定の禁じ手よ。はっきり言って、死ぬことで事を成そうとする無意味さに、同情さえ浮かばないわね」

 

「それは第三位が真に絶望をしたことがないからですわ」

 

「だったら、その絶望を他人に押し付けようなんて考えんじゃないわよ。私はたとえ死んだって負債なんて押しつけたくなんかないわよ!」

 

 その瞳は、雷雲の中の紫電の嵐。

 吹き抜ける圧倒的なまでの存在感と、絶望的なまでの格の違いを悟らせる。

 

 

「痛っ……」

 

 

 と。

 思わず、声が出た。

 電撃の火花が頬を掠ったのだ。

 超能力者を相手にしながらその程度の掠り傷で済んだならむしろ僥倖なのであろうが。

 

 ありえない。

 

 この王座に、攻撃が届くなんて。通じさせない。否、通じさせないという言い方ではなく、通させないように駒の動きは設定してある。

 <封健の盾>は、発電系能力者の電磁波、AIM拡散力場という無意識下の電気信号を――前兆から反射反応で動く右手のように――感知して、代理演算の機械的思考が即急に対応する。

 電撃を盾の避雷で流し、磁力を磁力で反発させる。その他の発電系能力者が行動パターンも入力され、どんな攻撃にも完全に封じるように<封健の盾>は自動対応できる性能がある。

 一体どこに不安要素がある。

 <超電磁砲>が発電系能力者である限り、どんな攻撃も自分の身体に触れることはないのだ。

 自らを無敵だと鼓舞したアレキサンダー大王よろしく、雨の如き矢の中であって悠然としていたように。

 御坂美琴の戦闘データーは集められるだけ集めた。だから、こんなのはまぐれで―――

 

「そういえば、あと15手で終わるとか言ってたわね―――」

 

 細蟹機織に、超能力者は宣告する。

 

 

「―――じゃあ、それ。あと16手で椅子から転げ落ちるに変更ね」

 

 

 自動機械のように、間断なく、第三位(エース)から繰りだされる攻撃を<封健の盾(エースキラー)>は捌く。

 複数の駒による対発電系能力者に特化した鎧―――およそ能力者(キング)だけで突き崩せるものではない!

 磁性制御モンターの隠蔽で見えはしないが、『キング』たる細蟹の周囲は『ナイト』、『ビショップ』、『ルーク』で固めてあり、その様は蜘蛛のよう。

 たとえ、第三位の代名詞たるレールガンを放とうが、この代理演算による自律防御の反応速度で対処可能。

 そして、今は猛攻を一応のところ、第三位はかわしきっていた―――そこは、超能力者として、常盤台中学の看板としての、面目躍如だろう。

 とは言え、苦戦に違いなく、現状何とか凌げてはいてもジリ貧であることに変わりなく、体力の消耗具合も屋上いっぱいを走って動き回る美琴よりも泰然と王座に座っている細蟹の方が、どんなに贔屓目に見ても余裕がある。

 実際、先程は『ポーン』だけで圧倒することができたなら、第三位に勝ち目などない筈。

 筈なのに。

 

 一体。

 

 いつの間に。

 

 どこか、<絡繰新婦>の方が防戦一方な印象がぬぐえなくなっている。

 

 盤上で、相手の『キング』たった一駒にこちらは『ポーン』、『ナイト』、『ビショップ』、『ルーク』、『クイーン』の全てが揃っているのに、こっちが詰められていくような……

 

 そして。

 

 宣告通り、細蟹機織が、床に倒れた。

 椅子が急にうしろに引かれた形で、背中から後ろへ尻もちをついて、姿勢が崩れたらしい。何が起こったのか分からないといった顔で、床に、不恰好な姿勢で仰向けに倒れている。

 

「……え? あれ?」

 

「どうしたの? 足でも滑ったのかしら?」

 

 御坂美琴は―――『ポーン』に囲まれていたものの、そこから間一髪で逃れている。呼吸こそ荒いが、まるっきり余裕な態度で笑みさえ浮かべている。

 細蟹機織はすぐに立ち上がろうとするが、しかしそれにも失敗し、まるで重度の酔っぱらいか何かのように、起き上がることも出来ない。

 第三位を見上げても、何もした様子はない。当然だ。この間合い。空間を支配しているのはこちらの方だ。

 じゃあ、椅子を引いて細蟹を転ばしたのはなんなのだ―――

 

「『クイーン』が、相手の動きを先読みし、十数の手足たる駒を動かす統括。それぞれの駒に内蔵された通信モデルから司令塔の指示を、アンタも代理演算の信号を受信している。

 それらの無線通信接続は、携帯機器、無線LANによく用いられる周波数ホッピングと同じ。送受信間の周波数を一定の規則に従い高速でチャンネルの切り替えを行うことで、妨害干渉傍受を防いで秘匿性を高めてるってとこね。まあ、とある女優と音楽家が基礎を構築したもんだったかしら」

 

 雑談も交えながら、美琴は言う。細蟹は美琴の言葉に耳を貸さず、『ビショップ』、『ナイト』、防衛役の『ルーク』までも強襲に向かわせる。

 それら強力な磁力束で結ばれた布陣は、まるで蜘蛛の巣。

 一つの駒が動くたびに形を変え、何重にも張り巡らされている蜘蛛の巣の隙間を、その三手先を呼んだ計算を、第三位は二手先を読み切っている動きで跳ぶようにかわしていく。

 

「発電系能力者の中には、触れただけで電子情報を抜きとることができるのもいる。何の端末道具もなしじゃ電波の前兆しか無理だけど、アクセスするに必要な道具さえ揃えてもらったら、パスワードやセキュリティでいくら固めようと解除できたり、あらゆる電子機器の遠隔操作や情報を盗むことができたりするものよ」

 

「っ、わたくしが<封健の盾>に組み込んだ代理演算システムは既製品の出力では―――あ」

 

 ()()()

 気付く。一つの駒が、布陣の歯車に、噛み合っているようで、歯止めをかけている。蜘蛛の巣を張るのではなく糸を切るように、邪魔をするような動きをしているらしい『それ』が細蟹の視界に入りはしたが―――しかしあまりにも予想外のその物体に、彼女の脳が認識を拒絶する。

 脳が視力を信用しない。

 

「駒の数、“一つ”、多いんじゃない」

 

 結局、細蟹が認識し、理解する前に。

 それの“今の主”であるところの御坂美琴が―――丁寧に、指摘した。戦闘の合間にも散々と解説してくれたことに対する礼儀だとでも言うように。

 

「私もピアノの調律じゃないけどプログラムの調整なら結構自身があるわ。元々、筋ジストロフィー(とある病気)で代理演算には興味があったし―――というわけで、妨害傍受(ストーカー)で付きまとわせてたアンタの『ポーン()』、せっかく捕まえたから再利用し(借り)てるわよ」

 

「………っ!」

 

「電波状況が酷いから、また接続するのに時間はかかったし、敵陣まで踏み込まなくちゃなんなかったけど。これで『ポーン』は『クイーン』にプロモーションしたってところかしら」

 

 歩兵から女王。まさしく、最底辺(Level1)から最上位(Level5)となった第三位と同じ成り上がり。

 

 その己が良く口にするような挑発(言い回し)に。

 細蟹機織の精神は、あっという間に沸騰する。

 

 ―――相手が同じ土俵にまで上ってきたこの状況が読めないわけではない。

 

 『ポーン』の送受信回線から接続することで、『キング』の<絡繰新婦>と同じように、『クイーン』の未来予測を受け取る。

 

 機械仕掛けの神(デウス=エクス=マキナ)の威を借る神算の短絡。

 

 お互いの磁動の駒をその反する磁力で弾きながら、相手の射線を潰し合う。元々、発電系能力者の理合いを獲得している両者の攻防はあまりに精巧で一瞬の停滞もなく、一挙一動が互いの打倒という合理的生の轍から寸分も外れない。

 互いに完璧であるが故の必然的互角。一種の千日手になる―――はずだ。

 

「付き合ってる時間がないんだから、千日手になんて持ち込まないわよ」

 

 しかし、均衡は明らかに美琴に傾いている。

 狂乱する細蟹に対し、彼女は始めから一つの作業に集中している。

 ギリギリと絞り出すようになされる一念一想の先鋭化が、美琴の演算操作を最高速からさらに加速する。完封されていた射線を次第にこじ開け、(キング)の道筋が開くたびに攻略アルゴリズムの最適化を進める代理演算が先へ手を伸ばしていく。

 そう。代理演算との機械接続(リアルアクセス)の適正でいえば、大能力者で磁力を扱うこちらよりも、超能力者で電磁力の両方を使える<超電磁砲>の方が上であることに間違いない。

 

 細蟹機織が、短距離走と長距離走を両方こなせるという選手ならば、御坂美琴は陸上十種競技を同時にこなせる逸材だ。

 

 代理演算のアドバンテージがなくなれば、大能力者は超能力者に先読みでは、勝てない。

 

 今や、美琴の視界に直覚が計算で補正された王手直線を描かれている。自分と相手を繋ぐように連続して並ぶ環の列軌道、それは御坂美琴の<自分だけの現実>が世界に敷いたレールだ。

 己が法則と摂理を敷く方を感得した者たちが辿りつける視野、天啓のマニューバー。

 

「……で、まだ詰んでいるの(チェックメイト)先読みできない(わからない)のかしら。往生際が悪いのはみっともないわよ」

 

「う、うるさい―――うるさいうるさい―――」

 

 巣から落とされた蜘蛛は倒れたままで睨む。

 肉体は動作せずとも精神だけは激しく動揺する―――しかし、沸騰した脳では、最適解だとしても降参など選べるわけがない。最高位になれなかった磁力使いにある、負けず嫌いの『弱さ』が邪魔をする。

 

「『レールガン』という称号はわたくしのモノになるはずだった! 先生もわたくしを認めてくれるはずだった! 成り上がりのアナタがいなければ―――!

 ええ、アナタさえいなければ、彼女はわたくしの『派閥』を継いでくれたのに―――!」

 

 対電撃使いの駒が5、誘導ミサイルのように飛翔して殺到し、精妙に美琴の周りを囲む。

 数多の磁力線を束ねた糸が繋がり、まるでピラミッドのような正四角錐の檻を成す。と、閉じ込めた獲物を八つ裂きにするようにあらゆる逃げ場所を奪ってから、蜘蛛が最期に糸を絡み取るように、布盾の檻はぎゅるりとすぼまった。

 

 しかし、いくら蜘蛛が大きな巣を張ったところで、鳥はそれを悠々と突き破る。

 

 ごお、と空気が震えた。

 自らが操縦する『ポーン』の上に乗り、周囲の磁力の流れを読み切り、反発を利用さえして、一気に自由な空へ―――盤外へと舞い上がった。

 

「人間対機械の勝率って、100%じゃないのをご存知かしら」

 

 つまり。

 総合的には惨敗だったが、勝利したケースもある。

 高等技術(ハイテクノロジー)は高等技術で落とし穴がある。

 

「それは定跡を外して、未知の局面に持ち込まれたパターンが多い。通常の展開と言うのを知らない素人がするようなアドリブされると考え過ぎてペースを崩されんのよねー。

 ゲーム理論の必勝法なんて、相手がまず最高の打ち手であって、自分が最優の打ち手であることが前提の空論でしかない」

 

 最適解を打つ、と、最適解しか打てない、の違い。だが、その差は大きい。

 

「私はまだ現時点で最高だって思ってないけど、アンタは最優なんかじゃない。この勝負は勝たせてもらうわよ」

 

 眼下には、残りの駒で組み立てられる――『女王』が中心と成り変形した猛な鋼鉄の砲門。その背後から操縦者である能力者の頭脳を繋ぐ極太のケーブルと増幅器に、ある種の軍事技術に詳しいモノなら目を剥く、または発電系能力者ならば直感的に悟るに違いない。

 

「いいえ、こうなってしまえば力で圧倒するしかありませんわ。あなたのが超電磁砲(レールガン)ならばこれは超々電磁砲《スーパーレールガン》!」

 

 大口径電磁誘導砲(レールガン)

 極大電流の相互作用によって、弾体を射出する軍兵器。

 その超電磁の砲弾が貫通する圧倒的なベクトルは、どのような防壁を用意しようがそれごと穿つだろう。

 

(『クイーン』の代理演算に頼るのならば、そこからさらに逆算し―――)

 

 そして、精密に。

 銃口の照準が、空を飛行する相手の『ポーン』から成り上がった『クイーン』を追尾―――と、いない。

 

「―――なら、その逆算も利用するまでよ!」

 

 その読みを上回る。それも相手の予測を斜め上に行くように。

 代理演算の援助を受けてようやく、優位に立ったはずの先読みをあっさりと放棄する。

 操縦する『ポーン』を銃口が向けられた、がままに囮として動かし、御坂美琴はそれと同時に上空からすでに飛び降りていた。

 常盤台のエースの前に、遮るものはない。

 前を塞いでいる味方の駒を動かすことで、ビショップルーククイーンなどの行動力に制限なく進めるように道筋をあけ、王手とする空ら王手――ディスカバードアタック。

 

 ズヴァチィィ!!! と。

 自動照準の設定を解除してこちらに合わせるより速く、大気を引き裂く雷撃の槍が大口径電磁誘導砲を刺し貫く。

 

「チェックメイト」

 

 機械の演算頭脳は人のそれより格段に上回る。

 だがその一方、『圧倒的に自分よりも優れた性能を持つ存在』は、ただの凡人でさえも操作(コントロール)できてしまう。

 コンピューターは打ったキーの命令通りに働いて、スイッチを押せば電源を切って停止するのだ。

 機械は人間の指ひとつで止まってしまう。たった一手でさえ、勝負はつく。

 

 

常盤台学生寮 前

 

 

「内々で処理をしたいのでしょうがっ! どきなさい! 我々は<超電磁砲>を回収しなければならない! あなた方の管理能力では任せられないと言っているんです!」

 

 

 一対多。そして、相手は武装済みの中。

 

「―――くく!」

 

 だけれど、寮監はそんな<即応救急>に対して失笑した。その気味の悪さに、山川は眉を顰める。

 しかし相手はまるで銃口など目に入っていないかのように、嘲笑い、せせら笑い、

 

「くくっ―――あはは」

 

「何がおかしい!? 何故笑う! この状況をまだ理解してないの!」

 

「理解してるから笑ってるんだ。もし状況を理解していないのなら―――小学生から出直してこい。いくら<盛夏祭>だろうと一寮監として招待状を持たない、寮生に害のあると思われる人物の立ち入りはお断りしている」

 

 その低い声が、山川たちの顔を強張らせた。

 

「な、なに―――」

 

「そもそも、何もない空の上に拳銃を撃ったとして、その弾丸は物理学的に発射と同じ速度で落ちてくる。そんな流れ弾が誰かに当たれば、最悪の事態を招く恐れがあるに決まっている。

 だから<警備員>は空に向けて威嚇発砲なんて危ない真似はしない。威嚇は“地面に向けて撃つ”。よって、<警備員>の訓練を受けたという証言に矛盾があり、お前らが身分偽装した可能性が出てくるわけだ。―――もしかすると犯罪組織の人間かもしれないとな。

 そのため、勝手ながら人証確認をとらせてもらおう―――」

 

 と、寮監は眼鏡の蝶番あたりを爪先で叩くと――第十学区の少年院にも参考されるという常盤台中学のセキュリティと接続したモバイルグラスがその機能を作動。

 整形すれば顔つきはかなり変わっているかもしれない。メイクによって印象も異なってしまう。

 

「つい先日、随分と重装備な泥棒が入ってな、その内の一人が白状したが、『第三位が普段穿いている下着の調査』などと何とも馬鹿らしいとしか言いようがない。そのような経緯があって、この手のものは強化してある」

 

 だが、習得している<警備員>の見当たり捜査にも採用される技術の通り、たとえ整形しようと、目の間の距離など変化しない特徴がある。

 その点に焦点を当てて、瞬き信号で撮影――同時に自動検索する常盤台のセキュリティシステムに、『山川』という人物は、該当しなかった。

 だがそれに驚きはない。学生間で、超能力者序列第六位の『藍花悦』を名乗る人物が何十人かいるように。寮監は、『山川』というのが“暗部の人間には誰にでも使えるフリーの偽名”であることを知っている。『木原』とは危険性が比べ物にならないとはいえ、すぐに警戒不信するに値する人物であるのは、最初からわかっていた。

 

「城南朝来。

 長点上機学園の能力開発担当者……いや元か。過去に発表した論文は『発電系能力者による特殊知覚とその応用について』……なるほど、専門は発電系能力。

 ―――だが、つい先月に生徒ひとりを無茶な開発で壊したそうだな」

 

「―――っ」

 

 眼鏡の奥にある虚偽の通じない鋭い眼差しに、山川――と名乗っていた城南朝来は後ずさる。

 

「では、三つ言っておこうか」

 

「あ、その、私は」

 

「私が優しくしてやれるのは、ランドセルを背負っていられる年齢までだ。常盤台生であろうと例外はない。そして、学生ではない連中に容赦はしない」

 

 こちらの方が有利。いざとなれば力ずくで押し入ればいいという考えが何故か消し飛ぶ。

 

「確かに御坂は寮内での能力使用は禁止だと言い付けても破る問題児だが、それでも私が受け持つ寮生だ。寮の管理人として寮生の生活を守る義務がある」

 

 ―――この女を敵に回してはいけない。

 城南は走った。仲間を置いて、車へ。既に正体が明かされてしまったが、それでも裏で大人しくしていれば、と。

 だが、自動で鍵の掛かっているドア。鍵を持っているのは自分ではなく、そこで振り返ろうとしたとき―――細くしなやかな腕が絡みついた。

 

「ひ」

 

 冷却材を頭からぶちまけられたような悪寒に全身が固まり。首に腕を巻かれたまま、車窓に反射して映った背後の光景が視界に入る。それは、全滅している仲間の姿。そして、眼鏡の細面の女傑の姿。

 

 

「<警備員>と救急車、どちらが御所望だ?」

 

 

屋上

 

 

「ま、けた―――いいえ、いいえ違う!」

 

 決着宣言に、前女皇は、これまでの余裕を殴り捨てたように叫ぶ。

 

「わたくしは、今日、幽霊に殺される! 死にたくなくても、殺されなくちゃいけない!」

 

 爆弾のついた王座に、しがみついていた。

 既にオークション終了の時刻だ。もう残り3分もない。

 御坂美琴が相手の駒の全てを封殺しても、詰むには時間がかかる。

 つまり、ここで降参でもさせない限り、第三位に前女皇は止められない。

 

「すべてわたくしが―――すべてすべてすべてわたくしが悪い―――死んであの娘に謝―――」

 

(なんなの……っ!? 一体何がこの人を突き動かしてんのよ……っ!?)

 

 思わず、薄気味悪さがこみ上げる。

 電流は、まずい。下手な刺激は与えられない。

 急いで駆け寄ろうとする美琴に、それが立ち塞がる。

 ZAZAZAZAZA!!!!! と宙空に塵が集合し、準備室で見たあの幽霊の少女となる。駒の迷彩に使われていた磁性制御モニターだと、理解しているのに、ぞくりと首筋の産毛が逆立ち、血が一気に逆流するような感覚が襲いかかる。

 

(っ、まさかこれってそういう風に描いたペイント……っ!?)

 

 幽霊などとオカルトを美琴は信じてない。

 しかし、それはわかっていても回避しようのない、原始的な恐怖だ。禁断症状系の幻覚の証言を参考にした、全世界全人類共通の『恐怖の雛形』を抽出。

 

 ―――冷静に思考ができたのは、そこまでだ。

 

「………っ」

 

 美琴が、呻く。

 骨まで突き刺さる、強烈な違和感。

 夏が時間を間違えて立ち去り、そこだけ空白の季節が訪れたようだ。

 空白。

 冬とも、言えない。

 そこにあるのは凛とした寒さではなく、ただ漠然とした虚無でしかない。

 この場に染みついた据えた臭いに混じって、ねっとりとした臭気が漂ってくる。鼻孔の粘膜にまでへばりつきそうな、濃密な鉄錆びた臭い。

 それは、きっと砂鉄から醸し出されているもののはずなのに、別のモノを嫌でも連想させてくる。

 

(……こ、の……なんて悪趣味な仕掛けね……)

 

 思わず、鼻と口を押さえた。

 頭の中を――いいや、現実の視界として、けばけばしい赤と黄色の警戒色が踊ってる。これ以上進むことはならないと第六感が全力で訴えている。

 それでも、脚は止まらせない。

 瞬く間に、屋上は一個の異世界である。

 年老いた都市の内臓のようだ。

 一歩一歩進む足が、生温かな肉壁に踝まで埋まる錯覚。足だけでなく、顔から胸から、身体全体がめり込んで行くように思える。

 退がらなければ、異世界の深みへ潜りこんで行く。

 沈み込んで行く。

 ぐちり、と。

 何かを、踏んだ。

 今度のそれは、錯覚ではない。

 柔らかでぬるぬるとした、たまらない感触が足裏に覚えて、息が止まった。

 いいや。

 肺ごと機能を停止して、美琴は大きく噎せ返った。

 

「見ないで! これ以上わたくしを見ないで! お願いだからその目でわたくしを見ないで!!」

 

 黒と赤。世界はその二色だけに描き分けられる。無邪気な子供がインク入りの水風船で投げ合ったように、空間自体が褐色に酸化したその色に染められて、

 赤黒い沼に―――妙にぶよぶよした物体が浮いていたのを見て、美琴はたたらを踏んだ。

 

「………っ! 能力が暴走してるの……っ!?」

 

 えずきが止まらない。

 実際、普段の美琴ならとうに嘔吐していただろう。そうならなかったのは、既に少女の神経が侵されていたからにほかならぬ。異世界の分子に、美琴自身も取り込まれていたからこそ、美琴の目はその先を認識してしまった。

 沼は広がり、屋上を埋め尽くそうとしており、ぶよぶよした物体も無数に浮いていた。

 大小、サイズは様々だが、その形はみんなゆで卵を剥いたみたいに丸い……

 そして、視線を向ければ、“見てくる”。

 眼。

 眼。

 眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼。

 

「見てる見てる見てる見てる見てる!! ああ、あの子が見てる!! わたくしを見てる!!」

 

 喉がひきつれた音を立てた。

 眼球。足裏で踏んでしまったのも、沼から浮かんでくるものも、あるいは虫の複眼のようにかたまっているものもすべて、真っ赤に充血した目玉だ。

 ギンッ!! とその視線に串刺しにされてしまい、美琴は洒落にならないほど、精神をひどく揺さぶられた。

 

 ギリシャ神話に出てくる有名な女蛇の怪物メドゥーサの石化の瞳は、実際には、眼球そのものではなく、神の呪いにより見るも無残に醜く変貌してしまった元美女の顔が、あまりに恐ろしく石のように固まってしまうのが原本である。

 恐ろしい女の顔、狂い乱れる美女の様。日本の伝統芸能の能で使われる『般若』の面も『怒りに染まった美人が放つ、ある種独特の艶やかな恐ろしさ』を表現しており、世界中で共有される『恐怖の雛形』のひとつである。

 それの、極限まで煮詰めたのがこれだ。

 誰もが共有する視覚的恐怖を映像に再現し、見たもの全ての心に訴えかける突然変異じみた芸術。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい………」

 

 壊れたラジオのように狂い叫ぶ声を聞きながら、御坂美琴の意識は狂気に呑まれて固まりゆく。

 

 病んだ(バクった)高位能力者ほど、暴走の危険性は高まる。

 

 破局へと到る時計の針は、ゆっくりと、しかし確実に時を刻み続ける。

 それは決して止まることはなく。

 止めようと足掻く者の手は、届かず。

 

 

 ――やがて、時計の針は、その時を指し示す。

 

 

 チャリティコンサートが始ま

 

 

 

 

 

 ガチャン!!! と。

 誰の意識から外された空白のはずの、屋上への重たい扉が開かれた。

 『来ちゃダメ』と呼びかけるよりも早く、その奥から。

 右手が勢い良く飛び出して―――狂気の領域を殴りつける様に触れた。

 

「……おい! ……丈夫か?」

 

 薄れゆく意識の中で、聴こえてきた少年の声に。

 御坂美琴は、ここにはいないはずの幼馴染の姿を幻視した―――

 

 

 

つづく


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