とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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常盤台今昔物語Q&A 夏休みAceターン

常盤台今昔物語Q&A 夏休みAceターン

 

 

 

菜園の庭

 

 

「詩歌お姉ちゃん、詩歌お姉ちゃん。美琴、お化粧してみたい」

 

 

 お隣両家の間にある、わざわざ壁を壊して作った、共同の家庭菜園。

 その手入れをしながら、明るい茶の髪に負けないくらい、大きな瞳をキラキラさせている天使は、真剣な目で訴える。

 それを受けて、お隣さんのひとつ年上の、妹分に負けず劣らずなお姉さんは手は土いじりに精を出しながらも、頭の上に天使の『()』の代わりに大きな『?』の疑問符を浮かべて小首を傾げる。

 

「うーん、今の美琴ちゃんには必要ないんじゃないかなー? 今のままでも十分かわいいよー」

 

 まだ幼稚園に通う年齢の幼子が慌てて習得するような技術(スキル)じゃない。

 娘たちが遺伝子を色濃く受け継ぐ両家の若々しい母親を見れば、将来的にもあまり必要がないと思われるが。

 

「ママはやってたよー。大人の女性(レディ)の嗜みだって」

 

 両手をぶんすか振りながら、力説。

 そういえば、先日は家族ぐるみのご近所さん合同の宴会(パーティ)。世界各地を飛び回る凄腕アドバイザー御坂旅掛が南米から帰ってきたのだ。美鈴(ママ)も妻として綺麗におめかししてお出迎えしたのだろう。娘もまたその影響を受けたのだと思われる。

 上条家の詩菜も大黒柱の刀夜の出張帰りになると同じ。ただしこの前は、父のYシャツに唇マークの口紅のお化粧がされていたのを見つけて、般若面。娘は母の実家より伝わる極意をまたひとつ学習した。

 

「でも、ママは美琴に美琴に化粧台に近付いちゃだめーって。口紅も香水もい~っぱいもってるのにイジワルするの!」

 

 両手を握りこぶしに変え、両目を><と瞑りながら、さらに勢い付けてブンブンとその憤りを表現。

 上条家はそうでもないのだが、御坂家は大変美容関連には気合を入れてる。白鳥が優雅に水面を進んでるように見えながら、水面下では足を必死にばたつかせながら泳いでいるのだ。日々新たな流行を取り入れんと通販をよくしてるのを子供たちは目撃してる。そのけして安くない金銭と引き換えに積もった努力の山を、まるで赤ちゃんな柔肌をもち、そのままでも十二分に夫を魅了する愛娘のために切り崩すのは家計的にもNG。

 『早く大人のレディになりたい』と無邪気に思う娘心と『若さを保つには日々の努力が大事』と影で必死に戦う母心の摩擦エネルギーが、お隣のお姉さんに流れてきたのがこの現状。

 

 

 

(ありゃりゃ、だから美琴ちゃん拗ねちゃってたのかー)

 

 庭での子供たちのやり取りを拾って、洗濯物を干していた主婦御坂美鈴は苦笑するも、その手に次の湿った衣服を取ると家事仕事を中断しようとはしない。きっと今美鈴が行っても余計な刺激にしかならないし。

 嫌いな野菜類の克服させて以来、頼れるお姉さんに娘のことを任せている。きっとどうにか宥めてくれるだろう。

 

 それに、食事の仕方ひとつとってもお隣の詩歌ちゃんは良い手本だ。

 この前の夫の帰還パーティでも、取り皿に満遍なく、美鈴自らの手で取り分けた料理を、二人の娘に渡していたのだが、愛娘のお姉さん分は全ての料理に箸をつけ、上品に口に運ぶ。

 お隣はもうすでに始められている花嫁修業と躾けられた詩歌ちゃんが、所作抜かりなく食事をしていく様は、料理を作った美鈴にしても、見ていて気持ちのいい程に、綺麗な食べ方である。

 大げさに言ってしまえば、これほどの美しい幼い少女の食事姿として、誰の期待も裏切らない、芸術的といっていいほどの、綺麗な……完璧な食事作法。

 好き嫌いも無く、箸の先で器用に小さく切り分けて、口にしていく様は。その一瞬を切り抜いて、額縁に入れ飾っておきたいほどに美しい。

 それに触発された美琴ちゃんも隣で真似しながら、箸使いが上達してきてるので万々歳である。

 今も、それが克服したとはいえ自分が嫌いだったお野菜を育てているのを知ってか知らずか、お姉さん分について一緒にやっていたりしてる。

 

「どうして、美鈴さんはダメって美琴ちゃんに言うのかな?」

 

「イジワルだから!」

 

 そう元気よく返されたら、聴き耳立ててるお母さんは胸が痛くなるなー。

 

「詩歌ね。一年ぐらい前にだけど、家族のみんなで旅行に行ったときにね、山で迷子になっちゃったことがあるの」

 

 少し考えてから話し始めてそれに美鈴は耳を傾けたが、何やらとんでもない内容。このあとで詩菜さんから遭難の詳しい話を聞いたが、地元で神隠しと騒ぎにもなったそうで――他にもエピソードの多くに『お兄ちゃん』も頻繁に登場してくるけど――幼いながらもすでに想像以上にスクランブルな人生経験があるのだろう。

 

「それで詩歌は体調を崩しちゃったんだけど、山の中だからお医者さんもいないし……お兄ちゃんもいなかった」

 

「え、え、詩歌お姉ちゃん、大丈夫なの……?」

 

「うん。お医者さんはいなかったけど、クマさんに助けてもらったの。クマさんはね、とっても賢い。ちゃんと、お薬になる植物を知ってて、体調が悪くなったら、毒草を避けて薬草を選んで食べるんだよ」

 

 まさに、世界各地を飛び回る夫の話に出てきた、『ベア=メディスン』。

 アメリカ、インディアンの中で医者としての役目も兼ねていた呪術師(メディスンマン)は、部族が霊的(スピリチュアル)に信仰する野生の熊の行動から治療に使える木の根や薬草を学習したという。

 言葉を用いずとも、相手の観察でその意味意図を察する智力をすでに持っている。そして、それを応用する術も身につけつつあるようだ。

 

「だからね。美鈴さんが美琴ちゃんにお化粧を触らせないのは、危ないから遠ざけてくれてるのかもしれないよ」

 

 そう。

 子供に化粧品で一番怖いのは、誤食誤飲。知識のない子供は、興味があるものはまず何でも口に入れてしまう傾向があるという。間違って化粧液なんて飲んでしまったら、すぐに病院の世話にならないと命に関わる。

 そのことを愛娘は自ら悟る。ように、姉貴分は話していた。

 

「クマさんみたいに?」

 

「うん。だって、美鈴さんにとって美琴ちゃんは、大事な大事な宝物なんだから」

 

 けれど、そこで、しゅんと落ち込む愛娘。

 何事かとどんな小声でも拾えるよう耳に集中すると……

 

「どうしよう。美琴、ママにひどいこと言っちゃった」

 

 一瞬、そこで飛び出して行きたくもなったが、ぐっと堪えた。

 『そんなの気にしてないよー、美琴ちゃん!』と抱きついて頬ずりするのは簡単だが、心の中でとはいえ今は一任しちゃったわけなのだから、ここで大人が出しゃばったらだめだろう。我慢我慢。

 

「じゃあ、ひどいことしちゃったって思ってるなら、嬉しい事をしてあげよう! 美琴ちゃんがおめかししたのを見たら、美鈴さんきっと喜んでくれる」

 

「で、でも、お化粧は……」

 

「うん。使っていいのがないならお化粧を作ろっか。一緒に」

 

 ぱぁぁぁあっ!! とその提案に大きな瞳をきらきらと輝かして、

 

「うん! 詩歌お姉ちゃん!」

 

 そうして、堕ちこみかけていた頭を大きく頷いてから上げた愛娘はお姉ちゃんの隣に仲良く並んで。

 

「それじゃあ、まずはそこの花壇に咲いてる花を摘みましょう」

 

「え、えっと」

 

「ホウセンカ、ってネームが刺さってるとこね」

 

「あっ、うん。これだね、詩歌お姉ちゃん」

 

 鮮やかな赤色の、可愛らしい花――今まさに菜園の花壇で咲頃を迎えた、観賞用としてだけではなく、欧州中心に健康食品として好まれている食用花(エディブルフラワー)として栽培していたホウセンカを摘みながら、

 

「この苺10個分のビタミンCの栄養価があるホウセンカの花弁を擦って作られた染料は、美鈴さんのマニキュアと同じように、爪に塗って、布で磨くと薄紅色に染まります。なので、ホウセンカは『爪紅』なんても呼ばれちゃってもいますね。ふふふ、それに……魔除けの意味合いもあったと言われてますが、なんとあの世界三大美女の楊貴妃も愛用していた化粧品なんだそうです」

 

「うわぁぁあっ!? じゃあじゃあ、美琴も美琴も三大美人になれる?」

 

「もちろんです♪ そのままでも十二分に可愛い将来有望な美琴ちゃんですから、それはもう虎に翼に鬼に金棒と同じくらい、美琴ちゃんにお化粧は大変です」

 

 うんうん、と洗濯物を干していた手も止めて美鈴は同意しながら、美琴ちゃんだけじゃなく詩歌ちゃんもね、と心中で呟く。

 愛娘のことになると父親たちが揃って天使だと騒ぎたててバカになるくらい、二人は魅力的だ。笑ってる顔はガーデンに咲くどんな花よりも綺麗で、どんな絵本やお人形のお姫様よりも可愛い。

 一方でそちらは作業を進めつつも、しっかりと、

 

「でも、花弁は食べても平気だけど、種子や葉っぱは口にしちゃダメです」

 

「危ないの?」

 

「使い方によったら、ね。それらは風邪薬として役に立ちます。葉を絞った汁は、腫れた傷口に塗る生薬(おくすり)になるし、種子も乾燥させれば、魚肉でお腹を壊したときに飲む漢方(おくすり)になる。

 でも、薬効も過ぎれば毒となるように扱いには注意が必要なの。処置しないで服用したら逆に体を壊しちゃう。これは草花のほとんどがそう。だから、詩歌さん、クマさんに教わった後も自分で調べたの」

 

「う、うん」

 

「ふふふ。声が震えてます美琴ちゃん。大丈夫。正しく処理すれば人のためになるから」

 

「うんっ」

 

 時に注意も交えて、

 

「ちなみに。ホウセンカのお化粧には、こんな歌もあります。

 『親のゆし言や(ちむ)に染みり~♪』――お父さんお母さんの注意はちゃんと身に染みないとダメですよ、という意味です」

 

「むぅ。美琴は美琴は、ちゃんと反省するもん」

 

 時に雑学も披露し、

 

「それから、もしも初雪まで色が残っていたら、恋が実るなんてお話もあったり……」

 

 おや? 手元の花弁と同じ色をした唇から紡がれた声色に、ぽわぁ~、と乙女っぽいのが混じってる。女児と思いきや既に女の子の色彩を帯び始めている。もしかして、もう色恋沙汰に興味があるのかしら。女の子は男の子よりも早熟だってのはよく聞くけど……

 

「こい?」

 

 ウチの子はまだ早いか。

 

「うーん、親以外の大切な人と結ばれたり、大好きな人とずっと一緒にいれるというおまじないです」

 

「じゃあ、詩歌お姉ちゃん! 美琴、詩歌お姉ちゃん大好き!」

 

「ふふっ、詩歌さんも美琴ちゃんのこと大好きです」

 

 

 

(本当に物知りねぇ。美琴ちゃんと一緒に近所の図書館に入り浸っていたのは知ってるけど。私も余裕ができたら今度、大学にでも通ってみようかしら)

 

 そういえば。

 以前にクリーニングから帰ってきたジーンズが色落ちしてお気に入りなのに困ったと嘆いたことがあった。ちょうどそのとき、美琴ちゃんと一緒に仲良く似顔絵を描き合っていた彼女は絵の具の箱と筆を持ちだして、任せて、と言ってきた。

 新しく塗り重ねたら、前の染色と違和感が生じるのではないか。美鈴はそう思ったが、布地をじっと観察してから、いくつかのチューブから絵具を捻りだし、まーダメもとで良いからやってみちゃいなさい、と許可出したら、混ぜ合わせて塗りだした。

 そしたら驚いたことに、元の色との差異は全く生じず、ジーンズは全く元通りに蘇ったのだ。

 塗ったところを十分ほど触らないで、と言ったのち、急にモデルに動かれて拗ねてる美琴ちゃんの元へ戻っていった。

 その後に詩菜さんに訊いたら、『あらあら。きっと様々な職人を特集したテレビ番組とかの影響でしょう』と特別教えたことでもなく。

 きっと才能豊かな子なのだろう。動物の行動から学べるなら、この日常生活の中にある刺激でも彼女のアンテナは難易の区別なく受信し、情報を蓄積する。昔堅気の職人は、弟子に自分の技術習得をしたければ見て盗めと育てたのだから、できないわけではない。

 パーティでも、夫、旅掛は、『才能としては足りないものがない』とその身に有り余るほどにセンスが並外れていると絶賛した。

 ……だけど。

 

『過不足というのがないから、きっと教えればこちらの意図をすぐに理解できるし、経験を補うだけの努力をすれば何にでもなれるだろうが、その過飽和な才能は諸刃の剣だ』

 

 以前、お隣の旦那さん、刀夜さんと初めて顔合わせたとき、その旦那さんが土産にと持ってきた海外のお守りにひどく怯えて、風邪をひき発熱までしてしまうことがあった。

 

 医者に見せても原因が不明で、その悪寒を覚えたお守りとやらはその日のうちに神社で供養したのち処分したそうであるが、その症状は初めてのものではない。

 旅掛は、極度に強い感受性が仇となっているのでは? と仮説を述べた。

 過剰なまでにセンシビリティに富み、そのせいで内面のバランスを崩している。

 あの子が有している何事にも夢中になれる感受性は、心身に影響を及ぼすほどに強いのだ。

 美琴ちゃんと比べると落ち着いているように見えても、その内面にある感情の浮き沈みがとにかく激しい純粋無垢、それゆえ奔放な知識を感動とともに心に刻み込む。何故なら泣いたり笑ったり、痛みを味わいながら覚えた事柄は、単なる付け焼刃の知識よりずっと長く記憶に保持されるのだ。―――それは反面に、恐怖の感情も伴っているが。

 

 

『もしもそれでも己の才能に振り回されず自然と笑えるようになったら、世に出て理解不能な事態に遭遇しても、自分自身を抑制できるようになるだろうね』

 

 

常盤台中学 学生寮

 

 

 常盤台中学には、<学舎の園>の内と外に学生寮がある。

 その立地条件や周辺環境は異なれど、内装と設備は同じらしく。入居者の特色からすると、世俗に紛れる園外部は生まれも育ちも一般家庭から来た学生が多く、世俗とは隔離した園内部は生粋の令嬢など上流貴族から送られた学生が好んでいるよう。

 ……実際に行ったことはまだないから噂などの伝聞からの想像だけど。

 

 しかしどちらも高位能力者を完全に管理するだけの設備人材が揃っているのは確かだ。

 寮の管理人の恐ろしさを日々実体験しているここは言わずもがな、そして、先日、あちらの女王も門限から逃れられなかった、と捕り物した“本人”から話を聞いた。

 

 

 音が、聞こえる。

 しかも秩序と調和の取れた旋律ではなく、ポーン、ポーンと不規則でどこかもの哀しげな音が聞こえてきた。

 この寮の奥にはピアノを弾ける娯楽室みたいなものがあるが、今は消灯間近、誰もいない筈の廊下の向こうから聞こえるピアノの音……

 それだけ聞くと怪談みたいだが、というか実際に『真夜中にピアノがひとりでに音楽を奏でる』という奇譚がある。入寮してから二週間で知ったこの学生寮の七不思議のひとつである。他にも『そこにあるはずなのにない開かずの間』や『昇るときに何故か一段増える階段』、『寮の至る所に108の校章が印されてる』……最後のはどこかのテーマパークか。

 しかしその噂を面白おかしく囃し立てた張本人から

 

『ほら、科学の街でもこういうオカルトって伝統でしょ美琴っち。実際、ウチには寮内で能力を使って暴れると出てくる怖~い鬼の管理人がいるんだしさ』

 

 と白状されており、

 論理的に考えれば、闇とは無明、ただ光がないことを意味している。暗がりそのものが危害を加えてくるわけでもない。

 そして、この夜中に利用することがあるような、またできるような人をよく知っている。

 

 能力なしにテクノロジーと体術だけで高位能力者を統率管理する寮監を獄卒とする、この超能力者さえ行動の自由度が狭い難攻不落お嬢様アルカトラズにおいて、どういうわけか、あの幼馴染は先生(あちら)側にいる。先日も、所属する寮は別なのに深夜刻限をぶっちぎりした第五位を見事に捕獲して連れ戻したという検挙実績を挙げてたりする。

 一体自分が入学してくるまでの一年でどんな流れでそんな地位を確固としたのか、そのまんま最高警備の少年院から参考にされるくらいの防衛ルーチンに、『餅は餅屋』とばかりに現役学生側の意見として一助を担っている(<警備員>の講習にも参加したとか冷静に考えると意欲の幅がハンパない)。

 それでも待遇は生徒と同じであって、外出禁止令とかに縛られているようで、精々の特権として、『家族との交流のために、学校へ遅刻しない限りにおいて、規定時刻よりも早くに寮の出立を許す』くらいのものだといっていたが、

 こうして深夜に多目的室の使用が許可されるくらいに、寮監からは信頼されているのだろう。

 

(まあ、寮監に見つからなかったら、点呼を誤魔化してくれることができるのよね)

 

 かの聖書に出てくる聖母の逸話ではないけれど。

 情状酌量の余地があればだが、彼女は何にしてもまずは話を聞いてくれるのだ。挨拶してすぐに首を狩るような真似はしない。無論、有罪と判断されたら、容赦なく落とされるが。

 

 御坂美琴は、ルームメイトのいない自室をこっそりと鬼の管理人の見回りを警戒して抜け出す。

 

 夏休み。

 もうすぐ、この学生寮で外向けのちょっとした学祭のようなイベントがある。

 それで行われるパフォーマンスに確認するような……

 

(まあ、本番前でも平時と変わらず笑ってるような、緊張とは無縁な図太い性格だと思っているけど)

 

 寮内は静まり返っている。時折、思い出したように繰り返されるピアノの単音がより一層寂しさを感じさせた。

 きっと、今あの人はひとり。

 その音源を辿っていき、扉の隙間からその部屋の様子を窺う、とヒラヒラと揺れる黒髪と結ばれた清浄なリボンを発見。

 あれは飄々幽玄たる幼馴染のトレードマークで間違いない。

 

「~~♪ ~~♪」

 

 見てることにはまだ気づいていないのか、ハミングしながら鍵盤を押している。

 もしかして人知れず寮の庭を集会場にする猫や小鳥、この前はゴールデンレトリバーの迷子犬などの動物たちにピアノを聴かせているのかとも思ったのだが、それにいつもとちょっと様子が違う。

 時折、鍵盤を鳴らしてはいるが椅子に座っておらず、前のめりになりながらフレームの中を覗き込んでいる。

 ただ、平均よりもやや低身長なせいか、そのつま先立ちでピアノに乗っかっている体勢がちょっと形の良いヒップがクイっと突き出されており、動くたびに、制服のスカートのフリルがヒラヒラと蝶々のように舞う、見えそうで、見せない無防備なようで鉄壁な後ろ姿を晒している。

 この寮は<学舎の園>と同じで通常男性禁制ではあるが、男子にはお見せできない格好だ。

 

 どうして学校では作法所作は間違いなく一番の模範生なのに、こう、ガードが甘い(ように見える)のよ。

 

 間違いない。私の幼馴染は天然の男殺し。現時点ですでに学校を傾けてるし、下手すれば街も傾けていそうな華やかさと淑やかさを併せ持っている。特に笑顔の時には視線があっただけで、『今日は一日中幸せな気分になりそう』と老若男女問わずに思われる。冗談ではなく、身贔屓でもない。以前、保護者代理で参加した授業参観で実証済み。別々だったが、女子校ではなく男女共学だった小学校時代は大変だったろうと予想がつく(実際のところは本人より主にとある少年が対応に追われていた)。

 

「~♪ ~♪ ~~~♪ ~~?」

 

 邪魔はしないように息は潜めていたのだが、勘の鋭い彼女は『視線を見た』のか、巣穴から気配を察知した小動物(プレーリードック)のように身体を出してきた。

 その手にもつのは先端がL字に曲がった金属製の工具は、『チューニングハンマー』と呼ばれる道具だったはず、確か用途は……

 

「あら、こんばんは、美琴さん」

 

 振り返ると、普通に挨拶。その雰囲気も常と同じく、柔らかそう。しょっちゅう抱き締められてるからわかるが物理的な意味でも柔らかいのだが、その表情や物腰、声に至るまでが、対面しただけで自然と強張りも緊張もふにゃっと解けてしまうような溢れる柔和さ。それでいて頑固で崩れることのない。柔らも極めれば、何もかも弾く鉄壁にも負けない、衝撃も何も吸収してしまう低反発枕になるものだ。

 

「いけませんよ、こんな夜中に出歩いちゃ。今年のクリスマスにはサンタさんがプレゼントをくれないかもしれませんよ」

 

「いや、この歳にもなってサンタさんは信じてないから」

 

「そうですか。まあ、仕方ありませんね。靴下の中にプレゼントを入れるような仕事ぶりでは信頼を勝ち取れなくても無理はありません」

 

「いやいや、私が信じてないのはサンタさんの仕事ぶりじゃなくて、サンタさんの存在だから」

 

「ああ、そうでした。学園都市に来る前のクリスマス、『詩歌お姉ちゃん、美琴、いい子にしてたからサンタさん来るよね?』と不安がる美琴さんをあやしながら一緒のベット寝かしつけてから……ふと詩歌さんが目覚めると寝顔の撮影会を始めちゃってた父親(サンタさん)二人のことは記憶(思い出)から存在を消去したいくらいがっかりでしたね」

 

「いやいやいや!? 初耳なんだけど!? あの時そんなことがあったの!?」

 

「もう、あのときはせめて美琴さんだけは起こさないように大変でした」

 

「だから、ウチの父とおじさんが朝、庭に簀巻きにされて放置されてたのね……知りたくなかったわ」

 

「それであの頃のように眠れなくて子守唄をご所望ですか? でも、今は弾きたくても、この子が反抗期に入ったみたいなので無理ですけど」

 

 とにかくそのままだと寮監の言い訳にならないから廊下に立ってないでこっちへいらっしゃいな、とその声は、まるで陽光をいっぱいに浴びた布団のように、柔らかく暖かく美琴を包み込む。

 ばれて隠れる必要がなくなったので部屋に入ると、白くしなやかな手で漆黒の天板を労わるように撫でた。

 

「反抗期、って、このピアノですか?」

 

 このグランドピアノは、この学生寮に卒業したOBが海外から取り寄せて寄贈されたもので、自分が所有している年代物のバイオリンと比べても、相当年季が入っていそうな骨董品(アンティーク)――かの『ピアノのストラディバリウス』で有名なドイツ製ピアノ(ベヒシュタイン)

 古いといってもくたびれているという意味ではなく、むしろ数十年の歳月を耐え抜いてきた力強さを感じさせる。

 

「どこも悪いようには……」

 

 学園都市ではほとんどが樹脂製の鍵盤も象牙と黒檀で作られ、濡羽色のボディにはワックスを何度も塗り重ねた年輪のようなものが刻まれていた。

 試しに適当に鳴らしてみるが、定期的にこの一学生が手入れしている鍵盤はひとつとってもまるで指に吸いついてくるように滑らかだ。

 

「うん、今の音、11Hzほど下にずれてますよね? 朝食抜かして『不幸だ』ってぼやく男子学生の挨拶くらいに元気がなさそうな感じがしません」

 

「普通に聴かれてもわかりません。て言うか、何ですかその妙に具体的な例えは」

 

 そして、耳が良過ぎる。

 絶対音感を持ってる人間でも周波数まで聴き分けられない。おそらく過去に振動操作系能力を投影した際の杵柄(経験)なんだろうけど異常な感性である。

 

「まあ……でも、言われてみれば、少しズレてる気がします」

 

 もう一度別の個所を鳴らして確認する。

 ピアノは非常に繊細な楽器だ。いや、精密機械といってもいい。

 88もある鍵盤一つ一つに強度の違う弦が張られ、『アクション』と呼ばれる鍵盤の動きを元に伝える機構は車の部品かと思ってしまうくらい複雑さを極める。だいたい、この一見お嬢様学校の格に合うほどお上品に見える木と鋼のボディには常に20t近い張力がかかっているのだ。

 しかも部品のほとんどが木製か金属製だ。

 

「この部屋も空調管理されてるんだろうけど、高温多湿の日本の環境には肌が合わないわよね」

 

「それに寮内で元気にバチバチする新入生が入ってきましたしね」

 

 ―――ぎくり、と。

 ほんのりと差し込まれた寮内規則を破りがちな新入生宛ての言葉に、身体が強張った。

 あまりに強力なAIM拡散力場をもつ周囲は、電磁波による機械機器系の不調がときたま起こる。それが意識させて現実に発現させたのならば、金属系の部品は不具合を生じてもおかしくはない。

 

「いくら気を遣っていても人間だって風邪をひくし、転んで怪我をするんだから、わたしたちよりも長生きしてるこの子の()が狂ってもおかしくはないでしょう。

 詩歌さんの対幼馴染に電磁波対策された携帯電話のように改造(いじ)るわけにはいきませんし。

 元々、この街の特殊な環境に身を置くとは考えて作られたものではないでしょうから、老体には厳しいのは当然です」

 

 しかしそれほど咎める気もなかったのか、説教されると身構えたこちらがそのフェイントに肩透かしを食らってしまうくらいにあっさりとしたもので、

 

「というわけで師匠から特別に許可をもらってこの静かな夜に詩歌さんはこの子の調律中なのです。音に集中できないので見てるならお口にチャックしてくださいね、美琴さん」

 

 そういって、『チューニングハンマー』を瑞々しい唇の前に、しーっ、と立てる幼馴染。

 

「“お口にチャック”って……」

 

 まるで年下の子に接する態度。いや確かに後輩なので間違っていないが、学園都市全学生中7名しかいない超能力者(自分)に軽々しく注意できるのなんて、教師連中も含めてそういない。この学園都市に来る前から付き合いのある幼馴染を除いて、この寮の管理人くらいである(対等的な面でもうひとりほど該当者がいるが、もうひとりの超能力者(Level5)と並ぶ問題児で注意されたことはない。あの人は『反面教師』の言葉の方が似合う)

 超能力者であっても、特別扱いをしてくれない。

 別段、最高の電撃使い(エレクトロマスター)なんて、彼女にとってみれば『触りだけでなれてしまう』お手軽なものなんだろうけど、その鏡のような瞳はいつもありのままの『御坂美琴(自分)』を写している。

 そんなことができるのは、この街でもいったい何人いるのだろうか。

 

「~♪ ~~♪ ~♪」

 

 背を向けて調律を再開する幼馴染、その肩越しからフレームを覗くと、無数の金属のピンとそこから伸びるワイヤーが見えた。

 ピアノはこの『ミュージックワイヤー』と呼ばれる弦を叩くことで音を奏でる打弦楽器である。

 炭素鋼製の強靭なワイヤーを『チューニングピン』に巻きつけて張り巡らせているわけだが、この時の微妙な張力の違いを作ることで音高の違いを出している。

 幼馴染は鍵盤で音を確かめながら、『チューニングハンマー』をピンにかぶせ、レンチの要領で絞めたり、緩めたりして張力を調整している。

 わずかな音の違い、数mmのズレも許されない、まさに匠の技だ。

 

 詩歌さんってピアノの演奏だけじゃなくて調律までできるんですね……

 

 鼻歌交じりに調律する幼馴染の手際の良さに思わず小声で感嘆の息を漏らす。

 普通、ピアノの調律は調律師やコンサートチューナーといった専門の職人が行うもので、演奏者が自ら調律することはまずない。

 非凡な才能と類稀な張力に恵まれた人間にしかできない芸当でもあると思うし、できるからといって全て面倒を見るなんて変人の類。専門家(スペシャリスト)に留まらない、万能家(ジェネラリスト)。―――そんなのはすでにわかりきってるけど。

 学校でもピアノの弾き方を習いたがる子は多いけど、専門知識を必要とする調整にまで手を伸ばすのはこの幼馴染くらいだ。

 つまり、彼女は、

 

 “やれば一から十を理解できて、できるなら条件次第で一から十までやれてしまう人”。

 

 なのだ。

 能力至上主義のこの街では、超能力者と違って、その難儀な性質は中々に知られないもので……

 

 ―――だから、あんな“噂”が。

 

(ていうか、普通にやってたから気付くのが遅れたけど、『音叉(チューニングフォーク)』も使わずに、鼻歌で基準音を確かめるなんて、非常識よね……)

 

「ふふふ♪ もうすぐ<盛夏祭>でこの子のハレの舞台にもなりますから、しっかり調律(マッサージ)してばっちり万全にしないと!」

 

 慈母のように柔らかく微笑みながら優しく鍵盤を撫でる、今年に選ばれたその演奏者。やっぱり本番前にも関わらず、本人は緊張の欠片もないのように見える。誰にも言わず陰で努力(または裏で仕込み)をするのが日常で、ただ自分のできる万全のことをやってる。

 そこにこっそり寮監の目を盗んで抜け出してきた妹分が手伝う(入り込む)余地はないくらいに。

 

 が、なんとなく面白くない。

 余程つまらなさそうな顔をしていたのか、幼馴染は作業を一旦止めて顔を覗き込んできた。

 深みのある黒の瞳が捉える。そこに前文を証明する美琴の顔が映っている。吸い込まれてしまいそうな、という表現をたまに聞くが、あれはきっとこんな目を指して言うのだろう、と―――

 

「……おろ? 美琴さん、もしかして嫉妬し(ジュラっ)てます?」

 

 

「は、はぁ!? 何でジュラってっ!?」 「『詩歌お姉ちゃんが私のことそっちのけでピアノばっかりいじってて寂しいとか、別にそんなことはおもってないんだからねっ!』というような?」 「してないわよっ!!」 「にしては、顔には寂しいと書いてある気がするんですけど。そんな顔を美鈴さんの名にかけて詩歌さんが見逃すわけにはいきません」 「どうしてうちの母の名が出てくるんですかっ!」 「そりゃあ、同じ『美琴ちゃん積極的に可愛がりしたい同盟』ですから。週一で長電話してます」 「実の娘が知らないトコでなに仲良くやってんのよ! 詩歌さんもあのバカ母のバカに付き合わないでください!」 「賑やかで良いじゃないですか。美琴さんもひとりが寂しいからここに来たんじゃないんです?」

 

 

 言われて、両手にはさみ抱えた頭を振りながら美琴吼える。

 

「あうあうあ~っ! ただ、今年の<盛夏祭>で演奏するのは詩歌さんだし、もし指を痛めちゃったら大変だから心配してるだけ!!」

 

「そこで気遣われちゃうなんて、この子に負けないくらいのツンを見せてくれますねー。でもまあ、弾かずとも完璧にできる曲はありますし、何ならその時は一緒に連弾しちゃいます? 私が後ろで、美琴さんが前のポジションで」

 

「ちょっと待って。前半のは無視するし、連弾をやるかどうかは置いておくけど、連弾って前後じゃなく左右隣に並んでするもんじゃないの? どうやって演奏するつもり?」

 

「それは詩歌さんが美琴さんをぎゅぅ~っと抱っこしながら、美琴さんが頑張る。新たな連弾様式の始まりです」

 

「理解できないよー!? もう十年近い付き合いだけど理解できないよーう!? 私の幼馴染の開拓精神が斜め上をいってて理解できないよーうっ!?」

 

「まさか、忘れてるんですか? 詩歌お姉ちゃんとふたりで二人羽織スタイルで頂点を目指そうねって美琴さんが言ったあの日の約束は」

 

「ないし、仮にあったとしても、どの日だか全く思い出せないから」

 

「ではでは今から、“空想なあの日”が事実になったということにしましょう」

 

「空想を現実に昇格させちゃうなんて、頭が下がるわ」

 

「自然と敬いたくなる詩歌お姉さんです」

 

「そういう意味で言ったんじゃないんだけどね。というか、その公開処刑って、結局弾いてるのひとりじゃんっ!! 膝の上でやる必要性はゼロじゃないのかなーっ!? それだったら私がひとりでやる方が絶対マシよねーっ!!」

 

「はい、あの日のことは私達だけの秘密にするとして、そちらは来年よろしくお願いしますね」

 

 一オクターブくらい上をいっている彼女自身の思考回路の方こそ調律するべきではないか。

 というか、さりげなく来年の予約入れられた?

 

「……よし。では、ピアノの前に立ってもらいますか?」

 

 と、笠木に『The throne』と銘記された椅子を引いて、場所を開ける。

 

「はい? 何ですかいきなり」

 

 いいから、とせかす幼馴染に疑問符を浮かべながらも言われたとおりに動く。と、間もなく、ふわりと圧迫とは言えない圧迫が背中を押して、両手はそれぞれ柔らかな手が添えられる感触が伝わる。やんわりと手の甲に重ねられる手の平の感触に少しだけ驚くも、それ以上に自然と心和らぐ匂いからの落ち着きが覆う。背後を取られ反射的に拍動高まっていた心臓の雷大波電流(雷サージ電流)がその手を介してアースのように地面に吸い込まれていくような、あるいは霧散していくような感覚を覚えていた。

 

 ……喧騒が遠い、静かな夜。

 耳を澄ませば互いの心音が沁みるように聞きとれて、肌に体温が伝わり馴染む。

 ほっそりと柔らかでそこから伝わり来る慈しむ母性に、触れた者からは、安堵の吐息が漏れるは無理からぬ事。

 

(………今は、誰もいないから)

 

 いいわよね、と声に出さず唇の動きだけ。それも見えない。

 ちらと肩越しに見やれば、前に誘導してから背後へと回り、そのままくっついたままピアノに乗っからせてる幼馴染が囁く、

 

「へっへっへー♪ 充電充電♪ まんまと捕まっちまうとは、反抗期に入っても美琴さんは素直で可愛いなぁ~♪」

 

 ……………。

 説明の必要はいるだろうか、いやいらない。

 何だか頭痛がしてきたが、変なムードに浸っていた感じの覚ましとなる。

 

「けど、こう易々と背中を見せるのはお姉さん心配です。いつ、偶然の不意打ち(ラッキースケベ)を日常的に行う相手に出くわすかわからないんですよ」

 

「……わかったわ。あと3秒(スリーカウント)で、変質者に絡まれた時を想定してスタンガン程度にビリッとするから」

 

「おっと、至近での強烈な電磁波の放出は、せっかく調律して宥めたピアノさんのご機嫌が崩れちゃうかもしれません」

 

「そこで詩歌さんがピアノを人質にとるの!?」

 

 二人羽織というかピアノを挟むように背にのしかかってる幼馴染は、バチッと電気で脅そうとした自分の頭を鞠のように抱えながら撫でる。大変に厄介なことに実の娘である美琴よりも母親の美鈴とテンションと似ており、加えて能力なしの肉弾戦を仕掛けようとも達人級の合気術で軽く丸め込められる。

 スッポンという亀は、一度噛みつくと雷が鳴っても放さないというが、この一つ年上の幼馴染は、一度抱きつくと相手が雷をも落とせる発電系超能力者でも離れない。

 猫から嫌がれても無理やりに可愛がりストレスで禿げさせたりするようなタイプと思えるのだけど、不思議とそう言うのはなく、羨ましいくらいに猫使いなのだから不思議。きっと本気でいやがるようならあっさりと暴挙をやめているからなんだろう。

 

(いや別に私は詩歌さんに抱きつかれて嬉しいとかそういんじゃなくて、嫌じゃないだけ。体重も思ったより軽く苦にもならないし、おんぶにだっこ体勢への無駄な抵抗するよりは諦めた方がずっとマシってだけで……)

 

「というわけで、いざというときのために楽器のメンテナンスを勉強しましょう」

 

「え、っと。発電系能力者(わたし)AIM拡散力場(電磁波)が調律中のピアノに近づくのはあまり良い影響とは言えないんじゃ」

 

「それは、私が抑えてます。大丈夫。失敗しても私がフォローします。この送り主と同じように、美琴さんもピアノに相応しいですから」

 

「……私が習ってるのはバイオリン」

 

「じゃあ、後でそちらも持ってきてください」

 

「……はぁ、わかりました。どう答えてもやらせるつもりですね」

 

 上条詩歌からバトンタッチと渡される調律道具を手にし、渋々と降参したと肩を竦めるポーズだけをとってから御坂美琴は頷いた。

 

「けど、やるからにはマジメにお願いしますよ」

 

「もちろん。分からないことがあったら何でも教えます。今日は文化祭前日に泊まり込み的なノリでとことんやりましょう」

 

 

 

 結局、あのことを切り出せなかったけど、自分が心配することなんて、杞憂だ。

 

『ねえねえ、知ってる? あの噂』

『もしかして、あれ? デマじゃないの?』

『でもさ、しょっちゅうLevel5と話してるよね』

『でも、第三位の方とは学園に来る前からの付き合いだとか』

『けど、女王とはそのような関係はありませんでしょう』

『『派閥』も作らないのに、そうやって取り入ろうとしてるのかしら』

『『派閥』を潰したこともあるそうですわよ』

『Level3の彼女にそのようなことはとてもできるとは』

『きっとあの問題児を頼ったんじゃないかしら? おふたりはルームメイトだと聞きますし』

『そうなのかしら?』

『だから、やっぱり“もうひとつの噂”も事実じゃないかしら』

 

 近頃、一年生の界隈で妙な噂が流れてる。

 

(腹立つわね)

 

 今思い出すだけでもそう。

 初めてその話を聴いたのは、一年生たちの利用が多い一階のトイレの個室で。正確にどうなのかわからないがその声に覚えがないから、同じクラスではないだろう。別に彼女たちはウソをついているつもりはないとは思う。ただ、噂を肴にお喋りしてるだけ。

 世間のイメージがどうかは知らないが、こういう下種の勘繰りはお嬢様学校でも変わらないから、特別違和感を覚えるようなことではない。

 混ざろうとも、尋ねようとも思わないけど。

 火のない所に煙は立たないというのだから気にはなりはするも、勝手に当事者にされてる自分が、そんな真似して問い詰めようとすれば、火に油。下手をすれば、大炎上。放っておけば、噂の煙は風に流されるもの。それに、人の輪の中心にいる自分では、同級生の世間話にはうまく混ざれないだろうな、と普段からうっすらと感じてはいる。

 だから、息を潜めて、耳だけ傾けて情報を聞き取る。

 寝入るときの蚊の羽音のような不愉快な雑音に聴き入ろうとするのは、大変耳障りでイライラするけど。

 

『ん? 電灯が、点滅してますわ』

『どうしたのかしら? 故障?』

 

 なるべく我慢して。

 その偽情報を流す元凶の尻尾をつかむために。

 

 そして続く話は、とある男を巡って、女子生徒一人を自殺に追いやった、というもの。

 

 内心で、馬鹿らしいと思った。

 長いこと付き合ってきたが、美琴は彼女に男の影なんて見た事がない。もしかすると、彼女のルームメイトが男子と見間違われたのかもしれないが、続く話はありえない。根も葉もなければ、枝も幹もない。ただ、困ったことに花があるだけ。

 それにそもそも、学則は男女の交際を特別そう禁じてるわけではないのに、そう噂にしたがるがわからない。よく知りもしない連中が憶測や推測に、願望、そして箱入り娘思考を過熱させて、まさしく夢見がちな想像を膨らませ、こちらの堪忍袋も張りつめさせていく。分かってる。悪意がないのは。そうは自分で自分に言い聞かせてきたが、自殺に追いやったですって。それが謂れのない誹謗中傷となってしまったらどうするつもりだ……

 

 ―――そこで、美琴は注意しようと思ったが、チャイム。女子たちは足早に去ってしまい、機を逃してしまった。

 

 だから、せめて祈った。

 耳のいい幼馴染だけど、この噂は耳に届かないでほしい。

 

 

 

「そして、それが終わったら、美琴さんの手入れです。中学生になって、というよりつい最近、ブラをつけるようになりましたが、きちんと身体に合っているかいないかが今後の発育を左右する重要な……」

 

「それは結構ですからっ!!」

 

「おや、小学生のとき、『詩歌お姉ちゃんだけしてるのずるい!』……美琴さん、自分もつけるんだ~、ってすっごく拗ねた時がありませんでしたか」

 

「そ、それは言ったかもしれないけど、絶対に思い出さないからっ!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <盛夏祭>。

 年に一度対外的に開かれる催し。

 御坂美琴は、制服のまま、一般開放されていつもと違う賑わいを見せている寮内を見回す。

 広報係をするなら、区別のためにメイド服の着用を免除されるというルールから、ちょうど代わりを探していた撮影役に立候補し、カメラを持たせてもらっている。

 写真を撮るより、撮られる方な学園都市で最も名が通っている第三位に客引きではなくそのようなことをさせるのは人材活用で勿体ないとも思われるが、今日の主役は美琴ではないので構わないだろう(こっそりと自分の分のメイド服を用意していた幼馴染は不満を漏らしていたけど)

 やるからにはマジメに。どこかいい被写体はいないかしらと探していると、早速、

 

 

「あははははははははははは!」

 

 

 生まれて初めて肉視したかもしれない、人間が表現する感情のひとつ『馬鹿笑い』をする眼鏡をしたメイドがいた。

 学生寮には、百花繚乱家政婦女学院から何名か実地研修ということで見習いのメイドが派遣されており、今日の学生寮祭も手伝ってくれている。

 この暑い夏の日というのに、厚手のタイツをしている彼女は、もう、いっそ死のう、と衝動的な行動に突っ走りそうで心配である。

 後にそれを聞いた者は、一様にこう語るだろう。

 それはまるで今にも泣き出しそうで、聞いている自分たちも涙を誘われてしまうような、そんななんとも切ない叫びであった、と……

 けれども、すぐそばに介抱してくれる同僚がついていた。

 

「そんなカッコで、なに悲愴な顔をしてるんだぞー? ……ぷふっ……」

 

 ただし、止めを刺しているようにも見えなくもない。

 言葉の間だけ笑いを中断し、腹を抱えてからかってるのは美琴も知っている見習いメイドの、土御門舞夏。この学生寮へ実地研修する常連。接客に馴れ馴れしいと思うところはあるも、親身かつ真面目に仕事はしているのだから文句のつけようはない。

 ……今も辛うじて爆笑は堪えている様子なのだが、肩がありえないほどぷるぷる震えながら、励ますようにその子の背中を押している。

 

 

「ほら、タツガミトウコ。そんなに縮こまってないで、胸を張って姿勢よくきちんと働けー、昼時になればここは戦場になるぞー」

 

「もしもバレたら、変態の烙印を押されて二度とこの街で太陽を見上げられない身になるかもしれないんだぞ」

 

「大丈夫だぞー。ウィッグと上条詩歌のメイク技術で、パッと見ではセーフするほどカモフラージュされているからなー。堂々としてたら問題ないぞー。むしろ今のままだと、ちょっとばかり“がたい”が良過ぎで、仕草の端々が角張っているどこか異様なメイドさんとしか見えないんだぞー」

 

「この恰好が衆目にさらされていることへの抵抗感が半端ないのをご理解いただけると嬉しいんですけどね。タイツのお陰でだいぶまぎれてるけど、スカートってなんかもう生理的に違和感が……」

 

「慣れればどうってことないぞー?」

 

「慣れたら本格的に泣きたくなるぞ」

 

「あとは言葉遣いもダメだなー。もっと丁寧にやらないとメイドとは認められない、変声機をつけてるとはいえ、声量を控えめに、かつ可及的高音で話すよう努力するとなおよろしいぞー」

 

 

 会話の内容こそ聞こえないが、やはり知り合いなんだろう。

 土御門舞夏とは知らぬ顔ではないし、挨拶くらいはしておこう。それから、広報係として写真を撮らせてもらうのもいいかもしれない。

 

「よっすー、土御門。今日も御苦労さま」

 

「お、おお、御坂かー。カメラをもって、広報係かー?」

 

「そうよ。急遽の代役で引き継ぎもしなかったから腕章はないけどね。それで、あなた達のことも一枚撮りたいんだけど、良いかしら? えとそちらの……」

 

 向ければ、眼鏡メイドは前髪で顔を隠すようにしながら、滑稽にも小柄な舞夏の身体の陰に隠れるように縮こまる。

 

「えーと……」

 

「何か気になるのかー?」

 

「いや、結構背の高いのねって。横に並ぶと土御門よりも身長が頭一つ分くらい大きい子だから普通に目立つじゃない? なのに、見慣れない子だから……はじめまして……でいいのかしら?」

 

「そうだなー。<盛夏祭>は普段よりも多く人手を必要とするからなー。このタツガミトウコを応援に呼んだんだぞー」

 

「タツガミ……さん、ねぇ……」

 

「それで写真は……まぁ、ギリギリアウトかもしれないがいいぞー」

 

 ブンブン、と背後霊のごとく張り付いてるタツガミトウコさんが頭を振ってる。

 あまり目立ちたくない恥ずかしがり屋なんだろうか、それともさっき言った自分の言葉を気にしているのかと思い、

 

「あの……背が高いとか言いましたけど、普通に可愛いと思います……よ、タツガミさん」

 

「……………………………不幸でございませうわ」

 

 が美琴が励ますと、より鬱々と内海に打ち沈みかけてしまった。

 あ、あれ、もしかして何か地雷を踏んじゃった……?

 

「ぅふはは……可愛いだって……あははっ」

 

 堪え切れない失笑に腹を押さえる土御門。ちょっとそこであんたがカバーしてくれないと……!

 仕方ないのけど一度は誘った手前、ここまで来て止めるのは失礼。なるべく土御門舞夏の陰に隠れるような角度からでも撮らせてもらおうかしらと思案しながら一歩下がったその時、ふと気付く。

 

 

「こんにちは。今日は私達の寮へ遊びに来てくださってありがとうございます」

 

「は、ははいぃ、お、お邪魔してますぅぅ!?」

 

 

 スカートを摘み、片足を斜め後ろに引いて、優美にお辞儀(カーテシー)

 ほろりと微笑む幼馴染の仕草は儚くも、可憐。雑然と賑わう中でより際立つもので、相手の女子生徒がふにゃふにゃと崩壊した顔で、失語症になっているのも解らないではない。

 その給仕が着る足首まで隠れる長いスカートのエプロンドレスさえ、彼女が纏えば品のあるお嬢様のドレスとなるようで。

 このあとに大仕事が控えているとはいえ、率先して招待客に付いてこなれたトークと上品な所作で範を示している。それを始めとして他の寮生の面々が、次々と現れるお客さんをもてなしていた。

 けれども、何故か渋滞――出入り口の回転率が悪い気がする。

 よく見ると、心なしか幼馴染の前に行列なようなものができているようで。

 その中に。

 新しく入ってきたお客さん。外から招待されたと思われる、かなり整った容姿の男子だ。爽やかという言葉を体現している様には見覚えがあるような……。玄関ホールが混雑しているのだが、ペースの空いた入り口付近で人ごみを避けている状態でその場で待ち、その視線は明らかに誰かを追っていた。

 そのただの客のものにしては些か強い気がする視線を追えば、招待客を案内してる、メイド服がとても板についた笑顔で甲斐甲斐しく働く上条詩歌の横顔。

 

(まさか……)

 

 いや、ない。特に親しい付き合いのある男性ではないはず。何故なら、美琴は彼が幼馴染に玉砕した現場に偶然に居合わせてしまったから。

 でも、それは事実を知る美琴だからであり、“理事長の孫息子に告白された”という情報だけ得て、尾ひれ背びれを付けられた噂が別物になることもある。

 

(また変な噂を立てられる前に―――っ)

 

 追い返そう、と思ったその時―――すぐ近くから、何かゴングのような甲高い金属音が聴こえた気がした。

 

 幼馴染がもてなしていた客が去るのを見計らい、例の王子様が玄関から寮へ出陣(入場)する。案の定、手が空いた幼馴染へ真っ直ぐ近づいて白い歯を光らせながら軽く手を挙げて挨拶しようとしたその先に。

 あの引っ込み思案のタツガミトウコが満面の笑みを浮かべて割り込んだ。

 

「お帰りなさいませっ、御主人様」

 

 ハスキーな女声に聴こえなくもないような―――どこか口調に無理というか自棄があるような気がするも気のせいだと思う。

 

「え、っと。君は……」

 

「タツガミトウコと申しまぁす! 今日は、わたくしめが寮内から人生まで案内しますねぇ!」

 

 と、幼馴染へアピールしようとする手首を横から掻っ攫うようにガシッと引っ掴み、有無を言わせない営業スマイル。客はその積極性にあまりある接客態度に目を白黒させてうめく。

 

「あの……できれば、あちらにいる彼女に挨拶をしたいのですが」

 

 メイドはすちゃッと眼鏡を据え直してから、

 

「なら、まずは氏名と年齢をお名乗りくださいますか。話はそれからでございます」

 

 何故尋問調なんだろう? と美琴は思う。

 それでも王子様の方は、まぁよくわからないけどいいか、と素直に、

 

「海原光貴と言います。歳は―――」

 

 ……ああ、その名には覚えある。常盤台理事長のお孫さんだ。

 

「ちッ」

 

 んん、何かあのメイド舌打ちしなかったかしら?

 

「申し訳ございません。当館は、未成年の方の来場をお断りしております」

 

 待ちなさい、いくら普段の出入りに鬼の寮監が厳しく目を光らせているからって、中学生の学生寮でそんな制限があるはずがないでしょ!

 

「あの……友人から招待は貰っているのですが……」

 

「………誰からでございますか」

 

「ええ、あちらにいる上条詩歌さんに―――「なに?」」

 

 ポケットから差し出した証拠の手紙を手にとり、その文面――そして、筆跡に眼鏡の奥にある目を細めると、ミシリ、と指圧でしわが……それから、精一杯に作りました感がありありな強張った笑顔で、

 

「申し訳ございません。詩歌、お嬢様はこのあとチャリティコンサートを控えております」

 

「ええ、今日はそれが楽しみでして。是非自分もできる限り応援をと思いまして……」

 

「なら、帰りましょうか」

 

「え」

 

 いやいやいや! ちょっと、あのメイドいくらなんでも失礼というか攻撃的過ぎないかしら!?

 

「詩歌さんの迷惑になるようなことはしません。自分はただ―――」

 

 ぶちっ。

 

 何か切れた音が―――

 

「甘えんのもいい加減にしやがれ!」

 

「ッ!?」

 

「いもう……彼女は面倒見の良い誠実有徳のチャーミングで笑顔に大変魅力ある淑女に見えて、その実、ユニーク極まりなく天真爛漫な不思議ちゃんかつ無茶にも程がある我儘を言ってくる傍若無人な享楽主義者の二つの面を併せ持っております。油断すればあれよあれよと気付いたらメイド服を着せられて女装していた展開に陥る―――なんて例もあるのでございます。されど根底は繊細な………。ええ、つまりは余裕があるように見えても、内ではいっぱいいっぱい緊張しているのでございます。そんなときに、わたくしめごときのご奉仕にうろたえるような御主人様が、お……うちの詩歌お嬢様にコナをかけようなど言語道断! 愚の、骨頂!

 お解りいただけましたね?」

 

「と、とりあえず、君が詩歌さんを大切に想ってるのは理解したけど……」

 

 ……………。

 驚く点は多々ある(それ以上に問題点だらけだが)が、幼馴染の美琴以外にあそこまで理解しているのは、海原光貴と同意する。

 

「……わたくしめのことはどうでもよいのであります。

 ともかく、御主人様は適当に寮内を冷やかし、ついでに頭を冷やして出直す、もしくは直帰するのがよろしいかと存じます」

 

「は、はぁ……」

 

 海原王子は、抜けば玉散る氷の刃の如く不気味に眼鏡を光らせる剣幕(メンチ)に圧されてかくかくと首を振らされてから、バシッと背中を叩き押されて人ごみへと流されていった。

 その様子を窺っていた土御門舞夏に『メイドとしては失格だが……ウチの義兄に負けず劣らずの過保護だなー』と戦慄気味に呟かれるのを他所に、眼鏡メイドは次の標的へと移行するのを見て、とりあえず果敢に挑むその勇姿をシャッターして記録すると美琴は騒ぎになりつつあるホールから避難する。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 人酔いから、またはあの眼鏡メイドに当てられたオーラのようなものから少し頭を冷ますため来たのは、夜遅くまで調律して結局一緒に寝泊まりしたあの部屋。そこは例年以上にOBから送られたこともあって、隣室のチャリティに出品された貴重品の保管している臨時の準備室と合わせて廊下の奥は外来者の立ち入りを禁じており、また鍵がかかっている。防犯上、鍵にスペアがない、あるのは寮監が持つマスターキーだけと施錠は厳重にされている。

 そこへ美琴が入れたのは、都合よく――といっても美琴がその気になれば不要なものだが――その部屋の鍵を預かっているからだ。それは早起きした幼馴染がある“日課”のために寮の外へと出かけていく際に隣で眠っている美琴に配慮して枕元に置かれたもので、主役としてこの狭くはない寮内を立ち回っているせいかこれまで返していない。<盛夏祭>で行われる大きなイベントはオークションとコンサートの二つ、コンサートはオークションの後となるのでまだ時間はあるし、先ほどホールで見かけた時もそう急くことでもないか、と美琴の中で遠慮が上回った(けして反抗期特有のアレではない)。

 だから、美琴が入った時にはカーテンを閉め切った部屋は誰もいないはず―――だった。

 

「え―――」

 

 曰く、古い物は九十九神に成るのだという。

 その、骨董品ともいうべきピアノの上に、ひとつ、人型が浮遊していた。

 

 窓からの日の光を締め切り、明かりを消している暗い部屋に浮かび上がる白い姿は少女のものだ。

 ドレスと見間違うほど華やかな白い衣装と、腰まで届いている銀髪。自然界には存在しない金属光沢を持ってるような銀色の髪だ。

 装束からのぞく手足は細く、この女を一層たおやかに見せていた。

 細い眉と冷淡にかげる瞳は、美貌の中で最高の部類に入るだろう。

 年齢は中学生か高校生と推測できる。が、幽霊じみた相手に見た目の年齢が当て嵌まるかは疑わしいが。

 白い少女は、けれど思ったよりも不確かではない。現実にそこにいる。そして、幽霊(オカルト)などいない。

 

「誰よアンタ」

 

 だから、美琴は問う。今さら警戒しても遅いと理解しつつも、意志の疎通を試みる。語気を強めに。

 常識的に考えると、この現場は御坂美琴が来るまで“密室状況”であったということだ。週間的に読んでる漫画『密室×密室探偵』にも使われる代名詞で、古きよき時代の探偵小説風に言いかえれば、クローズドルーム。

 

 しかしこの場合のジャンルはオカルトになるだろう。

 

(―――どうなってんのか知らないけど、なんか透けてるし。ピアノの中から出現したように見えるし)

 

 そういえば、霧ヶ丘女学院には、正体不明の幽霊学生がいるって噂を聞いたことがある。

 が、それは映像だとしても、初めて見る赤の他人なのに、妙な既視感を覚える。

 

(なんにせよ。今日この日、<盛夏祭>を脅かす可能性があるなら、その足が地に着けていられるなんて……………いや、地に着ける足をお持ちではないようだけど)

 

『人に尋ねるときは、まず自分から名乗り上げるものではなくて?』

 

 これがまともなら最低限の礼は守るけど、正体不明の相手に礼を取る必要はまだない。

 人を見下すような瞳と、細く長い眉毛は美貌であるより以前に迫力があり、ここがお城ならば、お妃様だろう。しかし、今は、美琴にとっては、図々しい不審者でしかない。

 だけど、会話が通じることがわかった。目的が不明であるが、それを探るためにも相手との距離――精神的な距離――を測る必要があると納得させてから、相手の説法に乗ることにする。

 

「……御坂。御坂美琴よ」

 

『ミサカ、ミサカ、ミサカミコト……どこかで聞いたことがありますわね。何だったかしら』

 

 いや、アンタ知ってるでしょ!

 

 幽霊少女は、ゆっくりと顎に手を置きながら、考え込むようにそう口にする。

 この疑問は頭の中で文章に置き換えれば、ごく普通のものだと思われるし、初対面なのだから不躾ではないし、いくら有名な超能力者だからと知らないと言われて腹立てるほど美琴は思い上がってもいない。つまり、こちらが勝手に不躾だと考えてるだけで、『御坂美琴』の名前に聞き覚えないのが故意かどうかの証拠とはならない。

 だが、問題はこれは絶対に故意なのだろうが、無礼と思われない瀬戸際を綱渡りするような仕草と、わざと平坦にぬるっとした調子で言葉を重ねているところだ。こちらに生理的な嫌悪感を強いているのが狙いだろう。

 

(どうやら、友好やら友愛が期待できそうにもないわね)

 

 端からそんなことを期待してるわけでもなく、

 また同時並行で、“少々手荒い”対応準備も整えている。ここから目測で相手の距離を測り、この幽霊少女を打つの演算を組んで、ちゃくちゃくと相手に悟らせぬようにしながら即時に反応できるよう調整する。

 まだ前髪から火花を散らさないが。

 美琴自身が轟き奮う雷の塊であるかのように、おかしな行動をすれば力ずくで抑え込む心構えだ。

 

『ああ、そうそう。思い出しましたわ。今年の新入生には超能力者が入ったと……』

 

 だから。

 そんな風に言いながらも、別に美琴は本気で相手が、自分のことを知らないと――それが挑発だろうと戯言と処理するだけで本気にするつもりはなかった。

 とはいえ、だからこそ。

 この時、御坂美琴は、まさか予想だにもしなかった。

 

『しかし、随分と、不躾でいらっしゃる方ね』

 

「……なに?」

 

『アナタのAIM拡散力場が、わたくしの身体に震わせてくる。

 最初からずっと、わたくしの出方を知りたくて仕方がないみたいですわね。それが無意識であろうと、必死にわたくしの正体を探ろうとしてるのが煩いくらいに活発になっている』

 

 おっとわずかに眉を上げる。

 御坂美琴の身体からは電磁波を常時放っている。そのせいで敏感な動物からは逃げられてしまうが、常時レーダーとしての触覚に役立っている。それを意識的に絞ることもできるが―――この幽霊はそれを感じ取ったというのならば。

 電磁波で感知できる――物理的に干渉ができる――ただの立体映像ではない。

 ならば………

 だが、美琴の感情を乱したのはこの次だった。

 

『まったく、このような不躾な方だとは。噂とは人物を過大に評価するもののようですわね。ねぇ』

 

 幽霊少女は言う。

 これみよがしに、肩を竦めて。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「………………………」

 

 その言葉を受けての、名状し難き美琴の表情と心情を、言語で言い表すのは大変難しい。

 これまで、不良どもに絡まれ、汚い野次に罵詈雑言を聞かされたこともある。

 Level5に昇格してから誹謗中傷を浴びなかったわけではない。

 意に沿わない展開も、涼しい顔で流す程度は耐性があるつもりだ。

 だが―――それでも。

 

 私を―――あの女と間違えるだと?

 あの、絶対裏で何か企んでいそうな女王と?

 性根が屈折している、クイーン・オブ・性悪と?

 

 堪え切れん静かな怒りがふつふつと湧いてくる。

 

『どうかしました? メンタルアウトさん。体調を崩されたのですか? メンタルアウトさん。反応しなさい、メンタルアウトさん。返事をしないのは失礼ですわよ、メンタルアウトさん。いつまで黙りこくるおつもりですの、メンタルアウトさん。それとも、アナタはメンタルアウトさんじゃないのですか、メンタルアウトさん。まさか怖気づいたのですか、メンタルアウト―――』

 

「黙りなさい、私は御坂美琴だっつってんでしょ、その名で呼ぶんじゃないわよ」

 

『あらあら。なんて乱暴なお言葉。しかし強がるのも無理はありませんこと。この空間は、ゼロ磁場――両極の天秤が釣り合った均衡は、わたくしに地の利全てが味方するパワースポット。底へ踏みいれた時点で

 ―――既に、アナタは呑まれている』

 

 と。

 嘲笑の代わりにラップ音がなり、部屋の調度品がひとりでにカタカタと揺れ動く。

 心霊現象としてよく話されるポルターガイスト……それを鼻で笑いながら、美琴は言い捨てる。

 

「幽霊だとか、パワースポットだとか、そんな馬鹿馬鹿しいオカルト話でビビるとでも思ってんの」

 

 思わず、失笑。

 幽霊などいるものか。

 あの少女はホログラムで、この揺れも念動力系などの物理干渉できる能力なら演出できるだろう。どうせどこか陰でこちらの様子を見て怖がらせるのを楽しんでいるのだろう。お生憎様。こんな子供騙しを信じられるような性格ではない。

 

 カタカタカタカタ、と足元まで揺れ始める。

 

「………」

 

 気持ち悪い、とそれが美琴の素直な感想だ。

 いや、気持ち悪いのではなく、そう、確かに不気味さを覚えてはいる。だったら、

 

『恐いのでしょう? わたくしが。無理をなさらないでくださいな。心音に若干の乱れが見られますわよ』

 

「これで、そう見えんなら医者へ行きなさい」

 

 結局のところ。

 美琴がこの時点まで直接的な暴力の手段を控えていたのは、警戒云々の理由もあったが、それ以上に――それ以前に、その気になればいつでも攻撃できた事情がある。

 いつでも黙らすことができたからこそ、そのタイミングをあえて先送りにしていたのだ。

 様子見に徹し。

 見に回っていた。

 人違い? をしているとはいえ、美琴一人にここまでのことをする相手が――それも意志疎通の可能な高度な遠隔操作という感心できる実力を持つ――“この程度”のわけがない、という感情。

 

 しかし、科学の能力者のくせにオカルト話を持ち出すのでは、付き合ってられない。

 

 できれば寮内での能力使用は控えておきたかったところだけど、しかしそんなことはもう無理だった。

 電灯のついてない、暗い部屋にカメラのシャッターフラッシュを焚いたように紫電が瞬き。打ち弾けて起きた突風が部屋を揺らす。

 微弱な揺れを更に爆発的な震動で潰した。

 

 同じ発電系能力者なら、その力場を浴びれば、第三位の危険性を、能力者としての実力差を自ずと悟る―――が、そうでない人間、それ以外の系統の能力者には、わからない。

 だから、警告する。

 拳銃の携帯を許されている警察官が、どうしてまず一発目は威嚇射撃をするように仕込まれているのかと言えば、勿論、犯人の身体を直接狙うのは最後の手段であるということがあるけれど、それ以前に犯人に拳銃の威力を知らしめるため―――文字通りの威嚇なのだ。

 そうしないと拳銃の威力が伝わらない―――あまりに日常から遠い非日常であり、ピンと来ないのである。

 それが超能力などという代物なら、拳銃よりもなおさら遠く、想像さえできない場合すらある。

 

「もうこれ以上、口を利く必要はないようね。出会って三分くらいしか経ってないけど、既にもうこちらからは交渉する気も議論する気も起きないわ。覚悟は良いかしら」

 

『こちらも交渉する気も議論する気もございませんわ。アナタが誰であろうと、まして未熟者など眼中にない―――いや』

 

 会話の途中――美琴の電撃に怯んだとしてもテンポが遅過ぎる――首を振った。いきなり何かに醒めた風だった。

 

『ここで用事があるのは、アナタではない。彼女。そう、彼女よ。だから、さっさと立ち去ってくださるかしら?』

 

「わかってないかもしれないから言っておくけど、不法侵入してるのはアンタの方よ」

 

『それが?』

 

「お望みなら、力ずくでもぶっ飛ばすつってんのよ。とっととそのピアノから離れて部屋から出て行きなさい」

 

 再び、前髪から威嚇の放電を鳴らす。

 

『弱い犬ほど良く吠えるものですね。それにまだ『糸』がかかっていることに気づかないなんて……この程度が今の『看板』?』

 

 そう、余裕に幽霊の少女は失笑する。

 

(二度の警告も無視―――ね)

 

 <警備員(アンチスキル)>もしくは<風紀委員(ジャッジメント)>、または寮監に連絡するべきなのだが、この頃、中学一年生の御坂美琴はまだ後のルームメイトになる街の治安維持に正義感を燃やす後輩と出会っておらず、街で絡まれる不良を自分の手でけりをつけてる超能力者として彼らを頼りにする感覚がなく、それよりも個人的な心情が思考を塗潰した。

 頭を冷やすためにこの部屋へ来たが、それは逆効果だったようだ。

 もし部屋に最初に入ったのがここに来る本来の用事がある今日の主役の幼馴染ならば、真相から犯人、そして解決までこなせてしまうだろう。

 それにおそらく、この部屋で待ち構えたということは、“幼馴染の客人”の可能性が高い。

 ならば、どのような状況において、幼馴染はけして退くことなく挑む。そして彼女が出てきた以上、晴らせなかった不幸(事件)はない。

 御坂美琴は、勝つべきところで上条詩歌が敗北したのをこれまで一度も見たことがない。ずっと背中を見てきた目撃者の口からそれは確かと言える。

 だから、まるっきり大きなお世話なのかもしれない―――と。

 返す返す、そう思いはする。

 

(けど、そうなったら詩歌さんに手間をかけることになる―――)

 

 冗談じゃない。

 周囲の不当な評価から目を覚ませるのに好機な今日この日を例え亡霊であろうと邪魔させたりするものか。

 

 そして、今の自分は『常盤台の看板(エース)

 

 自分の前で、このような舐めた真似をさせてはいけない。

 自信、か。それとも、矜持、か。

 どちらにしても、それは御坂美琴自身に対してのものではない。助けてもらったことはあっても、助けられたことはない。頼られても、それは結局、彼女自身というより自分のためにやらせているようなもの。

 それを幼馴染への不満とするのはあまりにもあんまりで、だからここしばらく入学してからは距離をとってきた。

 飢えていた、というのかもしれない。

 幼馴染のために働く機会を心のどこかで欲していた。そして、幼馴染が手を出せない状況で、自分しかいないこのお誂えの状況に遭遇してしまった。

 不覚にも。

 御坂美琴は、常盤台に入って初めての『事件』に胸を高鳴らせていた。

 

 

「三度目はないわよ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「……下手糞なくせに、技にこだわりすぎだろ? そんなんじゃ後の先(カウンター)なんて取れないし、一か八か先の先を狙うしかないだろうに」

 

 

 三度目だ。この三度目で正直になってほしい。

 

 しかし、二度あることは三度あるを忘れてはいけない。『これぞ最先端科学技術理論を取り入れた格闘技術!』を習得した某は果敢にも抵抗する。

 

「ド、ド素人のくせに、小癪な!」

 

 巻き込み投げを狙う相手に右を振り込む。軽く左を合わせるだけで許した二度目までとは違う。いくら客が神様だろうが、仏の顔も三度まで。

 フラッシュパンチではない、とっておきのゲンゴロとまではいかないが、ダメージを与えるためのフック。捻じ込んだ拳をそのまま打ち下ろしに変え、投げ叩きつけるようにお客様を床に押し付ける。

 

「さて、と。……お客様ぁ」

 

「な、なにする!! これが常盤台の……ぎびゃ!」

 

 上に乗っかって、黙らせる。背中のポイントを押さえて、動けないように固定。

 空いた左手で、痛い頭を抱えながら、残る二人を視線で黙らす。一般開放されているとはいえ、この学生寮のセキュリティはもっと厳重にならんのかと保護者として文句を言いたい。

 

(もっとも俺が目を光らせた程度で分かったことを、詩歌が気付かないわけがないが)

 

 保護者として、悪い虫を見つけたら、行動しないわけにはいかない。

 

「とりあえず、こちらとしても目立つ真似は避けたいところだからな。ここから出てってくれるか? このままだと、みんなに迷惑かけちまうだろうし、お前らにも不名誉なことになるんだよ」

 

「め、雇われ女給見習い風情にそんなこと言う権利なんかないぞ!! 勝手なこと言うな!!! 我々は当然の要求をしただけで―――」

 

 やっぱりそうなるか。じゃあ、仕方ないな。

 ここで会ったのが運の尽きだ、不幸な目に遭ってもらおうか。

 

「まあ、写真撮影くらいでそう目くじらを立てることはないんだがな……」

 

 自然と、笑みが浮かぶ。

 ああ、俺、怒ってる、と自覚。

 

「あのさ、ちょっとその靴借りたいんだけど。代わりに来客用のスリッパを用意するからさ」

 

 三人組の顔色が変わる。そしてそのうち自由な二人が下がる。しかし残念ながら一人は抑えてる。

 こちらは微笑んだまま、よいしょ、と捉えた男をエビ反り固めで締め上げ、一足靴を脱がす。

 

「ギブギブギブギブゥゥ~~!!!」

 

「や、止めろこれ以上やってただで済むと―――!」

 

「あー、申し訳ありませんー。雇われメイドでも、見習いだからなかなか優しく脱がせられなくてなー。すぐ済ますから、我慢してくれお客様ー。

 ―――それとも靴を脱ぐのに何か支障があんのかよ」

 

 取り上げた靴、それを少し磨いてから、光に当てるとその爪先の先端部が瞬く――レンズだ。

 

「……たとえばそうだな……カメラ、とか仕込んであったり」

 

 状況は、その言葉で決まった。

 付き添っていた家政婦見習いの土御門舞夏に振り返り、問いかける。

 

 

「この学生寮って、『盗撮』とかのタチ悪い真似してくれる輩には、どう対応してるんだ? <警備員>に突き出せばいいのか?」

 

「まずは寮の管理人に任せればいいと思うぞー」

 

 噂で超能力者さえ生身で潰したというあの……。

 妹に格闘術を教えているのだから自分とは比べ物にならない技量の持ち主だろう。

 学生に毛が生えた程度の相手が束になろうと簡単に処理できる。

 だけど、鋭い観察眼の持ち主とも聞いてるから顔合わせは避けておきたいところで。

 

「そうか、じゃあ管理人さんへの引き渡しお願いしてもいいか?」

 

「おおー、任されよー。しかし、よく気づいたなー。しかも何か対応が手慣れてる気がするぞー?」

 

「小学生時代、近付く怪しい雄生命体は片っ端から“歓迎”していったが、後輩から同級先輩の男子、果ては性癖変態な教師や見知らぬオッサンまで大量でな、その中にはこういう犯罪野郎も少なくなかったんだよ……」

 

 このままだとマズいことを悟ったのだろう。

 腰を浮かして解放した途端、三人組は立ち上がり、靴下のまま出口へ駆けだそうとした。

 そして、よせばいいのに、と思うが捨て台詞。

 

「「「お、覚えてやがれッ!!!」」」

 

 …………ほぅ。

 

 最速で、踏み込む。

 加速する視界。

 拳はもう、握り締めていた。

 半瞬後、臨時メイドが立つのは盗撮魔の真正面。

 

「俺が記憶する中で、二度もチャレンジする奴はいなかったが」

 

 あっけにとられた間抜け面、文字通り、拳を突き出す。

 

 手応えは、ない。

 ただ、風切りの音が聴こえただけ。

 時間が止まったような沈黙の中。寸止めした拳を開くと手の平は視界を覆い、お留守になった足元、仕込み靴を踏み躙る。

 その間も、視線は外さない。

 幻想を打ち砕いた感触はないが、カメラレンズが割れる音、空しくワレモノのごみにとなる。

 

「覚えても、いいのか?」

 

 相手の目を、にらみつけたまま、ただ、一言。

 腰砕けとなりながら、無言で首を振る盗撮魔。

 パチパチパチパチ、とギャラリーに広がった拍手に、軽く手を上げて返してみる。

 一罰百戒。とりあえず、今日一日はタチの悪いことは起きないだろう。なんか、無駄に目立ってしまったが。

 と、土御門舞夏と入れ替わるように来た知人のじゃじゃ馬ポニーが、口ぱくで、“やり過ぎ”、と………

 

 

 

 お盆には、レストランメニューでも定番なパンとコーヒー、湯気を立てたコーンスープに、サラダとメインの骨付きのフライドチキン。トマトやエンドウ豆のディップ。

 その熱々のスープをひとすすりして、

 

「―――、お」

 

 絶句。

 やおら皿を持ち上げてかっ込みたくなるが、今の立場を思い返して制止するに苦労するほど。

 平凡なコーンスープなはずなのだが、ホワイトソースのまろやかさがただ事ではない。ここのところ新生活に馴染めるよう後輩の指導で忙しい妹が、兄の面倒にまで手が回らなかったこともあったのもそうであるが。

 兄妹で統括してるATMカードを紛失して以来、Level0の苦学生として節約生活―――

 

 『300種類の害虫を一切寄せ付けない遺伝子改良式レタス三号(一号と二号は気にするな!!)』

 『宇宙で育てたニンジン形ニンジン味の宇宙野菜! カロテン(とその他諸々)の栄養成分がニンジンの数倍!?)』

 『肉質には自信あり! 外見ではなく中身で勝負! 異種交配式(羽根無しブロイラーの)鶏肉!!』

 

 など、魅力的なお値段だが、研究費用に補助が付いているゲテモノ枠で常に闇鍋並みのスリルを食事で味わっていることを思えば、使っている材料からして青天井のレベルの感激だ。

 続く、パンにサラダ。どちらにも爽やかな酸味のディップが相性抜群。合間にコーヒーを挟みながら、何度となく噎せ返って胸を叩いてしまう。

 

(やっぱ、お嬢様は良いもん食ってんだなぁ……)

 

 ひたすら、瞬きを繰り返す。

 というか、食事とはこんな悦楽だったのかと思い出す。

 ハーブで味を調えたと思われる衣はその芳しい野性味を倍に引き立て、噛み締める揚げ鶏からは肉汁が溢れて、骨までしゃぶりつくしたくなるほどに本能を刺激するなんて、ほとんど犯罪的だ。

 だというのに、一般庶民な味覚にも、違和感なく――どこか舌に覚えのある様な風で――すぐに馴染めるのだから、万人に受け入れられる味なのか。

 正直、舌の上を食感がなぞるたびに天国に昇る心地で、叫びだしそうなのを、堪えるのに精神力が必要となりそうだ。

 

(レストランでも開けば千客万来だというのに、これを招待客には無料で提供できるんだから、驚きだ)

 

 一般開放された食堂は、今、満漢全席を彷彿とさせる会食の場となっている。

 長机に並ぶ色とりどりの食べ物は、お嬢様が普段口にするようであって、豊富なメニューと確かな味付けをしており、各々が自由に食事を取るバイキング形式。

 これを模したセットメニューのある学食レストランが地下街にもあるのだが、そこでは一食で数万円はとられるであろう。今回は学寮祭ということもあって、半分ほどは希望した学生が手掛けていると聞いているが、遜色がないところを見るとお嬢様は料理スキルも高いらしい。

 その、料理のレベルも高い学生寮食堂の窓際、人目からは区切られた寮生用(スタッフ)に整えられた一角のテーブルに、見る者の背中をゾッとさせるお嬢が座っていた。

 年齢は、妹と同じ一つ下で、妹のルームメイト。和風な顔立ち、年上の男子学生に迫るほどの長身はスレンダーなモデル体型。細筆でシャッと刷いたような眉は凛々しい事この上なく、その眉に負けず劣らず涼やかな瞳は切れ長で、猛禽類の如く鋭い眼差しは、その姉御肌の粗野な雰囲気もあってか有象無象の男子よりも漢らしい。

 “自分と同じように”きちんと化粧(メイク)さえすれば、歌劇における男装の女役者に大抜擢されること間違いない。

 

「それで当麻っち。媚を売れとは言ってないけど、代わりに喧嘩を売れとも言ってなかったよね?」

 

 そんな、女番長という単語をそのまま具現化したような学校一の問題児の鬼塚陽菜はそのワイルドなイメージそのままに平然とサーロインステーキを中心に皿へ山と盛り、一時の淀みなく平らげていた。

 一応は、この品の高い空間でも披露しても問題ないほどの食事マナーなのだが、お嬢様かと言われれば首を傾げてしまう。華麗さを最低限に保ちつつ早食いと遜色ないスピード、ナイフとフォークも使わず、一膳でエモノを切り崩す嘴の如き暴力的な箸捌きであった。

 

「こちらとしては丁寧な対応を心掛けたつもりだったんだが、ダメだったか?」

 

「当り前さね。あのまま私が首根っこを掴んで回収せずに来場客対応に任せて放置してたら当麻っち、どうなってたと思う? ヤられていたね。首をゴキリって。まったく呆れるとしか言いようがないけど、いや盗撮魔を絞めてくれたのは助かったけど、いつもより生命本能が油断してるんじゃない」

 

「妹のお師匠様はそんなに怖いの?」

 

「私が戦闘鬼だとしたら、ウチの寮監は鬼殺しさね。最恐の女戦士(アマゾネス)に目を付けられたらお終いよ」

 

 命の恩人に感謝しても罰当たんないよ、と目前の食事風景に胸焼けして手のつけられていない骨付きフライドチキンを見据える。食事時が動物的に油断を見せることを知る猛禽類は、栄養補給に余念もなく、隙あらば狙ってくる、色々と厳しい環境で育ったお嬢なのだった。

 取られるよりもあげた方が心労は少なく、仕方なしに取りやすいように皿をお盆から前に少し押しやる。

 

「ありがとね。……いやぁ、失敗さね。今日は客がいるからって遠慮してたんだけど、全く物足んない。200gは追加すればよかったと思ってたところ」

 

 と遠慮なく皿ごと(は?)こちらのおかずを掻っ攫ったお嬢。この学生寮は行儀と姿勢も求められながら、わずかな油断が許せばカモられるような過酷な環境下なんだろうか。

 

「お前の動物属性はイヌでもネコでもない、タカ派でもタカビーでもならぬ、タカ属性だったよな。食い物や光物とかを見たら狙ってくるから一緒に食卓を囲うときは要注意が必要な」

 

「かかか、腹ペコからの飯や貧者からの金を巻き上げるなんてしないよ。だいだい、そんな高価な代物は持ち合わせてない当麻っちには余計な心配さね。……けどまあ、詩歌っちが関わるときの当麻っちの子守は、こんなんじゃ足んないよ。正直、時給をもらってもいいくらい」

 

「何、そこまで? 俺って問題児に問題視されてんの?」

 

「だって、当麻っちって、平気で勝手に年頃の妹の部屋に入ってきそうじゃん。あそこは私の部屋でもあるんよ」

 

「部屋に入るくらい別に家族だから問題ないだろ。詩歌だって、俺の部屋の鍵持ってるし、自由に出入りしてるしな。あとこっちのおかずを許可なく簒奪するお前に遠慮とか無用だろ」

 

「なにィ。それはこの学生寮で一番に見学したいところは、妹と私の相部屋で、勇者並みの宝探しを希望ということかね。……もしもベットの下にあるトレーニング器具?を覗いたらそのツンツンをちりちりのパーマにしてやる」

 

「待て待て待て。いきなり火の玉をこっちに向けんな!? 当麻さんはそんな乙女の秘密を暴けるほどデリカシーのない勇者じゃないでせうよ!?」

 

「えー、当麻っちって、どっからどうみてももう十分変t――勇者よ。今も女装のまま平気にしてるし」

 

「平気じゃないし、変態じゃない! 言われるまで気にしかなかったくらい馴染んでるのは自分でもびっくりだけど、この格好を普段着にしたいくらい好きでやってるんじゃねーぞ! むしろ妹には絶対に見られたくない! 着せたのは妹だけどな!」

 

『北欧神話の雷神トールやトロイア戦争の大英雄アキレウス、それに日本神話ヤマタノオロチ退治のスサノオも女装経験者なんですよー。つまり、真の勇者になるのならまず女装を嗜むモノと神話が証明しているんです!』

 

 きゃー! 格好いいですお兄様ー! いえ、今日はお姉様と呼ばせてください!……なんて、最初の方は(あくまで付き合いで)乗ったり、つい役作りの練習とロールプレイで遊んだりしたのだが、いざ客の前に立ってみたら、『女装なんてする神様がいるっつうなら、まずはその幻想をぶち殺す!』と正気に戻った時が、生き地獄であった。

 

「まーまー、黙っていればバレないよ。いや、これホント。うん、カミングアウトさえしなければねー」

 

「……わかった。口止め料代わりにしてくれていいから」

 

 奪われた皿を取り返そうかとも考えたが、それにかかるカロリーを考慮して、やめた。話に付き合うだけでも疲れるのだ。

 

「できれば他人のフリして過ごしたいとこだけど、そこは色々と借金を肩代わりしてもらってる、詩歌っちとの値千金の友情に免じて、今日一日の寮監関連には働こうじゃないか。なに、いつもどおりにしてれば、寮監は私中心にマークしてるだろうからねぇ」

 

「その自慢にもならんことを自信満々に言われちゃうと、普段の寮生活がものすっごい心配になんだけど! ルームメイトがブラックリスト入りしてるってどんなだよ!」

 

「ブラックリスト入りしてるから、ルームメイトになってるとも言うねぇ」

 

「聞きたくなかったよその裏話。嘘でも良いから『走れメロス』的な友情エピソードにしてくれ」

 

 愚兄の主張に、お嬢は骨付きフライドチキンに伸ばした指を止めて、しかめっ面を向けてくる。

 

「『走れメロス』?」

 

「あの話ってやけに同情するんだよな……人間不信の王様に反論して死刑宣告されるメロスの不幸っぷりとか泣けてくるよなー」

 

「メロスよりも、本来無関係なはずなのに人質に売られた親友セリヌンティヌスの方が不幸じゃないのかい?」

 

「変な読み方をすんじゃないよ。セリヌンティウスだって、同じ状況なら同じことをするくらい、お互いがお互いを分かり合ってるんだ。だから、友情に感激して王様が改心するハッピーエンドになるんじゃねぇか」

 

「私が同情できるところは、話と言うより、作者が友人を人質に、豪遊した借金を返すために走り回ったけど、なかなか帰って来ず、堪忍袋の緒が切れた友人が探しに行ったら、師匠と将棋を指していた裏話――いくら値千金の友情でも限度があるという教訓さね」

 

「絶対にそんなことを伝えたい話じゃなかったと当麻さんは思う……さっきお前、俺の妹に借金肩代わりしてもらってるっつってなかったかおい!」

 

「まあまあ、私もセリヌンティウスの熱い友情には感激だよ」

 

「……このルームメイト状況を聞いてると、無理やりにでも引き取りたくなるな」

 

「やーやー、止めてよ。メロスとセリヌンティウスの友情を引き裂く人間不信の王様みたいな真似。当麻っちがそれ言ったら詩歌っちマジで引っ越しちゃうだろうし。いくら家族でも男女七歳超えたら同居はまずいさね」

 

「そんくらい流石にわかってる。同居じゃなくて、常盤台には<学舎の園>にもう一つの学生寮があんだろ確か。まあ、そっちにも女王様な問題児がいるけどな」

 

「あー……それはそれでまずい。そしたら第一次常盤台超能力者戦争がはじまりちゃうよ」

 

「いや、いくらなんでもそれはないだろ」

 

「ウチの超能力者二人の仲の悪さを侮っちゃあいけない。下手に火を付けちゃったら、幼馴染のお姉ちゃんに忠犬な常盤台(ウチ)看板娘(エース)がレールガンをぶっ放しかねない。マジで」

 

「わかったわかりましたわかりましたよー、だから金銭的なトラブルだけは勘弁してくれよ」

 

 ……土御門舞夏から『常盤台の問題児らの手綱を握れるのは詩歌くらいだぞー』、って言ってたが……犬猿な超能力者に、雉、じゃなくて鷹の相手にしてる妹はモモタロウか。

 

「よかった。これで学校の危急存亡と私の退学は回避できた。

 それで、妹の結婚式に馳せ参じるために、親友に王様の相手の代役を頼んで、不眠不休の障害物フルマラソンをするメロス―――に同情する当麻っちは、やっぱりシスコン」

 

「……あのな、妹に優しいのがどうして即シスコンに繋がるんだよ? 家族を大事にするのは当たり前だろ。鬼塚は、国家児童基金に募金するような足長おじさんをロリコン呼ばわりすんのか? 真面目な話、そうやってシスコンって言われていると、本当にシスコンみたいな気分になってくるから。周囲が盛り立てると本人もその気になる典型だな」

 

「……。小学生時代の当麻っちを知る者としてね、もしも中学が一緒だったらと考えるとぞっと恐ろしいものがあるよ。妹に絡むと手加減する気も、手心加える気もなかったし。アレで暴力沙汰で捕まんなかったのが今でも不思議。……でもないか、そうしないために、余計な敵を増やさない止めにフォローに駆け回ったんだろうしねぇ」

 

「かえって迷惑をかけた気がしないでもないが、あれはあれでちゃんと後先考えてたぞ。そのリスクも認識してたが、俺にとってのリスクよりも利益の方が大きかった。もちろん、さっきも言ったがなるべく暴力沙汰にならないように心掛けていた。相手に配慮していた。さっきのあれも転ばせただけで、大したことはしていない。ただ、背後には、俺のような『危ない』存在がいるということを知ってもらうのが必要だった。だから多少リスクに目を瞑って、目立つ真似を選んだ。それだけだ。むしろ、暴力を使わずに解決するための算段だったぞ」

 

 素人目を光らせたくらいで未然に防げるくらいに幼稚な犯行だったのだろうが、少なくとも想像だけに飽き足らず行動に移した、それは不幸になる可能性。

 そしてその“少なくとも”だけで、動く理由には十分足る。

 最低限の威嚇牽制を済ませないと、気が済まない。

 

「まあ、心配性になるのもわからんでもないよ。天然フラグ乱立娘のことだから、

 祭でボロボロに倒れている美形を介抱したり、体育会系の漢と喧嘩して熱い展開で互いにお互いを認め合ったり、久々の再会した旧友と殺し合いで始まったり、きっかけを無自覚に作っていくんだろうさ……」

 

 例えが荒っぽいのは、このお嬢の性格からだとしても、それは、ヒロインと言うより、ヒーローっぽいフラグの立て方だぞ、と兄としてはツッコミたい。

 そして、迂闊な発言で妙なフラグを立てないでほしい。それが予言みたいに的中させる気もない想像遊びなのだが、口にすること自体が予約みたいなもので、そんな幻想まで投影してしまいそうなのだこの愚兄の妹は。

 とにかく、この目が黒いうちはそんな危険な輩とは……

 

「あのさ……煽ったつもりはなかったんだけど、自然な動作でフォークとナイフを袖に隠し持つをやめて。恐いから」

 

 おっと我に返り、寮の備品である銀食器をテーブルに戻す。

 

「そういう態度ばかり見せるから、いくら違うといっても否定の材料とはならないんだよ。これは私個人の意見じゃなく、当麻っちを知る誰もが下す正当なる評価だと思うけどね」

 

 それに、この皿の全体的な味付けも加味して。

 食堂は贅沢にも好きなものを自由に取れるバイキングだ、偏りが酷いだの、好き嫌いが激しいだのと躾けの悪さに、鼻に皺を寄せ掛けるほど呆れてるわけではない。

 品を取るのを横で見ていたときから怪しんでいたが、

 この愚兄は、ちっとも悩む素振りも見せず、

 しかし……一度たりとも、間違うことなく。

 一流とその腕を認められる寮専属の調理人や、派遣された家政婦女学院の給仕らが作った料理には一度も目を向けず、

 このバイキングで様々な匂いで陽菜でさえそれを嗅ぎわけるのが不可能な状況下で、

 早朝、準備に忙しい厨房で、陽菜のルームメイトでもある賢妹が一寮生として手伝った料理を、まず真っ先に選んだという事に。

 しかも、それに本人が気づいていないのがますます重傷だ。

 どうやって識別したのか長い付き合いのこちらには全く分からないと言うのに。

 いつぞや、彼の妹は、『意識的には鈍いんですけど無意識に鋭い』と評していたが。なるほど。まあ、それもトンビが油揚げをとばかりに取ってしまったが。

 

 しかしこれはそれ以外に目がいかなかったとも言えることで、まさに眼中にないという……

 そして、問題なのはそれに自他共に自覚がない所だ。

 

「疎遠になれと言うつもりはない。アンタら兄妹両方とも甘過ぎるから一度、一歩くらいは離れて、その周囲にも目を向けてやんな。大事にするのは悪いことではないけど。あまり近視も過ぎると、相手の幸せも見えなくなりそうだから心配さね。

 詩歌っちもあれはあれで理性的なんだし。常盤台を選んだのには、自分がブラコンだと自覚したのも要因のひとつなんだろうね。

 当麻っちも、シスコンだと自覚しな」

 

 がぶり、と骨付きフライドチキンを一口で半分に嚙み千切る陽菜お嬢。

 

「いや、普通に家族想いでいいんじゃないか」

 

「シスコンだと自覚しな。悪い意味じゃないんだろ」

 

 がぶり。たった二口で骨付きフライドチキンはこの世から消え去った。

 何本目かのフライドチキンに取り掛かった陽菜は何が不満なのか、さらにフライドチキンを消滅させていく。鬱憤を晴らすようにムシャバキッムシャバキッと。

 

「……もしかして、何かあったの?」

 

「別に。当麻っちは悪くないだろうさ。ただ、勘違いなんて下手に上手くいったら面倒な事に落ちちまう。拗らせるとこの上なく厄介なモンにね。そんなのと敵対するなんて割に合わないし。まして、馬に蹴られるんじゃなく、馬鹿に蹴られるなんて私は真っ平御免。……まあ、殺されるようなことはないわけだし。当麻っちが刺されても私は痛くないからどうでもいっか」

 

「縁起の悪いコトを言わんといてください。俺だって刃傷沙汰はゴメンだぞ」

 

「まあまあ、そうなったら当麻っちへの消費税くらいの義理で救急車がお迎えに来てくれるおまじないを唱えてやるさね。手を合わせて、ナムアミダブツ~」

 

「それで世話になるのは霊柩車の方だ! 普通に電話で救急車を呼んでくれ!」

 

「冗談冗談。安心しなって。そんなことならないように詩歌っちがフォローしてくれるさ。ま、忠告を聞き入れなかったら、冗談じゃなくなるかもしれないけどね」

 

「わかったわかった。わたくし、上条当麻はシスコンだと自覚します、これでいいか」

 

「ああ。距離感を自覚すればいい。その後、どんなに近づこうがね」

 

 口を動かしているうちに機嫌が直ったのか、心持ちお嬢の表情が明るくなる。というか、義理でも忠告してくれるとは思ってなかった。

 

「そうだねぇ。当麻っちが安心して距離を置いて見守れるよう、詩歌っちには相手を冥土へと送る怒髪天の女装メイド番長がいると噂を広めるくらいは協力してもいいね」

 

「その提案は絶対に却下だ。面白おかしく尾ひれ背びれ付けて伝説を作るんじゃねーよ」

 

 最後のフライドチキンを平らげて席を立つ。

 ついでに色々と他の説教までされたような食事会であった

 

「ところで、お前、お腹が痛くならないの?」

 

「これぐらい平気さね。まだ八分目ってとこかね。仕事中なんだから食べ過ぎで動けなくなったらまずいじゃん」

 

 じゃあねー、とこちらの分まで皿を片づけに行ってしまう鬼塚陽菜。

 量的な問題を聞いたわけではなく……あれだけの骨は簡単に消化できそうにないので心配したのだが。

 いくら、骨までしゃぶりつきたくなるくらい旨い、といっても、たとえ、常盤台の寮則が料理は残さず食べましょう、というものでも、あのお嬢のはそういうレベルじゃない、下手をすると皿まで喰らえなのか?

 とにもかくにも、自分も休憩のままとはいかないだろう。

 男は、度胸。

 これからは気合を入れて、言われた通り接客対応をしっかりこなす―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ズバヂィ!! と閃光が部屋を塗り潰した。

 

 複雑な蜘蛛の巣のように、雷光は縦横無尽に駆け巡る。

 ―――御坂美琴の演算とは予想外な方向へと逸らされて。

 

(かすりもしない―――これは電撃が誘導されてるようなイメージね)

 

『電撃使いの料理法は、得意ですのよわたくし』

 

 幽霊の前方に、見たこともないような物体が浮遊している。

 細長い長方形の、真珠色した布地に白い光に縁取られたそれら二枚が、盾となるようにX字形に合わさったまま空中で、スクリューやプロペラのように回転している。

 

『チェスはまず手始めにポーンを動かし、空間を支配する。ただ闇雲に手を打とうなどお話にもなりませんわ。そんなことも超能力者は理解しておられないようですわね』

 

 幽霊――ホログラムの少女は、見下ろしていた。

 見下していた。

 バッ、ボッ、バゥゥ―――と布は宙を舞いつつ、何度も撓む。そして雷撃は悉く受け流される。

 

 その浮遊する布状の盾は、美琴の攻撃を弾いて逸らすのではなく、避雷針、または包みこんでその柔軟さを生かして力を逃がすようにしている。

 ちょうど旗にビー玉を投げつけても包まれて落ちるように、美琴の電撃が無効化させられた。

 

『何度やろうと、わたくしを守護するこの<封健の盾(エースキラー)>を破ることが不可能だとまだ分かりませんの。―――常盤台の看板(エース)、レールガン』

 

「……やっぱり、知ってんじゃない」

 

『ええ、超能力者序列第三位<超電磁砲(レールガン)>の話は、よぉく聞かされていましたもの。あまりの嫉妬に狂ってしまうくらいに』

 

「安心しなさい。もう十分狂ってるようにしか見えないわよ」

 

『アナタがそう言うなら、そうかもしれない―――アナタとわたくしは、隣合わせ。しかし関わり合うそれをアナタは届く。逆にわたくしには届かなかった。ですが、所詮は片手間。あなたの本業はそこではなく、ならばこの支配された空間では―――本職のわたくしに、アナタの力は届かない』

 

 故に、この手駒は。

 エースを殺すエースキラーと名付けた。

 

 誇りもせず淡々と事実を述べるように、幽霊少女はそう言った。

 

『もしかすると、わたくしは彼女ではなく、アナタを待ち望んでいたのかもしれない。彼女が誇りとしていた、アナタを―――こうしてけっちょんけちょんに潰す機会を』

 

 絶えず応酬される電撃戦をしながら、幽霊は指先ひとつ、グランドピアノの付属した椅子に向けると、音もなく宙に浮く己の眼前へと浮かぶ。

 

『ご存知かしら? ダモクレスという言葉を。わたくし、この“剣”を落そうと思いますの』

 

「さっきからぺらぺらと講釈する余裕なんてあるのかしらッ!」

 

『ありますわ。だって、もう、詰んでいるんですもの』

 

 一手、その椅子を避けるために、演算修正、電撃を中途で霧散させ―――

 

 衝撃波が、室内全体を呑みこんだ。

 美琴は驚愕に剥いた目で、爆発するように破裂して木屑となった座椅子のなれの果てを茫然と。

 怯んだそこへ、美琴に布盾がひとつ迫る。長い形状を盾ではなく矛として薙ぎ払い、美琴の身体は横に弾き飛ばされた。

 

「っっ……!」

 

 肩から壁に激突し、床に投げ出される。全身の骨が砕けたような衝撃に一瞬、息が詰まった。盾殴り(シールドバッシュ)を受けた腰と、壁に叩きつけられた肩や額に走った鈍痛に身悶えし、床に敷かれてるカーペットを握り締める。口の中に鉄の味が拡がった。

 

『しかし、そうですわね。もう、終わりにしましょう』

 

「こ――の――」

 

『わたくしの能力は、金属片に振動エネルギーを込めることができる』

 

 ジンジンと痛む頭に、血が昇るのがわかった。

 そして、さらに怒りに歪ませる追い打ちが耳朶を打った。

 

 

『<魔女の抱擁(ハッグズハグ)>。魔女――上条詩歌に相応しい『剣』』

 

 

 超高出力の振動は、大気を伝って壁床天井に反響し、学生寮を震わせた。

 “もしも椅子に誰か座っていたら”、人体のどこかに触れていようものなら通される振動波が体内で反射・増幅しながら移動し、頭部を収斂。三半規管が破壊された上で脳味噌がシェイクされる殺人兵器。―――その能力による再現。

 その事実をまざまざと見せつけられ、それを―――

 

『この学生寮の盤上にもうひとつこれを仕掛けましたわ。だから―――いや、違う』

 

 また途中で首を振ってから、調子を持ち直して少女は誘うように手を差し出し、

 

『ゲームをしましょう? わたくしと上条詩歌――の代理として、アナタで。

 期限は、伴奏で――音色が聴こえたのを合図に――最高のパフォーマンスで破裂してあげる。それまでにわたくしを阻止できたらアナタの勝ち』

 

 その手の指先を唇にあてるしっとポーズを取り。

 

『それから誰かにこのことを話したりするのもダメ。わたくしのテリトリーで秘密話は無理ですわ』

 

「アンタねぇ……!」

 

『もしゲームを辞退したり、ルールを破ったりすればその時点で、<魔女の咆哮>を作動。今度は必ずこの被害者を出して、レールガンの看板がハリボテであることを示し。彼女の誇りに一生の傷を付けてみせる』

 

「ふざけんじゃないわよ!」

 

『あら、先に手袋を投げたのアナタの方でなくて』

 

「だったら、どうして私じゃなくて、関係ない詩歌さんを巻き込もうとすんのよ!」

 

 怒鳴り、前髪から紫電が火花を散らす。頭を切ったのか、こめかみから喉にかけて、温かい血の感触が伝っていた。

 それを幽霊は冷ややかに見つめて、

 

『いいえ、関係ありますわ。詩歌さんに話を―――いや』

 

 幽霊は、音立つほどの歯ぎしりをして―――答えた。

 

『わたくしの『派閥』を、()()()()()()()()()

 

「―――え」

 

 さすがに―――美琴は、怒りよりも驚きの表情を浮かべる。

 その隙をついて―――幽霊の手が、美琴の顔を鷲掴みにした。

 

 美琴の意識だけが高速回転するように、眩暈を覚えて。

 

『あと、ご存知かしら?

 この部屋にはカメラと言った記録装置の類が存在しないということを』

 

 そのまま体が通るよう透け抜けて―――

 

『覚えておくとよろしいですわ。

 厄介な敵と言うのは、“この場に存在しない”幽霊(わたくし)のようなもの。

 ここで疑われるのはアナタ、ただひとり―――』

 

 部屋の中から消えた。記録も残さず。荒れた部屋で、美琴ただ一人を残して。

 

 

 

つづく


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