とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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閑話 ブラックジャック 前編

閑話 ブラックジャック 前編

 

 

 

???

 

 

 ―――フレタ。

 ―――フレタ。

 ―――フラレタ。

 ―――フラレタ。

 声が、反響する。

 声が、残響する。

 声に、意味などない。

 単なる残留思念に、考える要素などない。彼女らにあるのは単なる繰り返しで、永遠に劣化し続けるコピーでしかない。

 霊でさえない彼女らはいつか消えてしまうその時まで、そこにこびりついた思念でしかない―――そのはずだった。

 しかし。

 “それ”は、触れたのだ。厳密には触れてすらいない、彼女に自覚すらされていないが、その存在概念が側に着ただけで、彼女らには十分触媒として作用する。

 息を潜めて、姿を隠して、あるいは自らの存在をも忘れ果てていた彼らを、ほんの“さわり”でも覚えてしまった。

 触れるというのは、認めるということだ。

 故に、自分達の存在が認められたと、彼女らは悟ってしまったのだ。

 

 最近、この街にやってきた瞬く生命力。

 ひどくはかなく、しかしあたたかくて、安らぐ光。

 

 ―――その者こそは、自分を助けてくれるのだと、そう思ったのだ。

 

 

 そして、意思のない、限りなく存在の薄い彼女らだからこそ―――どんな魔術師、能力者よりも深い地点でその躯の真実を知ってしまった。

 

 

ロンドン

 

 

 ―――魔女は、逃げていた。

 

 

 魔女は、走っていた。

 饐えた匂いのこびりついた、夜の路地裏だった。

 壁や建物の関係から風の吹きだまりとなっているらしく、澱んだ空気が路地裏の悪臭をさらに際立たせている。汚液を滲ませたゴミ袋や空き瓶も長らく放置されているようで、お世辞にも踏み込みたくなるような場所ではない。

 しかし、今の魔女にはそれも気にならなかった。

 

「ハァ……ハァ……!」

 

 駆けている。

 走っている。

 息が、切れる。

 絶え間のない疾走に、運動不足の身体がついていかない。肺も気管も悲鳴を上げて、横腹がギシギシと痛んだ。

 ずるり、と足が滑った。

 

「……ッ!」

 

 何を踏んだのかも、分からない。

 大きくバランスを崩し、肩から壁にぶつかって、長衣(ローブ)に汚液がまみれた。そのことにさえ、魔女は気を払えなかった。

 払う余裕など、なかった。

 

「嫌……だ……」

 

 悪夢のように、呟く。

 壁を掴み、必死で立ち上がりながら、一歩でも遠ざかろうとする。

 

「嫌だ……」

 

 足が震えている。

 膝が震えている。

 どれだけ走ったのか、もはや魔女は覚えていない。

 ただ、思い描いているのは、ずっと魔術のことだった。

 自分の魔術が、芸術品だ。

 単に、額に入れて飾っておくような伝統のものではなく、今活きている至高の術だ。

 だから、自分は他の魔女とは違う。

 温室で腐っていく現状に満足する奴らは、煉獄(ゲヘナ)の火に灼かれるがいい。あれもこれも禁忌などと言って、高度な術から遠ざける連中は、すぐさま無駄な人生を投げ捨ててしまえ。

 自分は、真実を知っている。

 本当の魔術の意味を、本当の魔術の在り方を、自分は知っている。

 だから、自分こそが“あの人”の後を受け継ぐ。

 

(……ああ、―――様……)

 

 あの人の作品に、自分は救われた。悪辣な魔女の手から逃れることができた。この道を進めば、誰しもが知るその偉大な名。世界のためにと捧げられた名誉。

 輝かしき功績を外道と言って貶め、非道と言って殺し、その屍肉にたかるこの国のハイエナ共の手に渡してなるものか。あの情報屋が教えてくれたこの魔都に隠された工房にある“遺産”を手に入れれば、今度こそ魔術の高みへ辿り着くはずだった。

 そう思っていた。

 そう思っていたのに。

 そこは“行き止まり”だった。

 

 ざあ、と風が巻いた。

 

 霧が急に濃くなり、魔女を取り囲む。

 その霧には、ある音が混じっていた。

 段々と近づく、かつん、かつん、と無機質な音。その一歩がそれだけ自分を十三の階段に歩ませる破滅の使者の音。

 

「ひっ!」

 

 息を呑み、それでも魔女の身体は反射的に動いた。

 文字通り、生まれた時から鍛錬し続けた魔術の印形を形成。すでに顕在意識から切り離された『力ある象徴(シンボル)』が、心の底から浮かび上がる。

 四大元素(エレメント)

 地水火風の世界を構成する要素を、思うがままに操る礎の魔術。

 

「サラマンダー! 杖の象徴により、万物から抽出されしものよ!」

 

 杖を持つ片腕を突き出し、叫ぶは、火の元素(サラマンダー)

 己の作品に魔力(いのち)が吹きこまれる。

 魔女にとってもそれは会心の出来映えだった。

 切羽詰まった環境と恐怖心が、逆に集中を高め、本来以上の能力を発揮させたものか。ここに至って、それほどの魔術を成せることは、彼女が一流の魔術師であることを証明するに十分だった。

 わずかに大気が震動し―――濃霧を一瞬で蒸発させんと路地裏が燃え上がる。

 まるで火山地帯の間欠泉だ。

 摂氏にして千を優に超える魔力の炎は、如何なる動物をもバターのように固体から気体へと変えてしまう。液体を経るプロセスなど、コンマ間さえなかったろう。

 ―――しかし。

 その魔術を見てから、霧の影は、ただ一言。

 

「―――」

 

 あまりに詠唱が短すぎて、魔女は聞き取れなかった。

 なのに、あっさりと炎は消えてしまう。

 魔女は、言葉を失う。

 一体何が起きたのか分からない。

 

「っ―――!」

 

 それでも、魔女は諦めなかった。

 

「この杖に宿りし火の精霊よ、今再び!」

 

 更に力を込めて、切り裂くような鋭さで、魔女は呪文を繰り返した。

 散逸せんとする魔力をこそぎあつめ、短縮形の詠唱共に、二度、三度……

 

「火の精霊よ、今再び!」

 

「今再び!」

 

 路地裏が燃え上がり、消える。

 炎の海が噴き上がり、消える。

 そして、最後は無声の一念だけの四度目の炎も、無意味に終わった。

 絹よりも薄い霧のカーテンを少し揺らめかして、ただ火花だけがむなしく散って、街の夜に飲み込まれていった。

 けれど、その時、魔女は、霧に隠れたモノを見た。

 

「……■■■■?」

 

 ゆっくりと、霧が問う。

 それは、人間の耳には聞き取れないほど雑音混じりだったが、それでも、わざと、こちらの魔術を待ったのだと、魔女には理解できた。

 自分に十分な絶望を与えるため―――自分の作品を記録するため。

 ぐしゃり、と尻のあたりで音がした。ひとりでに膝から力が抜けて、尻もちをついたのだと、頭のどこかが理解した。粘っこいつばが喉に張り付き、喘鳴のようになった声が、やっとのことで唇を離れた。

 

「どうして……どうして、ここに……」

 

 尻餅をついたまま、格好も構わず、ただ逃げようとする。

 それしかできなかった。

 それしか考えられなかった。

 何故なら、彼女の目の前にいるのは……

 

「■……■■■、■■■」

 

 

 翡翠の光が、魔術師の身体を貫いた。

 

 

 

 

 日は、すでに傾いでいた。

 西に見える山峰の端が、鮮やかな緋色に燃えている。

 その残照によって林の影は異様なほど長く捻じ曲がり、ともすると、不気味な巨人の振り乱した髪のように見えるのだった。秋の木枯しも今はピタリと凪いでおり、むしろ息苦しくなりそうな、痩せた土の臭いばかりが強かった。

 郊外。

 ロンドンからも離れた、街境の土地だ。

 その林のすぐそばに、極上の墨を思わせる長髪を流す少女は佇んでいた。

 

「ふむぅ」

 

 仔犬か仔猫みたいな声をあげて、林にあるひとつの木に手を添えてる。

 上は和装だが下はショートパンツと着物をアレンジした軽装を身にまとう少女は、やはり、上条詩歌。

 語りかけるように。声を聞くように。時折、相槌を打つ。

 鬱蒼と茂る林に密集した木々に逆らうようにして、ぽっかりと空いた空白に一本だけそびえたつ巨大な……ほとんど枯れかけた、老木。

 かつては雄壮に張り巡らせていた枝は打ちひしがれ、樹皮は哀れなほどに萎びている。

 少し強い風が吹けば、たちまち朽ちた幹はへし折れ、そのまま枯死してもおかしくないぐらいだった。実際、詩歌が触れた感触からして、これから本格的に冬が始まれば、間近の寿命も終わるだろうという事実は窺われた。

 

「風水の配置が悪いわけでもない。元々お年寄りだからだけじゃない。日本なら、ご神木とか神籬(ひもろぎ)とか言われて祭られるべきものだろうし、実際にここに残る形跡からしてそうだった時期もあった。……のに、今は出がらしもいいところ。つまり、ここの霊地が歪んでる……英国内で大きな補正が行われてる? それも最近?」

 

 哀傷が滲む口調でありながら、熱くなることのない判断は一定の冷度を保っている。

 

「姫様! 注連縄も祭壇もお供えも、あと少し準備が整うのを待ってほしいのよな」

 

「対象の呪力圏の形状、強度、特性の解析、中和用の聖水の散布も終わったのでございます」

 

 『地図』作成の協力者、及びたまたま非番だったおとぼけシスター、ともにイギリス清教所属、が詩歌に声をかける。

 

「わかりました! 準備おつかれさまです、皆さん」

 

 今回、詩歌はひとりでここに来ていない。元より、賢妹は“お付きの人間”が侍らしていなければならない立場の人間だ。そして、ピクニック気分も混じってるのかシスター・オルソラ=アクィナスはランチセットを用意してたり、五和のお義姉ちゃんアピール作戦とかいろいろあったりもしたが、本来、王女と同等に扱わなければならない彼女を止めなければいけないはずで、特にその苦労性の長と同じく天草式は頭を痛めなければならない。

 しかし、こうした雑事みたいなボランティアにまで付き合ってしまっている。

 一度乱された霊地の整備は、たいていの魔術組織は嫌がる仕事だ。

 というのも、すでに他の魔術師がいじった後だけに、その土地自体に一種の『癖』がついているのだ。詩歌の通う常盤台中学のある<学舎の園>では教会偶像を排他しており、そう言った魔術的な『癖』のない、魔術関係者には嫌がられる死地なのだろうが、こういう『癖』のあるのもまた厄介な代物で、下手に他の人間が手を出せば魔力干渉を起こし、最悪は呪毒汚染に繋がる可能性すらある。

 かといって、せっかくの霊地を放置するわけにもいかない。

 

「ここの土地は、随分と荒れてるのでございます」

 

「今回は、日本の宗教では、寂しいと神様も悪霊……先の<荒御魂>になると言われてます。祭られなくなった神様が、反転して祟りを起こしてしまう」

 

 それはこの国にも同じことで、本来街人を守護する鐘の音も、教会が廃れてしまえば、悪霊を呼んで、人に害する魔音となる。

 

「先日、アンジュレネさんの部屋があまりに散らかっていてルチアさんが鬼となってしまったように」

 

「まあ、わたくしもシェリーさんのお部屋に差し入れを持っていこうとすると、お前食べカスこぼすから入ってくるなと怒られてしまったのでございますよ」

 

「元々あそこは破片が散らばってたんですけどね。それに、アニェーゼさんの! 可愛い目に! ゴミが入って――ええ、泣き顔を見れたのはそれはそれで得だったんですけど――アニェーゼさんを泣かせるなんて、ゴミ、許せません!」

 

「環境が悪いとそこに住む人々のストレスが溜まるのでございますよ。一度、綺麗にすればスッキリするのでございます」

 

「ええ、そのとおりです。女子寮大掃除作戦を決行しましょう!」

 

「そ、その! 準備が終わりました!」

 

「あ、どうもです五和さん」

 

 メラメラァ~、と話題が微妙な方向に逸れて燃え上がるストッパー不在のボケ属性の二人に、恐る恐ると声をかける五和だが、素直に反応されて、逆にびっくりする。

 

「それでは、私も補助に入ります!」

 

「ありがとうございます」

 

「お、おねぇ……がいされるまでもありません」

 

 一瞬何かを言おうとしてぎこちなくなる五和さん。そのくりくりとした二重瞼の瞳があっちいったりこっちいったりあわあわしてるも、遠慮はいらない、と言ってくれてるのだろう。詩歌は感謝する。……それを見て、何故かがっくりときてる天草式の面々が謎だが。

 

「―――では、土地の調律を始めましょう」

 

 微笑する賢妹が、堂々と宣言する。

 

「五和さん、もう二歩下がって。オルソラさんは六歩左で術句を唱えてください。できる限り丁寧に。霊脈からの干渉を聖水で中和しながら、五和さんとゆっくり距離を取って……五和さん、そのポイントで洗礼を始めてください」

 

 情報収集。

 適正選別。

 要素設定。

 焦点調整。

 ひとつひとつの式が、ひとつひとつの術が、如何なる干渉を起こして、どのような結果を折り上げるのか、全て想像(シュミレート)していく。

 その体質が感じ取るものを補整/補正しながら、指示を飛ばす。

 

「天草式の皆さん、霊脈の一時遮断を始めてください」

 

「了解姫様」

 

 周囲でそれぞれの得物を地面に刺す。天草式の竜脈干渉術式。

 この老木は霊地の心臓部。だから、動かそうとすれば、心臓と接続される血管から脈が零れてしまう。それを押さえるために、ラインを断つ前に一時的に血管を縛って閉じる。

 天草式と合わせて、老木の周囲に渦が起こる。

 魔術に寄らず、別世界の法則によって、物理的に干渉する<念動能力>。

 たちまち老木の根元が掘り返され、多量の土砂が噴き上がる。

 それだけではない。

 巨大な老木が、揺れたのだ。

 術式と術式が干渉し合わないように選んだ力は、魔術ではないもの。

 そして、作業を分担させ、他に集中を割かなくなることで余裕が生まれ、土地を視ながらでも詩歌が能力で動かすに足りたのである。

 まるで気球のように宙を浮き、ゆっくりと漂い出した老木を、竜脈を押さえる天草式達が呆然と見守った。

 

「五和さん、樹木の移動に合わせて禊ぎで道を。オルソラさん、洗礼による中和を始めてください。東から西へと順番に」

 

 オルソラは、無駄なほど丁寧に術式を編むので、戦闘には不向きの人材ではあるが、今回は合っている。これは些細な問題点も見落とさずに、作業を進めることが大切だ。

 霊脈を堰きとめる格好になっていた老木が浮遊してから、一気に次々と変化が始まったが、修道女の子守唄のようなゆっくりとした洗礼が穏やかに霊脈を包んでいる。手術で言うなら、麻酔の役割で、患者にショックを与えないように細心の注意を払って、眠らせてくれていた。

 

「樹木を植え付けます。皆さん、同時に竜脈を解放」

 

 あらかじめ定めていた地点で、異変が生じる。

 その地点の土砂が一気に掘削され、中空から老木が降されたのだ。

 突き刺さるという勢いではなく、まるで優しい巨人に手ずから移植されたかのような、とても柔らかな植え付けであった。

 それと並行しながら、詩歌は次の準備を始めていた。

 

「お熱いのでお気をつけて」

 

「はい」

 

 老木が植え替えされる位置の前で、大きな釜がしゅんしゅんと湯気を立てていた。

 湯気の具合からすれば、内側の水はすでに熱湯となっていることだろう。

 <大天使>の眷属たる『猟犬』がコインから変形したのは、その清水を満たす釜であった。湧き立てている即席の竈は、林で落ちていた木材を利用したものである。

 その釜の縁へと―――詩歌はその腰のものから抜いた銀紙竹光を当てているのだ。

 

「………」

 

 瞑目し、さっと木刀をひきあげた。

 必然、釜の湯が身体へとかかり、その熱さに詩歌は唇を噛み締めた。

 これは、<垢離(こり)>。

 巫女や修験者が頭から水をかぶる行為を、水垢離という。

 清水をもって俗世の垢を祓うことで、何よりも清く、何よりも浄く。人間が『神』と言う存在に触れるために、本来ありえない領域の清浄さをもたせる。

 釜の熱さに、赤く染まる顔で、それでも微笑は崩さずに竹光を構えて。

 そして植え付けが終わった刹那、竜脈の流れを堰きとめていた武器を一斉に地面から抜いた。

 

「今だ姫様!」

 

 合図に、祝詞を口ずさみながら、さっと竹光を振るう。

 おそらくは熱湯であろう中身がこぼれ、そのたび、空気が震えた。

 無秩序に溢れだすはずだった霊脈竜脈の流れが変わり、祭と言う儀式に取り込まれていく。天草式の面々が武器を抜き取った地点から地面が盛り上がっていき、やがては、老木の枯れた根に吸い込まれる。そうして、整えられた方向性は場所の変わった老木へと集まる。

 

「これは、見事な<勧請>です」

 

 <勧請>。

 それはすなわち、『神』を呼ぶということだ。

 この儀式を始める前に降した<荒御魂>に代わる新たな『神』を、変動した竜脈のある地点に引越した後に、今再び老木に招き、神木として祭り上げる。まったく縁のない神を祀るのは困難であるが、幸い<神の力>の分霊の補助でこの霊地に多くいる自然霊を『神』へと昇華させることによって、<勧請>をすませている。

 呼び寄せられた『神』が老木に宿り、霊脈を浸透させた途端、異変が生じる。

 何かが土地の奥深くで蠢き、それはたちまち周辺の大地を駆け巡り、老木の植わった土壌から今度は逆に根から伝わって、霊地全体へと流れていったのだ。

 

 そして、結果は―――すぐに現れた。

 

 葉が、茂る。

 まるで、数ヶ月の光景をわずか数分で早送りしたかのように――正しい霊脈の生命力を受け、土地の主としての格を得たことで、ありえぬ速度で生育が促進され――老木の死にかけていた枝から、新緑の葉が芽吹いたのである。

 それは枝の一点からたちまち老木全体へと広がり、瑞々しい緑の葉で年老いた樹皮を飾り付けていった。

 雄々しい、大樹の姿だった。

 息を止めてしまうほど鮮やかな―――そして、見てるだけで背が伸ばしてしまう、おそらくはかつての老木の姿。

 ひとつの霊地が、清められた光景でもあった。

 

「では、後はしめです。よろしくおねがいします」

 

 竹光を納刀し、詩歌が下がると天草式が前に出た。

 予め用意されていた注連縄が神木へと返り咲いた老木に巻かれて、包帯のようにその状態を固定させていく。

 

「ご苦労様でございますよ」

 

「ありがとですオルソラさん。あとはこの国全体規模で起こっている霊脈の乱れの原因を突き止めるだけです」

 

 オルソラからタオルを受け取り、熱湯がかけた身体を拭いていく。

 ―――と。

 

「ほ~う……。それは、また勝手にロンドンから抜け出す、と言うことですか、詩歌?」

 

 いきなり、冷たい手が、むんずと詩歌の肩を捕まえたのである。

 

「あー……てへ♪」

 

「てへ♪ ――じゃない!」

 

 ぐい、と引っ張られた。視界がくるりと回る。半回転する。

 気がつくと、そこには――瞬きの間に現れた――本来の『学生代表』お付き人に抜擢された神裂火織が、立っていた。

 とりあえず、儀式が終わるまでは、手伝ってる仲間たちを痛い頭で見守りながら、待っていてくれたのだろう。

 

「先の<勧請>の手際を見る限り、その実力は大変高いと分かっています。たかだか十五歳だというのに、恐るべき才能です」

 

「でも、そういう火織さんも十代ですし、私の頃には天草式十字凄教を修め、実戦にも出ていたのでしょう?」

 

「確かに十代ですが、私が一通りの術式を修めたのは十七のときでしょうね。今のあなたと同じく、英国にひとりで来た時は刀を振るうことで精一杯でした。まして、このように多くの人を指揮して地鎮祭を成功させ、完全に霊地を調律するなどとてもとても。あなたように素直に天才と称賛できるのは、私が知る限り、2人、しかいません」

 

「なんか照れますね」

 

 あはは、と頬を掻いて、詩歌はへの字に眉を寄せる。

 が、それとは逆に神裂は眉を逆ハの字に持ち上げ、

 

「ここの霊地を直したことは、多くの人のためになったでしょう。それは素晴らしいことです。で・す・がッ! 今のあなたは世界から狙われていることをもっと自覚して―――」

 

 と、そこで、目の前の現状を把握しているのかしてないのかおとぼけシスターが、

 

「まあ、ちょうどよかったのでございます、神裂さん。今度女子寮で大掃除をしようと考えているのでございますが」

 

「何度も言いますがオルソラ、私は寮の管理人じゃありませんし、今この状況で話すことで―――「隙ありです」」

 

 バッ! と上着の和装が脱げて、神裂の拘束から逃れる詩歌。

 同時、釜の熱湯が水蒸気に飛び散り、煙幕代わりの霧霞を起こした。

 それに身を隠し、捕まった際に<聖人>の身体能力を投影した脚力で逃亡―――しかし、一定の距離を保ちながら、じりじりと出方を窺いながら神裂はついてきていた。

 

「伊達にあなたの付き人を任されていません! 今日と言う今日はその足の腱を斬ってでも大人しくさせてみせます!」

 

「何か切羽詰まってるのか発想が物騒ですしもっと手段を選びません? 前から思ってましたが、詩歌さんの付き人役なら詩歌さんの邪魔するのは間違ってません?」

 

「私の役目は詩歌の安全は最優先ですから問題ありません!」

 

「えー、今日の予定をドタキャンしてきたのはキャーリサさんの方ですし詩歌さんは役目も果たしてるのに、与えられた自由時間に自由に行動できないなんて、人権も何もあったもんじゃないですよ?」

 

「あなたの無駄に有り余る行動力は封印していた方が安全です! どうしてこう毎日トラブルのある方に突っ込みたがるんですか!」

 

「若い時は無茶しろって言うじゃないですか?」

 

「だったら、無茶をしてでもあなたを止めます!」

 

 林をジクザクに移動しながら、神裂はニヤリと笑んだ。

 

「万が一の時のために、そちらには今日非番のシェリーを待機させてあります。いつまでもイギリス清教相手に身勝手な行動が通用すると思わないことです」

 

 詩歌を追いかけながら、急に虚しくなる。

 

「……どれだけ詩歌の行動に順応してるんですか私は……」

 

 木を避けて、神裂は林の中を突き進んでいく。

 すると一人のゴスロリ服を着る金髪の女性が、視界に飛び込んだ。林の出たところで倒れこんでいる。

 

「シェリー? どうしたんですか?」

 

 駆け寄り、ライオンのような金髪に褐色の肌をした女性、シェリー=クロムウェルを抱き起こす。彼女は神裂と同様、<必要悪の教会>に属する魔術師だ。

 

「くっ、油断したぜ。いや、アイツは強過ぎる。さすが<幻想投影>だぜ……」

 

 神裂の腕を掴み、シェリーが顔を歪めた。見たところ……怪我はない。争った形跡もない。更に、重い。人並み外れた筋力のある神裂をして、“まるで地面と接着している”かのようにその身体を持ち上げることもできない。

 現場の状況から、神裂は即座に理解した。金獅子の同僚に冷淡な眼差しで見下ろす。

 

「シェリー……あなたが握り締めているそれは、一体なんです?」

 

 シェリーが目を逸らした。

 

「ゴメンナサイ、ワタシ、耳遠クテヨクキコエナカッタ」

 

「ここにきて今更ボケが通じるはずがないでしょう! というか私の袖を掴んで身動きを封じてませんか!?」

 

「そんなに知りたいなら、教えてやるよ! 『GECOTA』の限定ストラップだよ! 良いからあと十分ここを動くな! 追加報酬で受け取るこの芸術品のシリーズのために!」

 

「買収されてんじゃねーよ! 応援に呼んだのにそれはないでしょうが!」

 

「ハッ、寝てるとこ無理矢理起こされて何の報酬なしに小娘の相手をするはずがねーだろ神裂」

 

「逆ギレで誤魔化すんじゃねぇ!」

 

 ついには<石像>の腕まで地面から飛び出して主人ごと神裂の身体を抱きこんだ。

 

「何でこうあっさりと懐柔されまくってんだよイギリス清教! 仮にもプロだろテメェら!」

 

 怒りで火事場のバカヂカラを二割増しした拳骨が石の巨人の拘束を砕き割った。

 

 

 ………………

 …………

 ……

 

 

「あの、私達は何もしなくてもいいんでしょうか?」

 

「いんや、邪魔しちゃ悪いのよな。何だかんだでこうして遠出の時には姫様は誰かをつけてるし、ああ見えて女教皇様も姫様との鬼ごっこを楽しんでいらっしゃるのよ」

 

 

ロンドン

 

 

 ―――切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)

 

 19世紀後半、ロンドンのホワイトチャペル地区にて5人の娼婦を鋭利な刃物で切り裂いた、連続猟奇殺人犯。

 遺体をバラバラにして臓器を現場に撒き散らす、署名入りの犯行声明を新聞社に送り付けるなどその残忍な殺害方法と大胆な行動で英国はおろか欧州全土を震撼させた。

 狂人。医師。果ては王室関係者までが容疑者として挙がったがその正体はこの現代においても不明。

 被害は、5人といえど、誰も正体を見たものはおらず、ただ殺されたという結果だけしかわからない、その謎が凶悪な神秘となり、かつての英国女王がガスライトで照らしたロンドンの夜に再び暗闇をもたらした事件で、そして今もロンドンに生きる新参者の伝承。

 日本昔話に出てくる妖怪のように何も教訓も与えず、恐怖だけを残す。理由も、存在も分からないから、怖い。

 

 ―――今、ロンドンでそれを彷彿させる事件が起こっている。

 

 その存在が明らかになったのは、物音が聞こえ駆け付けたら、偶然居合わせた年老いた盲目の修道女の証言。

 現場に一切の痕跡を残さない完全犯罪で、被害者から内臓ではなくあるものを奪って“殺す”犯人。

 この時期に人心が多いに乱れるのを避けるためニュースではまだ発表されていないが、神裂が知る限り、この犯人――『ブラックジャック』にすでに調査員も含めて4名。そして、調査員の誰もが神裂よりも<必要悪の教会>の古参である魔女と修道女がやられた。

 

(もしかすると、詩歌を狙ってきたローマ正教の刺客と言う可能性もある)

 

 予期していたことだ。

 だから、目を離したくはなかった。せめてこの事件が解決するまでは大人しくしてほしかった。今回は、天草式の面々が付いていたようだけど、もし誰とも知らせずに一人で出歩いて、刺客に……

 

「いえ、流石に、もう帰っているでしょう」

 

 捜すのを止め、女子寮へ足を向け、少し広い通りに、出た。夜だからかあまり人気のない。

 だが、女子寮のあるランベス区へと向かう途中。

 遥かコッツウォルズの丘より悠揚と流れるテムズ川。

 国会議事堂の大時計台(ビックベン)を一望できる、ランベスへと架かるウェストミンスター橋を渡る。

 

 ―――橋は、彼岸(あの世)此岸(この世)を繋げる場所と言う魔術的意味がある。

 

 だからか、最初、それを亡霊と神裂は見間違えた。

 向かい岸に、影法師が立っている。

 小さい。年のころは7、8歳、くらいだろうか。

 その黒装束のフードの奥から見えるのは、子供のくせに、醒めた目で世界を見ているような、緑瞳。袖から伸びるのは、透き通るような、白い肌。

 そして何より足を止めたのは……何故か既視感―――神裂の記憶を刺激する。

 魔術とはいえない勘である。何の理屈は整ってない。しかし、直感の鋭さは魔術に置いて不可欠な要素であり、生まれながらにして優れている<聖人>ならばそれは予知とも並べるものではあった。

 この相手は、危険だ。

 この夜で、泣きもせず騒ぎもせずいるおかしな子供。気配を探れば、『人払い』もなされており、橋は霧に包まれている。

 おそらく少女と思われるそれは、じっとこちらを見つめている。

 

「ふむ」

 

 問答無用で叩き伏せるのは、なるべく避けたい。事情があるなら、事を起こす前に聞いたほうがいいだろう。

 まだ、令刀に手をつけることはせず、神裂は問う。

 

「あなたは、私を狙っているのですか?」

 

「………」

 

 影法師は、喋らない。

 余計な情報を与えないための、戦術か。

 

(……そうでしょうか?)

 

 神裂は、自問する。

 何かが、おかしかった。

 これまで超えてきた修羅場の数が、女教皇の神経を刺激している。この人影が見た目とは別のものを秘めていると、訴えている。

 相手に、逃げる気配はない。

 それでも、こちらからは手を出さない。この違和感がなんであるかを知るまでは。

 先手は、向こうに取らせる。

 世界に20人といない<聖人>としての自負で、後から手を出しても対処できると判断した。

 そして、そう覚悟することで迷いも消し、相手の出方を見るだけの心理状態に整う。

 だから、たとえ霧が濃くなり足元も見えなくなろうとその動作は見逃さなかった。

 

「―――A A S B」

 

 簡略化した数秘法(ノタリコン)を唱えながら、黒装束から抜かれたのは、アセイミーナイフ。

 翡翠の宝石が柄尻に付けられた宝石剣は、魔術の儀式にも用いられる特殊霊装。

 だが、その輝きを視えた時点で、女教皇は動いていた。

 

「させませんッ!」

 

 後手必殺。

 橋に敷かれたレンガが罅割れする踏み込み。

 武器や魔術を使わずとも、武芸と格闘術を習得している神裂はその五体だけで十分に脅威だ。身のこなしひとつとっても、格が違う。上半身の重心移動と踏み込みだけで、一気に最高速に乗る、天性と呼ぶほかない、天狗じみた離れ業。

 腰の大太刀を抜くことなく、相手を打つ。更に接近する合間に、相手の周囲に鋼糸を張り巡らせている。この小手調べにどう対処するかを見て、二段構えの魔術で相手を撃退するというのが、神裂が描いた戦術だった。

 しかし、その工夫が役立つことはなかった。

 あっさりと、影法師は反応することなく、初手の――牽制で軽い――拳打に打たれたのだ。

 

「―――!?」

 

 目を、剥く。

 相手の脅威を過小に見誤った?

 そして、一瞬垣間見えた“その顔”は!?

 いや、それよりも相手の状態だ。一応、直前で手加減をしたが、もろに喰らった。万が一はありえる。

 反り返って仰向けに倒れた相手へ、神裂は慎重に近づいた。かすかに高鳴った心臓を意識しながら、ゆっくりとフードの内へ手を伸ばし、脈があるかどうかを首元に触れて確かめようとする。

 瞬間。

 忽然と、影法師の身体が消えたのだ。

 

「―――A A S B」

 

「え―――!?」

 

 振り返った。

 すると、神裂が反撃した直前から停止された映像を再生したように、影法師は果物ナイフ程度しかないそれを武器として、下から上に振るっていた。

 

(手応えは、あったのに―――!)

 

 単なる幻覚をつくるだけの魔術なら、枚挙にいとまがない。

 神道にしろ陰陽道にしろルーンにしろ、ほぼ世界各国全てに存在するだろう。霧によって幻をつくるなんてその代表格だろう。

 しかし、ただの幻なら、こんな手応えはないはずだ。

 

(じゃあ、これは―――)

 

 思考などしている余裕はない。

 

 ―――斬ッ!

 

 ナイフが弧を描くそれは、単純な斬撃ではない。

 月光を反射し、眩いほどに煌めいた刀身が、闇に鮮やかな残像を走らせる。おそらくは、魔術的に何らかの意味を持った一撃だ。

 しかし、短刀であるそれは間合いを詰めなければこちらには届かな―――

 

 

 途端、女教皇の腰から勝手に<七天七刀>が跳ぶように離れた。

 

 

「な……ッ!」

 

 自身に悟らせず、武装解除させる腕前。

 幻に虚はつかれたが―――それでも、神裂がトリックも暴けない手際。

 そして、影法師は魔術刀で矢鱈滅多に空を切り裂き―――宙で泳ぐ神裂の愛刀が主に襲い掛かる。

 

「この……っ!」

 

 鋼鉄をも断絶する刃が、石床を切り裂く。

 影法師の魔術刀と連動しているのは、わかった。

 大太刀<七天七刀>より速く、予備用の鋼糸で陣を描く。

 牽制に火炎を喚び出し、襲撃者の動きを止め、その間、自分の霊装を奪還する―――しかし、鋼糸に通った魔力の光はすぅ―と消えて、神裂が動きを止めてしまった。

 

「―――禁」

 

 相手が、何らかの魔術を発動させたわけではないはずだ。

 それよりも早く、この場――厳密にはその霧自体が独特の結界であり、神裂の鋼糸に反応し、抑制封殺せしめたのだ。

 

(これ……は……)

 

 橋の上で、結集する霧が蠢いていた。

 まるで蛇のごとく、迷宮の如く、高濃度の白霧が空間を分断している。その中では、神裂の魔力は拒まれ、撹乱される。

 神裂も初めて見る術式だ。それでも知識として知っている。

 ひどく古く、繊細な魔力の流れ、こちらの魔術に反応して、霧がもぞもぞと蠢いている。

 神裂は、この現象を言い当てる。

 

「―――まさか、<禁呪>!?」

 

 古い東洋の伝説にある方術で、今は伝承するものなどほとんどいないはずの最悪の対魔術師魔術(アンチスペル)だ。

 元来は、山で修行する道士が、毒蛇を避けるために呪縛してしまう術だという。

 しかし、この術の極まるところ、万物の性質は逆転する。

 すなわち。

 火を禁じれば、燃やすことができない。

 水を禁じれば、凍れることができない。

 雷を禁じれば、痺れることができない。

 犬を禁じれば、吠えることもできない。

 そして、魔女を禁じれば、魔術を使うことは至難の業となる。

 『三国志』に登場する、死した羊をも甦らせた仙人・左慈が用いたとされる魔術だが、この場合、禁じられたものは、『神裂火織』。行使が禁じられたのは、神道、仏教、十字教……天草式十字凄教が用いる魔術、そして、おそらく<聖人>としての特性も。

 数km離れた相手の表情も把握できる視力の持ち主である自身が、数百m程度の距離でたかがフードを被っただけの相手の面相が見えなかった時点で気付くべきだった。

 つまり、禁じられた今―――神裂は、一般人と何ら変わらない所まで貶められようとされている。

 

(禁じるためにはその概念を熟知していなければならない。だとするなら、相手は私以上に知識があるだけでなく、一度も見せていないはずの私の魔術を見抜けるだけの観察眼を持ってる。しかし……ッ!)

 

 そんなことは本当に可能か?

 <大覇星祭>で、同僚のステイル=マグヌスが<追跡封じ(ルートディスターブ)>に嵌められたように、条件がそろえば<禁呪>も可能であろう。

 しかし、あの影法師は、<速記原典(ショートハンド)>のような魔術書を持っていない。

 処刑塔、ウィンザー城地下など対魔術師拘束施設の助けも借りずに、生身一つで生命力の探知・解析・逆算・応用・封殺まですべてをこなすなど、その頭脳は超高速のコンピューターでもなければありえないし、その空間内の事象干渉する機能(エンジン)を動かすに見合った電力が必要だ。

 <聖人>と言う十字教世界に守られている資質をも封殺してのけるほどの魔力、正直、常人の生命力は秒も待たずに尽き果て、身体はもたない。

 発動した途端に枯渇してしまう。

 

 

 ―――フードの奥に輝く、緑の双眸がこちらを射抜いた。

 

 

 瞬間、

 

「っ!?」

 

 ぞぞ、と<聖人>の直感が、神裂を突き動かした。

 しかし、ライフル弾さえ回避する<聖人>の身体能力は奪われている。

 いや、あったとしても、間に合わなかっただろう。

 どっ、と不可視の衝撃が女教皇の体を突き抜けたのだ。

 

「かっ―――」

 

 大きく呻き、弾き飛ばされた神裂は、信じられぬように目を見開いた。

 

(なん……だ……今のは……)

 

 飛ばされたことではない。

 自分の状態が、神裂には最も信じられなかった。

 特に脳神経、体中の神経が、残らず鑢にかけられたようだった。

 激痛を通り越して、もはや断末魔。脳を直接フォークでかき回されるようだった。

 

(ここは、一端退く―――!)

 

 神裂は一時撤退を選択する。

 如何に<禁呪>で阻害されようと、自身の力を完全に封殺してのけることはできない。

 裡の魔力を高め、たった一瞬に自分の意識を圧縮する。人より高みにある異形の領域へ、自分自身を無理矢理押し上げようとする。

 だが、影の動きはそれより速かった。

 橋の上から、夜空へと一気に跳躍し、テムズ川に飛び込もうとする神裂の上を陣取る。

 同時に、魔的な衝撃が神裂の芯まで揺さぶった。

 

「―――っ!」

 

 視界が暗くなる。

 意識が断絶する。

 そして、フードの奥の暗闇が呑み込む―――

 

 その――刹那であった。

 

 強烈な光が、ロンロンの夜をつんざいた。

 

「っ!?」

 

「―――!?」

 

 両者が、ともに呻く

 光圧の凄まじさに網膜を灼かれ、女教皇と影法師のどちらもが目を眩まされたのだ。単なる光ではなく、魔力の込められた爆光だと、二人は同時に理解した。

 だが。

 どんな術式で、誰が?

 疑問が脳内で明滅するよりも早く、動揺した女教皇の耳に飛び込んだ声が、その答えを明らかにした。

 

「五和さん! そのまま! 私が受け止めます!」

 

「はいッ! 女教皇様をお願いします!」

 

 真下にテムズ川を走る帆船。

 『人払い』としての効果もある天草式の花火閃光術式、仲間たちが操縦する機体、その甲板に立つ少女が落ちる身体と意識を捕まえてくれた。

 

 

 ―――そして。

 受け止められた直後、緩んだ<禁呪>の霧から逃れ、<聖人>としての視力を取り戻し、はためいたフードから影法師の面相が、見えた。

 

「う、そ―――」

 

 それが、最後。

 女教皇は目を剥いたまま、頭が暗黒に塗り潰(ブラックアウト)された。

 

 

ロンドン とあるアパート

 

 

 チェスは楽でいい、と少し思う。気にするべき相手が、目の前にいる人だけで良いからだ。

 目の前の相手を倒すための戦術を練るだけで良い。おまけに相手の戦力は、五分五分である。何より、相手の顔が見えるのが良い。

 だが、現実は違う。

 ルールからして疑わしい。

 白と黒だけでないし、駒の数も種類も等しくない。不公平も不平等も罷り通る。

 悪手を打てばそれで終わり。

 待ったはない。

 

「はい、王手~♪」

 

 炬燵に足を入れてぬくぬくそんなことをぼんやりと考えながら、机の上の盤上に次の手を打つ。

 やっているのは、チェス。

 一手五秒と制限されてる。

 やる前にここのボスは言った。実戦では、一秒の迷いが生死を分ける。五秒も悩めるなどと贅沢だな、と。

 

「う~むむむむ、ちょっと待て」

 

「いくらでも待ちますよ~♪」

 

 魔女狩り組織の女子寮と同じランベス区にあるご近所さん、ごくごく平凡な石造りのアパートメントの一室はなんと、英国を震撼させる巨大魔術結社の拠点であった。

 そして、なんとなんと、腕組みして、必死な顔で悩む見た目12歳の金髪の少女はその魔術結社のボスである。

 それと相手している上条詩歌は、この<明け色の陽射し>の首領、レイヴァニア=バードウェイとは、かつて学園都市で起きたいざこざで顔合わせ、手合わせもしている。

 彼女の妹パトリシア=バードウェイとも文通相手と色々縁があって仲良しだ(と詩歌は思ってる)。

 土産に持参したどら焼きを食みながら、微笑ましく対戦相手を詩歌は見る。

 それを横から見ていた黒い礼服にスカーフを巻いた金髪の男がカウントを始める。

 

「ではボス、持ち時間を数えますよー。もうあまり時間はありませんが」

 

「分かってるから、黙ってろ!」

 

「では、残り……」

 

「黙ってろと言ったはずだが」

 

 バードウェイに思いっきり凄まれた。

 ちなみに最初は、詩歌が持ってきた携帯将棋盤で対戦したわけだが、一局後、あっさりと負けたボスが『取られて捕虜となった駒が簡単に相手側に寝返るのが気に喰わん』といちゃもんをつけられ、西洋のチェスなら負けん。そうバードウェイは挑発げ(かつ邪悪)に笑って言って、それを詩歌は承諾。

 そして、現在。

 此処で口を挟むには勇気がいるが、ボスを諌めるのも部下としての金髪の男の仕事なのだ。

 

「流石にこれはもう、無理だと思いますよ、ボス」

 

「……そうだな。簡単に向こうに捕まってしまう歩兵(ポーン)がだらしないからな」

 

「それはボスの捨て駒特攻が悪いんじゃないんですか」

 

「ふふふ~♪ そろそろ何回分死にました? バードウェイさん」

 

 詩歌が訊くと、バードウェイの部下マーク=スペースは答える。

 

「40秒ですから、8回分です」

 

「ぐぬぬぬ」

 

 バードウェイが呻く。あまりの集中に、瞳孔が開いてる。

 しかし、マーク=スペースは時計を見る。思いの外長引いてしまっているので、そろそろゲームを終わらせて、彼女を帰らせないと近頃ロンドンでは物騒な……と、その話題を切り出す。

 

「そういえば、ここ最近、このロンドンで女性を狙った連続傷害事件が起こっているようです」

 

「ええ、ニュースとか新聞には伏せられているようですが、確か、もう4人もの犠牲者が出ているんですよね」

 

「では、最初のひとりを除き、犠牲者が<必要悪の教会>の魔女修道女だということはご存知でしたか?」

 

 その言葉に、詩歌は事態の深刻さを認識した。これが、ただの連続傷害事件ではない。実力が重要視される魔女狩りの組織の人間が犠牲者となると、これは表向きでは片づけられない事件の可能性が高い。

 

「3人とも10年以上はいる古参で、最初の被害者もどうやら魔導師です」

 

「つまり、犯人には歴戦のプロでも倒せるだけの力があるということですか」

 

「ええ。ですが―――「その事件で厄介なのは、そこではないぞ」」

 

 そこで、バードウェイが口を挟む。

 目は相変わらず盤上に向けたまま、

 

「貴様のお付きだとかいう、あの極東の<聖人>から何も聞いてないのか?」

 

 とある一件で、バードウェイは、神裂火織と面識がある。

 その場に居合わせたマーク=スペースも。

 

「うーん、火織さんは私にあまり心配させるようなことは教えてくれませんから。大事にされてます」

 

「大事に、か……。あれが“単なる付き人”だと思っているわけか」

 

「いいえ。付き人ではなく、“大切な友人”です」

 

 イギリス清教の重要な戦力をわざわざ小娘ひとりに付けるだろうか?

 でも、賢妹に微笑みながら躱されて、金髪の少女はそれ以上は追及しなかった。そもそも彼女は自身の重要度を知っていながらノコノコここに来るような人間だ。

 よって、言っても無駄な事を聞いても仕方がない。

 

「それで、厄介、というのは?」

 

「犯人の情報が全く分からない。何せ、唯一、存在を実証したのが証言が盲目の修道女だけで。被害に遭った人間全員は記憶を失っているそうだからな」

 

 

ロンドン テムズ川

 

 

 ロンドンを蛇行する水辺、テムズ川。

 首都を走る河川ということから当然ながら多くの排水溝を有するわけだが、単なる観光資源としてだけではなく、具体的に商業水路としても世界有数の規模を誇っている。昼夜を問わず様々な船舶が行き来するが、そこに木造船が通る。

 

 ドン、ドンドンドンッと、連続で花火が爆裂していく。その一つが、霧の向こうの影法師の足近くで爆裂する。だが、影は光に呑まれていくよう、消えてしまった。霧散した。

 

 しかし、無事に、というわけにはいかなかった。

 

 

「あなたたちは、誰ですか?」

 

 

 その刃のような視線を向けるのは……つい先ほどまで彼女を助けようと手を尽くした仲間たちだった。

 初めて対峙した相手を警戒するように。

 臓物がぶちまけられたわけではない。

 だが、代わりに記憶がぶちまけて、『殺さ』れた、

 起きた時、神裂火織は忘れていた。

 何もかも。

 救助した天草式の顔さえも覚えていない。

 そして、前の4人と同じであるなら、おおよそ一日――21時間経過すると、そのものは眠りにつく。―――生きていても目覚めぬ植物人間となって。

 故にこう呼ばれる―――塗り潰しジャック(ブラックジャック)、と。

 

「……っ、っ……」

 

 上条詩歌は、“これ”を知っている。

 痛いほどに、五和たちが浮かべる表情がわかってしまえる。

 歯を食い縛って視界を埋め尽くそうとする眩暈を抑えつける。この現実を受け入れないと、この『塗潰』を快復させる術を講じなければならない。

 

 生きている。生きているんだ!

 記憶を塗潰されようが、犯人を見つければ、まだ何とかなる。

 女教皇様は、気を失う直前に、『D545』、とだけ言い残していた。

 それが犯人に繋がるヒントだ。

 

「もう一度、問います。あなたたちは何者ですか?」

 

 それでも、すぐには動けなかった。

 その問いに答えなければ、敵対されるとわかっていながら、誰も口を開こうとしなかった。

 それを離れた場所から見ていた。

 ゆっくりと。

 細く、細く、長く。上条詩歌は、息を吐いた。

 思考を切り替える。

 

「……何をするつもりなのよな」

 

 教皇代理であった建宮斎字がこの場を離れようとする詩歌を見咎める。

 

「姫様は明日、第二王女との今日中断された会談があるはずだ。残念ですが、事件に構っていられる余裕はないはずなのよな。相手はプロの魔術師を……<聖人>をも倒す強者。“たかが護衛ひとり”のために一代表としての責任を投げるおつもりか!」

 

「私にとって、火織さんはたかがで済ませられる相手ではありません」

 

 賢妹は。

 低く、異様に低く、そう答えた。

 

「そして、私につける護衛は“神裂火織ただひとりでないといけない”。もしこの一件が明らかになってしまえば、イギリス清教に大打撃だけでなく、私も困る。個人的にも。火織さんはあなたたち、対<聖人>の修練をした天草式十字凄教に任せます。それから―――」

 

「女教皇様をこのような目に遭わせた下手人を探すなと言うのか!」

 

「今の血が昇ったあなたたちに冷静な判断は下せず、取り逃がしてしまう可能性が高い。そして、あなたたちの手は復讐する手ではなく、救いを差し伸べる手のはずだ!!」

 

 思わず。

 邪魔だ、とはっきり言われたわけではないが、その神裂火織を囲っている人間も含め、50名もの天草式がこちらを見る。そのうちの1人が、

 

「姫様と我々が感じる重みは違う! “命を賭しても惜しくない大事なものに忘れ去られてしまったという気持ちが、あなたに1mmでも理解できるのか”!!」

 

「……、」

 

 血を吐くように責められた天草式の一人の言葉に、詩歌は何も言い返せなかった。少しだけうろたえたように、瞳が揺れる。それはまだ成人も迎えていない少女の顔。建宮はその彼に諌めるように視線を送ったが、発言の訂正を口にするようにとは言わなかった。

 それでも、詩歌はすぐに平静を取り戻した。

 

「共感、できないですよね。でも、だからこそ、この場で一番私が冷静でいられる」

 

 うろたえた表情は、寂しげな微笑に塗り替えられる。

 

「忘れられて。思い出させる方法がなくても。それでも私たちは忘れずに、その信念を守り続けるしかない。あの日、私は死をも決した愚行を命懸けで火織さんに止められた。

 

――“だから、ここであなたたちが愚行を犯すというなら私も命懸けでそれを止める”――

 

何より、上条当麻の背中を見て育った私が、ここに来てまだ動かないようなら、上条詩歌は死んでいる」

 

 重く、釘を刺した言葉に詩歌を叱責した男も、野母崎と牛深に肩を掴まれながらも、賢妹が見せた決意を身取って、大人しくする。

 

「……あなた方の言い分も尤もです。でも、せめて頭を冷やすだけの時間は待ってほしい。なので、期限付きで」

 

「……わかりました。それはいつまで」

 

 詩歌はテムズ川の向こうの夜景に目を向けた。

 

「明朝。夜が明けるまで」

 

「な」

 

 一同、吃驚の反応を示した

 

「なんだって?」

 

「詩歌さんは『学生代表』ですし、その責任を放棄するのは確かに無理です。キャーリサさんが帰ってくるころには宮殿にいますから」

 

 だけど、もう午後十時を切っている。夜明けまでせいぜい7、8時間……

 

「7時間で十分」

 

 詩歌は苦笑して見せながら、腰のポーチから折りたたまれて収納されていた数枚の紙片を取り出し、それを清水に浸す。

 

 

「―――これは静かなる湖。

 ―――これは荒れ狂う海。

 ―――これは母なる女。

 ―――されば、導け、流水(ラグズ)

 

 

 吸水し広がったそれは、紙飛行機、と見えた。

 銀紙竹光に張られているのと同じ、ごく薄い金属の箔を折って作られた紙飛行機であった。

 それは科学の航空力学の基にデザインされ、陰陽博士が組み立てる折り紙のように気を込めたことによって、非凡な飛翔性と制御能力を付与された品だったろうか。憧憬さえ思い起こさせる、誰もが一度は折り上げたろうカタチは、詩歌の手から放れると実に時速180kmを超えて真上に上昇し、一周だけ旋回すると前後左右上下に散って行った。

 

「ロンドンの監視カメラ、魔術センサーをも掻い潜り、現場位に一切の痕跡を残さない相手。でも、その姿を私は一度記憶()た」

 

 詩歌は左目に、白いコインから滴る雫をひとつ垂らした。

 学園都市には、『水滴をレンズにする念写千里眼の能力者』がいる。『一度視た力場をどこまでも追跡できる能力者』がいる。

 そして、その両者とも上条詩歌は触れ(知っ)ている。

 水を属性とし、『情報伝達』を司る<神の力(ガブリエル)>の眷属、<幻罰猟犬(クン・アヌン)>。

 隠された魔性を暴く嗅覚――そして、いまだ製作途中の『読取』――がこの現場にまだかすかに残る残滓を辿って、水滴のレンズに映した視覚情報を主人に届ける。

 

「日帰り弾丸格安ツアーってね。7時間くらいの時間でイギリスからフランスまで観光を楽しんで帰って来れるんです。そして、一代表として握手を交わした200万を超える学生の顔を覚えている私にとって、遠目でも一度対峙した人ひとり探すくらいどうってことない」

 

 

 

つづく


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