とある愚兄賢妹の物語 作:夜草
閑話 セブンブリッジ
安泰泉 9階 イベント会場
・問題……『全部の橋を渡り、ゲコ太をすくいなさい。ただし、同じ橋は二度渡ってはいけません』
それがさきほど流れたアナウンスで事前に読まれた問題だ。
ゲームが始まった直後、抽選に入れた参加者は全員が一斉に飛び出したということはないが、新エリアの温泉プールを各々の感性に任せてバラバラに回っている。
宝探しと言うゲームの性質上、エリア内をあちこち歩き回ることになるだろうが、それもエリア全体に客側の視点から不備を見つけてもらおうという主催者の狙いだろう。終わったらエリアの感想を書いてくださいと問題文の後にアナウンスが流れていた。
しかし、約一組(と言うより一名)はエリア解放同時ゲーム開始してから、その場を動いていない。ゲームを楽しむとか、テストに参加するとかお構いなしに、真剣に問題のヒントを吟味している。
それに途方に暮れたような呆れた表情を浮かべる相棒は、とりあえず、
「んで、スタート地点はどこなんだ?」
「馬鹿ね、この問題はスタートとゴールが分からないところがミソなのよ」
「は?」
何言ってんだコイツ? と口にせずともその目でわかる愚兄に思い切り脱力しながら美琴はもう一度繰り返す。
「始まりと終わりが分からない―――だから、それを解決するゲームなのよ」
そう、スタートとゴールが示されていないのだ。だから代わりに示された『全ての橋を渡る』、『同じ橋を二度渡ってはいけない』という条件を頼りに考える必要がある。
「これならそれほど走らなくても十分に勝機はあるわね」
「いいのか? 先頭は、もう一つ目の橋に向かってんぞ」
「確かにね。でも、あれが“一つ目の橋とは限らない”のよ」
美琴は確信を抱いて当麻にそういった。
確かに逸早く、あの時の
「勝機があるのは分かった。でも、やっぱりスピードも必要だろ。それに、一通り橋をチェックしないと話になんねーし。だったら、動きながら考えようぜ」
「いや……うん、そうね。じゃあ、アンタは邪魔しないように付いてきなさい」
そうして、算段をつけた時には、フレンダ達は“始めの
それは橋というよりは、ネットでできたトンネルに近い。なるほど、障害物競走の要素が組み込まれているようだ。
対し、こちらは特設会場の左端の橋に目標を定めて駆けだす。
「丸太の橋、か」
「ええ、そうね。そのまんまね」
最初に選んだのはその通り、一本の丸太で造られた橋だった。
開放されたエリアには、流れる風呂を利用して造られた流れを川とすれば、川に囲まれた、いわゆる中州にあたる部分は二ヶ所あった。そして更に川の外周は大理石が敷き詰められた道路であると捉えれば、七本ある橋の内、四本は道路から一方の中州に向かって架けられている。仮に、こちらの中州をAとし、もう一方をBとする。そうみると、AとBの間にも橋が一本架かっており、結局五本の橋が、Aへと渡されていた。
つまるところ、道路からBへと架けられた橋は二本だけで、自分が選んだ丸太の橋はそのうちの一本だった。
川幅は5mほどで、深さは2m弱。思いっきりやれば跳び越せるだろうが、この風呂場の滑り易い床では無理な話で、一度、落ちればゲームオーバーである。それにこんな冒険を起こさぬようにか、
「赤いな。これはわざとなのか?」
一応のぞいてみれば、水面は緩やかながらも波打っていて、これだけなら流れる温泉なのだが、何故か赤かった。ぼこぼことジェットジャグジーが働いてるのかアブクの演出もある。硫黄臭のような独特的な匂いにもちろん鉄臭い暴力的な香りこそないが、血の海地獄か灼熱のマグマのそれだ。
「一応、ちゃんとした風呂にはなってんだろうと信じたいが……」
「落ちたくないわね、これは―――」
この気持ちを誘発させるための趣向かもしれなかったが、呟きながら美琴は丸太の橋に足をかけて―――ずるり、とその足が滑って慌てて戻した。
「どうした?」
続いて足を掛けようとした当麻が後逸した美琴と入れ替わり、警戒しながらしゃがみ込むと、足が滑った理由が判明した。
「こりゃ、蝋が塗ってあるな」
おそらく、全ての橋にこのような『障害』が仕掛けてあるのだろう。
「厄介ね」
他の橋にも目を向けながら、ふたりは先を思いやって、軽くため息をついた。
「考えながら移動して、足元お留守にしたら落ちるな」
「これは、何度もやり直すのは勘弁願いたいわね」
たぶん、橋を渡れば渡るほど体力を消耗する。イベントなのだろうが疲れを癒すための施設でそれはイヤなものだ。
隣で顎に手を当てて、当麻は妙にしたり顔で、
「ああ、だから、一度しか渡らないようにしてあんのかもな」
「それは心情的に正解でも、何かが違うわよ」
全面的に賛成こそいないが、やり直しはしないほうがいい。
こちらが慎重に丸太の橋をやっと渡り終えた時にはすでにAに架かる橋から攻め始めた暗部コンビは、もう別の橋に取り掛かっていた。
「吊り橋か……」
わざと大きく揺れるように造られているのか、右に左に小さな体は大きく傾ぐ。
気がつけば転んでいる、なんてドジっこなバランス感覚ではないが、気がつけば縺れ合ってる、という上条家血筋的なイベント誘因体質を思えば、後回しにしたいところだ。
「それで、アンタは何か気付いたことはある?」
「まだ、何も。でも、頭を使わなけりゃ、ぐるぐる同じ橋を何度も渡るだけになんだろうな」
ゴールがどこかも分からず、正しいルートもヒントしかない。
跳ね橋、浮き橋、と落ちそうになりながらも、四つの橋をこなした後、問題の吊り橋に差し掛かる。
安泰泉 1階 グルメコーナー
―――色々とあって。
医務室で常務医の診断でもインデックスは休めば問題無しと言われた。あのまま湯あたりの兆候に気づかなければ、ベットで眠る破目になったかもしれないが、幸いにして処置が早かったおかげで、今は出歩いても――途中、頭を働かせても――大丈夫だ。
そういうわけで、待ち合わせメールを送り、二人がやってきたのはやはりグルメコーナーだ。夕飯はまだなので軽いデザートでもいただきながら待とうと考えたのだ。
そして。
上条詩歌は財布の中身を確かめる。
まだ日が浅いにもかかわらず、シスター用に作ったこの店のポイントカードも『そこそこ』溜まるくらいに利用している。
いや、訂正。財布のカード入れから取り出した会員カードは、見事に輝くプラチナ色。
ゴールドよりも上の伝説クラスのそれは、『そこそこ』で溜まるものではない。絶対ない。
ときたま通っているだけなのに、元々が人目を引く美少女であることもあってか、本店のウェイトレスたちには顔を覚えられている。
もっとも、彼女達の記憶に残ったのは、それ以上の強烈な『別の理由』によるところが大きかったが。
窓際ではなく、このグルメコーナーからも安泰泉の出入り口が見える、店に入ってすぐの席。
「じゃ、ここでお茶でもしながら待ちましょうか」
そこにぐてっとしたインデックスを案内すると、詩歌は手を上げながら、ちょうど近くに立っていたウェイトレスに向かって声をかける。
そして、小走りに笑顔で駆け寄ってきた彼女の前に立てかけてあったメニューを広げると、ぐるっ、とページの右隅の項目を指で囲んで見せた。
「えーっと、ここにある『レディース食べ放題コース』……まだ、やってますか?」
「はい! この店の全商品が対象となっております」
「じゃあ、それ二人分で。それで、インデックスさん?」
「う~ん、このページに載ってるケーキ、とりあえず全部持ってきて」
「はいっ、承知いたしましたお客さ―――まっ!?」
……念のために。これはあくまで待ち合わせの“軽い”お茶である。
「あぁ心配しないでください。一度でなくても結構ですから。あとこのドリンク券もお願いです」
「は……はいっ、そ、そちらをどうぞ……!」
こちらの注文内容に信じられない、とばかりに目を丸くしながら、それでも職務を果たすべくウェイトレスは一礼してドリンクコーナを手で示し、厨房へと引き上げてゆく。
「しいか~……」
「? 量が量ですし、流石に注文してからすぐに運ばれてはきませんよ」
「ちがうもんっ! これでも私は清貧を掲げるシスターなんだよ! お腹が減ってるからってクレームは絶対にしないのに! もうしいかってば! とうまみたいに馬鹿にして」
「ああ。ふふふ、ちょっとしか水着みせられませんでしたが、あの当麻さんからの反応からするに、十分ポイントゲットできたと思いますよ」
「……っ、ちがうもん。私が言いたいのはとうまのことじゃないよ。さっきのしいかの………」
納得した理解者を装い、はぐらかす少女に、弱々しくながらも顔を赤くしながら反論するシスター。
一方、厨房ではちょっとした、ではなく、場をひっくり返すほどの大騒ぎになっていた。
「ち、チーフ? ……ひょっとして、あの女の人の隣にいる子―――」
「……えぇ、間違いないわ。あの方は、第七学区の『白い悪魔』よ!」
「なっ!? そ、それってウチのイベント、第七学区一号本店でスイーツの全メニュー4回転を達成した、あの伝説のフードクイーンですか!?」
ぎょっ!? と一同目をむいて、壁に張られた本店通達のFax用紙に視線が集まる。
そこには交番の指名手配ポスターよろしく、不鮮明な少女の笑顔が白黒の画像で大写しになっていた。
その下に大きく、赤い太マジックで『要注意!』との記載付きで。
「……た、確かその時の第七学区一号本店のメニューって、パーティ用の特大ホールケーキもあったんですよね? 10人がかりでも食べきれないでっかいヤツ! それを……4個もっ!?」
「っていうか、それを除外してもパフェの種類は、20以上もあったんでしょう? その4倍ってことは……………う、うぐっ!?」
「そ、想像しちゃダメ! 夢にまで出てくるわよ!?」
「そ、それに! 第七学区の一端覧祭で予定していたフードバトルが中止になったのも、その子が大覇星祭のイベントで、量、スピード、目利きの三部門で圧勝したからだって聞きましたけど!?」
「おまけに、その子に負けじと挑んだ男子が全員、救急車で運ばれて……!」
あいにく、安泰泉出張二二号店にはその現場を目撃したスタッフはいなかった。
だが……ある意味で『惨劇』となったそれを目の当たりにした関係者は青白い顔のまま、口を揃えて言っていたそうだ。
『……そもそも白いなんとかって奴に、ロクな奴がいた試しがない。ブラックホールからホワイトホールに引き込まれる隕石とか小惑星とかって、きっとああいう風に消えていくんだろうな』
『見た目は小動物でも油断すんじゃあない。鉄の胃袋だとか全身胃袋だとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねぇ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ』
その言葉の全てを、彼らはほとんど信じていなかった。
いや、違う。信じたくなったのだ。
だって、関取とかマッチョな超人ならともかく、『少女』と『超大食い』は一番混ぜてはいけない要素だろう。
「せ、正当な商取引を踏んでいるだけに、ある意味で、クレーマーよりもよっぽどタチが悪いですね……!」
「と、とにかく! 今休憩に入ってるパティシエ、全員呼び戻して! ハロウィン・クリスマス商戦と同等のスクランブルシフトで乗り切るわよっ!」
「りょ、了解しました!」
…………………
これで明日から、インデックスは二二号店でも『有名人』……いや、『要注意人物』になるだろう。
それにしても。
「なぁぁんで『レディース食べ放題』なんて危険な代物をメニューに残していたのよっ? カモがネギを背負った上に味噌抱えて、鍋まで持ってきたようなもんでしょォォッ!?」
『甘いものは別腹』という女性ならではの恐ろしさを全然理解していない店長に対し、現場を預かる厨房チーフはそう盛大に毒づいていた。
……そんな、厨房の喧騒はさておいて。
「……ねぇ、しいかはさっきのイベントの謎、解けてたんじゃないの?」
注文の品が来るまでお冷を両手でコップを挟み握りちょこちょこと飲みつつ、疑問詞がついていながらも確信的にインデックスが訊くと、あっさり、
「ええ、すぐにあのアナウンスが『不可能問題』だとはわかりましたね」
そう言いながら、詩歌は、アンケート用紙の裏側に、備え付けられたペンで施設の案内板で見た全体図をササッと書き上げる。
「この問題の原典は、『ケーニヒスベルク』」
「けーにひすべるく?」
「数学書に載っているものですからインデックスさんにはあまり馴染みがないかもしれませんが、この『七つ橋渡り』は科学サイドの謎かけみたいなものです。そのままだと誰も解けないので、それをアレンジしたものでしょう。きっと、旅掛さん――美琴さんのお父さんが得意そうな問題ですよ」
「そこまでわかってんのに、何で
「私はめいっぱいに可愛がりはしますが、過剰な甘やかしはしません。美琴さんも数学書を読んでるんなら、すぐに気付きます。それに答えではなく、“ヒント”なら伝えましたから、助っ人分の働きはしましたし」
ヒント? とあの時インデックスは茹っていた意識の中でだが、そんなこと聞いた覚えはないような。
「美琴さんならこれでも十分過ぎる。むしろ、おつり分の足手纏いをつけないとゲームバランスがとれません。あとは力仕事が得意な労力ということで……」
その時、『お、お待たせしました~』といって、複数のウェイトレスたちがお盆いっぱいのスイーツをテーブルの上に並べたてる。
その途端、あたりは甘くていいにおいが充満し、こちらの有り様が見える周囲の席のいくつかからは、好機に満ちた視線がこちらに向かって飛んできた。
安泰泉 9階 イベント会場
「おかしいな……」
ゲーム開始からそろそろ30分。半数以上脱落した中から生き残ってる参加者は全ての橋を一度以上通っているが未だにゴールに辿り着いたものはいない―――否、正確には正しいスタート地点を見つけられずにいた。
「ゴールがここなら、最後に渡る橋は三本に絞れる……」
すでに全ての橋は渡った。ある程度は具体的なイメージが可能。
「橋は、全部で、七つ」
頭の中に美琴はこのワンフロアを借り切って造られた新設会場の全体図を描く。
「これを、一度だけ、全部渡る……」
想像した図で、さっき通ってみたルートをなぞってみる。
「最初に丸太を渡るのは、ダメだったわね」
もう一度、頭の中でシュミレートを繰り返しても、やはりそのルートはダメだった。
何度も何度も確かめてみる。
そして、今のところRPGで先頭を行く稲妻を操る勇者の後追いする戦士的な、助っ人高校生はというと、きょろきょろと周りを見ながら、
「そういや、お前の父親ってどんな人なんだ?」
「いきなり何よ?」
計算しながらでも会話ぐらいなら問題ない。どうせ頭の部分で働いてもらおうとは期待していないが、何となく美琴は付き合うことにする。
「統合コンサルタントとかいって、世界中を飛び回ってるわね。何か『世界に足りないものを示す』のが仕事だそうよ。定期的に帰ってるそうだけど大覇星祭にも来られなかったし、今頃どこにいるか美琴センセーも知りません。母なら知ってると思うけど」
ぱっと思いつく限りの一通りだが、だいたいそんな感じだったはず。母美鈴とはイベントで割と遭遇しているわけだが、父旅掛は疎遠だ。顔を思い出せないというわけではないが、娘の物覚えがついたころからほとんど各地に飛び回っている父の後ろ姿くらいしか美琴は見ていない。そんな境遇が、ちょうどお隣の上条家と似通っていたわけで、家族ぐるみの付き合いの一助にもなったんだろう。
「寂しいのか?」
「別に。会えたらそりゃあ嬉しいけど、だからといって、会えないからどうってことはないわね。この学園都市じゃあ家族離れと言うのがほとんどだし。で、父がどうかしたの」
「ん。いや、さっきこの問題を聞いた時、詩歌がやけに“
自分では知恵が足りないから賢い人間の考えを参考にする。なんて安直な……と呆れながらも、何度も頭の中の図になぞった線はいつの間にか、落書きじみた絵を完成させていて、
「これってまさか……」
その図絵に、美琴は見覚えがあった。
頭の中の落書きではなくて、ちゃんとした本の中で。
「七つの橋―――そうか、橋が七つだから、『ケーニヒスベルクの七つ橋渡り』じゃない」
「え? 七つ橋渡り? 何だそれ?」
「数学書にも載ってるわよ。細かく説明するのが面倒だから詳細は省くわね、ある街の七つの橋を『どの橋も一回ずつ渡り、七つ全ての橋を渡ることができるか』という問題なんだけど、結論を言えば、“渡れない”。二度と追っていいなら話は別だけど、一筆書きの要領で渡ろうとするとできないのよ」
つまり、これは論理的に不可能な問題。
けど。
上条詩歌はこのことを問題を聞いてすぐに連想しただろうし、これが欠陥であるとは出題者である開催者側に報告しようとはしてなかった。
だから、これには正解があり。
もしヒントを言い残していた――幼馴染の“意味のないこと”を助言しない性格を信じるなら――『
そこで美琴はふと思い出す。
今日の七並べのことを。
そして、横でぼそりと、
「よくわかんねーけど、足りないないからダメなら、補えばいいんだろ」
安泰泉 1階 グルメコーナー
「美琴さんのお父さん、旅掛さんは、“チート”な思考法の持ち主でした。まだこの街に来る前の幼い私はそれに感銘しました」
テーブルの上にあるハンドベルPCの画面に展開された一枚の二組の家族の集合写真。
―――世界に足りないものってなーんだ?
そう、問うた男との出会いは、学園都市に来る前のこと。
初対面時、『疫病神』での事例から、見かけがギャングの男が、妹分と砂場で遊んでいた際に現れたのを見て、幼いころの上条詩歌は御坂美琴を背に庇いながら睨みつけた。
そんな臨戦態勢の詩歌にシャベルの先を突きつけられながら、ギャングは感心するよう口笛を吹き、『こりゃとんでもない資質を持った子だな』とその目を見て述べた。
事前にご近所さんの話は知っていたとはいえ、反省が生かされ過ぎている。幼児が大の大人に対峙して怯まず、そしてそれが
で、それは結局、『パパ!!』と御坂美琴からの反応ですぐに自身の不明を悟って頭を下げるのであったが、御坂旅掛はそれを笑って許してくれた。
「机上の問題は全て論理で片付けることができますが、現実の問題は理外の理。非常識極まりない理不尽ばかりで、時には論理が通用しないものもある。特に能力や科学なんて最たるもの」
ミルクと砂糖を加えたアイスコーヒをかき混ぜながら、
「インデックスさん。そこのケーキ、3回だけナイフを入れて八等分にできますか?」
「3回だけ?」
ナイフとフォークを右手左手に持ったインデックスはクリームとフルーツのトッピングでデコレーションされたホールのケーキを見つめて、思案する。
実際に試さずとも脳内でイメージを錯誤して、諦めの境地に達するまでさほど時間はかからなかった。素直に音を上げる。
「3回で八等分なんて無理だよ。せいぜい六等分が限度だね」
「では、詩歌さんがナイフを入れても構いませんか?」
「うん。是非やって見せてほしいかも」
ホールのケーキを手前にまで引き寄せると手に取ったナイフを、まず真っ直ぐ縦に入れ、次に真横に切断し、十字にナイフを入れると、最後はケーキの側面に這わせた。
固唾を呑んで見守っていたインデックスの前で、料理好きな詩歌は、ケーキを回転させながら器用に刃を横方向に走らせて、ケーキ全体を上下に割った。
つまり、これで体積で言えば、八等分になったわけだが、インデックスは納得がいかない顔で、
「これじゃあ、上の四つだけクリームとフルーツが載ってるのに、下の四つはスポンジだけだよ」
「でも八等分でしょ? 提示した条件は満たしてます。美味しさも八等分でないといけない、というのは、あくまでインデックスさんの勝手な思い込みに過ぎません」
「だけど、常識的に考えたら納得できないし、“さっきのしいかみたいなやり方”は反対なんだよ」
「ですね。インデックスさんの考えが本当は正しい。これじゃあケーキを分け与えた8人全員に生クリームとフルーツが行き渡れないし、インデックスさんの助言が間違って二択ではなく三択だったら事態はより悪化していた。こんなの過程を放棄し結果だけを求めて、意表を突く手段を思いついただけ。でも、時にはこうした悪知恵を働かせ、相手の裏をかいて、ルールの目を逃れる裏技が必要な時もある」
非常識な世界を生き抜くのならなおさら。
「きっとインデックスさんもそれに美琴さんもAからB、そしてCへと順序立てて真理を積み上げて答えに迫れる、とても優秀な論理的思考の持ち主です。膨大な知識と経験を使って、判明した事実から論理を掘り下げる考え方はスタートからゴールまでの過程も大切にしています。対し、チートな発想は先入観にとらわれず広い視野からあらゆる可能性を模索検証する。たとえ根拠になる材料がなくても自由奔放にイマジネーションを働かせ、過去に例を見ない斬新な解を導き出す。“トラブル解決に非常に経験値が高い”当麻さんの無理無茶無鉄砲はとても思考法とは呼べないものでしょうが、これに近しいタイプでしょう」
正道な論理的思考の人間は終点たる答えまで一気に成長させるだけの能力はあるが、その根の部分たる頭を働かせるための始点を見つけ出すのに苦労する。
対し、自由奔放に可能性を模索する人間は、それだけ選択肢は広範囲に及ぶが、瞬時に四方八方に根を伸ばして、真実への道筋の始点を探し出せる。
「旅掛さんが言うには、『全てが満ち足りた人のことが天才というわけではない。自身に足りないものを正しく理解している人を天才という。天才は、自分に足りないものを悔やんだりしないし、無力感を嘆いたりもしない。だから、悩んでいる人を見かけたら、足りないものは何かと考えさせてやればいい』」
知識と閃きは、対極に位置する思考法だからこそ、両方身につけているのは数少ない。
意外な機転と速い頭の回転、その両方を上手く使いこなせる御坂旅掛は、まさにその稀有なタイプであった。
そうして、御坂旅掛というひとつの理想形を知った上条詩歌のそばには“自分とは真逆のタイプの見本”がいた。
「当麻さんは『織田信長が織田幕府をつくってたら日本の歴史はどうなっちゃてたんですか?』などと教師に質問して困らせる馬鹿ですが、頭は悪くありません。ただ知識がないが故にその発想も自由なんです。顔も決まる時は格好良い。たまにはそんな馬鹿さ加減を見習うのはインデックスさんにも価値があると思いますよ」
安泰泉 9階 イベント会場
「7つでダメなら、8つ目の抜け道があるか、その辺の板を拾って橋一つ架ければいいんだろ?」
「はあ?」
妙な顔して美琴が、当麻を見た。
「何言ってんのアンタ。7つの橋を渡んなきゃゴールに辿り着けないって問題でしょ。これはケーニヒスベルクの不可能問題で、そんな単純な考えで解けるようなもんじゃないのよ」
当麻はしかし、何故か意外そうな顔をして見返した。
「なあ、もしかしたら聞き逃しただけかもしれないが、“橋が全部で7つ”って言われたか、とりあえず『全部の橋を渡れ』じゃなかったか確か」
……ああ、そうか。なるほど。美琴は息を呑んだ。
全部、だから、今目の前にある七つしかないとは限らない。
『八止めして美琴から憎まれても仕方ないといわれた』幼馴染が“また”、
『足りないモノを示唆するのが得意な』父親なら“簡単”、
そして、
『さて美琴さん。どうして、当麻さんが記憶喪失を隠せていたと思います?』
代役の助っ人に推薦したのが、“愚兄”。
『これは妹としての私見ですが、元々そう言うのが得意だったんです。……兄は今はもう記憶のない過去に、何もかも否定された経験があります』
『それって、もしかして前に詩歌さんが言っていた酷い苛め……本当だったんですか?』
『詳細は言いませんが、それで不幸と向き合い続けようと知恵を絞った結果、“その場しのぎ”を覚えたんです。真剣勝負や事件を回避する術を学習してしまったんですから、学校の勉強が捗らなくなってしまいましたが』
そういえば、最初に喧嘩を吹っ掛けた時も、まずアイツは真剣に取り合わず、逃げたっけ。
でも……
『なのに、事件を無視することができない。“その場しのぎ”が得意なのに、“その場かぎり”と見捨てない。いうなれば、前向きな方向に不幸を避ける経験値を生かしながら、不幸に飛び込んじゃうんです。ああ、馬鹿は死んでも治らないと言いますが、記憶がなくても記憶がなくなってないフリでしのげてしまう悪癖だとは思ってませんでしたけど』
要するに、最前線の兵士に求められる、現場に生きる本能直感的な資質は優秀なのだと。
賢い人間ほど陥り易い落とし穴。だが、無意識のうちに立ててしまう思考の道筋がなければ、その上を辿ることはない。
美琴と前提として浮かぶ発想が異なっている。ゼロからの思考は、先入観に惑わされない。
多くの人が、知識にない答えを導き出せるとは思わないはずだ。
解決手段を求めるのなら、自分が知る以外の教養、前例や事例、専門家の助言、参考の文献といった情報収集が必要なのだろう。それがないなら、人間はその問題を途中で諦める確率が高い。
が、無知なのに問題と真正面から向き合う癖、無能でありながらも巻き込まれた不幸に尽力するその姿勢だから、余計なことを考えずに、今分かってるだけの情報で物事を考えられるのだろう。
(案外すごく頭がいい―――って、それはいくらなんでも買い被り過ぎね。結局のところ、こいつは知識がないから最初から閃きだけ頼れないだけ。……でも、きっとそれを見越してたのね)
この馬鹿との会話に、入り過ぎていた力が抜けて、これほど多くの与えられたヒントに気づけば、もう美琴の目には勝利が見えた。また頭の中に描いた全体図を広げ、
「アンタはこのまま橋を一本渡って、右回りに三角屋根の建物を目指しなさい。私は逆から回り込むわ」
詳しい説明は後回しにして、美琴は助っ人当麻に沿う指示を与えると、駆けだした。
他の橋はとりあえず無視して、何か使えそうなものを視界の中に捜す、そうすれば、やっぱり長い板が見つかって、美琴は自身の読みの正しさを確信した。
その板を抱えたまま、Aの外れ――そこだけ道路との川幅の狭くなってる――三角屋根の小さな家に辿り着く。
手頃な板を探してロスした時間と、中州から道路へ丸太橋を滑り渡って指示した場所に着くまでの時間は相殺されて、そこに到着したのは美琴も当麻もほぼ同時だった。
「今からこの板をそっちに渡すから、手伝ってちょうだい!」
「おう!」
向かい岸から、ちゃんと答えが返ってくる
「橋が七つなら渡れない。でも、問題は橋の数については言及してない。なら、全部が八つなってもルール違反じゃない」
床に膝をついて、川の流れに持って行かれないように、慎重に向こうへと美琴は板――いや、これから橋になるものを送る。
「で、橋が八つかかれば、全ての橋を一回渡るだけで条件が満たされる」
つまり、足りないモノを足せば、それだけで不可能は可能になる。
「そうだなっ」
向こう岸で、必死に手を伸ばす当麻は、ようやく導き出された答えに頷きつつも余裕はなかった―――美琴が選んだ橋はほんの少しだけ長さが川幅に足りなかった。
「目算を誤った!? これじゃあ」
すぐさま、別の板を探そうと再び視線を張り巡らせれば、代わりに目に入ったのは、愚兄と反対側の、橋をひとつ挟んで対岸にいたフレンダたちだった。
どうやら、問題の答えが解けていない。そう思ったというのに。
「フレンダ。アレが超答えです」
「結局、もうひとつ橋が必要だったわけね」
こちらを見ていた相方の少女につられて、瞠目したかと思うと、フレンダは猛然と丸太橋を渡ってこちらへと駆け始める。絹旗もその小柄な身には考えられない怪力を発揮して、こちらより大きな橋を持ち上げた。
ほとんど考えている時間はなかった。
参加者の中で誰よりも多く橋を渡ったから、こちらの行動を見ればその後のルート予測がたったのかもしれない。
とにかく、あちらが動き出した以上、別の橋を探している時間はない―――
「―――いや、これでいい、足りないもんはこっちで補える!」
引き戻す途中だった短い橋を宙で、淵でふんばりながら精一杯に片腕を伸ばした愚兄の右手が捕まえた。
足りないのは少しの長さだけ。その少しなら、限界まで伸ばした腕の長さで間に合う。
「じゃあ、ちょっとだけ踏ん張ってちょうだい!」
その愚兄の意図を悟った美琴は一度下がってめいいっぱい助走をつけて、板に飛び乗った。そして、一気に渡る。
人の片腕だけに支えられながらも、どこか浮き橋よりも安定していて、この馬鹿が手を離さない限り、美琴は川に落ちる気がしなかった。
「ぐぅっ!」
当麻の苦悶を耳が広い、橋を支える腕一本の筋が浮かぶのが目に入り、美琴は更に加速した。
「よしっ! もういいわっ! 後は私が」
即席の橋を渡り終えて、その人ひとり分以上の負荷を片手で耐え抜いた働きを労ってやりたいところだが、すぐ後ろに迫る気配を感じ取る。
振り返ることすらしている暇はなかった。
「絹旗が持ってくるより、第三位が予め用意していたのを使った方が速いってわけよ」
彼女の相方は怪力だが移動力は普通で、まだ橋を架けるのに間に合っていない。
だから、フレンダは御坂美琴に追いつくためにそのルートを選択していた。
美琴が気づいた時には、まだ愚兄が掴んだままの板を三歩でフレンダは渡り切って、最後にガツンッ! と踏み込みで板をスタンピング。
「ご苦労様。もう休んでていいわよ、橋役」
「うおっ!?」
気づいていたのに手放せなかった愚か者は川に入った板に引っ張り込まれて、哀れ、真っ赤な血の池地獄に頭から落ちた。
「っ、よくも!」
これは計算外だったが仕方ない。頭の中で組み立てたコースを美琴は走り抜ける。
8の字を描くように四つの橋を渡れば残りは二つ。すぐ後ろにフレンダの息遣いが聞こえたが、美琴はもう後ろを振り向かなかった。
ただ、走る。
Bの中州を一気に抜けて、最後は浮き橋。焦らなければ落ちることはない。フレンダはそこで勝負をかけた。
「電撃の使えない第三位なんて、全然怖くないしっ」
漏電しやすい環境で、ノーマルな第三位はその発電能力を発揮できないだろう。そして、能力さえ発揮できなかったら暗部で鍛えたフレンダのバランス感覚がたかがお嬢様に負けるはずが無い。
「結局、麦野並のスタイルじゃないのに、ビキニを選んだのは間違いだった訳よ」
フレンダが腕を伸ばす。あの時と同じで、背後からでも電磁波でこちらの動きは把握しているだろうが、手より早い電撃は使えない。
これまでの激しい運動に緩んでしまっている、御坂美琴の水着のブラトップの紐の結び目を狙い、後方のフレンダは指を入れて――――解けた。
「にょわ……ッ!?」
美琴が慌てて水着を押さえ、すんでのところで胸元を隠す。ギリギリ見えはしなかったが、思わず足が止まり、時間をわずかにロスしてしまう。また水着を付け直すために後ろ手に回す必要があり走行フォームが崩れる。
「いただきっ!」
抜いたッ!
ついに先頭に躍り出たフレンダの最後の難関は、浮き橋。
焦らなければ、落ちることはない。―――だが、絹旗は声を上げた。
「フレンダッ!?」
ダンッ! と跳び乗った最後の浮き橋が、ぐらっと大きく揺れた。足がもつれる。
あれ? こんなはずじゃなかったのに。
イレギュラーな赤の大波が浮き橋を揺らしたせいで、フレンダは足を滑り、身を躍らせる。
スローモーションのように別ルートでその横を抜けた第三位を見て勝利を確信したその顔は重くなって。
「知らなかった? 血の池地獄に含まれてる
もちろん、引っ張るには相当な
けど、漏電すれば、他の参加者に被害が出る恐れがある。その万が一の可能性があるなら、一般人は能力を使うのを躊躇うはず。
「アンタ、それで他の客に被害が……」
「出ないわよ。この程度の操作を完全に制御してるから
血の池地獄から陸に上がった愚兄が、“右手を川に入れていた”。
それがフレンダには何を意味するかは解らなかったが、浮き島を揺らしただけで他への影響はない。残留もしない。
もちろん、この都合の良い展開は偶然ではない。
御坂美琴はフレンダと競争しながらも計算していた。最後が浮き橋――温泉に落ちた愚兄の近くを通るようにルートを選んでいたのだ。
「それじゃあ、温泉にでも浸かって血行を良くすることね」
安泰泉 1階 グルメコーナー
「しいか! おかわりしてもいい!」
「いいですよ。食べ放題ですから」
『ち、チーフぅぅっっ!!』
こちらの会話を聴きとがめたウェイトレス達が悲鳴と共に、厨房へとすっ飛んでゆく。
……中に入ってしばらく後、そこから阿鼻叫喚の声が響き渡ったように思えたのは、きっと気のせいではないだろう。
『おい、まだ食うのかよ……』
『一体どんな胃袋しているんだ……?』
そんな他の客たちの声も聞こえてきたが、シスターはお構いなしにケーキをパクリ、と口の中に放り込んだ。生クリームの脂肪分で脳みそにも膜が張ったらしい修道女は極楽の天路を彷徨っていて気付いていない。
その後二度のお代りをするころには、もはや好機は驚愕に、そして賞賛へと変わっていった。
「は~……とりあえず、夕飯もあるから、このくらいにしておこっと」
「全メニュー、3周したのに、まだ余裕が……」
ひきつって、ウェイトレスは厨房に目を向ける。
そこには憔悴して魂が抜けたようなホールスタッフと、燃え尽きて真っ白になったキッチンスタッフがぐったり、とへたり込んでいた。
おそらくこれで、二二号店でも『女性食べ放題コース』の項目は消滅するだろう。あるいは、『
一方のこちらはほとんど食べていないとはいえ、これでは値段には見合わない。見合わな過ぎる。
(……うん、お土産くらいは別途で買わないと)
悪戯半分の気持ちだったとはいえ、流石に良心が痛んだ詩歌は懐の財布に入っている額を思い出しながら、立てかけてあったテイクアウト用のメニューをちら、と横目で見つめて―――その奥、この席からでも見える玄関ホールにあるエレベータ出入り口へ視線を向ける。
この安泰泉には“VIP”だけが利用できる最上階フロアがある。
学園都市の頂点たる超能力者は、その存在こそ有名だが、情報は秘匿されている。
だから、捜そうと思っても簡単に見つけられるような相手ではない。
ただし。
その行動が派手ならば、当然噂になる。かの第一位も、その最強の座を狙う輩を徹底的に叩き潰すことでネズミ算式に敵が増えて、ついには住居の個人情報もネットに漏れてしまった。
同じく、この建物に『超高額会員制のVIP層にモデル体型の偉い美人が通っている』と『Auribus oculi fideliores sunt』という水滴をレンズにする念者能力者が管理人の都市伝説サイトに写真付きで流れていた。
―――そして、ちょうど最上階のランプから一階についたエレベーターから、詩歌の目当ての人物が現れた。
「………ちっ、弁当も買ってこれねーのか、あの<スキルアウト>」
遠方からでもわかるくらいに不機嫌そうだ。口が読めるのでだいたいの事情は察してる。
少女二人はイベントに参加し、少女一人と付き添いは医務室で休み……プライベートなので組織のスタッフも連れてきておらず、結果、彼女――学園都市第四位の超能力者麦野沈利は自分の足で、この最下層まで降りてきたのだろう。
わざわざVIP層に忍び込む手段も考えたが、あくまでウワサの不確定情報に侵すにはリスクが高く、さらに戦闘の可能性が高い。
できれば、“偶然”、同じ施設を利用して、ばったり会ったというのがベスト―――そう、この展開だ。
「―――」
立ち止まる麦野。
そして、こちらを見た。
(おっとと、結構離れた位置を陣取ったんですが気づかれちゃいました)
それに詩歌は応じるように、まるで昔の知人に久しぶりに再会したように、または丸腰でもアピールするように軽く手を振る。
詩歌が考えてるこの先のパターンは二通り。
ひとつは、周りの客に構わず、こちらに戦闘を仕掛けてくる。彼女の<原子崩し>ならばその位置からも攻撃できる。
今回の選挙で、ぽっと出の自身を快く思っていない超能力者もいるだろう。その最たるものが第四位の彼女だ。
しかし、詩歌は前の手合わせで麦野沈利の人格を大まかに把握しており、その可能性は余程テリトリーを侵さない限りないとみている。
だから、予想するのは、もうひとつの可能性―――
「ちっ……」
不機嫌だった表情は、消えた。怒りに歪んだのではない。静かに、無表情。
麦野沈利は、こちらと視線を通わせたことさえも忘れたようにそこから立ち去った。
「ありゃー、フラれちゃいましたね」
さほどがっかりした風でもなく詩歌が呟く。
できれば、同じテーブルについて欲しかったがそれは望み過ぎ。
元より、目的は温泉を楽しむことで、彼女と出会うことは運が良ければのこと、これ以上欲張ってもしょうがない。
とりあえず、今日は顔合わせができただけでも十分な収穫だし、他の面子も把握できた。
ゆっくりとハンドベルPCを閉じて片す。
「……そういえば、さっきの人、呪いだけじゃなく、全身に『毒』が随分と溜まってるね。完全に治癒するのは難しいけど、“抜ければ”結構マシになるはずだけど」
その翠瞳と透瞳は、両者とも、普段とは違う光を湛えていた。
先までのは陽なら、この変化は隠。他人への優しさや周りを引きつける情熱を見せるその穏やかな人格を剥ぎ取ったかの如く、冷え冷えとうすら寒い光を孕んで見せる。
「………」
コーヒーを飲み干して、詩歌は呟く。
「何にしても……このまま、放置する気はありません」
「うん、それがしいかだね」
と、感想を述べるインデックスは、ふと彼女の現状を想い、ひとつの問いを投げる。
「しいかは、これからLevel6っていうのを目指すんだよね」
これからの選挙。その如何によっては、目の前の少女は、Level6というこの科学が造り上げられた<魔神>になる。
ならば、もしその助けになるというのなら、“知恵を貸してもいい”。インデックスは力になりたいと思っているし、絶対の信頼がある。彼女は自分を引き出せるだけの相性、<禁書目録>の『読み手』になれるだけの才能がある。そうすれば、きっとその知識で多くの人を救えるだろうし、この戦争を終わらせるだけの―――
「インデックスさん」
「何?」
「あなたは、無理をしてはダメ」
「………」
こちらを見据える目は、真剣。
「この選挙に立候補する時にも言いましたね。私は、これはあくまでLevel5を説得する手段であって神様になる気はありませんし、インデックスさんのそういう『知恵』が欲しくて、側にいてほしいわけではない」
「一緒にいるのが楽しいからだっけ」
「それが一番大事。きっと当麻さんも同じ気持ちです。私は私の面白いと思った人と一緒にいたいし、そういう相手をえこひいきします。だから、私の大切な人を傷つけた相手はそう簡単には許せないし、あなたに無理もさせない。もちろん、誰も死なせる気はありません」
「何だか都合のいい話だね」
「都合のいい事以外はしたくないですしね」
苦笑せざるを得ない言葉を、賢妹は連発する。
ただ、普通とは違うのは、まぎれもなく上条詩歌が本気ということだった。
何事も本気で口にすれば、『力』がこもる。古代の人々はそれを言霊と呼び、最古の魔術のひとつである。
「結局のところ、道具としての<禁書目録>ではなく、可愛い女の子としてのインデックスさんが詩歌さんは大好きなんです」
「もう……」
と、インデックスはほっぺたを膨らませる。鏡があれば見せてやりたい。
「もちろん、インデックスさんを頼りにしていないわけではありません」
「やっぱりしいかはとうまの妹なんだね」
「それは褒め言葉です。でも、あの様子を放置しているようでは科学の薬剤では効果が薄いんでしょうね。真正面からでは警戒されますし、策を講じる必要がありますが、まず魔術の解毒について考えましょう。無理じゃない範囲で、インデックスさんにも手伝ってもらいます」
「うん、協力するんだよ」
そうして、近々始まる選挙抗争の情報収集が終わった頃、次のエレベーターから出てきた大きなイルカに乗ったカエルの人形を抱きかかえる妹分と愚兄を迎えるように手を振った。
つづく
雪原
その後の経緯について一言でまとめれば。
とにかく大変だった。
それが率直のところで、一方通行との応酬についてはほとんど記憶していない。気が付くと、当麻は雪が消し飛んだ雪原に両膝を着きながら脱力していて、一方通行は逆さまに突き刺さっていた木々を背に座りこんでいた。奇蹟的に重傷を負ってはいないが、お互いに疲労困憊。もはや、自力で立ち上がれぬ、酷い有り様。客観的に見れば、両者KOが妥当。それを冷静に認め、先に終了を宣言したのは、途中から第三者に徹していた土御門元春だった。
「学園都市の最高戦力である第一位でも、回収できなかったからにゃー。もうこっちからカミやんにちょっかいを出すのはやめておいた方が賢明だぜよ」
呆気なく退いたのは、最初からそのつもりだったのか。いや、あの男がどこまで嘘をついているのか上条当麻には判断できない。
「……おい、ヒーロー……」
拾った杖を支えに立ちあがろうとする一方通行が笑みを消して、尋ねる。
「アイツは最期に……眠る前に、なンて言った……?」
それを聞いて、当麻は悟っていた。
これが寸劇だった可能性を考えたのも、つい先ほどの戦闘、最後の方になるまで、第一位は当麻のことを見ていなかった。
自分が知れぬところで勝手に眠っていった少女への残影を、八つ当たりでもするように、探していたのかもしれない。
「“すごく、幸せ”―――」
当麻は、静かに言った。
復讐してくれだとか、無念だったとかこれっぽっちも言い残してくれなかった。
愚兄の腕の中で眠りに付く直前まで、賢妹は微笑んでいた。
誰かのために身を燃やして戦い抜いた少女は、嬉しげに笑っていたのだ。
「“また、明日”――そう言って、詩歌は燃え尽きる直前まで笑っていた」
「……チッ」
闘争本能を剥き出しにしていた白い少年の雰囲気が、急に穏やかになる。土御門も日常での親友に接するように、気楽な様子で耳を傾けている。
「そうか。……そうだろォよ。詩歌は、馬鹿みてェに色ンなモン背負わされ過ぎちまってンのに平気な顔しやがる、殺されても死なねェ奴だった……」
「………」
「……結局、テメェが殺したンじゃねェンだな」
立ち上がったその時、足元に透明な一滴が落ちて、溶けて水となった雪原に波紋が起こり、その下流にいた当麻のもとまで届いた。
愚兄は一方通行の言葉を、肯定も否定もしなかった。
これ以上は、語り尽くせるものではない。
「もう一度訊くけど、カミやんがここに来た目的は、なんだぜよ?」
当麻は警戒態勢を解かない。最初と同じで正直に答えてやる義理も、そんな気もないが、愚兄の脳裏にあることが浮かんだ。
眠りについた詩歌。
ここに来た目的、と訊かれて、真っ先に思い浮かんだのは自分も呆れてしまった思い出だった。
「寝ぼすけなお姫様を起こすんだよ……恥ずかしいから誰にも言うんじゃねーぞ」
思わず口を出た当麻の呟きを聞き、土御門が面白げに笑う。
「起こす? ほう? カミやんが、起こすのか?」
「こればっかりは誰にも代われねー務めでな。学園都市にもローマ正教にもこの役目を譲る気はゼロだ」
確かお目覚めは口づけを所望とか第二王女に飛ばされて落ちてる時に言われた気がするなと思ったが、そこまで甘やかすかは検討中だ。
「なるほどにゃー。
そうして、結果として『学園都市最高戦力でも止められない。また、障害として見る対象としては低い』を残して、二人は去った。
それから上条当麻は両膝をついた姿勢から、仰向けに倒れて、空を見上げていた。
「ったく、超能力者まで参加するとは厄介なヤツらばっかり引きつけんな詩歌は」
これでひとまずの自由を手に入れたとして、やっぱりどこの組織に所属せず一人でやることには限界がある。
一応、携帯からイギリスにいる修道女から個人的な助言を貰えるだろうが、いつまでも赤信号に置いてけぼりにされている状況は考えなければならない。
「俺と同じようなヤツって、今のところレッサーくらいしか……」
その時だった。
ギィィィィ!! という甲高い爆音が真上に向けた視界を突っ切った。単なる旅客機のものとは違う、超音速時特有の爆音だ。
でも、これはこのロシアの空軍に属する軍用機のエンジン音ではなく、学園都市製の超音速爆撃機だ。
彼らはこれから始まる大決戦に向けて許可された場所に基地を建造するための物資や兵器、それから人材を次々と運んでいるそうだ。
通常、維持費の問題から空挺部隊はそういう使われ方をしないが、学園都市の超科学の技術ならば可能だ。もし戦争となっていれば、一日でロシア中に急造要塞が点在していただろう。
「ん?」
だから、それが目についた。
学園都市製の超音速機から、ひとつだけ物資がぽろり、とこちらに近いところに落された。
思いっきり指定された落下地点から外れているわけだが、おいおい学園都市もこんなミスすんのかー。っつかそれどうなんの? ……なんて、考えながら目で追ってると、
「んん?」
その物資の外観が把握できる高さまで来たが、あの“多目的二輪車”には見覚えがある。
あらゆる環境を走破できる、空さえも飛んでしまうし、
それがどういうわけか指定地点を大幅に外れるどころか、こちらに接近している。
距離が近づいてさらなる問題を発見。
「んんんッ!?」
何故、彼女が操縦している?
もともとこの素人にも運転できるように
だから、上条当麻が言いたいのはそこではない。
どうして学園都市の7人いる超能力者の内のひとりがロシアの上空で<
「やだー、ビリビリも盗んだバイクで走りだしちゃうお年頃なんでせうかー、もう! しかも空中からパラシュートなしダイブってアクション映画の特攻野郎よりも特攻してんだろ! 近頃のお嬢様はいくらなんでもアグレッシヴ過ぎる! 当麻さんとしてはリテイクを所望する!」
第一位に続いて現れたのは、第三位。
「っつか、超能力者との連戦はマジ勘弁してくれ! 頼む! そのまま風で向こうに流されてくれ!」
と念を送るが虚しく。
雪原に無事着した怪物後輩を乗せた怪物車は、掘雪車のごとくかき分けながら真っ直ぐこちらに向かって走ってくる。
あれ? 何故こっちの現在位置がわかってるの?
「<HsSSV-01駆動鎧警邏車両改>の遠隔自動呼び出し機能からあなたの携帯の現在位置を割り出したものと思われます」
「え?」
戦闘疲れで気を抜いてしまっていたが、振り返るといつのまに彼女はいた。
<
無表情なのは変わらないが、学園都市で会うのと服装も違うしっかり防寒装備だし、手に持っているのも学園都市製のF2000Rではなく、カラシニコフとかいう木と鉄が組み合わさったライフルだ。
「ミサカの
「ああ、ひょっとして、この近くの学園都市協力機関にいる奴か?」
「はい、あなたを支援しようと今日から勝手に有給を取りました。では、
何を言ってるのかよくわからないが、怪我の具合もみたいし、ここを避難するのには賛成だ。
しかし、愚兄は賢妹が改造した二輪車の走行性と超能力者の行動力を舐めていた。
自分が乗っていた時には発揮できなかった性能を十全に動かせる発電系能力者はすでにこちらの目の前にまで来ていた。
「不幸だ……今日は不幸万来の厄日でせうか……」
「(チッ……、たった一人の味方というポジションに立てれば遠距離のハンデを一発で逆転できるビックチャンスになるかもしれなかったのに、とミサカはぐぬぬと予定を邪魔された愚痴をネットワーク内に零し始めます)」
「ものすっごく歓迎されてないのはよくわかったわ。ていうか、アンタぼろぼろね。どうしたのよ」
折角遠路はるばるやってきたのに会って早々、この態度に御坂美琴の頬はぴくぴくと引き攣る。
「別にこっちは大丈夫だ。御坂は何しに来たんだよ? もしかして学校サボって世界漫遊でもしてんのか?」
「イギリスで何やったか知んないけど学園都市の裏切った可能性があるから『処分』される事が検討されてるアンタには言われたくないわね―――で、あの放送事故は、アンタで良いのよね?」
「……………え?」
上条当麻はにわかに顔を固めて『いや……それはまぁ……今その話題出します……?』などとぼそぼそ言いながら雪原の方へ視線を逃がした。目が、ビリビリと――いや違った、ぴりぴりと震えているようにも見える。
ゆらりと……御坂美琴は多目的二輪から降りて、愚兄の視線を塞ぐように前に立つ。足首まで雪原に埋まっているせいか、こちらを覆った彼女の影まで、ギラリと冷えている気がする。
更にその隣では味方のはずの10777号がライフルの銃口をこちらに向けている。
不機嫌を通り越して積乱雲的な不穏な空気に陰っている瞳に、ヒッと喉を鳴らすのも無理はない。それでなお、こちらを見下ろして、御坂美琴は水を注ぐような心持で言う。凍るほど冷たい、雪解け直後の水。
「ま、その辺を詳しく追及するのはまた後にして」
と一瞥し、表情をニュートラルに戻して、移動から一服するだけの呼吸を整えてから、本題に入る。
「詩歌さんは、どうなの?」
「どうなのって、何がだよ? 兄だからって俺が詩歌のこと全部わかってると思ったら大間違いだぞ」
愚兄は平静を装い言う。
自分も散々心配しているくせに、と、そんな自嘲が込み上げてくる。
だが、美琴は納得している顔ではなかった。
「そうじゃなくて……ねぇ、本当のことを教えて。今『学生代表』について学園都市では様々な憶測が飛び交ってるけど、どれも信用できない。あれからメールを送っても返信は帰ってこないし、病院に連絡しても学園都市に帰ってきていない。よくからかわれるけど、あの人は無駄に心配させるような真似はしないってのはわかってるつもりよ。だから、私は『学生代表』じゃなくて上条詩歌のことについて、アンタの口から直接聞きたいの」
「それは……」
暴走した時のことは当事者であった上条当麻でも言葉にしにくい状況で、それを自分の手で『殺し』たなどとどの口が言える。
それが原因で、これまで過ごした思い出のすべてを失って『死んで』しまっているかもしれない、などとこのロシアまで心配して駆け付けてくるような幼馴染の少女にどう伝えれば最もショックが少なく済ませられる。
それ以前に、身柄がこれから始まるであろう大決戦の景品にされていて、もう二度と会えないかもしれない状況をどう説明すればいいかわからない。
そこまで考えて、愚兄は自身の迂闊さを呪う。
さっさと、体調崩して現地の協力機関に養生しているとか誤魔化せばよかった。
「……何かあったのよね」
疑うような口ぶりだったが、それは断言だった。
愚兄の態度を見ていれば、疑いどころでは済まないだろう。
ますます自身の失敗に毒づきたくなる。
しかし、今も目の前に美琴がいるからそれすらも叶わない。
「知ってることだけでいいから、詩歌さんに何があったか教えて? アンタがイギリスからロシアまで移動してるし、戦争が関わってるのは予想がつくけど、気になるのよ」
「……言わなくちゃダメか?」
「私を誰だと思ってるの?」
「詩歌の幼馴染だな」
「妹よ。―――そして、一応、アンタの味方よ」
そういうと、美琴は真っ直ぐな目でこちらを見つめてくる。
「そうだな。話さないわけにはいかねーよな……」
思わず苦い顔になってしまいそうになる。
今日思い知ったが、素直に感情を出せないのは、単純に辛い。
しかし結局、素直に話す方が正しいと結論を出した。
「わかった」
「ホント!」
美琴はこちらの胸ぐらをつかみそうな勢いで近づいてくる。
目を大きくして愚兄を見上げ、食ってかかってくる。
それは、科学とか魔術とかの利害関係を考えてるような他人の態度ではなく、本当に賢妹のことを案じているためだった。
だからこそ、愚兄に言えることは極端に限られる。
もともと話しづらいのに、目の前の美琴を見てしまうと、余計に何も言えなくなってしまう。
事実を話すにしても、どこまで。
慌てる美琴を見ていると、逆に愚兄は冷静になっていく。
何を告げるべきか、何を伏せるべきか。
「俺も、家族ということで教えられたけど、詩歌は9月30日の事件から、こっそり病院に通っててな。そのことを教えてくれたいつもの先生にお世話になっていたらしい。まあ、持病みたいなもんだな」
「え? でも、詩歌さんはそんな風に」
「実際、一日に何度か薬とかで抑えてないと体調が崩れてたそうだ」
「っ」
「今まで、それで大丈夫だったんだがな。この前のイギリスの事件があってな。そこでトラブルがあって無理が祟っちまった」
「そう、だったんだ……私、何も知らなかった」
「俺だって無理してるって気付いたのはイギリスで直接会ってからだ、しかも、詩歌はかなり気合を入れて隠していたしな」
「だから、わからなくても仕方がなかったって?」
「嫌な言い方になっちまうけど、そういうことだろ」
「でも……それなら、どうして私に何も……」
「余計な心配をさせたがらない性格だし、大抵のことは人に頼らずにやってけるくらい優秀だってのはお前もよくわかってんだろ。ま、実際に、具合が悪くなった時は1人で対処してきたのがほとんどだったみたいだ」
落ち込みをフォローしようとあれこれ言い訳を並べる。
実際のところ、言葉にすることで自分で自分を納得させようともしていた。
所々濁したりしているので全面的に信じたかどうかは当麻にはわからないが、とりあえず、納得した気配だけはうかがえる。
考え込むように愚兄から視線を外し、しばらくじっとして、
「けど、今回は駄目だったんでしょ。じゃあ、今詩歌さんはどこに居るの」
「はい、イギリス、ロシア、世界中どの学園都市協力機関にも送られていません、と全ミサカから収集した情報を開示します」
そこでおとなしくやり取りを静聴していた10777号が口をはさむ。
その問いに愚兄は殴られることを覚悟して、言った。
「見ての通り、俺のそばからは離れちまってな。手の届かないところにいるっつうか、身柄はその場というか戦争を収めるための生贄みたく捧げちまった。でも、必ずロシアに来る。今はそれしか言えないな」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
同じ部屋からは追い出されたが、同じ宿泊施設に泊まっていたレッサーはもちろん、突然朝出かけた上条当麻のあとをつけていて、これまでのことを傍観していた。
あの学園都市の第一位との戦いも。
魔術的な見地から、あの黒い翼には恐るべき意味が込められていたのだろうが、それを右手でねじ伏せた上条当麻はそれ以上に恐ろしい。
魔力溜りが多くあるロンドンの一帯に空白をつくった力こそ拝めなかったが、消去と干渉だけでも強者と渡り合えていた。
(……それに)
あの左腕。予想として、上条詩歌の力の一部が委譲されているのではないかとレッサーは見ているが、
(……やっぱりあの少年はあの『学生代表』から何か託されている。でも、それでいったい何を……)
とにかく、あの少年はこの大決戦のキーとなりえる。
あの『学生代表』は第一位と第二位をまとめて相手して勝利したと聞くが、その左腕の件がなくても、第一位の襲撃を返り討ちにし、第二位の力で造られた兵器を破壊したその実力はそれに匹敵するものか。
そして、今、第三位を仲間に引き入れようとしているのか?
(ガチガチの科学脳ですが、学園都市の超能力者が味方になるって言うならその影響力はぐんって高くなりますね、あの少年をイギリスに勧誘すれば第三位も釣れる可能性が高い……これは張り付いて正解。いや、待てそれだと、私のせくしぃアピールの邪魔に……)
とりあえず、せっかく包帯傷薬など用意したので、そろそろ登場するタイミングを見計らうレッサーである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「………恨んでもいいぞ。妹が無茶して、目の前で大変な目に遭ったのに、そいつを呑みこんじまった俺の弱さを、馬鹿にしろ。結局のところ問題は、俺に力がなかったからだ」
その時の愚兄の顔を、忘れない。
いや、彼の瞳を、忘れない。
強い憎悪が渦巻いているのに、ずっとずっと憧れたあの人と同じ魅力的に煌めく、黒い瞳。
おそらく、彼は泣きたかった。
本当は思い出すだけで誰かに縋りついて、顔をぐしゃぐしゃにして、悔しそうに、辛そうに、寂しそうに、泣きたかったはずだ。
でも、涙は出てなかった。枯れてる、のとは違う。
泣きたいが、泣かないだけ。
だから、もう整理はついてるのだ。自分が何をすべきかを決めている。それが、泣くことでも怒ることもないと分かっているから、そうしてる。
愚かだから、余計な事に気を割かず目的に真っ直ぐに。体内の水分の1%も無駄にしない。
恐ろしく絶する意思の力で、暴れ出したかった自分自身をも捻じ伏せてる。
それが後押しとなり、一人の少女は答えを出していた。
「………おい? どうした?」
「ぇ……?」
声を掛けられて、美琴は今まで自分が呆けていたことに気づいた。
「な、なによっ!」
「いや、いつもみたいにビリビリとか罵倒とかしてこねーから」
その発言に10777号が呆れた半眼を向けてるが、
「そうね。……ここで起きてこなかったら、アンタの責任ってことになるのね」
「まあな」
雷受けで身構えていた愚兄にとっては、あまりに肩透かしを食らうくらいにあっさりと、
「起きてくるわよ。ここで眠りっ放しじゃアンタのせいになる。だから、詩歌さんは起きてくる、絶対」
幼馴染を助けたい、というのを理由にするまでもなく、彼だから力になりたい。
なんて―――ここが雪原で助かったと思う。
だって、今、とても頭を冷やしたいのだから。
つづく