とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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閑話 ジジ抜き

閑話 ジジ抜き

 

 

 

第二二学区

 

 

 とある学生寮は第七学区でも端っこにあり、お隣の第二二学区まで歩いていける。

 

「わっわっ! ジャングルジムがあるよ! でっかいジャングルジム!!」

 

 目の前の地上部分にある建造物を見上げて、興奮する修道女―――ただ服装は修道服ではない。真白なシャツワンピにオンする、モコモコなフード付きの白ジャケットに、吐いてるのは白ブーツ。天満な魅力を持った少女に合わせて彼女専属の着付け係に見立てられたそれはとても馴染んで、むしろツインテールと二つに分かれて流れる銀髪を飾るに相応しい華となっている。

 そんなシスター(一応、修道服と同じ白を基調としている)の言う通り、ゲート付近に聳え立つ、30階建て工事現場での入り組んだ鉄骨『巨大なジャングルジム』と化した風力発電プロペラ群。

 

「面積は学園都市最小の第二二学区ですが、その地下開発は数百m。街の主な発電源である太陽光に風力には頼れませんし、地下市街は大量の電気を必要とします。その為、学区の至る所に環境に配慮したクリーンな発電対応策が講じられているんです」

 

 いつものようにガイドする少女は、いつものとても有名なお嬢様学校の制服ではなく、襟の高いセーターにロングスカートとハーフコート。髪型も長髪を後頭部でまとめて、うなじの辺りで折り返していつものリボンで結って留めている。特別仕様のとは違う、伊達眼鏡もつけて、古書店で店番させたくなるような大人しめの文学少女。

 

「ふーん。何でそんなに電気がいるの?」

 

「地下空間に『星空』をリアルタイムで演出したり、地下での空気浄化や精神安定に水栽培技術の応用で森作ったり、水路通して川を流したりしてるけど、そのためには下から上に汲み上げたり、上から下に取り込んだりするポンプの働きが重要なのよ。だいたい第二二学区の消費電力の四割以上が大規模ポンプで占めてるわね」

 

 その隣には自前で私服を用意した茶髪に帽子をかぶってる少女はスマートなジーンズに襟のあるシャツ、その上に幼馴染が着ているセーターに似た物を着込んでいる。おかげで、もし彼女の身長が10cm以上あったら、背後から見た限りの肩触れ合う親密な距離感に彼氏彼女(カップル)と(どちらが男役かは言及しないが)見られていただろう。もしテレポ淑女がいれば、歓喜で跳ん―――風紀の乱れに割り込みをかけたに違いない。

 ちなみに、着替えた制服は、ちょうどよく居合わせたメイド見習いに頼んで寮まで持って行ってもらった。良いものを見せてもらったお礼だぞー、と去り際のメイドさんはご機嫌である(『舞夏! 俺達も思い出作りにあーんするんだにゃー。カミやん兄妹に負けてられんぜょ―――ごぼっ!?』とこちらの罰ゲームと同じ内容をお願いした義兄軍曹は“重い手(鉄拳)”をあーんされた)。

 

(にしても、やっぱり無理だよなー……)

 

 Tシャツに制服のズボンそのままな平凡男子高校生は最後尾だから良く見える。

 ―――目立つぞ、三人とも。

 これでも余計な“虫”を引っ掛けないようにと十分に市街地での擬態に配慮した変装なのだが、どだい彼女達ほどの美少女が大衆に紛れこもうというのが無理な相談である。

 それでも正体がバレるよりは格段にマシだ。

 年下で自身と年齢がほとんど変わらないとはいえ、アイドルでもないのに、表にも裏にも、おっかけがつくような有名人なのだ。

 下手したら、目的地に辿り着けない。

 

(そういや、別に風呂が壊れたわけでもねーのに、どうしてわざわざ“こんなトコ”に行くんだ?)

 

 そうして、少女たちを見守る上条当麻の眼前に目的地である巨大な建物。

 

 

安泰泉 8階

 

 

 学園都市第三位………のお風呂、スパリゾート安泰泉。

 全部で10の地下階層に分かれている第二二学区の三番目の階層にある地面から天井まで一気に貫かれたビルそのものが大きなお風呂だ。各階のフロアにはそれぞれ特殊な薬効成分やら電気やら超音波やらといった古今東西あらゆるお風呂が勢ぞろいしたテルマエデパートだ。それでも余ったスペースにはターゲットにしている10代の少年少女に合わせて、ショッピングやゲームセンター、ボーリング場などぎゅうぎゅうに詰め込んでいたりする。

 昔ながらの『銭湯』というよりは、『お風呂という形をしたレジャー施設』の方がニュアンスは近い。

 また、アミューズメント主体の施設であるため、屋上高層部にはVIP用の浴場なども用意されていたりする。

 

「詩歌さん、ちょっと調べものとか言ってたけど何かしら?」

 

 ビル特有の高さは感じられない、窓のない完全な室内。四季ごとに顔を変える風光明媚な山中ではなく、常時変わらない都会のど真ん中。風景を見るために女湯に窓を用意するなど自殺行為に等しく、また仮にあったとしても第二二学区の地下都市では意味がない。

 なのだが、この集合場所に指定された特設露天温泉コーナー。

 丸みのある石を組み合わせた湯船の真上を見上げれば、鮮やかな星空が見える

 これは発色磁気粒子の巨大モニターで、粒子を直接変色させることで光を使わずに色を表現することができる。値段が馬鹿高いのと普通の感性では普通のも似たでも変わらないこともあって、このような大きな施設でなければお目にかかれない。

 

「まだ門限には余裕があるし、待つのは別にいいんだけど」

 

 実は、あんまり熱いお風呂が苦手。けれど、この露天フロアは外気にまでこだわりを見せてるのか、雪がちらちらと降ってる。

 湯船の外では温泉の湯気と偽りの夜気が拮抗してうっすらともやを結び、肌に触れると重さのない絹の膜のよう。普段は服に覆われている全身で感じるせいもあって、ちょっとした異世界の風趣。

 温泉そのものも魅力ある目玉の一つだが、雲間からのぞく月華が雪に映って青い光を立ち上らせる外の空気も趣深く、平らで座り易そうな石の縁に腰かけて、肌に沁みるような夜気に心地よく身を任せる。

 表示された温度計を見る限り、湯加減は低温に追い炊きされており、湯船のお湯はしっとりと白濁している。

 全国の温泉の成分を化学的に解明し、同じ効果を得られるように調整された温泉。つまり、入浴剤を使用。身も蓋もないが薬効には期待してもいいだろう。

 

「はふ………」

 

 温泉パワーにやられた銀髪碧眼シスターがリラックスして欠伸を上げている。

 つい先ほどまで個々の多種多様な風呂巡りをしていたせいか、とろみを帯びた温泉に浸かって湯麺の揺らぎにふわふわとおとがいを撫でられる快感に耽っているのか、眠ってこそいないが、両目とも半開きで忘我の境界線を彷徨っている。

 このまま脱力し切れば、浮き出してしまいそう。

 

(にしても………二つ上にアイツがいるのよね。確かこの露天フロアは新設の真下だったし)

 

 ……らしくもなく、欲をかいたのが間違いだったか。

 どうしても尋ねたい話があって放課後に甘味亭で声をかけた幼馴染が、それなら一緒にお風呂にいきましょう、と誘われた。

 御坂美琴は迷った。別に幼馴染と風呂に入るのは良い。これも腹を割っての裸の付き合いならむしろ好都合だ。失礼にも口が悪いがインデックスと呼ばれる修道女も一緒なのもこれと言って気にしない。御坂様と傅かれるより全然マシだ。しかし、あの馬鹿が同道するとあれば、そこが桃源郷であろうと、乙女的なものも含めて色んな意味で釜茹で地獄となりえる確率が高い。というか、大浴場に異性を連れてくるのは問題。男女七歳にして同衾せず、みたいのと同じ。あれはあれで良い野郎避けになるとは言うが……

 しかしそこはさるもの、下手をすれば母よりも世話になっている幼馴染の姉貴分は、そんな自分の防壁をもあっさりと突破する耳よりの情報を有していた。

 

『ゲコラーの美琴さんに朗報です』

 

 ―――サービス期間中にスタンプカードを10点集めればゲットできる『湯上りゲコ太ストラップ』とマニアとしてはそれだけでも非常に魅力的なキャラクター商品があるが、今日はなんと新施設開設記念のイベントで『イルカに乗ったシー・ゲコ太人形』が貰えるのだという(何故、温泉なのに海なのかという些細な問題は考えないものとして)。

 御坂美琴は背反する羞恥と欲望の板挟みに苦しんだ末、幼馴染の協力を約束した報酬につられてレジャー施設まできてしまったのだ。

 が、

 

(まー、相談したい内容も、あの馬鹿の『事情』なんだけど)

 

 記憶喪失。

 美琴がそれを知ったのはほとんど事故のような偶然で、ある程度予想はしているが、一体いつからなのか、どういう原因なのか、どうして隠そうとしているのか、などと色々悶々と考えて………

 

(この白いのは……その……記憶喪失については知ってんのかしら)

 

 美琴も一段縁から腰を落として模造岩にもたれかかり、顎までどっぷりと湯に浸かる。同じ目線に合わせ、それとなく顔色を窺ったりして見るのだが、もちろん女王様な同級生とは違って、読心能力のない美琴に、ピッとリモコンを当てただけで人の考えが分かるはずがない。

 

(そもそもこれはあの馬鹿が抱えてる問題で、私がどうこうして何が解決するわけでもない、まるっきりの部外者―――ってのはわかってんだけど。別に私はあの馬鹿のことでこんなに悩まなくちゃいけない理由なんてないし。ええ、そうよ、こんな面倒臭そうなこと考えてんのも、詩歌さんが関わっているからでぶくぶくぶくぶくぶく……)

 

「……美琴さん、いくら低温でもそれ以上潜るとのぼせますよ?」

 

「ぶほっ!?」

 

 いつの間にか。もったり煙る湯気に紛れるように、タオルを抱えて微笑む幼馴染、詩歌が佇んでいた。長い髪をアップにしているせいで、普段と大きく印象が異なり、自然と白さが強調されている。

 

「ちょっと陽菜さんのオススメのサウナに寄ってみましたが、うん、ここは涼しい」

 

「あの、灼熱地獄ってトコですか」

 

「ええ、おかげで眼鏡が曇ちゃって」

 

 命知らずな。

 あそこは美琴でも一分立たずに退出した。超音波に、電気に、薬効に様々な風呂施設があるが、ここのぶっ飛び過ぎてるサウナはこの学園都市特有のぶっ飛んでる代物だ。

 ジェットコースターと同じく制限を設けるべきだと思うくらいに。

 ただ、そこから出てきた(何分とは聞かないが、かつて熱さ我慢勝負で負けはしたが審判が見ていただけで熱中症になるほど白熱した幼馴染なら平気な顔で十分以上はいそうだ)からか、汗が豊満な谷間に流れていく肌は火照っていて艶めかしく………美琴はそっと視線を外した。

 

(なに見惚れてんのよ!)

 

 この後の予定のために、水着を着用しているが。

 ほんのりと上気した張りのある桜色の胸元。

 すんなりと伸びる、眩しいほどの白さの、非の打ち所がない脚線美。

 局所の露出を大きく抑えてくれているワンピースタイプの水着を着けているはずなのに、一糸纏わぬ裸身よりも鮮烈な色香を醸し出していた。

 

(ええ、私は黒子じゃないのよ。詩歌さん見てると性別なんて関係ないって気になってくるけど……いやいやいや!!)

 

「失礼します」

 

 唐突な登場とは裏腹に、幼馴染はあくまで慎ましやかな所作で手桶を使い、身をすすぎ、お湯を打ちつけるだけで折れてしまいそうなくらい華奢な体を白みがかかったお湯が伝って、植物の蔓のような曲線を描く。

 それから、淑やかに膝を折って湯船に身体を沈める。

 横座りに崩して首まで浸かると、まとめた黒髪を少し持ち上げて、うなじが大きく露わに。

 遠くで見ていた他の客から、溜息が漏れた。

 冗談でも悪ふざけでもない、妖しい空気。具体的に言えば、

 

『―――ッ!!』

 

『もー、白井さん。いきなりどうしたんですか?』

 

『初春……ええ、ちょっと……今、どこかでお姉様と大お姉様の合わせ出汁がッ!』

 

『はいはい、真面目に仕事してくださいよー』

 

 この展開を超直感で察知したテレポ淑女が涙するほど。

 女湯なのに、貞操の危険を感じてしまう。

 

「ふぅ……良い湯です」

 

 この蝶を絡め取る蜘蛛の糸のような視線を知ってか知らずか、幼馴染は極楽極楽と

 

「さて、美琴さん。何か詩歌さんに話したい事がありますね?」

 

「へ?」

 

 幼馴染が湯船に入ると、彼女の肌が白くとろんだ湯に融け合わさって、やんわりと体に触れられたような奇妙な感覚に肩がすくむ。とんでもない錯覚だと、思っているが。

 そんな緊張を和らげようとしたのか、固まってる間に背中合わせにぺたりと肌がくっつける。

 

「……なんですか?」

 

 少し驚いた声を出しながらも、曖昧だったのが明確な温かさに代わることに安堵を覚えて、こちらに背中越しで応えてくれる。

 

「経験的に考えてください」

 

「はぁ」

 

 背中合わせなのにいちいち指立てて、

 

「詩歌さんが何年美琴さんと付き合っていると思うんです」

 

「十年ですね」

 

「その十年で隠し事できたのは?」

 

「ない、です」

 

 呻いて身体をよじても、軽く圧力をかけられて逃さない。

 背中越しから、熱っぽい声で詩歌の耳に、

 

「……重いです」

 

「失礼な」

 

 と、こうして相手の方からきっかけを作ってくれたわけだが、美琴も自身の考えがまだまとまっていないわけで。

 

「でも、そういきなり来られても、何を話せばいいか、分かりませんよ……」

 

「ぷっ……ふふふふふ……」

 

「何がそんなに可笑しいんですか……」

 

「ごめんなさい。でも、美琴さんがあんまりにも可愛いことを言うから、つい……」

 

「か、可愛い?」

 

「だって、何を話せばいいかわからない、なんて……男の子に恋慕する女の子みたいなんですもん」

 

「なっ―――」

 

 言われて、自分の台詞がどうしようもなく恥ずかしいものだったことに気づく。

 

「やっぱり、美琴さんは真面目さんですね」

 

「そうやって、いつも詩歌さんは私をからかうわね」

 

「別に馬鹿になんかしてませんって。でも、気を使わなくて結構ですよ」

 

 そう口にした詩歌に、嘘を言っていないと感じてしまうのが毎度不思議だった。

 そして、これまた不思議な事に躊躇っていたのも、このお湯に溶けていってしまったのか、自然と切り出せた。

 

「詩歌さんは、あの、お兄さんが記憶を失くしたことを……」

 

 どう思ってるんですか? と訊いた。

 知っていますか? と解りきってることは訊かない。原因理由も尋ねない。踏み込むには、ラインが判ってない。

 美琴は詩歌とは長い付き合いだが、それでもこの幼馴染は隠すのが得意であることを承知している。

 御坂美琴の問いに、詩歌はしばし視線を落とした。

 それを気配で察知する美琴は、踏み込み過ぎたかと撤回するかと迷い。

 ともかく詩歌は、ややあって唐突な言葉を口にした。

 

「―――洞庭神君の物語を知ってますか?」

 

「え……」

 

 知らない。

 おそらく科学的な理系ではない、古典の分野だとは思うが。

 オールマイティに知識の幅のある幼馴とは違い、そちらには美琴は自信が無いので、素直に。

 

「何ですか?」

 

「中国にある洞庭湖に住まう神様の話です。詳しく知りたかったら、インデックスさんに訊くといいです」

 

 詩歌は湯加減を感じ味わうように目を瞑りながら、詠じるように語り出す。

 

「洞庭神君というのは、元々は人間の書生で気の弱い青年が、湖の神であった洞庭竜王の娘が嫁ぎ先で迫害されていたのを救い、その縁で竜王の娘を娶り、仙人となった。その時、彼は洞庭神君と名乗り、竜王から洞庭湖の神様を継いだ。けれども、元来柔和な書生に過ぎなかった青年が湖の妖怪たちの心服を得ることは難しく、当然のように侮られます。―――そこで青年は鬼の仮面をかぶった」

 

 人前に出る昼間は仮面をつけ、夜眠るときだけ外す―――擬態を試みたのだ。

 もし洞庭湖で気を抜いて無駄口を聞いたり指を差そうとするものなら、それは湖の神を嗤ったのだと邪推した洞庭神君に舟を沈められてしまう。

 その仮面がよほど恐ろしいものだったのか、それとも面に相応しき苛烈な振る舞いを行ったのか、やがては青年は湖の神として認められていった。

 

「けれど、青年は仮面をつけたり外したりするのが億劫となって、いつのまにか寝る時も仮面を着けたままとなり、そうして気づいた時には、仮面は顔に張り付いて脱ぐことができなくなった。―――そう、擬態であるはずの仮面は仮面でなくなり、その男の本当の貌になってしまいました」

 

 ちゃんちゃん、と最後は家でお伽噺を読み聞かせてくれたのと同じように締めくくる。

 

「………」

 

 擬態、と幼馴染は言った。洞庭神君=愚兄を差しているのも何となくわかった。

 今の洞庭神君が自分を偽って神様になったことと、記憶を忘れたことに嘘をつく上条当麻の話は似ている。

 

「ま、これは洞庭湖の荒々しさを擬人化したイメージと、一書生が洞庭湖の竜神様の娘を娶ったという有名な伝記小説が混交して生まれた説話だそうです。偽物の仮面が本物の顔になってしまうというくだりは、様々な意味が見出せる。度を過ぎた擬態は本性をも変貌させてしまうと言うこと。所詮、自分自身といえども、他人の観測によってのみ定義されうるものだと言うこと。外面と内面には、実は境界線なんて存在しないのだと言うこと―――「待ってください」」

 

 我慢できず、そこで口を挟んだ。

 

「でもそれって、お伽噺でしょ?」

 

「神話や伝説は馬鹿にはできません。ある程度の人口に膾炙した物語というのは、広まる理由があって広まるんですから。発信する側と受信する側の双方に了解される理由がある。まして、それが長い期間伝承されているものなら、時代や文化を超越するほど高深度の動因を内包していると思われます」

 

 と言われてしまえば、納得するしかないのか。学園都市の学生としては科学的な根拠がないのには納得し難いが、とにかく『考慮に値する』という前提で今の話を考えてみる。

 

「あの馬鹿は、初めは仮面を被ったつもりだったけど、今となっては本物の顔になってるってこと?」

 

 少しの沈黙の後、動く気配。首を振るのではなく、傾げる困った動作のリアクション。

 

「ただ、当麻さんと洞庭神君には大きな違いがあります。当麻さんは、自分の仮面が認められてしまっていることに内心で罪悪感を抱いている。自身に劣等感を覚え、周りに認められるために仮面をつけた洞庭神君とはそこが決定的に違う。そこに捻じれがある。望まない、あるいは行き過ぎてしまった自己表現。歪な、もはや血肉となってしまった脱げない仮面は呪われてる。でも、だからと言って、その仮面を砕けばきっと血が流れ、痛みにのたうつ。……私がそれを許せず、無理に外そうとしてしまったせいで、兄はそれを知ってしまった」

 

 初対面で看破し、あまりに無様な仮面をつけていることに責め立てられた。

 それは少なからず愚兄の心に傷をつけたのは間違いない。

 

「……詩歌さんは、このままでいいと思ってるんですか」

 

 湯煙に朧気な明かりが落とす、湯面に映るとりわけ暗い影を詩歌は見ながら、

 

「最初は……外す。無理矢理にでも暴露させようかと思ってました」

 

 と、答えたのだ。

 

「ちょっとした日常の会話や、不意に覗く当麻さんの姿が、しんどそうに思えたんです。この分だと、結構無理してるんじゃないかなって。だから、一度でも記憶が無いことに弱音を吐くようなら、私の口からすべて明かしてやろうって、勝手ですけど考えてました」

 

「かっ」

 

 勝手なんかじゃない、と言おうとしたのに口ごもる。

 これは何となくでもなく、この件で上条詩歌も仮面をかぶっていたことは御坂美琴にはわかるから。

 しかし、詩歌の側は、何かを吹っ切るように、仮面を取っ払ったように顔を上げたのだ。

 

「でも、いいんです」

 

 と、賢妹は口にした。

 

「いいって、でも、それじゃ―――」

 

「だって当麻さん、頑張っちゃってるんですもの」

 

 横目で見えたのは、困ったようにきゅっと眉を寄せた―――兄妹揃ってよくする顔で、幼馴染は笑ったのだ。

 

「苦しそうで、大変そうで、今にも破裂しそうな……でもあんなに必死な当麻さんは、そのことを負い目に感じていても、けして妹の私にも弱音は吐きません。だから、そんな馬鹿に詩歌さんも限界まで付き合うことにしたんです」

 

「………」

 

 本気で喧嘩して、それで納得した。

 この幼馴染が感情任せで怒ったことなんて、御坂美琴にも拝んだことはそうない。どれほど深い傷なのかも。これほど深い絆だというのも。一体あの少年はその心奧から、どのように蹴りをつけたのか。

 

「でもね」

 

 と、上条詩歌は人差し指を上げる。

 

「当麻さんはね、本人が思うほど変わってませんよ。仮面なんかつける必要がないくらいに。美琴さんが心配するほどにも変わってません」

 

「でも、それは……」

 

 他人も自分にも認識できないなら。

 変わったとはどういうことなのだろうと、美琴はそう尋ねかけた。

 すると、

 

「そんなの決まってます」

 

 詩歌が、にっこりと笑って告げたのだ。

 

「私が、当麻さん変わったなぁって思った時が、私の兄が変わった時ですよ。詩歌さんより当麻さんのことを知ってる人間なんて存在しません」

 

 素晴らしく、傲慢な台詞。

 だけど、爽やかな風が胸に吹きこむように、美琴は感じた。

 

「……そう、よね」

 

 微苦笑して、認める。

 それは、きっと上条詩歌にしか出来ないことだ。

 ずっとずっと、子供のころからの長い時間を共に過ごしてきた、そんな相手にしか出来ないことなんだろうと、美琴は思う。

 

「でも、いつかはその役目を譲らないといけません」

 

「譲る?」

 

「そうです」

 

 振り向かず、詩歌は独り言のように。

 背中合わせで真っ直ぐ見ている、その時の彼女の表は見えず。

 ただ垣間見えたその口元は………

 

「詩歌さんは出来の良い、兄想いの妹ですので、その時をちゃんと待ってるんです。来ない方がいいなぁと思いながら、でも来た方がいいんですよねぇって思ってます。分かりますか?」

 

「えっと……それって……」

 

 いつから、自分はこんなに口下手になったのか。

 何も言えなくなって、美琴はパクパクと唇だけを動かすだけで、そして、横に向けられた、これまたいつも通り笑顔な幼馴染はそんな様子にちょっと肩をすくめ、

 

「もちろん、面倒見の良い、妹想いの姉として、美琴さんの将来も心配してます」

 

 

安泰泉 エレベーター

 

 

「ああー、良い湯だったな」

 

 いきなり温泉に行くからすぐに帰って準備してとメールが来た時は面食らったが、これは感謝しないといけない。

 夏休みから今日まで、上条当麻の身には様々な事が起こり過ぎて、身も心も休まる暇が無かった。こんなにもない、平和な時間はすごく貴重だ。

 だが、これでも消化してるイベントは半分。

 

(当麻さんとしては、ここで帰ってもいいんだが………混浴ゾーンなんてトコに放置したら、どんだけ野郎共がウジャウジャと……)

 

 予定の時刻が近づき、男湯でひとっ風呂浴びた上条当麻はフロアを移動して混浴ゾーンへと向かっていた。

 この全十二階建てのスパリゾートは十階が男風呂フロアで、八階は女風呂フロア。そして、その中間の九階に件の新設混浴フロアがある。

 そこまでは水着を着用しているのなら、入口付近にあるエレベーターから購入したフリーパスを見せればそのまま移動ができるのである。

 購入したドリンクを傾けながら、降りてくるランプを目で追い、上条当麻は、

 

「にしても、地下にこう詰め込み……」

 

 そのときだった。

 

「結局、たまに息抜きが無いとやってらんないわけよ」

 

「私は超疲れてませんが」

 

 ぶほっ!?!? と思わず吐きそうになった。

 今、開いたエレベータにいた女の子二人組。

 小学生くらいのショートの茶髪の子は、別にいい。少し怖いくらいに澄ましてる感じだが、ビート板を脇に抱えているのは微笑ましい。

 しかし、もうひとりの金髪の外国人が大問題だ。

 

(混浴ゾーンってことが分かってねーのか。夏休みのモデルでもそうだったが、近頃の女の子は露出の気があんのか)

 

 スマートながら発育は乏しく、年相応であるが、チョイスした水着は、背中がノーマークで、ほとんど紐状に細い。

 少しでもズレてしまえば、ポロリ、と見えてしまいそうな。

 ついにシリーズが二ケタに到達した有名なRPGに出てくる『あぶない水着』を連想させるこのセクシー&エキゾチック。

 肌をさらすのをはしたない、と恥じらう我が国の文化はどこにいった。なんて、事を考えていたら後ろを押された。後ろを見れば眉をしかめる学園都市有名ゲテモノの一品イチゴおでんを手にした男がいて、エレベータ待ちの後続は列を作っており、これから始まるイベントに参加するために一階下に向かう人も多い。

 

「うわー、むさい男たちがいっぱいじゃん」

 

「超人混みに文句言うなら、イベントに超参加しないほうがよかったんじゃないですか?」

 

「いいじゃん付き合ってよ。滝壺は誘ってもぼーっとしてるし、それより壁張ってよ」

 

 して、先頭の当麻に向けられる非難の視線。背後からは渋滞に押す男たちの圧力。

 一階だけだし、我慢だ我慢。

 当麻は軽く息を吐き、肩を落として、狭い密室に詰め込まれることにした。こういう時は何も考えず黙って従う方がいい。思考を放棄するのは簡単だ。よくやる。

 金属扉が閉じると湿度と熱気があがった気がする。早くも階段でいけばよかったかと後悔。そんな中でぎゅーぎゅーに角に押し込まれている愚兄とは対照的に、反対側の角を陣取ってる少女二人の周りは空いていて、やはり遠慮しているのだろう。

 迂闊に接触して無駄なトラブルは避けるべきだ。

 すぐ隣の男なんて、“見えない壁があると見せる”ように演じている。実際に顔も押し花のように顔が平らに押し込まれているようで、スゴい演技力だ。

 そして、ランプが目的の階に到着する寸前で室内が大きく揺れ、当麻は一歩踏み出しながら右手を伸ばしてバランスを取る。

 それが5分ほど停止。エレベータ内の電灯も消え、

 

「ん―――」

 

 その時上条当麻は銀色の光を―――

 

 パキン、と手応え。そして、風船が割れたように固められた空気が―――

 

「「え―――」」

 

 二つの声が同時に重なる。

 透明な支え棒を取られたようにパントマイム男が倒れて、そこからドミノ倒し。そこで上条当麻は、どこか腐った匂いを嗅ぎ―――

 金属扉が開くと一気に押し出されて、当麻も流されて―――声をかけられた。

 

「ちょっとそこのウニ頭!」

 

 こちらの特徴を一言にまとめた少女の甲高い声。思わず反応した当麻の近くに、その少女はこっちを見ながら、この間抜け顔を指差した。

 不快な形相を浮かべ、彼女は言う。

 

「痴漢ね! そいつ痴漢よ!」

 

「なんだそりゃ?」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 熱いお風呂から出た後の愚兄には、熱烈歓迎の肉風呂が待っていた。

 

「不幸だ……」

 

 当麻の左右の腕を掴んでいるのは、高校生よりも年上に見える、おそらく大学生らしき二人の若者。正義感丸出しの顔で、近くを通り過ぎる客たちに笑みを振り撒いていた。

 どうです、ほら、悪人を捕まえましたよ、とアピールしてる訳だろう。

 全力を出せば振り払えるし、走って逃げるのも難しくはないが、生憎今は水着で着替えも一階上だ。

 そういうわけで我慢し、辛抱強く、さっきから何十回も繰り返している言葉を口にした。

 

「俺はやってない」

 

「みんな最初はそーいうのよ」

 

 金髪少女の答えは、さっきから変わらない。

 頷きはしないが連れの少女は、何か不可思議なものに遭遇したようにこちらを見ているだけで止めはしない。

 中立でも何でもない傍観者だが、この雰囲気はアウェーである。

 いきなりエレベーター内で痴漢呼ばわりされた当麻は、弁解する余地すら与えられず出てすぐのところで周りの乗客たちに取り押さえられたのだ。被害者が年頃の少女ということで発奮したせいか、こちらに容赦がない。

 このまま呼びに言ってる男が連れてくる警備員に連行されれば自分がどうなるのか、当麻は具体的には知らないが、あまり面白い展開にはならないはずだ。だいたい愚兄は痴漢などやってないのだ。確かに思わず暗闇になった時に手を伸ばして、何かに触れた感覚はあったが、それは明らかに人肌ではなかった。多々不幸な目に遭ってきた当麻だが、身に覚えのない罪で責められること不快なことはなかった。しかも、自分の無実を誰も信じないと来れば、自然と表情も険しくなってくると言うものである。

 

(あまり目立ち過ぎると後で麦野が超キレますよ?)

 

(大丈夫だってこんくらい。私は、ちょーっと扇動しただけ。お気の毒だけどなんか触られたのは事実だし。結局、コイツは私に遊ばれる運命だったってわけよ)

 

 対し、日頃の鬱憤も晴らせる獲物を見つけて少女は笑う。

 優越感を込めて見下ろしてくる少女を、当麻は睨み返した。

 

「もう一度言うぞ。俺はやってない。お前なんか触ってない」

 

「みんな結局そーいうしかないのよ」

 

「やってねぇんだよ、マジで! 一瞬、何か刃物みたいな光ったもんが見えたからそれに手を伸ばして」

 

「もーいいから、そーいうのぉ。ナイフとかありえないし」

 

 危険物はゲートでチェックされ、またここにいるものは全員水着だ。

 凶器を見たなど妄言に過ぎない。

 

「結局水着って人に見せつけるのが目的だけど、物を隠したり触らせんのは別問題なわけよ」

 

 そういって、自分の体を指し示すようになぞる少女。整った顔立ちであり、確かに男が興味を持つような体なのだろう。が、

 いくらなんでも誘惑するには発育不足だろ、ともう少しで当麻は言いそうになったが、火に油を注ぐ展開になるだけなのでやめた。

 とにかく今は、どうやって自分の主張を信じてもらえるか考えよう。

 警備員に話を聞いてもらう方が、こいつらに話すよりはいいかもしれない。

 当麻が願ったそのときに、ようやく警備員が駆け付けた。

 

「どうしたんだ、君達?」

 

 口を開こうとした当麻の腕を、左右の大学生が力任せに捻る。床に膝がつきそうになりながらも、当麻は二人に抗議した。

 

「何しやがる!」

 

「貴様、犯人のくせに勝手に話そうとするな!」

 

 右の若者が、やはり力任せに当麻の顔を殴った。警備員が止める声と、少女のにゃはははと見世物に笑う声が漏れるのが聞こえ、当麻の忍耐力をゴリッと削る。

 だが当麻が反撃に移る前に、今度は左の若者が当麻の腕の関節を極め、ゲートの床に押し倒した。さらにその背中にもう一人の若者が乗りかかり、頭頂部に落とした当麻のペットボトルの口を開けて、ドバドバとドリンクを浴びせる。

 

「おとなしくしてろ!」

 

 折角風呂に入って髪も拭いたのに、またビショビショ。甘ったるい匂い。スポーツドリンクの匂いは取り難いんだぞ。そもそも勝手に人のドリンクを捨ててんじゃねぇ。

 当麻はそう言いたかったが、若者たちの手は止まらなかった。少女の囃し立てる声が、彼らをエキサイトさせているのだろう。悪いことをした奴は罰を与えられて当然。何をしてもいいのだ。ついでに日頃の鬱憤も晴らしてもいい。騒ぎに野次馬も集まる。他人の不幸は蜜の味。自分に一切関係ないことなら、なおさら。

 床にぶつかった際に口の中が少しキレたのか、広がる血の味。そういえばケーキ半分しか食べてないから腹減ってたな。でも血の味は最低だ。吸血鬼の気が知れない。今日の夕飯はどうしようか。やっぱ折角だし外で何か………

 とそんな考えているが、後ろ髪を掴まれ、顔を床に叩きつけられた。

 その痛めつけられる姿を一種の娯楽のように受け入れ、誰も止めはしない。

 その機会も失ったらしく、ただおろおろするばかりの警備員に、少女は訴える。

 

「こいつがわたしの体を触ったんです! それで逃げようとしたから捕まえて、今だって暴れようとして、襲いかかってくるに違いないわけよ!」

 

 ガツン、と当麻の頭が踏まれた。この若者たちに苛められるよりもよっぽど痛かった。痛いと言うことは、これは夢ではなく、夢オチなんてご都合主義な展開は来ない。

 口の周りの血を舐めながら、当麻はそんなことを思う。

 警備員は、金髪少女の話を信じたようだ。当麻はまだ、ロクに弁解もさせてもらってないのだが、もう犯人と断定されてしまったらしい。

 

「わかった。じゃあ、その男はこちらで預かる。すぐに<警備員(アンチスキル)>を呼ぼう」

 

 当麻の言葉を聞く気はなく、<警備員>が来たら、捕まって終わり。

 なるほどこの理不尽さは、まさしく現実だ。

 もうこうなったらいっそのこと、この程度の拘束で自分を抑えつけていると勘違いしてるヤツら全員を殴り倒してやろうか。

 当麻は一瞬だけそんなことを思ったが、すぐにやめた。

 そこまでキレるにはまだ足りない、いろいろと。

 ひょっとしたら<警備員>はこちらの話をちゃんと聞いてくれて、無事解放されるかもしれないなんて甘いことを愚兄は一応期待するが。

 

「痴漢の現行犯だからな。どんな弁解も無駄だぞ」

 

 と、上から押さえつけている若者が親切にも教えてくれた。

 

(あー、でもそうなったら詩歌達に迷惑がかかるよなやっぱ)

 

 と、今頃この先で待っているであろう連れ沿いを思い、再熱した暴力願望を鎮火する。

 不幸には慣れている。

 思えば、こういう展開は、記憶をなくしたあの頃の自分にもあったんだろう。幼少から変わらない宿命なのか。

 だったらもうどうとでもなれ……と当麻がヤケクソでそんなことを思ったら、それを叱咤するような力強い声が響いた。

 

「待ってください!」

 

 見物人を押しのけながら現れたのは、一人の少女だった。伊達の眼鏡をかけているようだが、その意思の強さを感じさせる瞳は隠せない。

 上条当麻は、彼女をよく知ってる。何せ、自分の妹だ。

 上条詩歌。記憶を失う前もきっとこうして助けてくれたのだろうと自然と思える。

 

「彼はやってません」

 

 黙っていて、と頬を指で掻くハンドサインが送られ、当麻は力を抜く。

 突然に現れた当麻の言葉に、警備員は戸惑い、少女は反発する。

 

「話は遠くからも聞こえてました。その上で言います。彼は痴漢などしてません」

 

「誰よ、アンタ! 関係ないなら引っこんでてよ!」

 

 罵声に等しいそれにも、詩歌は動じない。

 

「関係はあります。私は、彼の恋人です」

 

 あまりに意外な言葉に、少女は一瞬黙り、警備員や若者たちも唖然としていた。

 

「何度も言います。彼は痴漢なんてしません。解放してください」

 

 詩歌の指示に若者たちが従ったのは、その堂々たる態度に気圧されたからだろう。

 若者たちは視線に圧されたように当麻の上からどいた。解放され、立ち上がった当麻の側に寄ると、詩歌はタオルで当麻の口元の血を拭う。

 当麻はそれが、動揺するな、という賢妹からのサインのような気がした。

 

「立てますか?」

 

「ああ、わり。俺は大丈夫なんだが……」

 

 当麻を立ち上がらせようとする詩歌を、駅員が慌てて呼び止めた。

 

「ま、待ちなさい! 彼は痴漢の現行犯なんだよ!」

 

 気を取り直した少女も、猛烈に声を上げる。

 

「そーよ。そいつ、私の体を触ったのよ! 私の許可なく勝手に連れて行っていーと思ってるのぉ?」

 

 詩歌は、それらをただの雑音のように受け流し、己の考えのみを主張した。

 

「彼が痴漢をするなんて、あり得ません」

 

 さすがは、あのお嬢様学校の最高学年首席である。土壇場でも揺るぎない姿勢は、当麻の目を見張るものである。これほど敵意に満ちた視線を向けられながらも、詩歌は一切の妥協も譲歩もしない。

 

「いや、君、そうは言うが……」

 

 間挟みに困った様子の警備員に、詩歌は念を押すように言った。

 

「彼が痴漢するわけありません。だって、私が、彼を“ちゃんと満足させてます”から」

 

 それを聞いた警備員、若者、それどころか野次馬の中にいる男たちまでもが思わず顔を赤くしたのは、ブラインドされていても隠せない雰囲気の美しさに溢れる『女』以外の何物でもないことに、気づいてしまったからだろう。そんな彼女の口から今のような発言をされては、男なら誰でも妙な想像を喚起させられてしまうし、その海棠の花もかくやの湯上り肌にどぎまぎするのも無理はない。

 自然と、周囲の視線は詩歌と金髪少女の間を何度も往復した。自分と詩歌が比較されていると知り、しかも負けていると自覚し、不快に顔を歪める。

 

「あ、あんた、ふざけんじゃないわよ! だいたいこんな偶然に恋人が来るのも、こんな浜面みたいなアホ面に女がいるなんておかしいじゃない! 結局、ウソついてんじゃない!」

 

「なら、証拠を見せましょう」

 

 それに対して詩歌は、最も効果的で、視覚的にも説得力のある方法を実行した。

 当麻の顔を両手で掴み、何か言いたそうにしているその唇の上に、自分の唇を重ね―――

 

 

 場が静寂に包まれる十数秒。

 

 

 当麻から顔を離した詩歌は、少女達が呆然としているのを確認してから、警備員に言う。

 

「私がここに来たのはいつまで経っても来ないでお預けする彼を探してたからで、痴漢は、そこの彼女達の誤解です。でも、そういう誤解を受けると言うのは、まだ私の尽くし方が足りないのかもしれません。それを反省し、今後改善するように努力します。そういうことでもう良いですね?」

 

 警備員が頷いたのは、その言葉に対してではなく、ただとにかく詩歌の存在感に圧倒されているがゆえの反応だったが、それで充分だった。

 

「ちょ、待ちなさい! 私は確かに」

 

「―――そこのお友達は、空間制御の能力者ですか?」

 

 突然指名されたビート板の少女の中に鈍い感触が走る。思わず視線を細める。何故? と言いたげに、

 

「あなたのような小さい子が、満員のエレベーターに乗って、汗一つかかずに乱れがないのは不自然。風呂上がりの成人男性が密室内で押し込まれればそこは空調が利いていてもサウナと同じですから。そして、悪環境の中では能力に影響を及ぼします。言い出しにくかったのかもしれませんが、狭いエレベーター内で空間を確保するために造っていた壁に予想以上の負荷で解除されたのでは?」

 

 まるで見てきたかのような、それも今した推理だが、ああ、とエレベーターに同乗していた客たちは皆頷く。特にパントマイマーだった男は納得。

 

「はっ、絹旗の<窒素装甲(能力)>がそう簡単に破られるはずが」

 

「フレンダ。超原因不明ですが、超窒素固定していた私の能力が解除されました。おそらく、その際に超解放された空気を痴漢と超誤解したのでしょう」

 

「絹旗!?」

 

 相方の子に認めてしまえば、もはや展開は梃子でも動かないだろう。

 逆転裁判に若者たちは気まずそうに視線を逸らし、中立として役に立たなかった警備員はおろおろとしながらも当麻に頭を下げ、上条詩歌は鼻をひくつかせ、何か匂いをかぎ取った―――

 

「私の彼はよくジョーカーを引きますが、どうやらこれはババ抜きではなく、ジジ抜きのようです」

 

 いつの間にか、場の主導権を握っていたのは、金髪少女から詩歌に変わっていた。

 偽恋人のインパクトのショックからの空白を上手くついて、持ち前のカリスマで人心を掌握したのだろう。

 そして、ババ抜きではなくジジ抜きであるなら、不幸役(ジョーカー)をよく引く上条当麻は、同じく上条詩歌(ジョーカー)が着た時点で、上がっている。

 

「ドリンクコーナーでは販売されていませんが、一階のフードコーナーには、イチゴおでんも販売してるんですね」

 

「えっ……」

 

 詩歌が向いた先には、イチゴおでんが入れられたプラスチック容器を持った、搭乗時、当麻の後ろにすぐいた男だ。

 

「館内の飲食物ならば持ち込み自由でしたが、わざわざ温泉にまでアツアツのそれを一階のフードコーナーから持ち込むなんて、よっぽどお好きなんですね?」

 

「あ、ああ。そうだが」

 

「でも、ゲートで注意されると思いますが温泉区域内では飲食物は禁止ですし、じゃあ、大好物のそれを飲んでもらえます? 今、この場で」

 

「……っ」

 

 心臓に杭を打ち込まれたかのような衝撃とは、まさにこのことか。男は唐突に目眩に見舞われたようによろめく。

 

「あ、でも、飲まない方がいいですよね。“健康に害しますから”」

 

 警備員が目を瞠りながら、疑問を投げる。

 

「け、健康に害する、とはどういう?」

 

「私の彼が光り物を見たのに見つからないと言うなら、すぐに処分したんでしょう。そのイチゴおでん、濁ってませんし、底に刃物が沈んでもいない。けれども、かすかに腐臭がする。アツアツだと言うのに具が腐ってるはずはない。学園都市で研究されている易融合金で成形された刃物を投げ込んだんでしょうね」

 

「易融合金……?」

 

「錫、鉛、ビスマス、カドミウム、インジウム、ガリウムなどを合わせたものです。その名の通り、普通の金属よりも融点が低く、融け易い合金です。お風呂くらいのお湯でも入れればすぐに溶解します。無色透明だからまるでわかりません。そして、液状化し易く、鋳型に流し込んで冷やせば、誰でもナイフの形状が造れる。確かこの街で開発されたのはそれなりの硬度があり、融点はおおよそ40度。ぎりぎり手の中で隠し持てる温度数で、いざとなれば鍋ものの中に放り込めれば証拠隠滅。防犯カメラの位置を意識してれば、映像記録に残すことなく実行できる。ただ、想定外だったのは私の彼の冤罪騒ぎで予想以上に野次馬が多く集まっちゃって逃げ出すことができなくなったと言うことでしょうが」

 

 ―――そこで男は動いた。

 

「くそっ!」

 

 そのイチゴおでんの容器を乱暴に詩歌に向けて投げた。

 飲まないとはいえ易融合金が溶け込んでいるそれを浴びれば、大火傷だけでは済むまい。

 だが、そんなときでも落ち着いており、冷静に行動を予測していた――いや、あの挑発的な物言いは誘導していたんだろう。

 

「ほい、証拠物ゲットです」

 

 遠心に回る容器をキャッチボールでもするように受け取る。

 飛来物の回転に合わせながら、容器を掴み、中身を溢すことなくバトリングで丸めこむように手のうちで勢いを殺した。

 能力を使っていないのが理不尽な、あまりに常識外れな器用さ。

 これにはさすがの兄もびっくりだ。

 

「では、これを冷蔵庫に入れてもらえますか。お湯が水になった段階で、学園都市で開発されている易融合金は再結晶化しますから」

 

 その通り、後に警備員に預けられて冷やされたイチゴおでんの中から金属が検出された。

 混乱に乗じて逃げようとした男は、客達に取り押さえられた。

 それでもせめてもの抵抗にか、黙りこくる。

 運命の時が訪れる行為でしかないのか、それとも使い捨ての駒を支援者が助けてくれるのをごくわずかにでも期待しているのか無言を貫くしかなかった。

 

「それで証拠隠滅も含め準備諸々計画的な犯行が、痴漢などと衝動的なものとは考えにくい。ナイフなどと物騒な凶器まで用意している。おそらく、彼女達を狙った犯行理由は……」

 

 男はドキッとした。まさか彼女は“こちら側の人間”なのか。

 全身に凍てつくような寒気が襲った。まるで全てを識ったような口ぶりだ

 この場における少女の発言力と威光は絶大なものとなっている。

 警備員も、男を捕える若者達も静聴し、視線を集める彼女は一呼吸置く。

 大きくつぶらな瞳がじっと見つめている。上条詩歌は静かに告げた。

 

「“VIP層の客”を狙った誘拐でしょう。男湯フロアの上には安泰泉の最上層しかない。そこは年間会員で数十万はとられる場所。安泰泉全体ではなく、そのフロアに通う客に限定すれば、犯行リスクに見合う利益が見込める客が当たるんじゃないんですか? それも女の子であるなら、脅し易い獲物」

 

「つまり、金銭目的?」

 

「そうでしょう。結局は“誘拐未遂”でしたが、先程も言った通り、易融合金は“それなりの硬度”しかないし、それで造ったナイフは人の肌を裂くのも難しい“凶器未満”。見せつけたり、突き付ければ脅し道具にはなるでしょう。“もし”、こんなもので人を殺せる“よほどの熟達者”がいたとしても、こんな“普通の女の子”を“殺そう”だなんて、“理由は考えられません”」

 

 プロの人間が計画的に狙う被疑者も怪しい、とまるで誰かに牽制(アピール)するように。いいや、これは見逃せとでも乞うように。

 そして、その言葉が気にかかり、男は思わず口を開いた。

 

「誘拐未遂って……?」

 

「私の彼が気づいたおかげで踏みとどまり、ナイフを彼女に使っていません。素直に“誘拐”を認めれば未遂で処理されるでしょう。ここからだと第二二学区ではなく、第七学区の<警備員>が対応するかと思いますが、あそこなら“相談”にも乗ってくれるんじゃないでしょうか」

 

 同情すら匂わせる物言い。

 男は唖然とした。ぼんやりと詩歌を見つめる。今改めて、その姿は美を超越した真理の女神も同然に思えた。

 思いがけない慈悲に接し、魂が奪われたような実感だけが疼く。全てを見抜いたうえで庇っているのか。寒気もいつの間にか消えている。今あるのは久しく覚えなくなかった、情の温もりというものか。

 

「君は……」

 

 見据える瞳は透明に澄んで深く、無限の情を湛えてみえて、胸に迫る何かを訴えかけてくる。

 

「私は全てを誰かに押し付ける“ババ抜き”が嫌いですが」

 

 詩歌はささやくようにいった。

 

「終われば全てが揃う“ジジ抜き”は好きです」

 

 心の闇が淡く消え去り、浄化されていく。そんな感覚にすら囚われる。

 腕を捕まえていた大学生たちの力も緩み、その促しに男は自然と頭を下げた。上条当麻を非難した若者達も続いた。

 非を認めることが、ここまで清々しいとは思っていなかった。

 そんなあっさりと見る目が変わったことに上条当麻は、苦笑する。

 そして諦めた問題をあっさりと解決することにも。

 

「さ、行きましょうダーリン。皆を待たせてます」

 

「ああ、そうだなし――ハニー」

 

 <警備員>が来る前に移動する。

 警察沙汰に巻き込まれて、遅刻するのはごめんである。

 そこで前に立ち塞がる金髪少女。

 

「あら。謝罪も謝礼も結構です」

 

「あなた、何者……?」

 

「この人の恋人(ハニー)です」

 

 フレンダ、とビート板の少女が諌めはするが、ここまで“やられっ放し”なのに我慢できずに噛みつく。

 

「ああ、そうっ。でも結局っ、そいつが何もしなかったって証拠は」

 

 ない訳よ、と言い切る前に、

 

「フフフ、あまり、しつこいのは、感心しませんよ」

 

 ―――……並の(超)重圧(プレッシャー)っ!

 

 笑顔。それを向けられただけで少女は固まった。これは存在感というか、格の差を思い知らせる威圧感を当てられた本能的な反応だったが、それで充分であった。

 詩歌は当麻の手を引き、おまけに周囲の視線を連れて、真っ直ぐに歩き出す。

 当然のように道を開ける野次馬達。文句のつけようのない、見事な退場。

 事態のあまりの急転ぶりに言葉を失い、ただ詩歌に従って歩きながら、当麻は思った。

 今までの人生において、そしておそらくはこれからの人生でも、何度も何度も思い知ることになる、確固たる真理。

 ―――女は怖い。その中でも妹が一番だ。

 

 

安泰泉 9階 シャワールーム

 

 

 人目から離れたシャワールームの物陰まで来てから詩歌は足を止めて、手を放した。当麻も一応周囲を見回したが、あの少女達も警備員達も追いかけてこない。見事に煙に巻くことに成功したのだ。

 あの“寸止め”のおかげで。鼻と鼻を突き合わせただけで唇は触れ合ってないが、微妙な角度調整で隠していた。

 その功労者である詩歌に、当麻は感謝の言葉を述べようとしたが、詩歌は壁の方を向き、当麻には背中しか見せなかった。

 肩が小刻みに震えている。

 ……あ、やばい。かなり怒ってるぞ。

 当麻は一度咳払いしてから、賢妹の背中に言った。

 

「着てすぐに犯人を見つけるなんてすごいな。それに助かった。ありがとな。マジで危なかったんだ、さっき」

 

 振り向かない。

 

「詩歌が来なかったら、捕まるか逃げるかして……どっちにしても警備員に捕まっていただろうな」

 

 まだ振り向かない。

 

「痴漢で捕まるなんて、男として最低だし、本当に助かった。いつもだが、お前が女神に見えるぞ。詩歌が妹で、当麻さんは幸せでせう」

 

 やはり振り向かない。

 流石に心配になった当麻はそ~っと肩に手を置くと―――反転。

 

「ぐおっ!?」

 

「本当に、当麻さんは手が早いというか何というか。よりにもよって、彼女達と遭遇するなんて、本当にトラブルメーカー……狙ってもないのに女の子なら見境なく引っ掛ける入れ食いルアーですね」

 

 ぐいっと手首を捻って、仰向けからうつぶせに体を転がし、肩甲骨辺りに膝を乗せて押さえる。極まった。若者たちの力任せのものとは比べ物にならず、しっかりとポイントを抑えているこれは動けない。

 

「し、詩歌さん。これは尽くし方がちょっと違うんじゃないかなー……?」

 

「何を言ってるんですか当麻さん。これが我が家の躾け(尽くし)方じゃないですか。それとも、待遇に不満を覚えると痴漢をするような兄なんですか?」

 

 ぶんぶんと左右二往復。

 

「それともまさか本当に痴漢したんですか?」

 

 すぐにぶんぶんと左右二往復。

 

「それでアピールにドキリとしました?」

 

 迷いなくぶんぶんと左右二往復。

 

「マイナス十点」

 

「何故だっ!?」

 

 更に巻いて捻り込まれ―――ゴキッ、と無理矢理のしかかった男たちに抵抗しようとして外れかかった肩がきっちり嵌められる。我が家代々伝承される整体技術のお見事なお手並み。

 

「おい、やめっ!?」

 

「ダメ。今のままだとインデックスさんと美琴さんに心配されます」

 

「だから、自分でできるって!?」

 

「ダメ。だってあんな真似……顔を合わせたくないと思うのも当然です」

 

「は? ああ、顔も見たくないくらいに怒ってんのか」

 

「どうしてそういう方向に……まさかそれは、整形してくれ、と嘆願してるんですか?」

 

 鋭い爪もないはずの十指が当麻の頭に喰いこみ固定された。

 え? なんでだ……と戸惑いながら、とりあえず今反抗するのはマズいと経験と直感が告げている。

 それから青痣はできていない身体を触診して、うん問題無しと叩かれた。

 おまけにドリンクをかけられた頭もシャワーでわしゃわしゃと洗われて、タオルでごしごし髪を拭かれる

 

「とりあえず安心しましたが、もしそうならちゃんと言ってください。詩歌さんは妹なんですから兄の嗜好を知る必要があると思います。うん、妹ですから当麻さんが少々犯罪チックな方面に走っても見捨てないし、そういうのは勇気をもって打ち明けること。……欲求不満を解消するお手伝いもしますよ」

 

「そんな勇気はいらねーよ!」

 

「返事は、『はい』か『イエッサ』」

 

 それじゃどっちも同じじゃん、と言おうとしたがタオルで首を括られて発言を封じられる。

 そうして、じゃれつきながら身なりを整え終わり、

 

「よし、これで見かけは大丈夫。インデックスさんも美琴さんも心配しないでしょう。あとは、この眼鏡を掛ければ」

 

 最後に、自分がかけていたその伊達眼鏡を当麻に乗せる。

 

「詩歌、これは……」

 

「右手で触れないでください。これにはまだ試作の段階ですが認識阻害の暗示がかけられています。かけていれば、当麻さんだとはバレないでしょう」

 

 それで疑問がひとつ氷解。今をときめく有名人な妹が、爆弾発言しても騒がなかったのは、上条詩歌だと気づかなかったからだ。

 いくら無防備でも、無駄に騒がれるのを避ける準備をしてきたらしい。

 

「でも、それだと詩歌が」

 

「私は大丈夫。ついさっきすれ違った、たまたまここに知り合いの女の子、<視覚阻害(ダミーチェック)>という同じ認識阻害能力を持つ能力者の力を投影(トレース)しましたので」

 

 と、言うと一瞬当麻の目の前から点滅してみせた。

 確かにこれならば騒ぎたてられずに済むだろう。

 

「けど、あんな小娘に簡単に遊ばれるんじゃないです。兄をからかっていいのは優“しい()”愛い妹の特権なんですよ? それを当麻さんは大安売りし過ぎです」

 

「どんなキャラを目指してんだよっ、って言いたいとこだが、詩歌の肩身を狭くしちまったな」

 

 小娘――そう言うと詩歌も当て嵌まると思うのだが――ひとりを相手に、ろくに反論もできず、一方的にやり込められる姿は、男としても、兄としても情けない。それを目の当たりにすれば、気分も害そう。妹である彼女からすれば、当たり前だ。

 弁解の余地がなく、項垂れるしかない当麻の前で、詩歌は鼻を鳴らした

 

「ふんだ。別にやり込められたからって、そんなことで詩歌さんの肩身は変わりません。が、心配しました。しばらくは口を利きません」

 

 と、そろそろ時間だ。

 二人をこれ以上待ちぼうけにさせるわけにはいかない。

 兄の世話が終われば、ここにいる必要もなく、そして当然のごとく混浴温泉プールへと行きましょうと誘う。

 

「そう言わずに一つ訊かせてくれ」

 

「何です?」

 

「さがしモノは見つかったのか?」

 

「―――ええ」

 

 

 

つづく

 

 

 

エリザリーナ独立国 宿屋

 

 

 ベットと家具が最低限備わった一室。その窓から外の景色にははらはらと雪が降りる。

 上条当麻は、エリザリーナ独立国にいた。

 元々、ロシアの方針に従えなかった地方が合わさって独立したエリザリーナ独立国は、国民や物資のライフラインとしてまたより多くの小国を引きこんでロシアを介さず東欧州へのルートを構築しており、形は東西に細長く伸びている。その長さは300km程度。

 そんな間接的支配から脱してしまったせいもあってロシアから疎んじられ、少し前まで戦争の前段階の小康状態だったエリザリーナ独立国だが、今はほとんど素通りで国境を越えられた。

 と、ここまで無事に目的地に辿り着いたわけだが、そこで大きな問題がひとつ。

 

「……なんで、レッサーがこの部屋にいるんだよ?」

 

 一番安い部屋とはいえ、掃除も行き届いていてけして劣悪な環境ではない。

 部屋の隅っこに設置された純白のベットはいかにも高級そうな一式で、整えられる状態である“ならば”、つきたての餅のようにふっくらしていたであろう。寝心地だけなら(賢妹が修道女のために買い替えた)学生寮のベットと大差ないように見える。

 で、部屋に問題があるわけではなく、ただちょっと文句があるとすれば施錠防犯の意識だろうか。

 

「おお、おかえりなさい。遅かったですね」

 

 当然のように挨拶するのは、色白小柄でおそらく十代前半、黒い長髪を先端を三つ編みにしてまとめている、ラクロス服姿の“尻尾がついた”少女。ベット脇の服とか帽子だとかをかけるところにジャケットみたいな上着とラクロスのラケットのような『武器』が立てかけてある。

 はい問題発見。チェックインを済まして部屋に入るとそこに他の部屋にはない余計なオプションがありました。

 あれ? 確かホテル前で別れなかったっけ? と上条当麻は考える。

 レッサー。

 結社予備軍<新たなる光>の魔術師で、現在どういうわけか上条当麻を“個人的に”マークしている少女だった。

 イギリスからロシアにこのエリザリーナ独立国まで同行していた際も、元敵だったこの小悪魔魔術師はちょこまかと周囲を付きまとっていたが、親切に通訳してくれたり、“ひとりっきり”だった上条当麻をサポートしてくれた。が、今はこうして部屋にまで侵入してきている。

 

「んー? だって、この部屋、二人部屋(ダブル)ですよね?」

 

「確かにそうだがレッサーが泊まることを念頭に入れたもんじゃないぞ。当麻さんが取った部屋に勝手に上がってんじゃねーぞ」

 

「うぉ、フカフカに埋まりますねぇ。どです? 一緒に。温めておきましたよ」

 

 聞いちゃいねぇ……

 ……と言うか、数時間後には愚兄が使うことになるベット(ダブルなのに部屋にベットは一つ、その分サイズが大きい)に寝っ転がって遊ぶとか。

 指摘すれば、おやおや意識しちゃったんですか的なからかいを受けることになるので自制する。この旅行中で、レッサーの自己中心的な性格は大まかにだが把握している。なのでその代わり、寒国で抵抗力を削がれてからのあったかベットの魔力に沈湎するレッサーの挑発に乗らず、窓際に備えられた机椅子に腰を置いた。

 

「なんか邪魔だなーとか思ってません? プロの魔術師がサポートについてるんですよ?」

 

 平べったい鎖が透明なチューブに包まれて、先端が鏃っぽく尖っている小悪魔な尻尾を左右に振りつつ、

 

「別にイギリス王室から命令を受けているとか、右方のフィアンマとやらに恨みがあるとか、今話題の上条勢力の一員に加わりたいとか、そういうのは全然考えてないんですけどね。ただ、あなたを個人的に援助するのは、イギリス全体にとって利益になるのではないかな、と考えまして。利用し利用されるwinwinな関係を築いていきません?」

 

 と、また尻尾をうぃんうぃんと振る。

 同行中話を聞くところによると、このレッサーは、科学と魔術、二つの世界の決戦を管理するイギリスから派遣されたスタッフ……ではなく、上条当麻と同じくボランティア的に何の用意なしに飛び込んだ輩である。

 

「……でも、レッサーって、そもそも強いんだっけ? 変な鞄を持ってロンドンを跳び回って、五和の槍に落されたのは覚えているんだけど」

 

「何ならその窓から落として証明してあげましょうか? あなたにぶっ壊された部品を適当に組み直してパワーアップしたレッサースペシャルカスタームな<鋼の手袋>! なんとっ! この先っぽから飛び出す赤いレーザーに当てれば、手の届かないほど遠方にある物体であっても問答無用で掴み取って振り回せる代物!! これが完成してれば、あの時の立場は逆転していたのです!!」

 

 意外と根に持っていたのかレッサーはその童顔を自慢げに……だけど、当麻の反応は相変わらず平坦で窓の外を眺めていて、こっちを振り向いていない。

 

「そうかそうか。飽きたら、とっとと部屋から出てけよー」

 

「ホントに戦力は期待してなさそうですね。クーデターの印象が派手すぎたせいかな……? それとも、ベイロープをぶっ飛ばした妹さんと比較対象にされてます? いえいえ、私も<鋼の手袋>だけに限定するなら<新たなる光>で最強ですよん。<知の角杯>を使わないならば、の条件ですが」

 

「……比べてないだけどなぁ……」

 

 ブツブツ落ち込むレッサーは、アピールポイントを変更。

 

「ほら、“置いてけぼり”だったあなたをサポートした実績も評価してもらいたいとこですね。私がロシア語の通訳をしてなかったら迷子になってましたよ」

 

 勝手にしろ、と言われたが、ついてきて、とは言われてない。

 飛行機や乗り物で移動するものだと思っていた上条当麻だが、“足手纏いのいない”その行動力に対する見通しは甘かった。上条詩歌の代行である香椎はテントのように組み上げた小さい家の中に入って崩れたと思ったら、その場から“いなくなっていた”。

 

『<ロレートの家>の伝承を参照にした<聖母引越>だね。竜脈を使った転移は相当難しいはずなんだけど、<禹歩>を利用しているのかも』

 

 あの代行者には、本体から引き継いで、イギリスの補助だけでなく、騎士、傭兵、女教皇と3人の<聖人>のサポートがある。

 その歩みを竜脈に干渉させて、簡易なルートを創ったのだ。つまり、その3人が通った道ならば、瞬間転移が可能。現地入りするだけで一日を費やした上条当麻とは違って、もうすでに香椎は各国各勢力と交渉調節に入っている。

 一応、再び巻き直した左腕にある使い捨ての聖痕を削ればだがある程度の異能を行使できるが、この右手がある限り、自分自身に作用するものは上条当麻は扱えない。当然、プロの魔術師でもデタラメに高度な長距離転移魔術なんてできるはずがない。

 つまり、あちらから歩み寄ってもらえない限り、上条当麻は“足手纏いになることもできないのだ”。

 

(また抱えて飛んでもらおうとか全然考えてなかったけど、これじゃあ周回遅れどころの話じゃねーぞ)

 

 ひとまずの休憩地についたが、内心で焦りを覚えている。

 『心ない上条詩歌』と、妹の唯一の弱点がなく、その才を存分に振るう香椎は愚兄では追い付けないほど圧倒的だが、どこか危うい気がするのだ。

 そんなわけで急いで目的地へと向かったが、海外知識がほとんどない当麻は、レッサーのサポートにはかなり助けられた。これから先も支援してくれるならありがたい。

 ただし、部屋は別ならもっとありがたい。

 

「それから、今、この部屋には防音の魔術を敷いてあります。そして、これから眠ります。流石のわたしも眠っている間は何も抵抗できません。痴漢行為されても叫びません」

 

「は……?」

 

「もちろん、ロンドンの大聖堂で留守番しているインデックスには何も言いません。いいえ、何をされても眠っている私は覚えていません。一夜限りの関係でも結構。なんならベビードールに着替えましょうか」

 

「お前何なの? さっきから発言の意味が分かんなくなってきたんだけど!」

 

「準備万端ですってことだよ! 男女が一室共にしてやることは一つだろ!! 昔の女なんか忘れて抱いちまえーっ!! そうすれば欲求不満解消もできてイギリスのための尖兵一丁上がりになれるこれがwinwinな関係!!」

 

「そんな関係は破談に決まってんだろ! それ以上人生ナメたこと言うなら本気で追い出すぞ!!」

 

 こめかみに青筋を浮かべてそろそろ拳骨セットの説教を検討する上条当麻

 しかしレッサーの方は応えておらず、パンツを見せることも辞さない調子で、『尻尾』をふりふりしながら、まっさらなベットと枕をもさもさ鳴らしていた――無性に落ち付かなくなる音だった――が、首後ろを摘まんで追い出そうと考えたところで、真面目な声を出した。

 

「ホント言いますとね。ここに来る前に連絡があったんですよ、私とは別行動で探りを入れていた仲間達から、“今回の大決戦について”」

 

 ……興味に負けて、態勢を直す。すると、レッサーはベットの上で身体を丸めて、横向けの体育座りのようなポーズになって、こちらと目が合うと、にやりと人の悪い笑みを浮かべていた。釣れた、と。

 

「大決戦の条件設定はまるで駄目。もうガードが堅過ぎるってフロリスが愚痴ってましたね。まだ始まったばかりですが、ローマ正教の上層部ですら、参考意見の提出しかできていなくて、実際どうなってるのかは分からないんだそうです。フィアンマが呑んだからあまり問題にはなっていませんがね。まあこの非常事態に辣腕振るえるからこその<神の右席>でしょうが」

 

 それが、人ではなく天に選ばれた絶対的な聖者『右方のフィアンマ』の非凡さではあった。

 世界最大20億の信徒を、さらに上から束ねる上層部の相談役としてのカリスマ。いかにローマ正教が長い権威と伝統を誇っているとはいえ、結局のところ、その組織の行く末を指し示すのが個人であることに変わりはない。

 教皇の協力があったとはいえ、<神の右席>の承諾を得られたのは幸運であろう。

 

「それで、皆が――特にあなたが一番興味がある。本当に、『あの上条詩歌』の仕切りで、この大決戦が成り立つのかどうかってことですが」

 

 その台詞に、当麻の緊張の色を濃くした。

 そうなのだ。

 戦争を阻止しての大決戦に持ち込んだから、それで良いと言うものではない。

 中でも問題なのが、競う両者がどちらも世界の半分を支配する勢力であること。

 戦争ではなく決闘という形を取るのならば、参加者の違反を力ずくで押し潰せるだけの実力がなければ審判は務まらないし、勝敗の神聖さは保たれない。

 戦争を反対する第三勢力を取り纏めたとはいえ、その連合は被害を多大に被るのなら離散するハリボテだろう。なのに大決戦が成立し得たのは、どちらも後に退けぬように持っていった、先日の状況設定が大きい。契約を反故にされぬよう、世界全体に情報を流布したイギリスの貢献も無視できないだろう。

 しかし。

 一旦、成立した今、両者がどこまで大決戦の条約(ルール)を遵守するかといえば―――

 

「審判を抱きこむなり脅すなりできれば、勝率は大いに高まります。まとめ役で矢面に立たされているのが『上条詩歌』である以上、当然ローマ正教と学園都市はそこを狙いますね」

 

「………」

 

 当麻が、息を詰める。

 追いつめられる妹を、想像したのだ。

 

「―――へぇ」

 

 さあ、と青褪める兄の顔色を見て、レッサーは軽く唇の端を歪めつつ、

 

「でも、今度はこっちが暴いてやると息巻いていたベイロープから聞く限りだと、上手くやっているようですよ。ローマ正教と学園都市の両方を牽制させ、英国王室の後ろ盾を上手く利用することで、どちらにも主導権を渡してないようで」

 

「そうなのか?」

 

「ええ、イギリスも利用させてもらってますけどね。Winwinですよ」

 

 厳密に、戦争を決戦という形にまで落し込んだのはひとりの少女であるが、こんな大掛かりな仕掛けをまだ新参な彼女ができるはずがない、全ての黒幕はイギリスだ―――などという噂もあったりして、その噂を耳にしたときのとある王女の顔たるや、『騎士派』の長曰く、久々に見せたご機嫌なものだったそうだ。

 当然、第三勢力の代表的な立場であるイギリスが交渉を受け持っているが、それは慈善事業とはほど遠く、この百年に一度あるかないかの大事件に絡むというのは大いに面目を施してくれている。

 このような社会では、影響力が“ある”と信じられているのが一番に効果的だ。

 この代行者を味方につけても、その裏にいる人物が本命であったなら、また新しい代行が出るだけだ、と思わされることで、身を守っているとも言える。

 

「まあ、裏はとれない噂レベルの話ですし、何をしているかについては下っ端の我々には雲の上の世界。どこからどこまでが陰謀で、どこからどこまでが偶然なんだが、ベイロープも追跡するだけで精一杯でさっぱりだそうです。あの『上条詩歌』の代行者が抜け目ないのか、それとも後ろで誰かが糸を引いているのかも、よくわかりません」

 

 話しながら姿勢が固まりそうになったのか、寝返りを打って仰向けになったレッサーは手を広げて、もう一度情報を読み取るように天井を仰ぐ。

 

「正直、あの代行者、どっか世界がズレてる気がするんですよね。超然としてると言うか、本体も道具同然に賞品扱いにしてますし、イギリスの味方でも侮れない」

 

 本音だろう、と当麻は思った。

 パワーゲームとは、そういうものなのだ。

 陰謀や作意ばかりではなく、ちょっとした偶然や他人のミスまでもが、盤面を大きく変えてしまう。最悪だった(カード)もまたたやすく最善と変わる。

 幾つもの組織の利害や歴史、個人の心情さえ加味して流れていく、現実のゲーム。

 それが今、愚兄の先にある戦場(ステージ)だ。

 上条当麻にはどうにか理解はできても、実感のない世界だった。

 だが、賢妹には、その才能があった。

 愚兄よりも、ずっとその世界に足を踏み入れる才能があった。以前より何度となくその片鱗を見せてもいたし、今では策謀を見切り、千里眼の如き妙手を打った超新星だ。

 しかし、才能を研いで、鋭く磨き、戦える武器と成すまでどれだけ少女は苦しんだことだろう。

 あの心優しき妹は、どれだけ自分を苛んだろう。

 それを思うと、愚兄の胸はズキリと痛んだ。

 でも、結局は何もできなかったんだと、この置いてけぼりにされてる現在の状況から『心ない妹』に証明されてしまってる。

 だからか。

 そばにいれない自分にも、いたところで何もできないだろう自分にも、腹が立って仕方がなかった。

 

「―――それで、この大決戦を通して、『上条詩歌』が何をしたいのかはまだわからないんですが。科学と魔術、一体どっちを勝たせようとしているんでしょうかね。そこのところ、お兄さんは何か情報があります?」

 

 と、ここまで自分が持っている情報を開示して視線を向けるレッサー。

 

「………」

 

 当麻は、沈黙する。

 それは答えないのではなく、少しの時間、自分の考えをまとめるために。

 賢妹は言っていた。

 あの毎日をもう一度過ごしたい。

 そして、誰にもこの不幸な負債を預けたくない。

 そう言った賢妹の声は、愚兄の胸の一番深いところに、しっかりと刻まれている。

 だけど。

 あの『心ない妹』香椎も同じなのだろうか。

 彼女は代行。

 賢妹とは違う彼女の真意はまだ測りかねている。でも……

 

「俺の妹はババ抜きよりもジジ抜きが好きだったな」

 

 ポツリ、とこぼす。

 その意図が読めないレッサーに、愚兄は続ける。

 

「科学と魔術。俺はそのどっちにも味方になるつもりはねーよ。妹の、香椎の味方だと決めたからな」

 

 そのために、ここにいる。

 上条当麻がすべきことは決まっている。だから、その時にこの手の届く範囲でなければ困るのだ。

 ………で。

 何故か小悪魔少女レッサーはミニスカートから伸びる尻尾を軽く遊ばせながら、反撃の糸口を掴んだとばかりに邪悪な笑みを浮かべて、

 

「おっけーです、了解しました!! シスコンだとは聞いてましたが、これは“あなた”ではなく、“お兄さん”と呼んで、疑似妹プレイで攻めましょう!!」

 

「それじゃあ兄として命令だレッサー君。反省するまで廊下に立ってろ!!」

 

 

 

つづく


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