とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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英国騒乱編 赤信号

英国騒乱編 赤信号

 

 

 

ロンドン

 

 

『あらあらまあまあ。折角増やした兵隊さんもほとんど全滅』

 

 乱戦。

 そして、こちらの計算を大きく上回り『クローバー』を圧倒した『右方のフィアンマ』は何らかの障害で、動けぬ模様。

 この近衛として自身の周囲に配置していたため戦闘に参加していなかったのかしか残っていない、結果一割以下まで削り落されたが、またネズミ算式で増殖すればいい。

 それが、この『兵器工場(クローバー)』の強みだ。

 

『もーイロイロ諦めていたから自分で戦うこととかしないために試行体置換から精神再構築したんですけどねえ。外交事は唯一ちゃんのお仕事でしょうし』

 

 重要器官であろうと代用品を製造し続ける。

 そして、状況に適した形に変化させる。

 

『超高密度のAIM拡散力場、および核の表出を確認。捕獲コード。形態変化『キラーホーネット』参照』

 

 白の虫兵が分散し、再構成。

 モデルにしているのはおそらくシルエットからして、ハチであるが、その尻から伸びる針は、その身体の10倍はある。これでは、ハチではなく針、いいや、翅の付いた杭、というべきか。

 この『兵器工場』には超能力者を代用にした兵器の他にも、対異能装備の情報も入力されている。

 『MAR』でLevel4相当の高位能力者をも仕留める<キャパシティダウン>の超音波源を内蔵した杭――<能力封じ(エスパーキラー)>もそのひとつ。

 高速機動の分散行動で、対象を自動追尾修正(ホーミング)して、標本の虫ピンに刺す。

 あとは………

 

『まずは、<幻想投影>から回収しましょう。『右方のフィアンマ』も、戦争も、正直私にはどうでもいい事ですし』

 

 と、直後に起きた災厄を果たして物理現象の範疇に留めていいのか。

 

 視界がいくつにも導火線が焼き切れた感覚が走り、バキビシ、という氷柱が裂けたような快音と共に、次元結界が崩壊する。

 触れてすらいないのに、三又の選定剣が、焼き砕かれた。

 不意に立っていられないほど世界が傾ぐ。竜脈地脈にも影響が出たか。

 

 

 ざざざ!!

 ザザザザ……ザザザ!!

 ザザザZA……ザザザザザざザ……ザザザザザ……ざザザZAザザザ!!

 

 

「こんな、幻想、ぶち殺す―――」

 

 変われる者が元に戻りたいという願望を受信するチャンネルを、この世界を無視して、同じく世界を内包した少女ひとりに“合わせた”。“手加減”をしない。

 こうして“相対的に”、少年は“この世界”から“逸脱する”。

 

「これ以上、余計な“手出し”はすんじゃねぇ……!」

 

 パンッ、と前兆が感知した方角から来た飛来物を反射的に叩いた。振り向かない。それで十分な気がしたのだ。

 風が()み、世界は静寂に戻った。

 それを観察していた科学者の女性の顔から、微笑が消えた。

 あまりにも平穏―――数万もの殺人蜂の軍勢が白い暴風と化したはずなのに。

 翅音すらなく、そよ風ほどにも感じない。

 <幻想殺し>の消去能力は、触れた対象をひとまとめに作用する。打ち消すにはその力の大きさに比例して時間がかかるし、現象が離れている場合は、核は消せない。さっきのはそれがほとんど独立していたにもかかわらず殺人蜂を全滅させた。

 愚兄の右手が、バラバラの対象を破壊するなど、これまではありえなかった。

 

 上条当麻は、大きく、息を吸った。

 

 紙に火をつけて、その紙に紐でまた別の本体の紙と結ばれていようと、本体に火が移る前に細い紐は焼き落ちてしまうし、ほんの少し掠めるよう本体を炙る程度で終わる。逆に紐が太ければ掴んで引っ張ったり本体を動かせる。それが、これまでだった。

 しかし、その火力が紐が焼き落ちてラインが途切れるよりも速く火渡りし、本体を焼滅するのなら話は別だ。

 核は離れている。だが、異能的なラインで結ばれたこの異常は“核とひとまとまりと”みれる。

 これまで。これまでの“この世界の”零に設定された秩序ある破壊では無理だった。

 しかし。

 “『神上』を零にするよう”に合わせた<幻想殺し>の基準値は、処理限界だった異常をラインであるパスを通ってその核まで一瞬で焼き尽くすほど、“世界の秩序という設定基準を大幅に無視した無秩序な破壊”のレベルに達していた。

 この憤怒がここに具現するかのように、祟りが起きる。

 ガシャン、とついに科学者を乗せていた車椅子まで壊れた。

 ほんの少し関わっただけで。

 不幸になる。

 

 そこにいたのは、ヒーローではない。

 己だけに収まるような不幸でなく、袖触れ合う多生の縁をもっただけでその奇蹟を消してしまう、世界すら壊しかねない最悪の天災。

 かつての疫病神がそこにいた。

 

 

 

 そして、当麻は、もう一度、大きく吸う。

 その左手にあるのは、毛髪。“まだ”、上条詩歌の核と繋がっている、魂を縛る誓約書。

 前兆感知能力が麻痺するほど高密度の中で、これを道案内にする。

 アリアドネの糸を手繰り寄せて迷宮の目的地に辿り着くように。

 彼女の根源を目指す。

 

「俺が、神様を殺してやる―――」

 

 息を、止める。

 

「―――だから、詩歌もちゃんと起きてこい」

 

 そのとき、また意識がうっすらと浮かんだのか、それとも無意識か、こくり、と詩歌が頷く。

 だからその瞬間、上条当麻の最後の覚悟は決まった。

 

 ―――貫く。

 

 今度は左手ではなく、右手を。

 奇蹟治療ではなく、ただより幻想と化してしまった身体を。

 この手は鋩となって、個々を隔てる境界を、幾重もの防壁を突破する。

 始まりと終わり。万物の一生を、秒節で転写していく世界をその内に幻視する。

 ブラックホールのように濃縮されたナニカは重く、そのあらゆるものが混ざり切った色は黒い。そして今も際限なく外界を飲み込んでいく。その密度はあまりにあり過ぎて、輪郭を圧迫する重圧は感情をも麻酔されたかのように麻痺させる。深海で圧し絞められていくような苦しみだけを頼りに、いっそ喰わせる覚悟で、唯一原形を保つ右手を前に差し出す。伸ばし切れば届くこの距離を永劫にかけて伸ばすのは、苦行かもしれないが、生命を脅かすものではない。

 無血の鬼や死病の竜とは違う。

 この少女の器に納まっているとは思えない闇と重圧だが、穢れてない。

 ああ、なんて温かい。

 母に抱かれたような優しい温かさ――生命に満ちている。

 右手に流れる空気は血液であり、命の拍動だった。

 空気の重さが変わる。錘を外したかのように無重にあるかと疑ってしまうほど腕が軽い。存在を証明してくれたのは、この熱だけ。

 闇の温度に腕の血流が促進したかのように、体の芯まで熱が伝わる。

 この先が終点だと理解する。最後の境界を通過して、その内部に辿り着き―――

 

 ―――これを、俺は、知ってる。

 

 頭では死んだ記憶。

 コレが暴れるから、妹の身体は燃えるように高温に熱を持っていた。

 だから、この右手で―――

 

 闇が、終わった。

 その万色を集束させた黒をまたひとつひとつ解いたかのような多彩な虹光は、理解の範疇を超えていた。

 ただただ美しいとしか言えない。

 星の中核、地の闇底に息づくのは、灼熱にも勝る溶岩だ。その火山が触れた刺激に活発化を始めたように。

 火口を巣にする、巨大な影が暴れている。

 あれが―――宿主さえただ存在しか知らない、賢妹の奥に伏す根源の全貌――――!

 

「お前は、眠ってろ」

 

 ここまで来た理由を右手に走る熱で痛感すると、眠るように静かに目を瞑る。しかし、この不折愚直の刀の刃に映る意識は同じく研ぎ澄まされている。

 そして、止めていた息を、大きく吸った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――――お兄ちゃん。

 

 鈴を鳴らすような声が響く。

 その声に応じて、腕を引く。

 先ほど見たあれは、夢。あくまで上条当麻がイメージした上条詩歌の内の幻想か。

 手は健在で、身体にもこれと言った火傷はない。自分でつけた傷跡も治っていた。

 起きれば夢を忘れてしまうように、後遺症(トラウマ)になりかねなかった苦痛そのものも消えている。

 だが、それは夢ではなく。

 炎は消え、腕の中で『殺された』妹は眠りについている。

 安らかに。死んではいない。息はしている。鼓動も聞こえる。脈も感じる。

 けど。

 果たして、目覚めた時、『上条当麻の知る上条詩歌』は生きているのだろうか。

 

「―――なに“殺しただけで”安心してるんですか?」

 

「あん? な―――って!?」

 

 と、そんなことを考えていた油断しまくり当麻の額に、ゴツン、と何か物体が的中。

 暗転する前、仰け反りざまに、それが大き過ぎる鞄であることを視認する。そして、その奥にいるのも。

 その時、その場にいた人間らはこの続けて起きた異常事態に、息を止める。

 そこに斬る前の長い髪で、その色は赤い―――だけど、それ以外は瓜二つ。

 信じられん、と神父は息を呑む。

 大きな箱を片手で投げた、そこで眠っているはずの“上条詩歌”がそこにいる。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ツメが甘い。賭けには成功したようですが、こんな大馬鹿が、兄だとは正直、今も信じられない。良く、本体は信じられたものです」

 

 どこか優しさを含んだ声で、静かに『赤信号』はそういった。

 『清教派』の魔術師魔女神父修道女は言葉もなくその姿を見つめている。……その正体が何であるかと探るように。

 『赤信号』は上手い具合に気絶した愚兄を下敷きにしている素材が木製の、より詳しく言えば材木はアカシアで造られた鞄を、よいしょ、と地面に置いて、ぱちんと鍵を外す。

 すると、ほどけるように拡大され、長さ1.3m、縦横0.8mで、直接地面につかないよう四隅に脚のついた人ひとりは入れそうな長方体に化ける。原理としては、<新たなる光>の<大船の鞄>と同じだろうか。ただし、形は、船ではなく、棺を彷彿させるものであるが。

 

「急いだつもりでしたが、間に合わなかったようですね。起きるまでは私が本体の代役を務めます」

 

「あなた―――あなたは何者、ですか……?」

 

 たまらずに代表して神裂が尋ねる。

 誰そ彼に染まる鏡の世界から飛び出してきたのかと思わせる。

 しかし、王侯貴族のように処刑塔から抜け出してきた幽霊ではなく、おぼろげながらも実体がある。ただ、神裂らが知ってる彼女と比べると少し違う。何かが足りない。

 

「<幻想投影>から深部とは切り離されて創られた分身、本体が冬眠休息の際に活動する<幻想擬体(AIMクローン)>。上条詩歌とは魔術用語で例えるなら、『選定剣(オリジナル)』と『二本目(セカンド)』のような関係です、と言っておきましょう」

 

 これまでは人質、これからは代役。

 応えながら、抱えた上条詩歌の体を箱の中に安置する。

 

「では、あなたは詩歌では……」

 

「残念ですが、違います。私は、真っ赤な偽物(うそ)。そうですね、香椎とでも呼んでください。そして、これは<約櫃>。本体が眠りにつくために用意した香木」

 

 箱の蓋を閉じながら、

 

「起動キーワード―――燃ゆけれども焼けざる爾女は、常に(さいわい)にして全く(きず)なき生神女の預象。されば十戎を刻みし契約の箱に不朽のまま目覚めるまで一時の就寝を許されよ」

 

 がちり、と鍵を使っていないのに錠が閉まった音がした。

 <約櫃>とは、<聖人>の不朽体を納める入れ物。不朽体とは、神の恩寵によりその字のままに朽ち(ない)まま保たれ続ける体。

 おそらく、暴走が一時的に収まった状態から再発防止のため完全に安定するまで、外界からのあらゆる干渉を遮断する箱庭に閉じ込めたのであろう。

 

「では、役者は揃っているようですし、緊急の“首脳会合(サミット)”を、始めましょう」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 すでに日が暮れる黄昏時のロンドン。

 まだクーデターの一件で崩壊している箇所の目立つ首都の広場の一画。

 『人払い』が成されたそこには、世界三大宗派のイギリス清教の面々、第二王女を介抱する第三王女に彼女らに付き従う<騎士団長>率いる『騎士派』、司会進行する『赤信号』の背後から現れる『王室派』の長たる<英国女王>に第一王女、そして、背後に控える<最大主教>。

 

「今更だな」

 

 いくらか回復しているが呪いの影響で万全とは言い難いはず状態でなお傲岸に聖者の眼差しは、あくまで冷やかなものであった。

 

「この呪いを解呪するのは簡単だ。ラインを断ち切ればいい。そうすれば、俺様の『右手』がここにいる全員を」

 

「そうなれば、あなたの『右手』が手に入れた『卵』は元の持ち主へと変えることになりますが」

 

 分が、悪い。

 準備して幸運にも恵まれて片割れとはいえ手に入れた『卵』を手離したくはない。

 そして、呪いのラインを断ち切ることは供給のラインも捨てることになり、なれば、使用回数に制限がある状態では<英国女王>までいる、何より今こそ正念場と集中力を高めているイギリスをひとりで相手するのは難しい。

 だが、しかし、

 

「お前の発言権で学園都市側が納得するとは思えんがな。現にあれはお前の命を破ってこちらに仕掛けてきたぞ」

 

 フィアンマの視線の向こうには、虫型ではない、人型の白兵がいた。操り人形にされている『兵器工場』の本体と繋がっているのであろう。

 

「この歪んだ世界のルールは、お前を受け入れてはくれん」

 

 選ばれた『学生代表』であっても、結局はマスコットでモルモットだ。

 そんな人間が何を言おうと学園都市の首脳陣が納得するはずがなく、どころかより首輪を強めようとするだろう。

 

「“持病で臥せっている”本体はとにかく、私は学園都市側の人間ではありません。今、この身体を維持しているのは<最大主教>であり、契約により身柄を預けているのはイギリスです」

 

「………」

 

 フィアンマは頷かない。

 上条詩歌と香椎が別人だと言う詭弁を認めたとしても、フィアンマをどうこうできる材料とはいえない。

 構わず、『赤信号』は羊皮紙を一枚取り出した。

 

「そして、今の私には、話し合いのテーブルに着かせるだけのカードがあります」

 

 それは、一見ただの紙にしか見えないが、息を呑む。それだけ劇的な変化を持つものだ。

 

「<C文書>、か……!」

 

 『左方のテッラ』が民衆を暴動へと扇動させた世界20億への命令権。

 フランスで破壊されたはずのそれが、甦ってその手元にある。

 

「女王エリザード様のご協力により、発信する場は整っています」

 

 イギリスは魔術の火薬庫ともよばれた大英博物館に世界中の霊装を収めただけでなく、世界中に散らばるかつての植民地を中心とした経済圏、ポンド圏――または“隣国”ともユーロトンネルという人の交通路に従い地脈と竜脈が接続されている。

 イギリスから全世界に魔術を流し込む下地はすでに整っていた。

 山や川の位置が運気を変える風水において、条件を切り替え『力の流れ』に手を加えるには、池を埋めたり山を切り崩したり、海を渡るトンネルを繋げたり、また“<聖人>の歩み”……そう、<禹歩>だ。

 

「このロンドンからローマ正教へ『ガウェイン』が“徒歩で”先日、大怪我をしたローマ教皇様に『学生代表』の名代としてご挨拶に伺っております。つい先程、無事に到着したと連絡がありました」

 

「なに?」

 

 その言葉に、フィアンマが眉を顰めたのだ。

 聖者だけでなく、神裂火織もまた。

 

「<神撲騎団>との一戦後にこちらで治療いたしましたが、<最大主教>の一計により彼はまた処刑塔に預けられていたはず―――」

 

 ドーヴァ海峡での戦闘後の行方について、フィアンマはある程度の情報を集めていた。

 当時、また自爆術式の中途発動により、身体機能を著しく削った<人造聖人>は、天草式十字凄教の女教皇に預けられて治療されたようだが、戦闘に参加するには難しく、<最大主教>の命により極秘裏にクーデターが起こる前に処刑塔に移されたと。

 しかし、そこで部下の問い詰める視線からそっぽをむいて、ぴゅーぴゅーと下手な口笛を吹いている件の提案者は、

 

「さあ、だーれがそのような偽情報(デマ)を流したりたるというの?」

 

 しれっと、応えてくれた。

 そう来られると、部下たちもしばらく目を丸くした後に、女教皇はやるせなく両肩を落とすしかなかった。

 

「いや実は言ふとわたしも教えたくて教えたくて仕方がなしなのだけれど、いざという時にこのイギリス清教のトップを助けに来てくれる腹心という話相手がいなかったのでな」

 

「謝罪しますが、クーデターが起きる前に教える機会がいくらでもあったでしょう」

 

「そこはほれ敵を騙すのなら味方からという必要な処置なりけるよ」

 

 そして、騎士に埋め込まれていた発信機であっても、『眠り姫』となっていた香椎が請け負うことで位置を掴ませなかった。

 何者かの手引きで脱走したと思われていた『太陽』の、改め『聖母』の騎士。

 実は、昨朝のうちから怪我の回復次第で出立させていたとはいえ、イギリスからイタリアまで歩きで行かせるには時間がかかるだろう。だが、古参の実力者で<人造聖人>たる彼には一日掛ければ可能な話であった。

 また、事前に根回しされた協力者もいる。

 

 あの時、『やはり、『右方のフィアンマ』がイギリスにいた』と、賢妹は言った。

 

 イギリスにいる、つまり、ローマバチカンにはいない。

 こちらが賢妹がいない間に学園都市でイメージを集積して『灰の魔女』を造り上げたように、『右方のフィアンマ』がローマにいない留守を狙っていたのはこちらもであった。

 『右方のフィアンマ』とローマ教皇が決裂したという情報はその手の界隈には広く伝わっており、上条詩歌も耳にしていた。また、傭兵として雇った『後方のアックア』は<神の右席>で唯一ローマ教皇とも親交があり、詳細な情報だけでなく伝手もあった。

 ポンド圏だけでなく、イギリスからイタリアまで直接にラインが結ばれている。

 

「また、本体――上条詩歌が学園都市ともラインを結びました」

 

 フィアンマだけでなく、白兵にも視線を向けた。

 

「命令の効力は弱くなりましたが、フランスから回収したそれを復元する際に、『ローマ正教徒のみ』という制限も外してあります」

 

 かつて、<アドリア海の女王>で限定されていたその照準を『前方のヴェント』が発案した<刻限のロザリオ>で解除しようという試みがローマ正教にあった。阻止こそされたが、<聖霊十式>であろうと制限解除ができるという可能性を示してくれた。

 

「<C文書>を素材にした第零位の命令権<0文書>はたった一度しか使えませんが―――つまるところ、ローマ正教と学園都市、どちらの民衆を誘導することができます」

 

 この効果は絶大だ。

 戦争は切り札だけでは、勝つことはできない。

 その文言次第で、互いの戦力を弱体化させ、ローマ正教も学園都市も、ともに動きが取れなくなるほどに。

 

「……何の、つもりだ」

 

 余裕を消して、フィアンマが尋ねた。

 

「本体は、科学にも魔術にも世界には敵わない。この世界の流れを止められない、と考えていました」

 

 素直に、香椎が答える。

 

 

「でも、手段を問わなければ、この二つのどちらに勝ちが流れるか、戦争の有利不利を操作することはできる、とも」

 

 

「……っ!」

 

 誰しもに、動揺の波が渡った。

 『赤信号』の意味を、全員が悟ったのだ。

 

『まさか……』

 

 白兵を伝って話を聴いていた<木原>は、外道たる知識はないがそれが何であるかは悟っている。<C文書>はフランスアビニョン攻略の際にも実物こそ手に入らなかったが話題には上がったからだ。

 門外漢たる科学者はそれで口を出すことはしなかったが、フィアンマが口を開く。

 

「<0文書>を材料に……ローマ正教と、学園都市の両方に交渉を仕掛けるつもりか」

 

「はい」

 

 はっきりと、賢妹の代弁者は頷いた。

 ある意味で、能力よりも魔術よりも恐ろしい言葉だった。

 この場に居合わせるもの達を、全員まとめて凍りつかせる呪文だった。

 

「私の話を聞いてもらえるでしょうか」

 

「………」

 

 フィアンマは、息をとめた。

 賢妹は、交渉という概念を知悉していた。

 相場が常に変動し続ける戦場に置いて、自分の側から値打ちを決定させるそのやり方を、すでに身につけている。

 才能、か。

 そうなのだろう。

 元より人を自然と引き付ける上条詩歌は、正攻法だけでなく裏技のような、意外な機転を働かせることも得意だった。

 誰もが窮するこの時に、無数の針の穴に通すかのような解決策を示し、何度も周囲を驚かせていた。

 ねじれにねじれている命題に対して、全く別の角度の答えを出せる、発想の柔らかさ。

 しかし、今は―――守ることだけに使ってきたその機知を攻撃的に扱う。

 攻撃と守備と、どちらが効果的かは言うまでもあるまい。

 難度の高い詰将棋をクリアするのではなく、ゲーム盤そのものを外から推し量り、自分の手で作り上げる。

 

「どうですか」

 

 再び、代弁者が問う。

 

「………」

 

「………」

 

 聖者も、白兵も、誰も答えなかった。

 沈黙が答えと言えた。

 このテーブルにつかないと何も進まないと、ローマ正教も学園都市も認めたのだった。あるいは、先のフィアンマのような呪いによって封じようにも、アレは一度限りで、もうない。そして、<0文書>はその背後にいる<最大主教>の手に渡るだろう。

 それは、ダメだ。

 代わりに、少し前に意識の覚めた修道女が口を開いた。

 

「これが、最初からしいかの狙いだったの?」

 

「最初から、ではないですね」

 

 賢妹の代弁者が、面影を浮かばせる苦笑をする。

 

「<C文書>もアビニョンでのことがなかったら知りませんでしたし、制限解除もキオッジアでの<刻限のロザリオ>の話を聴いてなければ思いつかなかった。<0文書>の交渉は本体にとってギリギリです」

 

 もちろんこれで戦争が終結できるなんて自惚れてはいないが、突破口にはなりえるとは考えていた。

 

「もっとずっとうまくいけばいいと思いながら、何度も何度も何度も必死で修正してきた結果。狙いとか計画なんて言葉は絶対に使えないくらい、無理、無茶、無鉄砲の兄が得意のいきあたりばったりな、でたとこまかせの積み重ね」

 

 そもそも、今日の騒乱で本体の上条詩歌がリタイヤするとは想定外だ。あの<亡者の灰>を用意していたほどこちらを過剰に評価していたと、考えてはなかった。

 もしも、これで誰かが殺されていたら……そう思うだけでゾッとしたし、本体の暴走には肝を冷やした。愚兄に助けてもらえなかったら全てが終わっていたのかもしれない。

 綱渡りを歩んでいることは、今も変わりなく、まだ先は遠い。

 

「どうして、どこまでするの?」

 

 改めて、インデックスが問う。

 彼女が、上条詩歌ではない事は一目でわかったが、それでもその言葉は彼女の本心が宿っていると思えた。

 

「もちろん。またみんなでいつも通りの毎日を過ごしたいからです」

 

「………」

 

 いびつで、不完全で、どうしようもなく勝手な願いであると自覚しながらも真正面から逃げずに受け入れる。身勝手な願望に一歩でも近づくために、代弁者は、言葉を継ぐ。

 

「ですが、それで相手を倒しても……きっと、長くは続かないでしょう。誰であろうと深く決定的に世界と繋がっている。何かがあれば、また誰かが引っ張られて、連鎖が続けばあっという間に築いたものが壊れてしまう」

 

 当然だ。

 たとえこうしてイギリスに出張していなかったとしても、結局この現実から逃れられはしない。

 同じ世界に生きて、同じ世界で戦っている以上、誰も無関係ではいられない。それが世界を巻き込むのならばなおさら。

 あらゆる縁が因果となってしまう。

 だから、考えた。

 どうすれば、この戦いは終わる。何をすれば止まる。

 裏で糸を引いている『右方のフィアンマ』を倒せばいいのか

 学園都市の上層部から主導権を奪えばいいのか。

 それとも、愚兄の言うのに、こちらの邪魔をして勝手をするような人間を片端からひとりひとりぶん殴ればいいのか。

 

「どうして、戦争が起きるのか? ひどく子供っぽくて、原始的な問いですが、第三者の視点で調べてみたところ、この戦争で得をするような勢力はほとんどいません」

 

 代弁者は、顔を上げ、きっぱりと言った。

 成人していない少女の言葉を。

 

 

「私が、答えを決める。こんなくだらない戦いの終わりを、私達が決めて終わらせる」

 

 

 その言葉が、広場に響き渡った。

 はたして、その意味は伝わった。

 

「学園都市とローマ正教に、決闘をさせます。互いにメリットはあるでしょうし、どちらも戦争には興味がないでしょう。必ずしも死者を出す必要はない。特に何の関係のない一般人は集結してもイメージが悪くなります。ならば、試合決闘という型にはめて、損害を最小限にすませるのは、どちらにとっても有益であるはずです」

 

 間違ってはいないが、凄まじい暴論を代弁し、なおも、『赤信号』はさらに先を提示する。

 

「そして、科学サイドと同盟を結んでいますが、実質は魔術サイドのイギリスに審判をお願いします。両者に理解のある裁定が下されるでしょう」

 

「うむ。我々も此度の戦争には胸を痛めておってな。本当に神の教えの正しさを求めるなら、戦を起こすことそのものが間違っている。だから、一枚噛ませてもらった」

 

「審判者ということで学園都市サイドから離れることになりますが、その件については親船最中を筆頭とする理事会の過半数から賛同、及び、直接ではないですが交渉人を介して第零位の交渉権で理事長にも話しは通してあります。ローマ教皇にも『ガウェイン』が、ロシア成教にも『アックア』がその旨は伝えに行っています。なお、ロシア成教には土地の提供協力もお願いしてあります」

 

 フィアンマに、不満の声は出なかった。

 イギリスには稀代の女傑エリザードと、この『赤信号』の命令権を握っている『公平な天秤』たる異端裁定の主教のローラ=スチュアートがいる。けして学園都市の味方ではない天秤ならば審判者としてこの上ない。

 現に彼女は学園都市の若い代表である上条詩歌であろうと天秤が傾けば討ちにいった。

 今考えればそれもこのためのポーズであるかもしれないが、イギリスとしても学園都市が戦争の勝者となっても、利益はない。そして、ローマ正教にしても同じ。だから、英国騒乱のクーデターが起きたのだろう。

 だから、仲介役としての第三者で中立の審判というのは都合がいい。

 ある程度の結果を左右でき、今後付き合うのに好条件を出してくるような相手を味方に選べる。また両者の勢力をほどよく削らせてしまうのにも最適だ。下手を打てば両勢力からにらまれることになるだろうが直接戦闘に関わらず、利益が取れる。

 そうそれは、ローマ正教側にも引き込める余地ができたと言うことでもある。

 

「また、結果が何であろうと試合決闘後には矛を収めることを条件にここで了承するなら、契約を成して7日後に<0文書>の破棄、勝者にはこの契約の箱の『鍵』である<幻想擬体>の支配権を渡しましょう」

 

 

 

(―――悪くはない)

 

 フィアンマは、思う。

 『前方のヴェント』の敗因であった学園都市という魔術の敵地による不利な補正はなく、ロシアはいかにローマ正教と学園都市を除く第三者勢力に根回ししていようとこちらの手の内だ。こちらの計画には問題ない。

 一定のルールが敷かれようが、魔術大国のイギリスが取り仕切るのなら、それは魔術寄りに傾いていることは想定できた。

 

 

(―――学園都市(こちら)にも意味がありますねぇ)

 

 <木原>は、思う。

 同盟を切ったとしてもイギリスはこちら側であったと言うには変わりなく、別に不破があって別れたわけではない。何より、今回の一件でイギリスのローマ正教に対する印象は最悪であろう。

 ここで断ったとして、これまでのようにこちらが後手に回るゲリラ戦を繰り広げていけば、いつ終わるかも分からない長期戦で組織が持続的に消耗をし続けることになる。学園都市としては問題ないが、学園都市を抱えている日本としては、ローマ正教の働きかけで輸出入がストップし、自給率だけに頼らなければならない状況下となればこちらに下手な干渉を強いてくるだろう。また、この前の創立記念日での下剋上のようにまた面倒なことになる可能性も考えなければならない。

 いくら学園都市が科学という世界の半分を支配する巨大な権力に人材と資材を持っていても、これらの状態が続いた場合、もしも保護者から学生返却運動が戦時下で起きたとすれば、組織の体裁と運営に何の影響を及ぼさずにいられるかは怪しかった。アキレスの踵になる可能性は否定できない。

 ゲリラ戦が排除できる早期決戦で首謀者たる『右方のフィアンマ』の所在が分かれば、不信感を払拭させるだけの大義名分は得られ易い。

 また、これで不利益を被った場合でも、最近幅を利かせている上層部関係を一新できる良い口実ともなりえる。

 

『わかりました。では、『学生代表』の身柄は、もちろん私達に預けていただけますよねぇ』

 

「本体上条詩歌は先見ての通り大変不安定な状態です。7日はこの箱の中から出ることは叶いません。ですが、この中にいる限り、科学にも魔術にも不干渉であり、その身柄の安全は保証しましょう」

 

『それが確かであることの保証は?』

 

「こちらに嘘をつく理由はございません。上条詩歌の“持病”についてはそちらにいる専門医のご意見を窺えばよろしいでしょう」

 

 そして、

 

「まあ、もしも鍵たる<幻想擬体(わたし)>が消えれば、箱の中身は二度と手に入ることはできませんが」

 

『それは困るわねぇ。……でも、学園都市としては手元に置いておきたいのだけど。最低でも親衛隊の子を張り付けさせておきたいわね』

 

「でしたら―――“彼”を、守人につかせましょう」

 

 “彼”、という言葉に白兵は、その家族である<幻想殺し>、今も気絶している少年へ視線を向けたが、違った。

 

 

 ピシィ!! と。

 薄氷に亀裂が走る音が炸裂する。

 

 

 その正体は、突然罅が生じた白兵の両手足。

 情報送受信する感覚部だけを残して他機能が潰される。

 

(な、に……? これは、外部からの、干渉……? 五感以外を封じていく、被害が“分かりやすい”やり方は、『警告』。私から、『兵器工場』のコントロールを奪える強い牽引力を持つのは……)

 

 該当するのはやはり、

 

「よぉ、久しぶりだな」

 

 ぎぎぎ、と“動かされた”頭が向いた先に、洒落たスーツを着た“彼”はいた。

 

「相変わらず、テメェは超能力者(Level5)を舐めた真似してる。ああ、一度死んだくらいじゃあ、『諦め』させることを本分とするテメェが『諦め』るとは思ってなかったがな。だが、今回は『諦め』ておけ」

 

 学園都市の第二位。

 <未元物質(ダークマター)>の垣根帝督が、『兵器工場』の前に現れた。

 

「お待ちしておりました、帝督ん。ナイスタイミングです」

 

「ったく……変わらず非常識なヤツだ。冗談には付き合ってやられねーが、生憎、『上条詩歌の護衛』が仕事だ。面倒だが、付き合ってやる」

 

「ええ、どうも、本当に助かります。私に本体を守れるほどの力も権利もありませんので」

 

「貸し一だ」

 

 <約櫃>の守人が、一個人で一軍に匹敵するLevel5の第二位であるのなら、学園都市の基準として最上級の護りだ。力と頭脳を持ち合わせている第二位ならば、認めざるを得ない。

 

『あら……そうですか。第二位が護衛につくというのなら無理にとは言いません。そちらは諦めましょう』

 

 『鍵』を手に入れられても、本体を封じた箱を渡さなければいい。味方ではないが目的は一致しているだろう。それにここで無理に“回収”しようとすれば、『右方のフィアンマ』が動いていただろう。

 それに、こうして第二位まで派遣させていたことを考えれば、『学生代表』が本当に眠っていることが確かめられただけで十分な成果だ。

 そして、戦いの舞台は戻る。

 

「………」

「………」

『………』

 

 三者三様に長い沈黙。

 長くて、重い空白。垣根帝督という闖入者が起こした波紋が治まる頃に、また彼女が発言する。

 

『勝利条件などの各種設定は?』

 

 首も動かせない状況だが調子は変わることなく、こちらも変わらず機械的に、

 

「混乱が落ち着くまでひとまず置いて、時間は四日後、場所はエリザリーナ独立国同盟にて会議及び開催を設けさせてもらっています。各種条件は、その間に双方の勢力に折衝するつもりです」

 

 すこし、考えたあと、

 

「そうだな。契約が守られると言うのなら、今はとりあえず、半分を回収した所で満足しておくとしようか。面白いものも見れたしな」

 

 その提案を受け入れよう、と聖者は頷く。

 

『いいでしょう。我々もイギリスに預けて、この場を退くことに了承しました』

 

 それを最後に白兵の人形は風化して砂塵と散った。

 フィアンマも一瞬の閃光のあとに、その姿を跳ばした。

 

 

 この零文書協定の承認により、英国欧州から世界までを戦場としかねない科学と魔術の最大勢力同士の衝突が免れた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 この会議の後、ローマ教皇と親方理事長らが正式に会談し、学園都市とローマ正教が、イギリスおよびフランスなど第三者機関連合の仲介を果たしたと、その情報は瞬く間に業界全体へ知れ渡った。

 無論、喧伝したのは第三者機関連合だ。

 戦争を起こすことに得をしない彼らは約束を反故にされないために先手を打ったのである。

 科学と魔術、どちらの世界にしろ、ここまであからさまにしてしまえば露骨に裏切る真似は難しくなる。結果として、多くの組織が浮足立ち、上を下への大騒ぎとなっているわけだが、このあたりを整理するのは歴史家の役割である。

 ともあれ。

 

「ふむ……」

 

 一通りの準備や業務上の処理を終えたあと、香椎はロンドンのさる路地裏を歩いていた。上条詩歌がよくこの道で散歩していたことを“情報として”知っている場所だ。もし、上条詩歌を捜そうとすれば,知人の候補地に挙げられるくらいだろう。

 だから、そこに彼女が待ち構えていると言うことは、誰かに教えてもらったと言うことで、またその誰かは煙草を吹かしながら近くで待機していることと、彼女の自分に対する用事は明日の天気よりも軽く予想がついた。

 

「しい……かしいは、行っちゃうの?」

 

 女王はイギリスの復興と守護で離れるわけにはいかず、主教も外交と工作で出ないだろう。

 だから、現地に行くのは決まっていた。

 

「エリザリーナ独立国に重要人物を保護したとの情報が入りました。それに開催まで日が無く、審判役(ルーラー)として早急に現地に赴く必要があります」

 

 自分は“上条詩歌じゃない”。

 受け継いでいるのは、<幻想投影>の一部と知識、それからある種本能にも似た人格のプログラムだけだ。

 

「私は、上条詩歌だけの情報を媒体として造られた存在です。実体はありますがこの身体は、風斬氷華に近しいものです」

 

 分かり易く例を出して、修道女に説く。

 『給食を知っているが食べるのは初めてであった』、と語ってくれたインデックスの友人と同じで、学生達の残滓を己の経験と思い込んでいるように、彼女は上条詩歌ひとりの残滓を己の経験として取得している。過程はなく結果だけをもっているに過ぎないと。

 

「だから、インデックス。上条当麻の記憶の件で、私に謝る必要はありません」

 

「え……?」

 

「もしそれでも気にすると言うなら、コスプレメイド服でご奉仕してほしいです。土御門舞夏に指導してもらって、本格的に是非!」

 

「ええ……っ!?」

 

 ―――このノリ、この微笑は……

 

「―――と、本体は言うでしょうが。まあ、何にしても私に謝られても意味がありませんし、本体もそうして気に病まれる方が困るでしょう。前向きにやってくれるのが一番。落ち込んでいたって仕方ないです」

 

 ……おい、とツッコミたくなる。

 性格は変わってないのかコイツ。

 いつもの冗談でもボケでもないな。いや、調子はいつも通りボケてるんだが。

 詩歌――香椎のこんな様子を見せられたら認めないわけにはいかない。

 

「じゃあ……」

 

「<禁書目録>が『右方のフィアンマ』に狙われていると言うことに変わりはありません。だから、ロシアまで付いていくと言うのもやめてください。わざわざ生まれ故郷を離れる必要はありません」

 

 そこで決心したようにインデックスが顔を上げるも、その先は言わせなかった。

 微笑が消え、感情がなくなる―――香椎本来の有り様(デフォルト)に戻った。

 

「でも、わたしは……!」

 

「本体自身の身を賞品としてちらつかせてまでこの状況を整えたのです。それであなたが余計に危険な目に遭おうとするのは馬鹿らしいじゃないですか。本体はあなたに戦ってほしいからそれを創ったのではありません。己の本分もわかっていない、足手纏いはいりません。本体ならとにかく、私は誰かを守る余裕はありませんから。―――それでも、その身を危険にさらそうと言うなら、私はあなたを許さない」

 

 単調に述べられる重々しい言葉は、自身の胸中にも刻みつけているようで、その声には何者も迂闊には触れがたい、強い拒絶が満ちていた。

 

「っっっ……~~~! しいかのばかっ!」

 

 香椎はインデックスを置いてけぼりにして歩を進める。

 

「……………だから、私は上条詩歌ではありません」

 

 その様子は背に追い縋る声にどこか後ろ髪引かれているようにも見えたのはこちらの勝手な思い込みかもしれないが、実際は妹がここをよく通っていた情報通りにロンドンの路地裏を歩み去ったのであった。

 

 ……本当に『上条詩歌』ではない。

 情報だけをもった彼女は、意思を持ったかのように行動するが、心はない。情報によって形成された人格や感情は、紛い物か。

 

 ――――。

 

 その事実をようやく受け入れ、思考が完全に停止する。

 それでももし、香椎が『上条詩歌』と変わっていないのだとすれば。

 大きなトラブルがあっても落ち着いている―――――はずがない。

 ようやく気づく。

 今までいっぱいいっぱいだったから気付かなかったが、思いっきり不安に違いない。

 風斬氷華もそうだった。上条当麻もだ。

 目が覚めたときから記憶が借りものの情報だけに過ぎないと理解し、自分が偽者であるとわかっていながら物事の中心にいる。

 それで不安にならない人間はいない。そして、『上条詩歌』は人一倍敏感で、繊細だ。

 今も頭の中では色々なことを推理しているだろう。

 性格が変わっていなくても、いつも通り過ぎるのは逆に不自然だ。

 『上条詩歌』がそのままならば、賢いけれど愚かなほどに優しい。ならば、余計な心配をさせぬように振る舞うのではないのか?

 そして、その不安を無理に押し隠そうとしていると、絶対にいつか―――破綻する。

 自分でも何をすればいいかわからない。

 それでも言えることはただひとつ。

 たとえ何があろうと、上条当麻は上条詩歌の味方だということ。

 

「詩歌なら、あそこでインデックスを泣かすような真似はしなかったはずだ」

 

「そうですか。本体は凄い人なんですね。ええ、尊敬しちゃいます」

 

 路地裏を抜けたところで、上条当麻が香椎に声をかけた。

 彼女の後を付けていたこともインデックスとの事を覗いていたこともバレていたのか、大して驚いておらず、振り向きもせずに返された。

 

「自画自賛、とは違うな。敏いお前ならもうわかってるだろうけど、詩歌とは別人だ。当麻さんから見ても性格は変わってねーけど、やっぱり違う。詩歌とお前は違うんだよな」

 

「そうやって分かった風に言われるのは癪ですが、まあ、流石は兄というところなのでしょう。それにはっきり、違う、と言ってくれるのも」

 

「それが、本当のことだろ。詩歌だけど、詩歌じゃない。新しい詩歌だ」

 

「……うん?」

 

「俺は、今のお前を否定しない。今のままを受け入れる」

 

 香椎が振り向けば、そこに愚兄は立ち止まってこちらを見ていた。真っ直ぐに。

 

「……私の頭にあるのはあなたとの思い出ではない。情報です」

 

 では、とまた同じようにその場を離れ―――

 

「待ってくれ」

 

 その声が、呼び止める。

 今、ここでひとりで行かせてしまってはいけない気がした。

 確信はないが、そんな予感で胸がいっぱいになっていて―――

 

「思い出はこれからつくれる。それにわかったこともある。初めて会ったばかりかもしれねーけど―――俺は、香椎の味方をしてやれる」

 

「私達ってある意味今日会ったばかりなんですよ?」

 

「会ったばかりの相手の味方になっちゃいけない理由でもあんのか?」

 

「私は……」

 

「香椎に俺を信用してくれというつもりはない。できれば、俺のことを知ってほしいが、でも、もう俺は決めた」

 

「あなたもインデックスと同じで狙われていることを自覚してください」

 

「それはお前も一緒だ」

 

「本体を放っておいていいんですか」

 

「野郎なのが気にいらねーが、俺の身代わりも用意してくれた頼れる第二位がついてるから問題はねーだろ。それにお前も詩歌だからな。当麻さん裁判では合法ラインだ」

 

「インデックスはどうするんです? あなたは彼女の管理人でしょう」

 

「そのインデックスからもさっき頼まれたんだ」

 

 『とうま、お願い……』と心なく拒絶されたにもかかわらず、彼女はそう言った。

 これまで、<禁書目録>として魔術の関わる事件の際には真っ先に愚兄に関わるなと忠告してきた修道女が。

 『君の相手をしてられるほど僕達は暇じゃあないんでね、君みたいなトラブルメーカーはとっととイギリスから離れていってもらえると非常に助かる』とその後ろで煙草を噛み潰すように咥えていた不良神父に、しっしっ、と厭味ったらしく蠅でも追い払うように手を振られた。

 イギリスに属しているわけでもなく、かといって学園都市のために動くわけでも、帰るつもりもない。右手のせいで、賢妹を眠らせている<約櫃>に迂闊に近づくわけにもいかない。

 だから、フリーで、思うがままに動くことにした。

 上条詩歌の計画を知っていたのは、香椎だけではない。

 

「あなた、無理してませんか?」

 

「まあな。本音を言うと無理してるぞ」

 

「正直ですね……」

 

 2Pカラーのように色違いで妹と同じ顔を相手にするのはこれが最初ではないが、香椎に『あなた』と呼ばれると、胸が絞められるものがある。

 口にしてしまえば小さな差異でも、当たり前だと思うものがないのは、やはりキツい。

 香椎を相手するのは『上条詩歌の面影』を求めているようで、それは蜃気楼が見せるまやかしと同じで近づいてしまうと、裏切られる。

 でも、それはこちらの勝手だ。

 上条詩歌と香椎が別物だと認識していながら―――それでも、同じように接してしまうからだ。

 

「わかってないんですか? 私は、あなたの妹ではありません。私といて最も傷つくのはあなたです」

 

 今も上条当麻は、この香椎の様相が、愚兄が初期化(零に)してしまった結果だと思い込んでしまっている。

 

「わかってる。それでも、さっきお前を受け入れるっつたんだ」

 

「絶対に、後悔します」

 

「それでも、約束する。お前をひとりにはしない。絶対に裏切らない。もしかすると、迷惑をかけるかもしれないが……何でも言ってくれ。できるかできないは俺が判断する」

 

 もしかしたら、これが『殺し』てしまった影響もあるかもしれないと言う贖罪だけではない。

 順番はこれで合っている。

 辛いのは、きっと、妹の方が先だった。

 記憶を失ってからも、上条当麻を信じて、いつも見守ってくれたのだから。

 だから、『心のない上条詩歌』を今度は自分が支える。

 そうでなければ、眠りから覚めても『殺し』てしまった賢妹に会えない。

 

「………じゃあ、勝手にしてください」

 

 それっきり、香椎はこちらと会話する気はなくなり、また歩き出した。

 ただ、その歩行ペースはこちらに合わせたように落ちついたものになった。

 愚兄には、それだけで譲歩には十分過ぎる。

 

「ああ、そうさせてもらう。フィアンマのクソ野郎に貸しの9割はまだ返してねーからな」

 

 

学園都市

 

 

 夕焼け小焼け。

 放課後、クラブに参加しているわけでもなく、居残り補修するわけでもないので、友達が用事でいなければ帰る。先月まではお兄ちゃん達がいる路地裏に寄り道しようかと考える。今はお姉ちゃん達のいる高級マンションに寄ろうかと考えてる。

 オレンジがかった住宅街の直路を、一人歩く。

 

「どーんな料理が出るのか、楽しみだにゃあ」

 

 群れを生きる動物的本能で察する一番リーダーなお姉ちゃんが、新しく取り付けた腕のテスト調整するので、『教材』としてお菓子を手作りするらしい。それを馳走になろうと実姉からメールが来たのだ。

 一人では初めてくるところだったけど、近くまで来ればパシリ――お兄ちゃんが迎えに来ているらしい。

 

「~~~♪」

 

 これまででは、実姉とは生活がずっと別だったから、賑やかな食卓がとてもうれしい。

 見上げれば、上空では風が強いのか黄色い雲が足早に東へ旅ゆく。アスファルトに落ちる長い影を、視線で追いかけるのが楽しい。とそこで、目の前の信号が赤になったのが見えて、足が止まった。

 

 ぞわりと寒気が背筋を走った。

 

 バッ! と振り返る。

 確かに誰もいなかったはずなのに、わざとらしいほど白いスーツを着た赤髪の男性とナース服の女の子が、道の脇に今はいた。

 

「こんばんは、<人的資源(アジテートハレーション)>。私は木原百太郎です。統括理事会薬味久子氏の推薦により、あなたを『学生代表』にスカウトしに来ました」

 

 

 

つづく


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