とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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久しぶりです。お待たせしました。

今回は長くなりすぎましたので、二話投稿に分けています。


英国騒乱編 探竜顎

英国騒乱編 探竜顎

 

 

 

ロンドン

 

 

 肺が丸ごと身体から引きずり出されたような、恐怖と喪失感が当麻を襲った。喉から迸ろうとする叫びと悲鳴を、最後の理性が止め、そんな暇があるなら早く足を動かせ。もう詩歌は眠っている。麻酔も溶けてるだろう。

 ―――動け!

 当麻は四つん這いになりそうな、力の入らない足腰を無理矢理踏ん張って、転がるように駆け、抱き上げた。

 当麻は、瞬きも忘れて目を見開いたまま、軽くなったような詩歌の体を起こし、右手で触れる。

 しかし、消えない。精神も肉体も焼くこの幻炎は、原罪にも似て拭い去る事はできない。

 

「あ……、あ……」

 

 当麻は間抜けのように、言葉にならない音を、ただ喉から漏らした。

 自分が泣いているのかどうかもわからなかった。

 ただ、妹がいなかった吸血鬼事件を、その意味をもっと裏まで考えるべきだったと後悔する。

 

「あーあ、ドジちゃった。もっと 吸血 鬼  私がいなか った 時の話を ちゃん と   聞いてれ  ば」

 

 恐怖が。

 底抜けの恐怖が、当麻を襲いかかる。

 最後の輝きのように、その身体はオーロラのような焔に包まれている。

 魔女の火刑は十分持てば幸運で、一分ごとに奇跡の価値は上がっていく。

 構わず、右手を伸ばす。腕は、燃えない。火傷しない。幻想の炎は人間を焼きはしない。だが、熱い。幻痛だが、その身を焼く痛みは本物で。右手では抑えられない。

 これは、生命の光。

 その手にずるりと、溶けた皮が丸ごとずれたような嫌な感触が伝わった。それも、見た目では何もない。まるで“無事であれ”と望んだ願いが幻覚を見せているように。

 いつまでも燃えない火葬を、見せられているような気分で。

 体中の血管が膨張する。パキンパキン……と何かが壊れていく音も、彼女の苦悶も彼岸の話。

 早く消えろ、と願った。

 これでは体は無傷でも、焼かれ続けては、痛みで心が死んでしまう。

 端的に言って、二度と味わいたくない光景だった。

 当然のように腕に、受け止める体に火を押し当てられたような熱が激痛だけを味あわせるも、たとえ無駄でも、触れ続けていないと、離れたらこのまま溶けてなくなってしまうようで、当麻は奥歯が鳴って止まらなかった。

 当麻の大切なものが、炎上しながら崩れ落ちる。

 

 これが燃え尽きたとき、彼女は……

 

 精神の安全装置が、断りもなく作動。

 意識がブツリと途絶しかけそうになった。

 自明の理だ。

 だってこんなモノ、何を引き替えにしても、受け入れたくない。

 それでも、生き続けろと。

 

「眠 く、なってきた」

 

「寝るな!」

 

 ここで眠りについたらもう目覚めないかもしれないという恐怖に冒され喚く当麻の前で、詩歌は情けないと言いたげに重い瞼をあげる。それから脱力した体を預けたまま、胸の中で囁くように、

 

「わがまま だなぁ」

 

 ノイズが入っているが、どうやら意識は取り戻せたようだ。ここで縛り上げているのはどちらも魔術世界では最高峰の長――しかも、『異能の天敵』である<幻想殺し>に解呪されてしまわないよう、『継続的に送り込む』と特別に設計されている。支配権を奪おうとする呪いと呪いが引っ張り合って、その結果に生じた隙間に意識を表出させた。

 

「いいだろ、たまにはお兄ちゃんがわがまま言ってもよ。これから、学園都市に帰るまで起きててくれ。アビニョンの時のジェット機はきついだろうが、あの先生だったら、詩歌のことちゃんと治せるはずだからさ」

 

 これまでも自分達兄妹の面倒を見てきてくれたあのカエル顔の医者ならば、きっと―――だが、首を横に振られかすれ声で否定される。

 

「そう  いって も  ダメ  かな。 どうやら 暴れてる  みたい だいたい病院まで間に合わない」

 

 当麻は涙交じりに、独り言のように。

 しゃくりあげながら、ただ感情のままに言葉を吐く。

 

「お願いだから、生きてくれ。何でも、する。何でもやってやる。手が足りないなら俺が貸してやる。血とか臓器が足りないなら全身をくれてやる。苦痛が辛いなら全部肩代わりしてやる。だから……教えてくれ、詩歌を救うにはどうすればいいんだ」

 

 そんな愚兄に―――詩歌は、そっか、とはにかんで。

 そして―――腕を上げて、そっと、当麻の頬に触れる。

 

「この前の 宝くじ  あれ 実は 大当たりだった んですよ」

 

 学則で賭けごとは禁じられてるから返金してない、それでも記念に財布に取っておいた。

 それは何故か。

 

「私は  神頼みは 好きじゃない」

 

 愚兄の涙を。

 その滅多に見せることのない感情の発露を、まぼろしの炎に(うち)が燃やされていくその指で拭いとりながら。

 

「だから  頼むなら  お兄ちゃんに  頼みます」

 

 上条詩歌は、言った。

 

「……頼みたい事って、なんだ」

 

「そう ですねぇ……」

 

 ありとあらゆる状況を想定し、どんな事態にも対応できるように気を配っていたと言っていたくせに賢妹は首を傾げて、今から考えます、みたいなポーズをとっている。

 そして、いつものからかう時の悪戯っ気な笑みを浮かべて、その言葉を告げた。

 

「何があっても  健全な毎日を 送れるよう  心がけて ください」

 

「なんだよそれ……普通のことじゃねーか。もっと他に……なぁ? そんなことじゃなくて―――」

 

「これは頼みごとじゃなくて  お願い。  きっと いつもとは  変わっちゃうから」

 

 ―――言うな。

 と、その先の言葉を聞きたくなくて、封じたかったが……当麻はできなかった。

 

「これから先  “わたし”  はいなく なっちゃうけど ちゃんと 考えてあ ります だから これまで通り  そして今日 生きた  ように  幸せに なれるように  元気に  過ごして ください」

 

「………」

 

 当たり前の普通を言った意味。

 そんなのは痛いくらいに分かってしまう。

 

「しばらく 学業 炊事 掃除 洗濯  いろいろ 大変  だと思うけど それは 大丈夫 でしょう あと 不幸でも  ひとり  じゃないから 駄目だったら  人に 頼ること  悲しくても   思い出したら  笑ってくれる方が  嬉しい  わたしが大好きな  お兄ちゃんは  そうやって 前を向いて  真っ直ぐに 生きてくれる人です」

 

 わたしは―――もう、十分だよ。

 

 喜ぶように。

 怒るように。

 哀しむように。

 楽しむように。

 はにかむ。

 

「だから  こんな自分勝手で 自己中心的で 死ななければ 治らないほど 愚かな 妹のために  復讐は、しないで。もう 疫病神、なんかじゃ  ないんだから  なっちゃ、駄目。―――『火種』も残しちゃ駄目」

 

 夢の中のような眼差しで、詩歌は寝言のように素直に、今まで具体的に口にするのを避けていたその頼みごとを紡ぐ。

 

 

「―――幻想(わたし)を、殺して」

 

 

 頷けない。

 心と体を繋ぐ線はショートして焼き切れた。

 これは守れない、破る前段階で、受け付けられない。

 

「世界設定  を 初期化 する  しかない」

 

 この手で、殺せ?

 できない……できるわけがなかった!!

 

「それは わたしも  零に 戻る かもしれない けど…… 世界が 壊れる前に  わたしは 眠っていた方がいい」

 

 その言葉に、熱さを忘れた。

 

「それ……本気で言っているのかっ?」

 

「怒っちゃ  いま した?」

 

「当たり前だろ! 馬鹿なこと言うな! このくらいの、このくらいの……っ、俺の妹ならこんな不幸で、弱気になるなっ! ここまで頑張ってきたんだ! だったら、詩歌には、幸せになる権利はあったろうが! それより戦争なんて無視すればよかった! 『火種』だって? ふざけるなっ! 詩歌のせいじゃねーだろ! それなのに、壊れて壊れて壊れて、最後には、こんな道半ばで倒れちまって―――お前は一体何やってんだよ! 馬鹿じゃないか!?」

 

 愚兄は訴えるが、小さく首を振られ、否定される。

 

「まったく、そのとおり  でも 呪いでは  ダメ  このまま  だと、“死ぬこともできない”  イギリスが 消えます。私も  もう、動けない   上条詩歌には 手がない」

 

 静かに少女は笑う。

 自らを嘲るように。

 でも、それは同時に理解してしまっているようで。

 

「だから、どうした! 言ったよな! 全力で生きるって。だったら、どうして周りを巻きこむとか馬鹿なことを気にしてんだよ! 世界がどうたらなんて人間が考えることじゃねぇ! 神様とやらに任せるもんだろう! それにこんな、満足に生きられない世界なんて―――」

 

「この世界があっ たから  出会えたんだよ。  でも  この世界が   なくなると その  証まで   消えちゃう。   私達 が兄妹で   あっ たとい   う証を、殺しちゃだめだよ。……  それに わたしは 神頼みって言葉  あまり、好きじゃない って、言ったよね」

 

 ああ。

 それは。

 俺の台詞だ。

 

「っ……そうか。俺は好きだぞ。困った時の神頼み。たとえ気休めでも、望みが持てるっつうのは前向きだろ?」

 

「妹の尻拭いは  兄の務め。もし、わたしが 道を 踏み外そうとしたら  正す、と言ってたよね  なら、その誓いに従って  幻想(わたし)を (ころ)してください……それしか  救えない」

 

「ああ……ああっ! 確かに俺はそう言った……! 約束したが、だったらその妹を殺して正せとっつうのかっ? そんなの、聞けるはずがないっ!! 俺は。幸せにしたいんだ。兄妹だとか関係なく、世界を敵に回そうが、詩歌が世界を滅ぼそうが迷わずお前の手をとる」

 

「おにいちゃん……わたし 思うんだ」

 

「言うな……もう、何も言うなッ!」

 

 少女は、震える手を自らの胸にあてがう。

 その指先に残る力を掻き集めて、精一杯に紡ぎ出す。

 ふいに何もない彼女の手の中から透明な――外気に触れてすぐに虹色の焔が溢れだし、温かく照らし上げる。

 

「……ッ」

 

 当麻が息を呑む中で、髪留めのリボンを解いて、輝きをそこに染み込ませるように籠めて、血塗れの左手に巻いていく。

 

「詩歌……」

 

「大切な、もの ですから  破っちゃ め、です。  大事な  今のわたしが 出せる 全財産 」

 

 詩歌の声は更に増して、力なく萎れていた。

 無理もない。消えゆく彼女の精神を一時のことでも土壇場で引き戻した、最後の繋がりたるたずなを、今、彼女は自らの手で分離してしまった。

 それでも巻くのをやめない。まるで、耳を塞ぐことを阻むように、

 

「これが  最期の機会 です。  わたしは  あなたに 賭ける  いつも思ってます もし 最後の チャンス なら 他の誰でもない  おにいちゃんに  たとえ、これが失敗しても  いい」

 

 全てのピースは、ここに揃っている。

 しかし、もう少女に力はない。

 だから、誰かの手を借りるしかなく、少女は神よりも兄の手を頼る。

 

「わたしは  本当は 誰かが  願う 幻想  なんだよ。 そして ユメは  気づいたら 覚めちゃう もの だから きっと 人に 近づくと  消えちゃうんです。 …それでも  誰かの腕に抱かれて  手をとってもらえて このまま  眠って も  いいかなって  思えるくらいに。―――すごく、幸せ」

 

「違う……そんなの、絶対に違う! こんな幸せ認められるか! 詩歌は、けして幻想なんかじゃないっ!」

 

 巻き終わり、最後に

 

「     、     」

 

 ―――言って、詩歌が笑う。

 そして、再び目を閉じた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 詩歌の体が、弛緩する。急にその重みが増すのを感じると、当麻は反射的に笑ってしまう。

 

 ああ、これは死ぬな、と。

 彼女はもう、まともな方法じゃ絶対に助からないんだな、と。

 

 幸せにしてやりたかったのに。

 何をしてたんだ俺は。

 何をしにここにいるんだ。

 世界を巻き込まんとする大戦を止められると、賢妹は誇りを貫いた。当麻も負担を負えば、努力を尽くせば、希望はあると信じていた。

 だが、やはり上条当麻は上条当麻だったのか。

 

 ―――馬鹿……こんなのねーだろ。

 

 この衝撃に比べれば、今まで受けてきた痛苦も子供騙しだ。

 心を通わせた相手が自分の腕の中で眠ろうとしている……

 その苦しみは言葉で言い表せるものではない。

 これまでの出来事が大切であればある程、受ける傷は大きくなる。

 そして誰にも訴えることは許されない。

 半端に動いて、半端に救おうとしたから、事態を悪化させてしまったのだから。

 

 ……なんて事だろう。

 今になって、ようやく、ようやく思い知った。

 

 離別とは、離れてしまった本人よりも残されてしまった者の方が遥かに悲しい事を。

 そして、それは――――

 

 上条当麻が上条詩歌に味あわせてしまった痛みだ。

 

 静かに火が消えるように、感情が静かになっていくようだった。

 気が狂ってしまうくらいに。

 腹の底から何もかもぶち壊してやりたい激情が押し寄せた。そして、全速力で走って疲れ切ったように、波が引くように胸を切る悲しさに震える。

 賢妹との楽しかった思い出は、奇妙なくらいよみがえってこなかった。

 彼女の唇が、最後に紡いだ言葉が何だったのかさえもわからない。

 

「………、……ぁ……っが――――ぁ……」

 

 ただ、どうしようもなく腸が煮えくりかえっていた。なのに――手に巻かれたリボン――その激怒を叩きつける場所を求めることは許されず、嗚咽は噛み殺して腹の中に無理矢理戻し、血になって体を巡る。

 でも。

 お願いだから。

 一言だけ。

 吐かせてくれ。

 

「不幸、だ」

 

 俺は、一生この言葉を口にしない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「終わったか」

 

 魔女狩りが仕込んだ火に喰われて、暴火を消え、とりあえず小康状態に安定した。

 その身体は、生きている。ただし、ほとんど抜け殻だ。

 その心魂は、あと少しで燃え尽きるだろう。

 

「半端な真似をするから死んだ(そういうことになる)。呪いと呪いを喰い合わせて、折角の樹を燃やそうなど愚かしいにもほどがある。素直に俺様に捧げていれば、こうはならなかったものを」

 

 だが、まだ身体が、残り半分を入れた器があるなら取り出せる。

 『上条詩歌』の灰に頼るまでもなく、この『右手』で引き摺りだせる。

 しかし、それにはそこの体を抱いている<幻想殺し>が邪魔だ。

 『第三の腕』で飛ばしてもいいが、これは細かな調整は効かない、それでは抱えられている<幻想投影>の体まで巻き込んでしまう。

 これで肉体まで喪失してしまえば、楽園への門が閉じてしまうことと同義であり、残り半分が手に入れられなくなる。

 そして、ここでフィアンマが見逃せば、あの女狐――<最大主教>がその半分を奪うだろう。

 半端では、完全な創世はできない。

 

「さて、『神上』は一体誰にその最悪の呪いをかけられたんだろうな? <必要悪の教会>は異端狩りだ。殺してでも奪おうとするだろうな。何せ、そこの神裂火織(聖人)も斬れと命じられていたそうだぞ」

 

 と、フィアンマは言うが、反応がない。

 先程フィアンマにさえ立ち向かった少年は、今まで見せたことのない、虚ろな表情だった。

 当然ではあった。最善を尽くして、最善であろうとして、ひとつでもマシな未来を掴み取ろうとして、知恵も体力も絞り尽くして戦ったのに―――最後にやってしまったのだ。

 この少年も、死んでいる。そのこの少女と同じ抜け殻だ。

 

(ああ、そうだったのか)

 

 それでも聖者の言葉を空っぽの少年は聞いていた。たとえここで逃げたとしても、何もかもが奪われると理解する。

 もう、自分にはどうしようもないと。

 

 だが、現実は常に、自分の想像する一歩先の悪夢を体現する。

 

 今この次元結界は罅割れでいくつも出入りできるだけの隙間がある。

 また、ロンドン市民が立ち入れないものだとしても、他の人間ならば通過できる。

 

「さ、そこをどけ。完全な世界にするには、完全に『卵』を手に入れなければ―――」

 

 フィアンマが最後の譲歩した時だった。

 上条当麻は、動いていない。

 フィアンマも、動いていない。

 しかし、壊れかけている結んだ世界の向こうに広がる天空で、何かが瞬いた。

 白い光だった。

 純白で巨大な光の柱が、一直線にフィアンマへと降り注ぎ、その全身を覆い付くした。

 ジィィィワァァァァァァ!! と中華鍋の油が弾けるような凶音が耳にこびりつく。

 

「ああ、貴様らもいたのか」

 

 溶接のように莫大な光。その強襲の下で、フィアンマは涼しげだ。

 学園都市の光学兵器。

 公式発表では、人工衛星の数は四基とのことだったが、この分だと予想通り、宇宙の勢力分布図には大きなズレがある。

 あの<エンデュミオン>での一件でも懲りずに、巨大ステーションの周囲に小型の衛星に宇宙船を展開しているのだろう。

 

「しかし、それをこのロンドンで使ってくるとは、どうやら向こうも余裕がないらしい」

 

 頭上から一直前に落ちてきた純白の光は、フィアンマの肩口に食らいつくはずだった。

 しかし、それを肩口から生えて真上に掲げられた『第三の腕』が日傘となるように科学兵器の侵食を許さない。

 

「いや、これまで傍観していた貴様らが、このタイミングで撃ってきたということは、待っていたのか」

 

 フィアンマは軽く『右手』を振った。それだけ。

 なのに。

 ゴッ!!!!!! と、空気が揺さぶられた。

 光学兵器の光線が、指で消しゴムのカスを弾き飛ばすように簡単に空に返されて―――光の猛威は消え失せた。

 

「だが、半分とはいえ、『卵』を取り込んだ以上、俺様に制限はない。そして俺様の右腕は、必要に応じて、試練や困難のレベルに合わせて、最適な出力を行う。たかが光学兵器など百基あろうが、今の俺様の相手にならんよ」

 

 しかし、光学兵器だけで終わらなかった。

 “この戦争で正義を掲げられる”『旗印』を得て、『大悪』も姿を見せてくれた。

 

『<幻想投影>は“我々のものです”』

 

 歴史の教科書に載っている世界大戦の起きた理由は、一発の弾丸だ。

 それでひとりが死んだことで、大戦が一千万の人間が死んだ。

 圧力が臨界状態になった時、戦争はたった一発の銃弾で始まってしまい、一度始まってしまえば、恐ろしい数の人間が死ぬまで止まらない。

 そのとき、ある想像が、少年の心臓へ電流を走らせた。

 光学兵器を撃つだけの準備は終えていたのに、なら何故フィアンマが世界変革の一発を撃つ前に動かなかった理由を、少年は考えてしまった。

 ロンドンに来る前も、代表だろうと問答無用で強襲してきた人間が、わざわざこちらの待機命令を律儀に守るわけがない。

 本気で学生代表を助ける気があったのなら、クーデターだろうと関係なく部隊を向かわせていたはずだ。

 

(……“もしも”)

 

 ―――もしも。

 学園都市の人間も、ここに『右方のフィアンマ』が来ると予想していたならば?

 それと学生代表が対峙し、どちらに勝敗が傾こうと活動停止、もしくはこちらに抵抗できる力が尽きるほど追い込まれると見越していたならば?

 平常時の第零位に部隊を差し向けようと、『クローバー』と同じ返り討ちされるだろう。かといって、それが可能なだけの戦力を集めようとすれば情報操作が困難なほど派手になり、圧倒的な支持率を誇る姫様を害そうとするのならば反感を買う。

 それでこの戦争間近の時期に学生運動でも起きてしまえば運営の維持さえも難しくなるのが、学園都市の泣き所だ。

 だが、上条詩歌と『右方のフィアンマ』がぶつかれば、必ずどちらかが損耗する。

 ならば、学園都市側にとって、限られた戦力を効率的に集中する方法は?

 そして、捨て石にすれば。

 

『『右方のフィアンマ』に『卵』を盗られてしまいましたが、また造ればいいのですから素体が無事なら問題ありません。余計な唾をつけられる前に学園都市に回収させてもらいます』

 

 『フィアンマに上条詩歌が殺された』―――それを免罪符にできる。死んだ上条詩歌の身体が“どうなろう”とフィアンマに押し付けられる。救助という名目で回収できる。

 そう、むしろ、動かなくなってくれた方が都合がいい。それに、ここが学園都市ではなく、イギリスであることも都合がいい。どれほど暴れても学園都市は損耗せず、同盟国を名目に派遣できる。破滅させても全ての責を『右方のフィアンマ』に擦り付けられ、ローマ正教との戦争に勝利した後にイギリスを“復興(侵略)”すれば、世界は完全に科学のものとなる。

 だから、どちらかがやられるまで、待っていた。

 どこに助けを求めても救いがなく、どこまでも裏切られる。

 

『しかし、『右方のフィアンマ』に大したダメージも与えられずにやられてしまうとは、期待外れ。少しは弱らせてくれたら楽だったのに』

 

 白。白。白の大群。

 

 全長およそ5mのカマキリに似たフォルムで、二本の鎌と二本の腕を持ち、直立させた二本の脚の装甲を開き、そこから飛び出した半透明な羽根を超音波に震わして渦のような気流を生むことで、浮遊移動する。

 それが、どこに隠れていたのか、いや、いつのまにここまで英国に侵入していたのか。

 そしてそれらは躊躇うことなく迫る。

 滑らかな機械の思考。無駄のない的確な動作。悪意を洗練させた必殺。

 巨大な雲海のように呑み込んでいき、狡猾な蜘蛛のように獲物を取り囲んでいき、

 

 

 ッッッッッッッッッッッ!!!!!! と、音すら消えた。

 

 

 1分間に4000発を超える回転数で、光学兵器のような光線。あれは彼女と同じ超電磁砲。それが全機体、聖者に集中する。

 この白の軍勢はそれこそ数に限りがないのかもしれない。下手をすれば力が尽きるまで攻めかかってくる。

 白は襲撃者『FIVE‐Over.Equ DarkMatter』の装甲。形態は『FIVE-Over,.Gatling Railgun』

 即ち、これは計算上、『一体で一軍に匹敵する戦力』――Level5の第三位を上回る戦力で、それが軍隊となっている。

 桁が、違う。

 一線を、超えている。

 そこに容赦などない。共有分担させたから次元結界はまだ限界しているが、それが働いていなければ、ロンドンは壊滅している。

 

 それらを、一斉にかき消すように。

 

 噴火じみた閃光によって、瞬きの間に、数え切れぬほど群がっていた白は一欠片も残さず一掃されていた。

 

「小さい悪意だ。悪魔にも劣る雑魚が『神上』を捕えるなどと、触れるだけでも大罪だ。アレは俺様の花嫁(もの)だというのが分かっていなかったようだな」

 

 それは雪の火華を思わせる。

 散らばっていく白があまりにも多過ぎて、まるでロンドンが吹雪いているよう。

 それをたった一振りで成した。

 今更ながら、この男の出鱈目さを思い知らされる。

 唐突な科学の来襲にも、フィアンマはけして狼狽しなかった。

 フィアンマの唇は微かなカーブを描いている。少し考えるように、

 

「で、ここで戦争を始めるつもりか? 仮にも学生代表とやらに実力介入は禁じられたはずだが」

 

『今更でしょう。戦争を止めさせるなんてそれこそ諦めてもらいませんと。すでに、学生代表の後釜を準備してあります』

 

 そこにいるのは“フィアンマに殺されたことになる希少な素体”だ。死んだ亡者に何の権限もない。

 『第三の腕』が白の軍勢を払ったが、すぐにまた再構築される。

 今度はカマキリ型だけでない。

 人間の眼のような紋様が浮かんでいる四枚羽のアゲハチョウ。

 長槍のような砲台の角を持つカブトムシ。

 翅の微細動から超音波衝撃(ソニックブーム)を放つトンボ。

 凶悪な鋏と連動した口器を拡げるクワガタ。

 ……かろうじて共通するのは虫に関連することと色が白いことぐらいで、あまりに多種多様かつ夥しいまでの群れが、空を覆い尽くしていた。

 <木原>の悪意で覚醒してしまった怪物。

 人の原型すらも捨て去ったそれは、本物を超えるほどの創生能力の規模。

 監視する真の主人の命が下ると同時に、一斉にそれらは攻撃した。

 アゲハチョウが鱗粉による爆弾を拡散し、カブトムシが無数のレーザ光線で視界を埋め尽くし、トンボが衝撃波を放つ。クワガタがその顎で挟み切ろうと突撃。

 

「まさか、その程度で、俺様との差を埋められるとでも?」

 

 ゾワリ、と聖者の周囲の空気に薄気味悪い重圧が放射される。

 “空中分解しなくなった”『右腕』の五指を緩やかに動かした。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「………」

 

 少年は、ただ蚊帳の外で見つめるしかなかった。

 もはや、この手には負えない。

 ついさっきまで、ハッピーエンドで終わるはずだったではないか。それを『右方のフィアンマ』が登場し、妹が倒れただけで、こんな風になってしまった。

 彼らはたとえこの次元結界が崩壊しようと戦争をやめようとはしないだろう。

 “どちらにとっても”、イギリスは潰れたほうがいいのだ。

 そして、少年にとってもどうでもいい。

 

(俺……は……)

 

 左腕に触れる、

 己の血を吸って赤く湿った、リボンの感触。苦い胸中を噛み締める力を少年はうまく調節できなかった。

 結局、彼女はただの火種に使われた。その傷口を抉るように、腕を握る。

 そうしたとき、

 

「―――とうま!」

 

 と、声がした。

 振り返らずとも、清らかな声音だけで、誰かは分かった。

 この結界の狭間となる薄い部分を探り、同じ次元干渉を持つ<カーテナ=セカンド>を持つ英国女王の助けを借りて、修道服の少女が現れたのだ。

 長い銀髪に触れたその仕草も今だけは愛しく、懐かしく、少年は涙目になるのを堪えて、彼女の無事にパッと顔を輝かせた。

 花火のように一瞬だけ。すぐに元の虚ろに戻る。

 

「とうま、大丈夫? しいかはどうしたの?」

 

 圧倒的な破壊の嵐が満たされる戦場を閉じた結界の中に入ってきたというのにインデックスは、そちらに目を向けず、その場にしゃがみ込んで、心配そうに少年を、そして少年に抱えられながら燃え尽きようとする少女を見る。

 

「………」

 

 少年は応えない。

 少女の残りわずかな灯に視線を落としたまま、ただ呆然としている。

 声を上げるどころか、呼吸をする気力さえも失われつつあるようだ。このまま放置しておくだけで、そのまま息を引き取ってしまうのではないかとさえ思われた。

 それほどに、少年の負った傷は深かった。

 インデックスは、その原因。少女の状態に気づく。

 

「―――」

 

 激しく混乱した。しかし、動揺する心を辛うじて抑えながら、もう一度。

 思考を半分放棄して、感情を殺し、毒呪に侵されてる体を観察する。

 

(これは、<亡者の灰(ゾンビ・パウダー)>!)

 

 ―――意思のある呪毒。

 魔術という概念は、結局のところ意思に還元されるものだ。

 人を超えようとする意思。

 人を癒そうとする意思。

 人を傷つけようとする意思。

 一種の祈りと同じ、どれもつまるところは共通している。

 何らかのカタチで人に不可能なことを成そうとするその意志こそが、魔術という認識を現実に感染させる。

 とりわけこの付与された悪意は、人ではなく『上条詩歌』に限定されている。

 これがもし脳まで感染していれば、完全に支配されていただろう。

 だが、その毒を防いだ方法も最悪だ。

 『誓約書』の魔女狩りの火によって、熱殺菌。

 ただし、これは解呪ではない。たとえ支配されようが身体を動かせない状況に追い込んでいるだけだ。

 ラジコンで、リモコンが取られそうになったから、動かさないよう機体のタイヤ等の部品を取ったようなものだ。

 しかし、この呪毒は強過ぎて、支配を抑えるには“全ての部品をバラバラにしてしまいかねない”。燃え尽きるまで誓約の炎は止まらない。

 はっきり言おう。

 これは<禁書目録>でも処置できない。

 その身体からは、まだ生気を感じられる。が、これが魔術宗教で言う残留霊体であることを、頭の中の魔道の叡智がインデックスに教えてくれた。少女の身体に残る生気は、見慣れた彼女のものと同じ。にもかかわらず、それはもう、少女ではない。

 脈はなく。呼吸もなかった。

 もうすぐ、死んでしまう。

 

「嘘……」

 

 思わず、声が漏れてしまう。再び、遠ざけようとしていた衝動が、涙腺を刺激する。いっそ澎湃と流せたら、気が楽になれただろう。しかし、インデックスは堪えた。ここで自分が泣いてしまえば、少年が終わってしまう。魔術の被害に遭った人々を救い導ける<禁書目録>の知恵で答えをくれる、というかすかな希望を壊してしまう。

 

「……とうま」

 

 インデックスが声をかける。少年は反応しなかったが、さっきとは違い、その言葉が届いていることが、インデックスには分かった。

 けど、そこから先、どんな言葉を続ければいいのかは分からなかった。あまりにも荷が重い。インデックスは、完全に道具とはなれない。かといって、慰めに夢想を騙ることもできない。

 この打ちのめされ、潰れそうになりながら、ギリギリの淵で踏みとどまる顔。縋る最後の糸をどうすれば切れる。

 祈るしか、ない。

 そして、インデックスの後から現れる。

 

「無事ですか! 上条当麻、詩歌!」

 

 不意に届いた声に、それまで冷静さを保とうとしていたインデックスも、思わず身を固くした。

 一層激しさを増して、より次元結界の罅が大きくなった。こちらに向かって駆けてくるのは、神裂火織ら天草式の面々。それに、ステイルら神父修道女だった。

 白を圧倒するフィアンマの猛威に警戒しながらも、彼女達はインデックスを見つけ、その奥にいる少年らに向かう。一瞬輝いた瞳が、しかし、少女に気づくと、愕然と見開かれた。

 

「そんなはず……なんでこんな……どうして……」

 

 プロとしての動揺が殺し切れず、ヒステリックな響きを含み始めた。

 遠巻きに眺めていた後続たちも察したのだろう。

 

「とうま、しいかをそこに」

 

 でも、これで『手』ができた。これだけ魔術師がいれば魔力も十分だ。それも全員がプロで腕も確かだ。

 自分が『頭』として助言すれば、彼女を助けられるかもしれない。

 この10万3000冊は、人を神の位置まで押し上げることができるのだから。

 

「まずは神殿を作ってそこに降臨(おろ)した天使に枯渇しかかっている生命力を充填させるんだよ。方位は西方、水属性(ウィンディーネ)の守護、天使の役はヘルハイム……」

 

 噛み千切った指から垂れる血で魔法陣を描く。まずは五芒星と大きく星型に赤線を引く。何度も何度も顔を上げ下げし、遠くからも見える標準時刻のビックベンの時計の針の動きを目で追い、この時間にあった文字を判断。が、その周りの細かな文字のところでどうしても指先が震えて、頭の中の図形と違ってしまう。

 

「メアリエ! その箒をそこに、違うよ。もっとそっち! あと誰かレンズ! 硝子製でも合成樹皮でも良いから物を拡大するものを用意して、あと、あと、あと………」

 

 ついに声帯まで震え、言うことを聞かない。たちまち脳裏にもどかしさと焦りに塗り潰されて、息をすることさえできなくなる。

 

「でも、この<亡者の灰>を解毒するには………」

 

 落ちつけ。いや違う。急げ。急げ。中々見つけられない救助法を探して、魔道図書館(頭の中)がしっちゃかめっちゃかになる。それでも片っ端から読んでいく。

 

「煙草! 洋の東西を問わず、煙草は精神変調作用を持った霊装。あとはアルコール。それで心をなぞって。それに、イギリス清教基本発火術式の意味は『断罪』だけど、文言の第三から第五に『浄化』を付加してループ。英語圏で頭文字はP、A、R。これで火をつけた煙草の煙を吸わせれば、<亡者の灰>の毒の侵攻を抑えられるはず。これで、延命の目処はたったよ。あとは、解毒回復を。それを解析するには毒の灰源がなきゃ……そうだ! あいさ! あいさの血があれば……!」

 

 そして、インデックスから縋りつくような瞳を向けられたステイルも、この状況がなんであるかを把握した。これまでの神父の表情の中で、最もつまらなさそうな――最も口惜しそうな表情を浮かべる。

 それでも、自分のあり方を曲げることはしない。

 ステイル=マグヌスは、この子を守るためならば何でもすると誓っている。

 そして、もしこの子が死ねば、ステイル=マグヌスという人間も終わってしまうことも―――そこにいる兄だった少年のように。

 <禁書目録>が答えを出せないというのなら、自分には何もできない。

 一度息を吸い、自ら落ち着かせてから、インデックスの腕を掴むと、ふたりから強引に引き離した。

 

「は、離してっ! しいかは、しいか達は私が、助けてっ!!」

 

「無理だ。<吸血殺し(ディープブラッド)>を連れてくる頃には燃え尽きてる。どんな魔術だろうと、死んだ人間を生き返らせることはできない」

 

 淡々と、自ら言い聞かせるように。

 ステイルは、当たり前の事実を、ただ当たり前に告げた。

 言外に、見捨てろ、と伝えた。

 それにインデックスは、今度は神裂を見て、首を横に振られた。

 

「かおりまで、しいかを見捨てろって言うのっ!?」

 

「っ……!!」

 

 見捨てる、という言葉をぶつけられて……胸の内が抉られたような衝撃に思わず神裂は、呻く。

 ……誰が。

 誰が、好き好んで少女を、この恩人を、見捨てたいものか。

 

「……うぅっ……!!」

 

 親友であり、妹であり、誰よりも信頼していた子だ。

 私だって、助けてあげたい。

 見捨てるなんて、できない……! できるわけがない!!

 でも。

 でも、今は、もうっ……!

 

「インデックス……いえ、<禁書目録>。今蘇生を試みても、もう間に合いません。……お願いです、わかってください……!」

 

「なっ!? かおりっ!!」

 

「インデックスっ!」

 

「っ!?」

 

 懸命に。

 ぎりっ、と砕けそうになるほど奥歯を噛み締めながら、神裂は言葉を……絞り出す。

 これは、個人の感情ではない。

 『清教派』、世界の安定を担う『必要悪』の魔術師としての、苦渋の決断だった。

 

「あなたは、10万3000冊の魔道書を保有するもので、<必要悪の教会>の一員です……! だからこの先を見据えて行動する義務と、責任があります! そのくらい<禁書目録>ならば理解していて当然でしょうっ!!」

 

「そんなの知らないよ!! <禁書目録>だとか<必要悪の教会>だとか、そんなこと知りたくない!! しいかは……とうまの大事な家族で、私の大切な家族なの!! その家族を守ることを一番に考えて、何が悪いというのっ!?」

 

「インデックス……!」

 

「お願い、しいかを助けて」

 

 わかっている……神裂やステイルの言うことが正しいことくらい、良くわかっている!

 だけど、その義務を放り投げてしまったら、どんな顔で……

 

(くそっ! やはり、ここは……!)

 

 ついにステイルが唇を噛み締めながら、もはや普段の無邪気な様子もかなぐり捨てて暴れるインデックス―――その前に少年が神父の戒めから手足を振り解こうとする修道女のもとへとつかつかと歩み寄った。

 

「とうま……」

 

 もう、少年は何もできない。身体が動かない。動かなきゃいけないってわかっていたのに動かない。体中が鉛に変わったみたいに、どうしようもなく重い。

 思考も空転し、空っぽの鍋を火にかけたように胸を炙られ、心は何重もの鎖で縛りつけられていた。

 少年は、諦めていたのだ。

 このまま目を瞑り、耳を塞ぎ、何もかもが終わるまで閉じこもっていたかった。

 

 

 それでも、『助けて』と切実な祈りに、動かされた。

 

 

 これまでの様子を見て少年は言わないが、『誓約書』について、少しでも<必要悪の教会>の仲間たちを疑ったことを恥じる。それから『嗚呼』と諦めにも似た吐息が漏れ、少年の心はこんな状況にもかかわらずどんどんクールダウンされていった。

 少年はゆっくりと瞑目し、カラカラな喉から長い息を吐く。

 あれだけ引き延ばしたというのに、この土壇場で信じられないほど早く覚悟は終わった。

 他の<必要悪の教会>の魔術師が布陣を敷いて壁役となっているその向こうで、閃光が乱舞し、白が蹂躙される。『第三の腕』の完全なる固形化に成功している聖者には誰もかなわない。それでも少しの時間は稼いでくれているようだ。無論、少女を抱えて逃げようとすれば、どちらもこちらを狙ってくるだろう。何もできないと分かっているから見逃されているのだ。

 少年は膝をついて、修道女に視線の高さを合わせた。

 異様な決意を孕んだ瞳であった。

 そんな資格などないと思い定めて閉ざそうとする口を無理矢理開かせて、

 

「インデックス、ごめんな」

 

「どうして、とうまが謝るの?」

 

「ずっと、お前に相応しい人間になりたいと思ってた。お前を居候で預かってたけど、魔術の常識なんてわからなかったから、いざってときはもう無我夢中だった。わからないことだらけだったけど、今なら言える―――楽しかった」

 

 顔は、俯かせない。

 視線も、逸らさない。

 この修道女から、逃げない。

 

「でもな、俺は、お前と最初に会ったことは覚えてない、ずっと嘘をついてきた」

 

 記憶喪失であること。

 インデックスを傷つけたくなくて、今までずっとそれを隠し続けてきたが、それは本当に正しかったのだろうかとこれまでずっと、この今でさえも自問自答してきた。

 でも、やはり、これは上条当麻がショックを受けたインデックスの顔を見たくなかっただけのこと。自分の元から離れてしまうのが怖かっただけなのだ。

 だから、こうして突き放そうと決めた今、迷いはなかった。もはや、自分の立ち位置など恐れていない。

 

「                                   」

 

 口を動かし、長い、謝罪の言葉をかける。

 それをインデックスが遮る。

 

「良いよ。でも、何で今、そんなこと言うの?」

 

「お前と会ってからこれまで、きっと上条当麻は幸せだった。もちろん、上条詩歌もだ。おかげで馬鹿な俺でも最後まで上条当麻でいられそうだ。“コイツ”を使うだけの勇気をもらった」

 

 たとえどんなに裏切られても、自分のためには立ち上がれなくても、誰かを守るためだったら何度でも立ち上がる。

 それが『上条当麻』の在り方(ルール)

 どれだけ不幸でも、少年を律してきた願い。

 

「お前と出会えて、本当に良かった」

 

 少年の目の前で小さくかぶりが振られ、か細く声が絞り出される。インデックスは泣いていた

 

「やめてぇ」

 

「ごめんな、インデックス」

 

 ドスンという鈍い音がしてインデックスの身体が浮き上がった。空いた鳩尾に打ち込まれた丁寧に固めた少年の当て身の勁力は、その衝撃を余すところなく伝えた。

 急所に一撃をもろにくらったインデックスは何かを訴えかけるように軽く呻いた後に気を失い、その場に脱力。膝が折れて、神父に抱えられる。

 

「上条、当麻……っ」

 

「殺されるくらいのことはされてやるさ。それだけのことを俺はしたんだ、……でも、インデックスは、必要な人間なんだろ」

 

 そして、少年――上条当麻は、立った。

 後戻りできないかもしれない道を行こうとしている今、異国の冷たい空気を、呼吸するたびに肺が痛んだ。痛みを脱することなど、不可能だった。だが、上条当麻は、その胸の引き攣れに、救われていた。記憶を失っても変わらない。答えを抱いても、愚兄は、愚兄自身を切り捨てて別の何者かになるわけではないと分かったせいだ。

 そうして、結局、そこに立ち戻ってしまえば、どれほど傷ついていても、どれほど追いつめられていても、当麻は抗ってしまう。

 これまでの時間が、これまでの出会いが、愚兄の背中を押してしまう。

 けしてその心が癒えたわけではない。自分が動くことでまた大切なものを傷つけてしまうかもしれないという、恐怖を克服できたわけではない。まして、“殺す”とわかっているのなら、なおさら。

 それでも進まねばならない。

 

「嬉しかった」

 

 と、愚兄は呟いた。ポツポツと言葉を紡ぐ。

 

「助けてもらうって、価値を認めてもらえるってことだ」

 

 記憶にはないが、覚えてる。

 疫病神と迫害され続けた少年は、だからこそ、その価値を知っていた。

 

「だから、俺を庇った妹が傷ついたのがとても辛くて、でも命をかけて守ってもらえたこと自体は、すごく誇らしかった」

 

 守るべきものを奪われた間抜けな少年の心は、一度『死んで』からずっと何かを思い出すまで、薄暗い迷宮を彷徨っていた。

 けれど、それはすぐに蹴りがついた。

 ―――上条当麻は、彼女のために、どこまでやってやれるのか?

 この問いを何百何千回と、彼は、ずっと突きつけられてきたからだ

 そして、いつでも最後には、彼に選べる答えはひとつだった。

 

「俺は、俺がそうありたいと思ってるくらい、優しくなれているか? それとも、ただバカな事をしているだけなのか……」

 

 ―――だが何度も、何度でも、一度出した答えはまだ問われ直す。『そんなにうまくいくと思っているのか?』と、何でもない学生の判断が、一秒ごとに問いを投げた。『現実が見えているか?』『また足を引っ張って不幸にするかもしれないんだぞ?』と。『状況を改善する策なんて考えられないだろ?』と。『所詮は、学生に過ぎない』と。『戦う相手と状況は正しいのか?』と。『戦争はどうするんだ?』と。問いが掘り返されるたびに、何度も思い出がよみがえった。世話になってきた人々の顔が浮かんだ。『友人や知人に迷惑をかけるつもりか?』たくさんの人の関わってきた思い出が重かった。『戦いに飛び込むということは殺されるかもしれないし、人を殺すかも知れないんだぞ?』じわりと実感し始める恐怖から逃げ出したくなる。

 だが、上条当麻は全ての問いに、間違いであっても答える。

 

「だから、俺が、詩歌を救う」

 

 ―――本当に大事で辛い答えほど、何百回でも最悪の形で問われ、試し直される。だからこそ、神の奇蹟に見放されても、愚兄が選ぶ答えのうちには、人間としての有様が息づく。

 欺瞞で自らを覆い、偽善で誤魔化してきた彼が、ピタリと定まった。

 

「ステイル、神裂」

 

 と、今度はイギリス清教の魔術師らを見据えた。

 その瞳には、再び力が宿っていた。

 

「離れてくれ、巻き込みたくない」

 

 ゾクリ、と。

 触れれば切れそうなほど、鋭利な言葉だった。

 

「それは一体どういう……?」

 

「これから、上条当麻が上条当麻自身へかけた誓いを果たす。俺が成りたかった上条当麻は、どんなことがあったって、大事に思う人を助けてやれるはずだ。……だから、止めないでくれ」

 

 調べて正しい治療法を見つけるのが正攻法なんだろう。

 だが、そんな一手に付き合ってられねぇ。

 妹の危機に、手順なんて踏んでやる必要なんてない。

 手加減も無用だ。

 他人の手に任せてられるか。

 俺がその元凶たる幻想を根こそぎ取り除く。

 論理はいらない。何も理解できなくていい。最悪の呪毒だろうが、『説明できない力』だろうが、上条詩歌を苦しませるのなら殺す。

 

 

「詩歌を助けるためなら、神様だって殺してやる」

 

 

 “十分に染まった”包帯代わりのリボンを解き、礼服の左袖を捲り上げ、左腕を露わにした。

 まるで螺旋なる蛇竜が絡みついているようだ。

 その鍛錬ぶりを窺わせる筋張ったその腕……肩から手首まで、びっしりと皓い刺青の紋様が覆っている。―――否、それはただの刺青ではない。

 

「今まで詩歌が投影してきたものを形にした使い捨ての聖痕だ」

 

 その一画を右手の指先で引っ掻くように削りとると、その掌を少女の胸の上に置く。

 とある創世の伝承に存在する生命の樹には、盲目の蛇竜が棲まう。

 嫉妬深い神に反乱を起こし、原初の人間に禁断の知恵の実を与えた聖なる蛇竜。

 

「<銀光の腕(クラウ=ソラス)>を組み込んだ基盤の名は、『幻想投影(上条詩歌)の片腕』―――<幻想片影(イマジンシャドウ)>」

 

 神裂とステイルらには、覚えのある光景だった。

 同時に、今その使い手は『殺された』はずの技であった。

 しかし、次の瞬間、少女の胸にその左腕が血飛沫も波紋もなく入っていった。

 

「まさか……」

 

 と、ステイルが唸る声には、抑えきれぬ複雑な感情がこもっている。

 

「まさか、君が――! 魔術を――!?」

 

 それは、奇蹟であった。

 同時に、奇蹟と呼ぶべきではない現象だった。

 幾つも、前提条件は整えられていた。

 血縁をより髪の毛の生命線で結んで使い魔にされ、独自の供給ラインが結ばれていたこと。首巻で翼を巻いて、際限無く溢れ出てしまう力を無害化するために<幻想殺し>へと通すため、手を焼かせていたのものでもあったが、上条当麻は常にその力を浴びていた。

 <吸血鬼>に新たな伝承を品種改良したように、上条当麻に『栄光の腕』により遺産された、<銀光の腕>に上条詩歌には必要のなかった“元”があった能力が経験情報から切り離されて組み込まれたこと。そして、“最後に投影した<聖なる右>で賢妹が自ら摘出した”『残り半分の『卵』』――『人を神にする生命の実のもう片割れ、知識の実』を血塗れの左腕という血縁を通して相続されたこと。

 そして、この技術は、愚兄にとっても、苦い経験だったからよく覚えている。

 

 ―――奇蹟治療。

 

 身体を傷つけることなく患部を取るその手法。

 かつて、上条詩歌が鳴護アリサに行ったこともあるそれを、今、それを中途で阻止した上条当麻がやる。

 

「とんでもないところに仕込みやがって」

 

 左腕を引く。

 その心臓に巣食っていた長い毛髪を掴み、体外へと抜き出した。

 傷つけることなく。

 

 しかし、誓約書を壊すと言うことは暴れ狂う獣を解き放つという愚行。

 

 また少女の躯から、『力』が迸った。

 地上から天空へと、幾つもの半透明の線が走ったのだ。

 まるで入道雲のように、或いは暴風雨のように、あり得ないほどの速度と規模で空間を侵略。

 そして、それは一つ残らずどくどくと脈動し、宿主が死に体であるにもかかわらず、凄まじく活気に満ち満ちている。

 これは、血管。

 生命源を運ぶのが血液の役割と定義するのならば、それを通す血管が最初に創られるのは、必然の理か。

 それはまだ実体化に至っていない霊体であるがゆえの半透明のままで、しかし現実の生々しい熱を放射しながら、倫敦の空も大地も制圧する。毛細血管は存在感を増して、世界と接続されていく。

 

 ずくん、と大きな鼓動が鳴ったように思えた。

 

 心臓の、鼓動のようだった。

 一つの山ほどもある巨大な心臓が拍動すれば、こんな音が出るだろうか。

 

「くぅ―――!」

 

 溜まらず、神裂が魔力を高め、顔を覆った。

 

「……っ!」

 

 ステイルもまた、周囲に結界用のカードを放って、歯を食いしばった。

 異端狩りの魔術師すら、防御行動を取らずにいられないほどに生命力の席巻は常識外れであった。

 何の魔術でもなく、攻撃的な意図さえなく、それでも<必要悪の教会>を圧倒する純粋な力。

 これでも、まだ完全に起きていない。

 想像もできぬほどに、巨大な、少女の身一つに収めるにはあまりにも、あまりにも大き過ぎる負債。

 そして、この事態についに聖者が動く。

 

「おいおい、また暴れさせようとはついに気が狂ったか」

 

 死んでも死んでも溢れてくる、軽い手馴らしで遊んでいた白の虫兵を一振りで、絶滅させるとフィアンマがこちらに向く。

 いつだって、どうにでもできたから、そこの少年には何もできないと踏んでいたから、見過ごしていた、見逃していた。

 無限の生命源を得て、唯一の欠点であった使用回数の克服を果たした今、このあらゆる障害をも打ち破り、世界を救う<聖なる右>に破れない困難はない。あとは世界救済の方式を定めるだけの叡智さえあれば、フィアンマの目的は達成する。

 そう、そこに猫に小判ともいえる愚兄の左腕にあるそれを奪えばいい。

 大絶滅させる爆弾の導火線が短くなっているが、その顔には余裕、人の命を愚弄するような、不謹慎な明るさに満ちていた。

 どうでも良い。

 愚兄は、端的に返答する。

 

「ああ、狂ってるよ、とっくにな。正常だと思ってんのか」

 

「ほう」

 

 帰ってきたのは、驚きとも笑みとも聞こえる声の歪み。

 

「やっぱり、テメェには個人的な報復をする」

 

 これ以上、その音を耳に受け入れたくなくて、断ち切るように続けて声が出た。

 

「俺が『殺さ』なければ、詩歌は死ぬ。本当に、救いようのないそのまんまの意味で。だったらそれだけで十分だ。たとえお前が神様になろうが、復讐する。懺悔する暇すら、与えない」

 

 まだ着火前の初期段階とはいえ妹の身体から弾き飛ばされた上条当麻はフィアンマを見上げる。

 

「俺はな、自分の妹をこの手で『殺す』んだよ」

 

 がりっ、とまた聖痕を一画削って宣告する。

 力余って皮膚に血が滲むも、涙など出ない。

 

「独りよがりだろうが八つ当たりだろうが、お前を不幸にしなくちゃ気が済まない」

 

 もし、ここに同じ境遇の理解者がいれば、すぐに危険だと悟れたであろう。

 それこそ、『前方のヴェント』がいれば、何を想うかは想像にし難くない。

 対して、聖者はあくまで笑っていた。

 

「片割れを手に入れたことが、余程特別性を錯覚させるか? だが所詮お前には扱える代物ではない。そもそも格付けは終わっている。俺様に復讐などと不可能だ。『卵』がなかろうと、力の差は歴然であり、戦うことに意味など与えられないはずだが?」

 

「いいや、テメェも分かってるはずだ」

 

「一体何を?」

 

「だったら何故、テメェは“俺に対して”身構えている? もうすぐ起きようとする巨大な存在じゃなくて、取るに足らない俺の方にその右手を向けてる」

 

「……、」

 

 言われて、初めて気づいたよう。

 聖者は、愚兄に対象が定められた己が右手へ、しげしげと目線を投げている。

 無用の長物を手にした無能な<幻想殺し>相手に、超えられない障害などない絶対勝利者がこんな反応を示す必要はない。確かに、こんな小石ではなく、またも断ち塞がろうとする大岩に向けるべきだ。

 だが、その本人の意思と逆らう『右手』の判断が正しいと言うのであれば、それは愚兄自身がただの無能な少年ではない証左。

 

「不思議なものだ」

 

 世界を救うとされる力を持った脅威が、肩を震わせていた。

 あくまでも、聖者は笑っていた。

 

「お前の『右手』には、俺様の『右手』も判断がつかないらしい。いやいや、面白いものだよ」

 

 <幻想投影>から離れている、そして、その両腕は聖者が求めるものが眠っている。

 ならば、その胴体は不要だ。

 聖者は、原型を崩さずに実体化する『第三の腕』を愚兄の身中線に振り落とす。

 距離の概念などない。近距離も遠距離も関係ない。

 

 ―――バシィンッ! と白の軍勢をも薙ぎ払った力が、少年の右手一つで払われた。

 

「な……?」

 

 聖者、一瞬、唖然とした顔をした。

 動物が火を恐れるのは遺伝子情報に刻まれている。

 この体験もこれで二度目だ。

 全知には至っていないが全能が、たかが人間相手に負ける道理はない。

 しかし。その人間の中でただ一人、倒せない者がいた。

 他でもない。ただ一人の兄に。

 フィアンマは、無理矢理に上条詩歌から『卵』を取り込んだ。

 故に、フィアンマは上条当麻にだけは勝てなくなった。絶対勝利の全能が振るえない。

 理由なんて、くだらない。

 何があろうと味方する、ただその約束で聖者の右手に逆らっただけのこと。

 

「テメェは馬鹿を上回る阿呆だよ。俺の妹がその『右手』でも手に余るもんだっつうのに気づかないまま、自信満々に語ってんだからな」

 

 上条当麻の口撃に、初めてフィアンマは笑みを崩した。

 

「……っ、そうか。まだ俺様の『右手』に馴染むには時間がかかるようだな。しかたない。それならば」

 

「―――俺が、これ以上お前の好き勝手にさせると思ってんのか」

 

 そして次は絶句させられる。

 こちらに視線を向けずに、上条当麻は、倒れ伏す賢妹の元に辿り着いていた。

 そして、その左拳の中からは“灰色の粉塵”が舞っていた。

 

「勘違いすんじゃねぇぞ。俺は、詩歌を殺す(救う)ために動いてんだ。復讐なんて馬鹿げたことに囚われていねーよ。邪魔するだろうから、止めるだけだ。本当ならお前のことなんか、一秒たりとも相手にする時間がもったいない。後回しだ」

 

 奇蹟治療で、上条当麻が掴んだのは毛髪だけでない。呪いの一部も握り込んでいた。

 

「悪い、詩歌」

 

 と、当麻は告げた。

 同時に、フィアンマは、ある魔術の基礎を思い出した。

 多くの魔術に共通する、基礎の基礎とも言えるひとつのシステム。

 類感魔術。

 同じ性質を持つモノは、たとえ離れていてもそれぞれに感応しあっているのだという、ほぼ全世界で共通する魔術理論。十字架から<天使の力>を受け取る術は、その代表例。

 そもそも、この『神上』をも支配した掌握術もまた、イメージから作り上げた偶像を共鳴させてのものではなかったか。

 

「まずは手付金代わりに、借りの一割は返させてもらうぞ」

 

 人を呪わば穴二つ。

 感染しやすい少女の体質は、逆に相手にも感染させやすい。相手を投影すると言うことは、その相手の性質も得ると言うことなのだから。

 呪詛返し。対抗する術もあるだろう。その『右手』を振るえばいい。

 だが、これは“反応すらさせず”に侵す呪いだ。

 

「まさか……『神上』を呪物(カタリスト)に使うとは。だが、この程度で俺様が―――ッ!」

 

 ついにフィアンマが膝をつく。

 意識を失うまではいかない。宣告通り返せたのは、一割にも満たない。第一、この灰の呪いは『上条詩歌』に焦点を当てて造られたもので、それ以外には効果が薄くなるのは当然。とても同じ目に遭わせることなんてできない。いまだ諦めていないのもその目を見ればわかる。

 それでもしばらくは満足に動くことはできないだろう。崩れかかっていく『第三の腕』を抑えるに精一杯だ。

 そして、弱ったその時に、つい先程、本人にも気づかれずにただ『種』だけを植え()けられた右肩の“一点の傷(マーキング)”から白い蔦が伸びる。

 『生命の実』たる『卵』が苗床となり、大天使の片翼を<妖精堕し>が縛りつける。

 人間より天使に近しい体である<神の右席>に異形化を減じるその枷は覿面である。

 これで誰にも邪魔されずに、妹を“殺せ”る。

 ここからが本番だ。

 そして、再度、詩歌の身体に今度は右手を―――

 

 ―――あ……

 

 災厄の到来を予期するように、胸に置いた右手が総毛立った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「が―――あああ、ああぁああ……っ!」

 

 上条当麻にできるのはその結末を遅らせる程度。宿主の個性をも世界と同化させぬように、右手で縫い止める。

 燃やされるだけと分かっていながら、今は右手で抑え続けるしかない。

 ああ、でも今ならまだ、他に手はある。

 この毛髪を元の位置に戻せば、万が一いや、高い確率で助かるのでは、と。

 

(……っ、うるせぇ! 此処で手を伸ばさなかったらなにも掴めねーだろうが!)

 

 破綻した希望にすがって当麻は右手を押す。

 消去の許容限界の過剰突破で停止する時間。

 永遠に続く一秒の激痛に、あらゆる感情、あらゆる自我が絶叫する。

 殺す、と決めたのなら、何故しない。

 ここにきて躊躇するな。

 息を潜めるのをやめろ。

 使えば破滅。使わずともこのまま焼かれて魂の欠片を残さず死滅。

 なら、どうして使わない?

 別に使用制限なんてものはない。

 誰かが死ぬと言うわけでもなく、ただ、彼女が空っぽに殺されるだけ。

 たったそれだけ。

 人間なんて曖昧なものだ。

 脳の電流は一分ごとに何十回と断線して、人体を構成する体細胞だって何度も生まれ変わっている。何一つ、“いつまでも続いている自分”なんてない。

 それはとりわけ、軽蔑する事でもなく。

 それはこれといって、禁忌するものでもない。

 それは至極、常識的なことだ。

 

 それでも、こんな力を彼女に向けてだけは使いたくなかった。

 

 この手で殺せてしまうことを考えたくなかった。

 その葛藤する刹那の最中、

 

(え―――?)

 

 静止した時間の中で、ひたり、と恐ろしく冷たい気配、後ろから愚兄の両頬に赤い手を当てて、

 

『……『赤信号』が見えたら、止まれ。これは常識。このままだとあなたは燃やされます』

 

(!!!)

 

 ひどく落ち着いた、冷たい声音。

 

『本体を処理するのは、私の仕事です。後ろにも前にも進めないなら、余計な真似をせず、早く契約の糸を戻してください』

 

 冷静で、冷徹で、冷酷な。

 愚かではない、あるべき姿勢をもった彼女。

 

『正直、こちらとしては見殺しにしてくれたのがベストです。本体は燃え尽きた灰から再構築される。ただ、その時の記憶人格は保障できませんが、それも自業自得。本能を無視して、無茶をして、無鉄砲なことをばかりするから、本体はこうなった』

 

 黒ではない、赤い髪が視界の端を擽る。

 振り向いてはいないが、背後の存在が手に取るようにわかる。

 

『だから、私が修正する。―――は本体の眠りをサポートするために創られたものです』

 

 これが、少女が用意した次善策か。

 こんな生死の境に迷っているような愚か者は、最後の最後で失敗してしまう。

 だったら、もうこれ以上足を引っ張るな。

 

(っ、さい!)

 

 しかし、口から漏れた声は怒りだった。

 赤い人影はかすかに首をかしげる。

 少年は声なき声で叫ぶ。

 黙ってろ!

 こんな力を、どうやって使えばいいかわからねーんだよ!

 だいたい、一体この正体が何であるのかさえ知らない!

 愚兄には、その『説明ができない何か』とやらの有効な利用法が、どうにも思い当たらない!

 

(―――って、バカか俺は……!)

 

 一瞬の錯覚から目を覚ます。

 折れようとしていた心が見せた幻想。

 最低ラインの弱音が、逆に愚兄の誇りに火をつけた。

 

『そうやって、また、失敗するんですか?』

 

 当麻の心臓が脈打ち、血が巡り、感情が見たくないと埋めようとするものを、理性が無理矢理に掘り起こす。

 

 三沢塾。

 切断された右肩から出た何か。

 そして、何かに喰われて“抜け殻になった”錬金術師。

 

 ―――さらに理性は容赦なく記憶を掘り出す。

 

『おや。もしかして、知らない? あなたが“最も殺している”ものなのに?』

 

 『左方のテッラ』が弾劾した罪深き所業。

 だとしても、構わない。

 

 “殺してでも”――“死なせたくない”。

 

 そして。

 見殺しにはできない。

 何もせずに諦めるのは許されない。

 

(これは……俺の、役目だ)

 

 やれる事を全部やってやる。どれだけ折られようと最後の最後まで諦めないのが少女が褒めてくれた己の美点だった。もう感覚さえ無い指に力を入れる。

 これ以上は、上条当麻の体は蒸発する。

 ああ、だがしかし。

 それでも、彼女は、神には祈らない。頼ったのは、この自分だ。

 ここで燃え尽きてもそれはそれで納得してしまう愚かな兄でごめん。

 

 バシュゥッ!

 

 ついに、そんな音がして、右手の指が溶けてしまった。

 半透明の線に色づき――虹炎が灯る、実体化が始まったのだ。

 焼くという過程すら飛ばして蒸発させる。

 

「っ……っ!!」

 

 激痛が走るも、構わず、指先だけでなく手の甲まで伸ばす。

 思い出したかのように血が噴き出す。

 だが。

 この程度の不幸で躊躇うようなら、上条当麻は今ここで殺されてしまえばいい。

 

『はぁ……だったら、いちいち迷わないでください。バカなんですから。死んだら元がないでしょうが』

 

 赤い影が、離れた。

 同時、堰が差し込まれたように、実体化の進行が止まる。

 

「まだだ……っ、これじゃあ足りない」

 

 探竜顎―――高い成果を望むのなら、より高い危険を冒さなくてはならない。

 不幸であるなら、その意思に逆らうように動く。

 彼女を救いたいのなら、殺すことだけを考える。

 ただし、これまでとは何もかもが違う。脆弱な人間が、鋼鉄塊をも秒で形を失くす溶鉱炉に飛び込むのと同じ。普通に考えればこちらが飲み込まれる。世界の修正力は、一個人の力などでは影響されないとでもいうように、変化を望んだ個人の行動ですら予定調和に組み込もうとする。

 そのルールを。

 破る。

 

 ざわざわと。

 千々に乱れていた心が、静かに収縮するのが分かった。

 いっそ悲壮なほどの覚悟が決まったのだと、理解した。

 

 ガリガリガリガリガリ!! と、魔法陣に置かれていた硝子のレンズを拾って割った破片を右腕に押し付けて引く。何度も何度も。金具が錆つくほど遠く忘れてしまった、固定されたキーロックの番号を合わせるように。

 

 こんな自傷紛いもいいところの行為に、何の意味があるかなんて知らない。

 きっと現実的に無意味だろう。

 だけど、筋神経線維の一本一本をすり切り、骨の芯まで押し折るような圧倒的苦痛が抗うべき不幸を強く想起させる。体の中に存在する何かを、意識させる。右手、<幻想殺し>の更に奥。理解不能の眠れる怪物、コイツを、叩き起こそうが構わない。今は、手加減された基準を壊す。

 設定を、壊して作り変える。

 秩序を、壊してしまうため。

 自分にとって、いや、とりわけ妹にとって。

 世界は、もう少し優しくあってはいけないのか?

 もし、そうだとするのなら、

 

「こんな、幻想、ぶち殺す―――」

 

 

 何かがガチャリと鍵が解けたような解放感があった。

 

 

 

つづく


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