とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

290 / 322
英国騒乱編 落鳳破

英国騒乱編 落鳳破

 

 

 

???

 

 

 まだ小学生にもなってなかったあのころ、少年はいつも息を止めるように努めていた。

 テレビ番組に野次馬か、彼がいるから不幸になるのだと見も知らぬ誰かに言われ、自分がいるだけで日常というのは壊れてしまうのかと考えた。

 迂闊に触れないほど不安定で、息を吹きかけても灰の山のように崩れ去ってしまう。傷つけまいと自然に存在感を抑えるように気を遣っているうちに、毎日は壊れそうだから宝物に思えた。

 そして、疫病神(そう)じゃないと否定してくれる少女は、誰よりもとても儚く感じられて、それでも側にいてほしかった少年は、何度も何度も、深い海の底にいるように、“息を止める”ことを努めた。

 そうして海底まで潜ることができれば、母が読み聞かせてくれた浦島太郎のようにこんな自分でも救われる楽園な竜宮城に辿り着ける。助けてくれた亀のような道案内はいないが、そう信じて。

 時間を沈むように過ごしていき、脳の無数のひだのひとつひとつから、見えない薄皮をはがしていくように、少年はまぼろしとも現実ともつかない変容する世界の境目を探り続けた………

 

 

ロンドン

 

 

 この『日の没さぬ国』とも謳われた帝国の『太陽』がくだかれた。

 

 

 <天体制御>で白夜に支配された天蓋が気持ちのいい青に変わり、変革が、終わった。

 一時だけの夢舞台を演出した<連合の意義>は効果を失われ、民間人達は元の『普通の人』へと戻っていって、ようやく先の“ド派手な”出来ごとについて考え始める。

 だが、問題はないだろう。

 この決戦投票に参加した民間人はこの不可思議な現象を勝手に独自の解釈して、術式の構成まで辿り着けるものはそういない。

 そういない……だけで、つまりは魔術に思い至る人間も極少数いるだろうが、それもいい。

 もしそれが広まってしまえば、人間の認識を誤魔化すのではなく、歴史を変えてしまえばいい。

 『人目についてはならない』という魔術のルールが永遠不変というわけでもない。

 この世界に絶対なものはそうそうあるものではない。

 あの天使長<神の如き者>でも、『IF』のひとつである『偽典』にはそれより格上の天使が存在するのだ。

 

「もしかすると今日が魔術国家イギリスの新生になるかもしれんな」

 

 『王室派』の女王エリザベートは苦労した肩を落としながら、だがどこか嬉しげに目を細める。

 清教徒を率いて強圧的な専制政治を敷いていた国王と戦い、議会の力を強化させることに貢献した政治家、オリバー=クロムウェル。

 当時、神の化身ともされた相手に戦いを挑むことがどれだけ非常識で、無謀なことであったのか……数百年を経た今の人間に理解できるはずもない。

 だが、彼はそれを成し遂げた。類稀なる行動力と、多くの賛同者達の協力によって。

 実際、これがなければ後年のアメリカ独立戦争も、フランス革命もなかったと言われるほどの大事件で、市民革命を語る際にはなくてはならない歴史的事件のひとつとされている。

 『選定剣』に縛られた古い態勢を象徴――永遠に夜が来ないはずだった白夜は沈んだとしてもこの女傑が隠居するにはまだ早いが、新しい夜明けはもうそこまで来ているのかもしれない。

 オリジナルの暴走した<天使の力>を何割か流入させてしまったため剣身の欠けてしまった<カーテナ=セカンド>。この際だからこの前時代の遺物もスッキリ砕いてしまおうか。

 この空で娘を運んでいる兄妹に。

 

「あら? お母様。まだ一休みするのは早いんじゃないかしら。もう一仕事残ってるんじゃない」

 

 

 

 

「………言った通り、<銀光の腕()>はやはり制限します。危険なのもありますが、それに容量が割かれ過ぎて、待機状態でも燃費が悪い。本来の性能が出ません。私が使い魔に共有させたのは『銀の腕』ではなく“――片影(シャドウ)”です」

 

「あん? ああ、クーデターも終わったし別に構わない……って、この体勢で腕を取られるのはつらいんでせうが」

 

「我慢してください。教授しても練習する時間がありませんでしたので、当麻さんのことだから何かひとつを覚えさせておけばいいと思ってましたが、このままだとひとりじゃ何もできません。兄の自立心を養うため心を鬼にして初心者用に調ky――調整します」

 

「だからね。詩歌さんや。このままだと空飛ぶお嬢様な母さんの一子相伝のなんちゃらが空中殺法で決まっちゃうから!」

 

「竜神家裏整体術には苦痛を与えずに相手を逝かす技がいくつかありまして、ここの秘孔を押せば関節がぐにゃぐにゃになっても無痛で……ただ、少しでも狙いが外れると地獄のような激痛が」

 

「せめて足が地面についてからにしてくれマイシスター!」

 

「時間短縮です。ちょっとだけ。ちょっとだけ触らせてもらうだけですから、ね? 痛いようにはしません。天井の染みはないので、天上の雲でも数えていてください」

 

 ぎゃーぎゃー、と第二王女キャーリサは、騒がしい(片方だけだが)兄妹の喧騒に目が覚める。

 その俯いた視界、足元が宙ぶらりんでなにもない。ここはどこだろうかと応えれば、たぶん、イギリス大陸ロンドン上空で、どんな状態かと問われれば、キャーリサは上条当麻に抱きかかえられていた。<大天使>をその身に受け入れた反動からか、力がほとんど入れられず、なすがままにだっこされてる。

 そして、その眠ってる間に一戦交えたのか、無理矢理手篭めにされた生娘のように息の荒い上条当麻はパラシュートもないのにボロボロな振り袖を羽ばたかせゆっくりと降下する上条詩歌の脇を吊り上げられるような形で両太ももに挟まれる――つまり、肩車の体勢である。

 

「……、」

 

 登場時にも、戦闘中にも思ってたが、ふざけた奴らだ。むこうが全力で真剣で本気だったとしても傍から見ればこんなバカップルみたいにいちゃつかれて『叛逆の』王女の野望は挫かれたのかと滑稽に思う。そして、そのふざけた兄妹に<カーテナ=オリジナル>は砕かれた。今頃、<天使長>としての莫大な力は、<天使長>を鉄拳制裁でぶん殴るという兄妹と同じくらいふざけた真似をした母上がもつ<カーテナ=セカンド>に回収されているだろう。

 しばらく、キャーリサは無言のまま、足元の光景、国を、街を、そして、人を想う。

 9000万人の戦う意思。

 それを、侮っていた、といえばそうなのだろう。

 国民を守る、と決めて変革を起こしたというのに、結局、自分は国民に守られた。

 たった二割にしかすぎないはずなのに、この今頭に載せられている9000万人もの願いで編まれた花の冠は、<天使長>をも勝ったのだ。

 人の想いは天にも届く。

 金銀宝石を散りばめた冠よりも、“おもい”草花で作られた冠の方が、この馬鹿な王女には相応しいのかもしれない。

 と。

 

 

「きゃー、身動きできないのをいいことに王女の胸を鷲掴みする無礼者に宙に浮いたままレイプされまくる!」

 

 

「……ッ!?!?!?」

 

 気絶していたはずの第二王女のいきなりの問題発言は、当麻の思考だけをお空の彼方へと吹っ飛ばした。

 空から落とすわけにはいかず、“掴みやすい”、“無線機を挟めるくらいにでている部分”に手を当てていたが、それは人命安全を優先する、仕方のないことだ。

 だから、そんな性欲の捌け口にするような真似では一切なくて……

 

「まー、敗者は勝者の慰み者になるのが世の常だし。一国の王女として受け入れよーか」

 

「待て待て待てっ! 一体どこの理屈を語っちゃってんだこの王女!? ご乱心か!?」

 

 ぶっちゃけ、いちゃつかれたのにイラついた発憤もあったのだろうが、キャーリサはノリノリで。

 

「何を気にしてる。ここは空の上。誰も見てない。これほど好都合な条件はそーないぞ?」

 

 そういう問題じゃない!

 っつか、いる! お天道様、天使長よりも凶悪な聖母様が見てるっ!

 背筋にとは言わず。全身から冷や汗が。今、当麻は絞首台に縄をかけられたような生と死の間際の緊迫感を味わってる。

 

「クーデター起こしちゃってアレなのはわかるけど、自暴自棄はお止しなさいって。女性ならもっと自分の身体を大事に、ね!」

 

 あと指摘するのが怖いから口には出さないけど、何か言いたそうな無言の視線、頭上からくる重圧にも気にしてください。

 と、そんな当麻の思いを知ってから知らずか。

 

「それなら問題ないの。市民の出だがお前の血統には国家元首を降すほど優秀なのがいるではないか。将来のためにイギリス王室に迎え入れるのも悪くはないし」

 

「一番尊重すべき互いの意思が無視されてんのは問題じゃねーのか!!」

 

「ほーう……王女には女として抱く魅力もないと申すのか? ……これは侮辱罪で処刑塔送りか」

 

「卑怯! い、いやそんなことはないけど、そもそもそういうのは問題じゃなくてだな」

 

 きゅっ、と旋毛に強烈な威圧感を当てられ、ほどよく引き締まった肉感に暴れるツンツン頭が挟まれ固定される。

 密着度が上がりかすかな甘い芳香が鼻腔をくすぐり、直に伝わってくる彼女の柔らかな弾力に―――それ以上に冷たい悪寒に息を呑む。

 

「お兄さん、やはり、年上のお姉さんが良いんですか?」

 

 すごく丁寧だが、それが一層冷えている気配を思わせ。お空の上にいるのに、地獄の底から響いてくるような声がついに参加。

 

「そのセクハラの件も含めて、答えてください。桜の木をぶった切ったワシントンを見習って、正直に。ふふふ、脈拍は押さえてますから嘘の反応はすぐにわかります。もっとも、こんなことしなくても当麻さんの考えてることなんて簡単にわかりますが。やはり、その口から言うのが一番ですから」

 

「しょ、正直に言えば、助けてくれるか」

 

「ええ、それがこの優しい()愛い妹の望みです。ただし、正直に答え過ぎると千利休のように切腹になってしまうかもしれませんが、そのあたりはきちんと配慮して下さいと、予めご忠告しておきます」

 

 ……それって、どっちもダメなパターンじゃねーか!

 当麻は声を上擦らせて狼狽しながら、

 

「は、はっははは。な、何をおっしゃいますか、妹よ。こんなのからかわれてるだけに決まってんでしょうが。女王様も御用達の英国ジョークだよ。当麻さんは全然気にしてませんし本気になんかしてませんよー。こんなの普通お認めになるはずがない時点でわかんだろ」

 

「いいや母上も認めるんじゃないか。そういったのは妹の役目だと、今日まで手ほどきをサボってきたが、子供を作れとせがむ母上の要望に応えよーではないか」

 

 ぐるっと体を横に向け、両足を揃えてほぼ垂直に上に持ち上げて、己の身体を引っ掛けている当麻の腕の輪の内に入れて通し―――て、手を当麻の首に回す。

 野豹のように柔らかな身のこなしで強引にらっこさんだっこからお姫様だっこの体勢へと持っていった。

 

「うむ、楽になった。王女様といったらこの体勢だろう」

 

「やっぱ、あの出迎えメイド女王といい、英国王室って微妙にズレてるよな!」

 

 愚兄の記憶が確かならば、この第二王女が侵略のための秘密兵器を出撃させたり、次元ごと滅多斬りにされかけたり、こちらも小太陽を堕としたり、兄妹揃って滅多打ちにしたりと今思い出しただけで泣きたくなるような体験をしたわけだが、間違っても男女のお付き合いに発展する要素はゼロ以下のマイナスの筈だ。そのつい先ほどの出来事を一瞬で忘却してしまうほど記憶能力が残念なのか。それとも打ち所が悪くて可哀相なことに脳に問題が発生したのかもしれない。

 これからの英国の将来が心配だ。

 あー、くそどうすりゃいいんだ! と両腕を封じられてるが頭を掻きむしりたくなったなる。

 

「ふーん、詩歌さんをダシに見合い話ですか。ふーん、あの時そんな話を。ふんふーん。基本的に当麻さんがそういうのはもうとっくの昔から慣れてますし、諦めてますが……疲れてきましたし、ちょっと足を伸ばしてみたくなりますね。うーん、とね」

 

 わしっと頭が掴まれる。当麻の代わりにツンツン頭を掻いてくれる。が、羽ばたきをやめたせいか、一気に降下速度が上昇。

 更に脇に引っ掛けている足が太股からすすっと踵まで。

 

「待て。落ち着くんだマイシスター! 落ちてる! 今離されたら当麻さん落ちちゃう!」

 

「落ちついてます。詩歌さんは今、この上なくクリアでクールな気分です。ご安心を」

 

 それクールじゃない。むしろコールド。いやフリーズだ。

 

「ですから、妹離れして恋に落ちればいいんじゃないですかー。二人分を支えてる詩歌さんを働かせながら、イチャイチャするなんて正直やってらんねーですよ。ええ、兄の妹に対するこの扱いにはぐれたくなっても仕方ないですが……」

 

 ふぅ……と旋毛に吐息が吹きかけられる。

 

「この優しい可愛い妹は兄には激甘」

 

「激甘?」

 

「かつ従順と定評があり」

 

「従順?」

 

 素直にうんと納得のいかない齟齬に、王女と同じく妹も頭がやられたのかと兄心配。

 

「どんなに努力しても年と血はどうにもなりませんし。年功序列。妹は兄の奴隷扱いも甘んじて受けましょう」

 

「いや、上条家の兄妹の上下関係は逆なような気がしますが、だったらこのリアル転落人生をどうにかしてほしいでせう!」

 

 愚兄でもわかるくらいにわかりやすく拗ね始めたぞ。これは土下座も検討しないとダメなのか。

 実にイジイジとしている。ツンツン頭の上に恨み事などを書いている。

 ただし、加速度的に落下速度上昇中。

 

「詩歌さんでもお姫様だっこは長い下積みがあってのことなのに……」

 

「修業じゃないんだから、下積みって。いや、うん、悪かった。詩歌が頑張ってくれてるのを蔑ろにしてんのはよくなかったな。けど、良く見てみようか。あなたのお兄ちゃんがこの状況で喜んでいますか!?」

 

「この程度も我慢できないとは代表もひ弱だの。まー、家族から了解も出たよーだし、仲良くやろーか」

 

「どーぞどーぞ。邪魔しませんし。落ち(つけ)させますので、兄離れする私の見てない所で。存分に」

 

 こしょこしょと愚兄の下顎(おとがい)を後頭部に片手を置きながらもう片方のお姫様の手指でくすぐる。一方、頭頂部の旋毛を洗髪でもするかのようにわしわしと妹の指先に揉まれる。

 第二王女をお姫様だっこし、同時に妹を肩車する、落下しながら。

 一体これはどんな状況なんだと頭痛がしてきた。当麻は今更ながら教えてもらいたくなったが、答えてくれる人間は生憎お空の上にはいない。

 

「落ちつけ!? いや、落しちゃだめ!? リアル兄離れノー! っつか王女もいい加減にしやがれよ!」

 

 

ロンドン

 

 

 ロンドン上空で少年が姉に苛められて切羽詰まっているのを他所に、第三王女ヴィリアンは『騎士派』に旗を預け、それから寄ってくる民間人達も使用人らに対応というか壁を任せて、『彼』を捜していた。

 きょろきょろ頭を左右に振りながら、あたりを隈なく見ているのだが、一向にその姿は見つからない。

 

「……やはり、ウィリアムは一言も言わずにもう去ってしまったのですね」

 

 やがて、曇った表情で、ポツリと。

 その悩ましげな横顔に、国旗を預けられた『騎士派』の騎将である英国紳士は傍らで何と声をかけようかと悩む。

 

(……まったくあの野郎は昔から何でもかんでも。言葉足らずにもほどがある)

 

 騎士団長と一緒にこのロンドンに馳せ参じ、<神の如き者>の<炎翼>から第三王女を間一髪でお救いしたというのに……別れの言葉も言わせず傭兵はどこかへと消えていった。

 騎士団長()に厄介な役割を押し付けて。

 あれはギザではなくシャイだな。

 だったら、仕方ない。“フォロー”しておこうか。

 騎士団長は畏まった顔を作ると、置いてけぼりにされたヴィリアンに、

 

「とある傭兵から伝言があります」

 

「え……? なん、でしょう……」

 

 誰にも聞かれぬよう、必ずヴィリアン様がおひとりの時に、と前置きの注釈をしてから、

 

「―――いつか、世界に平和が訪れた時、あなたのいるイギリスに帰りたい」

 

 願わくばその時にこそバッキンガム宮殿の廊下へ飾られるはずだった『盾の紋章(エスカッション)』を飾りたい。

 傭兵はそれまで必ず剣と共に紋章を大事にするので、バッキンガム宮殿の修復と、立ち塞がるであろう障害にも屈しないだけの強さを手に入れてほしい……

 

「……まぁ、つまり、あの傭兵が誓いを立てるに足る姫君に成長してほしいという、あの男なりのプロポーズではないしょうか?」

 

「……ッ」

 

 ヴィリアンは目をまん丸にして驚き、両手で鼻頭をおさえる。

 クサい伝言の内容を“少々”脚色してしまっているも、『すこし余計なおしゃべりが過ぎる』と義娘にも忠告されてしまうほどの自分の性格を熟知している友に頼んだのだから覚悟しているだろう。

 

「はい……今度は私の力でウィリアムを雇ってみせましょう」

 

 これで放浪癖のある傭兵も年貢の納め時だ。

 活気がつく第三王女に見えないようこっそり舌を出す騎士団長は、ふと、

 

(……それにしても、ウィリアムを呼び込んだと言い、<カーテナ=オリジナル>を持った国家元首を倒したといい、学園都市からの若い代表には驚かされる。結局、直接刃を交えることはなかったが……)

 

 ―――昨朝、『処刑塔』でみた“彼女”は何だったのだろうか?

 戦闘に特化しているとはいえ騎士団長の真贋をも欺くとは、相当に高度な技術だ。

 ……自分と一緒に視察したあの女狐が一枚噛んでるのは間違いないだろうが。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『っ、……はぁぁあぁぁぁッッ!!!』

 

 吐きだした息と共に、かっ、とまなじりに力を込めて地面を力強く踏み込み、その勢いを駆って木刀を一気に振り抜き、全体重を乗せて激しく、合わせて振り抜いたこちらの一刀とぶつかる―――!

 

 バキィィンン―――ッ!!

 

 乾いた打撃音が鳴り響き、周囲にいた鳥たちはその轟に驚いたのか、慌てて一斉に飛び立ってゆく。上条詩歌は、しばらく振り抜いた姿勢のまま静止していたが……やがてふっ、と息を吐いて、木刀を持っているはずの手をみる。

 カラン、と宙空にはね飛ばされた落とし物は、ちょうど彼女の後ろで、真っ二つだ。その前にいる自分の手にはそれと同サイズの木刀がある。

 

『ん……以前より火織さんの居合に近づいたと思ったんですが、まだまだです』

 

『……確かに、形としては随分と様になっていますね』

 

『私は、いい加減な気持ちで何かを欲しがるようには躾けられてません。それに教わるからには教わった相手にも恥ずかしくないくらいに極みを目指さないとね?』

 

『あなたの一途さには毎度驚かされます』

 

『それに本当は乗り気ではなかったのならなおさら。これも随分無理を言って、教えを請うてますから、頑張らないと』

 

『そうですね。あまり、私は人に教えることには慣れていませんでしたから』

 

 インデックス(あの子)が記憶するのは文字や情報で、ステイルが開発した新しいルーンとは違って、武芸と仕草に術を取り込んだ天草式のやり方は頭ではなく体に覚えるもので、このように教える機会はなかった。

 と。

 神裂火織は苦笑交じりに肩をすくめながら……内心では、驚きを隠すのに必死だった。

 今し方、二人がぶつけたのは、魔力こそ込めていないが、<唯閃>の身体運用法からの、抜刀術。神裂が<聖人>としての力を発揮させるための天草式十字凄教に伝わる、一撃必殺の居合抜きの剣術である。

 ……だが、いまだに信じられない。

 この剣技を習得するために、自分はかなりの時間を要した。実戦も含めて何度も試行錯誤を繰り返し、それこそ血のにじむような思いで身に付けたものだ。

 

『………』

 

 弾かれこそしなかったが、神裂の木刀には、うっすらと線、罅が入れられている。木刀とはいえ、手に握った得物はその者の魂が込められている。それがあと少しで折れるところだった。試合前に、同じ力を投影し、武器も同じ条件だが、見事としか言いようがない。これだけの手練れは、おそらく戦場を豊富に経験した武人であっても稀であろう。

 だが、この<唯閃>。身体運用だけでも鉄すら裂くことができるが、繰り出した際に手足の関節にかかる力の反動と衝撃は並大抵のものではない。下手をすれば、筋肉を痛めるどころか関節と骨が砕けてしまう、まさに諸刃の剣なのだ。こうして教えているのも、その自滅の危険を下げるためでもある。

 そして、それを神裂が可能としているのは、幼いころより鍛錬してきた肉体と戦闘技術、そしてなにより<聖人>であるところが大きかった。

 だからこそ、他の天草式の仲間達には習得が無理だと思っていた。

 しかし。

 あの海の一件から、身体の動かし方等を参考に練習していたようだが、それでも数ヶ月でこのコツを掴んでいたとは……そして、鍛錬相手に付き合い、多少の指導をしていたとはいえ、良くここまで模倣しているし、動きと姿勢は理にかなっている。

 日頃の収斂が実を結んだ結果でもあるだろうが、これが見よう見真似の見稽古でコツを掴む域に到達したとすれば、抱く感想は賛美や驚嘆ではなく、もはや脅威に近いものだった。

 

『ですが、最初にも言った通り、詩歌に人斬りの道具は合っていません。技術に関しては、免許皆伝を与えてもいいでしょう。今のあなたは私と同じ<聖人>で、同じ木刀を使った。なのに、私に打ち負けた』

 

『……やはり、経験。<唯閃>は火織さんに合わせた技であって、いくら調整しても私では無理がある。それに、力勝負をするには体格の差があったと思いますが』

 

『ええ、それもあるでしょう。しかし、あなたにはそれを補って余りあるセンスがある。遠慮などしなければ、私の木刀も()れていたはずです』

 

 この打ち込みが、人――神裂が相手でない物の場合と比べて、弱い。刃が鈍。つまり、甘い。

 

『そもそもこのような凶器に頼らなくとも詩歌には優れた体術があるではないですか。護身術として十分です。剣術とは己を守るのではなく、相手を殺す業。そして、この稽古の最中でも相手か、その周囲の者……あるいは自分自身をも傷つけ、最悪命を奪うこともある。ですから常に、相手を傷つける覚悟を持っていなければならない』

 

『私にはそれが足りない、と?』

 

『ええ。生半可な気持ちでやれるものではありません。木刀(これ)で躊躇うようなら、刃物は無理です』

 

 だけど、これはむしろ褒めているのだ。天賦以上の才能や地道な努力がありながら、『殺し』ができない。それで、いい。それが、いいのだ。これは才能よりも大事なものだと女教皇は思う。

 

『これまで、はっきりと聞いてきませんでしたが……何故詩歌はこうまで力をつけようとしているのですか? 今の情勢からして代表であっても強くあることは必要ですが、あなたはすでに十分強い。なのに、私に剣を習いたいというのは些か行き過ぎているかと思われますが』

 

 これまでの付き合いでも、およそ、望んで争いごとを起こすような性格ではない。心優しくて穏やかな少女。そんなところがあの子と同じで……このような剣術への強い意欲には一層結び付かない。

 ならば、何故、彼女にそこまで努力させてきたのは、一体どんな理由からだったのか……?

 

『そうですね。……実は』

 

『実は……?』

 

 すると詩歌は、真面目な表情でこちらに向き直って。

 

『―――剣の達人のメイドって、何だか素敵でしょう?』

 

 ずるぺっしゃぁぁんっっ!?!?

 

 非常にドたわけな理由を、ほざいてくれやがった。

 

『……は、はぁぁあぁぁぁっっ!?』

 

 思いっきり盛大にずっこけてから、神裂さんは素っ頓狂な声を上げて起きあがる。

 だが、そんな女教皇の反応にも構わず詩歌は手を組みながら、天を仰ぎ見てきらきらーん☆と目を輝かせてのたまり回った。

 

『ええ、今でも思い出します。メイド姿の火織さんが見せてくれた、あの剣の舞の華麗な姿を!』

 

『いえ、いえいえっ!? アレは見せたのではなく、見られたのであって。あとあの時の服はあなたが着せたもので、というか、それは忘れるつもりではなかったのですか……』

 

『風のうわさで英国淑女のお手本たる女王も、メイド服を収集してるとかなんとか。ここは一代表たる私も見習わなければ! ふんすっ』

 

 そんな、呆れと白けが全開した呟きを完っ全に馬耳東風で、詩歌さんはひとり勝手にうっとりと悦に浸ってる。

 あれ? これってまさままだトランスちゃってるの?

 それとも、またウチの馬鹿どものアホウな趣味に巻き込まれたんですかっ!?

 ……頭が、痛い。ものすっごく。

 とりあえず、メイドブームの火付け役はごめんである。

 そう気持ち一歩引くと、

 

『……ぷっ、あは、あはははっ!』

 

『え?』

 

『なんてね。嘘に決まっているでしょう? 全部冗談ですよ』

 

『う、嘘……冗談っ?』

 

 詩歌の言葉に、へにゃへにゃと腰が抜ける。何を言い出すかと思えば、彼女の冗談……っ?

 

『し、詩歌っ!』

 

『ふふふ、ごめんなさい。この前、中々面白い体験ができましたから。ちょっとお返しにからかってみました』

 

『あ、悪趣味です……真剣に悩みましたよ』

 

 苦り切った気分で、18歳の女教皇は頭を抱える。

 まったく、彼女は優しい子だが、同時にあの主教のように侮れない性格も持ち合わせていた。

 本気で、組織改革を実行したくなってしまったじゃないか。

 ……………。

 私のせい、ではないと思う。たぶん。

 ふぅ、と小さくため息をひとつつく。

 それを見て詩歌は悪びれた様子もなく、ふふふっ、と明るい表情でコロコロと笑い転げていた。

 

『……仕方のない人ですね』

 

 本当に、悪戯好きな性格だ。ある意味では童心を忘れない可愛い性格、に見えるかもしれないが。やられるほうはたまったものではない。

 けど、詩歌には、それを許せてしまう不思議な雰囲気がある。

 人をかき回しておきながら、いつも丸く収めてしまう。得な性分である。

 

『ごめんなさい。でも、初めて見た時から、格好良いと思ったのは本当です。火織さんの剣の腕、本当に素敵で……あの時は。大天使を殺さずに止めようとするその信念に見惚れるくらいに憧れてしまった』

 

『そう、ですか……』

 

『フランスでは、武器の扱いに加減が効かず、無駄に暴れてしまいましたからね。あれは、ごめんです』

 

 詩歌はそこで笑いを止めると、ひとつ間を置くように言葉を切る。

 

『もう一度』

 

『……えっ?』

 

『もう一度、お願いします』

 

『……。いいでしょう。さぁ、準備ができたらいつでも』

 

 して、腰から放す――鞘から放した状態で木刀の構えをとる。

 

『何にせよ、私が力勝負に向いていないのは事実。火織さんが免許皆伝というのなら、これより先に行くには、型を自分の形に創出する。真説からの開拓。<唯閃>変形、<一天>。不完全ですが、付き合ってくれますか』

 

『ええ、遠慮はいりません』

 

 ……そうして、二本の木刀が宙を舞った。

 

 

 

 結局、最後まで表舞台には出てこなかった『清教派』の主教だが、裏で一枚噛んでいることだろう。<連合の意義>という歴史上初の国家レベルの大魔術は、下手をすれば根幹を揺るがしかねないもので、『王室派』の一存で行使できるはずもないのだから。

 

(だとしても、魔術的な事件にあの兄妹に関わらせるどころか任せっきりにしてたのはどうなのでしょうか。頼りにしてたのはこちらもなんでしょうけど)

 

 彼女達の強さは神裂も信頼している。一度とはいえ、未完成だがこちらと剣術で引き分けたのは記憶に新しい。

 何にしても、臨時ではなく本当の指揮官が現場にいなくても『清教派』がやることは変わりなく、変革が終わっても後始末、崩れそうな瓦礫の撤去に負傷者の手当て、及び重傷者の搬送とやることがたくさんあり、シスターたちがあちこちで駆けまわってる。

 <カーテナ=オリジナル>を破壊し、<カヴン=コンパス>を基地へと自動移送させたと連絡が入ってほっと一安心してから、

 

「はうあっ!?」

 

「っ!? いきなりどうしたの五和? 槍を空に向けて」

 

「い、いえ……その、上から何かイヤな予感が……」

 

「まさか敵が?」

 

「ち、違います対馬さん。……でも、あの人が危ないような……色んな意味で」

 

 ちょっと五和の乙女第六感が反応したこともあったが、一仕事を終えて、神裂火織はもう一息つく。

 そんな女教皇に声をかけたのは、元教皇代理の建宮斎字。

 

「……で、結局今回も上条兄妹に美味しい所を持っていかれてしまったのよな。これはこれはデカい借りが高利貸級に膨らみまくってるとは思いませんかなのよ、女教皇様」

 

「ちょっ!? 何を土御門のようなことを!! こっ、今回はみんなで力を合わせた結果なんですから、功績はみんなで平等に分配するべきです。そこに貸し借りなどはありません。ねっ?」

 

「いいや、是非これを女教皇様にも受け取っていただきたく」

 

「ええ、ですから、あんなものを着るのは二度と御免です!! ―――え?」

 

 断固拒否、と構えていたものの出されたものを見て肩すかしをくらう。

 神裂に、代表して建宮が渡したのは、堕天使メイドなどといった代物ではなく、巻き物のようにまとめられた羊皮紙。

 

「何ですかこれは……?」

 

 一度<最大主教>にシスターアイドル計画を提出した前科のある彼ら新生天草式の男衆がだ。

 つまりまさかメイドものの企画を……と訝しみ―――はっと、見開いた。

 

「このクーデターの合間合間にも、『騎士派』の連中にも声をかけてオルソラ嬢らと手分けして集めたのよな」

 

 嘆願書。

 処刑塔収監が偽装だとはすでに周知しているだろう。だが同時に、何も言わずとも神裂火織が抱えていた何か――上条詩歌の禁忌指定も勘付いていたのか。

 魔術社会で裁くものとして、相手が誰であろうと斬らなければならない。

 だが、世の中に絶対はなく、何事にも例外はある。

 

「今ならば、恩赦と受け入れてくれるでしょう」

 

 これまで奇蹟を見せてくれた彼女に、怪物として殺されろ、と毫も揺らがずには言えない。それを口にすれば、あの奇蹟を奇蹟と認められなくなる。

 それはそれで、より『必要悪』の意志が鉄よりも硬い鋼となるような経験になるだろう。

 だが、この乾ききった世界を生きるのに、あえて水を捨てる必要もない。

 それを、惰弱、と取るか、人間味、と取るのかは人それぞれであるが……

 

「あなたたち……」

 

 建宮の他に男衆が背後でこちらに頭を下げている。

 あの兄妹がそのために戦ったわけではないが、これは恩を返せるものかもしれない。

 それだけの材料と、これだけの想いがあるのならば。

 

(なのに、私はメイドなどと彼らを疑ってかかるなど……)

 

 自分の目はまだ曇っていたのか。だが、今感極まって流れ出るものに洗われたであろう。彼らはやはり自分と志を同じくした最高の仲間達だ。もう疑いはしない。

 

「つきましては、女教皇様。更にもうひと押し、プレゼンでアピールを考えてみたのですが」

 

「はい……! 何でしょう? 是非見せてください」

 

 神裂は潤む目元を少し拭った。と―――

 

「―――さあ皆の衆。我らが愛しい姫様の一大事だ。これまでの大恩に報いる時だ。救われぬ者だとしても、それに手を差し伸べる気概はあるか!!」

 

『応ッ!』

 

 建宮がよく通る声で叫ぶと、後ろで陣形を取っていた天草式男衆達がそれに応えるように一斉に大声を上げた。凄まじい轟声がビリビリと空気を震わせ、鼓膜を強く叩かれた周囲の人々が何事かとこちらに視線を集める。

 

「ん?」

 

 そこに、何故か、若き女教皇はこの一体感のハイテンションっぷりに不穏な気配を感じ取る。また神裂の元にきたのが“男衆だけ”という事態にもう少しだけ早く気づくべきだった。

 

「姫様に恩を返したいか!?」

 

『応ッ!』

 

「ええ」

 

「姫様の笑顔が見たいか!?」

 

『応ッ!』

 

「ええ」

 

「姫様のこの新聖母モード、スーパーメイド・ゴッテスのお姿での恥じらいをもう一度拝みたいか!?」

 

『応ッッッ!!!!!!』

 

「えぇ、ぅん???」

 

 バッ!! と旗のように掲げたのは、未発売品のメイドシリーズ。ここに新生天草式(男衆)の大魔術が発動する!

 

「ちょ――「今こそ! 我らが熱い魂の情熱を放つ時! 賛美せよ、神々しい聖母の御名を!」」

 

『SHI・I・KA!

 SHI・I・KA!

 L・O・V・E・SHI・I・KA!』

 

 ロンドン中に熱狂が反響する。アップテンポに手拍子揃え、そのリズムに合わせて男衆は腕を上げたり腰をひねったり、動きをシンクロさせていく。わりとガチなプレゼン……パフォーマンスは昨日今日で練習したなんてレベルを遥かに飛び越えている。連携が得意な天草式ではあるが魂が共鳴しちゃってる。これは、もう、あれだ。号令とか問答とかではなく、アイドルのライブ。この昂る気がメイド戦士に集まれば、かの破壊神をも退けた伝説のスーパーメイド・ゴッテスに覚醒する可能性があるかもしれない。

 ハラリ、と羊皮紙の巻き物から<冥土の天国(メイド・イン・ヘブン)>と書かれた企画書が……

 

「そして、姫様が出て場を盛り上げたあと、ここで女教皇様達が『メ・イ・ド』を纏って出動すれば、きっと心が動かされるのよ」

 

「まさかそれを真剣に考えてるわけではないでしょうねッ! ただでさえ! ただでさえ『清教派(ウチ)』と『王室派(あそこ)』のトップはあれなのにッ!! あなたたちを見直した私の感動を返してくださいッ!!」

 

 というか、これでは逆に恩が増えてる!

 あんな趣味全開暴走爆走誰か止めろ! てな感じにさらなる改造がされたものは、いくら詩歌でも遠慮するに違いない。いや、OKでもNOしてくれ!

 やはり、男衆は抜本的に見直してもダメだった、と。もう末期で英国と同じく変革を起こすべきか。

 何にせよ、これ以上醜態をさらすのは(ノリノリで真似する人間も出てきたので)色々な意味でよくない。それに『SHI・I・KA』と雄たけび上げるも目の前にいるのは神裂だし、つまり、何も知らない人間から見れば、神裂が『詩歌』と見られて、注目されているわけで期待の眼差しが向けられている。一応、十字教系列の組織の教祖的ポジションの女教皇だが、こんな崇められ方はイヤだ。

 

「いいや、女教皇様はまだメイドの感動を知らんのよな」

 

「えぇいっ、メイドの話はもうお腹いっぱい聞きました! また半日かけて『メイド萌え』の面妖な語りに付き合うつもりはありませんっ! 反省文(レポート)の提出も結構ですっ!」

 

 だんっ! と地面を踏み鳴らしながら無用この上ない演説を遮断する。

 あのメイドな騒動の後に、反省文を書かせたが、参考書並にまとめられたのを見て神裂らの方が頭が痛くなった。唯一詩歌(またもや若干五和が同調しかけたが)が彼らの情熱は胸に打たれますと理解を示したような感想をくれた。

 が、男衆はその不明さを嘆くように、代表して建宮元教皇代理はちっちっち、と不敵に指を左右に振りつつ、胸を張って女航行様に向き直った。

 

「違うますなのよ、女教皇様?」

「我々がこの前お渡ししたのは序章の前書きで『メイドとは?』です」

「本編はその後に続く第一章『メイドさんになるには』と」

「第二章の『メイドさんの美しさについて』。そして、第三章の―――」

 

「そんなもの未来永劫聞きたくも知りたくもありませんっ!」

 

「私達はあの時、ピュアメイド覚醒で目が覚めたッス」

「聖衣だけでは、画竜に点睛を欠いた無機質な価値でしかない」

「そこに血肉を通わせ、聖女の如く娼館を更生させた後光がさすにはその人の美こそが重要!」

「そして、その欠けたるカケラを埋め合わせる重要な要素がつまり! 乙女が生来に備える美を、万民に理解できる範疇で説くこと!」

「その際、胸! 太股! 二の腕! うなじのくびれ! の露出が多くなってしまうのも致し方なのないことなのです!」

 

「あ、あなた達、変態性を無理矢理、正当化しようとしてませんか?」

 

「否! それは違う、違いますぞ!」

「そのよーに、ただ気の強い女性を『ツンデレ』とひとくくりにする無学蒙昧な輩のような考えでは、人の革新など起こり得ないのです」

「美学に基づく観点を卑しくも猥雑なものとして捕える発想はまさしく恥であり、愚劣というもの!」

「だいたい! あの現人神的なピュアメイドにそのような邪な感情を抱くものは漢じゃないのよ! いや、人間ですらない! ケダモノだ!」

 

「……私には、そういうあなたたちのほうがケダモノに見えますが」

 

「私達は真剣に!」

「ええ、女教皇様方の嫁入り衣装にと」

「どんなメイド服ならば気に入ってもらえるのかと」

「それはもう日毎夜毎悩んで、考えて、模索して―――」

 

「むしろ余計にイヤになってますっ!!」

 

 と、嘆願書だけは大事に回収すると、この『大たわけ』どもを第二王女と同じく暴力で黙らせた。

 

 

閑話休題

 

 

「むむぅ~、一体いつになったら降りてくるのかも~。ステイルもちゃんと捜して……あ、かおり!」

 

 と、留守番を任された仔犬が鳴いてるのを連想させるような声が聞こえたと思ってちょうど“始末”した神裂が振り返ると、先の第三王女と同じく捜し人を求めて歩き回りながら上空を見上げるインデックス――その後ろにお供のように付き従う、も散々振り回されて顔に疲労を滲ませる赤い神父のステイルが、こちらへやってくるところだった。

 

「とうまとしいかは?」

 

「第二王女と帰還すると連絡がありましたが、それ以降はまだ」

 

 未確認と応えると修道女はますます不機嫌に。

 何せ方位の空中要塞で日蝕を起こすほどの高位置につけたのだから、落下するにしても時間がかかるだろう。―――が、ようやく<聖人>の視野に。

 

「いえ。風に少し流されているようですが、あと少しで戻ってきますよ」

 

 二人とも無事で、と最後に付け加え―――異変が起きたのは、その刹那だった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――っ!?」

 

 地面まで残り100mを切ったところだった。視界の奥、シャッターにも似た、街の一画が一瞬光った。

 兄妹の行動は早い。詩歌は足を引き抜いて靴の裏を愚兄の両肩に乗せ、当麻も第二王女を左片手に脇に抱え、右手に自由にした。

 

「蹴ります!」「来い!」

 

 二人分ならとにかく、三人分の急制動は無理がある。だから、蹴り離した。

 空中で分離。

 直後、恐ろしい風切音がして、瞬刻前まで当麻達がいた空間を一条の光線のようなものが擦過。

 

(なんだあれは!?)

 

 背筋がぞくりとする。

 だが、考えている余裕もない。

 真上。当麻を踏み台に跳ぶより、当麻を下に蹴り飛ばす方を意識したのか、回避行動が一手遅れた詩歌。余波で起こった猛烈な突風に強かに叩かれて賢妹の華奢な体が宙を巻く。

 離された。落下まで50mもない。それよりも詩歌は無事か! と当麻はくるくる回る妹を目で追い、だから、二撃目に反応が遅れた。

 

「何をとぼけてるの馬鹿兄! もう一発来るぞッ!!」

 

 元より、空中では当麻に回避はできない。だが、<幻想殺し>が―――

 

「なっ―――」

 

 ゴバッ!! と衝撃波が当麻を襲い、その反射的に右手を盾にしても殺しきれない勢いに飛ばされ、抱えたキャーリサと地面に叩きつけられようと―――

 

「ちっ!」

 

 落下直前、第二王女が動いていた。

 <カーテナ>がない今、直接的な攻撃術式はそれほどない。魔術師としての実力ならば人並だ。ただ、それでも飛空術式は、落とされ易いもののそれなりの実力でも扱えるもので、簡易的にやや強引に落下衝撃を和らげたのだろう。

 

「ぐぅっ!!」

 

 それでも勢いは止まらず当麻とキャーリサは何回転も転がって遠くへ離れていく

 無事であることを余波の暴風に巻かれて錐揉みに回転する視界の中で、詩歌は彼らの呻きを遠く聞いた。

 

「今、のは……」

 

 直接は喰らわなかった賢妹の方が、事態の重大さに気づくのは早かった。

 ―――つまり。

 <幻想殺し>が弾かれたのだ。

 『打ち消す』ことに関しては、あらゆる魔術も能力をも超越する右手が、閃光に弾かれたという現実。

 異常と、頭につけても良い。

 奇蹟とも―――災厄とも呼んでもよい、何か。

 それが放たれた先に、誰かがいた。

 

「なるほど、流石は俺様が目をつける稀少な右手だ」

 

 ―――呼吸を止めてしまう。

 ―――瞬きも忘れてしまう。

 

 赤を基調とした服装の男、大して鍛えているとも思えない体つきだが、恐ろしい。

 それは、『力』の強さとか弱さとかではない。

 異質、だ。

 こちらの理屈(ルール)を問答無用でねじ伏せる、別次元の鬼札(ジョーカー)

 

「まさか……」

 

 今すぐにでも当麻たちの元へ駆け付けたい気をまだ頭の中の冷静な部分が抑えて、詩歌に踏み留まらせる存在。

 この展開で出てくるのは、詩歌が予想する中でも一人しかいない。

 

「『右方のフィアンマ』……!」

 

 ローマ正教を陰から操る<神の右席>の最終であり、最大の力を持つもの。

 得た情報では、たった一撃でローマ教皇を降し、聖ピエトロ大聖堂を半壊させた。

 そして、この変革の『裏』に何かがいると感じ取っていた答え。

 

「ほう、すぐさま俺様の名を口にするとは愛いヤツだ」

 

 このロンドン、イギリス清教はローマ正教と敵対している異端狩りだ。

 いわば呼ばなくともすぐ応援がかけつける敵陣の中央へ、無防備に姿を見せたに等しいのに親しげに言う。

 口調はふざけているのに、その声の静けさ。

 一瞬、詩歌は耳を疑った。

 声音までも、真っ赤に思えたからだ。

 ふざけたまま、心の奥まで焼き尽くすような、侵略するような――けして強い口調でもないのに耳を塞げない――そんな声音であり、そんな人格であった。

 そんな人格であろうと、たった一言で賢妹が感じ取れてしまう聖者であった。

 

「クク、そう見つめるな。俺様の『右手』に見惚れるにしても、少しは慎めよ。露骨に覗かれたら俺様も“期待に応えて披露したくなる”だろう」

 

 本人は遊び半分で口にしたのだろうが、詩歌は内心で青ざめた。

 愚兄でも打ち消せなかった『右手』の力を見せれば、この周囲一帯は、バチカンの二の舞になる。見せしめとして、ロンドンにいる皆がローマ教皇と同じ目に遭う。

 常時ならば対抗も考えたが、今は変革で消耗したばかりだ。

 しかし、不幸中の幸い、そのおかげで戦意を噛み殺せるほど冷静でいられ、口にすべき言葉を、ひとつに収斂させる。

 

「失礼しました。もうご存知かと思われますが、初めまして。上条詩歌といいます」

 

 一勢力の代表――マスコットは至極丁寧に礼をする。

 

「それでこの格好では些かはしたなく、衣装直しをする時間をいただきたいのですが」

 

 戦闘で、黄金の全次元切断に裾や襟が裂かれた和装の上着。仮縫いで止めてあるも、“慎みのある”淑女が殿方の前に出るには恥じらうもの。

 

「いいやぁ。泥に塗れていてもお前は美しい。実際に(まみ)えてみたが、そのあり方は類稀なる奇蹟の結晶だ。その肌を衆目にさらすのは業腹だが、“まだ”俺様だけのものではないからな。許そう」

 

 あくまで寛容に―――その余裕こそが恐ろしい。

 しかし、その余裕があるから会話になっている。

 けして戦闘になってはいけない。どうにかこの状態を交渉へと持っていかなければ。

 

「だが、代わりに三つ、俺様の問いに応えてもらおう。なに、そう畏まる必要はないぞ。ここで俺様が姿を現したのも世間話がしたかったからな」

 

「私と?」

 

「ああ」

 

 応じつつも、警戒は解いていない。

 詩歌は五体へ緊張感を張り巡らせつつ、薄紅の艶のある唇を半ば開き、透明な(まなこ)で鏡に映すよう聖者の一挙一動を視察し―――逆にこちらも舐めまわすようにじっとりと見られる。支配的でどこか男性的な気配が濃厚に伝わる。

 詩歌は身を引き、顎も引いて、上目遣いに強気にも聖者を見返す。

 冷静な賢妹の透明な、ほんのりと朱に染まる表情の上を、ほんの一瞬、嫌悪と不穏が通り過ぎたように見える。

 その様子に、フィアンマの笑みはますます深くなる。

 このまま何も言わず、見つめ合い続けるのも詩歌には我慢できそうになく、少しの間をおいて、自分の方から切り出した。

 

「やはり、英国にいらしてたんですね」

 

「やはり、か」

 

 と、フィアンマは頷く。

 

「それをいうならこちらもやはり俺様が英国にいること、その狙いも予想済みだったのか」

 

 唇をほころばせて、フィアンマは続ける。

 

「夢見がちなお姫様がくだらんママゴトを起こさなくても、

 ローマ正教経由でせっつかせたフランスとガチで戦争させるか、

 別行動の十三騎士団がイギリスを支配下に置くか、

 この大陸の<竜>を暴れさせて死病に侵すか、

 仮初の<神の如き者>に蹂躙させるって試した方法は色々とあったが、

 このロンドンは虐殺と略奪と凌辱と破滅の嵐にならずに、しかも俺様の目的を防いだんだ。<禁書目録>をここまで大事にするとは、『管理人』としての職務をよくまっとうしている」

 

 フィアンマは本当に深い意味などなく素直な感じで拍手する。

 真剣に感心しているように見えた。

 

「<カーテナ>なんてお粗末な品じゃない。この混乱を機にイギリス清教の最暗部に保管されている『あれ』を奪いに来た」

 

 と、フィアンマが見せつけるように手に握る『アレ』は金属製で、数字の代わりにアルファベットのダイヤル式の錠前。本来、その小さなリングに26文字ものアルファベットを刻めるスペースはないはずだが、不自然なトリックアートのように収まっている。文字がひとつずつ刻まれているというより、リング状の液晶に必要な文字だけを表示されているようなものなのかもしれない。

 その正体をフィアンマは自らの口で教えてくれる。

 

「<禁書目録>に備え付けられた安全装置―――<自動書記(ヨハネのペン)>の外部制御霊装と言ったところか」

 

 『王室派』と『清教派』のトップだけがもっている秘蔵の品。

 <原典>の汚染の可能性があることから、使用は本当に最後の手段となる。が、この危険な保険があるからこそ、『一年ごとに記憶を失わせる残酷なシステム』を考えた<最大主教>が<禁書目録>は何の保険もなく科学の街にポンと預けられたのだ。

 

「複数の安全装置があるからこそ、インデックスさんの基本的な人権が保障されています」

 

 論理では理解しているものの、感情では納得していない顔で詩歌は言う。

 遠隔操作でロンドンから操作できる仕組みを構築していなければ、常に『<禁書目録>が何者かに拉致される危険』を考慮しなければならない。それこそ、処刑塔の一室で永遠に幽閉したり、動けぬように四肢を切断したり。

 魔道書10万3000冊とは人間的な感情で左右されるものではないのだ。

 『コレは完全に制御可能な安全なもの』でなければ、いざ窮地に陥った時、『<禁書目録>は危険だから殺してしまった方が安全だ』という意見に反論できなくなる。そのような極論を封じるためにも、安全装置を複数用意していくのは必要不可欠なのだ。

 

「それが『クーデター発生と共に、重要な物品を持って逃げ出すように』指示されていた魔術師たちもがスルーして、バッキンガム宮殿の中にポンと放置されていたから、俺様の方も驚いた。―――ま、つい先ほど“試した”時にそれがようやく“偽物”だったとわかったがな」

 

 フィアンマは笑みを深くした。

 

「本当の意味で秘密の品だからな。外見だけの安全装置の偽物が造れたとしても、『管理人』としてそれを持ち出すわけにはいかない。ましてやその仕組みを触れただけで看破できてしまうのならなおさら触れてはならん。よって、俺様の存在と狙いを進言し、クーデター直前にすり替えさせた協力者がいるが、安全装置の存在を知っているとなると数は限られる……そいつはおそらく未だに姿を表に見せていない、用心深い第一王女だろう?」

 

 その消去法から来る指摘に、詩歌は肯定も否定もせずに、ゆっくりと瞬きする。

 

「<自動書記>を構成する上での重要な因子であった<首輪>は、この夏に当麻さんの<幻想殺し>によって破壊されました。それはきっと英国の上層部には予想外の事態だったんでしょう。それに修繕もされていないまま、遠隔操作などと無理をさせれば何が起こるか分からない。二度とインデックスさんが苦しむような真似はさせないと誓った私がその可能性をわずかでも見過ごすわけにはいかない」

 

 <誠実の霊>を付属システムにつけたのも破損した<自動書記>の性能を補修するためでもあった。

 

「そうかそうか」

 

 フィアンマはゆったりとかぶりを振る。

 少女の言葉をあっさりと受け流して、指を二本立てて、柔らかく、唇を開く。

 

「そろそろ、体が辛くなってこないか?」

 

 それは言葉面だけ聞けば単なる日常会話とも取れたが、実際には恐るべき意味を孕んでいた。

 肩を震わせた詩歌へ、聖者は更に問いかける。

 

「これまで、いくつの力を触れてきた?」

 

 まるで、その全てを知っているとばかりの言い草だった。

 

「その深みも、その哀しさも、その汚さを、その歪みにも気づいてるはずだ。その上で訊こう。―――お前は、今の世界の在り方が正しいと思っているのか」

 

 かすかに、賢妹は逡巡した。

 ひどく大事なところだと、そんな確信があった。

 一呼吸おいて、かぶりを振った。

 

「私は……思いません」

 

「ほう。間違ってると言うのか?」

 

「正しいとか間違ってるとか、簡単に決めつけるつもりはありません。でも、魔術であっても、科学であっても、世界と折り合いをつけて生きていく。そういうやり方もあるはずです」

 

「そうか、諦めないのか」

 

 ああ良かった、と聖者は胸を撫でおろした。

 

「だったら、『神上』はやはり俺様と共にあるべきだ。俺様達の力はそのためのものだ。俺様といれば、世界を正しい姿に変えられる」

 

 それから手を差し伸べ、

 

 

「この右手を取り、俺様の花嫁となれ」

 

 

 この局面で、その告白はどんな不意打ちよりも予想外な一言だった。さしもの賢妹も、ここまで常軌を逸した物言いには、しばし半口を開けてしまう。

 普通に考えれば、笑い飛ばさざるを得ない言葉である。

 法の書から始まり、大覇星祭、イタリア、学園都市、フランス、そしてこのイギリスでの出来事を考えても、フィアンマに与する理由などあるはずがない。

 なのに、フィアンマの声はあまりに不遜で、それ以外の選択肢を選ばせない何かを秘めていた。

 

「宣言しておこうか。お前が俺のものになるなら、戦争を止めても良いぞ。<禁書目録>も、<幻想殺し>も手を出さないと誓おう」

 

 そして、付け加えられた言葉には抗いがたい誘惑が、

 

「……それって」

「待てよ」

 

 詩歌が訊きかけた時、傍からとどめる声が、強引に肩を掴まれ後ろに下げられた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ゴッキィィィィ!! と。

 凄まじい轟音が莫大な閃光と共に場を圧す。

 

 

「ほう、まだ俺様に刃向って来るか」

 

 あまりに巨大な力は、勢いをつけて殴りかかった愚兄の身体を大きく跳ね返し、しかしそれを後ろからキャーリサが支えた。二人分の靴底が地面に摩擦痕をつけたが、今度は踏み止まった。

 

「随分と好き勝手言ってくれるじゃねぇかテメェ」

 

 吹き飛ばされ、すぐさま駆け付けたが、交渉という場の空気を察した第二王女に当麻は邪魔するな、と静止された。そして、賢妹が時間を稼いでいる隙に準備しろ、全ての戦争の元凶をここで逃すな、と―――が、奇襲を仕掛けるとか応援を呼ぶとかいう賢い考えはまとめてぶっとんだ。

 

「世界を救うだの戦争を止めてもいいだの、いちいち持って回ったご大層な言い方をすればいいってもんじゃねぇ」

 

 低い声に、鋭い眼。

 打ち消せなくても、愚兄の迫力には寸分の衰えもなかった。肩から猪首が盛り上げて更にギアを上げるよう、大きく右腕をぐるりと回す。

 ゴキゴキ、と骨と関節から外へ音が鳴った、がそれ以上に胸が軋む。

 今の暴威を見せられた、ということもあるだろう。

 だがそれ以上に、あんなふざけた目で詩歌を見つめ、脅しも同然の殺し文句で触れようとした男に吐き気がする。

 たとえこの五体が砕かれたとしても、それだけは許せるはずがなく、戦争まで決意してもこの手で殴り飛ばしてやらなければならない。

 そして同時に。

 愚兄の全神経が警報を訴えていた。

 <神の如き者>の時とは違う。上条詩歌をフィアンマと戦わせてはならない、と。

 上条詩歌が危機感を抱いた以上に、何の確証もなく上条当麻は何かを感じ取っていた。

 

 と。

 バシッ、と後頭部に衝撃。

 

「この馬鹿な兄の頭に自重という文字がないのはよーく解ったが、貴様も『右方のフィアンマ』ならこれまでしでかした悪さぐらいは心得てるのだろーな? 先程はペラペラとしゃべってくれたよーだし」

 

 愚兄の頭を叩きつつも、フィアンマを睨むキャーリサの眼光は鋭さが宿ってる。

 実質的に<神の右席>のリーダーであり、倒せば戦争が終結できるかもしれない相手だが、それだけではない。

 この聖者はつい先ほど、自らの口でイギリスを破滅させるつもりであったと述べた以上、一時とはいえ国家元首として君臨した第二王女として退くことは出来ぬ。

 

「ああ、知ってるぞ」

 

 と、キャーリサを前に、何も悪びれずフィアンマは首肯した。

 

「だから、どうした?」

 

「ローマ教皇がどーして最後までお前に抗ったか、よーく解ったの」

 

「そうかい。なら同じように頑張ってくたばってみるか? 良いぞ、こちらは不格好で申し訳ないが、温まってきたところだ。片手間で相手してやろう」

 

 愉しげに笑いを噛み殺すフィアンマ。

 だが、その目は殺気立ってる愚兄と第二王女を見ていない。

 聖者は賢妹だけを見ている。

 あの無遠慮な燃える目で、ごちそうを前に舌舐めずりするような表情で。

 カラスの濡れ羽色の髪。処女雪のように白い肌に細い首。鎖骨は感情が高ぶっているせいで薄くピンク色に上気している。所々破けた和装の布地越しに大きく押し上げる果実はたわわに実り、滴るばかりの甘さに身を重くしている。芸術品のような体だ。

 そして、何より、その中身は……

 

「落ちついてください」

 

 対し、詩歌はそう言った。フィアンマではなく、第二王女と当麻に。戦うにしても機ではないと宥めるような声で。

 昨日今日の疲労を考えれば、もう戦うべきではないのだ。

 当麻にしても、いくら強化補助していたとはいえ、無理をしたその身体はすでに限界に近い。

 万全とはほど遠い状態なのに、<神の右席>とやり合うのは間違っている。

 当麻も冷静になる。

 そうだ。今の上条詩歌の状態は無理をさせるのはマズい。

 ここは逃げるのが得策だ。

 が、

 

「守られてばかりだなぁ。でも、それは仕方あるまい。俺様はわかってる。色々と調べさせてもらったからな。その苦しみはお前の『右手』では取り除けないことはよーくな」

 

 フィアンマの言葉はあくまで軽く。

 続く台詞は、上条当麻の大切な誓いを抉った。

 

 

 

「だったら、“俺様の右手で、救ってやろう”」

 

 

 

「―――っ!」

 

 抉り抜いた。

 守ってきた少年の――少女が大切にしている言葉と、そっくりの台詞を、この聖者は踏み躙るように上書きしたのだ。

 

「な……ん…つった」

 

「祝福しろ。それがお前に許された唯一の役目だ」

 

 今度こそ、抑え込むことなど不可能だった。

 そんな思考の一欠片すら、煮えたぎる溶岩の如き情動に溶けて消えた。

 

「当麻さん! 駄目です!」

 

「どけッ!」

 

 初めて。

 そう、初めて、上条当麻は詩歌の警告を一顧だにしなかった。

 

「下がってろ詩歌……!」

 

 そもそも考えるなどという機能が殺し尽くされている。自制(ブレーキ)など壊れている。愚兄は煮えたぎる溶岩であり、炸裂し放たれた弾丸だった。この怒りを具現させた力は、目の前の相手を叩きのめすことだけに注がれていた。この久しぶりに、全ての能力どころか全ての精神の――その一滴までもただ一つに傾け尽す快感を、愚兄は噛み締めるよう味わう。

 最早、妹をその視界に入れさすことさえも我慢できない。

 詩歌を突き飛ばして、全身を刺す死の前兆を振り払うように走った。

 

 狙いはひとつ。

 その力を発揮する前に一か八か懐まで走り込んで、この右手でぶん殴る―――そこまで考えた時だった。

 まさにほんの一瞬の出来事。

 

「―――」

 

 身体が吹き飛ぶ。

 ―――何が起きたのか。

 音が消えた。

 いきなり場面が切り替わったように、フィアンマが消えていた。

 ただ、突き出した右手に強烈な衝撃だけが、ドバッ! と恐ろしく伝わる。

 

「が―――っ!」

 

 それは大聖堂が地図から消し飛ぶほどの威力であり、打ち消せずに自分の身体がゴミのように吹き飛ばされて、ようやく思考が現実に追いつく。

 あの黄金の切断と同じ、『絶対勝利』に殴り飛ばされた。

 フィアンマの右肩に翼のような、この世のものとは思えない、巨大な腕。それがキャーリサごと当麻へ爆発的に閃光を放った。

 たったそれだけの、単純な攻撃。

 しかし余波でキャーリサは弾かれ、愚兄の身体も勢いよくロンドンの路地を突っ切り、一度地面にワンバウンドしてそのまま建物の壁へと容赦なく叩きつけられた。一緒に妹飛んだ大量の礫が、窓どころか壁まで砕く。それから重力に引かれて、地面に落ちる。

 

「がっ、がは!? ごぼほっ、うげぇっ!!!」

 

 体は動かない。喉が詰まる。

 じゃりじゃりと口の中に入った砂と一緒に、呼吸を妨げる喉元に込み上げる血の塊を何とか吐いて気道を確保するも、頭はぐらぐらと揺れる。肋骨がギリギリと搾り上げ、内臓を隈なく握りつぶすような激痛。

 コレは紛れもなく死に近づいている。

 一番ひどいのは受け止めた右手だ。右肩から先の腕の骨がバラバラになったような虚無感、手先の感覚はとっくになく、痛みも鈍くて、本当に右手がついているかさえ、良くわからない。

 三半規管にもダメージ。回る視界の中で、一歩も動いていないその立ち姿だけは固定する。

 

「殺しはしない。一応、お前の不完全な『右手』も必要になるかもしれんからな」

 

 喘ぐ愚兄を見下ろして、聖者は嗤う。

 立ちあがれ、と頭が命令するが、力を籠められた手は大地を掻きむしるだけで、他の四体はなにひとつ言うことを聞いてくれない。

 

「だが思い上がるなよ。お前の『右手』は最優先ではない。単に『保険』だ。あんまり暴れるとあやまって殺してしまうかもしれん」

 

 逆らえば、殺す。

 これ以上、邪魔をすればそれこそ何の苦労も掛けずに実行するだろう。

 そんな現実を見せられてどうして身体が動くというのか。

 

「当麻さん―――!」

 

 倒れた愚兄へ駆け付けようとする賢妹。

 

「何をする。邪魔者はいなくなったんだ。お前がすべきことは、返事を待たせている俺様の元に来ることだろう」

 

 だが、聖者はそれを許さない。

 詩歌の進行ルートを遮るように、倒れた愚兄の前に立ちふさがる。

 

「っ―――」

 

 足を止め、聖者を睨む賢妹。

 両者の距離は十数m。詩歌ならば一息で詰められる間合いだが……

 

「……どいて、ください」

 

 詩歌の気配が変わる。

 ……覚悟を決めたのか。

 

「ふん。その様子ではまだ俺様のものになる気はないようだな。理解に苦しむが、まあいい。俺様のものになる前に遊んでやってもいいぞ」

 

 初めて、聖者から動く

 両腕を広げて迎え入れるように。

 

「私が、優先すべきは、あなたでは、ない。いいから、そこを、どけ」

 

「くっ、はは!! いいぞ、それでこそ俺様の伴侶になれる女だ! ああ、逆らってくれなければ力づくで屈服させる楽しみが減るからな……!」

 

 これ以上の問答は無用。

 この場で、単独で、聖者を打倒する方法を、思索し、施策し、試作する。

 ―――答えは明瞭。

 即ち、『第三の腕』の力以外あり得ない―――!

 

「―――」

 

 ―――賢妹の身体が霞む。

 指揮()を打つのに、コンマ数秒も要さない。

 一撃。二撃。四撃。八撃―――!

 火が放たれ、風が引き裂き、水で包み、雷が打つ。

 七色の虹光装置(ミラーボール)を見るかのような連撃。多彩な属性が炸裂するたび加速し、上下左右と変化が加えられる。

 詩歌はひとりで掌握できる力と残りの道具を有りっ丈、とにかく速度を重点に、弱点と死角を確かめる牽制を幾重にも連鎖させて繰り出している

 

「ほう―――」

 

 その動きを見ていたフィアンマは、声を出さずに感嘆していた。

 これだけ多種多様の術を扱いながら一工程から次の工程への迷いのない捌きは継ぎ目がない(シームレス)状態であり、美しいとさえ言える。技のキレは惚れ惚れする。<幻想殺し>のように突っ込んでこないのもいい。むしろ、これは鋭さは増している。怒れば怒るほど、冷静に、冷淡に、冷酷になっていく。

 最終兵器を用いた『前方のヴェント』も二重聖人であった『後方のアックア』も十三騎士団を従えた『左方のテッラ』とも対等に渡り合えたと聞いていたが、これはこちらの予想以上に技巧者かもしれんな、と思い直す。

 同時、上条詩歌は声を殺して驚愕していた。

 聖者は微動だにしない。

 聖者を微動だにできない。

 何もかもがその『右手』に弾かれる。絶対勝利。

 たとえ選べる選択肢が無数にあったとしても、その全てが最終的に敗北で締め括られる理不尽。

 しかし、

 

「それは予測通り」

 

 紐を引っ張るよう上条詩歌が手首を返されると、その指先から糸状のものが伸びていることに気づく。

 ―――鋼糸。

 有りっ丈の道具、閃光乱舞の陰に糸がフィアンマを中心に張り巡らされていた。

 これは聖者も見抜けなかった。

 詩歌は手指だけでなく歯も使って、一瞬で綾取りよろしく編み上げると、鋼糸を一気に狭めた。

 鋼糸はフィアンマの両腕と両足、そして首に至るまで巻きついており、自分の糸に絡まって吊られたマリオネットのような有様となっている。

 だが、捕縛を成したのは、その聖者の油断が第一要因だ。

 ローマ教皇が編んだ牢獄術式さえも一振りで破滅させたその力。

 しかし侮ることなかれ。

 『右手』で払って―――また鋼糸は縛りつく。

 

(この特注の鋼糸に当て嵌められた象徴は『根』であり、隠されているのは『植物のもつ繁殖力』。―――『雑草』は抜かれてもまた生える。破れても、敗れても一秒またずにまた挑む)

 

 その『第三の腕』は驚異的だが、フィアンマ自身が<聖人>のように強力な身体能力があるわけではないのはこれまでの反応でわかった。

 また手首を返して鋼糸を上に持ち上げると、そこに穴を通されたコイン――<六連銭>が、鋼糸をレールに滑り、下りの終着、『根』の中心へ、

 

 バババババババッ!!! と炸裂。

 

 粉塵。そして、閃光。

 今度は根こそぎ焼き払ったのか、自然繁茂拘束も連続再生爆破も一蹴で消し飛ばし、たがフィアンマはたたらを踏んだ。

 ついに。

 

「おっと」

 

 そして、その間に、ここまでやっと小石に転びかけた程度に生ませた隙に、フィアンマの真後ろ半透明の雲雀が襲い掛かった。

 

 多色の光が乱舞する前の、戦闘する前から陰で簡易的に仕立て上げた雲雀の形をした式神は、フィアンマの完全に死角を突いた。

 気づいて振り返ったとしても、このタイミングでは防御も回避も到底不可能な完璧な奇襲だ。

 だったはずだった。

 だが―――

 

 パンッ! と。

 呆気なく半透明の雲雀は、『右手』に弾かれた。

 

「混成、<玉虫>―――!」

 

 が、そこを接点に上条詩歌は『右手』をラインを結んだ。

 

「この力は……!」

 

 その力を把握しながら、詩歌は静かにフィアンマを見据える。

 その視線を受け止めてもなお嘲笑は崩さず。

 

「いいぞ、俺様の予想を上回った褒美に俺様の『右手』を使うことを許す」

 

 フィアンマの足が止まる。

 聖者も<幻想投影>の力を知っており、目に見えて余裕が消えていった。

 詩歌はフィアンマを見据えたまま、一度だけこちらに視線を投げる。

 

 

 

 ―――今のうちに離れて!

 

 先程の連射の間だろう。

 気がつけば、賢妹は愚兄のいる方に回り込んでおり、こちらを守るようにフィアンマと対峙していた。

 

 ―――だめだ! やめろ!

 

 言葉が出ないほど麻痺し切った体に鞭を打つ。

 地面に手を突き、力を入れる。

 

 ―――こ、の……!

 

 感覚などなかったぶっ飛んでいたくせに、いざ動かそうとすると骨という骨が軋んだ。

 その痛みは警告だ。

 体中にはしった罅が、これ以上動けば亀裂が大きくなり致命的になると訴えている。

 

 ―――ッ……! あ――はあ、は―――ああっ……!

 

 それを無視して、痛みを噛み殺す。

 構っている暇はない。

 今は一秒でも早く立ちあがって、詩歌を守る。

 何故ならば、悪寒がする。

 この上ない、不幸の前兆だ。

 この聖者と対峙した時に感じた予感。

 このまま賢妹を戦わせてはいけないという直感が、どうしても離れない。

 

 しかし、愚兄は遅く、すでに決着の段階に入った。

 

 

 

 その手には、回収した<カーテナ=オリジナル>の破片を包み込んだ紙。

 

「<幻想宿木>―――形態変化<選定剣(カーテナ)>」

 

 当然のように宿木が、選定剣を模ることを成功させる。

 いくら創意工夫を重ねようと、聖者の『第三の腕』に勝てない。それを模倣した所で、この反則的な力を振るうのが初めてでは、本物に負ける。

 だから、上条詩歌は技策と投影、両方する。

 この<神の右席>の右方の<聖なる右>の属性は、<神の如き者>。先程掌握した際に習得した『天使長の黄金の剣』という情報を基に作り上げた『選定剣』で補整。

 

「      っ!」

 

 80cmほどの切っ先のない木製選定剣が、一気に空気を送り込まれた風船のように膨れ上がり、亀裂が入り枝分かれ、左右から支刀が突き出した8mを超す三叉の大剣に生長。

 それを軸に、周囲が、光の膜で覆われた。

 

(これは……<カーテナ>の全次元干渉の応用、か)

 

 キャーリサが扱った場合は『軍事』という攻撃的な性格に合わさるよう『切断』という特性となったが、『選定剣』は使用者によって、その形を変える。母上エリザードが<カーテナ>を行使した力を見たことがあるが、自分のとは別物だった。

 上条詩歌が、<カーテナ>から引き出したのは、『結界』だ。

 次元遮断の光の壁は、下手なシェルター以上の強度をもって五重五次元に屹立している。

 あらゆる物体がもつ構成、立体を定義づける三次元。

 その物体自身の推移を示す、時間を定義づける四次元。

 そして、物体の状態における、可能性を定義づける五次元。

 正典ではなく偽典が正しかった、今の英国王室が民であった“かもしれない”『IF(もしも)』の平行世界。

 次元干渉とは、ある程度の“可能性”を捻じ曲げることはできる。

 『誰も近づいてこれない完全な人払い』、『これから起こる衝撃に誰も巻き込まれなかった』そのために。

 

 ―――しかし。それならば。もし。仮に。

 

 ここに、もうひとつの『ロンドン』があるとしたら、一度だけロンドンは破滅を身代われる。

 

(だが、『三本目(サード)』とも呼べぬ模造品が、ここまでのものを一瞬では不可能……そうか。このロンドンにいる人の感覚を借りたのか)

 

 <全英大陸>の応用か。

 <連合の意義>からコツを掴み、その技術を編み出したのだろう。周囲の人間の意識を、結界空間構築に反映させた。

 今このロンドンには多くの人がいて、そのひとりひとりがこの街を見たり、流れる音を聞いたりなどこのロンドンを感じている。要はカメラのようなもの―――『選定剣』をもつ女王が見えない場所も、皆には見えている。そうして明確なイメージを利用し成形された結界は精密であり、何よりも強固。

 かつて、『前方のヴェント』が襲来した際、強制命令文(ウィルスコード)を撃ち込まれた<最終信号(ラストオーダー)>の<ミサカネットワーク>で共有伝染された<妹達>が、学園都市に『虚数』の世界を敷いたように。

 これが孤高でない女王の技。

 この人々の幻想から『ロンドン』という心象風景を共有した情報で次元ごと現実世界を塗り潰した。

 

(生意気なヤツだ。私ができぬ技をこうも容易く……―――だが、それを実現させるための力はどこから出した? 木製選定剣(それ)に、<カーテナ>と同じ術式回路があろうと、<天使の力>まではないはずだぞ)

 

 だが、もしそれを成せたというのなら、この聖者を倒せるか。

 

 

 

(このままでは、負ける……!)

 

 判断する。

 左足を踏み出し、半身の姿勢で静かに精神を一点へと集中。

 左腕を聖者に向けて突き出し、弓を番えるように右腕の肘を引くと、片手に持った太刀を水平に構える。

 三又の切っ先を、左手の甲に置き、その刃を左の二の腕と並行にすっ、と這わせる。

 神裂火織との稽古で、またそれ以前に上条当麻との付き合いで、上条詩歌は己の腕力が人並みで、力勝負になった時点で自分はふたりに負けると自覚している。それは少女の身である以上どうしようもないこと。肉体を強化する術を用いれば、それも補えるだろうが、今はそこに割く集中力すら惜しい。

 故に、選んだのは、相手に劣る威力の補完するため、非力でも致命傷を与えられる一撃必殺の『突き』の構え。

 姿勢を沈みこませる。そして、開いた左手の二と三の指の間を照準として、聖者の――の位置に定め、右手に力を込める。

 刺突の技術は、実は斬撃よりも難しい。打突の力の位置が目標より手前だと威力が激減し、逆に奥だと身体を痛める。その上、放った閃撃の軌道を真っ直ぐに描く技量が必要だ。

 だが、攻撃が当てやすいがその分『線』として繰り出されるため防御もされ易い斬撃とは違い、刺突ならば相手にとっては『点』なので防御はもちろん回避も難しい。従って、力で劣る場合に最も効果的、かつ被害範囲も最小限に済ませての一撃必殺の威力を持つのは、刺突だ。

 唯一、本物の<唯閃()>と真っ向からの力勝負で引き分けた、この<一天()>の可能性に賭ける。

 

「覚悟は決めたか? 準備は整ったか?」

 

 フィアンマは、動かない。

 あくまでこちらを待つ構えだ。余裕に、こちらを見ている。相手の力に呼応して変化する右腕の力が、これまでになく、際限無しに高まることに限界に挑戦するように歓喜を覚えている。

 それと争うように、上条詩歌も。

 さながらそれは、生物が互いに影響し合って進化する『共進化』現象か。

 これを投影し続けることで、この次元結界が成すだけの力を賄っている。

 が、同時に世界の摂理に歯向かう代償(ペナルティ)も払っている。

 

(身体が……!)

 

 他人の生命に塗り潰されようが受け入れられたのは、殺されても不死鳥のように再生を繰り返せるだけの生命源があったから。

 でも、今、『絶対勝利』という鏡合わせに無限に高まる力を投影し続け、際限なく三叉の剣に注がれている。再生維持に割く余裕はない。

 生命力がなければ残るのは、異物の色に影響され易い、放っておくだけで世界に押し潰される幻想の身体。

 今の賢妹は、その裡から溢れてくる虹焔に触れられるだけで、燃える。

 

「詩歌! やめろ!」

 

 愚兄の喉から出た声は、遠い荒野から響く、野獣の唸りのようだった。

 右手が熱を……災悪の前兆が、感じ取ってしまう。

 今、詩歌がどうなろうとしているのか。

 それが噴火寸前の火口で、限界以上を解放すれば、燃える。

 

 ―――そんなモノ望んじゃいない!

    俺はお前が生きていてくれれば!

    ただ、生きて……笑っていてくれれば……!

 

 冷静に努めようとする頭の中とは別に、右手で感じる熱は熱くなり―――ついに、少女の身体が焔に爆ぜた。すべての細胞が爆炎を上げて爆発する。

 

 同時、上条当麻の―――

 

「な……」

 

 身体が……動かな―――

 なんで……?

 右腕以外に、力が入らない。

 左腕から熱―――まさか、使い魔契約の生命線のパスを使って、麻酔させているのか。

 強化もできるのなら、その逆もできる。

 今の愚兄ならば、立ち上がれなくすることも容易。

 <幻想殺し>の処理能力を超える<聖なる右>との激突で、右手は依然痺れているままだ。

 

「ごめんなさい―――」

 

 愚兄が動いた気配を察知し、それを止められたことに、わずかに開いた口で、息を吸って………吐く。その息と共に全身の硬直が解ける。

 もちろん体が燃えるように熱いのは周知してる。反面、詩歌の心は深く清く研ぎ澄まされ、聖者の昂る『右腕』が、その力が、ただ一点へと集約されていく様を感じ……そして、それがはっきりと見えていた。

 

 ―――一突きで、終わらせる。

 

 詩歌にはもう、何も……上条当麻の声さえも届いてはいまい。

 音も。気配も。

 ただ暗闇で何もない、沈黙と漆黒の空間の中にひとり、賢妹は佇み剣を構えて―――

 

 

「あなたに、当麻さんは、殺させない」

 

 

 ―――ついに、解放した。

 

 巨人の手とばかりに膨れ上がった『第三の腕』も解放される

 まったく同位で、世界を染め上げる光。

 その、凄まじいまでの衝突。己以外の光はいらぬと鬩ぎ合う!

 平行の次元をも通り越して吹き荒れる余波の烈風は建物を揺らし、ぶつかり合う閃光は爆発する太陽となって目蓋を焼く。

 

「……っめ、だ。……だ、めだ」

 

 手を伸ばせもできない。

 引き留める声もかすれてしか出ない。

 倒れた愚兄の身体が、風に吹き飛ばされかける上体を支えるので精一杯だ。

 地面に何とかへばり付きながら、光と熱の洪水の中で、必死に耐える。

 衝突はどれほど続くのか。

 世界を二つに割るのではないか、と危惧するほど拮抗した両者の極光は、ふっとあらゆる感覚が消した。

 

 そして見たのは。

 

 片側に押し切られた光に包まれていく賢妹の姿で、唐突に終わりを告げていた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 どさっ、と。

 すぐ近くで、何かが落ちる音がした。

 

「―――しい、か……?」

 

 それが何であるか。

 最後まで直視して光で鈍った目であっても、見間違うことはない。

 幸い、他の感覚は生きている。

 嗅覚で、彼女の匂い。

 聴覚で、彼女の声音。

 味覚で、彼女の甘さ。

 触覚で、彼女の体温。

 全て、覚えてる。

 でも。

 ―――死んだ、と思った。

 そう思ってしまったほど、存在を感じない。なのに、いる。いないようにいる。詩歌は“無傷”だ。

 掠れる視界に、地面に三又の大剣を突き刺し、体の支えにして起きようとしている姿が―――

 

「はぁ――はぁ――はぁ――」

 

 詩歌の様子は尋常ではなかった。

 額には玉のような汗が浮かび、呼吸は弱々しくも激しく、熱病にうなされているよう。

 そして、背景が陽炎のように歪んでる。

 

「詩歌っ! もういいっ! 逃げろっ!」

 

 絞めつけられる肺を過呼吸になるほど咆えたが、詩歌は何も答えない。

 ……もう、単純に意識がない。装置のようにこの結界を維持している。

 賢妹は、馬鹿ではない。

 にも拘らずこんな無茶をした理由はひとつ。

 詩歌は自身が燃え尽きることより、自分を守ることを選んだのだ。

 制止を振り切って飛び出してしまった、愚か者のために。

 

「くくく、いや驚いた。真っ向から『右手』とここまで圧し合ったのは初めてだ。ローマ教皇でも聖堂の破壊を防げなかったぞ」

 

 向こうでは。

 傷ひとつない聖者が、立っていた。

 

「しかし、拍子抜けだ。相殺することもできないとはな。ああ、そうか、少しは加減してやるべきだったか」

 

 哄笑は続き、焦げた大気をなお攻めて震わす。

 それほど愉しかったのか……!

 フィアンマは無意識に立つ詩歌を見ようともせず、ただ己の手に笑っていた。

 聖者からすれば、これはあくまで余興だ。

 初めから勝つと判り切っていたものに、緊張も疲労もあるはずがない。

 

「―――」

 

 目の前が、真っ赤になる。あの聖者と、自身への怒りに。

 ―――何をしてるんだ、俺は!

 こうなることは分かったのに。

 不用意に一撃を受けて、まだ立ち上がることもできないのか。

 ガリッ、と歯が唇を噛み千切る。

 本気でこの足手纏いを殺したくなった。

 どうして戦わせるような状況に追い込んでしまった。

 本気で守りたかったのなら、尊厳なんて捨ててでも逃げればよかったのに。

 

「さて、では頂くとするか。傷つけてしまったが、なに、肝心の中身に問題はあるまいよ」

 

 フィアンマが近づいてくる。

 それで気がついたのか、詩歌はうっすらと目を開けた。

 

「! 詩歌、無事か……!?」

 

 耳で聞こえるどころか目で息遣いが見えるというのに、手を伸ばしても届かない距離。

 この期に及んで、体はまだ動かせず、駆け寄ることさえできない。

 だから、必死になって声をかけるしかない。早く覚醒を促す。

 

「詩歌……! 詩歌、詩歌……!」

 

「……ぅん……ぁ」

 

 詩歌の胸の揺れが、過呼吸が納まる。

 一度、救いを求めるよう深呼吸し、それも無理が効いたのか、ゴホッと小さく咳き込んだあと。

 

「おにいちゃん……?」

 

 血はない、目に見えた傷跡はない、しかし、まるで霞を掴もうとするかのように心許ない手つきで彷徨う。

 ただそれだけの動作さえ今の彼女には精一杯なのだと、冷え切っていく指の弱々しい痙攣が有体に告げていて。

 にも拘らず、すぐそこに、目の前にいるのに見つけられない。

 瞳の、焦点が、淡い。少しずつ色を、生気を失っていく。

 

 ―――まさか、何も視えなくなっていってるのか。

 

「っ……! 待ってろ。今すぐ麻酔を解け……っ! 俺が―――」

 

 手を貸してやる、とは言えない。

 本当に動けるのならば、この程度の麻酔で倒れたままでいるはずがない。これでは、また足手纏いだ。

 賢妹を励ますことすらもできない。

 それでも、血を吐くように当麻が叫ぶ。それが精一杯だ。

 

「ああ……そこですか」

 

 まだ聴覚は無事だったのか、その声を頼りに、こちらの位置を、顔からその五体までイメージできたのか。

 ぼんやりとした声で、光のない目で愚兄を見て。

 

「うん。ごめんね……」

 

 ぼっ! と。

 

「おっ、ふざけるなぁぁああぁぁ……っ!」

 

 突風が愚兄の身体を賢妹から遠くへ転がり飛ばす。

 先の衝突とは比べ物にならない、踏ん張れば留まれる風速だが、今の当麻はそれにも抗えない。

 そして、離れる愚兄とは対照的に、聖者は近づく。

 

「誓いの指輪の代わりに、ひとつ贈り物をしよう」

 

 当麻はフィアンマが取り出した、小瓶、その入れ物に入った“灰“を見て―――血液が逆流したように、痺れにも似た衝撃が全身を駆け巡って……視界が急激に暗くなる。

 時間の流れが停止して、刹那の狭間に取り残されたように……空気さえも凍りついたように四肢を絡め取って、全く動けない。

 その一方で、しん……と静まり返った思考だけは、ひとつひとつの情報を整理して、構築して、ようやく感じ取れた悪寒が何なのか、記憶と当て嵌めた答えを出した。

 

「こいつは、力を分け与える契約により『モルガン』から成果の一部を徴収した『上条詩歌』のイメージを具現化させて生まれた<吸血鬼>だ。呪術の触媒(カタリスト)としても、ひどくお前と“縁深い”灰だとは思わんか」

 

 上条詩歌の目の届かないように作り上げた『上条詩歌』という特性を得た<吸血鬼>の灰による呪詛。

 

 完全なる偶像は、本物にさえも影響を及ぼす。

 

 上条当麻は知る。

 己があの男に感じていた、いやイギリスにきてから覚えていた嫌な前兆とは、コレだった。

 あの時、あの場で、自分の手が震えた、『灰の魔女』。

 なのに……ここにきて視界を覆う闇は更に深く、黒くなってゆく。

 まるで激しく動く遊園地の乗り物に乗せられた時のように、頭の中が渦を巻いて思考が定まらない。

 そして、何よりも、こんな時だというのに右腕が、もはや自分のものなのかどうかすら感じられなくなってきた。

 

 

「喜べ、これは、お前のためにだけ用意した祝福(呪い)だ」

 

 

 ―――やめろぉぉおおぉぉぉ……っっ!!

 あまりに最悪な気分に、恐怖が湧いてこない。

 視界がぼやけて、歪んで……形どころか色さえもわからなくなっていく。

 意識が暗く、深い闇の底へ引きずり込まれていく感覚。

 

「―――ほうれ、受け取れ」

 

 聖者の指が、掌の小瓶を撫で回す。

 瞬間、蓋が外れ、壺から灰を吹き飛ばし、宙を舞い風に乗った。

 避けることも、出来たはずだった。

 なのに、詩歌は動けなかった。反応もできない。

 対抗する術を編むどころか、微動だにできなかった。

 それこそ、フィアンマが『上条詩歌のためだけに用意した呪い』といった意味であったろうか。

 石像の如く硬直した少女の鼻腔へ、灰塵が入り込む。

 

「……っ!」

 

 かすかな、呻き。

 大気に溶け込んでしまいそうな灰煙は、如何なる呪を賢妹へ注いだか。

 ひどくゆっくりと、詩歌は聖者を見やった。

 

「あな、たは……」

 

「死にはしない」

 

 と、聖者は嗤った。

 

「ただお前が背負う罪を身殺ぐために、罰が下るだけさ。そうだな。―――たとえば、そこの愚か者が記憶を失くしたことを黙っていたことのな」

 

 ぱきん……、と何かが割れるような音が聞こえて、背中が蠢く。

 

 <妖精堕し>の枷が、壊れた。

 

「―――しい、か……」

 

 その声が届いたかどうか。

 かくり、と力が抜けた詩歌の身体は無残な弧を描き、騒ぎを誰より早く察知し駆け付け、次元結界の隙間を見つけようと知恵を絞る修道女――インデックスがいる方角へと謝罪するように頭を垂れて倒れ伏した。

 

 

 その瞬間。

 声にもならぬ咆哮が、詩歌の内側から迸った。

 少女の身体から―――天空に向かって、絶大な力が弾けた。

 

 

処刑塔

 

 

 <禁書目録>にも記録されている<ソロモンの小さな鍵(レメトゲン)>。

 かの最高で最悪の魔術師アレイスター=クロウリーも編纂に関わったとされる魔道書であり、数多の文献よりまとめた悪魔の図鑑である。

 そのなかのひとつ。

 『フェニックス』は、戦いを好まない悪魔らしくない悪魔であり、十字教で『死と再生=不滅』の象徴である不死鳥。東洋における神鳥と同一視される。

 何より恐ろしいのは、殺されても死なないということか

 『上条当麻という少年に取り付けられた右腕にこそ本物の力が宿る』という腕一本分の縛り(ルール)が、彼女にはその肌も、骨格、血管はおろか、内臓から脳に至るまで、適応されている。

 それは多ければ多いほど世界との境界が曖昧になる。

 生きている実感さえ不確かで、どこまで自分が人間であると信じられるか?

 だが。

 これまでの戦いで、終わった後ほとんどの場合で、上条詩歌が“無傷”でいれたのも過度な欠損で働く存在不滅の法則が助けてくれたからだろう。

 まさしく、主の愛を一身に受ける子。ありとあらゆる偶然と必然が彼女を守る。

 そんな少女が挫かれることがあるとすれば、誠に“不幸”なイレギュラーがあったか。

 

 残念だが、天秤は線引きは揺らがない。『感情論という雑音』の恐ろしさについても熟知しているし、そういう理由で判断を誤るほど愚かではない。

 

 ただ、彼女は予想以上にやってくれた。自分の口で言い放った荒唐無稽なお伽噺を、きちんとこなしてみせた。詰めは甘いが、天秤を傾かせるだけの成果は見せた。

 であれば、これはプロとプロの契約だ。

 

「く、くぅぅ、エリザードの野郎……大英博物館に忍び込んで例の旗を受け取りたる途端、人に軍馬を預けてさっさと飛びて行きやがりて……おかげで馬の荒っぽいリズムに振り回されて……だーれも助けに来ないからこの重たい扉をひとりで開けて腰が……これ以上は動けずなりけるのよ」

 

 <最大主教>のローラ=スチュアートは腰をさすりさすりしながら、やってきたのは、昨朝訪れた『鳥籠』。

 その中の『眠り姫』――“擬体”の黒髪が、まるで危険を伝える『赤信号』のように赤く染まる。

 

 

ロンドン

 

 

 ―――『力』は、天空へと昇りながら、自らの形を形成した。

 

 

 “それ”は、炎にも似ていた。

 “それ”は、樹にも似ていた。

 “それ”は、翼にも似ていた。

 “それ”は、まさしく生命の神鳥であった。

 東西を問わず、世界各地で広まる火の鳥を不滅の象徴とする伝承が絶えぬのは、この『力』の顕れの故だったろうか。

 ただし、“それ”を認識したものはわずかであった。

 先の激突の決着の間際に、周囲一帯を巻き込まないよう、『選定剣』の次元干渉能力による結界を張っていたためだ。あるいは、今日の出来事で賢妹が成した中で、最も賞賛されるべき事柄がこれだったかもしれない。常人がこれほどの『力』を視認すれば、太陽を直視するよりもなおひどい、それだけで正気が灼かれてもおかしくないからだ。

 たったひとりの人間から発せられる『力』だと、誰が信じられただろう。

 上条詩歌という、たった一人の少女の身体にそれだけの『力』が封じられていたなど、誰が考えるだろう。

 ビリビリと、空気が震えた。

 “それ”の咆哮だった。

 弾けた『力』の一端だけで、次元隔離された空間が次々と不気味な音を立てて罅が入れられる。

 怒っているのだと、“それ”は猛っていた

 そう、無理矢理『卵』を奪われようとして―――

 

「<神の如き者>は禁断の果実を口にした原初の人間を楽園から追放した」

 

 呟いて、フィアンマはその『右手』を大きく開き、

 

「俺様と共に世界を救うつもりがないというのなら、その『神上』。俺様が貰い受ける」

 

 宣言した瞬間、大樹の如き焔の翼が、大きく掻き乱れた。“それ”はカタチを無くし、無様によじれていく。

 まるで、空の向こう側におわす『存在』が、苦悶に伏したようだった。

 それから、『第三の腕』が手刀に指が揃えられる。

 閃光がその形に揃えられ、すなわち、聖者の剣。

 

「さあ、『世界』を救おうか」

 

 それだけは、絶対に放たせてはならぬものだと。

 しかし。

 フィアンマの『右手』は、無情に剣を放った。

 刹那の、光としか見えなかった。

 その光が、己の力を抑えていた妖精の枷が外れ、生え続ける翼の根源を狙うように根元の少女を貫き、食い入り、

 

「掴んだぞ、『神上』」

 

 ぐるりと、握り捻じる『右手』に連動し、世界が渦を巻いた。

 まるで陽炎のように、翼を形成していた生命力が一本刺しにしたフィアンマの右手を軸に、ぐるりと螺旋を描いたのである。まるで、空間にぽっかりと穴が生まれたようだった。

 その穴が、あたかもブラックホールのように翼を吸い込んだのである。

 それも、瞬き程度の時間。

 ほんの一瞬の後には、フィアンマの手元にあった灰の小瓶、空になったはずのその中に、細く光る筋が結ばれ、そしてぐるぐると二次元が三次元と立体的に巻かれていく。少しずつ3Dプリンタのように下から鈍く光る、水晶の如き楕円の卵を形作くっていく。

 

「これが、原罪を負った人間が口にできなかった生命の実」

 

 <神の右席>とは、『原罪』を超えて、神を超えることを目標とする者達。

 『聖天子の出現を待ってこの世にあらわれる』鳳凰。

 して、仙人たちが住まう世界で産み落とされる鳳凰の卵は、食した者に不老不死を与えるという。これは、原初の人間が追放された楽園にある生命の樹からなる果実に等しい。

 羽のあるものの王である鳳凰は、火の精霊といわれる大天使が守る楽園の生命の樹と同じで、この生まれながらにして根源と接続された少女の奥にある核は、彼女がこの世に生を受けてからこれまで、<幻想投影>が投影した、その生命源の色と線を転写した異能の全てが、卵のカタチで集約されている。

 

「俺様は『神上』となり、正しい『世界』を手にする」

 

 生命の実を生む生命の樹であり、根源と接続された知識の塊たる鳳凰の卵は、無限の生命力と森羅万象を内包した世界卵―――それは、人をあらゆる力に万能であり、完成された神にする。

 

「これで、上条詩歌は役目を終える」

 

 にこりと、フィアンマが笑う。

 悪気の欠片もない、聖者の笑み。

 その笑みを見やって、当麻は口にした。

 

「詩歌から……何を……奪ってる……」

 

「知らなくてもいい、もう終わったものだ。樹木からその細い枝には重すぎる果実を毟り取ったみたいなものだ。貴重な樹木自体には傷つけんようには気をつけたかったが、止むをえんよ。枝が折れて地に落ちれば、折角実った果実は台無しになるからな」

 

 と、フィアンマは口にした。

 フィアンマの言うことは、事実。

 そう。

 “終わったのだ”。

 その事実が上条当麻は受け入れられない。

 そんな様子に、

 

「でも、良かっただろう?」

 

 と聖者は手中で形成されていく『卵』を弄ぶ。

 

「良かった……だと……」

 

「この際だから言ってしまえば、俺様はいずれ貴様と戦うことになるだろうと思ってはいた―――同じ『右手』に力を持つもの同士、戦うことになるだろうと思ってはいた。が、その予想は大きく外れたようだ。戦いにはならんし、今となっては、お前と“戦う意味は何ひとつない”。俺様にとってもはやお前は何でもない。<禁書目録>も、<幻想殺し>も、“この『卵』さえあれば、必要がない”。わざわざここまで下準備して足を運んだ甲斐はあったぞ。これで戦争を起こす理由はなくなった。世界は救われる。ああ、『神上』が抜かれた<幻想投影>が暴走しているがな。それも事が終わればすぐに治まる。その時に上条詩歌の魂が燃え尽きていないかは定かではないがな」

 

 紛れもなく本気で語り、達成感を味わうよう瞼を瞑る。

 だからこそ、愚兄は、大きく震えた。

 しかし、右手で触れても、生命線は打ち消せない。

 『核』を壊さなければ……だが、小瓶ごとついに絶対的な強者の『第三の腕』に呑まれた。

 

「これもお前が祝福(説得)しなかったから悪い。俺様としても伴侶を失うのは残念だが、どんな形であれ俺様のものになるのならば構わない。生贄とはそういうものだ。若い少女の哀れな姿に意味がある。上条詩歌は美しい穢れのない少女であり、奇蹟を体現してきたんだ。俺様が『神上』となるのにこれ以上の生贄はない。残った肉体(ぬけがら)は俺様が丁重に管理してやるから安心しろ」

 

 <神の如き者>は、たとえ双子だとしても、堕天した<光を掲げる者(ルシファー)>を討った。目的のためならば、何も躊躇わない。

 

 

 魔女狩りもまた、同じ。

 

 

処刑塔

 

 

 手足は傷ついても、あるいは失われても別の部位がそれに取って代わることができる。

 だが、頭や心臓、その他生命に必要な器官はそれが傷つくだけで体全域の機能が低下し……あるいは停止する。

 ならば、そこを狙えばいいと考えるのは当然の発想といえる。

 どんなに強力な歯車で構成された機械回路でも、潤滑油がなければいずれ錆びて、全体の動きがストップするものだ。その中身が複雑になればなるほど。

 本体に万一のことがあれば、学園都市は混乱し、兄は泣くだろう。……いや、怒る方かもしれない。そして妹の愚かさと浅はかさを責め、なじって、……悲嘆にくれるに違いない。

 

 でも。

 ……それはひとりなら苦しくても辛くても……ふたりならば耐えてゆけるかもしれない。

 ふたりだけでなく、もっと多くの……愛してくれる人に励まされて、慰めてもらえたら、きっと―――

 

 ああ、勝手な思い込みだ。いや、もはや思い上がりというべきでしょう。

 急に記憶喪失の件を持ちだしたのも、あるいはそんなところか。

 これまで自分は一体何を学んできたんだ。

 感情的な復讐心や自己満足の行いは、自分の失敗を認めたくないという見苦しいさの産物だ。

 自分は正しい、とひとりで思い込んで誰にも頼らず、誰の言葉にも耳を貸さない、独りよがりの未熟な、偽善とも呼べないような紛い物の正義だ。

 それでは、勝てない。いや、戦えない。

 こちらが目的を果たすため、夢を叶えるため、あらゆる手段と知識を蓄えているように、相手も同様の準備をしてこちらを叩き潰そうとしていると、その武器を磨いている。

 そんな連中に、ひとりでできることなんてたかが知れてる。

 確かに、本体はそう考えた。皆の力を合わせて当たることこそが重要だと、そして、幸運にもたくさんの人の力を借りることができた。

 

 運。

 それを努力の結果、ましてや才能の賜物だと呼ばない所がこの兄妹の共通する認識。

 

 しかし……だからこそ、その優しさと無私の心が時には自己犠牲へと繋がる。

 無責任な人間は、信用できない。だが、責任感があり過ぎる人間は危険なのだ。破滅に向かっていることにすら気づかず、視野を狭めてしまう傾向が強いからだ。

 本体はその極みにいる。

 多くのものを自分に託してくれる。それに応える義務がある。そう考えるのは間違っているのか。

 故に、貢献するべく、そして期待に応えるべく身を粉にし、自分の命を投げ出す―――それを聞いて、喜ぶ人間がどこにいる。

 少なくともそこにいる仲間、特に肉親であり味方の兄は死んでも止める。

 ならば、逆の立場になって考えてみれば、死して立派なヤツだったと言えるのだろうか。

 いや、本体はけして言わない。

 そして、本体は兄を不幸にするようなことはけしてしない。

 だから、『保険』を用意した。

 

 自分の命は自分だけのものではない。

 これまで誰かに支えられて、誰かに助けられて人生を送ってきたはずだ。そして、それと同時にそれぞれの夢や思いを託されて、その期待に応えるべく今日まで全力で生きてきた。

 にも拘らず、自ら幕を閉じて、一体どう言い訳をするつもりなのだ。

 彼らは皆己の将来に期待してくれている。だからこそ、力を貸してくれるし、そして、危ない橋ならば自分達がと、引き受ける気にもなる。

 その思いは、けして軽いものではない。

 わかっている。

 だが、彼らの思いの深さにありがたさを思うと……時には泣きたくなるくらいに目頭が熱くなることもある。

 本体は、本当に恵まれている。それは、本心だ。

 しかし同時に。

 うまく表現できないが、それを感じれば感じるほど、自分の正義とは一体何なのか、わからなくなる。

 自分だけの正義は、勝手な自己満足でしかない。だから、他人を巻き込んで、正義を果たそうと願う。でも、たくさんの人たちの力添えを感じれば感じるほど、自分の行いに対する責任と代償が自分ひとりで済まないと思い………正直、それが怖い。

 だから、自制を考えてしまう。

 それが、矛盾でも。

 これは自棄的ですらあった自身の姿勢と思考は、そんな躊躇いや迷いを振り切るためのものだったのかもしれない。

 だとしてら、本体は、つくづく救われない性分だ。

 

 だったら、もし自分が起きるような状況に陥ったとすれば、協力するのではなく、巻き込む覚悟を決めるとしよう。

 

 

 眠っていた『赤信号』が目を覚まし、何かを口ずさむ。

 

 

ロンドン

 

 

 その少女は、ありとあらゆる可能性を考慮して、方々に窮地を脱するためのバックドアを残していた。

 そんな想定のひとつ。

 あの科学の申し子である一族と同様、いかにも枠に囚われない思考で。

 ……上条詩歌は、最初から考慮していたのだ。

 この『卵』が奪われ、裡にいる何かが暴走し、周りを巻き込んでしまう、というどうしようもない可能性を。

 だから、これもいざというときはと前から仕込んでいた『保険』だった。

 

 ―――時が止まるように、半ばで聖者の抽出が止まった。

 

「む?」

 

 『右手』が繋がっているフィアンマは異常を感知した。糸から振動が伝わるように、聞こえた。

 形容しがたい怪音。

 聞く者の正気を削るような、この世には存在しない音。

 いや、してはならない音。

 それは、少女の魂が震わす悲鳴。

 それが、意識を失っているはずの少女の口から洩れた。

 

「『―――ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバダ・タラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバ・ビギンナン・ウンタラタ・カンマン………』」

 

 <強制詠唱>でも妨げられない。<幻想殺し>でも止められない。

 何故ならば、これは『誓約書』に基づく意識が介在しない行動だ。

 上条詩歌が<必要悪の教会>の助力を得るために、『暴走し、英国にある一定以上の害を及ぼすと判明すれば、彼女がもつ力の根源を徴収する』と<最大主教>と交わしたもの。

 自分自身、<幻想投影>を狙っていると分かれば、彼女がその対策をしないはずがない。

 何故、上条当麻を使い魔にする際、上条詩歌が“髪を用いた契約”の方法を知っていたかと言えば、彼女自身がローラ=スチュアートと契約を結んだ時に見たからだ。内容こそ別物であったが、“実体験”したからだ。一を知り、十を理解し、百をものにする賢妹ならば、それは一対一で懇切丁寧に手解きするよりも濃い経験だ。

 十数年しか生きていない少女のものとは何倍も長く、比べ物にならないほどに歴史がある。

 詩歌は万能だが、“年月の差”だけは覆せない。

 聖者に全てを奪われる前に、土御門元春が危惧した、最悪が発動する。

 

 そして、上条詩歌の炎が上条詩歌の体を燃やす。

 

 

 

 『傾国』の末路は、火炙りだ。

 

 

 

つづく




お待たせしました!
色々と忙しくネットに繋げて投稿する暇もなく……そして、展開に悩んでます。
次話はもう大体書きあがっているのですが、上条さんが土御門さんのように闇条になってしまうルートにも入れそうかな、と案が思い浮かんだり。それだと、ハッピーエンドは難しく……
また、待たせてしまうかもしれません。少し、考える時間をください。
それでも最後まで頑張りますので、これからもよろしくお願いします。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。