とある愚兄賢妹の物語 作:夜草
英国騒乱編 強行軍
フランス
しばし浦島太郎のように世俗から取り残されるほど忙しかった徹夜明け。
家族のために頑張る中年親父のちょっぴり特殊なサラリーマン上条刀夜は、ホテルに戻るほど体力はなく、眠気覚ましにたまたま近くにあったオープンカフェ、ドローリコーヒーに突入。濃い目のブラックに黒豚のサンドイッチとそれから健康面に気を使ってヘルシー野菜スティックを注文。
こうした全世界にチェーン店のある企業は、地元特産の奇抜チャレンジの一品のような味に失敗する可能性大みたいな危険物はメニューにはなく、またフランス、イタリア、ドイツ、と様々な外国語が入り混じる欧州では英語だけでなく第三外国語を話せるものが多く、日本国旗のバッチをつけてる店員さんは日本語でも通じるので楽。仕事柄、海外にいることが多い刀夜は重宝している。
(ふー……とりあえず、これで商談もまとまったし、フランスでの仕事は一段落だ。今は先を読むのが大変だから時間がかかってしまったが。余裕があればイギリスに寄りたかったんだが、無理なようだ)
と、折角、近頃選挙で『学生代表』に選ばれた自慢の愛娘との交流のチャンスを逃し、しょぼくれたように肩を落とす。普段の二割増しで頑張ったのだが、残念ながら時間はつくれず(その犠牲に振り回された後輩社員はグロッキーしている)、またユーロトンネルの事故の影響で交通網に影響が出てる。流石の刀夜も泳いでドーヴァ海峡を渡るわけにはいかない。
世界情勢が揺れ動いていると外資系企業の営業担当の仕事にも影響が大きい。
厳密には『証券取引対策室』という11人しかいない部署で、経済学や心理学などの知識技術をフル稼働させ、グレーゾーンのラインに乗ってもあらゆる手段を駆使して職務『本社にとって有害となる株式売買や吸収合併などを阻止する』仕事だ。
まだ一緒にお風呂に入れたほど信頼度が落ちてなかった昔に愛娘に『おとーさんのお仕事って何してるのー?』と浴室で訊かれた問いに『『この証券を買うのをやめろ』、ではなく、『この証券を買い占めても損するかも』と思ってもらうよう誘導する仕事だよー』と教えたら『しいかもおとーさんのお仕事のお手伝いをしてみたい』って言われてつい商売のイロハについてまだ幼い娘に語り聞かせたのが今も……
そこで、テーブルの上に陰り。
最初はもう注文がきたのかと思ったが、違った。
「相席、よろしいかしら?」
しっとりとした妙齢の女の声が刀夜の耳を打った。
見れば、サングラスをした黒髪の女性――最近どこか見たことがあるような――が、こちらに社交性のある笑顔を向けていた。
「ああ、はい、どうぞどうぞ」
「ありがとう」
思わず、席を立って椅子を引こうかと考えたが、それより早く女性は自分の手で引いて、椅子に座る。それから慣れた仕草で、注文を受けに駆け寄る店員を手で制して、持参したかと思われる軽食をテーブルに並べる。
通常、飲食物の持ち込みは注意すべきなのだろうが、店員も刀夜も不思議とその気がおきずに受け入れてしまう。美人というのはそれだけで優遇されるものか。
刀夜としても美人との食事は歓迎……いや、別に浮気とかそんな気は一切ないけど。
と妻娘に対する言い訳を考えていたら、親しげに話しかけられた。
「フランスまで旅行ですか?」
「いえ、仕事です。本当は、この後にイギリスまで足を伸ばすつもりだったんですが」
そこで会話しながら刀夜は仕事の話を思い出す。
ユーロトンネルの事故以降、不自然に通信通行が途絶えた――イギリスが局地的に情報封鎖が起きている可能性がある。
そして、愛娘が『学生代表』に選ばれてから、世界の大きな流れが……
もしかすると―――
「もしかして、そちらに家族か何かいらっしゃるのですか?」
「ええ、よくわかりましたね」
少し驚いたが、顔には出さない。
『女の勘』というのは刀夜の中で、最上位に危険なものだと認識しているが、このタイミングで。そして、“当てられた”というより“探られた”という感覚。
息子同様、トラブルに巻き込まれ易い性質で、フランスからシベリアの紛争地域に出張予定の刀夜のこういう時の勘はあてになる。
これがまぐれでないとすれば、初対面で賢そうな人だとは思っていたが、厄介な相手に評価を変えなければならない。
と、そんな刀夜の空気を読んだように、“まぐれで当てた理由”を提示してくれる。
「実は私もこのフランスで仕事を終えて、これから家族のいるイギリスに帰るつもりなのですが」
「そうなんですか。いやー、奇遇ですね」
「それで公道は使えないようですが、私用のルートがあるのですが、ご一緒に?」
そんな渡りに船な提案に、企業戦士は営業スマイルで、
「やめておきましょう。あなたのように知的な美人の誘いに乗ってしまったら、妻と家族に顔向けができなくなりそうなので」
エジンバラ
「うぐっ……!」
胸を押さえて蹲る。
呼吸が速く、顔も赤い。
それを見て、上条当麻は……
「いや、何やってんだよ」
インデックスとヴィリアンを向こうに送り、背中の陣図を塗り直した後、賢妹の演技に愚兄は、冷静に対応。
詩歌は和装の襟を正すとすくっと立ち上がる。
「チェ、ちょっと小芝居を続けようとしたのにノリが悪いですねぇ。でも、心配させるのは不本意なので良いでしょう」
「別に心配してるけど。何の意味があるんだ、何の」
「強いて言うなら、ここ最近、当麻さんの中で詩歌さんが“か弱い”イメージが薄れているようなので。本当にこの妹はお嬢様なのか? とか思われるのは心外ですから」
「本当に意味がねぇ。だいたい当麻さんの中のお嬢様の定義からして揺らいでる。っつか、んなの露骨にアピールするもんじゃねーだろ」
「詩歌さんがいつも意味があることをやると思ったら大間違いです」
「その無意味な行動こそ間違いじゃねーのか?」
「いつも正しい事をやるわけでもないです」
「浅い考えから出たはずなのに、深い発言に聞こえるのが不思議だな」
「……まあ、インデックスさんにはちょっと勘付かれちゃってましたけどね。頑張りすぎて疲れちゃったんだと思ってくれたようですが……」
<黄金を抱く竜>との一戦で消耗したが、少し休めば十分な安全圏。若干、<妖精堕し>が乱れたが、また修正すれば問題ない。
「ですが、これではキャーリサさんの相手は厳しいですね」
不完全とはいえ<竜>をも圧倒できたとはいえ、強制制限に、その後の反動と問題点。
もしも、英国外でも<カーテナ=オリジナル>が力を発揮するようなものならば、『叛逆の』王女はたったひとりで水爆よりも死病よりも欧州全土を蹂躙する人災と化し、完全開放すれば人類の魔術では傷一つ付けられない、<魔神>クラスでなければ拮抗するのも難しい。
ただし、この変革はキャーリサを倒せれば終息するだろう。
『騎士派』も<カーテナ=オリジナル>を所持した現時点でキャーリサの考えに賛同しているだけで、本来はこうしたクーデターを収める側の、国の守護なのだ。
計画の中心である核を失って、なお叛逆するものはいない。
「とりあえず、移動中にも話しましたが今のところ自分の意思で出せるのは2つ、いや、3つ。今回、『身殺ぎ』で試したのは、1つ。それは安全です」
「分かったそれは信じる」
が、あまり頼りたくないのが愚兄の本音だ。
この<幻想殺し>で、詩歌にはまだ手のつけられない――余分なものを濾過できるのはいいが、まだこれは試験段階なのだ。副作用で何が起こるか賢妹にも全てはわかっていない。
それに“うまくいったとしても”詩歌の学習能力の高さ。もしもこれで未知の領域まで理解し、神様になってしまえば……
「ヴィリアンさんとインデックスさんがうまく事を運んでくれれば戦わずにも済むかも知れませんが、キャーリサさんの性格的にそれはないでしょうね」
「だから、規格外の相手には、規格外の人材をか」
作戦会議でも、直接キャーリサと刃を合わせた神裂が言うように、反対陣営を結集しても正攻法で<カーテナ>を折るのは難しい。
なので、状況によりどんな相手でも互角に渡り合える上条詩歌、と。
「確かに、俺の右手なら『魔術を使った物品』っつーだけで、<カーテナ>だろうが何だろうがぶっ壊せるかもしれない。んでもって、詩歌がキャーリサを抑えつけている間なら俺でも追い付ける」
超高速安定ラインという強さの一定値を超えた常識外の怪物との戦いは、性能が人間の限界を超えない普通の高校生ではその高速機動を目でおうことすらも難しい領域だ。
「いいえ、ここは付いて来てもらいましょう。『ゆっくりと動く高威力の移動砲台』ではなく、『
だが、詩歌はあっさりと。
思わず、はい? それってどういう意味でせう? となる当麻に詩歌は続ける。
「難しく考える必要はない簡単なお仕事。足を引っ張るのが大好きな脚フェチな当麻さんにはむしろご褒美のボーナスタイムですね」
「まった! 色々と訊きたい事はあるが、まず後半部分は断固! 訂正を要求する!」
「ほほーう」
目の中にキューティクルが! と思うほどキラン、と輝く。嫌な予感がする。
詩歌はとん、と当麻の目の前にある瓦礫の上に立つと履いていた靴を脱いで、ストッキングに包まれた黄金比の脚線美、形のいい足の甲を見せるようにこちらの喉元辺りの位置まで持ち上げて、その小さな爪先をそっと突き出してくる。不安定な足場で片足で立っているにも関わらず、軸はぶれない。見事なバランス感覚だ。っと、それよりも、
「………」
思わず、ごくりと唾を呑み込んでしまう。
いきなりのことで視線を外すのに遅れ、その黒いストッキングの太腿を沿って、吸い寄せられるように、
―――お? ショートパンツの隙間から見えるのは、清純で可愛らしい………
「ふふふ、そんなに食い入るように見つめちゃって。やっぱり脚フェチだと素直に白旗をあげちゃいますか?」
「ああ、白だな」
「―――?」
油断したのか。でも、いくらスカートよりも防御力のあるショートパンツでも隙はあるのだ。
一拍おいてからこちらを見ていない視線を追い、すぐその発言の意に気づいた、詩歌は意外にも固まって頬を染め―――ふわわっ!? と鶴のように見事なバランスも崩して、わたわたと振り袖を翼のように振りながら瓦礫から飛ぶ。
「……………ぱんちゅ、見たんですか?」
「なんか、変なとこに小さい“ゅ”が入ってんぞ」
「詩歌さんは痴女じゃないですもん。別に、恥ずかしげもなくこうしてるわけじゃないんですよ」
それならそんなことやらなければいいだろ、とは言わないでおく。
珍しくも慌ててくれるおかげでこちらは逆に頭が冷える。やっぱり、この妹は清純そうだけど計算高くて腹黒い――でも、こうした反応を見ると実は白い。微笑ましくなるくらいに真っ白だ。ガードは固いんだけど、不意を打たれると弱いよなぁ、と愚兄は冷静に評する。
「とにかく、話を戻そうぜ」
「ええ、そうしましょう。……詩歌さんひとりで『制御』と『操作』を行うにはまだ無理があるようです。だから――――」
というわけで、
「……どうしてこうなるんだ!?」
「まだまだ模索の段階ですが、これは繋がったまま動くことが大前提なんです」
「いやいや、それはわかってるんだ。が、だとしても……どうしてこうなるんだ!?」
「いーじゃないですか。こうやって、互いの両手は自由にできるし、ちゃんとくっついてるんですから♪」
「いやいやいやいや!」
「いーいーいーいー!」
「戦闘員か!」
「当麻さんもそんなに嫌々言ってたら、嫌よ嫌よも好きのうちと勘違いされますよ」
「イヤなんじゃなくて、ダメだろ! 正直、今のままなら第二王女に挑んだら、世界一間抜けな兄妹とギネスブックにも載る自信があるぞ!」
「ふわ!? だめです、しっかり立ってないと!」
「おっ、とすまん」
これまで様々な苦楽を共にしてきたわけだが、いまさら疑念を抱かれる。
詩歌さん、意外とアホじゃないか―――と、そこで気付く。
今のは悪かったが、だが、やっぱりこの状況はマズい!
何がよくないというなら、首筋に当たる太股の感触が……いや、感触はむしろいいのだ。いいのだがしかし、いいが故に良くないことも世の中にあるものであって!
「だから、ブレないでって!」
「わかった! わかってる! わかっております! でもな、この歳にもなってする“肩車”は、状況整理し受け入れるには時間がかかるから少し待ってくれ!」
状況説明。首筋が温かい―――以上。……いや確かに五感情報はそれだけで以上なのだが、異常でもある。骨伝導で脊髄に伝わる布擦れ感、頭部を包まれるような密着と汗ばみ感は異常なのだと愚兄は脳内で力説する。
それこそツンツン頭を振らんばかりに、
「ゃっ、と、当麻さん? チクチクするから頭を動かさないで」
「は、はいっ!」
愚兄の敬語が輪をかけて異常である。
しかし、だ。
肩車のバランスをとろうとしてか、髪先のツンツンのチクチクを気にしながらも恐る恐る詩歌の太股がきゅっと締まって首筋を圧迫してくる。
堕ちるぞ――いや、落ちる、だった。まずい、これではまったく別のことを考える余裕がないぞ。
「ちょっと姿勢を直しますね。ん、しょ……と」
ふにょん―――と状況は悪化。そして、理性の危機。
体重は軽いので体力的には無問題だが、精神的に苦行。このままだとこの太股で堕ち、墜ち、オちてしまう!
どんな手段でもいいからこの幻想を殺せ! この柔らかい感触が密着するのを打ち消せなければ、頭が真っ白に……白……この首の後ろの部分と直で擦れているのはショートパンツだが、その奥も、白だった? ―――ダメだ! 考えるんじゃない上条当麻!!
だが、さっき見てしまったせいでイメージが容易い。駄目だ駄目だと考えるほど意識してしまう。
これではあの小悪魔なレッサーの言うような女の子のスカートの中に……
「あの……当麻さん?」
「はい、なんでしょうかッ!」
ポーズも台詞も直立不動、敬礼までするほどパニック中の愚兄。
「申し上げにくいんですが、小声でパンツパンツって言うのは、どうなんでしょう?」
「洩れてたのか!?」
「ああ、やっぱり」
「すまん、いや、これは、そのつい……ん、“やっぱり”?」
「ふふふ、今のはちょっとカマをかけただけの冗談です。それに当麻さんが変態さんでも見捨てませんので、安心してください。こんな簡単に引っ掛かってしまう兄を思うと少し哀しくなりますけど」
苦笑しながら賢妹は、半喪失気味の愚兄の頭を撫でる。
何だ俺の妹は悪魔、だったのか? いや、待て、深呼吸だ。落ち着け。ピンチな時ほど逆転の発想だ。むしろ、天使だとして考えるのはどうだろうか?
そうだ、開き直ってしまえば、この状況はある種のヘブン状態。
たとえ社会的な死を迎えたとしても、鼻で笑えるタフさが愚兄に備わっていれば、この極楽浄土を満喫できるのではないだろうか?
「でも、こういうのもいいですね?」
「何!?」
天使が、いい。
まさか。まさかまさか……
「いつもはする方なんですが、こうやって肩車されるのって童心に帰ります」
「なわけねぇぇぇよ!!」
詩歌がびっくりするほど、愚兄は愚兄自身に渇を入れるようツッコミする。
「いきなりどうしたんですか急に?」
「悪い。えーっと、だな。ほら、この地下で<竜>にあったけどさ、ネッシーはいるのだろうか考えてな」
「UMAの? そんな夢のない台詞を大声でなんて、信じてる子供の幻想ぶち殺しですよ?」
「色々と思うことがあってだな。ああ、人間はいつかは大人にならなくちゃいけないんだ」
そうだ上条当麻。
理性を――ガッツな理性だ、上条当麻!
「今は良いですけど、ちゃんと集中してもらわないと危険です」
「集中する方が危険なんだが……いや、何でもない」
頭を、切り替えよう。
この間も、インデックス達は戦っているかもしれず、そして、これもおふざけではない。
自分達は、一体感――完璧なコンビネーションを身につけなければならない。
<神撲騎団>との戦いで思い知らされたそれを、今度は自分達がやる。
「最初にも言いましたが、まだ模索の段階。なので―――エジンバラからロンドンまでおおよそ600km。飛行機でも1時間以上はかかる距離を移動する間に仕上げましょう」
毎日フルマラソンしてもおよそ二週間近くかかる距離を、1時間――いや、それ以下の時間で制覇しなくてはならない。
魔術や能力と言った特別な力を打ち消してしまう愚兄を連れての
それを切り抜けられても“二人で自由に動ける術”が身につけられるかはわからない。
普通に考えれば、不可能だ。
何故ならば、真の意味でひとつの個として完成された集団など、夢想の領域。
確かに上条詩歌は元々、誰の動きに合わせられるだけの能力を持っている。
だが、それだけではダメだ。賢妹に合わせてもらうだけでなく、愚兄も賢妹に合わせるようにならなければ。
個と個の繋がりなど、断たれてしまう。
「でも、一朝一夕ではないです。詩歌さんがいない間、当麻さんがイメージトレーニングに励んでいたようですしね」
思わず、ぷっと当麻は吹き出してしまった。
「……それもひっかけの冗談か?」
「いいえ、本気です」
「よかった。また引っ掛かっちまったかと思ったよ」
そして、翼を“2つ”放出し、肩車するその右手にも触れられるように前に垂らし、
「では、時間もありませんし」「初っ端から飛ばしていくぞ」
ロンドン
高速で動けるもの同士の火蓋となる引き金は、具体的な物理現象ではなく思念を向けた時点で始まっている。
「ッ!!」
「ッ!!」
先に動いたのは<聖人>の神裂火織。
<七天七刀>を抜刀する―――と、フェイントをかけて、7本の鋼糸を放つ<七閃>。
様々な角度から同時に襲い掛かる7つの斬撃に対し、キャーリサは、ただ真っ直ぐ剣を振り下ろした。さらに神裂は氷牢を―――して、両者の姿は霞んだ。
ゴガガガザザガガギギギ―――ギンッ!!
パラパラと鋼糸とダイヤモンドダストがキラリと舞い、白い残骸物質が大地を抉るように斬り痕を刻む。
ふたりの動きが止まった時、互いに<大天使>の加護を付加した大太刀の鞘と刃無しの慈悲の剣は鍔迫り合っていた。
「この私を相手に出し惜しみ、ね。―――死ぬぞ」
説明すればシンプルだが、彼女達の動きは常人には見えず、その位置を把握するのも困難。今の一瞬にいくつの攻防があったかなど計り知れない。
「<
あの白い残骸物質と対抗できるのは、対神格術式斬撃か同格の天使の加護があっても難しい。それでもストーンヘンジで見た際の<禁書目録>の推理と実戦で打ち合った観察で、その癖はおおよそ把握した。
中国にある『人を斬っても斬った感触がなく、斬られた相手も自覚がなく、何事もなく生きている』という三種の剣の伝説があるが、<カーテナ>のあまりに鋭過ぎる斬撃はその喩え話と同じ、物体を切断してから現象が表出するまでラグが生じる。
具体的には全次元切断後の1.2秒後にこの三次元世界に残骸物質が出現する。
また、
「……かくいう貴女こそ、全次元切断を出し惜しみしているのは、<カーテナ>の扱いに不安があるからではないのですか?」
あの賢妹が仕掛けた『
しかし、神裂の推理を、キャーリサは鼻で笑う。
『軍事』に優れた『叛逆の』王女は、調節に念を入れても、制御はしない。
「まあな。こいつは確かにじゃじゃ馬でな。余計な副作用や隙を生まないために、いちいち状況に適したコストを払わなければならん。このような前座にかまけて、息切れするのも馬鹿らしいし。それよりも、貴様の可愛い部下の方が逝ってしまいそうだけどいいのか?」
余計な雑魚共を露払いするのに、先程の完全武装の騎士を今もこちらに援護しようとしている天草式に向かわせている。
<聖人>とさえ打ち合える暴力に、常人が敵うのか。
ドッ!! とふたりは互いの得物を弾き合って、また勢いをつけてぶつけ合う―――と、思いきや、神裂は全力で後退した。
「やはり、ここは乱戦の方が勝算はありそうですね」
大西洋 アイレイ島近辺。
地平線から顔を覗かせる陽光に照らされる海面から20mほど上がった空中に、その物体は浮かんでいた。
厚さ10m、直径200mほどの石が素材の巨大な円盤で、『コンパス』のように中心から
―――これが、『魔女の空母』とも謳われた『清教派』の空中移動要塞<カヴン=コンパス>。
『―――バッキンガム宮殿に向けて大規模援護、準備開始』
その手元の鉱石から、通信役に抜擢された<必要悪の教会>所属の呪いの宝石が関わる民間伝承を専門とするフリーディア=ストライカーズ女史の声が響く。
『騎士派』の攻撃が届かない、<全英大陸>のバックアップ圏外であるイギリス外の海域に円盤要塞が出てから通信術式から聞こえたオペレータの音声に、魔女のひとりであるスマートヴェリーは思わず口笛を吹いてから、のんびりとした声で。
「直線距離で500kmオーバー……<カヴン=コンパス>が設定上想定された限界の最大射程の1.5倍以上の距離。しかも中継に誘導ポイントを挟まずに援護。おまけに途中にはマン島の遺跡とか魔力的に『干渉』を起こしそうな物も乱立しているって状況でよくもまぁ頭の固い連中が承諾したものねー」
何気にスルーしているが、英国王の住居であるバッキンガム宮殿に砲台を向ける許可が下りた方が信じられない。
だが、面倒な手続きに関しては、思い切りのよくなった第三王女が『王室派』の権限を使ってゴリ押しし、不安な狙いもエジンバラから帰ってきた<禁書目録>が照準を補整している。
「―――<カヴン=コンパス>の制御術式も1つを残して全部砲撃の生成魔力に回して」
『了か―――え?』
思わずオペレーターのフリーディアはどもってしまう。
だが、それも無理からぬことだろう。
<カヴン=コンパス>には大きく分けて2種類の儀式回路が搭載されている。空中浮遊や主砲などに用いる魔力を生成する動力源と、それらを指揮するための制御盤だ。
制御盤も儀式回路の一種である以上、本来の仕事ではないため非効率とはいえ動力源のように魔力を生成することは可能である。確かに膨大な<天使の力>をもつ<大天使>にも匹敵する相手に対抗するためには、それくらいの無茶が無くては届かない。
しかし、制御盤の大半を放棄することはパソコンからCPUを抜き取る行為に等しい。如何に膨大な魔力を生成できるようになったとしても、それを砲撃に固定することすらできなくなり、下手をすれば自爆する恐れがあるのである。
インデックスは、魔女たちの不安も当然のように頷くと、足下で地下空洞を探検している間、お留守番していた三毛猫スフィンクスを胸に抱いて、
「―――大丈夫。すでに避難は済んでるし、私たちが代わりに制御するんだよ」
『コンパス』に見立てられた円盤の東西南北の四方位には、それぞれが得意とする四大元素の属性に対応した者たち、マリベート=ブラックボール、メアリエ=スピアヘッド、ジェーン=エルブスの魔女3名、そして、ステイル=マグヌスの魔術師1名が、『柱』として立っている。
あの<エンデュミオン>での一件で、陰陽博士に指示されたのと同じだ。
「いいじゃない。あの子の指示に従いましょう。どんな高度な魔術技術も、頭の中の10万3000冊には及ばないんだし」
遊撃手として<カヴン=コンパス>に控えていたスマートヴェリーも躊躇う通信の背を押す。
だが、そこでフリーディアが繋ぐ鉱石ネットワークに新たな情報が網にかかった。
『―――敵機確認。英国海軍の船――『騎士派』からの妨害―――! 先頭は<騎士団長>!!』
<全英大陸>の加護を抜け、国境を割り、戦場の先頭を切る勇士。
「イギリスの外を出れば、安全―――と、思われたものならば心外だ」
鎧兜はなく礼装を着こなす騎士団長は、その手に赤い魔剣<フルンディング>を持ち、『清教派』の<カヴン=コンパス>を主砲の発射前に潰そうと狙う。
『清教派』がこうすると読んでいたかのような展開の速さ。
いくら騎士団長でもロンドンから500kmを一瞬で走破できるはずがなく、つまり、事前に海上に控えていた。自身が新女王から離れるというリスクもあるが、彼女以外に人を率いる将気を持つのは自分しかおらず、新女王の性格は守りではなく攻めに向いている。
『軍事』の英才教育を施された天才と、英国からの外的勢力を相手にしてきた『騎士派』の長が<カーテナ=オリジナル>の効果圏外からの遠距離攻撃という策を見抜けないはずが、ない。
また―――
「このクーデターが成功すれば、我々はヨーロッパに進出する予定。……ならば、すでに国境外でも<カーテナ>の力を扱えるよう具体案があって当然のことだ」
ゴゥン、という大きな物体が動く音。
海を走る騎士団長、『騎士派』が乗船する海軍軍艦、その背後に、何かが浮かんでいた。
重たい石でできたルービックキューブと同じ立方体が、幾つもランダムに組み合わさった途轍もなく巨大な構造物。<カヴン=コンパス>が『丸い石盤』ならば、これは『四角い泡』というべきか。
真っ当な建築技術から大きく外れたそれは、人工的な城のようにも見え、巨大な岩山を無理矢理削り出して宙に浮かばせているようにも見える。
「移動要塞を持っているのは、『清教派』だけの特権ではない」
その正体を、騎士団長は明かす。
「<グラストンベリ>―――この要塞の周囲を“強引にイギリス領内であると規定する”ことにより、<カーテナ>の使用圏を飛躍的に拡大するための施設だ」
まさに、『軍事』に相応しい『侵略』のための大規模霊装。
ここにきて地形効果さえも『騎士派』に有利。移動速度では『清教派』に分があるが、全体的な攻撃力は英国軍を掌握する『騎士派』が圧倒。
そして、士気もまた。大黒柱――キャーリサよりも精神的支柱でもある騎士団長が先頭を行くのならば、『騎士派』に後退という考えはない。
「では、さっさとロンドンに帰還するために魔女の空母を堕とさせてもらおう」
「ならば、将であるあなたをここで撃ち落とします。―――騎士団長」
船上に弓兵ナタリア=オルウェルが、その前方に射程距離威力を強化させるロングバレるの銃口に似た魔法陣が展開されている。
女性の身でありながら『騎士派』に所属し、今は『清教派』につく。そして、元ローマ正教の十三騎士団で『トリスタン』の称号を受けたもの。
その手にあるのは楽器のような長弓<
相手の方が強大で、負けられない戦い。
だからこそ、冷静にならなければならない。
相手の戦闘力、魔術、心理、行動パターン――頭に入れた全てを計算し、何万通りもの戦術をシュミレーションし、相手の動きと結果、位置情報を予測する。
無論、相手がこちらの策を見抜き、予想を覆す事態も、あって当然。
故に、保険としていくつもの修正策も準備してある。
仲間を必ず勝利に導くために。
『<カヴン=コンパス>が動き出せば、撃ち落としに、95%の確率で騎士団長は動きます』
そして、騎士団長がいる限り、こちらからの攻撃は“ゼロ”にされる。
「この位置で、いいかしら?」
弓手の足として、小型船を操縦するのは<追跡封じ>のオリアナ=トムソン。『運び屋』として彼女は大抵の乗り物を乗りこなせ(免許を持っているとは限らないが)、逃走に関しては経験値が高い。今も騎士団長に勘付かれない狙撃位置に船をつけ、更に狙撃する瞬間まで察知されないよう念入りに<速記原典>で隠蔽結界を張っている。
だが、まだ甘い。
「良い位置につけてくれました。ですが、騎士団長の用心深さを舐めないでください。狙撃地点にエンジンを動かしてたら、一発で気付かれます」
「でも、それだと外れた場合、逃げるのが遅れる……ええ、わかったわよ」
見つめ合い―――どちらもプロの操縦主と狙撃手はどちらの意見を左右させるか即決し、オリアナはエンジンを切ると、また念入りに紙片を噛み取り、海に流す。
この変革開始前に騎士団長に叩きのめされた。
狙撃が成功するチャンスは一度。撃てる弓矢も一つ。二度目はない。失敗すれば終わり。
「それにしても、あなたの装備、支給品とは違うのね」
「はい、私用に手を加えさせてもらってます」
元が魔導師という『作る側』の人間だからか、その武装にオリアナの目が行く。
ナタリアは、実力があるが、組織がわざわざ女性用に支給装備を調整してはもらえない。また、護身術を教わった傭兵と同じようには動けず、巨大な武具も扱えないと承知している。その為、自分で調整するしかない環境で、彼女は、自然と自分の手で武具の手入れをするだけでなく、改造する技術も身についていた。
イギリスにわたり『騎士派』に入団したのを機に、傭兵から選別で渡された十三騎士団の“未調整”の装備を、神のために戦い、そして折れた剣や槍の最期を“看取る”ための小さな家――『ソード聖堂』と呼ばれるプロの魔術関係者が霊装を改造する施設で、そこのピーキーな代物を好むカスタム職人の協力の元、『騎士派』の支給武具をバラして自分の武具に加えた。
<
<
量産品として誰でも扱えることを前提にしておらずに手を加えたため、どれもが量産品を大幅に超える性能で熟練の腕前がなければ扱えない、とカスタム職人は太鼓判を押した。
そして、懐刀としてナタリアは、『同じ竜殺しの逸話を持つ』という共通性のもと、<量産湖剣>の刃を削り、尖っていた剣先をも折った―――だが、それが一番ぶっ飛んでいるとカスタム職人は言う。第三王女の口添えがあったとはいえ、“英国王女の武器を模す”など、普通ならば不敬に当たってもおかしくはない行為だ、と。
剣先を折られた湖剣を、懐から取り出した聖水を振りかけ、聖別する<疑似聖剣>と同様の術式を施してから、琴弓に番える。
そして、そのときはやってきた。
「―――お嬢ちゃん、計算通りに騎士団長が来たわよ」
ナタリアの、構えた長弓に取り付けられた
『軍事』で特別に開発された拡大鏡には一度視界に捉えた相手を追尾する自動照準機能がついていたが、射線を自身の意思とは無関係に勝手に動かされるのを嫌ったナタリアは外している。代わりに、魔力反応も感知できるよう解像精度に重きを置いている。
その色のない空っぽな空間に、線が走ったと思った。いつもと変わらない礼装姿の騎士団長だった。
自分以外にも<カヴン=コンパス>には魔女達の空中部隊がいる。だが、索敵術式を使うまでもなく、隠れもせず隠しすらせず、騎士団長は部下を連れず単騎で戦場のド真ん中を突っ走っていたのだ。
「馬鹿ね。<騎士団長>とあろう者が、これでは格好の的だわ」
ナタリアは、彼女と騎士の“違い”を理解する。騎士団長は、移動の遅い空中要塞には乗らず、己の足でやってきた。これがまさに、ナタリアの、先人に比べて敵わないところだった。
「騎士団長は、『騎士派』の長。だから、後ろに続く部下を鼓舞しているのです。空中で右往左往と突撃するか躊躇っているような小物を、騎士団長は相手にしていない」
まだ<グラストンベリ>は作動しているものの、まだ未完で<天使の力>の供給ラインに綻びがある。それでも遠目でもわかるまでに、騎士達の動きはきびきびしており、その士気の高さを感じさせる。
礼装の武人が、まさしく無人の野を行くように魔女達の空中爆撃のなかを進む。上を見てすらいない。彼にはこの程度の攻撃には防御する必要もないのだ。今は一心に、新女王に害なすであろう<カヴン=コンパス>に剣を振り落とすことだけ。
ナタリアが構えた長弓の拡大鏡の狭い視界を遮るように、海波が朝の陽光を乱反射させていた。無色の閃光煙幕だった。後援する『騎士派』が、敵対する魔女の襲撃を失敗させようと周囲の環境を撹乱しているのだ。
『騎士派』は、軍隊戦術のベテランだ。彼らは罠があろうと踏み潰し環境を圧倒することで、相手を威圧する。本来、『騎士派』に所属する自分は向こうで、騎士団長の前進を後援するはずだった。
組織を裏切り、隠れているナタリア自身がひどく矮小に思えた。
狙撃は、小物が大きな標的を倒すための戦い方だ。だから、壁を越えられない常人は、ただ矢尻を放せばよかった。だが、騎士団長の全身から発せられる圧力はその正確さを失わせる。
「だが、私はこの仕事をやり遂げる。絶対に」
だが、一息で。震えは収まった。
その長弓にあるシルフの紋章を見て、己が何のためにイギリスに来た理由を思い出す。
自分がもっと彼女に相談に乗るべきだった。そうしていれば、あのような輩の甘言に載らなかったのかもしれないのに。だから、もう迷わない。
かの『騎士王物語』でも『カーテナ』の名は出てくるが、その所有者は、『トリスタン』
「―――英国騎士の象徴であるあなたに、この一矢、避けられますか?」
第三王女の懐刀。ヴィリアンから、
弦が鳴り、海面に、波紋が走る。
「―――ッ!!」
騎士団長は、感知した。
如何にこの『騎士派』の中でも卓越した弓手であろうと、不意打ちを警戒する『騎士派』の長には気づかれる。音速に達していようとこの男はそれ以上の速さで動ける。
だが、今回ばかりは、無音に気づくのに遅れた。
――― !!!
<
<天使の力>が大量に籠められた物体は、それだけで脅威で、強化されていようと生身で受けるのは危険だ。
しかし、魔剣で撃墜することも、また防御術式で防ぐこともできない
知っているのだ。
あの弓手がこのイギリスに来てから、指導してきたこの男には百も承知のこと。
<偽慈悲剣>には、次元に歪みを生じさせる程度の影響しか与えられない。
だが、騎士団長が扱う術の全ては“王家に逆らえないように組まれている”。
だから、騎士団長は第三王女を処刑する際に、己の剣ではなく、わざわざ処刑斧を用意させるしかなかった。
相手の攻撃をゼロにするという絶対防御の<ソーロルムの術式>も。
故に、この一矢はその防御術式をすり抜けてしまう。
(この剣を用いた一矢は、やはりナタリアか!)
向かってくる飛来物を捉え、すぐに看破できたが、解決法までは導く余裕がない。
開戦直後、ここで先頭に立つ自分が無様を見せれば、全体の士気にかかわる。だが、倒れれば変革にも影響が出る。
この一射を防げれば、弓手に第二射はない。
ここは、避ける。
弱気な態度かもしれないが、ならば、すぐさま弓手を討てばいいだけのこと。
真っ向からぶつかって機を逃すなど神裂火織との衝突のような失態は二度も起こさない。
しかし、
(追尾だと―――!)
こちらの行動を予測していたかのように、海上に浮かび上がった魔法陣――予めオリアナが<速記原典>を仕込んでいたポイントを通過すると、方向が修正される。
この一射入魂は逃さない。その気迫がここまで伝わってくる。
ならば。
一度は許されるがこれ以上、騎士ならば退いてはならぬ。
騎士団長は、魔剣を腰に据え、両手を自由にすると―――
一拍遅れて、衝撃に立ち割れた海面が荒波に揺れる。
「『トリスタン』が悪竜を仕留めた際に撃ったのは、その心臓。それに、賭けた」
向こうがこちらの思考を読み取れるのなら、こちらも狙いと癖がわかる。
威力はあるだろうが、刃のない慈悲の剣矢ではこちらを一撃で倒せるほどの殺傷性はない。コースもわかっている。
なっ―――とナタリアは拡大鏡を覗いた眼を大きく見開く。騎士団長は左胸の前に両手で<改造湖剣>を挟み取っていた。白手袋を焦がし、殺し切れなかった勢いが心臓を圧したが、肋骨は砕かれてはいない。
魔女達では止められなかった進撃が、一度、止まり――腰の魔剣を手に取り――再開する。矢は防がれた。狙撃は失敗したのだ。
弦音の後の静けさが、空気を針のように尖らせた。
護国の騎将が、こちらを見ている。
それだけで彼女達が乗る小型船が蠢動した。
オリアナがナタリアに小声で急かした。
「<速記原典>のパスを辿られた。この船の位置が割れたわ!」
オリアナがエンジンを入れる。その隙を埋めるようにナタリアも今の一射で弦が切れた弓を手放し、新たに長槍を換装。今度はこちらが逃走を援護する。
<貫通の槍>を加えた改造品は、投擲による制圧性能を上げている。
そして、防いだとはいえ、今の一射を受け止めた反動ですぐには動けないはずだ。
施術鎧の身体能力増幅の補助で<
軌道まで完璧に制御した閃光が伸びて、金髪の礼服の男をたたいた。
―――ゼロにする。
制圧霊装が、閃光弾の役目しか果たせない。
しかし、これで十分いける、とメモ帳を噛み切ったオリアナは考えた。
しかし、これでは足りない、と船から海上に飛び出したナタリアは思った。
「ちょっと待ちなさ―――」
オリアナにナタリアの暴走を止めるだけの余裕はなかった。急発進する小型船は加速し、一気に遠ざかる。
得意の水のルーンで海を固めらせた<氷像>の軍隊を従え、ナタリアは騎士団長と同じ土俵の海上に立つ。
ナタリアは十三騎士団でも、この『騎士派』でもずっと優秀な弓手だった。その彼女が絶好の機に恵まれても、騎士団長には通じない。プライドが砕けるのも当然。
足場の水面浮遊の術式がうまく固定するよう集中できず、足場すら波に揺られてあやふやだ。
やさしく、戦わないで良いと言ってくれた第三王女のことが、頭によぎった。ナタリアは、それを一瞬逃げ道に仕掛け―――そして、それが最終的に、遥かに格上の騎士団長と対峙へと向かわせた。
(騎士団長様は、最初からウィリアム様のように特別ではなかった。ならば、私は―――)
「―――往くぞ」
静かな声が、波が荒れた海上にもかかわらず、通った。
そして、騎士団長が、人食い鮫のように一気に迫ってきた。
音もなく、波の飛沫すらあげず、術で十分に踏み固められていないすぐに海に沈むはずの足場を風のごとく駆ける。
それでも、ナタリアの極限まで鋭敏となった感覚が、騎士団長の革靴が水を蹴った“かすれ”をとらえた。
―――瞬間、赤光の軌道上の風が死んだ。
氷の巨兵の破片が散り、その首元に、赤黒く膨らんだ騎士団長の魔刃があった。がっきと、ナタリアが差し込んだ琴弓が、あと数cmの位置でそれを受け止めていた。
特別な才が与えられなかった護国の騎将が練り上げた剣技は、常人の身体の常識を軽く凌駕する。琴弓を犠牲にしてでも盾にしなければ、今ここで首を切り落とされていた。
「騎士団長様―――!」
「次に会えば斬ると言ったはずだが、まさか本当に次があるとはな」
騎士団長が刃を返して、使いものにならなくなった琴弓を跳ね上げ―――同時、海中から現れた斬撃に後退する。
海中から飛び出したのは、ナタリアの最後の武器である『聖ジョージが退治した悪竜の首に姫が自らの衣装を輪に掛けて封じた』に基づいた蛇腹剣<
それは縛る相手に<禁色の楔>と同様に魔術を扱おうとすれば生命力を勝手に奪い、拘束を強める。
だが、切り札を抜いても、騎士団長――“剣の修羅”を相手にするには、活路を捨て、生命を捨て、人間を捨ててなお事足りるか怪しい。
「あの頃とは顔つきが変わったな。“今ならば、心おきなく斬り合いができる”」
師弟が同時にさがって間合いをとった。
ナタリアは、毅然としたその背中に憧れた。
だが、今、彼女の眼に映るものは違った。この男に命を狙われ、第三王女の悲壮も見忘れてはいなかった。
「満足ですか。騎士団長様、……それで満足か!」
「今更何を囀るつもりだ、小娘―――」
<騎士団長>の剣は目にとまらない。その幾万幾億と振るわれた技は体だけでなく魂にまで染み込み、呼吸をするより容易く、静止状態からの急激な加速には、動体視力が追い付かないのだ。
受けに回って勝てる相手でもなく、だからといって、不用意に打ちかかれる相手ではない。
それでも、こちらにただ一つ、戦術的優位を持つとするのならば、この英国にきて『騎士派』に所属してから、この戦術は、騎士団長を仮想相手に見立て、騎士団長を倒すためだけに修練されたものだということ。
こちらが先に一歩踏み出した、足の裏からそれまで意識できなかった緊張が全身を痺れさせた。だが、それでも思い切り<湖姫の帯>を思い切り伸ばし―――水のルーンを発動させる。
傭兵が巨大剣を棍棒に変えたように、限界まで引き延ばされた蛇腹剣がその剣節から粘性のある水を噴出させ、氷固。傭兵が得意とし、己が一番最初に畏怖を覚えた巨大な
それを<騎士団長>へ振るいつけた。一瞬後には死んでいるとしても、他にできることなどなかった。騎士団長が斜めに一歩さがって、額を狙った上段の打ち下ろしを余裕をもって、剣を使うまでもなく受け流した。
ナタリアにも見えたわけではない。直感だった。
「くはぁっ!」
ナタリアは肺から息が完全に抜けるほど烈しく息を吐き、上体を無理矢理後ろにそらした。疾風が横殴りに吹き抜け、彼女の前髪が散った。頭が元の位置にあったなら、ナタリアの額は脳みそごと輪切りにされていた。
己の上司が、血振りをして魔剣を構え直し―――その刃が、より赤黒く増長しながら空を断った。ナタリアの喉笛が全力で飛びすさってなお数mm切り裂かれた。
口で語るには、余裕がない。
ならば、傭兵と同じく行動で語るしかない。
下がりながら足先で水面に水の
息をつかせる間も稼ぐことかなわず、頸動脈を狙った魔剣の切っ先を、ナタリアは左回旋して数mmの差ですり抜けた。延髄に食い込みかけた騎士団長の刃が、女騎士の後ろ髪を斬り飛ばし皮膚を裂いた。
その回転の力を衝突させるように、身体の許容限界を超え、骨肉が断裂しようと施術鎧の機能を安全ライン以上に働かせ、巨大過ぎる氷の棍棒をさらに勢いをつけて、逆に二撃目を叩きつけた。
当たり前のように、騎士団長は捨て身の打棒すら受け止めた。
鈍い音が響く。
(この速さについて来ているのか? いや、やはり、見えてすらいない。……そうか、入団試験から私の技を研究解読し続けてきたのか。そして、私の行動に山を張り、勘で躱しきったと……)
「悪くはないが、工夫もない。それが、お前の命の使い道か」
「そうではない。命は使うのではなく、共に歩むものでしょうがぁ!」
恩師に、敢えて不遜に対等の口で吼えた。無謀でも、これは自分の力を試す勝負ではない、負けてはならない、認めさせなくてはならない戦いだ。
騎士団長の突きが、風の隙間を縫い止めるように打ち込みをかける。退くか押すかを選ぶ生命の刹那、ナタリアの身体は考えるより早く突っ込んでいた。斜めに差し出された棍棒の上を、氷の表面をごっそりと削らせながらも魔剣の刃先が滑った。
ブチブチッ、と筋繊維が断裂する音。
施術鎧の
(今しかない!)
死に体になった二つの武器を、二人の騎士――師弟が同時に構えをとり、渾身の力と意地で上段切りに切り返した。
透明なほど愚直な一振り。砕けるような異音と共に風を巻くように大気を割いた。
―――そして、一本の魔剣だけが残った。
再三の過負荷に耐えかねて、ついに氷塊に砕かれる。氷に衣装した湖姫の死が折れ飛んだ。
そこへ、風が吹いた。
「まったく、今回は世話焼きに大活躍ねお姉さんは」
勝負に集中して、勘づくのが遅れた。
すぐに反転してきた『運び屋』。
単語帳の紙片がマシンガンのように飛び散り、そして、火、風、土、水、とあらゆる属性、あらゆる形式の“ひとつとて同じものがない”魔術が乱舞する。
『使い捨ての魔道書』<速記原典>は『属性の文字と色』、『ページ数』、『ページを咥える角度』の組み合わせで魔術を形成する性質上、『全てが違う術式』になるのだ。
今ある単語帳を9割使い果たすほどの大盤振る舞いは、騎士団長の『攻撃力をゼロにするのをひとつひとつ認識して設定しなければならない』絶対防御<ソーロルムの術式>にとって最悪の相性だ。間に合わない!
騎士団長の身体が、オリアナの魔術乱舞に吹き飛ばされ―――赤光の斬撃が『運び屋』をめがけて走る。
「『射程距離』―――「ゼロにする」!」
飛ばされた剣の欠片が、オリアナを傷つけ、ない。
<速記原典>が稼いだ刹那の間に――こちらから意識が逸れたこの好機に、術は発動していた。
これは、騎士団長が自ら編みあげた<ソーロルムの術式>。
―――! と、これには騎士団長も驚く。
「私の術を―――」
「貴方は優秀な長です。ただひとつ悪いところがあるとするのならば、すこし余計なおしゃべりが過ぎる」
騎士団長が、<偽慈悲剣>の術式がどういうものかと知っていたように、ナタリアも師が扱う魔術を盗んでいた。
あの言葉数が少ない傭兵から技を盗もうとしていた女騎士にとって、この世話焼きとも言える性分は、口で教えなくとも、指導してくれるだけで傭兵と比べてかなりわかりやすいのだ。門前の小僧がお経を読めるようになるように、戦場を共にし、その術で何度も命を救われたことで、学習したのだ。
「『使えるものなら何でも使う』、と教えてくれたのは、貴方です。もちろん、騎士団長様とは違い、完全にはゼロに削り切れず、一つしか指定できず、それも一分が限界でしょう」
そして、この優秀な師から盗んだのはこれひとつではない。
「『慈悲の剣』が、悪竜を討ったのは、口から飲んでしまった剣の欠片」
ただひとつだけナタリア=オルウェルにも構成できた『
「『専門用途』」
特定の怪物を倒すことだけに特化した術。これが、技倆で圧倒的に劣るナタリアの見た勝機だった。
蛇腹剣の自在な攻撃を捨て、苦手であると自覚していたはずの巨大な棍棒にした意味は、ここにあった。この氷の、『剣の欠片』。武器破壊を前提に、その残骸の破片を飛び散らせ、少しでも多くの氷霧を相手に吸い込ませること。
『抵抗の象徴たるその武器を粉砕してから相手を斬る』、と己の勝利と正義を信じるが故に相手を徹底的に叩き潰すその癖を把握しての行動。
天草式十字凄教が、<聖人>と歩むために<聖人>を殺す術を開発したように、ここに<騎士団長>を倒す策が完成する。
どくん、と騎士団長の心臓が止まる。
剣の欠片を吸い込んだことで、術が発動し、心肺停止。魔力を生成しようにも<禁色の楔>と同様に、阻害される。
以前、身体に巻きつけた際には、封じられた状態で<湖姫の帯>を力で外されてしまったが、これは体内に潜り込んでいる。同じように力任せで外すことは、不可能だ。
騎士団長の動きが、止まっ―――
「―――かぁッ!!」
心肺を止められた状態で、呼気を爆発させた。
瞬間、ナタリアは魔剣の一太刀を胴体に喰らい、かちあげられた。
残像も残らない神速の踏み込みだった。もはや人の動きではなく、肉体を封じてもその精神は一本の剣のように折れず。
不完全ながらも<ソーロルムの術式>を<フルンディング>にかけていなければ、腸をぶちまけて絶命していたに違いない。
「刃が潰れ、魔力を練るどころか呼吸もできない状態なのに。やっぱり、お姉さんには騎士様の考えることを理解するのは難しいわね」
宙高く飛ばされた女騎士の身体を、オリアナが操る小型船が甲板で受け止める。
衝撃で口から赤い血を吐く。肋骨が内から肌を突き破り、生温かい血が溢れ、鎧を締めるベルトの腰あたりにたまった。鎧の下に着る軽装から腿を伝って甲板に血が滴り落ちた。脇腹からオリアナが操縦しながら単語帳を噛み取り、気休め程度にしかならないが治癒魔術をかける。
「醜態を……晒してしまいました、ね……貴女……は……?」
「ええ、死にそうになったし、<速記原典>のほとんどを使い切っちゃったけど問題ないわ。おかげさまで。だから、もう寝てていいわよ」
オリアナの言葉に、ナタリアは淡く微笑した。
「お詫びは……何がよろしいでしょうか……?」
「夢の中で考えなさい」
「では……お言葉に、甘えます……」
がくっ、とナタリアの意識が落ちた。
「はぁ――はぁ――」
術者の意識が失ったことで呪縛が解かれた肺が、荒い呼吸で酸素を求める。
あと一撃、繋げられれば、危うかった。
浮遊の術がうまくいかず、足首が沈み込むが、騎士団長は倒れない。
だが―――結論から言えば、『清教派』の空中要塞の撃墜はできなくなった。
“あの男”がようやく間に合ったことで。
その証拠に<全英大陸>のバックアップがなくなり。赤く変色すらできなくなった魔剣が、元の、いいや本来の用途を取り戻した銀色のロングソードへと変わる。
ザンッ!! と背後で、“『騎士派』の空中要塞が”海に堕ちた。
(そうだった。ヤツの得意とする戦法は、まず拠点を潰すことだったな)
それを可能にしたのも、自分を相手に時間を稼げるものがいたからか。
敵機撃墜ではなく、傭兵が拠点を落とすまでの時間稼ぎと、こちらの注意をひきつけるために。考えることは同じ。
そして、<カーテナ=オリジナル>からの供給が途切れた途端に、軍用艦も、後方から緩やかな波を永続的に生み出していた海域が、まるで凍らされていくように、急速に“固形化”していき、機動力を削がれていく。
(これは、塩。―――そして、あれは………まさか、フランスの『軍師』まで手を回していたのか!)
塩の大地で足場をつくる。
これを成した援軍は、<オルレアン>
かつて『傾国の』聖女の復讐にはしったフランス最大の魔術結社だったが現在は、新生し当初の目的を取り戻し、イギリスの<新たなる光>と同じように、規模こそ縮小したがフランスのために秘密裏に動く組織。
『シャルルマーニュ』といった国の正規軍は出すような積極的に協力はしなくとも『軍師』は天草式と同じようにしっぽ切りにしても痛くない私兵を援軍に連れ出したのは見逃してくれたようだ。
「さあ、いこう。今度は俺達が力になるんだ!」
あの時、傭兵と共に戦った少年――ここまで強行軍で駆け付けたコリシュマルドを掲げた青年が<オルレアン>の仲間達を鼓舞する。
『清教派』の魔女空撃部隊と『援軍』の私兵奇襲部隊が、『騎士派』の精鋭軍隊を挟撃。
それができたのは様々な要因が重なった結果。
父の仕事を参考するように、ローマ正教に荒らされた土地の復興に学園都市が支援しているにもかかわらず、負ける可能性の高いローマ正教側についてると危うい、と『軍師』に思わせたこと。
影で『頭脳』の王女が、このフランスとイギリスを繋ぐライフラインを潰し、学園都市のお姫様を襲撃した犯人をどこがやったのかと有耶無耶にすることを条件に根回ししたこと。
かつて暴走していた結社が起こした『オルレアン騎士団殲滅戦』で傭兵に借りがあったこと。
『軍師』に黙認させ、交渉の場を整え、個人的な繋がりがあったがそれでも最後の一押しと決め手となったのは、その『人徳』が、かの『傾国の』聖女のように<オルレアン>を惹きつけたことだろう。
この海上戦、戦況は決した。
それでも、ひとつ戦果をあげるとするのならば、この男を『叛逆の』王女から遠ざけたことだ。
「……わざわざ待っててくれたのか」
「我が友よ……待たせたな」
戦闘による体力が回復した直後に。
真白に染色された大地に振り返れば、拠点<グラストンベリ>を潰した巨大剣<アスカロン>を手に、<オルレアン>の援軍を引き連れた傭兵ウィリアム=オルウェルがいた。
「貴様に言いたい事がどれだけあるか自分でもわからないが、良くこのような策に賛同したな」
「彼女はもう私の手を離れている。それに私の記憶が確かならば、女子供には甘いヤツだったからな」
「確かに、女相手に本気で剣を振るうには抵抗があったが、な」
今からでも<カヴン=コンパス>を堕とすか、戻って『騎士派』の救援に駆け付けるか―――だが、自分にこの男は無視できない。
「この戦で、『騎士派』に示したかったものは何なのか気づいていないのであるか?」
「なに?」
問うが、傭兵は答えない。
わざわざ口に出すまでもなくもう語り終わってるというかのように。
騎士団長よりも諸国の紛争地域を渡り歩いたウィリアム=オルウェルは単なる楽観主義ではない。戦争の悲惨さを熟知している。
そして、口ではなく行動で語る男だ。
「ここでの勝敗は決した。だが、そこで長だけが何もしない訳にはいくまい」
この男は冷たい涙を暖かいものに変えるために武器をとる。
「それも、仕事か」
「いいや、私用である」
貴様も相変わらず気障なヤツだと騎士団長は笑う。
<アスカロン>と<フルンディング>。両者、剣を構える。
事前情報で互いの技は知れており、その目だけで再会するまでの十年の研鑽がそれだけで見てとれる。
前夜からの連戦で休まず振るってきたおかげで互いに武装は消耗しており、万全ではないが、だからこそ、充溢する気は強壮に昂っている。
ここまでお膳立てしたものが誰かは知らないが、今はあえて感謝しよう。
一生に一度の勝負に相応しい相手と戦う理由を用意してくれて。
「往くぞ」
「来い」
ドバッ!! と剣と剣の衝突に塩が固められた大地が爆発した。
つづく