とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

285 / 322
英国騒乱編 身殺ぎ

英国騒乱編 身殺ぎ

 

 

???

 

 

 とある男がいた。

 その男の父は、息子を殺した神に袋いっぱいの黄金を要求した。

 袋いっぱいの黄金で、父は神を許した。

 黄金を手に入れた父は、その『死』の呪詛がかけられた指輪に囚われる。

 男は剣を手に取った。

 父を殺し、指輪を奪う。

 同じく『死の指輪』に囚われた弟を父の剣と兜を身につけた男は脅し、追い払う。

 男はひとり家を出て、黄金と共に洞窟にこもり、『竜』になった。

 

 そして、やがてその洞窟に、弟が差し向けた英雄が現れた。

 

 

 

 結局、己は剣を手に取った。

 昔からその兆候はちらほらと見え、準備はずっと以前から進めていた。

 だが、決行するとしたのはつい先日のこと。

 国を治める母上が外交手腕を発揮して国の威厳を取り戻し、周辺国家が宗教支配から独立すれば、このような選択肢は選ばなかった。

 しかし、同盟相手の姫が、国が管轄する領域内で、討たれた。

 これは、火種になる。

 己の力で国と世界を変えるまたとない好機、そしてここで動かなければ国は本当に独立する。

 20億の信徒が崇める神を責める機会を逃してはいけない。

 国の全てを奪ってきた神を許してはいけない。

 母上のやり方に見切りをつけ、あれだけ忌々しく思っていた力に手を染めた。

 『軍事』にだけ優れた己には、暴君になることでしか明確な未来が見えない。

 ならば、徹底的に。

 歴史上の最悪の汚点を残すほどの、圧倒的な暴君となろう。

 最期は墓所で『死』を背負い、この黄金にも勝る剣を守る『竜』に。

 

 そうして、その暴君の前に英雄は現れるのだろうか………

 

 

エジンバラ 地下

 

 

 かの悪竜を退治した英雄は、竜の血を浴びて、神に近しき不死となった。というが、竜とは気脈の暗喩であることから、それは星と繋がったものということなのだろうか。

 

「………」

 

 少女は、ひどく自然に座していた。

 その身体は清く、発する気は凄烈に研ぎ澄まされている。

 美しい、といえるだろう。

 神々しいともいえよう。

 神とは、人を離れたものだ。

 ある意味で、死に近づくほどに、人は神に近づく。

 ゆえに、禊ぎは神となる過程として利用されている。

 古来の、みそぎ、という言霊に秘められた意味は――“身殺ぎ”。

 不死鳥が業火に焼かれ、灰から蘇る。その行為にも似た、どこまでも清らかな身体に生まれ変わりの術。それこそが古来の禊ぎの意味のひとつであった。

 ならば、投影した殻を打ち消されてきたのは、身殺ぎなのだろうか。

 もしそうだとするのならば、日常とも言えるほどに慣れた行いだから、常人では気が狂う死毒にも平然としていられのか。

 

「………」

 

 この真暗闇の中で、滝行の如く竜の血ともいえるような気脈に打たれながら、黙考する。

 きっと、この力は異能も異端も異形もはっきりと感じ取れる。この力に、まるで篝火に虫が惹かれるように集まるのは、より破綻している者が多いのかもしれない。

 それは、逆説的な祝福か。

 それは、逆説的な呪詛か。

 人は、勝手なことを言う。

 上条詩歌は、『神上』であると。

 だが、だからといって、誰が何と言おうと、自分がそうならなければならない理由はない。

 自分は人間だ、と。

 それが現実味のない、儚い幻想だとしても。

 それでも、そうであれと願って、悪いわけがない。

 特別であるからといって、盲目的にそれに従う理由はない。

 ―――と、不意に、

 

「……っ!」

 

 目を開けた詩歌が視線を投げ、全身を総毛立たせた。その『異常の気配』に。

 死病の気脈にも揺るがなかったのに、顔色を変えて、闇の奥へ視線を向ける。

 今頃、この闇から出たはずの愚兄達の方へ。

 

 

 

 風が、不自然に踊り始めた。

 呪を伴った、魔の風。魔術師だとしても、長時間触れていれば吐き気や目眩に襲われるだろう。

 その風が闇を巻き上げて、嵐雲とも紛う螺旋に収束する。あたかもそれは、世界そのものが闇と共に身体を起こしているように見える。

 実際、そうなのだ。

 気脈とは、その土地の精髄でもある。それを核に受肉させるということは、ある意味で土地を起こすことにも等しかった。

 地下洞窟内に君臨する蛇竜(ワーム)

 その魔力の総量は桁が違う。魔術師であっても、ただの人間ならば蛇竜に触れただけで崩れ落ちる。

 英国の汚れた気流の集合、何千年と染みついた血の結晶。

 その目は赤く、その喉元が大きく盛り上がった。

 

(来る―――!)

 

 伝承に言う。

 竜の吐息は、毒であると。あるいは炎であり、あるいは氷であり、あるいは嵐を呼ぶと。

 ならば、この蛇竜――この気脈が放つ吐息は。

 顎が開いた。

 打ち並んだ牙の間から、この土地に染み付いた死病の呪いが流れた。

 

 その万物を溶かす死病の吐息(ブレス)のゆくところ、洞窟表面は溶け―――だが、彼女らに火傷のひとつもない。

 上条当麻の前に突き出された右手<幻想殺し>が、実体や霊体を問わず等しく与えられる『死』を殺した。

 

「―――くっ」

 

 それでも、そのたった一息で愚兄は圧された。

 <幻想殺し>で一瞬で消去できる限界を大きく超え、通常なら五指を駆使して逸らすのだが、ある程度幅はあるとはいえ一方通行の洞窟内で逃がすことはできない。

 まさしく、<竜>

 人知を超えた、意思を持つ現象。

 防戦できただけでも、奇蹟に等しい事柄と言えた。

 再度、蛇竜の喉が盛り上がる。

 先ので要領を得たものか、盛り上がる速度は遥かに速い。赤金の眼光が3人を捉えた。

 この<黄金を抱く竜(ファフニール)>は、キャーリサによる『全英博物館』の解放による恩恵を受けている。

 その力は『魔術の火薬庫』そのもの。倒せるのは、神性を得ている剣――そう、<カーテナ>のみ。

 

 だけど。

 

 世界屈指の英国を代表とする『博物館』が相手であろうと、こちらには『図書館』がついている。

 

顎を閉ざせ(S S D)! ―――」

 

 吐息を放射する直前で、突然、蛇竜の顎が止められた。

 一瞬、呼吸を止め、インデックスの唇から流れ出した流麗な言は、蛇竜の脳に高速で割りこまれたノタリコン<強制詠唱(スペルインターセプト)>。

 現象といえど“意思のある”のならば、無意識に従ってしまう。

 初撃を防いだだけの時間稼ぎとはいえ、この修道女はもう蛇竜の術式を見取ったのか。

 当然、死病の息は、蛇竜自らの口腔で荒れ狂う。

 たまろうはずもなく、牙の間から煙のような瘴気が漏れ、巨体がのたうち回った。それだけで地震みたいに洞窟が揺れた。

 

 だが、結果は相打ちだった。

 

 赤金の眼光から光が乱舞し―――さらに自滅させる命令(コマンド)を叩き込もうとした修道女は、今度は逆に口を止められてしまった。

 唐突に、寒気がインデックスを襲っていたのだ。

 

 なに、これ―――。

 蛇睨みの恐怖に、背筋を凍らせる。

 直接目線を合わせていないが背後のヴィリアンも明らかに顔色を変えていた。凍りついた表情は、恐怖で青褪めている。

 

(これは心理操作、ううん精神侵食。目を合わせた人間に恐怖を植え付ける魔術……!?)

 

 知識を保存してくれる存在には牙をむかない<原典>とは違い、これはどんな相手であろうと純粋な恐怖という衝撃を、その精神の蓋に直接殴りつける。

 こうして頭では冷静に思考している間にもインデックスの心臓の鼓動が――魂の揺れが速まっていく。まるで首筋に死神の鎌を当てられたように悪寒が彼女を責め立て、身動きが取れない。

 魔術的防護の精神訓練を受けているとはいえ、この恐怖の呪縛に自力で抗うのは不可能。分かっていても一度でも喰らってしまえば防げない。

 意識を保つだけで精一杯だった。

 

「ぅ……う、うぁ……あ……ッ……」

 

 吐き気がした。目眩と呼ぶには強烈すぎるものが頭の中を駆け巡り、上下と左右がたちまちわからなくなる。段々と毒がまわり、ひどい高熱が出たような感覚だった。

 吐き気を堪えて、両手で口元を覆うにも身体が動いてくれない。

 狂う。

 このまま目を見続ければ狂うと、インデックスは確信した。

 いや、その前に轢かれるか。

 

「ッ!」

 

 唯一、蛇睨みが通じなかった愚兄が背後の様子に気づく。

 それでも駆け寄ってやる余裕もなかった。

 蛇竜の武器は吐息に眼光だけではない。堅牢な鋼鱗の身体そのものが武器だ。

 今度は、しとどに涎を垂らし、自らの牙を更に噛み砕こうと開く―――ことはできずにもがいているが、かまわず蛇竜は突撃。

 如何に<幻想殺し>でもこの巨体を右腕一つで止められるか。

 

 そのとき、かすかに、聞こえたのだ。

 

「―――インデックスさん!」

 

 ひどく懐かしい声。

 こんな状況においてさえ、ほんの一瞬、少女を安堵させる声。

 

(だ、れ……)

 

 その声へ向けて……インデックスは……もはや神経と立たれたはずの腕を……伸ばそうと……

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 蛇竜の突進。

 その進撃の蠕動だけで地下洞窟は震動。パラパラと上から小石が降り―――壁や天井から生えてきた樹木が構造を補強する。

 そう、前夜にドーヴァ海峡の戦いで、ユーロトンネルを支えた時のように。

 念のためにとここまでの道のりに蒔いていた種子が一気に芽吹いたのだ。

 

「―――死人を徴収する三途の鬼よ、この渡し賃を受け取れ」

 

 愚兄の背後、蛇竜の前方から声が響く。

 

「―――六道転生車輪の如く、輪廻を巡りて」

 

 次に、キィン、と金属質な弾く音。同時、当麻は地面に伏せていた。

 

「―――疾く帰せ、<六連銭>」

 

 そして、レールの敷かれた腕に落ちた瞬間、オレンジ色の閃光が炸裂。

 学園都市第三位の代名詞ともなった十八番の超電磁砲(レールガン)

 音速の3倍で飛ばされるコインは摩擦熱であっという間に燃え尽きてしまうが、この穴のあいた銭はそこに籠められた生命力が尽きるまで破壊と再生を繰り返すことにより、本家に劣る破壊力不足を補っている。

 <超電磁砲>と<希土拡張(アースパレット)>の合わせ技。そして、その爆裂は連続する。

 

 ―――ドドドドドドドドドドド!!!

 

 蛇竜は鋼鱗を震わせ、爆裂超電磁砲を逸らす。全てを防げず鋼鱗はたちまち消滅した。が、貫通はしない。蛇のように脱皮を繰り返し、連続爆裂を阻み続け―――殺し切れない勢いが闇のむこうへと圧されていく。

 

「今の一撃でも倒せねーのか!」

 

「一応、とっておきだったんですが」

 

 そして、再び洞窟内の蝋燭ランプに灯りがともされたかと思いながら愚兄が振り向くと、インデックスの額当てを座標位置に<空間移動(テレポート)>で出現したのか。そこにすでに幾度となく改良されてきたヘッドフォン<調色板>を装着し戦闘態勢の上条詩歌が『王の墓所』から当麻達のもとに。

 すぐに現状を悟った賢妹は、許可を求める視線を送り、愚兄は逡巡するも倒れるインデックスとヴィリアンを見て、

 

「わかった、“一つだけ身殺ぐ”ぞ」

 

 その言葉に。

 

 詩歌はそのまま愚兄に背を向け、伸ばした。

 

 当麻はその背中を押すよう、それに触れた。

 

 変化は、唐突に、訪れた。

 

 眼を灼くほどに激しい光の粒子が、その身体から湧き立った。

 光子ではなく、物理現象以外で光を纏う、純粋な生命力。

 ありえぬほどに活性化した生命力が抑え切れんばかりに、詩歌を取り巻き吹き荒れる。

 それはさながら、暴風を纏い見る角度によって色が変わる虹の焔光を従える、羽をもつものの王。

 激し過ぎる輝きはすぐに収まったが、膨大な生命力はなおも彼女の周りにで静かに渦巻いている。

 それが途切れる前に、早急に作業に取り掛かった。

 

「―――原初の土。土を形作り、命を吹き込み、名で縛る。秘法は堕天が口伝する。だがその御業は人に成せない。そして堕天の口で語れない。生まれたのは命をもつ泥の人形」

 

 詩歌は目にもとまらぬ速さで<筆記具>作成に用いているペンを地面に壁にと刻印。

 簡易的に省略されているも、シェリー=クロムウェルの<石像(ゴーレム)>の術式だ、と当麻はおぼろげながら思う。

 

「―――それ四重の門を守るは四獣。厄を抑えよ玄武、厄を縛れ青竜、厄を裂け白虎、厄を喰らえ朱雀」

 

 塞ぐように大岩と小岩の2つが並んだものが4列も盛り上がる。どれも魔力が充填されている。

 それでも蛇竜の進撃を阻める壁にはならないだろう。きっと砂の城のように崩される。何度再生されようがその死病の吐息には溶かされる。

 それほどまでに<黄金を抱く竜>は強烈なのだ。

 それは、上条詩歌も分かっている。<石像>が儀式場を作るに利用しただけで、これはまだ完成ではない。場を整えたにすぎない。

 止まらず、防波堤を対蛇竜に強化する。

 

「―――常世と現世に別つ陰陽の夫婦。岐神の契りて結び、黄泉路を塞げ<賽の神>」

 

 集中祈祷しながら、取り出した複数枚の<筆記具>を捻じりまとめ、蔓に変じたものを投げると、その二つの岩を繋げるように巻き付いた。

 注連縄に縛られ結ばれた大小の夫婦岩……厄災を退ける<賽の神>だ。

 黄泉をも塞いだこの岩は、穢れた邪気を通さない。

 ひとつでも造れれば一流の地蔵職人の証ともいえる土地の気脈さえも遮るほどの結界を、一気に4つも。何となく“賽の神”という単語にびくっとした愚兄だが、賢妹の魔導師としての実力が超一流だと、居候の修道女にもお墨付きだというのが実感させられる。

 続いて詩歌は先の<石像>の際についでと『カバラ』が刻まれていた地面に肥料――オルソラから頂いた魚の心臓と肝臓をすり潰したモノ――を敷き、種子を蒔いて<植物操作(グリーンプラント)>で一斉に花咲かせる。

 

「ここに<生命の樹(セフィロト)>を敷く」

 

 そして、続く呪文。

 

「前方に守護者たる<神の火(ウリエル)>、後方に統括者たる<神の力(ガブリエル)>、左手に管理者たる<神の薬(ラファエル)>、右手に裁定者たる<神の如き者(ミカエル)>、楽園に五芒星が輝き、六条の星が屹立せん」

 

 それはまるで、原初の神殿の如く、真摯にして神聖な祈りであった。

 黄、青、緑、赤とそれぞれの方角に四方に四分する可憐な花弁は、その荘厳な詩句をまるで静聴しているかのよう。

 実際、そうだったのかもしれない。本当にわずかであるが花の一輪一輪は、清浄な魔力さえ帯びていたのである。

 たとえ、魔術とかが分からなくても、膝を折って祈りたくなるような場所だ。

 まさしく、

 

「この前、『聖域』について投影(がくしゅう)する機会がありましたので、<花蠱(はなまじ)>に織り込んでみました」

 

 聖灰の代わりに、浄粉を舞わせる聖域。見れば、鱗粉のような細かなきらめきが詩歌の周囲をその目線の指示に従い泳いでいる。

 風、水、土、火とギリシャ時代より伝わる四大要素を<天使>になぞらえた<天使召喚(アルマデル)>により、神殿を構築しようとする西洋魔術。

 カバラ十字から選択された東の天使(ラファエル)の<天使の力(テレズマ)>により、土地の浄化。竜の吐息を<幻想殺し>でも処理し切れず残留していた死病の欠片を、その花から飛散する花粉が吸着し、穢れを落とす。

 むしろ、清々しささえも感じさせるまでに。

 とりあえず、和洋折衷入り乱れな結界聖域で、急場をしのげる場ができた。

 ようやく、こちらに気が割ける。

 横たわる2人を痛ましげな表情で詩歌は膝をついて診る。

 インデックスもヴィリアンもその白磁のような滑らかな頬が、極度の衰弱によって、青く血の気を失っていた。吐息は細く、今にも途切れないかと不安でならなかった。

 なのに、心臓は破裂しそうなほどに胸を大きく上下させている。

 

「大丈夫なのか? 俺の右手で」

 

「これは消してもショック状態からは抜け出せないでしょうし、今はこの聖域の中へは入らないでください。回復させる前に“揺らしてみます”」

 

 簡潔に花弁とは離れた位置にいる愚兄に答えながら、ふたりの心臓のある左胸に手の平を乗せる。

 神道の<振魂(ふりたま)>。自らの生命源である魂を振ることで活性化させる術。それを応用し、正常な詩歌と同調させることで、2人の魂を鎮める。上体が止まる。して、その手首を取り、ふっと息を吹きかける<血返し>。ぼうっと汚染された呪力が吹き飛ばされた。魔術で息吹は基本であるが、これほど鮮やかなものはそういない。

 風船が萎むように膨らんだ肺が落ち付いていくと、ここまで超魔術を連発してもあまりある体力で、消耗した彼女らの生命力を充填する。

 

「<調色板(パレット)>千入混成<梔子>――<筆記具(マーカー)>複合強化『生命(ソウエル)』」

 

 

 

 ……そうして。

 修道女は、瞼を開く。

 うっすらと、澄んだ黒色の瞳が垣間見えた。ひどく懐かしく、安心する。星空のような目だった。

 

「私が、分かります?」

 

「え……」

 

 一瞬、名前が浮かばなかった。

 蛇竜の呪い。取り込まれかけた意識が、『インデックス』という個性(アイデンティティー)を取り戻していない。

 まだ頭が靄がかかっている―――というよりも、思考そのものが朦朧となっている感覚。

 しかし、それもすぐに回復した。

 

「し、いか……」

 

「よかったぁ……」

 

 涙ぐんだ少女が、目尻を拭う。

 それだけで、自分が危うい状態だったのかと思い知らされる。

 賢妹はそれでようやく一息付けたように花の絨毯に腰をつける。

 徐々に記憶がよみがえる。意識は失っていたが、それでも声――術句は聞こえていた。

 身体を起こせば想像通り。だが、これを即座に個人で成し得たとは想像できない。そして、精気欠乏が見られず平然としている彼女は想像以上。

 

(なんか、またしいかが、大きく見える)

 

 それほどまでに高レベルの魔術儀式だ。通常、このような淀みに『聖域』を敷くことはできるはずがない。淡雪が地面に落ちてすぐに溶けるだろう。陣を敷いても場が穢れていればすぐに泥濘に貪られるように穢されてしまうからだ。しかもこのように淀んだ汚染地でなんて、地面ではなく高温に熱せられた鉄板の上に雪を積もらせたようなもの。

 とにかく、そんな思考は置いておこう。積っていたとしても雪は時間が経てば溶けてしまうものなのだから。

 

「しいかのおかげで、取り込まれずにすんだんだよ」

 

「いえ。こちらから言わせてもらえば、危険を冒してまであの竜を押さえてくれたおかげで間に合いました」

 

 すでに上体を起こしていたヴィリアンに、五列の夫婦岩の向こうを警戒する当麻も無事。インデックスが危険を承知で割り込みをかけてくれたからだ。

 

「大凡は把握していますが、それで一体何があったんです?」

 

 頭の回転数を上げる準備運動とばかりに、インデックスは早口に、エレベーターまでは無事にたどり着いたが、故障して動かず、それを見て、混乱したヴィリアンが指輪に取り込まれそうになった、と、その蛇竜が『英国の竜(ペンドラゴン)』型の<黄金を抱く竜(ファフニール)>である説明。

 

「エレベーターが故障? それはあまり考えられないはずなんですが。結界を張る際に、ここの動力源も点検しましたし」

 

 そう、詩歌は結界を張るついでに銀行内を軽くまわっていたが、設備機能はやはり生きていて、まだ故障するような年数は経っていない真新しいものだった。

 それだけでなく、

 

「私が、指輪を……」

 

「いえ、私が想定していた最悪はヴィリアンさんが指輪をつけてしまうこと。指輪に罪科を負うのが王の責務と暗示を掛けても、王女に物理的な手段で攻撃する霊装兵器などが『墓所』の守護者になれるはずがありません。霊装の理論構築時に王室の血縁者を殺害できぬよう細工を施すことで安全策が取られていたはずなのに……そもそも霊装自体に核があろうと人の手で操作しない限り、起きない。あれは指輪をつけないかぎり実体化は……」

 

 詩歌とインデックスの見通しが甘かったのか。

 それとも何者かの介入があったのか。

 

(できると考えられるとすれば、<カーテナ=オリジナル>をもっているキャーリサさんですが、パスから彼女に『墓所』が荒らされていると察知されぬよう建物に情報封鎖の結界を張っている。それに、彼女はこんな<竜>を暴走させるような暴挙はしない。あの人は自分が永遠に――を守る竜になるために。……だとすれば一体誰が……最低でも<カーテナ>と同じ<神の如き者(ミカエル)>の属性がなければ、<竜>に介入はできない)

 

 ハッとほぼ同時に詩歌とインデックスが闇の奥へ向く。つられて当麻もヴィリアンも。

 

 がりがり。

 がりがり。

 

 地面を削るような音。

 それ自体が呪いのように、恨みのように、這いつくばって地面を引っ掻き続ける。

 まだ見えないが、こちらを睨んでいる。

 音によってつくられた自分達を閉じ込めようとする結界を――いかにして排除せんかと、赤く澱んだ瞳で見つめて。

 ぷつん―――と一列目の夫婦岩が破られた。

 やはり、厄災を祓う<賽の神>をもってしても、すでに受肉してしまった竜の侵攻を止めることはできないのである。

 緩やかに世界はひずみだし、悲鳴を上げる。

 

「私達に与えられた選択肢は2つ。まず、結界が保っている間にこの『墓所』を脱出する」

 

「それだと、この<竜>はどうなるんですか?」

 

 その問いに、インデックスが解答する。

 

「どうやら無理矢理に封が剥がれちゃっているようだから荒れてるんだよ。このまま<竜>が外に出ちゃったら気脈も何もかも破壊されて、エジンバラはまた人の住めない土地に変わってしまうね」

 

「な―――っ」

 

 表情が固まった。

 これが、淀みに溜められた恨み。

 土地が枯れるだけではない。触れれば、親と子が殺し合うか、恋人同士で首を絞めるか、やがて死病に苦しみ死ぬ。

 常人には気づかずして、世界は変わってしまう。

 誰かが引き継がなければ――延々とのさばり続ける。その負の遺産を引き受けられるだけの血統が抱えなければ。その万分の一でも常人には耐えられない。

 

「それとも、生き埋めを覚悟で、<竜>を鎮めるか」

 

 ただしそれはリスクが大きい。

 暴走しているとはいえ<黄金を抱く竜>は『墓所』の守護獣だ。この洞窟が崩れずに維持されているのも詩歌の補強だけではなく、守護獣としての役割を果たしているからこその話だ。

 何より、大前提にあの<竜>を殺せるだけの力がなくては話にならない。

 

「あの<竜>と目を合わせちゃいけない。あの頭部にはおそらく、<恐怖の兜(エーギス)>の術式が組まれてる。『ファフニール』の父の兜、『エーギス』は、恐怖そのもの。英雄『シグルズ』を除いて、その兜を前に耐えられなかったものはいない」

 

 思い出したのか、少し顔を青ざめてインデックスは説く。

 <黄金を抱く竜>の眼光は、見た者に恐怖を植え付ける。それが<原典>の知毒に耐性のあるものでも、目を合わせてしまえばかかってしまう。

 また、蛇竜の牙は『ファフニール』の父の剣、『フロッティ』に対応。『フロッティ』は英雄『ベーオウルフ』の魔剣『フルンディング』と同系列で『突き刺すもの』という意味を持つ。

 <全英大陸>による補正を受けている今、この<黄金を抱く竜>の牙<突き刺すもの(フロッティ)>は、『切断威力』に限定してだが、<騎士団長>の魔剣<フルンディング>と同じ。

 そして、その黄金の鎧のごとき鋼鱗を突き破り、心臓の核を貫けるのは『選定剣』のみ。

 

「……ここにきて、姉君の覚悟は理解できました」

 

 と、ヴィリアンは胸に手を添え、あのキャーリサと対峙した時と同じ、どこか強い力で。

 

「私は、あのものたちを助けたい」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <竜>は、思考していた。

 

 知性というよりは、幾千年という想念を取り込んだ結果の、本能にも似た思考であった。

 

(………)

 

 ただ、本当ならば起きるという自我すらもないはずだった。

 見えない巨人の手が硬く絞られたはずの蛇口の栓を回したかのように、血の淀みを溜めていたものが現世に出てきてしまったのである。

 その流れが、堰のようなもので止められているのは感じている。

 だが、一度たかが外れてしまった以上、その勢いはそう易々と止められるものではない。

 今少しの時間があれば、あの程度の堰は一突きで貫き砕かれよう。気脈と繋がった<竜>の魔力は、無尽蔵とさえいえ、ラインを繋いでいる『選定剣』からは情報が流れてくる。

 そこにはその時代の権力者、王に対する怒りも、悲しみも。それらがないまぜになった思念もあろう。

 

 “ここから、出たい―――”

 

 何度も。

 何度も。

 何度も残響する。

 それらは停滞する淀みを打ち破ったこの流れと同一し、身体をもつに至ったのだ。

 止まることは、できないのである。

 止めていた蛇口の栓も圧倒的な力で開けてしまったせいで壊れてしまっている。

 そして、ひとつ。

 恨みとは別の意思もある。

 

『賛成多数により、以上の兵器の使用は禁じられることになりました』

 

 世界最大宗派に牛耳られたEUの会議は、我が国の主力兵器を狙って、ピンポイントで塗り潰すように次々と禁止条約を可決させていった。

 そこにかつて世界の中心だった大国への畏怖などない。

 自分が関わる以前の親の代からずっと。

 『爆発の破壊力』という基準によって、隣国は認められたが、我が国の兵器開発は制限され、挙句の果てに『兵器を安全に解体する技術を有している』という理由からその隣国にそれまで開発していた兵器を渡すことになった。

 これは、『攻撃』だ。

 世界最大宗派が後ろ盾にいるのなら、この時代遅れの大国など怖くないとばかりに、羽も腕も足ももぎ取ろう。

 国の価値が下げられている。もう現に、かつては雄々しく世界に羽ばたく翼を広げていた竜は、手も足も出ないこの蛇のような形になってしまっている。

 

『これはあからさまな挑発行為だ。乗ってやる必要もない』

 

 国を治める母上はそういう。

 しかし、その喉元から竜の吐息のごとき威嚇発言をしないままでは牙までも抜かれ、喉も潰されてしまう。

 王政の失敗は、そのまま民の生活破綻に直結している。

 我が国の民というだけで嘲られ、罵られ、我が国の民であることを恥じるような時代がやってくるだろう。

 そんなことは止めなくてはならない。

 国の民全てが笑って過ごせるような時代を失くしてはならない。

 だから、己が竜となり、残された牙と吐息を以て、あらゆる障害を打ち破ろう。

 

 

 ブツン、と<賽の神>――最後の防波堤(セーフティ)が破られた。

 

「……ったく」

 

 訂正だ。番人(セーフティ)はまだいた。“たったひとり”の。あの“瞬間的に自分を上回った”存在はいない。

 番人たる愚兄は片目を閉じながら、

 

「生き埋めになってでも<竜>の相手をしてください、か。妹に頼まれたんじゃあ、仕方ねぇな」

 

 しんどそうに、しかし、どこか嬉しそうに頭を掻く。

 

「無茶ぶりが多いぞ、詩歌」

 

 <竜>は、混乱した。

 狂ってはいても、ヒトの意思が集まり、人格を形成している。上条当麻の言葉自体は、おおよその意味を理解できるかもしれない。

 しかし、おそらく、<竜>には理解できないだろう。

 それもそうだ。

 この死病の吐息を打ち消せようが、この巨体を物理的に食い止めることなどできるはずがない。

 一体、世界のどこにいよう。

 この<竜>に、正真正銘、真っ正面に立ち塞がろうとする大馬鹿者が。

 ここにいるのだ。

 混乱した<竜>は、興味を持ったのかもしれない。

 この<黄金を抱く竜>の力を恐れず、<恐怖の兜>の効果も通じず、立てるこの少年は英雄なのか。それとも………

 

 “―――ここから、出る!”

 

 眼前にいる存在の正体などわからないが、こちらを全力で止めようとしているのは間違いない。

 <黄金を抱く竜>が上条当麻に突撃。ここまで結界を貫いた口器の牙<突き刺すもの(フロッティ)>で噛み切ろうとする。

 <幻想殺し>が反射的に右手で蛇竜の顎を受け止める。だが、その程度で蛇竜の勢いは止められない。死病の瘴気を漏らしながら、上条当麻ごと地下を突破す―――

 

 

 その時、砕かれたはずの<賽の神>が復元した。

 

 

 四列の夫婦岩。

 夫婦とは陰陽の表れであり、上条詩歌はこの4つそれぞれの属性を四神相応に分けている。

 地の玄武、水の青竜、風の白虎、火の朱雀、四獣がおわす地は厄を退ける、という。

 だが、この四重にした意味は、この東洋の四大元素(エレメント)を『カバラ』を基盤とする<石像>を強化するため。シェリー=クロムウェルが四大天使を以てして、<石像>を強化したように、更に陰陽を加えた『陰陽道』で行う。それだとやはり原型とは目的が異なるが、この『和式石像』は原初の人間を目指す人型ではなく、罠にかかった<竜>を封じる自律式結界の四門である。

 

「かかった! やっぱり俺の妹は腹黒い!」

 

 全身を四門に通したところで、上条当麻が一瞬でも動きを止めた時間に事は済んでいた。

 その長い身体を陰陽に引き寄せられる夫婦岩は挟み、さらに<賽の神>の『災い縛りの注連縄』である蔓が蛇竜を縛る。

 水揚げされた魚のように、蛇竜は体を跳ねさせ、狭い洞窟内で巨体を弾ませるので、足許が激しく揺れ動いたが、柔術の達人が敵を押さえ込んで絞め落そうとするように夫婦岩は拘束を強め、蛇竜の抵抗を封じ込める。

 <竜>とはその土地の力そのものであるが、<石像>はその土地の力を吸い上げて力に変えているのだ。

 いわば、自縄自縛。

 形成している魔力がいくら膨大でも<竜>がもがけばもがくほど夫婦岩は封を強める。

 苦し紛れに、死病の吐息を放とうとしても、

 

「今のうちに物騒なモンを壊させてもらうぞ!」

 

 右手が掃う。物理的手段では対応できないが、幻想ならば話は別だ。

 そして、固定された頭部。まずは口器の剣の横っぱらを叩いて、<突き刺すもの>を右手で砕くと、インデックスに指示された<恐怖の兜>の中心点たる眉間を殴る。

 これで牙と目は潰した。

 

 ごおっ! と蛇竜の胴体がさらに膨張した。

 

 それでも、蔓はちぎれなかった。

 夫婦岩に巻き付いたまま、<竜>を完全に拘束している。どれほど<竜>が力を込めても、自分で自分を持ち上げるのは無理だ。

 が、<黄金を抱く竜>は動いた。

 

「―――っ?!」

 

 蔓は、破られていない。

 だが、蔓と繋がった夫婦岩の方が地面から持ち上がったのである。割れた地面が、亀裂を幾重にも増やし、蜘蛛の巣の如く広がった。

 持ち上がった岩盤に、愚兄は体勢を崩す。

 

「<吸血鬼>もそうだったが、本当にこいつら化物だな!」

 

 こめかみに冷たい汗がつうと伝った。

 たんっ、と地面を蹴り、身体が後方へ跳ぶ。前兆の感知に、瞬発力の宿る肉体が蛇竜の反乱から逃げ、先程の<花蠱>の花畑に着地し。

 

「お―――」

 

 だが、蛇竜にとっては、無駄なことだ。

 この一方通行の洞窟で、人間の足で、<竜>から逃げることはできない。

 

(し、ぬ―――!?)

 

 最悪の予感。

 覆すだけの、思考さえままならない。覚悟と後悔が入り混じって、愚兄の脳を焼いた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 蛇竜は進撃する。

 牙が抜かれた。目が潰れた。それでも止まらない。

 

 ―――だが、最後の出口の前にいたのは、英雄ではなく、大馬鹿者でもない。

 

(すごい……!)

 

 今ここに<竜>が迫ろうとしているにもかかわらず、ヴィリアンが目を奪われたのは、その舞の一差しの、美しさのゆえだったか。ただ一足、ただ一差しで、歌い手たる修道女の清しい声音に合わせる、その優美さは、それだけで神域に入っていたのだ。

 澄み渡った舞手の横顔からも、一瞬で人らしい面影が消えていた。

 年齢も性別も超越した、神子の姿。

 其れ、すなわち『神』の(かんばせ)―――。

 

 ―――美しいものには、神が宿る。

 

 それは誰の言葉だったろうか。

 

「―――インダラヤ(I)ソワカ(S)

 

 神が鳴く。

 稲妻が走った。

 時ならぬそれは、その身にまとう瘴気を存分に切り裂き、蛇竜へと直撃。

 帝釈天真言。

 仏教を守護する三十三天の筆頭。

 北欧神話でも世界をぐるりと囲めるほどの大蛇竜ヨルムンガンドを相打ちで仕留めたのは雷神トール。

 帝釈天とは、インド神話における悪竜殺し(ヴリトラハン)の雷神インドラ。その神性・仏性を独鈷杵のカタチに現世に具現化させたのだ。つまり、この神鳴りは、仏敵を滅ぼす雷撃であり、悪竜殺し。

 それを『木生火』の理を以て、次の火種にする。

 

「―――オン(O)アグニ(A)ソワカ(S)

 

 火天真言。

 十二天が一、曼荼羅の外周部にありて東南を守護する火天の炎。

 火天とは、インド神話におけるアグニのことであり、<必要悪の教会>のソーズティ=エキシカが得意とする<アグニアストラ>と同じ効果――電磁波を増大させ、凄まじい破壊力を持つ雷火によって神敵を滅ぼす祭火を起こす。

 悪竜殺しの神鳴りが、天部の神炎―――それを更に属性を付与する。

 

「―――ノウマク(H)サラバ(S)タタギャテイビャク(H)サラバ(S)ボッケイビャク(H)サラバダ(S)タラタ(T)センダ(ND)マカロシャダ(S N)ケン(M)ギャキギャキ(K K)サラバ(S)ビギンナン(M)ウンタラタ(M T)カンマン(M M)―――」

 

 この2人がやっているのは霊装がなくとも言霊と舞踏により術式を成す<アストラ>の再現する――<強制詠唱>の変形、神仏習合の真言神楽。

 修道女の『真言(マントラ)』には、何の魔力は籠められていない。これはただの“助言”なのだ。ただし、その10万3000冊を正しく使えるものは、神に等しい力を得る。それが歌のように聞きながら、ステップを踏んでいく。

 この踊りの中にある『仕草』や『挙動』に魔術的意味を織り込み、呪文だけでなく示唆されるリズムで動くことで儀式を執行している。天草式十字凄教が得意とする『偽装』。本来、<強制詠唱>では割り込みづらいはずの動作儀式を歌と踊りという形で成しているのだ。

 日本の総合魔術『陰陽道』にも複合魔術『天草式』にも共通するのは日本独自の神仏習合を基盤としている。その神道のひとつである<神楽>とはその文字のまま『神を楽しませる』ための技術の総称。

 舞や音楽に始まり、能、歌舞伎、はたまた武術もこの技術の範疇となり、その多くは祭りの際などに神前に披露される。

 上条詩歌が神楽の理念にも通じる『他人の流れを利用し己の力に変える』までに柔法のレベルが高く、その一挙一動が修道女の吐息ひとつ逃さずに受け止める。

 <禁書目録>が記憶する、ある自動人形(オートマタ)の術式をインデックスは『魔道図書館』から引っ張り出す。

 それは雑念だけでなく、本来の働きを発揮すれば、あらゆる呪いに死霊を、ただ『火』をもって焼き払う。

 『火』を起こすのが単純な魔術だとしても、ここまで練られて極めれば、太陽の炎にも届くのだ。

 

 

「―――火界よ(はし)れ」

 

 

 神韻縹渺と響く、あまりにも幽けき声音。

 一切の煩悶と怨念を焼き尽くし、三千世界を焦土と化すとされる不動明王系の調伏法である浄炎の真言、金剛手最勝根本大陀羅尼―――<火界咒>。

 その背負う焔はインド神話におけるガルダであり、毒蛇悪竜を喰らう霊鳥の迦楼羅が吐いたものとされる。

 

「天草式十字凄教は複数の術式を迂回することで<天使>すら斬り裂くこともできるもの。でも、どちらも源流はともにしてるし、よく似てて相性もいいけど、<神楽>で神仏習合の不動明王からアクセスしてインド神話のシヴァ神に合わせられるのは、しいかくらいなものだね」

 

 仏教の不動明王はインド神話の舞踏を司り、あらゆる『流れ』を統べるシヴァ神と同一ともいわれる。同じシヴァ神系列の<アストラ>である<アグニの祭火>は風の流れによって相手に照準していたが、ここまでの神楽と真言で練られた神仏習合の魔術は、“気脈という流れ”に乗り、<黄金を抱く竜>を狙う。

 そう、どうあっても、どんな流れに乗っても、終着たる『淀み』である蛇竜は逃げられないのだ。

 百発百中の自動追尾。

 帝釈天の神鳴り、火天の神炎、不動明王の迦楼羅焔が合一する。

 その元が金である蛇竜の鋼鱗を『火剋金』の理を以て降す。

 

 ごうっ! という途轍もない轟音が、こちらを激しく叩いた。

 

 衝撃の波動は洞窟全体を掃き清め、壁に天井に当たって地上を揺るがした。咄嗟に顔を庇った腕の隙間から見れば、蛇竜が紅く照らされていた。その周辺の地面ごと真紅に輝いている。

 いや、違う。融け始めているのだ。インデックスと上条詩歌が練り上げた浄火が指定する空間を融点を超える超高温に熱して液体に――つまり、溶岩(マグマ)を起こした。

 蛇竜は、何度も何度も上塗りするように鋼鱗を新たに再生させ続けて熱を遮断しようとしているが、赤金を呑み込む紅から陽光の白へとグラデーションをつくって輝く浄火は瘴気すらも蒸発させ、鋼鱗を容赦なく灼く。やがて、蛇竜の巨体は、大きく悶えたあと地に伏し、溶岩の池へと少しずつ沈み込み始める。

 仮に蛇竜が鳴く事ができたのなら、今頃はそれだけで洞窟を崩しそうな大ボリュームで咆え猛っているだろう。そう確信できるほど、蛇竜の反応は激烈なもので、大口を痙攣じみた動きで開閉し、その尾を無茶苦茶に振り回す。時折顎から瘴気の吐息を漏らすが、膨大な熱エネルギーのほんの一部を奪うだけで、何も溶解することなく融解される。万物の穢れを祓う浄火の禊ぎ。

 蛇が脱皮し、殻を脱ぎ捨てる行為も、禊ぎ(身殺ぎ)、なのだ。

 弘法大師の法力を彷彿させる神楽は、それを魅せる舞手もそれを詠める歌手もただごとではない。

 土壇場に、ろくな準備もなく気脈の淀みを浄化することなど、すでに喜劇じみている。

 人を<魔神>へと導く<禁書目録>―――インデックスの、これが本領であった。

 神にもなれる<幻想投影>―――上条詩歌の、これが実力であった。

 

(―――投影する。殺すのではなく、彼らを助ける力を!)

 

 <縮図巡礼>にも使われた黄金比に正確な英国地図を根元に敷き、ここまで時間稼ぎをして、ようやくこの土壌に馴染んで生えたもの

 

「本当なら3年かけたかったけど、急いで起こしちゃってごめんね」

 

 と、詩歌がそれに呼び掛ける。

 それは、小さな樹としか見えなかった。

 長く葉を茂らせ、賢妹の手に無骨な樹皮をさする桃の木。

 

「仙桃樹だね。桃は、黄泉の邪気を払った功績から、日本の主神イザナギ命に、大いなる神の霊威()の意味で『大神実命(オオカムヅミノミコト)』と神名を授けられ、生きとし生けるものが、苦しみ、悲しみ悩む時に助けてやってほしいと願われた植物種。中国でも有名な仙女、西王母の庭に植えてある桃は、仙人の果実とも言われ、不老不死の万能霊薬といわれるほど東洋では霊験あらたかなもの」

 

 インデックスが見守る中、詩歌は桃の木を掴み、目を瞑った。

 精神統一。

 神の宿る場所を、岩であれば磐座(いわくら)、木であれば神籬(ひもろぎ)という。

 単なる木の枝ではなく、生きている、それも神を宿らせる樹そのものを取り扱うのは、普通の杖の何倍もの留意が必要となる。

 大地と直結した樹木の生命力を扱うのは困難で、また生きているがゆえの樹木自身の意思など、通常の魔術師には処理不可能な難事が、最低でも十以上は立ち塞がっている。

 賢妹もその技を完全に成せるようになったのも、岩と木と、巫女に神官が自然崇拝を基盤とする神道やケルトなど原初の魔術のカタチを学んだからこそ。

 

「ここに、繋げる」

 

 覚醒状態に入る。極度に研ぎ澄まされた意識の中で、『上条詩歌』という存在が希薄化する。この神籬を起点に、『地図』――英国大陸全体へと広がっていく。

 

「あなた達が通る道をここに創る」

 

 洞窟の空気が震えるのを、第三王女は感じた。

 さわさわと、柔らかく広がり。

 やがてはそれが潮引きのように流れを吸い寄せる引力に変わる。

 その詩歌に惹きつけられるように、大地のざわめきは、その範囲を拡大させていく。

 同時に、少女の心も拡大する。

 自分は大地で、大地が自分。自分は世界で、世界が自分。

 神籬に投影することで、自我と世界の境界が曖昧になる。

 

「<麹塵>、<深赤>、<黄丹>、<梔子>、<深紫>、<深緋>、<深蘇芳>―――」

 

 握った手の爪で引っ掻くように木肌に『F』にカタチの近い文字を刻み、

 

 

「<調色板>簡易混成<禁色>―――<筆記具>複合補助『伝達(アンサズ)』」

 

 

 刻まれた文字(アンサズ)の意味は、『神』、『口』、『伝達』。その根元の地図に記されたポイント――<環状列石(ストーンヘンジ)>に気脈の情報――意思を接続する。

 仙桃の神籬を代理にすることで、先生に禁じられた9月30日に行使したものよりも効果を下げて、負荷を減らしたものだが、それは自然に意識を取り込まれるというリスクを冒してでも、術者自身が魔術的に大地と同一化するということ。

 

「この、幻想を、投影する―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――“ここ、から 出た い”

 

 

 脱皮したばかりの蛇のように、真っ白な体。

 その大きさこそ変わらないが、火に清められ、鋼鱗もほとんど抜け落ちている。<竜>というカタチを削ぎ、剥き出しの、ありのままの哀しい魂の集合体が残る。

 だが、それでも<黄金を抱く竜>の呪いに囚われている。

 だから、その鎖のようにこの墓所に縛られた守護獣としての任を解く。

 

(く  ぅ… …    っ! !)

 

 手足を――翼をもぎとられたかのような激痛に苦悶、のたうちまわりたくもなるが、その体を戒めるように背中に自分の意思で描いた陣図が蠢く。

 ある一定の制限を超えたら発動する、存在の階級を堕し、地に押し留める禁戒。

 

(けど、これで把握した)

 

 『説明できない何か』を、『この世界の基準に正す』。あの右手が<聖人>の莫大な生命力までは消せないからこそ、理解できなくとも、純粋なエネルギーだけが残る。

 『魔神になれなかった男』が<北欧玉座(フリズスキャルヴ)>の方式にあてはめることで生命力から魔力精製過程にある『説明できない何か』を利用しているのとは違って、他人の手を借りなければできない裏技だが、これで活用法に新たに光がさした。

 

「これを……」

 

 詩歌の手にあったのは、最後の力を振り絞り、桃の木で造られた、扱い易いように弓ではなくボウガンと茨の矢を装填した、<桃弧棘矢(とうこきょくし)>。

 それは親たる仙樹とラインが繋がっており、核を討たれものを縁を結んで導く。

 決して、怪物に止めを刺す『選定剣』ではなく、慰めるもの。

 しかし、詩歌にボウガンを構えるだけの力はなく、なにより自分の役目はここで終わりだ。

 

「彼らを導くのは……一度なりとも、あの恨みを聞いた王族、英国第三王女、ヴィリアン様が相応しい」

 

 言われて、ヴィリアンが言葉を失った。

 人の上に立つ重責、それを負うに相応しい、と。

 ヴィリアンは<桃弧棘矢>を受け取り、その重さを感じ取る。

 短いがこれを動かすためのレクチャーは受けていた。

 彼女がした事は、この英国に新たに気脈を通す循環型経路をつくったのだ。

 過去の『死』は、なかったことにはできない。

 しかし、『死』の歴史が残る以上、外に解放するわけにはいかない。

 どれだけ溜めこもうと、どれだけ封じようと、死は死を呼び、いつか破裂してしまうだろう。

 だから、この<縮図巡礼>の『渦』をつくるように、“新しく道を書き記した英国の地図”をこの本当の英国の大地に投影させることで、全く新しい霊脈地脈をつくりあげたのだ。

 

『これなら、淀みが汚染するということはないね。どんなに浄化しても既存の気脈に溜めた淀みを棄てたら、溢れだしちゃうし、また穢れてしまうけど、霊脈自体を新しくつくったら溢れだす心配はないんだよ』

 

 でも、とインデックスは思う。密かに驚愕を呑み込む。

 一応、そういう術式も、古い魔術には存在する。

 一国の首都をつくる際、近くにある気脈を誘導したり、つくりかえたりすることは、いくつかの時代においての基本事項でもある。

 だが、それは個人でやるようなものではない。

 たとえ、<禁書目録>のサポートがあっても、<縮図巡礼>などと前もって準備してあったアイテムがあっても。

 山を考えればいい。

 川を考えればいい。

 いくら剛力だからと言って、人間ひとりの膂力で山は動かせるだろうか。

 いくら強大だからと言って、人間ひとりの身体で川は流れを変えるだろうか。

 今やったことは、そういうことだ。

 十二の試練で2つの川の流れを動かして洪水をおこしたり、巨人(アトラス)の代わりに地球を持ち上げる半人半神の英雄(ヘラクレス)を、インデックスは想像した。比喩抜きで、キャーリサの<カーテナ=オリジナル>と同等の『力』がなければ、あまりにも考えにくい現象だった。

 そして。

 大きい、と覚えていた詩歌の存在感が、何故か今は雲散霧消に。人の魔力反応に敏感なはずの自分でも、総体としての特徴さえも『優しそう』という極めてあいまいな印象しかない。

 これはもはや、個性がないではなく、概念として存在しない領域だ。

 

「しいかは……」

 

 言いかけたインデックスに、

 

「インデックスさん、ヴィリアンさんのサポートをお願いします」

 

 と、詩歌がお願いする。

 機先を制されたようなかたちだが、確かに悠長にしている時間はない。

 

「流石に、もう一矢つくるのは無理なので、外さないでください」

 

「うん、わかったから、しいかはもうそこで休んでてね」

 

「ふふふ、はい、あとはお任せします」

 

 気脈は、ゆっくりと土地の人々の影響、ともに歴史を歩んでいく。新しく、優しさも喜びも、哀しさも怒りも受けて、成長していく。

 王一人が全ての『罪』を背負うのではなく、住まう民と一緒に。

 

(わたしは、ひとりではなにもできない。これも、自分の力じゃありません)

 

 恥ずかしく思って、、ヴィリアンは顔を伏せた。

 きっとどこまでいっても、ヴィリアンは他人の力を借りっぱなしである。

 それでも。

 これが、自分の『力』なのだ。

 ならば、倒すためでも、勝つためでもなく、救うために――そんな夢じみたもののために、この『力』を使う。

 

 ―――“出  し て”

 

 声はない、が聞こえた。

 彼らは、ここを出たいと言っていた。

 

「いいんです」

 

 と、ヴィリアンは、クロスボウを構えた。

 『死』はここまできてなお、外へ出ようとするのだ。もう何のためにここに出たいのかと忘れ果てていても、新しい世界へ行きたいのだ。

 

「もう、いいんです。あなたたちの居場所は用意しました」

 

 引き金に指を掛ける。

 インデックスの言葉を参考に、ヴィリアンは詠唱を行う。まるで祝詞のように。

 

正しき血を(O A G)継ぐ者の(P A T)命に従い(A C O)速やかに(T P O)あなた達を解放する(T R B)!!」

 

 桃の木と縁が結ばれた茨矢が、『死』に刺さり、意味を成す。

 動画を巻き戻すようでもあった。ぱたり、と痙攣が止まると、あれだけ巨大だった<黄金を抱く竜>の身体は花が散るように縮み、膨大な魔力を失っていく。わずか数秒の後、残ったのは自らの尾をくわえた蛇竜―――最初の小さな赤金の指輪だけであった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「詩歌! インデックス! ヴィリアン! 無事か!」

 

 “生き埋めになった”上条当麻が、全てを終えたところで駆け寄ってきた。

 悪竜『ファフニール』を退治した英雄『シグルド』は『自分で掘った()の中に隠れて、悪竜がその真上を通った時に、剣を突き刺した』

 眼が潰された蛇竜は気づかずに、気づいたとしてもこの狭い洞窟内では反転しようがなくどうしようもなかっただろうが、あの花畑の聖域が、愚兄の右手に触れて形を崩し、落とし穴に。

 

『逃げ場がないなら掘れ(造れ)ばいいんです』

 

 と、詩歌が用意していた緊急避難場所の中で蛇竜の長い胴体を見上げたながらやりすごし――意外と深かったが花がクッションとなって――軽く腰を打ちつけたが、当麻は全くの無事だ。

 底からせっせと自分の手足で昇って現在に至る。

 洞窟の出口まで駆け寄ると、こちらに恐縮そうに頭を下げる第三王女と手持ち無沙汰で暇してる修道女が出迎えてくれた。

 

「あ、とうま、ちょうどいま終わったところなんだよ」

 

「そうか。ご苦労さん。で、詩歌は?」

 

「しいかなら出口を開けようとしてるけど?」

 

 そうだった。

 <黄金を抱く竜>を浄化しても、ここに出入りするためのエレベーターが停止しているようでは出られない。結局、当麻にはあれは何が原因だったかわからないが、常盤台のスーパーお嬢様ならスマートに………

 

 

「常盤台中学秘伝、『ケンカキック式ドア破り』!」

 

「やだ! とっても豪快!」

 

 

 あちょー、とものすごく物理的な伝統芸の一発でエレベーターの金属扉が開いた。

 きゃ、痛い、足を痛めてしまいましたわ。みたいな感じはまったくなかった。

 思わず、ドキュンときてしまう。

 

「さっすがしいか! 簡単に開いちゃったね!」

 

「はい、開門です。……で、どうしたんです当麻さん? 頭の痛そうな顔して」

 

 とてもすっきりしているいい笑顔で妹は言う。

 

「なあ我が妹よ……常盤台ってお嬢様学校なんだよな?」

 

「当麻さんは幻想の見過ぎです。これくらい普通ですよ? ケンカキックは淑女のたしなみです」

 

「そうなのですか。そういえば、姉君も時々そのようにドアを開けているのを見たことがあります。流石、学園都市は進んでいるんですね」

 

「いいや普通じゃないねっ! 絶対に! そんな物騒な淑女は淑女じゃねーよっ! たとえそれが本当だとしてもお願いだから、これ以上オトコノコのロマンを殺さないでくれっ!」

 

「そんなの気にしてたら時間がかかりすぎです。いちいちハッキングして開けるのも神経使うんですよ?」

 

「いや別に金庫破りっぽく犯罪臭のやり方が良かったとかそう言うんじゃねーけど、もっと、こう、女の子っぽい―――!」

 

 その時だった。

 

 ごごごごご、と。

 今までのよりも大きな振動が襲い掛かる。

 

「それにほら? ここ、もうすぐ崩れますし」

 

 これからの天気は激しい雷雨ですと天気予報士のお姉さんが言うように賢妹は述べる。

 奥から洞窟の天井がゴッゴッとドミノ倒しのように連鎖的に落ちてくる。

 このままだと確実に今度こそ生き埋めだ。

 

「ヤバい!! 今度のはマジでヤバい!! まさか、詩歌がそんなぶち抜くような真似したからか!!」

 

「とうま、最初に言ったけど、ここを支えてた<黄金を抱く竜>がいなくなっちゃったら崩れるのは当然かも。もう、とうまはちゃんと人の話を聞かないんだから」

 

「インデックスもこの現状をちゃんと把握してくれ! 急いで逃げるぞ!」

 

 慌てて押すようにエレベータに入る。

 だが、やはり開け方が悪かったのか、それとも電源が切れているのか。上昇ボタンを押してもエレベーターは動いてくれない。

 

「詩歌! こうなったら俺達を抱えて跳ぶことはできねーか!?」

 

「えー、当麻さんはか弱いお嬢様がお望みのようですから、はしよりも重いものは持てません」

 

「悪かった! お兄ちゃんが悪かったから! ご機嫌直してマイシスター!」

 

 ズズン……という低い震動音が続く。

 もう間近に迫った崩落のせいか舞い上がった砂塵がエレベーター内まで入ってきて―――巻き込まれる直前、

 

「常盤台中学秘伝―――」

 

 何と言ったか理解できないが、どっちにしても納得しがたい掛け声だったんだろうなー、と修道女を背負い、第三王女を抱えた賢妹に襟首を掴まれた愚兄は思った。

 

 

つづく


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。