とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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想起血祭編 無血と無知

想起血祭編 無血と無知

 

 

 

???

 

 

 

幼いころ。私は幽霊が苦手だった。

 

 

 

村から少し外れた森の中に日本家屋の廃墟――『幽霊屋敷』があった。

 

間違いなく時代の節目節目を跨いでいるとおぼしい古色蒼然たる純和風建築物の寂れたその様。

 

かつての威厳さなどなくとも同じく人を寄せ付けない。丈の高い雑草や暗い森の向こうに身を潜めるかのような陰鬱な佇まいは。子供だけでなく大人の目にも充分に不気味に見える。

 

学校帰りの友人たちと肝試しにと『立ち入り禁止』と書かれた看板はないけど村で禁じられた『幽霊屋敷』でそれを見た時。最初は固まってしまった。

 

友人たちは皆。慌てて一目散に逃げて。私はそこに取り残されてしまった。

 

でも。それは幽霊ではなく。女の子だった。

 

顔があまりにも白いので。またそれ以上に廃墟で可憐な少女がいたことが。幻想的で。倒錯的な情景で。あまりに非現実的で―――幽霊だと思ってしまった。

 

そして。同時に恐怖も消えていた。

 

私を見て。向こうは驚くよりも。不思議そうに。興味深そうに。その顔をまじまじと見つめて首を傾げながらも。

 

 

『ここは。危険―――』

 

 

 

 

 

三沢塾 屋上

 

 

 

『未発でも、関係ないか』

 

 

発動こそいなかったが、皮膚の裏に爆竹が爆ぜたように鮮血が飛び散る。

 

精々、数cm程度の皮膚が破れる程度だが、『灰の魔女』は顔をしかめて、鼻の前に手を仰ぐ。

 

 

『……血の香りが濃くなったわね』

 

 

誘惑されないとはいえ、<吸血鬼>の属性がある限り、<吸血殺し>の血は毒と変わらない。

 

もっと『上条詩歌』を取り入れ、死を理解するまでは、慎重に時間をかける必要がある。

 

 

『始末はお任せを』

 

 

影から『モルガン』が現れる。

 

 

『捨て置きなさい。まだ<禁書目録>にやられた箇所が直ってないんでしょう。無駄な魔力消費は控えなさい。これが良い教訓になったろうし、動けなくなるならちょうどいいじゃない。この程度では人は死なないし、最低でも今日、『祭』が終わるまでに保てばいい。祭で『上条詩歌』を完全に取り込み<吸血殺し>を理解すれば、用無しだから』

 

 

姫神にこれ以上の関心はなく、むしろ穢れがうつると言わんばかりに『灰の魔女』は空に溶け込むように姿を消す。

 

それから、『モルガン』も、と……

 

 

『……中は瘴気が強い。外に連れてけない。だから―――』

 

 

 

 

 

 

 

不思議とかなりの量の血を流したと思ったが、意識が覚めて確認すればそれほどひどくない。

 

それに外へ出たからか息詰まるような苦しさはない。

 

空を見上げれば、すでに太陽は西の空に沈みつつあり、街灯もポツポツと点り始めているだろう。

 

もうすぐ黄昏時。

 

黄昏時は『逢魔が時』と呼ばれ、『大禍時(おおまがどき)』、すなわち禍いが起きる時刻とされている。

 

塾内は警備兵の代わりに屍魂に魍魎が数十体も解き放たれ、廊下の一部には霊符を張り巡らされた罠まで準備してあった。

 

だが、彼らは空から来た。

 

 

一条の機体が駆ける。

 

 

姫神秋沙は最初は夢だと思った。

 

現実に。空をかける天馬に乗った王子様なんていない。

 

そう。

 

現実に。よく見れば。あれを王子様と呼ぶには苦笑しかねないほどに荒唐無稽であった。

 

 

「とっ、とうまっ! もっとしっかり! 運転がアクロバット過ぎるんだよ! それに前に何かおかしな絵が出てきたよ!?」

 

 

「そうだった! 確かヘルメットはサポート器具だって、マニュアルにあったな! よ、よしこうなったら二人羽織方式で!」

 

 

「できるはずがないんだよ! 自転車みたいに簡単じゃなかったの!?」

 

 

「でも、空飛ぶ自転車なんてねーだろ!」

 

 

「とうまのばかーっ!」

 

 

思わず大丈夫? と言ってしまいそうなほど危ういながらも、落ちないよう、建物にぶつからぬよう細心の注意をはかりながら空を走る。

 

 

「とうま! あそこの屋上!」

 

 

「あの影! もしかして!」

 

 

そして、直接屋上に滑り下りた。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

剥き出しのダクトと金網に囲まれたジャングルジムのような空間の中央に護摩木を組んだ焚火に照らされる石造りの祭壇。

 

そこに。

 

 

「姫―――神」

 

 

声が震える。

 

ここで何が起きたのかなんて知らない。

 

判るのは、今にも消えそうな息遣いで、こっちを見据えている姫神だけだった。

 

 

「……上条。君。……やっぱり。来たんだね」

 

 

「喋るな……! くそ、とにかく血を止めねーと……インデックス!」

 

 

「分かってるんだよとうま」

 

 

インデックスは当麻が声をかけるよりも早く頷き、すぐさま姫神の元へと走っていく。

 

 

「いいよ。……手当はしてあるから。大丈夫。そんなにひどくない」

 

 

はあはあと息をこぼしながら、姫神はじっと愚兄を見つめてくる。

 

 

「……本当に傷はいいのか、姫神。病院にも―――」

 

 

「いいの。こういうの慣れてるし。血の扱いは得意。血止めくらいひとりでできる。それより―――上条君。逃げて」

 

 

「え―――?」

 

 

そこで、ようやく冷静になれた。

 

……傷ついた姫神。

 

……その横に落ちた短刀。

 

柄に真紅の宝石が嵌め込まれていて。

 

 

「これは、<アゾット剣>。『魔術医師』が悪魔を封じた賢者の杖の。それをどうしてあいさが」

 

 

まさか。

 

血塗れなのは誰かに傷つけられたからではなく、

 

 

「………魔術を使ったのか?」

 

 

「はは。私じゃ。魔法使いには。なれなかった」

 

 

コクン、と頷く。

 

そうだ。

 

今の姫神は、土御門元春が魔術を使った時と近似していた。

 

きっとこれが<吸血鬼>が関わっていたから、姫神は命をかけたのだ。

 

 

「馬鹿野郎……下手をすれば死ぬかも知れなかったんだぞ」

 

 

「正直。甘く見てた。一回くらいなら大丈夫って。結局。不発だったけど」

 

 

ごふ、と咳き込む。

 

……まずい、やっぱり喋らせるわけにはいかない。

 

 

「……話はあとだ。今は動くな。すぐに救急車を呼んでやるから」

 

 

「―――うん。お願い。でも最後に。これだけは…伝えないとダメ。……上条君。上条君は絶対に…戦っちゃ…ダメ」

 

 

それは<吸血鬼>だから、だけではない。

 

<狂乱の魔女>――『上条詩歌』だから、だ。

 

例え偽物でも、姫神はしてほしくないのだろう。

 

あの時、妹が兄の右腕を切断されたのを見たから。

 

平静を装っているけれど、姫神は分かる。

 

きっとこれは体よりも心を殺す戦いになる。

 

一見茫洋とした彼の内面は針の山を歩む求道者に似る。

 

それも無意識に。

 

自分がそんな険しい道を歩いていると意識せず、誰にも誘導されずとも前へ進む。

 

 

「―――」

 

 

それでも。

 

答えは決まっている。

 

勝算はなく、事態は最悪だ。

 

この愚者に、今、こんな言葉をかけてくれる。

 

ここであなたがやらなくても誰も責めはしない、と免罪符を与えてくれる。

 

それでも―――

 

 

「―――ごめん姫神。<吸血鬼>だろうが関係ない。何があろうと引くことはできない。これは“上条当麻が止めなくちゃいけないことだからな”」

 

 

これを預かっておいてくれ、と制服だけで防寒具を着こんでない姫神に首に巻いたマフラーをかける。

 

温かく、血の匂いを遠ざけてくれる優しい香り。

 

当麻の双眸を、しばらく姫神は見つめた後、――を渡し、浅い溜息と共に目を伏せた。

 

 

「……上条君の馬鹿」

 

 

お前もな、と応えを聞く前に姫神は眠りについた。

 

気息は穏やかで、午睡の転寝ように。

 

そして―――

 

 

「―――行かせない」

 

 

 

 

 

 

 

墨で線を引いたように屋上の端から端へと影の壁が両断し、祭壇側にインデックス、出口側に姫神と当麻に分ける。

 

 

「<禁書目録>。今度こそあなたを抑える」

 

 

『モルガン』

 

黒衣の自動人形が現れる。

 

当麻には壁の向こう側をとても見通すことができないが、インデックスは相手の魔術師と一対一の状況に残されている。

 

 

「―――先に行ってとうま!」

 

 

当麻が右手を叩きつける前に、インデックスが指示する。

 

時間が、ない。

 

もう『祭』は始まろうとしている。

 

 

「とうまの右手ならいるだけでも、儀式発動を遅らせられるんだよ!」

 

 

役割分担だ。

 

儀式場とその『核』となる術者。

 

どちらもを無視することはできない。

 

そして―――『灰の魔女』の相手をすることができるのは愚兄だけなのだと。

 

 

「……っ、わかった。ここは任せたぞインデックス」

 

 

 

 

 

三沢塾 校長室

 

 

 

決戦の場は、一階下だが二階分の高さを降りてすぐにある三沢塾の校長室のあるフロア。

 

真っ暗闇。

 

その中に蛍火の如く、燐光を放つ不気味な燭台がいくつも屹立している。

 

四棟各屋上にある護摩壇の焚火が熱を放っているせいか、最上階にある校長室の室温は高く、当麻は背筋に汗が伝うのを感じる。

 

そして、どこからともなく太鼓の音も聴こえて、母の鼓動にも似た、緩やかな震動があった。

 

視界が良くないせいで、どれほどの広さも分からぬ空間―――

 

この奥に、棺桶ではないが玉座が鎮座して、“灰色”が足を組んで腰かけていた。

 

瞑目し、さながら屍体のように動かない。

 

全身が灰色だが、その美貌は容姿だけでも気品を感じさせた。

 

インデックスの言う通り、これが賢妹の幻想ならば、常盤台中学のお嬢様というイメージもあるだろう。

 

優雅なのは、当然か。

 

だが、学園都市に未曾有の災禍を引き起こそうとしている<吸血鬼>だ。

 

優雅な見栄えと、血塗れの願望。

 

存在が、歪んでいる。

 

その様を、上条当麻は複雑な気持ちで見据える。

 

皺くちゃになった写真を見るような、不安な心地がする。

 

それらを呑み込めず、上条当麻が一歩を躊躇う。

 

闇に隠れるおぼろげな顔を見つめて、どくん、と心臓が大きく鳴る。

 

似ているからといって、見逃せない。

 

今にも弾けそうな上条当麻の身体を冷静に制御する。

 

隙だらけのその身体へと疾走して、右手を突き立てる。

 

その身体は異能で構成されているものなのだから、神さえ殺せる<幻想殺し>が喰い尽くせば事は終わる。

 

それは見た目だけでなら、実行の容易いことで、愚兄は5秒後の結末を明確に思い描ける。

 

……なのに。

 

心の中の映像は、胸を貫かれた少女の死体だった。

 

どくん、と心臓の音が高い。

 

緊張で呼吸が乱れる。

 

こんなはずじゃないのに。

 

 

ぼっ、と。

 

進み出ることを躊躇っている間に、蝋の灯が一気に爆ぜるよう燃え上がり、闇を晴らす。

 

 

瞬間、躰は飛び出そうとして――――当麻は、それを懸命に、かつてないほど必死になって、圧し止めた。

 

 

……だめだ。

 

それだけはぜったいにやってはいけない。

 

たとえ、げんそうでも。

 

 

理由が分かって、愚兄の呼吸はもっと乱れる。

 

この相手は殺せない、殺してはいけない、殺すことができない。

 

それにこの右手を向ける行為だけで、愚兄の心臓にこんなにも負担をかける。

 

それがイヤだから、ではない。

 

喉が渇いて、舌が痺れて、我慢できない。

 

それが逆に怖くて、愚兄は必死に自身の足を圧しとどめた。

 

けど、止めなければならない、殺さなければならない。

 

でも、これで……―――明確なイメージができたら。

 

 

 

―――お願い……早く、幻想(わたし)を殺して……―――

 

 

―――予言してアゲル。上条当麻、アンタはいつか上条詩歌を自分の手で殺す!!―――

 

 

 

この手で妹を殺してしまうという不幸が実現してしまいそうで―――当麻は自分で自分を殺し、精神と肉体を切り離すことで止めた。

 

そして、ようやく。

 

 

「無粋ね。『祭』はまだよ」

 

 

『灰の魔女』が片目のみを開いて、億劫そうに顔を上げた。

 

まさか、本気で眠っていたのか。

 

呑気というべきか、抜けているというべきか、図太いというべきか―――まるでオルソラを助ける際、騎士や修道女たちから背負って逃げた事を思い出される。

 

いや、これは夜行性とされる<吸血鬼>の習性だ。

 

だから、違う、と必死に自分に言い聞かせる。

 

 

「あぁ、そう―――あなただったのね、“お兄ちゃん”」

 

 

しかし、そんな葛藤を嘲笑うように、その声で、そう呼ぶ。

 

耐えきれず視線を外しても、太鼓が建物を揺らしていても、まだ乱れたままの心臓の音だけが、どくん、どくん、と愚兄の耳に反響した。

 

……いつまでも、ありえない鐘の音みたいに鳴り止まない。

 

愚兄はここにきて戦うこともできず、心臓の高鳴りも静めることできず。

 

そんな無様を鑑賞する『灰の魔女』は、玉座に腰かけたまま動かずに、頬杖をついて。

 

 

「どうしたの、お兄ちゃん? 我を殺すんじゃなかったの? それともやっぱり『上条詩歌』には勝てないのかしら?」

 

 

座したまま相手を見下す礼なき無作法にはそぐわぬ、典雅な声音。

 

動悸する胸を片手で押えこんで、真正面から『灰の魔女』を睨みつけ、石化した舌を回す。

 

 

「………だ?」

 

 

「え?」

 

 

「……何故だ?」

 

 

「何故? 変なこと訊きますね」

 

 

戦意も殺気もなく、『灰の魔女』は物事の当たり前の常識のように、語る。

 

 

「それは色々とあるし、<吸血鬼>として<狂乱の魔女>という都市伝説が組み込むのに適していたのもあるけど、『上条詩歌』が最も強いって認められているからです。第1位と第2位を相手にして勝利したその武勇伝。Level5よりも上だと認知されている。それは“一番の発信源”であるお兄ちゃんが良くわかってるかと」

 

 

眉尻を下げて、柔らかく微笑む。

 

酔っ払ってでもいるような、どんよりとした眼差しを向け。

 

 

「誰よりも我の強さを知る『上条当麻』の畏怖が、人のイメージで上書きされる我を最強にしてくれる。この街の支配者にしてくれる。ここまでくるに見たでしょう、我の奴隷を」

 

 

肩を震わせ、お腹を抱えながら俯き、長い睫毛でその瞳を隠す。

 

その無邪気ともいえる喜悦に寒気がして―――だが、そこで、愚兄は右手にいつも通りの微熱を感じて、気がついた。

 

……胸の動悸も指先の痺れも、喉の渇きもいつの間にか消えている。

 

 

「そうかよ……」

 

 

賢妹がここまで積み上げてきたもの。

 

それを。

 

それを。

 

賢妹と同じ顔をした怪物がそれを台無しにしようとする。

 

その顔で。

 

それは。

 

それは―――

 

 

「フフフ、おかげで完全な<吸血鬼>よりも、本物よりも上かも。育ててくれてありがとね、お兄ちゃん♡」

 

 

賢妹の顔で、さも可笑しそうに笑う。

 

ああ。

 

何て下卑た不快な雑音だ。

 

身をよじる震怒に目を見開き、歯を噛み締め過ぎてこめかみを痛める。

 

しかし、この怒りだけが当麻を戦いに向かわせてくれる。

 

 

「……あら? 前もそうだったし意外と不人気なのかしら? この容姿も気に入って、感謝もしてるんだけど。―――ま、どうせすぐにお兄ちゃんは何も見えなくなるんだから」

 

 

相手の台詞に、当麻はそれ以上付き合おうとしなかった。

 

のそりと動く。

 

自分でもそうそう耳にすることのない声で、

 

 

「―――黙れ」

 

 

右手を、向ける。

 

 

「それ以上、一言もしゃべるな」

 

 

ぞわり、と周りの空気が、その質感を変えたようだった。

 

当麻の視線が、『灰の魔女』を貫く。

 

その時当麻の目に宿っていたのは、逆鱗に触れられた怒れる竜の眼光だった。

 

まやかしの虚偽を容易く引き裂く、牙と爪をもつ者の眼光だった。

 

 

「テメェが俺の幻想だっつうのなら、灰すら残さずきっちり殺してやる」

 

 

 

 

 

三沢塾 屋上

 

 

 

今でこそ安倍清明の末たる『土御門』が『陰陽博士』だが、それは元は『賀茂』のものであり、占術に優れ、隠された物事を透視する『射覆』を得意とする初代の『陰陽博士』は陰陽道を二分し、『天文博士』を弟子の清明に、『暦博士』を息子に継がせた。

 

『賀茂』の家教とした『暦道』とは(こよみ)とは、今で言うカレンダーというもので、太陽や月を観測して月齢や天体の出没の時刻、潮汐の時刻を予測し、その日その日の吉凶を視た。

 

科学とは区別されるが、その理論や実際の計算・作成技術の分野においては『天文道』よりも占星術に属するものであった。

 

して、最初の切支丹に染まった人々の一人であった『賀茂』の『暦博士』は、西洋の太陽暦や天文学の技術を吸収し―――しかし、滅んだ。

 

一度は栄えた一族であり、二度とはその栄光を手に入れられぬ一族。

 

まるでこの三沢塾と同じ、廃墟。

 

だからこそ、無限の生命力をもつ不老不死に憧れた。

 

そして、かつて以上の、永久(とわ)に続く栄華を望んだのかもしれない。

 

 

「計測に計測を重ねた『賀茂』の卜占は視た。この地に――学園都市に『泰山府君』が現れると」

 

 

淡々と、『モルガン』は述べる。

 

卜占――占いと言いつつ、すでに勝負のついた将棋の棋譜を読み上げているように。

 

死と生を司る陰陽道の主催神『泰山府君』

 

今の世界情勢の火種も、『科学が『大天使』を宗教的教義に反する冒涜的な実験をしている』と非難されたことであり、『学園都市に我らの神たる『泰山府君』を捕えられた』となれば、それは今の衰えが科学にあると考える古き陰陽家らにとって全てを投げ打ってでも阻止すべく、また手に入れることなのかもしれぬ。

 

 

「これは影響を及ぼさない有象無象ではない、ふたつの世界が交わり、揺るがす変化がこの地を中心に起こる」

 

 

たかが占いとは言えない。

 

歴史を動かすほどの英雄が現れる時、世界は道理さえも捻じ曲げる。

 

そしてそれは現に、世界は揺らいでいる。

 

インデックス――<禁書目録>が学園都市に来てから、あの兄妹に出会ってから始まっている。

 

古き真名でみれば、『神浄の討魔』に、『神上の死生』……

 

 

「……だから、しいかになったんだね」

 

 

「だが、上条詩歌は『神』になるのを失敗した。愚かにも。しかし、その愚行で暦は変動、『泰山府君()』の座は巡る。―――そう、『賀茂』の元に」

 

 

吸血殺し()>と<吸血鬼()>。

 

『上条詩歌』を取り込んだ『灰の魔女』には『能力食い』があり、<吸血鬼>でありながら、<吸血殺し>さえも理解する。

 

完全体から究極体へ。

 

この二つの死生という隠と陽、対極の太極を掌握し、『泰山府君』としてより昇華する。

 

と、そこで、インデックスは唐突にある疑問に思い至った。

 

『モルガン』にインデックスは一つ尋ねる。

 

 

「待って。『賀茂』は<吸血鬼>から『神』になろうとしてるんだよね」

 

 

「そう。この『祭』は邪魔させない。我ら『賀茂』が『神』の座を。そのために<禁書目録>をここで止める」

 

 

泰然とした『モルガン』の答えに、インデックスは―――思わず、力なくも笑ってしまう。

 

 

「何か?」

 

 

その笑いに、自動人形は声を荒立てる。

 

インデックスは、これまでの焦燥を吐き出すように、ゆっくりと深呼吸する。

 

 

「<幻想投影>なら神になれるかもしれない。この街の『Level6』というのはよくわからないけど、<魔神>と同じようなものなら、しいかはそれに近しいかもしれない。だから、『上条詩歌』を取り入れようとしたところまでは完璧だったかもね。でも、最後にとんでもない間違いを犯したんだよ」

 

 

自動人形の声はない。

 

『モルガン』にはまだ分からない。

 

魔術の知識が指摘する大きな間違いとやらが何なのかと戸惑い、思いつかない。

 

 

「―――そんなの、あるはずがない」

 

 

断言するが、そこに迷いがないと誰が言える。

 

逆にインデックスは、迷いなく。

 

宗教が対象ではないが、相手の弱点や欠点を叫弾し、その前提さえも覆してしまう<魔滅の声(シェオールフィア)>。

 

自我さえも崩壊しかねないその言を告げる。

 

 

「何で、とうまを見逃したの?」

 

 

「<禁書目録>の脅威を封じるために全霊を注ぐため。完全たる精神を得て、怖いのは力ではなく知。それに『上条詩歌』と兄妹の縁で結ばれた男の記憶。リスクを賭してもその畏怖は取るべき」

 

 

たかがLevel0の退魔。

 

魔を退けるなんて、世界にはごまんと存在する。

 

すでにLevel6の可能性を手に入れた『灰の魔女』に、そんなものが通じるはずもない。

 

 

「あなたたちは、もう一人の『上条』を甘く見過ぎてる。<禁書目録(わたし)>じゃなく、とうまを止めるべきだった」

 

 

だが、<禁書目録>は断言する。

 

 

「魔術師だから、『神』を絶対のものとして扱ってしまってるけど。しいかが、一番畏怖してるのはとうま。だって――――とうまの手は、その『神』さえも殺してしまうんだよ」

 

 

 

 

 

三沢塾 校長室

 

 

 

席を立ちあがるも、目を閉じたまま己の身を抱きしめる。

 

微睡みから覚めた『灰の魔女』から這い回るのは、おぞましい兇鬼。

 

相手の臓腑を掻き乱し、心の奥まで引き裂く刃の渦のよう。

 

 

「……へぇ、人間にしては凄い殺気。これなら不遜な態度も許してあげようかな」

 

 

ぞくり、と背筋が粟立つ。

 

『灰の魔女』の唇に、猫がネズミをいたぶるような、嗜虐的な笑みが弾けて―――動いた。

 

 

―――っ!?

 

 

その容姿から想像もできない、早く、鋭い動きだ。

 

一瞬で距離を詰めた吸血鬼たる怪力乱神の拳が、上条当麻の頭上に掲げられる。

 

右手を盾にしたのに“構わず”、振り落とされた。

 

その勢いの余波が、空気を大きく振動させた。

 

それでも、異能には天敵たる上条当麻の右手<幻想殺し>は、魔女の手をその腕ごと消滅させた。

 

だが、強烈な物理的衝撃は相殺し切れない。

 

いくら反応できようが、肉体のスペックは人間の域を超えることはなく、対し、相手は怪力の人外。

 

相手の体の一部を代償に、上条当麻は向こう壁まで弾き飛ばされた。

 

 

「その右手って、こんなにもデタラメなんだぁ。けど、それも無駄だけどね」

 

 

のに、当麻が瞬きすれば、何事もなかったかのようにその腕はあった。

 

魔女狩りの王(イノケンティウス)>と同様に、その核を殺さなければ、いくらでも復元する。

 

無限に。

 

そう、恐れられているのだから。

 

 

「例外でも、そんなオモチャじゃ、我は殺せない」

 

 

2人の戦力差は、考えるまでもなく、圧倒的過ぎる。

 

上条当麻は、あくまでも人間で、まともに常識外クラスとぶつかれば、負ける。

 

 

「がっ……はっ……ちくしょう、かわいくねーな」

 

 

当麻はそんな状況を理解しつつ、激突した痛みを無視して立ち上がった。

 

接近した魔女のすぐ目の前で。

 

 

「―――っ!?」

 

 

魔女が右足を蹴り出した。

 

真横。

 

それも右手とは逆の左側。

 

避けようがない。

 

とっさに右手で受け止めようと身を捻ったが、上手くいったかどうかは分からない。

 

気付いた時には、跳ねられたように、空中を後ろ向きに飛んでいた。

 

 

「あら? 随分軽いわね」

 

 

体が床に投げ出され、斜面を転がるように何回転も転がってから、当麻はようやく床に倒れ伏した。

 

体中が痺れ、特に蹴りを受けた辺りに、火で炙られたような衝撃が残っている。

 

麻痺は速やかに激痛に変わり、当麻の全身を電流のように駆け巡る。

 

当麻は呻き声を漏らしたが、

 

 

―――いや、呻いてる場合じゃねぇっ!

 

 

すぐに立ち上がる。

 

自分の状態から周囲の状況を確認すると、先いた壁の付近が、三沢塾を斜めに横切るほども吹き飛ばされていた。

 

魔女は、いまようやく、またも消された足を再生している所だった。

 

片足がなかったから追撃できなかった―――はずがない。

 

その気になれば、何でも、一足飛びで当麻の体など踏み潰せるものを、あえてしなかっただけだ。

 

 

「くっ……」

 

 

このまま相打ち勝負を続けても、向こうが無限である限り、有限の体力しかない当麻の方が先に自滅するのも明白。

 

よろめきながら両足を踏ん張ると、耳の奥でキーンと耳鳴りした。

 

妹と同じ顔をした魔女が嘲弄した笑いを浮かべながら口を動かしているが、何を言っているか分からない。

 

ジンジンと全身が熱を持ち、心臓が二回りも膨れ上がったように激しく動悸を刻んでいた。

 

 

「……半端ねぇな。洒落になんねーぞ、マジで……」

 

 

と、自らの呟き声を耳で捉え、当麻はなんとか鼓膜が無事であることを確認できた。

 

痛みを無視して、体をあちこち動かせば……幸い、骨までは折れていない。

 

正直信じられない幸運だが―――それが当麻には引っ掛かった。

 

 

「ふふ♡ もっと遊びましょう?」

 

 

「やだね。俺は高校生だぞ。これ以上ガキのプロレスごっこに付き合ってらんねーよ」

 

 

「お兄ちゃんたら、そんなに照れないで―――」

 

 

立ち上がるまで待って、魔女が跳躍した。

 

その体が天井すれすれまで舞い上がる。

 

飛んだり跳ねたりと全く元気が良い。

 

当麻は思わず苦い笑いを浮かべる―――が、その視界が、急に暗くなる。

 

影。

 

 

「だから、サンドバックじゃねぇっつってんだろ!?」

 

 

当麻は全力で回避。

 

横に逃げ、逃げた直後に『灰の魔女』が着地した。

 

衝撃で床が跳ね上がり、当麻が足を取られる。

 

周囲に空気が唸りを上げた。

 

当麻は、ほとんど反射神経だけで左を前に両手を十字に重ねて構えた。

 

瞬間、バキンッ、と空間に、高く澄んだ硝子が割れるような音が響いた。

 

そして、蹴りの衝撃で、またも当麻の体が吹き飛ぶ。

 

が、今度は体勢を崩さなかった。

 

後方に吹き飛ばされつつ、慌ててバランスを取って、宙に浮いた足を床に着かせる。

 

 

ズザザザッ! とさらに数mも滑ったが、倒れることなく最後には踏ん張れた。

 

 

「よしっ―――」

 

 

当麻は蹴りを、<幻想殺し>で打ち消すだけでなく、上条詩歌が造り上げたお守りである時計<梅花空木>で物理的衝撃を受け流した。

 

 

「例外はやっぱり例外か。それに怪物との戦いにも慣れてる」

 

 

嘲るように『灰の魔女』は言う。

 

 

「でも、それだけ」

 

 

曰く、超能力者さえ食らう能力喰いであり、多重能力者(マルチスキル)

 

調色板(パレット)>や<筆記具(マーカー)>の事を差しているのだろうが、学園都市の学生に底まで難しい専門外は理解できない。

 

道具も魔術も関係ないし、必要もない。

 

何故ならイメージなのだから。

 

<スキルアウト>を倒したのは、技ではなく力であったと認識すれば、そうなったように。

 

『灰の魔女』の本領は、怪力ではなく、『上条詩歌』――第0位の万能性であることだ。

 

 

「―――」

 

 

『灰の魔女』は、何も唱えない。

 

ただ“できるとされていることを”念じただけ。

 

それはまさしく天災だった。

 

ぎゅる、とフロアの一点が不可視の渦を発したのである。

 

その虚無の渦が、精密に当麻のいる位置だけを呑み込んだ。

 

あたかもブラックホールの如き虚無は何もかもを呑み込みながら、その座標外には傷一つつけなかった。

 

 

「―――っぶねぇ!」

 

 

まったくのノーモーションだったが、前兆は感知できたのだろう。

 

すんでのところで回避できた。

 

それでもその凄まじさは体感した。

 

 

「ここまでが限界でしょう? お兄ちゃんにできるのはここまで。まだ『神』に成り切れぬとはいえ、我は人間とは位階が違う。その気になれば瞬きだけで殺せてしまう」

 

 

人間の限界と、その先。

 

所詮は人間と、常識外の怪物とでは、埋めがたい差があるのだと。

 

『灰の魔女』の視線が当麻を追う。

 

その度に稲妻が走り、氷雪がフロアを埋め尽くした。

 

火炎は愚兄を捉えようとその(かいな)を伸ばし、かまいたちが周辺を圧搾した。

 

もうすでに『灰の魔女』はあらゆる気候を従える、古代の神のようであった。

 

 

「ほら? もっと畏怖し、神のように崇め奉りなさい。お兄ちゃんの恐怖がもっとも我の好みだよ」

 

 

「はっ、ご期待に添えなくて悪いが、神様だって殺せる右手をもってるせいか無宗教でな」

 

 

その魔的な現象を、右手が迎撃し、当麻の身体が縦横に動いた。

 

しかし、<幻想殺し>といえど、これほどの全方位攻撃は完全に避け切れず、たちまち愚兄の身体は自らの血に汚れる。

 

それでも、戦意だけはなくさない。

 

 

「フフフ、口で何と言おうと我は殺せない。だって、お兄ちゃんは我を一番に想ってくれた人間なんだから」

 

 

「想ってる? んなの、言われなくても、分かってんだ―――がっ!?」

 

 

強気に唇の端を上げた当麻の顔を、衝撃が打った。

 

右手の盾など迂回するまでもないように直線で大気の空弾が突破してきたのだ。

 

一瞬、目が見えなくなった。

 

だが、一撃で文字通り木端微塵に当麻を砕かれるかと覚悟していたのに、当麻は吹っ飛ばされたが生きていた。

 

思い出すことはできない、最後の最後で踏み外して『死』へ向かってしまった前の『上条当麻』の姿が、こんな風だったと予想がつく。

 

最期を迎える前に、こんな衝動に身を焼かれていたのかと思った。

 

当麻は、倒れてもいいはずなのに、勝てる相手ではないとわかってるはずなのに手足に力を入れて立ち上がった。

 

<幻想殺し>を、もう一度前に突き出す。

 

次は、前兆とやらに右手がきちんと読み解いて反応するだろうか、とぐらつく視界の中で考えた。

 

 

「無駄無駄」

 

 

今度は車に轢かれたかと思った。

 

無限を前に、右手の処理の力で対処できず、転がって、床にたたきつけられた。

 

だが、死ねなかった。

 

目で追えていなかった。

 

絶望の上に、更に絶望が重なって、こころが折れそうだ。

 

風が切る音がした気がした。

 

当麻は、完全に勘だけで床に転がる。

 

鋭い刃物のようなものが頬の皮膚を切った。

 

まだだ! と『灰の魔女』の追撃を、全く見えないまま更にもう一度かわす。

 

気配すらつかめない幻想が、体勢の崩れた当麻を文字通り吹っ飛ばした。

 

来ると分かって全力で受け止めようとしても、無限の暴威は防げない。

 

真っ暗闇で、酸素を求めて喘いでいるうちに、“何故か懐かしさを覚える”。

 

夏休みにもこんなふうに、もし本気で――――とふと気付く。

 

当麻は、『灰の魔女』はいつでも愚兄を殺せるのだから遊んでいると考えていた。

 

けれど、そうではないかもしれない。

 

怪力の人外が繰り出す攻撃で、一撃必殺にならなかったのも、“まだ誰も殺せていないのにも”、きっと幸運や<幻想殺し>の力だけではない。

 

そのことに気付いた時、視界に光が戻ってきた。

 

瞼の腫れた狭い視界に、哄笑する『灰の魔女』が、“小さく”見えた。

 

 

―――そういうことか。

 

 

どうしても“殺せるイメージが湧かなかった”理由に気付いた時、そんな簡単なことに気づかなかった自分と贋物に呆れ、贋物がようやく別物に認められる証を見つけ―――タカが外れた気がした。

 

九死に一生を得るような会話のすえ、ようやくこの正体が見えてきた。

 

動悸も収まってしまうほど、すとん、と。

 

ようやく単純な敵として認識できていた。

 

息を潜めるのを、止める。

 

深く息を大きく吐き出す。

 

何度も何度も、呼吸の仕方を思い出すように―――心の鞘を抜く。

 

そして、この言葉を久しぶりに心から口にする。

 

 

「ここまで愚か者だったなんて、“不幸だ”―――」

 

 

今まで鋭いだけだった眼光が、打ち直された刃となって魔女の全身を貫き、何かがガチリとかたくはまったような奇妙な充実感があった。

 

 

 

 

 

三沢塾 屋上

 

 

 

「―――九尾よ」

 

 

ほう、ほう、とインデックスの周りにおかしな影が映った。

 

毒素と怨念が混じり合い、青白くなった火の球だ。

 

それらが複雑に線を引いて動き、9つが1つに―――と。

 

そこに、いつのまにか九つの尾をもつ白狐がインデックスの前にいた。

 

 

「<曼荼羅>を編み込んだ幻力(マーヤ)だね」

 

 

インデックスの幻像を差し射抜く言霊。

 

 

「東洋圏で、それを見た人間に神を想起させる宇宙の法則を記した図表。あなたは<曼荼羅>と同じように、視覚、それから嗅覚に触覚を経てあるはずのないものを連想させて想起させた。―――それが真実」

 

 

あるものをないと見せる。

 

生気の弱い、自我の弱い、自動人形の『モルガン』だから、その技巧を髄まで極めたと言える。

 

その逆、ないものをあると見せるのもまた。

 

仏教の発祥の地であるインドの哲学では、人間の感じられるものはすべて幻であると説く。

 

そして、いかにすれば幻の世界を脱し、『真なる我(アートマン)』を見いだせるという―――そのための技術を逆に使えば、人間の感覚器官を騙し、幻覚を見せることも可能である。

 

常夏の南国を北極圏と錯覚させ、凍死させたり、『噂と血と同じ赤色の光をサブリミナルのように視覚から脳に、<吸血鬼>を想起させた』りすることだって、『モルガン』にはできる。

 

<曼荼羅>は視てしまえば、かかる。

 

一度でも知覚してしまえば最後。

 

むしろ解析力の高いインデックスだからこそ、無知な素人よりもより鮮明に想起させてしまうだろう。

 

蟻地獄のように自縄自縛。

 

考えるのをやめようとしても、思えば思うほど、逆に強く意識してしまう。

 

<禁書目録>の知を逆手に取った呪術。

 

声を限りに叫んだつもりでも、すぐ隣の人間にさえ届かないだろう。

 

この幻の世界で、<火界咒>、<殺生石>、<反魂香>を組み合わせて生まれた狐火を舞わせる妖弧の怪物という己が生み出した実体のない怪物に喰われて終わるはずだった。

 

ただ、妖精は幻術が得意だ。

 

なら逆に……

 

 

「―――『幻惑(グラマー)』といって、妖精は時に人を惑わす悪戯をする。その対抗手段は、四葉のクローバー」

 

 

『ケルト』の妖精を扱う魔術には、当然、幻覚を解く術やお守りがある。

 

インデックスは四方へ四葉のクローバーを放る。

 

結界とは、余計なものが入らないようにする『区切り』だ。

 

もとは神道や仏教の用語で、縄張りという言葉と語源をともにする―――つまるところ、『ここは他と違う場所だ』と主張する事で、聖性や神性を維持するための仕切りだ。

 

今ある道具で即席で組み立てたとはいえ、結界は広義に取れば、さりげない衝立や看板、店の暖簾もそれに準じる。

 

関係のないものを入らせないための、『区切り』

 

ここは妖精の錯覚から外れた。

 

現実だと区切った場所には幻覚は力を発揮しない。

 

事実、九尾の妖弧は、何か透明な壁にぶつかったように砕け散った。

 

真実に覚めたことで、<禁書目録>から引き出したこの幻の世界を、瞬く間に崩壊せしめたのだ。

 

 

「なるほど―――それは、知らなかった」

 

 

溜息が、こぼれた。

 

『モルガン』として極めた<曼荼羅>の幻惑は通じずに終わった。

 

カタリ、と音がした。

 

左腕の肘から、腕が床に落ちた音だ。

 

血は垂れず、その断面には骨とか筋肉らしきものの他に、歯車みたいなものが混ざっていた。

 

カチ、カチ、カチ、カチ。

 

自動人形を支えていた緊張の糸も途切れたのだ。

 

インデックスは哀しそうに自動人形を見つめる目を眇めた。

 

 

「死霊を操る魔術は死を知り過ぎるから、術者の体も死に近くなる。だから、禁術と呼ばれるんだよ。もっと生きられたのに。自動人形ではなく、人間として……もっと普通の幸せを手に入れるべきだった」

 

 

「無理。この身体は“人間の頃から”陰陽術師として“造られた”」

 

 

冷ややか―――などという次元を通り越して、ただ透明な口調で言う。

 

魔力も威圧もないのに人を退けさせるほどの虚ろさを、その目に讃えて。

 

 

「座敷牢で<殺生石>や<反魂香>を玩具にして遊び、血文字の霊符を書き取る。深奥を掴むために、餓死寸前まで追い詰められたこともあった。飢えばかり膨らんで何ひとつ見えず聴こえず指一本も動かせなくなった」

 

 

インデックスには“同情”できた。

 

自動人形になった少女の言う通りの、その惨劇を。

 

幼い彼女が悶絶し、のたうち回り、凍えて、苦しむ場面がまざまざと見えた。

 

かつて一年ごとに記憶を失い、もう思い出すこともできないのだけれど、『蠱毒』のようにその身に禁呪を溜め込むのが自分に重なった。

 

1冊でも死んでもおかしくない、それを10万3000冊も原毒の知識を記憶させられた魔女狩りの叡智を記録するための道具と、禁呪を仕込まれた最高傑作でありより優れた陰陽術師を輩出するための母体。

 

違いは、その過程に耐えきれずに死んでしまったこと。

 

魔術師は、自分の血筋を、自分の魔術を、自分の証として、より優れたカタチで残そうとする。

 

その為ならば、惨劇ですらも眩いものに塗り替えられ、時にはその異形こそが羨ましかったのだと、嘆きの声を谺させる。

 

本人自身が望んだかどうかなど、考慮するにも値しない瑣末なことだというように。

 

死んだことさえも、死を知る糧にするほどに。

 

錬金術師にしてもそう。

 

止まれぬものは、進めば進むほどに破綻する。

 

極めんとするほど、平常な価値観を失い、社会を逸脱してしまう。

 

だから、こうして、ひとつの終着点に辿り着いておきながら日常も得られたインデックスは奇蹟のように幸せなのだろう。

 

 

「<禁書目録>。否定するなら答えて。<禁書目録>としての在り方と人間としての在り方を矛盾させずにいられるその答えは何」

 

 

全身が震えるのを、『モルガン』は感じた。

 

死んだときからずっと感じることのなかった、噴き上がるような情動だった。

 

その激情の前には、何者も抗することなどできまいと思われ―――しかし、インデックスは微塵も恐れを見せず、はっきりとかぶりを振ったのだ。

 

 

「答えなんて必要ないよ。魔術だから、魔術ならとか、そんなくだらない言い訳ばかりして一体何を守ってるの。歪んだあり方だけが、私達の手に入れられるものだなんて絶対にないんだよ」

 

 

<禁書目録>が言う。

 

断固として、インデックスが言い切る。

 

<魔滅の声>なんてものじゃない、信仰より遥かに根源的な地点にある毒。

 

価値と無価値とを入れ替え、今まで魔術名家が積み重ねてきたものをごくあっさりと崩してしまう。

 

 

『不幸だなんて捉え方は人それぞれだけど、一度も不幸になったことのないなんてねーよ。でもさ、その人が幸せになれねーなんてことはないと思うぞ』

 

 

『幸せに答えなんてありません。それぞれの環境に、それぞれの答えがあっていいんです。大事なのは、真面目にその答えを考えてるかということです』

 

 

この街で兄妹を見てきて学習してしまったインデックスという知性は、魔術の為に犠牲となり、魔術世界を把握し尽くしてるが故に、抵抗しがたい甘さと浸透力さえ備えていた。

 

 

「私達は、幸せになれないんじゃない。勝手に自分の世界を狭くして、時計の針を止めてしまったら、その中は息苦しいだけ。だから、幸せを求めるべきだった。それが、私達も人間だって、訴えていることの何よりの証明だよ」

 

 

「そう」

 

 

ふ……と。

 

少女の唇に笑みが浮いた。

 

唇だけだけど、どこか柔らかな笑みだった。

 

 

「一度、座敷牢を出た時、出会ったことがあった。“村人の女の子と”。その後に死んだけど……もし、死ななければ別の道を選べただろうか」

 

 

『じゃあ。いっしょにここを出よう』

 

 

とここは危ないから立ち去れと言われた解答に窮して、逃げた。

 

幼いころに自分を幽霊だと勘違いした彼女は、もう憶えていない。

 

誰とは言及しないが、右手がまだ動けるうちに取り上げた携帯電話をインデックスへと放り、初めて名前で呼ぶ。

 

 

「インデックス。『賀茂』の知を記録した?」

 

 

「うん。あなたのこと、忘れないよ」

 

 

「それは、よかった」

 

 

思い出は忘れても、その知識だけは受け継ぐ。

 

かつて自分にこの書架に収められた叡智を教えてくれた先生もそうだったのか。

 

そんなことを想いながら、彼女の最後の頼みを聞く。

 

 

「なら、これも覚えておくと良い。私をこの学園都市へ入れた協力者は―――“イギリス”」

 

 

「えっ……?」

 

 

それは一体―――と訊く前に、『モルガン』という形をした肉体は、それを最後に、完全に消滅した。

 

粉々になって、欠片も残さず。

 

初めからそうであったように、塵となって虚無へと消えていった。

 

この件は思った以上に多くの思惑が絡んでいる。

 

そして、混沌を糧に実る芳醇な果実は誰が手に入れるのだろうか。

 

でも、それを考える前に、まだ終わっていない。

 

インデックスはそっと溜息をついて、修道女としての聖句を唱えると、足下を俯き見る。

 

 

「とうま……!」

 

 

愚兄と悪夢の戦いは今も続いている。

 

 

 

 

 

三沢塾 校長室

 

 

 

「フフフ! 我は『上条詩歌』の畏怖! 最も我を怖れるお兄ちゃんが我を懼れれば恐れるほど強くなる!」

 

 

気づいていない。

 

『灰の魔女』には今だ気づいていない致命的な弱点で。上条当麻には一縷の希望を。

 

だが、安心している暇はない。

 

今度の魔女は、愚兄に一息つかせる余裕を与えなかった。

 

追撃の連撃が迫る。

 

防御できたが今だ腕が痺れる当麻は、右に、左に必死に避けた。

 

まるで高速道路の中央車線に突っ立っているかのような。

 

一蹴ごとに、一拳ごとに、一撃ごとに空気が渦巻き、体ごと巻き込まれそうになる。

 

余波だけで炎は竜巻となって、フロアを燃やし尽くさんと渦巻いた。

 

当麻もフットワークを活かして避けながら、ときに踏ん張り、ときに掻い潜り、時計と右手を盾にしつつ、辛くも魔女の攻撃に対処する。

 

そして、いつのまにか。

 

愚兄の無意識に刷り込まれた技巧が、肉体(マシン)のスペックが数段上の相手に追いつく―――かないし凌駕する。

 

 

「あはははっ! ちょっと激し過ぎたかな! でも、もっともっ―――」

 

 

悪夢が殺戮に夢中になり、攻撃が緩慢になったその一瞬の隙を逃さず。

 

 

「―――え……」

 

 

 

その両手右足を殺した。

 

 

 

別に、<幻想殺し>の処理能力が増加した訳ではない。

 

視点、その武器の持ち方を変えただけ。

 

型を破り、離を求めた。

 

無能だからこその強みがある。

 

例えば、『口寄せ』で死者の霊魂を呼び寄せて意思疎通をする恐山の『いたこ』は、その多くが盲目、もしくは弱視といった視覚障害者だったそうで、目が見えなかったからこそ、よく“視”えた。

 

魔力を自力で精製できないからこそ、魔力に敏感なインデックスもその例に挙げられる。

 

上条当麻は、全体を俯瞰する視覚はないが、前兆を感知する触角はあった。

 

そして、目では視るしかできないが、手は掴んで操ることもできる。

 

だからこそ、当麻の拳は力に対して絶大な効力を発揮してきたし、ただ殴りつけるだけで魔性を破却でき、前兆の流れさえも変えてしまう。

 

 

 

瞬殺できぬほどの右の拳打を右の掌で受け、打ち消す前に独楽を廻すようにはたき、ぐるりと“異能でできた”魔女の体を巻くように、向きをズラした。

 

 

体が泳ぎ、それでも裏拳ぎみに振り回す左拳を今度は下に叩けば、向きを変えられた拳打の勢いのままに側転し、脳天が地面に。

 

 

それでも右の踵落としが当麻の頭をかち割ろうとして――その時にはすでに潜り込んで――空振り、床に突き刺さった右足を一息に―――思いっきり殴り飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

「言ったろ。灰すら残さないってな」

 

 

左片足だけで立つこともできず魔女が床に這い転がり、それを見下ろす当麻は猛々しく笑って見せた。

 

必死に呼吸を整え、カラカラに乾いた喉に無理矢理つばを通す。

 

苦痛とか、疲労とか、今ので右手の感覚が飛んでしまっているとか―――自分に関わるあらゆる事はひとまず置いて、今は無理をする。

 

油断をついて作った絶好の機会を逃さない。

 

 

―――やれる。

 

 

いま、当麻には、すべてがはっきりと“視”えていた。

 

前兆が、その有り様が手に取るように分かる。

 

肌の下の神経が剥き出しになったように鋭敏になり、右手が痛いくらいに触角が冴えわたる。

 

それが何を意味するか愚兄には分からない。

 

が、たとえまぐれでもこの感覚を手放しては、負ける。

 

『灰の魔女』は、今の当麻ではどう足掻いても太刀打ちできるものではない。

 

少なくとも右手一つの殴り合いでは。

 

しかし……

 

 

―――“これ”なら……

 

 

両眼が見開かれ、こめかみに汗が滴った。

 

そんなことが俺にできるのか?

 

不可能―――ではないはずだ。

 

条件は揃ってるし、必要なカードもこの場にあり、持ってる。

 

あとはそれを、当麻の手で発動できれば……

 

とにかく止まっている暇などない。

 

 

「おおおおお!!!」

 

 

上条当麻は、神さえ殺せる右手をもつから天敵じゃない。

 

その神を畏れた上で、それでも戦いを挑める人間だから、<幻想殺し(神の真の天敵)>だ。

 

 

「そのようなものをもってどうする? お兄ちゃんには魔術は無理でしょう? そもそも、それは『魔術医師(パラケルスス)』の血を引く者にしか使えない専用霊装、<禁書目録>でも扱えない品」

 

 

馬鹿ね、と嗤われようと構わず。

 

床に倒れかけながらも、両腕で地を弾いて、上条当麻は疾走した。

 

左手には姫神から渡された短剣。

 

地を這う姿勢のまま、身体を再生しつつある『灰の魔女』へと走り、

 

 

―――まずはひとつ!

 

 

立ち止まることなく、悪魔を封じ込める賢者の杖を起きあがった右胸に突き立てた。

 

悠然と『灰の魔女』は受け入れた。

 

胸を刺し貫かれても、たかが刃物に殺されるはずもない。

 

その思考も計算に入れている。

 

弱者だから、無能だから、相手は油断する。

 

この向こうからすれば失態とも言えぬ瑕疵を、しかし、当麻が起こそうとしている術式にとって、致命的に広げられる。

 

 

「フフ―――」

 

 

ゆらりと『灰の魔女』がこちらを振り向く。

 

だが、その前に。

 

片足の震脚で杭を打つように体を固定し、走り抜いた勢いのまま身を翻し―――駒のように反転させて、『灰の魔女』の振り回す左腕を今度は右手で跳ね上げ、霧散。

 

水面の木の葉が渦の中心に引き寄せられるように。

 

予知じみた感知で無限に膨れ上がる前に、視覚に頼るのではなく流れにまかせるままにその力が集まる渦に、右手を入れて、“前兆自体を殺す”。

 

 

―――これがふたつめ!

 

 

左手は<着用電算>のポケット。

 

絶対に右手で壊さないよう戒めていた『万能鍵』がある。

 

 

「『上条詩歌』のくせに不勉強だな、お前。“魔力がなくても”、インデックスは魔術を扱ってたし、“俺の妹は何でも扱える”じゃねーか」

 

 

四葉十字(クローバー・クロス)

 

インデックスや御坂美琴に残したのに、上条当麻に何も残さないということはない。

 

愚兄用に扱い易いように調整されている。

 

 

「その幻想を投影する―――!」

 

 

解放のキーワードと共に、柄の宝石に四葉十字を握った掌底をぶちかます。

 

ただお守りに込められた、ありったけの生命力をぶちこむだけだが、<アゾット剣>の回路が満たされ―――悪魔封じが起動する。

 

 

「―――っ!」

 

 

そこで初めて、『灰の魔女』から余裕が消える。

 

これは対<吸血鬼>の為に、現代最高の錬金術師が用意した霊装。

 

血印で封じられた起動するための錠に、無形無色の鍵がはまり、火花が飛び散るように真紅の宝石がそこに刻まれた意味を咲き誇らせる。

 

<アゾット剣>

 

中世の錬金術師『魔術医師(パラケルスス)』――アウレオルス=イザードの先祖が生涯所有していた『剣の形をした賢者の杖』。

 

その名の由来となった『アゾット』というのは錬金術の3要素である水銀(精神)硫黄()(肉体)の合成物という意で、『神聖な炎のような水』、『星の光』、『宇宙の水銀』、『万能薬(エリクシル)』、『万物融解剤(アルカヘスト)』などとも言われ、『賢者の石』の別名でもある。

 

柄頭の宝石――『AZOTH』と刻まれていた宝石には、『石炭を金に変えた』、『病人を治療した』、そして、その中には『1匹の悪魔が封じられている』といわれている。

 

だけれど、この<アゾット剣>には悪魔は封じ込められていない。

 

カインの末裔たる悪魔。

 

空の<アゾット剣>―――悪魔を、<吸血鬼>を封じ込められる空きがある。

 

 

「戯け! このような容れ物では収まりきれぬわ! 我は無限の<吸血鬼>! ―――「“そして、『上条詩歌』”だ」」

 

 

―――これが三つめ! 最後のカード(ジョーカー)

 

 

「終わりだ。これを布石に決着をつけてやる。俺は右利きだ。決める時は当然、こっちだって決めてる。なんつったって、“『上条詩歌』にとっての最強”だからな」

 

 

悪魔封じに抵抗するために『灰の魔女』は一瞬の硬直。

 

それで十分だ。

 

殺されたのとは別の腕で『灰の魔女』は上条当麻の頭を叩く。

 

それでも構わず、左胸に、“強固な暗示がかけられた”右手を突き立てた。

 

結界ごと三沢塾を砕く怪力の一薙ぎ―――なのに、上条当麻の脳天は砕かれてなかった。

 

殺さない方が難しい力―――なのに、上条当麻は生きている。

 

 

「―――その幻想をぶち殺す!」

 

 

無限の存在を、この右手は零になるまで食い潰す。

 

あいにく触覚だけの前兆の感知では『核』の指定はできないが、『核』を殺せなくても、関係ない。

 

この<アゾット剣>に呑まれるくらいまで徹底的に弱めればいい。

 

“たかが<吸血鬼>しか”殺せない<吸血殺し>ではなく、神の奇蹟さえも殺す<幻想殺し>は元の灰になるまで引き摺り落とす。

 

 

「調子に乗るな! 人間如きが我を殺せるものか!」

 

 

『灰の魔女』の呪叫に、周囲の空間が応じた。

 

前にも倍する怒涛の如き稲妻。

 

それこそ三沢塾を吹き飛ばすほどの閃光と威力が、当麻に殺到した。

 

ここで右手を離せば、封印は失敗する。

 

もう二度とこんなチャンスは巡ってこない。

 

右手を盾にするわけにはいかない。

 

だから、

 

 

 

「“降参だ”」

 

 

 

と、その一言で稲妻は不自然に掻き消えた。

 

 

 

魔術でもなく、

 

能力でもなく、

 

神浄でもない。

 

勝手に滅した。

 

当麻はそれを当然のように受け止め、魔女は己のことなのに驚愕する。

 

 

「な、何故! どうして! どうして勝てないはずの幻想を、最強の幻想なのに! 何で死なない! そして、こうも容易く、お前は殺せる!」

 

 

灰が散り、突き刺した<アゾット剣>の宝石に吸い込まれる。

 

その言葉のひとつずつが、命を零す断末魔だった。

 

 

「さあな?」

 

 

愚兄もまた傷だらけだ。

 

特殊繊維でつくられたはずのジャケットはあちこち切り裂かれ、内出血で変色した場所も数え切れない。

 

それでも両足で立つのは、彼の矜持だ。

 

 

「俺に訊くんじゃねーよ。っつか、訊くまでもねーだろ。単にお前が弱かったって話じゃないのか? 無血じゃなくて無知なんだよ、お前は」

 

 

当麻は心底面倒臭そうに答える。

 

ふらふら、頼りなげにふらつきながら呟く。

 

 

「『上条詩歌の幻想』がゆえに、だ。幻想に縛られているのは俺じゃなくてテメェだよ。俺はな、確かに詩歌を最強だと思ってるし、妹に勝てるイメージはただの一度も浮かんだこともねー情けない愚兄だよ。だけどな、現実問題。“詩歌に人は殺せねーよ”」

 

 

記憶を失くして、これまで。

 

魔術師だろうと、能力者だろうと、殺人鬼だろうと。

 

賢妹が誰を相手にしようと人を殺したなんて真似を愚兄は見たことがない。

 

そのチャンスはいくらでもあったはずなのに。

 

時には勝利のチャンスを捨ててまでも、死なせることができない。

 

きっと『上条詩歌』を知る者には『上条詩歌に限ってそれはない』、『彼女が誰も死なせることのできない』と思っているだろう。

 

所詮は偽善だろうと、上条詩歌という天下の名刀には、“刃がない”。

 

殺すための力など必要がないのだ。

 

だから、学園都市の学生の、その大部分を上条当麻の幻想で模られた『灰の魔女』は完璧だったんだろう。

 

怪力だったんだろう。

 

不死だったんだろう。

 

無限だったんだろう。

 

畏怖だったんだろう。

 

でも、上条詩歌(にんげん)だった。

 

結局、<吸血鬼>として最も重要な禍々しい牙をもっていない、実は“歯抜け”なのだ。

 

噛み切り砕くことなどできるはずもなく、せいぜい唇に食むだけだ。

 

そこが『上条詩歌』が第1位や第2位を屈服させた要因なのだろうが、『神上』しか見ていなかった『灰の魔女』は知らず、掛け合わせで品種がダメになる例だってあるのだとは最後になるまで気づかなかった。

 

 

「―――だから、俺は詩歌に殺されるなんて思ったことも一度もない。どんなに上書きしても根本が詩歌ならお前は誰も殺せねーんだよ」

 

 

佐天涙子に攻撃が当たらなかったのも、

 

インデックスを逃がしてしまったのも、

 

姫神秋沙を殺せなかったのも、

 

最後の一撃が“寸止め”されてたのも、

 

『上条詩歌』だからだ。

 

おそらく上条当麻が致死しないように加減したのだろう。

 

この愚兄のデットラインを見図るのが誰よりも得意な彼女の幻想だ。

 

無意識にしてしまうこの“誰もが知る悪癖”さえも模倣してしまってる。

 

これでは偽物に気づけというのは酷なのかもしれない。

 

 

「ま、それに当麻さんは詩歌の前では“最強”じゃなきゃいけないんだ。普段は情けないが、ここだけは“絶対”に格好つけなくちゃいけねーんだよ」

 

 

矛盾しているが、そういうものだ。

 

何故ならば。

 

 

「“お兄ちゃん”だからな」

 

 

と。

 

 

「偽物でも妹を殴るのは、この上なく“不幸”だったよ」

 

 

言って、静かに目を瞑り、そう続けた

 

カラン、と全てを吸い込んだ短剣が床に落ちる。

 

そして、幻想も現実も誰もいなくなってから、口にする。

 

 

 

「―――本物に会いてーな」

 

 

 

つづく


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