とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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水の都編 海の女王

水の都編 海の女王

 

 

 

とある教会

 

 

 

両親を殺された。

 

それが、アニェーゼ=サンクティスの路上生活の始まりだった。

 

日々の食料は贅沢を言えるようなものではなく、料理店裏手のゴミ箱の中でも上等な方だ。

 

それよりも、宿もない身で、冬の寒さを凌ぐ事の方が苦心した。

 

幼い彼女がいたミラノはビジネス街で、完璧に整った街並みには新聞紙や段ボールなどと言った防寒具の代用となる物は一切なく、何百年前からある石造りの建物やアスファルトに固められた地面に温もりなんてものはなく、幼き少女には全く優しくない残酷な世界だった。

 

下手に眠れば翌朝には手足の指先が凍傷になりかけたり、ゴミ箱を漁っても『食べ物』は釘が打てるほど固まっている。

 

そうして、死に掛けた彼女を拾ったのがローマ正教だった。

 

その頃のアニェーゼは知る由もなかったが、ローマ正教はただ彼女を可哀そうだからなんて慈悲深い理由で助けたのではなく、ただ組織の為になる才能の条件が揃った人間を少しでも多く集める為だ。

 

そこで、アニェーゼは、アンジェレネと呼ばれる親に捨てられた少女と普通の一般家庭から進んでこの世界に入った自分よりも1回り年上のルチアや他にもシスター部隊のアガターやカテリナなどと言った修道女たちとも出会った。

 

アニェーゼは神様はいるであろうと信じてはいるが、いつも身近にいて自分達を見守ってくれてるとまでは思っていない。

 

もし、そうなら敬虔な神父であった両親は誰かに殺されるなんてないはずだ。

 

何故なら、神様はそうであって欲しいという人々の希望や望みを集約したもの。

 

アニェーゼの望みを聞いてくれたと言うなら、あの時、両親が殺される前に天罰を犯人に与えてくれたはずだ。

 

だから、神様は自分達の身近にはおらず、呼べばすぐに助けに来てくれるような便利屋ではなく、過度な期待はしてはいけない。

 

でも、この巡り合わせがどんな理由であるにしてもローマ正教のおかげなのだから、アニェーゼは神様なんていないとは言わず、素直に神様に感謝している。

 

感謝と共に十字教の教えを信じている。

 

そして。

 

神様はいつも守ってはくれないのだから、この幸せは自分の手で守らなければならない。

 

何があっても。

 

神様がくれたこのチャンスを活かし実らせる事が、自分なりの神様への感謝である。

 

そうして、アニェーゼ=サンクティスがルチア、アンジェレネ、アガター、カテリナ―――と言った居場所を神様への信仰の証として快適な環境へ整えようと決心したのが、ローマ正教シスター部隊の始まりである。

 

 

 

 

 

女王艦隊 船室

 

 

 

「むふふぅ~、可愛いですねぇ~。うん、これは中々の抱き心地です」

 

 

そうして、年若くも過酷な人生を経験してきたアニェーゼはどういう訳だか復活した詩歌にぎゅ~~っと抱きしめられていた。

 

あれから、愚兄を瞬獄殺の制裁を加えた後、『ふふふ、これくらいはエリートメイドとして当然の嗜みです』と何処からか取り出した裁縫セットでバラバラになったアニェーゼの修道服をぱぱっと元の形へ縫い上げた|(その間、当麻はぴくぴく、と陸に打ち上げられた魚のように死にかけており、オルソラに見守られていた)。

 

それで、出来あがった後、『念のためにチェックします』と言う事になって……いつの間に彼女の股の間にすっぽりと収まってしまっていた。

 

 

「―――さて、チェックも終わりましたし、何か言いたい事があれば聞いてあげない事もありませんよ」

 

 

真正面からいたら、ギロッ、と警戒した視線をぶつけられそうだが、今は彼女の背後を取っている。

 

それでも敵意満々と言ったのは雰囲気で分かる。

 

けれでも、人に懐かない子猫の威嚇ようなもので、存分に可愛い。

 

頭撫でたい|(撫でたら、噛みつかれそうだが、それがまたたまらない)けど、今は我慢だと詩歌は自分に言い聞かせる。

 

 

「何で、アンタはそんなに偉そうなんですか?」

 

 

確か、自分はこの<女王艦隊>へ乗り込んだ侵入者を捜索していたはずで、こうして、見つけたのだから後は大声でも出して味方を呼べばいいはずなのだが……

 

 

「はい? 私としてはいきなり襲われて、理由も話さず無理矢理この<女王艦隊>へ連れてこられた訳ですから、『正当防衛として<アドリア海の女王>をぶっ潰しても構わないんですけど』」

 

 

にこにこ笑顔で、とんでもない事を仰る詩歌さん。

 

残念な事に、彼女の貴重なツッコミ役兼ストッパー役は只今臨死体験中で役に立たない。

 

そして、これが詩歌のボケなのか本気なのか、アニェーゼには判断できないし、抱えられているため顔色を窺う事ができない。

 

 

(ちっ、女狐め……。コイツがいなけりゃ、利用できると思ったのに……)

 

 

呆気に取られた顔をした後、悔しげに睨め上げる。

 

今、アニェーゼの背後を取っている|(ただ抱きしめているだけなのだが)少女は、単身で250人ものシスター部隊へ停戦を交渉し、結果、手玉に取るように弄ばれた。

 

あれは今でも思い出すだけで背筋に寒気が走るほど嫌な体験だった。

 

そんな経験があるからこそ、アニェーゼは詩歌の機嫌を損ねる訳にはいかなかった。

 

もし、彼女が本気になればここにある1000隻の<女王艦隊>が全て潰されるかもしれない。

 

まあ、実際に今の詩歌は<調色板>を持っていないからそんな真似はできないのだが、アニェーゼはそんな事を知らない。

 

 

「……言っときますけど、ここにはローマ13騎士団の『トリスタン』がいるんですよ。アンタがやり合った『ランスロット』よりもありゃ格上です」

 

 

『トリスタン』。

 

ローマ正教13騎士団の中で唯一の女性で、“隊を率いない”騎士。

 

単身で敵地へと乗り込み、戦果を上げ、今や騎士団の中でトップクラスの実力の持ち主だ。

 

実際、詩歌、当麻、五和の3人を1人で相手にし、引き分けている。

 

だが、その事はまだアニェーゼは知らず、

 

 

「大丈夫。実はですね、詩歌さんのビックリ芸は108つあります」

 

 

……これが冗談だと笑えないのがキツい。

 

 

「まあ。それはそれはとても多芸なのでございます」

 

 

「ふふふ、母さんが趣味人なもので。っと、そうそうオルソラさん、今日の昼食で訊きそびれた事なんですけど」

 

 

「イカスミの調理法でございますか。あれは、キオッジアではなくヴェネツィアの名物でございますけど………」

 

 

そして、ツッコミ役がいないのがもっとキツい。

 

何だか、いつの間に主婦同士の井戸端会議始まろうとしているし!

 

コイツらここがどこだか分かってんのか!?

 

 

「………まあ、そうなんですか。それから、見ての通り、私の可愛いアニェーゼさんが反抗期みたいで……。美琴さんみたいに素直に甘えてくれなくないんですよ。本当、この年頃の女の子の扱いは大変です」

 

 

「オイ! いつから私はアンタのになったんですか!?」

 

 

「打ち止めさんやインデックスさんのようにもっと素直に育って欲しいんですけど……。ああ、それから、那由他さんがここ最近、好き嫌いが多くて……私の身体にはこの栄養素は必要ないだとか屁理屈を言ってお野菜を避けたりしてるんですよ……」

 

 

「ねぇ! 私の話を聞いてますか!?」

 

 

「分かるのでございます。私も隠し味にオリーブばかりではウンザリだと言われた事があるのでございますよ」

 

 

「アンタもコイツの話に花咲かせてんじゃねぇですよ! っつか、今の状況を理解してますか!? 私の声聞こえてますか!?」

 

 

「まぁ。私はちゃんと人の話を聞いているのでございますよ? でも、好き嫌いは早めの内にちゃんと治さないといけないのでございますよ」

 

 

「ええ。将来を左右する大問題です。好き嫌いは早めに治さないとすくすく素直に大きく育ちません」

 

 

「それよりも! 大きな問題が! 今! 目の前にあるでしょうが! アンタらローマ正教に狙われててどうしてそんなに余裕なんですか!?」

 

 

もう駆け引きとかどうでもいいから、早く、愚兄(ツッコミ)よ、起きてこの2人の幻想(ボケ)殺してくれ(止めてくれ)!!

 

 

 

 

 

???

 

 

 

「う、うーん……」

 

 

目が覚める。

 

ごくごく普通の学生寮の一室。

 

上条当麻の部屋だ。

 

 

(あれ? どうして、ここに……)

 

 

さっきまで氷の巨大軍艦にいたはず……

 

なのに何故か自分の部屋にいて、ベットで寝ている。

 

ああ、そうか。

 

やはり、あれは夢だったのか。

 

自分がくじで1等賞を当てるなど夢に違いない。

 

 

(ん……? ベット……?)

 

 

ベットで寝ている。

 

自分の部屋で、自分のベットで寝ているのは何ら不思議な事ではないが、上条当麻の寝床はベットを居候に明け渡しているため、風呂場の浴室の中であったはず。

 

と、そこで、台所から、トントン、と小気味の良い音が聞こえてくる。

 

 

「あら。当麻君、お目覚めですか?」

 

 

鮮やかな黒。

 

腰まである濡れ羽色の柳髪を腰の辺りで一括りに纏めている。

 

そして、その髪飾りは見覚えがある。

 

そう、あれは………

 

 

(あれ? 詩歌、だよな……?)

 

 

少しいつもよりも背が高いような……

 

それに何だか雰囲気が大人っぽくなっている……

 

 

「おはようございます、当麻君」

 

 

「え、えっと、おはよう、詩歌、さん?」

 

 

思わず疑問形になってしまう。

 

今、目の前にいる女性はどこか妹の面影があるけど、妹じゃない。

 

本人じゃないかと錯覚するほど良く似ている。

 

実際、本人としか思えない。

 

でも、詩歌じゃない。

 

当麻が知っている詩歌はこんなに背が高くない。

 

こんなに大人っぽい顔をしていない。

 

エプロンの布地を突き上げる胸は、ここまで大きくはなかったはずだ。

 

まるで妹ではなく、寮の管理人や……

 

 

「ふふふ、どうしたんですか? 当麻君。寝惚けて詩歌“お姉さん”の顔を忘れちゃいましたか?」

 

 

そう、姉と言われる方がしっくりと来るような………って、

 

 

「はあああああぁぁぁっっ!?!?」

 

 

叫ぶ。

 

学生寮全体が揺れるほどの大声。

 

 

「あれ? おかしいぞ? 当麻さんは確か、お兄ちゃんだったはず。そして、詩歌さんは妹のはずじゃないんですか!?」

 

 

「はぁ? 何を言っているんですか、当麻君。早く、そこにある服に着替えてください」

 

 

そう言って、視線が指し示す先にあったのは、学校の制服のYシャツとズボンと―――と、首輪。

 

 

「え、っと……。これは何でございましょうか?」

 

 

Yシャツとズボンは納得できる。

 

だが、首輪は許容できない!

 

 

「当麻君はとっ~ても人気者ですから。きちんと、弟は姉の所有物だと周りに教えてあげないといけません。これは、常識です」

 

 

「そんな常識なんてある訳ねぇだろ!? この馬鹿―――」

 

 

パンッ、と平手一閃。

 

ドスッ、とベットに飛び乗り、マウントを奪う。

 

ギュッ、と最後に首輪を締める。

 

 

「姉に向かって、暴言を吐くなんて、酷いです。詩歌さんは悲しいです。泣いちゃいそうです」

 

 

「当麻さんの方が泣きそうなんですけどっ!!??」

 

 

「やれやれ、まだ寝惚けているようですね。本当、世話のかかる弟です。仕方がありません」

 

 

唇に人差し指を当てて妖艶に微笑み、

 

 

「お目覚めのキスをしてあげます」

 

 

「は い?」

 

 

布団で仰向けに寝ている当麻の、まさに目と鼻の先。

 

睫毛の数が軽々と数えられそうな、唇から漏れる息が肌に触れそうな距離。

 

あまりの出来事に思考回路が煙を上げ、そのまま………

 

 

 

 

 

女王艦隊 船室

 

 

 

「はっ!」

 

 

 

目が、覚めた。

 

今度こそ正真正銘に目が覚めた。

 

ほっと息を吐く。

 

微妙に残念な気がしないでもないが、とりあえず安心した。

 

周囲を見回す。

 

辺り一面、氷の世界。

 

どうやら、ここまでは夢ではないようだ………と、そこで、詩歌とオルソラが談笑している姿と……詩歌に抱きかかえられながら、ちょっと疲れたように頭を垂れているアニェーゼが……

 

『ああ、この2人の相手(ツッコミ)をしてたんだなぁ……』と当麻は同情する。

 

 

「あら、当麻さん。お目覚めですか?」

 

 

と、そこで当麻が起きた事に気付き、アニェーゼの頭を撫で撫でしながら、こちらに満足気の笑みを向ける。

 

抵抗する気の失せたアニェーゼを思う存分可愛がっている詩歌を見て、ふと思う。

 

 

「……詩歌、お前が妹で良かったよ」

 

 

「はい?」

 

 

意図の読めない発言に詩歌は小首を傾げる。

 

分からなくて良い。

 

絶対に分からなくて良い。

 

もし、これが知れたら、色々と大変な事になりそうだ。

 

最悪、首輪をつけられるかもしれない。

 

さっきの夢は当麻の胸の奥に封印しておこう。

 

 

「さて、眠っていた当麻さんのためにももう一度現状確認をしましょうか?」

 

 

思わず、首元に首輪が付けられていないか確かめてしまう当麻を他所に、詩歌は説明を始める。

 

 

「まず、この氷の船は、<アドリア海の女王>の補佐する1000の<女王艦隊>の内の1つです」

 

 

ようやく真面目に話が始まったのが嬉しいのか、アニェーゼの顔から気力が甦る。

 

 

「<女王艦隊>というのはアドリア海の監視の為に作られた艦隊ですけどね。星空や風、海面などからデータを採取して、それらからアドリア海のどこでどれくらいの魔力が使われているかを調べんのが目的です。陸地とは違って海ってのは見張りを立てられませんからね。洋上で妙な魔術実験をされても困りますし」

 

 

当麻は話を聞きながら、徐々に頭の回転数を上げていき、

 

 

「採取が目的なのにそんなに大きくする必要があるのか?」

 

 

その疑問に、オルソラは頬に手を当てながら、

 

 

「今ならとにかく、あれが作られたのは数百年前、アドリア海の治安が危ぶまれていた時代でございます。艦隊のように大きくしないとすぐに沈められてしまう可能性があったのでございましょう」

 

 

さらに、続けてアニェーゼが付け加える。

 

 

「それに、他宗派への牽制っつー意味合いもあんでしょうね。近頃は魔術サイドの組織図にも揺らぎが出てきますし、ソイツを整える為にもデカいイベントが欲しかったんでしょ」

 

 

と言う事はつまり、ローマ正教と同じ3大宗派のイギリス清教やロシア成教もこの<アドリア海の女王>の動きは知っている。

 

そうならなければ、『牽制』の目的が果たされないのだから。

 

 

「これは政治です。ここ最近、弱体化しているローマ正教が未だ健在であると魔術世界にアピールするためのものです。……まあ、私達はそれに巻き込まれたと言う訳です」

 

 

と、今度は詩歌が説明を引き継ぐ。

 

『何だかんだ3人共息が合っているようだし、意外と仲良くやってたのか』とアニェーゼに聞かれたら噛みつかれそうな事を考えつつ、当麻は今の説明の中に聞き逃せない内容が、

 

 

「……、ちょっと待った。だったら、何でそんな駆け引きなんて知らなかったのに、俺達は、この<女王艦隊>は俺達を襲ってきたんだ?」

 

 

「それは私達と天草式の皆さんとオルソラさんが一緒に行動していたからでしょう。このメンバーは<法の書>の一件でローマ正教の上層部に警戒されているでしょうし、加えて、私と当麻さんは、<大覇星祭>での<使徒十字>の一件もありますからブラックリストにでも載せられているでしょうね」

 

 

なるほど。

 

オルソラと天草式はイギリスから、自分と詩歌とインデックスはわざわざ日本からやってきたのだ。

 

これらが集まれば、『また何かやらかすのではないのか?』と警戒されるのも当然な話だ。

 

 

「まあ、これが“偶然”か“意図的”かはさておき。警戒だけではなく、一般人の衆目に晒すなんて魔術師同士の暗黙の了解を破ってまでも攻撃してきたのは、過剰反応です。―――っと、そこで、昼食の話を覚えていますか、当麻さん」

 

 

「えっ、と……ああ、イカスミの事か?」

 

 

「アンタらはそんなにイカスミが気に入ったんですか!? だったら、顔面にぶちまけてやりましょうかっ!」

 

 

アニェーゼにギロっと睨みつけられ、当麻はたじろぐ。

 

後ろから詩歌が抑えていなければ、1,2発殴られていたかもしれない。

 

 

「違いますよ、当麻さん。今はギャクパートじゃなくて、シリアスパートなんですから、真面目にやってください」

 

 

(……何だか詩歌にだけは言われたくないような気がするんだが……気のせいか?)

 

 

「ヴェネツィアの話です。昔、ヴェネツィアは塩や交易品で莫大な富を築き上げ、パトヴァやキオッジアなど周辺都市国家を次々と制圧していくだけの軍事力を誇っていました。その国力は、ローマ正教の本拠地からそう遠くもないのに、その支配を拒絶したほどです。これは、言っていなかった事ですが、ヴェネツィアは他者からの侵略や支配を嫌った者達が集って生まれた街です」

 

 

詩歌はそこでやや不機嫌に口角を少し上げ、

 

 

「私達という不穏分子を静観するのではなく襲撃してきたローマ正教としては、いつ自分達に牙を剥くか分からない都市国家を放っておくなんて考え難いです。だから、このヴェネツィアの異名と同じ<アドリア海の女王>と言う霊装は、監視ではなく、対ヴェネツィア用の大規模術式で、それを使ってローマ正教は何かを企んでいると見ているのですが………そこの所はどうなんですか? アニェーゼさん」

 

 

この件とは全くの無関係であった当麻達を襲撃してきたローマ正教だ。

 

当時、ローマ正教と仲が悪く、幾度も侵略を繰り返していたヴェネツィアを、警戒しないはずがない。

 

アニェーゼは、詩歌の拘束を振り解いて立ち上がると、ニヤリと笑って、

 

 

「……詳しい事は上の人間にしか知りませんがね。<女王艦隊>では、これから大仕事があります。―――でも、昔の事ならとにかく、今のヴェネツィアは健全な観光地です。壊滅させる理由なんてありませんね。確かに、『監視だけの施設』ってのは建前ですよ」

 

 

「どういう事でございましょうか?」

 

 

「本当の理由ってのは、あれです。ここは一種の労働施設なんですよ」

 

 

アニェーゼの笑みに、暗い色がよぎる。

 

 

「私みてぇな罪人、失敗者などを集め、ローマ正教が受けた損失分を支払うための、ね。だから船にいるのは私の部隊……いえ、元部隊のシスター達がほとんどです。残りは労働者を束ねる職制者達と番犬の騎士が1人ですね」

 

 

徒労系(ロングラン)、と呼ばれる今では禁じられた刑罰がある。

 

単純だが、無駄な作業を延々と続けることで人間の精神を擦り減らすというもの。

 

作業が無意味なほど心に響く。

 

『ここまでやっても何の役にも立たない』と言う感覚を植え付けさせる耐え難い精神的拷問。

 

それを今この<アドリア海の女王>で、元シスター部隊の面々は毎日18時間のペースで行っている。

 

 

「環境の慣れないシスターにとっては地獄に見えるみたいですよ。実際、私の部下、シスター・ルチアとシスター・アンジェレネは、この<女王艦隊>から脱獄しちまったんです。私や他のシスターたちを解放するとかってつもりらしいですが。私から言えるのはご苦労様ってだけですけどね。彼女達はとりあえず外に逃げて、準備を整えてから私達を助け出そうとしたみたいですが、結局、『トリスタン』に捕まっちまったようですけどね」

 

 

その時のアニェーゼの顔は退屈そうと言うか、冷めていた。

 

でも、当麻はどこか引っ掛かりを覚え、

 

 

「……その2人は、大丈夫なのか?」

 

 

アニェーゼは表情を崩さず、退屈そうな声で。

 

 

「……ここは牢獄なんで。私も含めて、ここにいる修道女は全員ローマ正教の囚人ですよ。最優先すべきは『脱獄の穴を塞ぐ事』なんですよ。だから、2人が脱獄に使った……確か<女王艦隊>の索敵の特性の裏をかいた術式の防止が先でしょうね。っつっても、ここは処刑場じゃないんで、いきなり口封じで殺されるってな事はないです」

 

 

<法の書>事件の際にも、オルソラ=アクィナスの処刑には様々な手順が必要だった。

 

それと同じように、彼女達にも手順が必要なのだろう。

 

ただし……

 

 

「精々、二度とその術式を使えなくなるよう加工される程度でしょう」

 

 

「加工だって」

 

 

加工。

 

その言葉を聞いた時、詩歌は目を細め、オルソラも珍しく嫌そうに眉を顰めて、確認を取るように、

 

 

「……魔術の使用を禁ずると言う事は、思考力そのものを奪うと言う事でございますか。つまり、『脳の構造を砕くと?』」

 

 

当麻はギョッとした。

 

具体的な方法を述べられた訳ではないが、逆にそれが嫌な想像力を働かせてくる。

 

そして、詩歌はアニェーゼの顔をじっ、と見つめながら、

 

 

 

「アニェーゼさん、助けてあげましょうか?」

 

 

 

『やった』とアニェーゼは内心でほくそ笑む。

 

当麻とオルソラはとにかく、詩歌との駆け引きで、アニェーゼは自分が勝てる見込みは少ない事は分かっていた。

 

ただ、1点だけ、彼女には弱点がある。

 

それは、甘さ。

 

あの事件の際も、彼女はまず自分達と停戦交渉し、戦闘になっても圧倒的な力を振るいながらも1人も死亡者を出す事はなかった。

 

だから、同情を誘うような話をすれば、自分の都合の良い展開へと彼女が勝手に運んでくれる。

 

 

「あの馬鹿2人を助けてくれるんですか? ありがたいですね。ヴェータラ術式の死体じゃあるまいし、頭の足りない労働力なんざ見ているだけで惨めです。他のシスター達は素直に従っているってのに、勝手に空回りして。逆らうならさっさと自分達で逃げれば良いものを、わざわざ警備の厳重な私の部屋の前まで来て、『いずれ必ずお助けします』とか言っちゃって」

 

 

よし。

 

ここまで言えば、彼女は、この馬鹿2人を助ける。

 

あとは、自分が興味ないフリをしていれば、上司に見捨てられた部下だと―――

 

 

 

「―――ルチアさんやアンジェレネさんだけではなく、アニェーゼさん、あなたもです」

 

 

 

え……? と一瞬、表情が崩れた。

 

何を言っているのだ……

 

これまでの話で、どうして、2人を見捨てた残酷な上司を助けるなんて……

 

神様なんて都合の良い存在はいない。

 

あの男のように、嘘ではないのか。

 

その傷ついた心を包むように、詩歌はその全てを理解したような微笑みを向ける。

 

 

「ふふふ、前にも言いましたけど小さくて可愛い子の我儘は3回まで聞いてあげる事にしているんです。それにね。実は私、目覚めが良くて機嫌が良いんです」

 

 

 

 

 

キオッジア

 

 

 

もしも、夜が来なかったら、どんなに良かっただろう。

 

闇が記憶の扉をこじ開け、あの時の事を嫌でも思い出させる。

 

煉獄の炎に呑み込まれる村。

 

暗闇の化物に喰われる両親。

 

全身が引き裂かれるような絶望感。

 

ベットの中、震える手で拳を握る。

 

私は、弱い。

 

とても弱い。

 

たった1人でもどうにか生き続けられるように、あの方を頼り、そして、この――へとやってきた。

 

あの方は、今まで子供の世話をした事がなく、まだ戦場に連れてってもらえなかった幼い頃の私はそこの手伝いをすることを条件に――の使用人達の部屋で、日々を過ごしていた。

 

他所者の私にも彼らは優しく、――の……様は本当に優しいお方で、私があの方の連れである事と彼女の周囲の人間の中で唯一の年下である事から、妹のように可愛がってくれた。

 

それから、私は――で使用人の仕事をしながら、厳しい修練を重ね、強くなろうとした。

 

女だからって馬鹿にされないよう、日が暮れるまでずっと鍛錬を続けてきた。

 

あの方は護身術程度にしか教えて下さらなかったけれど、足りない部分は努力で補う。

 

でも、それは成し遂げられなかった。

 

ずっと夜が怖かった。

 

夜になると震える。

 

どうしても震えてしまう。

 

そんなある日、そう、あれは……様が政略結婚なさる少し前の晩の事だった。

 

その日も私は、夜になると1人部屋に籠って、早く朝が来ないものかと震えていた。

 

耐えようと歯を食い縛り、きつく目を閉じる。

 

それでも、涙が出てきて、震えが止まらない。

 

早く朝が来て欲しい。

 

そうすれば、何とかなる。

 

嫌なものは全部心の奥底に押し込められる。

 

寝るんだ。

 

早く朝が来る事を祈って……

 

一際強い夜風が吹きつけ、窓ガラスが震える。

 

その微かな音にさえも怯え、キィ、とドアが鳴いた瞬間には堪らず目を開けた。

 

 

「……どうして、泣いてるの?」

 

 

……様だった。

 

何故……?

 

こんな夜更けに、そして、こんな使用人の部屋などに来ていいはずがない。

 

 

「本当は、お別れを言いに来たの……」

 

 

ドアを音が立てぬようそっと閉じて、こちらへ近づいてくる。

 

その澄んだ瞳は震える私の姿をハッキリと映していた。

 

 

「話して、くれませんか。私は、あなたの事が知りたい」

 

 

小さな声。

 

私にだけ聞こえるように、世界で私にだけ聞こえれば良いように。

 

そんな気持ちが込められた、小さな声。

 

 

「大丈夫。私は、ちゃんと聞きます。ですから、話して下さい、ナタリア」

 

 

確約するように、……様は静かに頷いた。

 

その清らかな声が、透明な瞳が、私の心の底にまで染み入る。

 

そして……私の口は自然と語っていた。

 

あの方が来る前の、全てを失った悲嘆の物語を……

 

 

「………結局、私は、弱いのです。それが全てなのです、……様」

 

 

……様は、その間、何も言わず黙って聞いていてくれた。

 

だけど、……様は彼女の姉君のように知恵もなく、力もない、まだ成人してさえもいない、ただ周囲の人間に守られるだけの姫君。

 

どこまで伝わったかは分からない。

 

どこまで理解したのか分からない。

 

 

「……どうして、……様は、弱いままでいられるのですか?」

 

 

……様は弱い。

 

だというのに、技術や力を付けようとはしない。

 

だから、あの方を慕っているのにも拘らず、このように政略結婚などに利用されてしまう。

 

もし、知恵があれば、力があれば、姉君達のように政治の道具になんてされなくても良かったはずなのに。

 

だが、たとえ真実でも、その言葉は、侮辱したと罰せられてもおかしくはなかった。

 

 

「――の者として教養としてでも身に付けるべきだとは言われているんだけど。どうしても、人が傷つけるような知恵や力は学びたくなくて……」

 

 

けれど、……様は笑って許してくれた。

 

 

「でも、こうして、寂しさを紛らわせる事なら私にもできます」

 

 

夜の闇に震える私の事を抱きしめて、視界を覆ってくれた。

 

夜風に怯える私の耳を、自分の両手でそっと塞いでくれた。

 

そうされても、夜明けが来る訳でもなく、静寂が訪れる事はなかった。

 

ただ、彼女の温かさだけは伝わった。

 

そして、自分がいなくても怯えないようにと、彼女の髪飾りを私にくださった。

 

その時から、私は夜の暗闇に怯える事はなくなった。

 

そして、これが、いつか……様にあの方と共にお仕えできる完璧な騎士となる事を望むきっかけだった。

 

 

 

 

 

 

 

「だから、ここで立ち止まるわけにはいかない」

 

 

目の前には暗闇に包まれた海。

 

だが、もう自分は夜を恐れない。

 

飛ぶ。

 

足から海中にダイブし、水のルーンを発動。

 

水を蹴って海面に浮上。

 

そのまま、海上を滑りながら仮面の騎士は夜の海を駆け抜けていく。

 

 

 

 

 

女王艦隊 船内

 

 

 

月明かりを乱反射させ、白っぽい電球色に輝く融点の変動した氷の通路を当麻を先頭に、オルソラ、詩歌が続く。

 

アニェーゼには結構です、と断られた。

 

どうやらアニェーゼは、シスター部隊の象徴的な存在であるらしく、彼女が大人しくすることで他のシスター達の反乱を防止する精神的な安全装置の役割があるらしい。

 

そのおかげで、囚人であるのに拘わらず、館内を自由に歩き回る権限があり、労働も免除。

 

食事も1日3食、食後にカッフェかスプムーターも選べる贅沢も許されている。

 

なので、脱獄なんか企てなくても、いずれ現場に復帰できるのだそうだ。

 

でも、部下の面倒を全く見ないのは後味が悪いと言う事で少しは協力してくれるとの事。

 

 

「……なあ、詩歌。あれで良かったのか……?」

 

 

当麻は前方を警戒しながら、後方を警戒している詩歌に問う。

 

アニェーゼの真意は分からないが、妹の感情なら読み取れる。

 

当麻にはあやふやで良く分からなかったが、詩歌は何かを掴み取り、アニェーゼの事を心配していたようにも見える。

 

だというのに、断られるとあっさりと身を引いた。

 

 

「はい。今は、ルチアさんとアンジェレネさんの救出を優先した方が良いでしょう。……それに、ここで何をするにしても、色々足りないんです」

 

 

<法の書>の時もそうだったが、彼女は物事の真相を見抜き、よく遠くを見据えて行動していた。

 

たぶん、今も、目先しか見えていない当麻には見えていない光景が見えているのだろう。

 

でも、時々、詩歌は何か都合の悪い事を当麻に意図的に隠しているような気がして、何となく歯痒い。

 

と、そこで、当麻の顔を見た詩歌はクスッと笑い、

 

 

「……私がこうしていられるのは当麻さんが守ってくれるからです。先の事を考え過ぎると、どうしても今が疎かになります。上を目指そうとすると、下に落ちるのが怖くなります。でも、当麻さんがいつも守ってくれるから、当麻さんがどんな時でも受け止めてくれるから、私は進む事ができるんです。……事実、撃たれた時、当麻さんは私を助けてくれました」

 

 

上条当麻は、上条詩歌を誰よりも信じている。

 

 

「私を守ってくれるのは、ただ1人」

 

 

上条詩歌は、上条当麻がいるから失敗を恐れず前に進み事ができる。

 

 

「お兄ちゃん……だけ、です。妹として――いいえ、それ以上にひとりの人間として、いつも感謝しています」

 

 

 

さくらんぼのように頬を染めて恥ずかしがる滅多に見れない妹の羞恥の顔と送られた言葉に、当麻は時が止まったように呆気にとられる。

 

そのまま恥ずかしいのか、ぷいっ、と当麻から顔を逸らし、後方の警戒に戻る。

 

その様子をオルソラは微笑ましく『あらあら』と口に手を当て、当麻は気恥ずかしさを苦笑で誤魔化しつつ、なるべく平静を装いながら口を開く。

 

 

「詩歌だっていつも俺を助けてくれるじゃねーか。それにな、そんなのは当たり前の事だ。礼を言われる筋合いじゃねーよ。妹を守るのは兄としての義務―――いや、そうじゃねぇ。ひとりの人間として、詩歌を守りたいからだ」

 

 

上条当麻に夏休み前の記憶はない。

 

だけど、上条詩歌と言う少女を守る誓いは、深くその心に根付いている。

 

が、そこで、

 

 

(あ、そういや、あの事、まだ言ってねー……。あれは、キスじゃなくて人工呼吸だからセーフか…。だから、別に言わなくても……。いや、言った方が良いのか……。いやいや、敢えて何も言わずに忘れるっつう手も。でも、忘れられんのか……ああ、どうすりゃいいんだ!?)

 

 

急に悶々と当麻が頭を抱える間に、深呼吸して調子を取り戻した詩歌が周囲に注意を払いながら、話を戻す。

 

 

「逃亡に関しては、2人の脱獄術式を利用しましょう。<幻想投影>で<女王艦隊>一隻を乗っ取ることはできますが、それだと目立ちますからね」

 

 

アニェーゼからの情報によると職制者と比べて倍以上いる修道女たちの造反を防ぐためにも、艦隊の制御は、操船、砲撃と共にほとんど魔術頼み。

 

それに、この<女王艦隊>は100隻近くあり、1隻辺りに割り振られる人員はほぼ無人と言って良いほどに少ない。

 

そして、落伍労働者を収容するのは船底近くの船倉だが、ルチアとアンジェレネに使われる例の『脱獄術式を二度と使えなくする』ための心理制御設備は、甲板より上の3階部分のこの<女王艦隊>の中枢部にある。

 

3人は魚群の用に敷き詰められ、ちょっとした都市ぐらいのサイズがある氷の巨大な帆船軍艦の大艦隊を警戒しながら進んでいき、

 

 

「―――ッ! この先に何かいます」

 

 

通路の角に差し掛かった所で、当麻は思考を元に戻し、詩歌はオルソラの手を引きながら身を潜める。

 

目的地まであと10m。

 

だが、その間に誰かいた。

 

いや、誰かではなく、『それ』と言うべきか。

 

電球色に輝く、巨岩のような氷で作られた3m強の鎧。

 

頭の上から足の下まで重兵器のようで、手には輪切りにした四角い鉄骨のメイスを掴んでいる。

 

ルチアとアンジェレネがいる船室の中にはおそらく魔術的な処置を施す術者が何人かいるだろうし、ここで騒げば気付かれるかもしれない。

 

彼らに気付かれず、この現代戦の戦車を使ってでも勝てるか分からないそれを倒さなければならない。

 

 

「ふむ」

 

 

 

詩歌はそれを注意深く下から上まで観察すると、

 

 

「シェリー=クロムウェルが操るゴーレムとは少し毛並みが違います。おそらく、この<女王艦隊>の防衛機能の一部でしょう。でも、完全に変化が終わっているこの氷壁とは別に、魔術で動くならば………」

 

 

 

 

 

女王艦隊 中枢部

 

 

 

清潔な部屋だった。

 

病院の医務室のように。

 

ただ、ベットから何まで全てが氷で作られている。

 

この部屋にいるのは、7人の男女。

 

その内の2人は、女性で黄色い袖やスカート、<禁色の楔>が付けられた修道服を着ている。

 

ルチアとアンジェレネだ。

 

彼女達の布の額当てには金色のサークレットが、彼女達の頭に食い込むように嵌められている。

 

後の5人は、針金のように細い体付きの不健康そうな男、職制者達。

 

一見、研究者のように見えるが、来ているのは外套付きの深い黒の修道服。

 

彼らが、脱獄した修道女達の術のかかり具合を確かめようと手を伸ばそうとした―――その時だった。

 

 

バンッ!! と勢い良く船室のドアが開く。

 

 

「な―――!?」

 

 

ドアの先にいたのは、氷の鎧。

 

この<女王艦隊>の防衛機能の1つだったはず。

 

だが、驚きで硬直している間に、それは小さな入口を押し上げて破壊し、床を抉りながら進撃し、固まっていた職制者3人をまとめてその巨大な両腕で挟んで捕まえる。

 

ゴキゴキッ、と氷の鎧の相撲の決まり手の1つ、鯖折りによって背骨を鳴らされながら気絶する。

 

突然の反乱に男達は混乱するが、さらにその氷の鎧の背後から2つの影が飛び出す。

 

彼らは、氷の鎧に目を奪われている隙をついて、霊装を使う暇を与える事なく、1人は殴りとばして、もう1人は首狩りで残りの職制者2人を仕留めた。

 

ルチアとアンジェレネは突然の出来事にしばらく大口を開けながら意識を停止する。

 

そんな2人の前に、自分達と同じローマ正教の修道服を着たシスター―――

 

 

「さて、助けに来たのでございますよ」

 

 

―――オルソラ=アクィナスが現れた。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

「きゃああぁぁああぁっっ!! 魔女!! 魔女が来たああぁっ!!」

 

 

気絶した男達を身動きできないよう手足を縛ろうとした時だった。

 

捕まったシスター2人の内の幼い少女の方、アンジェレネが叫び声を上げる。

 

その視線の先には、氷の鎧を操り、職制者を1人を師匠直伝の首狩りで仕留めたこの救出劇のMVPとも言える上条詩歌がいた。

 

 

「え……? 私?」

 

 

と、自分の顔に指を刺して確認を取ろうとすると、アンジェレネは半泣きになって、もう1人のシスター、ルチアの背後に隠れる。

 

 

「魔女が、魔女が来ましたよ!? シスター・ルチア! 私達、魔女に食べられちゃうのでしょうか!?」

 

 

そこでようやく職制者を1人殴りとばした当麻が事情を察する。

 

 

(きっとこの子は、<法の書>の時の詩歌に追い詰められたのがトラウマになってんだなぁ……まあ、後でゆっくりと話し合えば……話し合うまでが大変そうだが何とかなるだろう)

 

 

と、能天気な事を考えている当麻の横で、

 

 

「あ、ああ……」

 

 

心底怖がるアンジェレネを前に、世界が終わりかのような表情を浮かべる詩歌。

 

夢遊病のようにフラフラしながら、アンジェレネへ手を伸ばそうとするが、

 

 

「こ、こっちに来ないでください!」

 

 

―――パキンッ、と。

 

何か幻想が壊れる音が聞こえた。

 

 

「うああああぁぁぁぁん、不幸だぁぁ~~~!」

 

 

あの泰然自若の詩歌とは思えない、ヘタレた声だった。

 

そのままその場でしゃがみこみ、冷たいのにも拘らず氷の床にのの字を書きながらいじけてしまう。

 

 

「そう、そうですよね。ええ、当然ですよ。だってあんな事しちゃったんですから。いくら手加減してても、ちっちゃい子に手を出したのは変わりないですよね。そうです! そうですとも! そうなんですよねぇ!! ああ。あああ。もう駄目。お家に帰りたい」

 

 

「…………」

 

 

……ここまで妹にダメージを与えた相手はいるだろうか。

 

『可愛いは正義』と、ちっちゃいものを守るためなら実の兄でさえも容赦なく瞬獄殺する妹だ。

 

この幼い少女、アンジェレネの一言は彼女の急所を抉り、効果抜群で、相当堪えたのだろう。

 

精神HPが一気にレッドゾーンに。

 

しかも、アンジェレネは未だにびくびく震えており、その嗚咽が聞こえてくる度に精神HPは徐々に削られていく。

 

これはある意味、上条詩歌、最大のピンチなのかもしれない。

 

 

「まぁ、やっちまったもんはしょうがねぇよ」

 

 

流石にこれは当麻もフォローができない。

 

しばらく、復活するまではそっとしておくしかない。

 

当麻は左手で詩歌の丸まった背中をぽんと叩き、オルソラに向かって両手で×マークを作って、妹退場の合図を送った。

 

 

 

閑話休題

 

 

 

「さ、さて、助けに来たのでございますよ」

 

 

背後で、約1名が抜け殻のようになっているけれど、オルソラは強引に仕切り直しを行う。

 

アンジェレネは少し落ち着いたのか泣き叫ぶのを止め、ルチアは彼女を庇いながら、白い顔を僅かに赤く染めてこちらに敵意をぶつけている|(ただし、『可愛い子に頼られて羨ましいなぁ……』と怨念染みたオーラからは無意識的に視線を逸らしている)。

 

 

「……助けに来た。そんな言葉を私達が信じると思うのですか。そもそも、貴方達に敗北したからこのような場所に送り込まれたと言うのに」

 

 

ルチアは警戒の低い声を放つ|(が、調子が崩されるのか『いいなぁいいなぁ、そのポジション替わって欲しいなぁ……』と送られてくる視線から逃れるように1,2歩後ずさる)。

 

 

「えーっとだな、俺達もこの船に乗りたくて乗ったんじゃない。こっちだって何か訳の分からない内にローマ正教の連中に追われる羽目になっちまっている。だから、とにかくここから出たいってのが第一目標だ」

 

 

妹の意外な弱点に頭を抱えつつも、彼女の姿を隠すように当麻は前に出る。

 

 

「でもな、途中でアニェーゼにお前達が変な処置を受けそうになっているお前たちを助けて欲しいって頼まれてここまで来たんだ。まあ、ついでにあんたらの脱獄術式について教えて協力してもらおうかなって魂胆もあるんだけどな。俺らもこっから逃げる方法は考えてあんだけどよ、色々と派手になりそうで面倒なんだ」

 

 

「し、シスター・アニェーゼに……ですか?」

 

 

聞き覚えのある名前に、アンジェレネは僅かに怯えの色を解いた。

 

それだけで、パッと明るく印象が変わったように見える。

 

やはり、年相応に活発な子なのかもしれない。

 

だが、ルチアが窘めるようにその頭を上からグイ、と押して、

 

 

「シスター・アンジェレネ。異教徒の言葉です。罠の可能性も少しは考慮なさい」

 

 

「す、すみませんっ! でも、あの、この人達がシスター・アニェーゼに会ってるって事は、もしかすると、あっちの方も……」

 

 

「ですからそれも希望の話でしょうっ! 彼らはシスター・アニェーゼと私達の関係を知っています。その上でこちらの食いつきそうな嘘をついているだけなのかもしれないのですよ!」

 

 

グイグイと頭を上から押し続けるルチアに、アンジェレネは身を縮ませながらも、時々チラチラと当麻、そして、その背後にいる詩歌に視線を投げてくる。

 

こうなるんだったら、アニェーゼに手紙でも書いてもらうんだった、と当麻は溜息をつく。

 

だけど、過去の自分を悔いてもどうしようもなく、どうにかして彼女たちを説得しなければならない。

 

さて、どう説得しようかと、悩む当麻の隣でオルソラは口を開いた。

 

 

「では逆に、あなた達は何故私達がここまで来たとお考えでございましょう?」

 

 

「え?」

 

 

「ご懸念の通り、ここは敵の本拠地。私達は見張りを倒してまでここへやってきました。脱走手段が別にあったのにも拘らず、です。あなた方を助ける以外に、そんなリスクを負うメリットがこの部屋にあるのでございましょうか?」

 

 

オルソラは、部屋の隅で山となっている職制者達に1度だけ視線を投げて言った。

 

 

「……、それは」

 

 

ルチアはやや憮然とした調子で口を開くが、考えがまとまらず、言葉は途中で消えてしまう。

 

 

「まさか、あなた達と敵対するためにここまでやってきたと? 放っておいてもダメージはございましたよね。そんな中、わざわざ危険な道のりを経て、アニェーゼさんの名前を使ってまであなた達を助ける理由は、中々想像がつかないのでございますけど」

 

 

ルチアは、山となった職制者達、リスクを冒してまで無力化した男達をチラリと窺う。

 

そして、今度こそ黙る。

 

無理に説得しても説得できない問題ならば、敢えて逆に問いを投げ掛け相手に答えられない状況を作る。

 

上手い駆け引きだ、と当麻は内心で驚いた。

 

こちらは一言も譲歩や言い訳をしていないのに相手を強引に納得させ、こちらの方が立場が上であることを認めさせた。

 

何だかいつも物腰が柔らかなオルソラのやり取りではない気もするが。

 

と、彼女はコソッと耳打ちする感じで、

 

 

「……(異教の地で、主を知らない方々を説得するのが私の仕事でございますから)」

 

 

なるほど。

 

実は命懸けの言葉の応酬こそがオルソラの得意分野なのかもしれない。

 

ルチアは探るように順に当麻、詩歌、オルソラの顔を見た後に言った。

 

 

「助ける価値がないなら素直に見捨てている、と言う訳ですか。……余裕ですね」

 

 

「シスター・ルチアっ!」

 

 

ぶかぶかの袖を動かし、ぐいぐいとアンジェレネが腰の布を引っ張る。

 

幼い同僚の訴えに、ルチアは疲れたような溜息をついて、

 

 

「分かりました、そちらの言い分にも一理ぐらいはあるでしょう。あとシスター・アンジェレネ。太股がすれるのでそれはやめなさいといつも言っているはずです」

 

 

さらりと言われて、何だか当麻の方が顔を逸らしたくなった。

 

女の子同士だとあんまり気にしないんだろうか?

 

思わず顔を赤くして、それからいつもこういう時になると出番の恐妹の様子をこっそり見て、未だにぐて~っとしている事にこっそり胸を撫で下ろす。

 

が、張本人であるルチアはピクリと眉を動かすと、

 

 

「何を想像しましたか?」

 

 

「い、いえ! 何でもありませんの事よ!?」

 

 

折角、背後の爆弾が爆発しなかったのに、これ以上刺激を与える訳にはいかない。

 

当麻は全力で取り繕って、強引に話題を元に戻していく。

 

 

「で、お前ら、具体的にどうやって脱出したんだ? って、まさか必要な道具が没収されてたりとかって話はねーだろうな」

 

 

「だ、大丈夫ですよ。そもそも道具の没収で防げるような術式なら、彼らも同じローマ正教徒の私達にこんな手荒な真似はしなかったと思います……」

 

 

「シスター・アンジェレネ。本気で言っているのなら頭を撫でてあげます」

 

 

ルチアはムクれるアンジェレネを極めて適当にあしらいつつ、当麻達に脱獄方法について説明する。

 

海を泳いだり、救命艇を奪ったりという海上移動では派手過ぎて<女王艦隊>の警備を掻い潜るのは不可能。

 

そして、一度でも気付かれれば、<女王艦隊>に搭載されている弾も台座も全て氷でできている砲台――<聖バルバラの神砲>によって沈められる。

 

<女王艦隊>丸々1隻を奪わなければ海上移動で脱出するのは不可能。

 

だから、彼女達は自分達を縛る拘束服を逆手にとって利用する事にした。

 

本来とは違うルートで魔力を通す事で、全く別の魔術的成果を得る。

 

映画とかであるような、食事の為のスプーンを利用して、牢屋に穴を掘って脱獄するようなものだ。

 

2人はこの氷の壁を少しずつ削って<女王艦隊>の仕組みを調べ、海中に苦手な側面があると発見し、<禁色の楔>という着用者の魔力を吸い取る自動拘束術式の霊装で氷を使った造船術式と同等の効果を発動し、それをさらに応用して、海水を固めた海底コースターを作り上げた。

 

ただし、海底コースターの速度は最大で新幹線と同じ時速300km、摩擦で削れるため平均で時速90km。

 

体感速度だと一体どれほどのものか?

 

どうやってブレーキをするのか?

 

そして、当麻の場合だと右手で海底コースターを壊してしまうのではないのか?

 

何となく不安になってきた当麻に対し、ルチアとアンジェレネの2人は会話を続けている内に楽観的な態度に変わっていき、

 

 

「シスター・ルチア。今度こそシスター・アニェーゼと一緒にここから脱出できるんですね!」

 

 

「可能ならそれで終わりにしたくありませんが、まずはシスター・アニェーゼの保護が最優先でしょう。彼女が動かなければ、他の皆も動く気を起こしませんし」

 

 

おそらく警戒も少しずつ解けているのだろう。

 

2人とも、仕草がどこか大雑把になり、感情も表に出てきている。

 

小さな変化だが隠れた期待感のようなものが伝わってきた。

 

 

「し、シスター・アニェーゼとはいつ合流できるんでしょうね」

 

 

「そう簡単にはいかないでしょう。おそらく、彼女も極秘で動いてくれているのですよ」

 

 

だからこそ、言うべきか迷う。

 

アニェーゼはここには来ない。

 

彼女は確かにルチアとアンジェレネを助けて欲しいとはお願いしたが、自分を助けて欲しいとまでは手を伸ばさなかった。

 

むしろ、そっけなくその手を弾かれた。

 

彼女は、元シスター部隊の象徴的存在として優遇されているから、同じ場所にいたいと願うルチアとアンジェレネの想いはありがた迷惑であると。

 

だから、当麻は、少し悩んだ。

 

2人が少しずつ笑みを見せ始めているからこそ、その光景はどこまでも痛々しかった。

 

人が笑うのは幸せな事のはずなのに。

 

彼女達は悪意からではなく、心からの善意で表情を作っている筈なのに。

 

けれども、ここでいつまでも立ち止まっている訳にはいかない。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

「……、悪い。アニェーゼは、多分来ない」

 

 

当麻が苦々しくもその言葉を吐き出した瞬間、ルチアとアンジェレネの動きがピタリと止まった。

 

それまであった表情が、死ぬ。

 

ようやく芽吹き始めた小さな生命が、無慈悲に踏み潰されたように。

 

 

「何で、ですか?」

 

 

まず最初に、アンジェレネが口を開く。

 

 

「だって、シスター・アニェーゼと会ったんでしょう? 私達を助けて欲しいって、お願いされたんでしょう? そ、そうです。そもそもシスター・アニェーゼはどこにいるんですか?」

 

 

ルチアもまた何も言わないけれど、視線で当麻に訴える。

 

 

「アニェーゼは……」

 

 

当麻は慎重に言葉を選びながら、事実だけを告げる。

 

 

「お前たちを助ける為に、陽動に出るって言ってた。今一番危険なのはお前達だから、助けるならそっちを優先して欲しいって。この、<女王艦隊>……だっけ? その旗艦に行っているらしいけど」

 

 

「そんな……旗艦ですって!?」

 

 

ルチアがギョッとした声を上げ、怒りなのか焦りなのか、元々白い顔からさらに色が抜けていく。

 

 

「冗談ではありません! 私達がどうして自分の身を危険に晒してまで、脱獄なんて方法を考えたと思っているんですか!? それを防ぐためなのですよ! 一番危険なのは誰かって、そんなのシスター・アニェーゼに決まっているじゃないですか!?」

 

 

アンジェレネもまた再び泣きそうな顔に戻り、

 

 

「そもそも、こ、この<女王艦隊>が何をする施設だか、分かっていなかったんですか?」

 

 

「確か……アドリア海周辺を監視するための艦隊なんだっけ?」

 

 

「そちらは建前だとアニェーゼさんは言っていたではありませんか。…ローマ正教にとって不利益を働いた方々に対する、労働施設のような場所だとお聞きしたのでございましたが……」

 

 

「まさか」

 

 

ルチアは、ほとんど息を詰まらせて、

 

 

「……<女王艦隊>は旗艦<アドリア海の女王>に収められた、同盟の大規模術式及び儀式場を守るための護衛戦艦です。私達に課せられた『労働』とは、その下準備なのですよ。たかが監視や労働の目的だけで、これほどの大施設が必要となるはずがないでしょう!」

 

 

『徒労系』という罰の為ではなく、下準備の為の『労働』。

 

アニェーゼがくれた情報とは違う。

 

 

「何だよ……じゃあ、詩歌が最初に言ってたような、対都市国家用の術式の発動のための施設だったのか?」

 

 

ポツリと口から漏れた言葉に、ルチアは当麻の背後にいる詩歌の事をキッと睨みつける。

 

 

「もしかして、あなた。シスター・アニェーゼが<刻限のロザリオ>に使われるって事を知っていたのですか……」

 

 

その目に込められた敵意は先程の比ではない。

 

ルチアは、返答次第で詩歌に掴み掛らんばかりに怒っていた。

 

詩歌は、仮面を取り外すように表情を消して立ち上がり、真正面から見据えながらルチアの問いに答えた。

 

 

「ええ。その<刻限のロザリオ>というのはよく分かりませんが、あなた達が施されようとしていた『加工』よりも、酷い目に遭わされるであろう事が予想がついてました。けれど、今のままで事を起こすのは危険であると判断し、アニェーゼさんは後回しにさせてもらいました」

 

 

『トロッコ問題』。

 

それは、『ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?』という倫理学の思考実験。

 

その実験内容は、『トロッコをこのまま走らせると5人が轢き殺される。向きを変えると1人だけ轢き殺される。向きを変えるべきか?』というもの。

 

つまりは、単純にすれば『5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか』という問題だ。

 

もし、功利主義に基づくなら1人を犠牲にして5人を助けるべきだと主張し、義務論に従えば、誰かを他の目的のために利用すべきではなく、何もするべきではないと答えるだろう。

 

上条詩歌は、今の自分では、ここまで大規模に展開されている一大術式のカギとなるアニェーゼを助けるにはルチアとアンジェレネ、そして、当麻とオルソラを危険な目に遭わせる事になるだろうと推測し、なら逆に、アニェーゼを後回しにすれば、4人共抜け出せるという、と推測した。

 

今のこの現状を『トロッコ問題』に当て嵌めてみると、彼女は、遠くを見据えた者の冷静で冷血の冷徹な功利主義に基づいた判断を選んだと言えるのかもしれない。

 

だが、その判断にアンジェレネは胸を突かれたように声を詰まらせ、ルチアはヒステリックに叫び声を上げた。

 

 

「何故!? そこまで分かっていて、どうしてシスター・アニェーゼを止めなかったんですか!? そもそも、シスター・アニェーゼではなく、あなたが陽動に出るべきじゃなかったんですか!! そこにいるシスター・オルソラを助けに来た時だって、あなたは1人で私達を相手にしたじゃないですか!!」

 

 

それは理不尽な訴えだった。

 

しかし、彼女達は、上条詩歌という存在を恐れたのと同時に、彼女に対し圧倒的な力を振るう神のような畏敬の念を抱いていた。

 

そして、一度決壊した者は自分の意思でもなかなか止められるものではなく。

 

だから、たとえ理不尽な要求だと自覚していても憤りをぶつけられずにはいられなかった。

 

 

「何で、シスター・オルソラの時は助けて、シスター・アニェーゼは見捨てられたの―――「ふざけるな」」

 

 

だが、それを大きく上回る怒りが、その言葉を呑み込んだ。

 

訴えられている上条詩歌ではなく、今まで何も気付いていなかった愚かな素人であった上条当麻が、怒り狂っていた。

 

 

「……なあ、アンタ恥ずかしくないのか。自分よりも年下の女の子に、しかもさっきまで怖がってたくせに都合の良い時だけ助けを求めて情けなくないのか」

 

 

興奮していたルチアが一瞬で怖気づくほど、その灼けつく眼差しには激情が込められていた。

 

 

「強い奴には頼ってもいいとでも思ってるのか。優しい奴には甘えてもいいとでも思っているのか。豊かな奴には貰ってもいいとでも思っているのか。テメェは一体何様だ」

 

 

脅えるように視線を逸らす。

 

当麻にではなく、彼女に助けを求めた自分自身の弱さから。

 

 

「で、でも、それほどの力があるじゃないですか」

 

 

アンジェレネが脅えながらも訴える。

 

だが、上条当麻は容赦しない。

 

 

「詩歌が何の代償も無しに力が使えるって思ってんのかよ! 詩歌が何も考えずにアニェーゼを見逃したと思ってんのかよ! 詩歌は神様なんかじゃねぇ! いつも無茶ばかりしている大馬鹿野郎だ! テメェはそれでも詩歌に1人で戦えっつうのか!!」

 

 

ルチアは唇を噛み締めたまま黙って俯き、アンジェレネは息を呑み、呼吸が上手く出来なくなったように何度も咳き込む。

 

それでも、詩歌に対し縋るような視線を向けている。

 

分かっていた。

 

誰よりも、上条当麻こそが分かっていた。

 

だから―――

 

 

「ありがとう、お兄ちゃん」

 

 

詩歌が、前に出る。

 

いつものように。

 

誰よりも先へ、誰よりも高く。

 

人々の希望や願いを背負う。

 

 

「でもね。そんなに心配しなくても大丈夫だよ。それに、私は私が思うままに行動している。だから、周囲の人間に無理やりやらされているなんて勘違いはしないで」

 

 

そのままアンジェレネの額、硬く戒めている金色のサークレットに触れる。

 

これは、脱獄した2人に追加された『ある一点から一定以上離れられなくなる』効果を秘めた霊装。

 

詩歌は、<幻想投影>で、その構造を理解し、力を投影し、拘束を解除する。

 

 

「あ、ありがとうございましす。助けてくれなかったら、心が破壊されてました。それと……さっきは怖がったりして、……ごめんなさい」

 

 

アンジェレネは、ペコリと頭を下げる。

 

詩歌はその頭を優しく撫でて髪を整えると、今度はルチアの金色のサークレットに触れる。

 

拘束術式が取り外されるとルチアは、折り目正しく詩歌に頭を下げる。

 

そして、詩歌は先程の出来事がなかったかのように話を元に戻す。

 

 

「それから、何もアニェーゼさんを見殺しにする気はありません。私が望むのは皆が笑顔で終われるハッピーエンド。そのためにも、1度ここから離れて、足りないものを揃えなければなりません」

 

 

詩歌は告げる。

 

絶対の自信を込めた力強い笑みと共に。

 

 

「大丈夫。皆が力を合わせればきっとできます」

 

 

その時、

 

 

 

ゴガッ!! と。

 

突然、氷の壁が打ち破られた。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

爆発音と衝撃波。

 

船室にいた面々が、床に投げ出される。

 

氷の壁は外からの衝撃で壊されたらしく、当麻達が離れた一面がガラスのような破片の雨となる。

 

倒れた彼らの上を散弾と化した残骸が恐ろしい速度で通過する。

 

 

「何だよ、今の……ッ!?」

 

 

聴覚が、麻痺する。

 

ヘッドホンを挟んで人の声を聞いているように、音という音が遠ざかっていく錯覚を得る。

 

 

「こ、攻撃!? でもどこからですか……ッ!!」

 

 

アンジェレネが震えた声で言った。

 

彼女は咄嗟に伏せたルチアの下に保護されている。

 

そのルチアの顔にも困惑があった。

 

一体どういう事?

 

この護衛艦は、同じような船に囲まれているのだ。

 

外部からの攻撃なんてありえるはずが………

 

 

「まさか……」

 

 

オルソラがはっと顔を上げる。

 

破壊された壁の向こう――地上5階分の夜景を見る。

 

 

「……これは、同じ味方艦隊から撃たれているのでございますよ!!」

 

 

な、に!?

 

当麻は絶句する。

 

 

「おい、これって自分達の船なんだろ!?」

 

 

数は少ないが、今この船室には職制者がいる。

 

もし、気付かれたのだとしても、仲間がいるのに……!

 

ルチアは苦渋を噛み締めるように顔をしかめる。

 

 

「この護衛艦の素材は海水です。アドリア海が干上がらない限りはいくら壊れた所で修復も造船も問題ありません」

 

 

だが、破壊された氷の壁は一向に修復されない。

 

そして、再び味方艦隊から大量の砲弾が放たれた。

 

 

「―――ッ!?」

 

 

発射音の嵐は、雷のように一瞬遅れてやってきた。

 

当麻が何か行動に移る前に、無数の砲弾が船室のみならず、<女王艦隊>一面を破壊―――

 

 

ゴオッ!! と。

 

破壊された氷の壁の穴をそれが塞ぐ。

 

氷の鎧だ。

 

<女王艦隊>の内部の防衛機能は船室へ降りかかろうとした砲弾をその巨大な体で受け止めた。

 

 

「自動再生機能は切られています。このままだとこの船は沈められます」

 

 

周囲が混乱する中、詩歌は氷の床に掌を乗せていた。

 

 

「でも、好都合です。このままこの船を乗っ取り、この海域から脱出します」

 

 

三度、味方艦隊から砲弾、<聖バルバラの神砲>が放たれる。

 

しかし、その前に<幻想投影>の分析・投影・同調の能力がフル回転する。

 

この<女王艦隊>の歴史・構造・術式の情報を読み出し、切り離された自己再生機能を再起動させる。

 

無数の砲弾が襲い掛かってくるが、瞬時に修復されていく。

 

そのまま<女王艦隊>は砲弾の雨を掻い潜り、何度も何度も修復を繰り返しながら大艦隊から離れていく。

 

 

「す、すごい……」

 

 

「護衛艦一隻をたった1人で……」

 

 

アンジェレネとルチアはこの奇跡に目を見張る。

 

だが、当麻はそんな奇跡よりも詩歌が―――

 

 

 

「―――来ないでください!」

 

 

 

寸前の所で、当麻は立ち止まる。

 

だが今この時、妹がまた馬鹿な事をやっているのは分かった。

 

集団で動かすこの船を、たった1人で動かしている。

 

しかも、旗艦からの魔力供給を断たれた状態で、この破壊の嵐の中を何度も修復しながら全速力で動かしているのだ。

 

たとえ<女王艦隊>の素材である海水が無限にあろうと、生命力までは無限ではない。

 

並の魔術師であったなら、一瞬で枯渇している。

 

当麻の目が、詩歌の顔に脂汗が滲むのを映す。

 

だが、何もできない。

 

今、ここで全ての奇跡を打ち消すこの右手で触れれば船は沈む。

 

そう。

 

上条当麻は抱きしめて支える事さえも許されない。

 

 

「大丈夫でございますか!?」

 

 

オルソラが詩歌の様子に気付き、顔を真っ青にして駆け寄る。

 

ルチアとアンジェレネも気付く。

 

この少女が決して神様ではない事を。

 

 

「くそ……っ!」

 

 

本当は、今すぐに彼女を守ると誓った<幻想殺し>で、この苦しみから解放させてやりたい。

 

でも、当麻は詩歌から視線を逸らした。

 

妹の犠牲を無駄にしない為に、この怒りを誰かにぶつけてしまわないように。

 

しかし、終わりは、やってきた。

 

 

 

 

 

海上

 

 

 

氷の船が、何度も砕かれようとも前進する。

 

そして、周囲の護衛艦を徐々に引き離していく。

 

通常でも、これほどの速度と再生能力はない。

 

 

(一体何が……?)

 

 

本来なら自分の出番はないと思っていた。

 

沈没した船から人員を探り出すだけで良いと思っていたのだが……

 

“海面”に立ち尽くしながら、彼女は仮面の位置を直し、

 

 

「換装、<量産聖愴>」

 

 

何でも貫く『貫通威力』に特化した長槍。

 

この投擲でこそ真価を発揮する<量産聖槍>に、己の魔力を込める。

 

さらに、船までの最短距離を掌握し、海水が宙に浮き、細い線となって直線状に幾重もの魔法陣を構成する。

 

槍の名手だった『パルツィバル』と比べたら力も技量も足りないが、幸い、得意な水のルーンを最大限発揮できる環境を存分に活用し、その高みへ近づける。

 

発動に溜める時間こそ必要だが、その威力は彼の槍にも匹敵する。

 

 

「はあああッ!!」

 

 

青の膜に包まれた<量産聖槍>が海を抉るように巻き上げながら滑空する。

 

そして、次々と水の魔法陣を通過することで、軌道を固定し、加速と共に貫通力を増大させていき、<女王艦隊>の船首から船底にある動力部の核を貫く。

 

さらに、再生させる時間も与えず、

 

 

「換装、<量産湖剣>」

 

 

絶対に破壊されない『耐久硬度』に特化した西洋剣。

 

冷たく光り始める白刃を手に、動力を失い惰性で漂い始めた戦艦へ向けて、足元の表面張力極限にまで高め、水圧を操作して柔軟にし、トランポリンのように柔らかく、そして、天高く跳ね上がる。

 

 

「―――はッ」

 

 

一呼吸。

 

そして、<量産湖剣>に魔力を込めながら、そのまま自由落下。

 

落下に身を任せ、甲板へ着地する刹那―――青の光を纏った西洋剣を、激しく振り落とした。

 

衝突の瞬間に、<量産湖剣>を振り下ろして落下の衝撃を完全に逃がす―――落下の衝撃を自身の破壊力へ加算させる。

 

普通なら衝撃に耐えきれず剣が折れるが、この<量産湖剣>は『絶対に刃毀れしない』西洋剣を忠実にモデルにしたもの。

 

氷などでは妨げにはならず、折れる事もなく曲がる事もなく欠ける事もなく、さらに、衝撃波が深々と―――止めを刺した。

 

氷の船は、仮面の騎士によって容赦なく打ち砕かれた。

 

 

 

つづく


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