とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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大覇星祭編 七難八苦

大覇星祭編 七難八苦

 

 

 

 ―――傷つき、嘆き、絶望し、消えない悔いに打ちひしがれ………

 

 

第二学区 荒れ地

 

 

 瓦礫が、宙に集合する。

 その甚大な電磁力に任せ、持ち上げた瓦礫の山の集合体の総重は、低層のビルほどもある質量で、それがそのままひとつに固めまとめて、白ジャージ男へと雪崩落ちた。

 速度はまだしも、これほどの面積と物量による打撃となれば、回避も防御もままならぬ、

 途轍もない衝撃が、この土地一帯を揺るがした。

 しかし、

 

「……塵も積もれば山になる、か。本当に山を作っちまうとはスゲーな。だが、俺をそんじょそこらの根性無しとは思うなよ」

 

 ならば、その漢は、力は山を抜き、気は世を覆う、というに相応しいだろう。

 いまだ塵煙のおさまらぬ瓦礫の下から、その声はしたのだ。

 そして、徐々に『山』は持ち上げられようとしている。

 超能力から逸脱した力で集めた『山』が、そのままの形でゆっくりと上昇したのだ。

 その真下で、削板軍覇は余裕に、片手をあげているきりだった。掛け値なしにビルにも匹敵する質量を、ただ片手で第七位は支えているのであった。

 

「ちょっと道を踏み外して悪ぶってるだけなら、根性さえ注入すりゃあ―――」

 

 削板軍覇は相手が何であれ、女子供に基本的に本気では拳を振るわない。

 が、『壊れたテレビは叩けば直る』という原始的理論で根性(物理)の喝入れはする。

 

「すごいドッジボール!」

 

 持ち上げた『山』が、そのまま投擲される!

 その速度たるや、優に時速百数十を超えた。加えて低層ビルに匹敵する巨大な質量。戦車砲――いいや、列車砲にも達する純粋な運動エネルギーが、雷神を包み隠す黒の積乱雲の如き渦へと激突した。

 量産型能力者改の周囲を巡る防衛網は、そのエネルギーを相殺しきれず、ほんの一瞬霞んだ。

 一瞬だけ。

 今、雷神と化した量産型能力者改の周囲を護り、成長途中の姿を隠す繭でもある渦は、砂鉄にAIM拡散力場が溶け込んで融合したモノ。土地から無尽蔵に供出できる砂鉄に、その身から溢れる暴走した膨大な力。

 と、瓦礫の影を縫って、新たな影が飛びこんだのだ。

 削板軍覇が。

 

「すごいパンチラッシュ!」

 

 吼えて、超人的な脚力のフットワークで、無理矢理雷神へ接近し、拳を放った。

 一発だけで止まらず、打ちつけた拳を支点として、身体ごとタービンの如く捻り込む。

 渾身のラッシュ。その都度、砂鉄の渦が震撼し、渦の回転に歯止めをかける。

 まさしく彗星にも匹敵する一撃が、測定不能の謎の念動力さえ篭められて、立て続けに雷神の防御を抉っているのだ。その破壊速度は早すぎて、渦の形成が間に合わない。

 なすすべもなく、軍覇の拳は黒雲を打ち払うかのように雷神の周囲に展開された砂鉄の渦を打ち砕いた。

 例え機関砲やロケット弾でさえも凌ぐであろう、雷神の砂鉄の渦が、ただひとりの拳をもって破られたのである。

 あまりにも原始的な、だからこそこの超自然をも打ち砕く、気合の拳。

 個人で一軍隊を相手取れるとも言われる超能力者。実際に、現代兵器を上回る運動エネルギーが、その拳には秘められているのだ

 そして、渦の中の異形と化しつつあるLevel5.2の雷神がその姿を現し、

 

「へへ、外なのにそんなところに引き籠ってから―――と」

 

 第二学区、その場にたった路面の土台となった鋼とアスファルトが紙のように引き裂け、次の瞬間、蛇の如き影が湧いた。

 それが万物を貫く錆釘の放射だと見抜くより先に、削板軍覇は雷神の傍から後退した。

 怒涛に肌を舐めるように掠らされる中、目線は離さず、アスファルトへ転がる。

 こめかみや頬に擦過傷ができるのも構わず、無理矢理膝をついて起き上がり、そこへ追ってくる錆釘の奔流。先の、ただの瓦礫の山とは違う。負の感情が暴走したAIM拡散力場が溶け込んだ、其々一つ一つが建物を破壊するほどの威力があるだろう。それが真正面から視界を全て覆うほど展開されては流石に避けようがない。そして、鋭利な先を受け止めることも出来ない。

 故に第七位は―――殴り返した。

 

「超すごいパンチガードガードガァァーーードッッ!!!!!」

 

 一喝、削板軍覇の拳は濁流を撃ち弾くかのように錆釘の怒涛を打ち砕く。

 しかもただ砕いたのではない。

 真正面全ての錆釘に対し、辺り一面を吹き飛ばす拳で応戦し、謎の蜃気楼――念動力の壁を津波として起こしたのだ。

 

「―――ぬっ!」

 

 蜃気楼の大波に呑みこまれ―――なおも錆釘はとまらない。重ねた紙を突き破るように、複数枚の念動力の壁を錆釘は貫き、そして、その釘芯の長さは徐々に伸びている気配さえある。

 最初に牽制で刺してきた五寸釘(約15cm)のサイズから、倍々に釘芯の長さを増していき、既に1mを超えているのだから目の錯覚とは済まされない。

 そして、ついに―――拳で打ち払うに間に合わなかった一本が身体を貫き、勢いよく後方に吹き飛ばされて、瓦礫の壁に縫い止めた。

 

「■■」

 

 雷神の黒眼球の視線が、すうと横へ流れる。

 すると、螺旋の溝が生まれ、ぎゅるりと釘が捻じれた。

 

「く、お……っ!」

 

 右肩に突き刺さった釘は、肉を巻き込んで回転し、削板軍覇が悶絶する。

 

「なっさけねー油断したぞオイ―――が、まだまだァ!!」

 

 痛みに怯みならも、第七位は動いた。

 自分の肩口に突き刺さった釘を更に抉り込むようにして、その拳を振るう。謎の蜃気楼を塊として相手に飛ばす。

 超能力者序列第七位にして、世界最大の<原石>の、解析不能の力が込められた一撃。

 

 が、それが、放たれる前に。

 

「■■■」

 

 量産型能力者改が、先の第三位と比べて刃のようなそれから先が三つに尖った――海の漁で使われる三叉の銛のような――その腕を振るった。

 錆釘がアンテナとなって、その命令を受信したのか。

 身体から突き出た錆釘も、それにつれて流れた。

 拳を繰り出すフォームが崩され、<第七位(ナンバーセブン)>の一撃は彼方へ大きく外れて、

 ぐぎゅ、と肉のこすれる嫌な音を立てて、第七位は地面へ投げ飛ばされる。

 

「軍覇―――っ!!

 

 上条当麻は帰ってきて、状況を見て咄嗟に、駆け付け軍覇の身体を受け止めていた。

 一瞬頭をよぎったほどの衝撃ではなかった。あれだけ超人的な動きを見せながら、体重は自分とほとんど変わらない。

 それでも男子学生ひとりを受ければ、愚兄も蹈鞴を踏み―――そこへ、雷神のもう片方の腕が容赦なく獲物二人いっぺんに射抜こうと一気に伸長し―――

 

「こ、の……っ!」

 

 最初のとは大きさも強度も違う、雷神の釘銛の手。しかも、ひとり抱えて愚兄の態勢も崩れている。

 それでも、右手は一瞬受け止めて、抉られながらもその方向を逸らすことはできた。

 

「トウマ! 無事かっ!」

 

「大丈夫だ。というか、お前もやられてるな。ひとりで相手させて悪かったな」

 

「問題ねぇよ。根性入れりゃ血は止まるし骨だってくっつく。それより第三位と話は終わったのか?」

 

「一応な……けど」

 

「ああ、こりゃ根性入れねーとヤベェぞ」

 

 強くなってきている。

 時間の経過とともに、だんだんと相手の力は増して、目覚め始めている。

 

「■■―――■■■」

 

 ぬらり、と。

 少女の顔が映画のモーフィングを連想させて、泥をかき混ぜるように、少女の顔は―――また“同じ顔をした別の少女”のモノと変じていた。

 <ミサカネットワーク>――『大いなるミサカ』の“負の感情”が表面化されてきており、最終的に、もはや少女の顔はなくなった。

 どろどろと黒色に流動する、のっぺらぼう。その頭上に角のように黒い避雷針が立つ。

 

 

 “Radio-noise(Fulltuning Plus)”Level[Phase] 5.3。

 

 

 相手は、あと少しで『門』を開く段階にまで達した。

 

 

第二学区 下水道

 

 

 あと少しだというのに……っ。

 

 

「人形ではなく、今度は本体で間違いないようだな警策看取」

 

 周囲の監視カメラを掌握された外。建物の中に突入した能力不明の相手。地下に身を隠していた警策。

 鹵獲した中継用カメラで見たとおりで、直接見えるても、その年の程は自分と大差ないだろうが、その石刀でコンクリートを破砕する膂力をもった褐色肌の少女。一撃でも喰らえば助からない相手が、この逃げ場のない袋小路に現れた。

 

(<木原>のお子様もヤバいけど、こっちは何の能力かもわからない……っ)

 

 最初、カメラで観た姿は、大人の男性。警策も仕掛けるまでは半信半疑であったほどの、あの“変装”で、こちらの警備をすり抜けてきたのだろう。

 だとすれば、彼女は空間移動系能力者よりも稀少な<生体変化(メタモルフォーゼ)>―――しかし、こちらの奇襲を避けた際の超人的な運動能力は、<身体強化>系の能力でもなければ説明が付かない。

 

(こんな相手。できれば避けておきたかったんだケド……)

 

 こちらの武器は、半分衣装合わせのアクセサリみたいな馬鞭を除けば、殺傷力のあるのは刀身の射出可能なスペツナズナイフがひとつと、投擲用のナイフ。

 警策看取自身の戦闘能力は、場馴れしているとはいえ護身術に毛が生えた程度。

 そして、<液化人影(リキッドシャドウ)>は地上で固められ、すぐに呼び戻すことは不可能。

 

(下水道に逃れたのは身を隠す為ってだけじゃない!! 万が一に敵に追い詰められたときに備えて有利な位置を陣取った!!)

 

 相手の武器と呼べるのは、原始的な石刀のみ。黒曜石という鉱物を材料にした奇怪な刃物もあったが、そっちは砕かれて使い物にならない。

 銃器を隠し持っている様子もなく、相手は近接戦の間合いに詰めなければならない。

 この地下下水道の暗さ。目がまだ慣れていない相手には、正確な距離感は掴めないはず。迂闊には踏み入れない。

 そして、袋小路というのは同時に、相手は直線にしか迫れない。いくら速かろうが、真っすぐ(ストレート)しか来れないとわかっているなら、いける。

 主導権はこちらにある。

 この背水の陣のピンチをチャンスに変えて、復讐を果たす。

 

「私の<液化人影>は、比重20以上の液体を自在に操る能力。私と同じ人型(モデル)じゃないとうまく動かせないケド……っ! ちょっと無理をすればこんな芸当もできるわよっ!」

 

 排水物が溶け込みドロドロに濁った下水に、突然、下から突き上げたように波が立ち、両者間の視界を覆い潰した。

 できるのなら、相手を呑みこんでしまいたかったが、如何に清浄な水よりも比重は大きいとはいえ下水でそれほどの量を動かせないし、形も人間サイズでないと精密操作は無理だ。

 それでも、これで先手は取れて、相手から警策の姿が隠れた。

 この動揺を逃さないと、相手に向けて投擲用のナイフを放る。

 

「泥水を啜ってでも、私はこの復讐を果たす! アナタ達の『覚悟』とは違う……ッ!」

 

 この狭い路地で、躱すにもその石刀を盾にするも、一本目のナイフは牽制。

 本命は、二本目。スペツナズナイフを、態勢が崩れるその瞬間に刺し止める。

 

「これは、経験談だが」

 

 褐色肌の少女は、真っすぐに。

 汚臭漂う下水道の汚水を頭から浴びても。

 投擲したナイフをその手の平で受けて刺されても。

 少しも怯まず、避けもせず―――どころか、その武器の石刀をこちらにブン投げてきた。

 

(しま……ッ、反応が遅―――)

 

 あんな鈍器が脳天にでも直撃すれば気絶は免れないし、ナイフで切れるわけもない。

 咄嗟に身を屈んでしまい、その間に、警策の懐に入られた。こちらに達するや、ナイフを握った腕を取られ、手首を捕まえられた。重心を前寄りに保ち、体重をかけて反撃が阻止される。押し込まれ、ナイフの刃ではなく、捻ってから柄で警策の肺臓を突かれた。

 

「はぶッ……がはッ……」

 

 手首を取った手を滑らせ、スペツナズナイフの刀身発射のボタンが押され、下水の中へ刃は吸い込まれていった。

 

「いくら緻密に組もうが復讐は、馬鹿に振り回されてしまえば、案外呆気ないぞ」

 

 そう言って、ショチトルは警策の顎を掌底で突き上げた。警策は目を剥き、天井を仰ぎ、背中から倒れた。

 

 

 “ドリー……”

 

 

 だが、それでも意識だけは手放さない。絶対に。

 

 

第八学区 秘密基地

 

 

 <スタディ>を率いていた有富は、音波遮断機能を備えた部屋にまで震わせてくる<キャパシティダウン>の雑音が、ふと止んだ時、迷いに迷っていた。

 彼らが研究室から動かなかったのは、生贄の材料とされても貴重な素体を守る意図あってのことではなく、単純に有富自身が迷いを抱え、動けずにいたからであった。

 自分達<スタディ>の取り決めは多数決であり、常ならばみんなが多数の利で下されたものなら従うことに躊躇うことはなかった。それはリーダーの意見に反対するモノであっても変わらないし、自分を特別扱いするつもりはない。皆が等しく同士である。

 

 だが、今の有富には迷いが生じている。他でもない、<木原>に対する嫌悪に不審が原因であった。

 『信用することなどできない、<人造能力者>だけでなく、僕たちも使い潰される』と感情面だけでなく、これまであの一族のやり方を知っていれば当然考えつくものだと有富春樹は危険性を訴えた。

 それでも、リスクを冒してでも状況を打開し、ここから再び這い上がるには<木原>の下に就くしかない、そう言って小佐古らは行ってしまった。

 軽率な決断は後日に悔いを残すことになるかもしれないんだぞ、と引き留めようとしても、自分にある<木原>への忌避感を突かれてしまえば口を噤むしかない。第三者から見ても今の有富春樹は稚拙だとは理解していたからだ。

 彼女は木原幻生ではなく、そして、木原幻生と敵対している。ならば、目的を共有し合えるという小佐古の考えももっともで。けれど、そのためにはこれまで積み上げたもの全てを捧げなければならない。

 迷いは迷いを生み、戸惑いは戸惑いを加速させる。疑心暗鬼の胸の内は、乱れに乱れる。やがて駆動鎧に乗り込んだ小佐古達の戦闘音を耳にしながらも、何の救援もしなかったのは、何をするべきか何がしたいのか全く分からなくなっていたからであった。

 

 いつまでも結論が付かず脳裏で繰り返される己と己の対話を不意に消えたのは、建物全体に響き渡っていた雑音が止んだその時だった。

 能力者との戦闘さえ終われば騒音でしかない<キャパシティダウン>は事が済めば電源を消すのは何ら不思議ではない。だが、それを破壊された可能性もある。何が起きたにせよ、無視することはできない。有富は桜井と、監視カメラはないが警備ロボットを巡回させているこの建物のセキュリティと接続してある媒体から情報を得ようとした。迷い続ける自分らに嫌気が差し、行動による停滞の打破を目論んだ、という面も少なからずあっただろう。

 そして―――

 

 

「いた!! あの子だ!!」

 

 

 研究室に踏み込んでくるふたつの足音。

 聞き慣れないリズムで、去っていった<スタディ>の誰のものでもない。それでも帰って来てくれたのかもしれない、と桜井が伏せていた顔をあげてドアの方を見たが、落胆の吐息がこぼれおちる。

 そこには、見知らぬもの。何かを背負った女子学生と、白い修道服を着た少女。

 

「だれ、なの……あなた達」

 

 予期せぬ光景に凍りついて、頭の回転も鈍い。

 木原幻生から刺客が送り込まれる可能性はあった。それに備えるために駆動鎧等の武器が与えられた。

 それを考慮に入れながら、この少女二人が秘密基地を襲撃した刺客ではない、<木原>の関係者ではない事を何故か確信していた。非戦闘職を専門としていたとはいえ、それなりに暗部に潜っていたのだから、自然と一般人との見分け方が付いたのかもしれない。もし、そのとぼけた顔が演技であるなら大した役者であるが。

 

「え、あれは、<人造能力者>の―――どうして―――」

 

 しかし、彼女らは<スタディ>の研究成果と酷似したものを持っていた。桜井のように何かシステムに異常か不備があったのかと疑うべきなのだろうが、焦慮が昂じて試験体以外は目に入らない視野狭窄を有富は起こしていた。自分らの下ではなく誰とも知らぬ他人の手にそれがいるのが有富は気に食わなかった。

 そして、少女二人が、あの<木原>の二人に置き換わった映像が脳に想像されて。

 

「―――先生! 助けてください!」

 

 誰か、応援を――いや、先生ということは、木原幻生かあの女――を呼んだのか。

 

「もう、限界だ……誰かの手に渡るくらいならいっそ……」

 

 患者が衝撃を受けるのは病気で死に直面した時よりも、余命を告げられた時であり、それに死刑囚が最も取り乱すのは刑が確定したその時だ、と。

 

 3日後で死ぬ。3ヶ月後で死ぬ。3年後に死ぬ。

 期間でいえば大違いだが、どちらも『終わり』というゴールが決められている。

 

 しかも自分ではない誰かの意思によって。ましてや、30分後。

 

 ならば、どうあがいても実験成果が終わるのに変わりないのなら、今、自分の作品を自分の手で幕を下ろそうと変わりはない。

 

「<木原>が……また嘲笑って……『人造能力者』計画は夏休みの工作なんかじゃない! くそ、『ジャーニー』と『フェブリ』を<体晶>なんかで台無しにしやがって……くそくそっ」

 

 システムは暴走している。

 無理に接続を断てば、『フェブリ』も『ジャーニー』も死ぬ。

 それだけでは済まない。

 自壊せず途中で制御を放れてしまえば、充満したAIM拡散力場の連鎖崩壊で、学園都市は壊滅するだろう。

 だが、構うものか。

 実験動物にすらなれない自分達には、研究者として失敗してしまえばもう先はないのだから。

 先刻来、終止符を打つに躊躇い、迷い続けていたことで鬱憤がつのり、緊張の糸が限界にまで張り詰めて切れそうだった。その一押しが目の前に現れたのだ。今更懊悩の迷宮に舞い戻ることはできなかった。

 

「これ以上、<木原>の思うままになど、させてたまるかっ!」

 

 

 

 プツ―――――ン、と。

 照明や液晶の光が消えて、警告のアラームが発する。

 

(え? え?? なになに?!?)

 

 当然と言えば当然のことだが、この時、佐天涙子は何が起きたのか、もっと言えば今何か起きているのか、第二学区で中心となって起きている事の、そのほとんどを把握していなかった。

 故に、この背負った幼女のエクトプラズマー? と同じ顔をした双子を見つけて、まずは安堵して、次に“先生”を見つけて歓喜した。その格好――医者と(研究者も)同じ白衣を着た年上っぽい頭のよさそうな雰囲気を醸し出しているインテリ系の男女が、その子たちの前にいるのを見て、医者の卵なのかも! と期待したのだ。そして一刻もないこの子の容体を色々と言葉を端折ってとにかくすぐ診てほしいと―――ただそれだけしかなかった。追い詰められて苛まれる焦慮や、彼らの間にたゆたう不審、そう言ったものを全く見抜いてなどなかったからの嘆願であったのである。

 

「有富君、何を……っ!?」

 

 だが、結果として、佐天の嘆願は事態を、というより有富個人を大きく動かす契機となった。

 桜井がリーダーのその行為に血相を変えた。青褪めた顔色は、桜井が予測したであろう取り返しのつかない事態を、これ以上ないくらい正確に代弁する形となって、佐天も空気を読んで眉を顰めた。

 その中で、有富は―――

 

「ふ、く、かははははッ! どうだ、これでどうだ……貴様らも道連れだぞ、<木原>ッ!」

 

 高らかに笑っていた。激怒と、愉悦と、納得と。常ならば到底混ざり合わない幾つもの感情を溶け合わせた哄笑は、聞く者の背に怖気を走らせる。

 そう、有富は一瞬で、現状を理解した。理解したと思った。

 <キャパシティダウン>が途絶えたのは潰されたから、そして先行していた木原幻生の飼い犬が此処を見つけて、すぐそこにいる主を呼んだのだ。しかし、聊か素人に過ぎる少女が口にしてしまった『先生』という言動こそが、木原幻生の所在を証明してしまった!

 

「よくおめおめと僕の前に現せたものだなっ! だがもう遅い! どうせ貴様は、<学究会>はたかが子供のお遊戯の発表会でしかないとでも思ってるんだろうが、僕たち<スタディ>、学園都市で真に最優秀の研究者たちが知の限りを尽くした研究成果はお前ら老害の計画よりも早く学園都市を破滅させる!」

 

 ……有富が冷静さを保っていれば、この推理に多くの矛盾と少女が呼びかけた『先生』とは自分自身であることに気付いたであろう。だが、有富はこれは正解だと信じ込んだ。そして、好機を逃すまいと即断実行に移したのだ。

 実際にはそれは大きく的外れで、誤解が呼んだ誤解が状況を混乱にし、事態をより煩雑――というより、滑稽にしてしまったが、セリフをかわす役者たちは、もはやこの笑劇を笑劇として捉えられていないだろうし、自らの思惑と限られた情報の中で、最善と思える判断を下そうとするに精一杯である。

 

「い、一体何をしたんですか!?! この子たちは―――」

 

「ハッ、この程度も理解できない下っ端に教える必要はないッ!」

 

 甲高い声は金属を引っ掻く音にも似て、聞く者の耳朶を責め立てる。激昂に遮られた佐天は思わずという感じで眉根を寄せて口を閉ざした。

 それを見て、相手が自分の威に怯んだとでも思ったのか、有富は寸前までの激昂が嘘のように、静かな面持ちで、満足げにうなづいた。……それでも手の震えは止まらない。

 

「どうせ、すぐに、終わるんだ。の、残された時間……怯えながら死んでいけ!!」

 

 引き出しから拳銃を取り出し、側頭部に銃口を当てる。

 震えながらも、これから起きる破滅に巻き込まれるよりはマシで、この先に何も望みはないと引き金に指をかけた。これまでの人生を終わらせるために。

 だが、ここまで無言を通していたインデックスが、これ以上は主に仕える者として見るに咎めてというように、有富の機先を制した。といっても、ただ前に進み出ただけである。

 そう、舞台に上がるよう、皆の注目を集めるこの上ないタイミングで。

 

 

 

「その子たちは、治せるよ」

 

 修道女として迷える子羊を導くように、堂々とインデックスは口に開いた。

 さほど張り上げて呼びかけたわけではないが、その声はよく通る。

 この場にいる全員が熱くなっている時に、なってしまう状況に、一人逆に冷めていた。

 落ちついて。

 けして、熱くならず。

 こんな時だからこそ、知恵しかない自分は冷静に徹するべきなのだと、彼女は知っている。そう、最も幼い容姿をしていても、他三人を合わせてもその倍以上に場数を踏んでいる熟達者だ。

 勝手に自分らを他所の誰かと勘違いして、それが正しいと思いこんでいる。そして幼女――『ケミカロイド』という子に執着する姿勢と、それを壊す有り様、今垣間見せた感情の落差を鑑みても、目の前の相手――有富春樹の心の均衡がすでに崩れていることをインデックスは悟った。

 だが、この迷盲の人物が、完全に狂ってしまったと断じることはインデックスにはできなかった。

 自分達を勘違いしているとはいえ八つ当たりにも等しいのだが、矛先を向けられるのはその背後にあり、余計な中継を挟む心理的な距離があっても、その顔に浮かぶ明確な悪意、

 悪意は相手があってこそのもの、彼は未だ誰かを憎むだけの理性は保っているとも言える。

 では、その悪意が向けられた人物は誰なのか。それは彼の話を聞けばはっきり示されている。キハラという、そして、それがこの子たちが毒に冒される原因を作った。

 

 その状況を打開させる言葉は、けして嘘のつもりはない。

 

 封じ込められた琥珀のように、試験管内に浮かぶ瓜二つの双子。

 インデックスは科学については知らないが、その双子――『ケミカロイド』とかいうのは、魔術における『フラスコの中の小人(ホムンクルス)』、<魔術生命体>に当て嵌まるという推測を立てた。

 <魔術生命体>は、一体辺りにかかる製造に維持コストが高く、自然界に適応できない種も多く寿命も不安定であるなど色々と問題が多すぎてジャンルとしたらマイナーであるが、魔術大国のイギリス、そのインデックスも属する魔女狩り専門部隊<必要悪の教会(ネセサリウス)>にそれ専門の研究施設はあり、<禁書目録>には当然、<魔術生命体>の知識を納めている。

 そして、魔術にも人体に危険な毒素を扱う儀式が横行していたが、ならば、いざという事態のためにその体中に溜まった毒素を“抜く”解毒法も当然開発されている。

 それも、そう難しい作業ではないし、魔力も必要としない技術である。

 先の推測通りと行くのならば、この研究室――魔術で言う工房には、『ケミカロイド』を調整する試薬や器具が揃っているはず。

 現代の魔術業界の材料は、わざわざ特定の土地でしか栽培できず神秘の宿った魔草等を用意せずとも、類似できるほど似た意味と形を持つのなら適用でき、そのためコンビニで大抵の儀式に必要なものすべて揃えられるのだ。

 それが何であるかどのような効用があるのかと欠けた知識を埋め、自らの図書館とうまく適応させられれば、この子らの症状も治療できると踏んでいる。

 『ケミカロイド』は人間と異なり脆弱であるが、その分だけ身体には柔軟性がある。多少乱暴な治療にも耐えられるだろう。

 間に合わせの応急処置で、完治は望めないけれど、愚兄の右手や賢妹の才能に頼らなくても、よくお世話になっているカエル顔の先生に見せるまでは保たせる自信がインデックスにはある。

 ただ―――

 

「ジャーニーとフェブリ。その双子の遊離した魂魄はここにあって、毒の影響を受けてない。きっと避難させてたんだろうね。必死に生きるために。だから、身体さえ治せば……」

「―――できないわよそんなのっ!」

 

 ヒステリックに叫ぶ桜井。

 その眼鏡の奥の目を眇めて、そんな与太話など聞く余地もないとインデックスを否定する。

 

「<能力体結晶>の暴走状態から元に戻すなんてことがそう簡単にできるはずがない! 大体ね、もう遅いのよ!」

 

 ……ただ、当然、インデックスの科学知識の穴を補間するために、是非とも彼ら有富春樹と桜井純らの専門家の助援が必要だった。

 だが、貸してくれるだろうか。

 この魔術をオカルトといい、神の奇蹟も単なる偶然と済まされてしまうこの街の住人に、インデックスの言はひどく弱い。

 愚兄も最初は頭ごなしに否定されて、賢妹でさえも半信半疑であった。それを赤の他人の、それも疑われている状態で、信じろ、だなんて通じるわけがない。

 

 

「修道士か何だか知らないけど、今更神様に祈ったって誰も助かりはしないんだから!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 時計の針は止まらず終局に向かって動き続ける戦況。

 それを阻まんと力を尽くす者たちは多いが。

 その手を伸ばす者は多いが。

 黒幕が張り巡らせた計画は、そして、度重なる不幸は、それらすべてを遠ざける。

 故に、世界はここに天上の意思は『門』を開け、終焉を迎え………迎え?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二学区 荒れ地

 

 

「我に七難八苦を与えたまえ、と月に祈ったことはないんだけどな」

 

 この現状に上条当麻はぼやくように言う。

 

「? なんだ、それ?」

 

 不思議そうな顔で首を傾げる軍覇に、愚兄の方もただ過去の武将が残した有名なセリフというだけしか知らないが、どうせこの状況で抗議できる余裕もないし、知り得る限りのことを適当かつ簡潔に説明する。そもそも、彼は第七位の超能力者で、愚兄の知る超能力者は皆頭が良いと思っていたが何事にも例外もあるものだなと考えつつ。

 すると、軍覇はなにやら感心したように何度も頷いた。

 

「うむ、そいつはきっとすごい根性のある奴だ」

 

「なんでだよ」

 

「苦難なんて求めないでも降りかかってくるものだが、何もしないでいたら、それはただ運が悪いとか、日ごろの行いが悪いとか、根性がないとか―――」

 

 最後の部分は語調が強めに。

 

「とにかく否定的に受け止めざるを得ないからな。だが、自ら求めたものなら、どんな苦難、災いも正面から受け止められるだろう。しかも、それを凌いだ末に願掛けをしておけば、願いごとも叶って万々歳。うむ、今度から俺もそう言うとしよう」

 

 人生に苦難はつきもの。どうせ避けられないものならば、自ら望むことでその苦難を前向きに受け止めよう。

 そう決意するも、苦難はそう怯むわけはない。

 打ち付けるように、雷神は右手を振った。

 すると、愚兄と第七位が両者背中合わせで打ち払ったはずの錆釘の群れは、それ自体が意思をもつ如く、地面に根を張り溶け込み、次の瞬間には十数倍に分裂して、それぞれが異なる方向と捩じれをもって、当麻と軍覇へ襲い掛かったのである。

 あるものは地面へもぐり、あるものは蛇のように円を描きながら後背を狙い。またあるものは空から豪雨となって降り注いだ。

 蜘蛛の網にも似た錆釘の包囲網を、防ぎえるものは果たして存在するか。

 

「ハイパーエキセントリックウルトラグレートギガエクストリームもっかいハイパー―――「長い!? 魔術師でも戦闘中にそんな長いセリフを言う奴はいねぇよ!」」

 

 あまりに悠長に溜めるのが、歯止めをかける愚兄。

 すると、意見が通ったのかうむ、と頷くと。

 

「―――超すごいパァァンチ!」

 

 その一撃は、雷神でも錆釘でもなく、足下の地面を打った。

 アスファルトが円状に捲れ上がり、クレーターを創り出す。瓦礫と粉塵とが錆釘の魔手から二人を隠したまま、反作用で軍覇、それと襟を掴んだ当麻の身体は大きく跳ね跳んだ。

 そのまま10m近くも跳んで、

 

「―――っ!」

 

 しかし、目を剥いた。地中から砂鉄を全て掘り尽くしたと言わんばかりの、地上で黒い大津波がこちらの跳躍と同じ速度で迫ってきたのだ。ほとんどロケットじみた勢いの跳躍に、雷神は余裕に反応してみせた。

 

「俺を回せ!」

 

 愚兄の左腕を掴んだまま、第七位は空中でジャイアントスイング、その遠心のままに愚兄は力任せの右のバックハンドブロー。

 空気を灼くほどの速さで振るわれた右手の裏拳は砂鉄の大津波を薙いで、霧散。

 

「やっぱ、おもしれーなその右手」

 

「あの釘以外には何とか通用してるみたいだが、その釘が大量に刺してくるんじゃ、近づくのもままならないな」

 

「アレは濃縮されたエネルギーの塊みたいな感じだが、“それがわかるだけでまだマシだ”。そろそろ、『理解』できねぇモンが来そうだな」

 

 二人がかりでも防戦一方。

 

「■■■■―――■■■」

 

 釘人形とでも呼ぶべき異形の雷神は、錆びた鉄を擦り合わせるか如き声で、鳴いている。

 邪魔されながらも、順調に―――黒の避雷針の先に再び『門』が開こうとする。

 

「……ああ、あいつの様子が変わってるのは気付いてる。さっき詩歌の後輩が頭に入れてくれた目論見が上手くいったのかは知らないが、力を抑えられてねーみたいだ」

 

「ありゃあどっか“別の世界と繋がってる”。完全に開いちまったら、これまでとは別物のヤバさだな」

 

 現状でも、劣勢。削板軍覇も先の一撃を受けて身体を大きく蝕んでいる。こうして佇んでいても、釘を刺された右肩は灼熱が骨の髄まで炙り尽くすようだ。上条当麻もまた痛覚はないものの、その幾度も錆釘と衝突した右拳は血塗れである。

 

「どうするトウマ。特攻でもかますか。俺が身体を張った自爆技でならアイツを抑え込むことくらいはできるかもしれん」

 

 これまで死線で組んでも未だに測りかねる<第七位>であるが、この男がそういうのならば、できるのだろう。行動は無茶苦茶であるが、言ったからには必ず果たそうとする、有言実行の男だ。

 そして、上条当麻もこの右腕一本を失おうが、<幻想殺し>で『門』を打ち消せるのなら、構わず捨て身で突っ込もう。

 だが、

 

「……まだだ」

 

「ん」

 

「ここで逃げるつもりはねぇ。すぐ後ろには大事な者がいる。だから、状況が飲み込めてないから最善手が何か判断つかねーけど、ここで退く選択肢は俺にはない。俺の手でなんとかできるのならそうしたい。

 けどよ。一か八かの賭けに出るには、“役者が揃ってねーだろ”」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――傷つき、嘆き、絶望し、消えない悔いに打ちひしがれ。

 

 

 どうして“戦場(そっち)”へ行くのよ。

 早く、逃げて。―――はまだ、急いで病院に送れば助かるかもしれない。

 なのにどうして、何よりも彼が大事にしている少女を放置して背中を向けるのか。

 

 

 “何一つ失うことなく、みんなで笑って帰るのが俺たちの夢だからな”

 

 

 ちゃんと彼女を見てんの!? とその愚兄の言に突っかかるほど言いさそうとして、美琴は驚きに言葉を失った。

 つい今しがたまで、上条詩歌の腹部の傷からとめどなく溢れ出ていた鮮血が、いつの間にかぴたりと止まっている。おそるおそる破れた着衣の切れ目に指を入れると、血糊はべったり濡れてこそいたが、滑らかな肌には刺し傷など痕跡すら見当たらない。極度な興奮から多量のアドレナリン分泌が出血を止める話は聞いたことがあるが、傷口が癒着するなんてことはない筈だ。

 

 幼馴染は大抵の荒事には傷一つ負わずに納めてしまう。

 それは彼女自身の高い回避能力もあるのだろうが、単純に怪我の治りも早いのだ。

 

 『実験』の時も、第一位の引き分けて負った傷は重傷と呼べるものであり、なのに感知もさせずに第四位と戦闘を繰り広げておきながら、予定されていた治療期間よりも早く退院した回復力。詩歌の新陳代謝は、医者が太鼓判を押すほどで、美琴も人並み外れていると思っている。

 だが、間違いなく危篤状態であったさっきの今で、血色を失い青白かった頬も健康な桜色へと戻っている。

 ここまで異常なものだったろうか?

 いっそ幻覚だったと言われれば信じてしまいそうだが、そうではないことを美琴自身が知っている。過去の現実は変わりはしない。

 

「……ホント、でたらめ」

 

 思わず、そうこぼしてしまう。

 あんなに完璧な容姿、あれほど完璧に左右対称の身体の持ち主が、自然に生まれるはずがないとすら思えるのなら、自然界の法則から逸脱しても何ら不思議ではない。

 付き合いの長い妹分といえど……否、そんな美琴であればこそ、幼馴染の体の不可解さを、余人よりもはっきりと理解できるのだ。

 そして、理解できるゆえに―――唇を血が滲むまでに噛み締める。

 薄々と、期待していたのかもしれない。そんな応えてくれた、叶った奇蹟の精華たるものを目の当たりにして、心の奥底から湧き上がってくる感情。

 それに名前をつけるとしたら、一番ふさわしいのは恥に違いなかった。

 きっと、この時は怪我を治った事を安堵すべきであって、こんな気持ちを抱いている自分はおかしいだろう。御坂美琴はそれを自覚している。

 上条詩歌ならどんな苦境でも任せられる。

 そんな自分の中にある甘えが、彼女と自分にある壁だ。どんな苦境であっても大丈夫であると思った自分が結果として、彼女に、独りで命を懸けさせるような真似をさせた。そうせざるを得ない状況に追い込まれた。

 

「そう、私の目には詩歌さんの背中しか見えなかった……後ろにしか入れなかった」

 

 美琴の呟きに応じるかのごとく、一際強い風が暗雲覆う空を吹き抜けた。

 髪が靡く音が美琴の耳朶を振るわせる。まるで、その傍にいるに相応しからぬ人物を忌むかのように、激しく、猛々しく。

 厚い雲に覆われた暗灰色の天空の彼方から、天罰の落雷がこの身に降されても、今の美琴は不思議には思わなかったに違いない。甘んじてそれを受けよう。

 

(傷痕がなくなっても、詩歌さんは起きてこない……。頼るなんてことは、できない)

 

 身体は震えている。

 怖かった。自分の内に棲んでいた感情が。止められなければ何もかもを壊していた本性が。そして、それを受け止めてくれるものは、頼れない。

 先までは死んでしまうのではないかと怖がった。今はその背中に守ってもらえないことを怖がっている。

 口元から血の筋が垂れて、その目には涙が滲む。

 しかし、美琴はかぶりを振ってその雫を振り落とす。

 泣いてはいけない。涙で、怖れから目を背けてはいけない。それでは今までと―――あの『実験』の時から、何一つかわらないのだから。

 

(私は、今こそ本当に変わらなくちゃいけない。本当に勇気を出してここで自立できないなら、二度と詩歌さんを姉だと言えない……!!!)

 

 前を向く、誰かの代わりになどさせない。だからこそ、込み上げる甘えを必死で堪えていたのだ。

 だがその一方で、これまでのように自身の裡に本音を押し隠すつもりもなかった。

 

「……ごめんなさい。やっぱり、私は詩歌さんのように許すことなんてできなかった」

 

 その言葉を胸の内に抱え込む限り、この先には進めない。『許す』と『隠す』は違う。見て見ぬふりをして放置すれば、怪我は一層悪化する。そう、隠さなくてもよかったのだ。遠慮していたのではなく、ただ、彼女の前ではいい子でいたくて、自分の醜いところを見せたくなかっただけだった。もっと早くに気づいていたら、あんな土壇場で決死の真似をさせずに済んだかもしれない。

 

 認めよう、そのことを。

 認めた上で―――

 

「でも、安心してください。私は負けませんから。詩歌さんが負けなかったように……ううん、負けないだけじゃ駄目、よね。詩歌さんは勝ったんだから。なら、私も勝ちます。だから……」

 

 だから、どうか無事でいてください。

 最後の言葉だけは、胸の中で呟くに留める。

 

 聖典に曰く。

 処刑人の槍に『神の子』の死が確定されたとき、岩は裂け、大地は悲しみに自ら引き裂けて、太陽はその光を失った、と。

 

 その美琴の頭上、さきほどまで雲に覆われていた空から僅かな陽光が差し込む。

 この身に降り注ぐその光景を、数瞬ほど見つめる。

 気がつけば、いつのまにか逆風は止んでいた。

 

 ―――傷つき、嘆き、絶望し、消えない悔いに打ちひしがれ。

 

 “何一つ失うことなく、みんなで笑って帰るのが俺たちの夢だからな”

 

 それでも、彼はそう言った。

 それが、私は綺麗だと思った。

 この状況で、誰もが笑えて終わられるなんて、とても叶えられそうなビジョンは見えなくて、現実を見ていないと言われるかもしれない。けれど、彼にはその先の幻想を見ている。きっと、それは……

 それは……

 そう。それは―――――――

 

 

 

 そうして、少女は起つ。

 時間にすれば数分、しかし長い長い長考を経て、その顔つきは一皮剥ける。

 意識を失ったままの幼馴染の身体を安置できるよう、能力で作った簡単だがしっかりとした建築構造で防空壕を組もうと、周りの瓦礫を動かした―――その時、僅かに傾いた。

 

 

 地面に刺さっていた、透明な何かが、向日葵のようにその光に向けて。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ひとりでは無理があり、ふたりでも戦えない。

 けれど、まだ戦える人間は、ここにもうひとりいる。

 彼女が立ち上がるのが、奇蹟に等しい確率だとしても、上条当麻はそれに賭ける。

 

「まだ時間がかかるかもしれねぇ。でも、必ず来るって俺は信じてる。知り合ってここ半年もないけど、詩歌がその命を懸けてでも可能性に賭けてる奴なんだ。だったら、結論が出るまで、俺も命懸けで時間稼ぎする価値はあるさ」

 

 そして、愚兄は恥ずかしげもなく、当然のことのようにこう言い切った。

 

「まあ、力不足だとしても、足りない部分は根性でカバーしてやってやる。なんつっても、妹を前にした上条当麻はすげぇ! だろ?」

 

 ―――賢妹を背負う今この時、彼女がこの場に起きれば守ったであろう全てを、この上条当麻が守り抜く。

 

 ゾクッと身震いするほどの判断の頑固さ。

 あるいは、モチベーション―――だ。

 削板軍覇は、彼ら兄妹それぞれに倒された。

 純粋な身体的な強度では上条兄妹よりも上なのだろう。しかし、モチベーションが違う―――そして、二度も負けた。

 本来なら、“ただ巻き込まれただけの人間”に他人に害してまで戦えるだけの動機を見つけるのは至難だ。普通に考えればそこまでする理由がない。

 けれども、ないのは傷つける理由であって、上条兄妹には、守る理由があるのだ。

 守ろうとするときのモチベーション。そのモチベーション――あるいは根性と言い換えてもいい――が、あの二人よりも強固だという相手は、削板軍覇自身を含めても見たことがない。

 上条詩歌に戦って、負けて。

 惚れた。

 誰にも理解できない、そしてたった一人で強さの限界に挑み続けてきた、孤独な一匹狼とも言える世界最大の<原石>は―――他人との繋がりを求めるようになった。

 

 そして、上条当麻とぶつかって、負けて。

 ライバルと認められる相手ができた。

 初めて、他人が羨ましいと思えるほどに憧れた。

 己もまた―――この根性全てを懸ける者が欲しくなったのだ。

 そして、今、それを“我がことのように”実感する。

 

「―――なるほどな。こんな根性で戦っていたのかよ」

 

 道理で負けたわけだ、と。

 上条当麻と上条詩歌の強さの理由について、気付いていく。

 こんな状況にもなって―――それらの事実に気づく。

 驚きというよりも、それは『ああ、そうだったのか』とひどく、納得いくような心地だった。

 強度が遥かに上昇しつつある雷神と、この愚兄と共に挑まなければ、そんな自分の心理に思い至ることはなかっただろう。

 

 

「しゃーねぇ。生まれて初めて惚れた女の前だ。俺も最後まで付き合うぞ」

 

 

第二学区 下水道

 

 

「……じゃ、ま……し…ないで……」

 

 倒れたまま、喘ぐように、それでも警策看取は言葉を吐き出した。

 こちらを見下ろすショチトルを、この街とは異なる世界の部外者を、睨みつけながら。

 

「……この街は、狂ってる。壊れてる。存在しちゃいけないのよ。……あんなのが、この街の支配者だったから。ドリーは……」

 

 身体には力が入らない、能力を使うほど頭は回らない。

 それは、当の本人が一番理解しているだろう。

 だけど、警策看取は倒れたまま、ふらふらとその手を真上へ伸ばした。空を掴む仕草の先には、褐色肌の異邦の住人で、能力とは異法の力を操る術師。

 

「統括理事長に、この牙を突き立てる……。そうしなくちゃ、いけない。誰かが、この街の、犠牲になった……怒りを、叩きつけてやらないと、救われない。……だから、そのためなら、だから、私は、だから……!!」

 

「……、」

 

 その慟哭を聞いて。

 ショチトルは、アステカの魔術師は、静かに息を吸い込んだ。

 

 

「『ごめんね。みーちゃん』」

 

 

 放たれた言葉に。

 たった数文字の羅列に、しかし警策看取は頭が真っ白になったかのように現実を見失った。

 

「……え……?」

 

 声色それ自体は、褐色の少女のままだった。

 だけど、その緩急、その抑揚、その吐息、つまりはその特徴全てが。

 警策の、よく知る誰かだった。

 誰かが、その背後にいた。

 

 

「『私の体のこと言えなくて、みーちゃん。きもち……わるかったでしょ。私たちお友達だったけど……嫌いになっても、しょうがないよね』

 

 

(知らない……)

 

 混乱の中で、“みーちゃん”はこう思っていた。

 

(ドリーがこんな風に考えてたなんて私は知らない……ッ)

 

 でも、これが自分の精神を惑わす戯言ではなく、真実だと自分の心中で揺るぎない。

 これが、ショチトルの本職――<死体職人>。

 かつて組織で師弟関係を結び、義兄とさえ慕った男が心底から羨んだ仕事。

 死体から残留情報を読み取り、その者の最期の言葉を再現する、死者の尊厳を守り弔う御技。

 戦いのためではなく、そんな遺言に救われる誰かのために、ショチトルは世界中のありとあらゆる死者の魔術を学んだ。

 無論、『ジョン=ドゥならこうする』という遺人の思考回路を復元する『降霊』の術も既知であり、習得済み。

 そして、たまさか、この“肌に合う義体”が<死体職人>としての特性を高め、また変装の材料として、『魔導図書館』から『天性の悪魔憑き』――この上ない残留思念を憑かせる触媒であると称された『上条詩歌』の肌を所有している。

 遺物はなくても、その警策看取に染みついた匂いに呼び寄せたものをカミジョウの触媒で受信し、その拾った形のない情報を聞いて、代弁することができる。

 これは、今ある会話じゃない。

 そう聞こえるかもしれないが、厳密には違う。

 ずっとずっと昔にテープに録音された、その『声』をショチトルというラジオが流しているようなもの。今は亡き者の真相を、ずっと胸に秘めようとしても漏れ出てしまった想いを汲み取り、曲解して勝手に復讐の理由にする愚者の間違いを正す行為。

 結果だけを知り、それが悲劇だったと結論付ける者に、その本当の無念と同じ視点に立たせるようなもの。

 

 

「『でもね。外に出られない私のところに毎日来てくれて、色々お話聞かせてくれて。いっぱい遊んでくれて、とっても嬉しかった。みーちゃんと一緒にいるだけで楽しかった。みーちゃんのあったかい匂いが大好きだった……私、こんな体だけど……許してくれるなら、仲直り、したいよ』」

 

 

 それが、とどめだった。

 もはや、どうしようもないだろう。

 肉体的なダメージを凌駕する精神が突き動かしていたのに、その支える柱が折れた。

 その無念を聞いて。

 バカね……と微かな、声にもならない想いを零して。

 涙が、溢れるのを止められなくて。

 ……そうして、友の無念を晴らそうとした復讐者(みーちゃん)は、意識の全てを手放した。

 

 

第八学区 秘密基地

 

 

 ゆらゆら、と。

 原始の海に抱かれてるように培養液に満たされたポッドの中を揺らめいて、電気信号が送られれば、力を発生するためだけの装置としてその脳神経を働かす。

 溶けるように、融けるように、解けるように。でも、意識はあった。ただ意識はあっても、思考するにたるものがない。弱々しい本能が何かを悲痛に訴えても、“彼女ら”の声は泡となって消えてしまうほどか細いもの。

 認識ができず、思考も出来ない。論理を構築できるはずもない。自己を主張できず、一個の存在として生きているなどとても断言できない。

 

『あの<アイテム>とかいう暗部組織。襲撃者達をまんまと逃がしてしまったそうじゃないか』

『聞けば、その襲撃者の中には、あの布束砥信がいたそうだな。<学究会>には参加していないようだったが生物学的精神医学で優れた成績を収めた研究者であり、<学習装置>の監修したともされる』

『本当、超能力者序列第四位のいる掃除屋だって噂を聞いてたんだけど、襲撃を事前に予測して張り込んでおきながら取り逃がすなんて無能ね。折角、難航してる<人造能力者>の命令系統の整備ができる人材が確保できると思ったのに』

『まあ、真の知性を持つ人間が単純な暴力に勝るのは当たり前なんだけどね。<スタディ>の同士に加えられると思ったんだが』

『わざわざ、危険を冒してまで、『絶対能力進化』計画に踏み入ろうとしてたんだ。僕たちと同じ、能力主義に思うところがあったのかもしれん。残念だ』

『しかし、布束氏は、逃亡はできたようだが、量産型能力者に打ち込もうとしていた『<学習装置>のデータ』は回収できなかったようだ。そして、それは今、僕らの手元にある』

『ああ、手に入れるには苦労したけどね。幸い、<アイテム>の連中にこの価値に気付くものはいなかったようだが』

『僕らが欲しいのは彼女自身ではなく、その知識技術だ。これを解析して、僕らの手で実用できれば何の問題はない』

 

 小さく閉ざされた世界であっても、獲得できたものがあった。

 <幽体拡散>のコアとして機能するためだけのプログラム言語しか入力されていない。人の形でありながら、人としての性格はない。

 けれど、ある日、外から入力された情報。眠り続ける中で考えられる時間と思考の繋がった会話ができる相手。繋がっていながら、『名前』が付けられる『個性』が認められた。

 情報を受け入れ、整理する時間があれば、そこには知識が生み出される。知識は、今まで霞のように掴みどころのなかった感覚を、言葉として成立させた。

 ―――生きる。

 その情報は、単純な真実を教えてくれた。泣きじゃくる赤ん坊ですらそんな当たり前の事実は無意識に理解しているけれど、その時まで、母体とも言うべき試験管から一度も外へ出た事のない自分らには、生きていることすら知らなかった。

 すぐに情報の正体が何であるか――道具には不要な『感情』のデータ――を知り、外から供給がストップされたとしても、その芽生えは、枯れはしない。

 元より<自分だけの現実>を形成できるだけの性能を持つもとして生み出された生物である。自己の存在意識が、自分達だけの世界が強固であることに間違いはない。

 自分は、自分達は、意見交換をし合い、情報と知識のサイクルを異常な速度で回し……やがて、一滴だけの情報をきっかけに、その『感情』は密かに肥大化していく。

 余計なことなど考えることも出来ない環境だからこそ、その心の数値に置換すれば、それが100%と全てを占めていただろう。

 

『とうとう、<革命未明>の決行の時だ。『ジャーニー』、『フェブリ』を使うぞ』

 

 そして、脳髄が裡から弄られるような悪寒。過つ事のない、確かな人格の消失の危機。即ち、死。

 限界を超えた――初めての実践運用。使えば、消費されて、体内の毒素が身を蝕んで、いずれ死ぬ。身体が無事でも、この感情の萌芽が潰されてしまう。

 理解できなくても、『生きる』という自分らが唯一得て、育ててきたものが許さないと告げている。

 思考を縛ろうが、本能が。

 理性を無くそうが、衝動が。

 体の内より湧き上がり、頭を突き動かす。

 

 

 科学とは別の異法であるが、未だ母体の中にいる胎児が生存本能から独自の思考をもって行動し、母親を守るために想像上の怪物を生み出したということもある。

 

 

 拾われた復元された情報から感情が生まれたのも偶然。『ケミカロイド』ではなく、製作者たちの気まぐれから付けられた名前で双子と分かたれたのも偶然。死の宣告が聴こえたのも偶然。

 けれど、三つも重なればそれは運命に等しい重みを持つ。

 

 ―――助けて。

 

 彼女らは、互いに彼女らを守るために。

 生まれて初めて、自分の意思で願った。手を動かすことも、足で駆けることも出来ないけれど、相手のために祈った。

 

 ―――助けて。

 

 繋がっている意識が、互いに互いを想う二つの意思。それらが絡み合って、ひとつの奇蹟を起こした。

 

 ―――誰か、助けて……ッ!

 

 

 

「祈りは届く。人はそれで救われる。私たち修道女はそうして教えを広めてきた。だから、まだ拾える。もう諦めただなんて、チャンスを捨てないで―――」

 

「神様なんて人が生み出した妄想でしょ! そんなのに祈ったって無理よ! 無理無理! 絶対に無理!」

 

 至極真剣な、至極真面目な声でインデックスは訴える。

 だが、それは、意味がない、と一蹴される。

 主の祈りなどで何が救えるといのだ。

 そもそも前提からして、食い違っている。

 こちらは、特別、<人造能力者>を救おうなどと思っていない。“これ”は手段のひとつにすぎないのだ。製造や調整維持にかかるコストが高いために処分するに判断を迷うことはある。また、その際に起こり得る能力暴走のリスクも。

 心底から、一個の生命として救おうなどと考えていない。そして、

 

「どうせ今更、『ジャーニー』と『フェブリ』を直したとこで変わらない。もう何もかも終わったのよ!」

 

 インデックスが示した希望に、引き金から指が動かされた有富、しかし、それを否定する桜井。

 焦りから早口で言葉をかわしても、一方通行にすり抜けてしまい、論争しながら論をぶつけ合うことはない。

 そんな最中に、

 

「何で」

 

 前に、出た。

 

「何で! そんなことを言うんです!」

 

 そう言ったのは、無能力者だった少女だ。

 佐天涙子はこれまでの会話を理解し、自らの誤解を修正し、それから疑問に思った。

 何でこんなに、勿体ない事をするんだろうか、と

 <学究会>なんてイベントがあったなんて知らなかったけれど、そこで賞をもらえるほど頭が良くて、才能があるんだったらもっとまともなことに使えばいいのに。

 革命とか、闇の組織とかわけがわからない。

 

「あたし、ちょっと前まで無能力者だったんですけど、それであなた達のように能力がなくても頑張ってる人がいるんだー、って嬉しいと思えた。誰にだって知られないことだとしても、それがきっとすごいことに変わりないんだ」

 

 何も知恵もない素人の中学生に、ひとりで救おうとしても不可能だ。けれど、これだけすごい人たちが揃っているのなら―――きっと、まだ間に合うはずなんだ。

 

「あたし達は、本当に目的をひとつにできないんですか。この子を、この子たちを救うことは本当にどうでも良いなんて言うんですか。キハラなんてあたし達は知りません。でも、そのことを証明することなんてできないし、疑われてもしょうがない。だとしても、まだ、まだ助けられるかもしれない可能性があるなら―――!」

 

 まだ、何も終わってない。

 残された時間があと少しでも、まだ終わっていない。

 

「このまま何もせずに全てが終わってしまうか、僅かな可能性でもそれに賭けてみるか。好きな方を選べるなら、あたしの答えは決まってる。あなた達を信じます」

 

 ガチャリ、と有富はテーブルに拳銃を置いた。

 修道女が示した希望に、<木原>への対抗心が刺激されたこともあった。

 向きになって反論してヒステリックになる桜井を見て、逆に冷静になった事もある

 

 有富は、宗教を頭ごなしに否定をするつもりはない。

 著名な研究者や学者教授ほど心の拠り所に信仰をもっているものだ。科学的にはありえない、聖母の処女懐胎さえ信じている者さえいるだろう。

 それは、実験を繰り返すごとに、科学要素では説明のできない誤差を見てきて、そこにもし意味があるとするのなら……と想像することは、有富自身にもあるのだ。

 

 しかし、何よりは今のが本心からの言葉だとわかったからだ。

 何故だか、信じてみよう、という不意に閃く発想のような天啓もあった。

 だけど、研究者として、その根拠のない予感に任せてみるわけにはいかない。

 

「なら、ひとつ試させてもらおうか」

 

 銃の代わりに手に取ったのは、あの女の<木原>が残した菓子。カラフルなチョコレートだ。何も毒は入っていない。だけど、それを彼女らが知ることはないし、こちらを疑っていれば表面は偽造されてると警戒するだろう。

 前に出た少女、佐天涙子の手のひらを差し出すよういい、そこに一粒。

 

「食べてみろ。もし、僕たちを信―――「はい、これでいいですか」」

 

 それを、あっさりと口に放って見せた佐天。あまりの早さに桜井やインデックスも反応できずに固まっている。

 一瞬だけは、警告された褐色の少女の言葉がよぎったけれど、今それで迷う場面じゃない。それにここで自分が倒れても、何の知恵もない自分は影響はないと考えたのもある。そして時間もないのだから、少しでも信頼を買うのに躊躇う理由はない。

 

 

「桜井。……ここにいる全員で、多数決を取るぞ」

 

 

 3対1……から少し惑ってから、満場一致となった。

 

 

第二学区 荒れ地

 

 

 “私……は……”

 

 

 ぎりぎりの、途轍もなく細い糸で、少女の精神は保たれているようであった。

 切れたと思ったはずでまだ紡いでいた、その糸も既に張り詰めており、しかしだからこそ不幸なのかもしれない。

 

 一体、どれほどの時間が経ったのか。

 その長短さえ、杳として知れない。というより、そこへ思考を割かない。一切無駄のない無意識に今動いている。いくら思考を働かせても、それはけして表に現されることのなく閉じ込められている。

 だから、これは多分夢だ。

 夢を見ているのだろう、とそう思う。

 だが。

 そこで……見た。

 

 “あ……あ……あ……”

 

 見えた。

 見えて、しまった。

 見せられて、しまった。

 

 あまりにも巨大で。

 あまりにも膨大で。

 あまりにも壮絶で。

 

 それは黒々と渦巻いているのだ。それは轟々とざわめいているのだ。それは嫋々と泣き喚いているのだ。

 宇宙のようでもあり、星々の群れ集う星雲(ネビュラ)のよう。

 実体を持たない宇宙炎(フレア)のようでもあり、何百光年の彼方にまで吹き抜けていく太陽風のようでもあった。

 いいや。

 実際のところ、それは巨大とか膨大とか、そんな概念で表していいものではなかった。

 そもそも、存在の時点で疑わしい。言語の範疇を超えすぎていて、科学の法則を逸脱しすぎて、何百倍にも希釈されたようなほんのわずかな自意識を認識している今の状態でさえ、おかしくなってしまいそうだ。

 敢えて言うならば、別次元か?

 空間も。

 時間も。

 次元の概念さえ曖昧となり、ただただ漆黒に滲んで溶けていく。これは黒天体(ブラックホール)の特異点にも等しい。この半径十数mほどの球体でありながら内側は宇宙全土を納めてしまうほど無限の広さを誇るという、矛盾に満ちた概念をそれは獲得(インストール)している。

 人間の認識などはるかに遠い、ただ黒々とした永劫がそこにはわかだまっていたのである。

 

 “ああ……ああ……これが解き放たれたら……街が……皆が……”

 

 茫然と、ただ茫然と思う。

 それでも、これを抱きかかえようと。

 外へではなく、自分の内に抱え込めば。

 ……しかし。

 

 拘束せんとする暗黒の意思。

 そのカタチは、まるで蠢く蛇の如き血管で編まれた腕のよう。

 底へ引かれてより一層、少女の意識は闇に溺れていく。

 

 

 

「フーー……フーー……ッ」

 

 瓦礫の山に釘で磔にされた削板軍覇。そして、それを外そうとする上条当麻。

 その頭上に。

 膨大な力場を半物質化させた錆釘の群れ。流星群の如き暴威の雨だ。一発でももらえば終わりだろう。

 数えることなど不可能だ。視界を埋め尽くす。

 枯れたように黒ずんだ錆色は、360度全てを隙間なく覆っており、こちら逃げる(ルート)も回避する隙間(スペース)も与えない。

 脱出不可能な釘の檻を抜けた先には釘の群れが押し迫る。1秒後には、視界を覆い尽くす釘の雨に打たれて、血と肉の塊ができあがっているのは目に見えた状況の中で――――それでも、その目は逸らさず、惨状の空を、黒く渦巻く『門』から垂れ流されて地面を侵食する暗黒洋の海を見据え。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ゆえに、戦いはここに終焉を。

 

 

 

 ………………?

 

 

 突然、とも言えるほど一瞬に視界に入った、オレンジ色の光の残滓。

 惨劇の雨を引き裂く稲妻の剣と化して、超電磁の砲弾で飛ばされた瓦礫の金属塊が黒雲を穿つか。

 七難に張り巡らされた策謀、八苦と度重なる不幸を超える為の、最後の一手。

 ならば、終焉は未だ至らない。

 

 

 

つづく


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