とある愚兄賢妹の物語 作:夜草
大覇星祭編 海底撈月
??? 『真っ白な部屋』
海。
本物の海を見てみたいけど、この街には海がなくて、本でしか知らない。
本物を見たことはないけれど、みーちゃんがその能力で
いつも部屋で読んでいた本に載っていた写真には、海にはまんまるいお月様の映って、思わず、そこに手を伸ばした……
月。
一度も会ったことはなかったけど、私は、この街の空に輝くようなお姉様と同じDNAから生まれた。
でも、本物には手の届かなかった私は、その姿形だけしか似ない、海面に映った月なんだろうか。
はあ、と唇から柔らかな息を零そうとした時だった。
その、本を閉じた、次の瞬間だった
世界に、ひびが入った。
ずぶり、と足が沈む。
足下の床がひどくぬかるみ足首まで沈められ、見下ろして、息をとめた。
そこで、血塗れの顔で私が手を伸ばしてきたのだ。
いいや。
私は、ひとりではなかった。
稲妻が走ったかのようなひびの裂け目から、私の顔は次々と溢れ出ていた。
腫瘍の如く、とめどなく膨れ上がる。
夥しい私が私の身体に張り付いては落ちて消え、
そのすべてが血塗れだった。
“ゆるサナイ……”
“どれか”が言った。
空気の振動ではなく、直接脳裏へ訴えかける『声』。まとわりついた濃厚で凶暴な衝動はそれだけで人格を狂わせかねない。
次は、私の全てが揃って言った。
“ユルさ……ナイ……”
私たちが叫び、波打って、怒涛の如く私の部屋を呑み込んだ。
沈みながら、私は上に――『月』へ、手を伸ばす。
真っ暗な海底に映っている月を
実現不可能で、それにいくら望みをかけても叶わず水泡に帰す。最期まで、この街から出ることすらできず、見ることも出来なかったんだから。
奇蹟は、起きないんだ。
第二学区 荒れ地
不幸だ。
上条当麻がまず思うはそれ。
詩歌の後輩――食蜂から彼女が知るうる限りの事情は、脳に直接書き込まれた。
触れるだけで、その場にあるだけで、ネットワークや力場に干渉する<幻想殺し>ならば、破滅へのタイムリミットを遅らすことができるかもしれない。時間を稼いでくれるのならその間に、自分が首謀者を捕まえて、暴走を止めてみせる、と。
しかし、いざ現場に馳せ参じて見れば、食蜂操祈の予想を超えて、援軍を待たずにひとつの決着はついたのだろう。
いくら急いだとはいっても、一定のレベルを超えた常識外の怪物級の激突は、世俗と時間の流れが異なっており、一秒を幾重にも切り刻む一瞬に生きる両者は、傍から見ては稲光の如く爆音が遅れて聞こえてくる閃光としか映らなかった。
何せ、あの出鱈目な超人である第七位をして、遠目からであったが、その攻防の全容が『視えない』と言わしめるものであったのだ。
だから、“またも間に合わない”自分に上条当麻は不幸だと思った。
騒動に巻き込まれたからではなく、出遅れたことに愚兄は、笑ってしまう。
笑うしか、ないだろう。
あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて、笑い飛ばすしかないだろう。衝動のままに笑っていい場面ではないが、どこか、酔いが醒めた気分にも似ていたのかもしれない。
ここまでくると自分が自分よりも大事な者の生死の間際に立ち入れないというのが、運命だとさえ思えてくる。何せ、それが最もの不幸であるから。
第七位の移動を、第五位に情報を。
それぞれを援助してもらって、その不運を打破し得ると期待したが、現実を見せつけられる。
またか。
ああ、またのか。
そんな慨嘆と諦観が、この胸を抉る。抉りぬいて、いっそ殺してほしいと、願ってしまうほどだ。
クラスメイトにも言われた。こうなることは予想できていた。
なのに不幸だと嘆く己は、なんと浅ましく愚かである。
仮に、間に合ったとして、自分が二人の衝突する最中に超能力者でさえ割って入れないと思われるそこに、無能力者が何ができるのか。
そもそも、この右手が暴走に何らかの影響を与えるというのに確証はなく、あくまで憶測であるのだ。
それを理解した上で、無茶に、戦うと決めていた。
“それでも、この手は力になれる可能性がある。
出遅れたとしても、これ以上手遅れになるのを止めれるはずだ”
まだ、終わってない。
破れかぶれとなる前に、この息遣いの絶えたはずの空気の肌触りから、不思議と勘付く。
そして、倒れてる姿を注視し、ああなってまでも彼女は戦っているとすぐに気付く。
「……なら、簡単に諦めるわけにはいかないよな」
愚兄が、そっと右手を撫でた。
どうということもない仕草は、しかし今この時、遥かに巨大な何かを慰撫したかのようでもあった。
心の中のスイッチを押す。
猛り狂う感情の荒波が、総身を駆け巡り、恐れも、怯えも押し流し、動きの障害となる痛苦の感情を排除、四肢がリミッターを外して躍動することを脳が許す。
全ての意識が、ただ一つのことに向けて、研ぎ澄まされていくようだった。
深化した意思を込めて、ただ、相手の姿を見据える。
その形状は異なれど。
双角に、黒眼球を開眼させた雷神。
量産型能力者改は、都市部のネットワークにさえ介入して己の代理演算に組み込んで高まった性能を、先のオリジナルのLevel5.2の
そして、『
細く長い何かが、飛来する。
針と言うには太すぎるが、槍と言うには小さく圧縮された。
その形状は、釘と言うべきだろう。
『雷鳥』と同じくAIM拡散力場と融合した金属で形成された釘は、先のオリジナルのものは違って罅割れてはいるが、上条当麻の右手を縫い止めた。
あらゆる異能を打ち消す右手は、雷神の釘の貫通を阻んでいた。超電磁砲さえ無傷で防いでみせることを考えれば、これは<
どの道、痛手が軽い筈もない。
聖典において、釘の痛みは原罪の痛みと教えられる。十字架に手に釘を打ちつけられて縫い止められた救世主の痛みこそは、人類が重ねてきた原罪の痛み。
ならば、この場合は、この街が積ませてきた罪の痛みとも言うべきだろうか。
痛みで神経がどうかしてしまい、抵抗など不可能。思考すらうまく回転せず、悲鳴を上げて怯む―――“普通ならば”、そうなる場面だろう。
だけれど、今の愚兄は痛覚がない。
握り締め拳を作り、手のひらの釘が砕け散った。
一対一では、止められない。
二体一でも、厳しい。
「まあ……」
わずかに、目を細める。
その一撃を受けた手応えで、量産型能力者改の鋭気と暴威は、右手の処理能力を上回りかねない危険性を大まかに把握した最中、不思議と上条当麻は平静だった。
無論、<妹達>と同じ姿、それも先の暴走した第三位に酷似した形態となった少女を見て何も感じないわけではない。その黒眼球の前に立たされれば、鉛でも背負わされたような重圧を感じさせるだろうに。
「……それでも、思ったほどじゃない」
自らが死地に飛び込んだことを理解しながら、しかし、愚兄の中にそのことを不幸だと悔いる感情は沸いてこない。どうしてか天上の意思に近づこうとする存在の威迫に震えや怯えを見せずに済んでいる。
少し考えれば、恐らく正解であろうと思われる答えが思い浮かぶ。
人間は慣れるものである。学園都市を滅ぼしかねない雷神の威圧を浴びせられたとて、それに準じようモノを頻繁にお目にかかっていれば、平静を保つことくらいはわけないだろう。
「不幸中の幸い、っつうと誤用になるんだろうけど。昨日の<
待て、その並びに賢妹を入れたと知られたら後が怖い、とくだらぬことを心配しているあたり、結構、余裕があるのかもしれない。
しかし、それは事実だ。
彼女はまだ目覚めたばかりの赤子のよう。
加えて街全体との演算接続の手間もあってか、先の
ならば、完全に起きる前に―――
「……軍覇、少しの間、ひとりでアイツを頼めるか?」
「ナルホド、根性を入れるんだな。よし!! 任せておけトウマ!!」
同行者の削板軍覇が、盾役を変わるよう前に出た。
すでに、Level5.2は人間の姿をしていなかった。
四肢や大雑把な形こそは人型であったものの、その全身は釘の螺旋に包まれていた。
あたかも、錆びた釘で加工した人形のようだった。
「■■■■■」
その手が不気味に捻じれ―――無数の釘が吹き荒れた。
自意識のない人形は、無情に、機械的に、障害となる愚兄の四肢を狙い撃つ。
古代に処刑された十字教の救世主と同じく、その右手を持つ少年を磔にせんと螺旋を描き、刹那、割って入った気勢が大気を渡った。
「超ッ……すごいパァァンチガァァァアア―――――ッッッド!!!」
殺到する釘の嵐を、赤青黄色とカラフルな爆発を生じさせる謎波動の
AIM拡散力場を封入しきれず罅割れて洩れる錆釘の悉くが、その湯だつ熱気にも似た蜃気楼を纏う拳に無理矢理に叩き落とされ、軌道を逸らされる。
(削板軍覇曰く)根性の念動力によって地球の磁力線を自らの手に集中させて、その誘電磁力(削板軍覇が作った造語)の反発で相手の電撃系攻撃と思しきものを跳ね返す―――これぞ、<
無頼の拳と理外の能力、その両拳に熱傷の痕があるもLevel5の最下位は、Level5.2の猛攻を防ぎきった。
「寝惚けているのか、根性が足りねぇぞ。その程度なら、俺には視えるぞ」
人は死ぬと体重が減る、それはその人の魂の重さなのだという話を耳にしたことがある。
「ねぇ……」
呼びかけが途中で切れる。無駄だと悟ってしまった。
血を流したせいもあるんだろうが―――それ以上に大事な何かが抜け落ちてしまったように、その身体は軽く感じる。魂だなんて、オカルトを信じてなんてないけれど、もう自分の呼び掛けには応えてくれないのだと。この身を焦がす怒りは鎮まったが、代わりに伽藍の心に膨大な哀しみが満ちていく。その哀しみの雨が、怒りを鎮火させたが……。
今、自分が抱えているのは幼馴染ではなく、その抜け殻の空蝉だ。致命傷を負った身、助かるはずもない。
これでも、まだ幸運なのだと理解する。
先まで学園都市を破壊しようとしていたのだから、守りたかったみんなではなく、そのひとりだけの犠牲であるなら、計算上、運が良かったのだと言える……。
あの女王でさえ予想し得たことだ。上条詩歌が眠りもせず、その事件に介入すれば、それは解決し救われるだろう。“代わりに”、上条詩歌がその不幸の責を負うことになるだろうが。
―――ああ、私はなんて馬鹿なんだろう。
離別に耐えられるはずもなく。
悲しみに満ちた心の器から溢れた分だけ、ただ涙を、とめどなく流す。
幼きあの日。
幼馴染が、学園都市へ行くことになった別れの時。
私は、泣いた。
泣いて、彼女を引き止めようとした。
けれど、私を置いて、彼女は行ってしまった……
ひとりの男との約束があった。
守ってほしい。
いつでも。
どこでも。
まるで都合のいいヒーローのように駆けつけて、彼女とその世界を守ってほしい。
「……それを破ることになんだろうな」
削板軍覇が壁役となってくれている間、上条当麻はその二人の元へ。
そして、移動しながら脱いだジャージを少女に羽織らせるも、高校男子用で中学女子には大きめであるが、裾から真っ白な太股の付け根あたりまで見えそうなこと、『裸に一枚』で大正解なのである。
だが、今の少女がそれを気にするだけの余裕はなく。
その茫洋とした眼差しは、保護者を捜す迷い子を連想させた。
「わたし」その頬を大粒の涙が伝っている。「わたしに助けられるような価値があるの……」
その身をちぎるような声に混じる微かな嗚咽。愚兄の胸の奥に、低潮のような悲哀が湧き起こった。痛ましく不憫でならないが、その価値を認めるような気休めは口にはできない。
価値があると信じたい。生命や人生に、なのにそれを否定する現実ばかりが横たわる。
そんな現実を見るくらいならば、永遠に涙で視界が溺れていた方がマシだろう。
そう思いつつ、しかし、ここで口を噤むという選択肢はありえない。
必死に……それこそ溺れる寸前に藁に縋るような彼女に、慰めに手を差し伸べるのではなく、己の手で足掻く為に、愚兄は口を開く。
「なあ、お前の目には何が映ってるんだ御坂」
それは、背中に守るのではなく、背中を押して戦場に向かわせるような。
上条当麻に、今、この少女を守る力はなく、その答えが欲しいのなら、自分で見つけ出さなければならない。
だから、愚兄はそれしか口にできなかった。愚兄が豊富な人生経験を持った賢い大人であれば、もっと別の言い方や方法が見いだせたかもしれない。だが、今は、それしか言えない。
この無間地獄の如き学園都市の暗部は、奇蹟でも起きない限り、いいや、奇蹟の一つ二つでは覆らない。
ならば、さらに三つ四つと積み重ねるしかない。
そう、奇蹟とは、たとえて言えば、少女が拭っても拭いきれないその哀しみを決意に転化させて、自ら立ち上がるようなことを言うのだろう。
第七学区 病院
魘される十代前後の幼女の前に立ち経過を観察する白髪の少年は、この苛立ちと雑音の二重の頭痛に顔を顰めている。
「……ミ…サカ……ネットワー……ク……に……未登録…番号の……ミサカ…が……接続………ミサカは…ミ、サカ…は、……その介入に……―――」
「ブツブツ寝言ほざいてンじゃねェぞ。黙って、大人しく寝てろクソガキ」
異変が起こる前から、連絡は入っていた。
祭りに騒ぐ打ち止めを捕まえて、街にいる<妹達>をひとり除いて回収し、病院に閉じ込めてからその周囲を警戒していた。
突如、滅茶苦茶なベクトルの異常を感知し、打ち止め他<妹達>が倒れてしまったが、事前準備していたカエル顔の医者の即急な治療の甲斐あってか、それともまた別の要因も含まれているのか判断できないが、意識は回復した。
しかし、医者が他所の別個体の様子を診に行った途端に、打ち止めはこの事態の収拾に無理に頭を働かせようとする。
「……で、も……詩歌…お姉様が……」
「チッ……手短に話せ。それで気が済ンだらとっとと寝ろ」
途切れ途切れだが、内容は聞き取れた。
夏休みの最終日に打ち止めに打ちこまれたウィルスをベクトル操作能力で、解析して状態を健康体時に
血清療法。
それは、馬などの他の動物に一度その
変則的であるが、その触れただけで異能――異常を写し取るアイツは、その力を活用して、ウィルスが集中したオリジナルと戦闘しながら接触、電気信号を受信しつつ暴走の解析をこなし、『抗血清』を打ち込むことに成功した。
そう、その『抗血清』は、オリジナルの盲目を晴らすだけでなく、オリジナルからネットワークの介して抗体情報は伝播して、<妹達>は打ち込まれた
だが、完全にウィルスが鎮静化する前に、未接続だった
停止を試みても命令は弾かれており、このままでは学園都市が―――そして、旧個体から共有した視覚情報として、『抗血清』の投与と言う最後の仕上げで重傷を負ったと思われるアイツは、より緊迫した状況に陥っているのだと。
「……クソがァ」
『
ただでさえ事件に巻き込まれる性質で、近頃は宇宙エレベーターの件もあるし、この<大覇星祭>の一日目にもなんかしらの面倒事に遭ったのだとは容易に予想が付く。
「明らかに俺に関わることだろォがよ。アレが不調だとこっちの代理演算にも影響出ンだろォが」
事実、今の状態は脳に損傷を負わなかった頃の全盛期に比較すれば、遠く及ばない。
損傷からの迅速な措置により、日常的な生活自体には問題ないが、かつての学園都市最強と称された超能力を全開に発揮するには、どうしても<ミサカネットワーク>の代理演算の援助が必要となる。
だが、彼女は<妹達>に危険が迫っていることと最低限の情報だけを伝えただけで、<妹達>の支配指揮権たる<最終信号>の護衛――もとい、子守を頼んできて、以来、連絡はない。
―――役目が逆だ。
過去に<木原>の研究者に能力開発をされたが、アレは確実にブチ殺すことが最重要な相手だ。天井亜雄などという小物とは違う。だが、アイツは殺せない。狂学者が相手だろうが、まず第一の前提からして、人を殺すことができない。
そして、自分ならやれる。第一位の担当となった<木原>は、その超能力を前にビビって逃げ出した程度の相手。万全であるなら、瞬殺で肉塊にしている。
だが、今は万全には程遠い。だから、ここで留まっているしかないのだ。
「だから、ね……ミサカが…ミサカが……止め、ないと……」
震えを帯びた声で訴える打ち止め――<
<ミサカネットワーク>に接続されている全ての個体を管理するために、<妹達>の命令系統を司る特殊な20001号だ。
その旧式0号もネットワークに接続するそのひとりだとすれば――代理演算で繋がっている超能力者でさえ言語や動作に干渉できるのだ――打ち止めの意思ひとつで活動を停止できるはずだ。
だが、ネットワークを利用した実験を実行する際に、『ウィルスに感染された状態に陥ろうと、一時的にでも自由となれば強制停止権を行使できる
―――いいや、天井亜雄と同じく、何に置いても真っ先に<最終信号>を狙うべきだろう。
何故ならば、打ち止めひとりあれば、<妹達>全てを掌握したも同然。だからこそ、表裏に力があり信頼のおける病院に預け、尚且つその襲撃される可能性を彼女がこちらに伝え警戒を呼び掛けた。それは納得できる。
だが、向こうは<妹達>の一個体御坂妹を確保して事に及んでおり、相手の<木原>が調整したと思われるその旧個体は、<ミサカネットワーク>の至上命令を発する<
おそらく、ネットワーク構築の試験体として、不利益な命令を遮断するものさえ仕込まれているのだろう。
それでも、管理者としての義務と、何より恩人の救助のため、打ち止めは何度もその旧個体に呼び掛けを続けては、打ちのめされる。
意味がない。
打ち止めも、そしてアイツも、どれだけ血を流そうが一時的な救いはあっても結果的に“意味がない”。
相手がその旧個体を持ち出すのが想定外だったのだとしても、
彼女以上の働きを今、誰にも不可能と理解していたとしても、
それは無力感に勝手に苛まれる八つ当たりに変わらない、“意味がない”。
“意味がない”。
ここで、奇蹟なんぞ願っても、“意味がない”。
自分が守護する者としてすべきはこの無駄な抵抗を無理矢理にでも止めさせるべきで……
「今は寝てろクソガキ」
「で、でも……ミサカ……」
「“今は”、だ……俺が、頭を貸してやるっつってンだよ」
かつて、打ち止めをウィルスから治療した時の、<
「この病院には設備が整っている。<
「まさか、ミサカのネットワークに干渉するつもり……!? でも…アナタは、ミサカじゃない……」
「<
元々、脳の欠損部分を補わせるために用意された代理演算デバイスには脳波の波長を合わせる変換ができるようになっているからなァ、調整さえすれば逆にこっちからテメェらに干渉することはできンだよ」
<幻想御手>をその能力者個人に調整された<
このチョーカー型代理演算デバイスには、相当な設備が必要とするのはわかってはいるが、この病院はそれを作り上げた場所であり、設備は揃っている。道具もある。それに即興の一時的な調整だけであるなら、一から製造するよりだいぶ手間が省ける。
であるなら、
「そんな―――できるの……?」
「できるに決まってンだろォが。アイツにできて、俺にできないことなンざありえねェよ」
アイツとは、能力もその思考――思想のベクトルも真逆だ。学習してきたことや身に付けてきた技術、それまで重ねてきた経験も違う。
だからといって、できない、ということは、現時点で自分を戦力外にするアイツが正しい、と同義であり―――そう、そんな戦う前から敗北を認めてしまうことは、『最強』として許せるはずがない。
「だが、問題はバッテリーだ」
フルの能力使用で15分。かつて、打ち止めに打ちこまれたウィルスの除去に<学習装置>の代わりを果たしたが、その時、常時展開していた『反射』さえも解いて、ベクトル制御の全てを割かなければならなかった。全力で、かつ、目的外の使用となると通常の能力使用以上に消費が激しい。
「そンな無茶ができンのは、2、3分くらいだろうなァ。だから、そのチャンスが来るまで、体力を蓄えとけよクソガキ」
そう言って、手を当てて打ち止めの目を閉ざす。
<最終信号>がその性能を発揮したとしても、戦況をひっくり返すには、まだ足らないだろう。
一瞬止めることができたとしても、それは“意味がない”と同じ。
力の温存が無駄になろうが、方便でも使わない限り、休まろうとしないだろうからそれはそれでいいのだ。
今は、打ち止めを説得することが先決と考えるのが、己が第一に優先すべく目標。
故に、あと二手。いいや、一手でもいいからきっかけがない限り、決行はしない。
万全でない今、こちらの干渉にも限界がある。打ち止めに無駄な愚行を繰り返させるわけにはいかない。
その旧個体の妨害機能を破って強制停止命令を打ち込めるかどうかは、向こうの出方次第だ。
「ハッ―――クソ意味のねェ無駄骨に付き合わせやがって、アイツのツラをひっぱたかねェと気が済まねェぞオイ」
薄目で、窺う。
彼の内心に去来しているであろう思いは、その鋭い視線を見るまでもなく、理解できた。
“意味がない”、どうせ徒労に終わると考えながら、しかしその機が訪れたときの準備を手抜かりなく、神経質なまでに完璧に整えている。
そこに込められた想いを見れば、自分と同じように、いいや、自分以上にその場に立ち入ることも出来ない無力感に苛まれてるだろう。
彼はきっと、
(うん。ミサカも、ミサカもミサカも同じだから)
戦おう。
言わなかった、言えなかったが。
彼にかかる負担は、彼が予想するより大きい。何より、精神に。
ネットワークという『大きなミサカ』には、感情面の未発達なミサカ達に表面化していない“負の感情”がある。
奇しくもこの件で、ネットワークから深層心理に干渉してる研究者によって、それを気付かされた。
この“負の感情”こそが、お姉様はその人格を塗り潰して暴走させてしまい、詩歌お姉様が決死の覚悟をさせてしまうことになった。
もし受け止めてくれなければ、お姉様も、ミサカも、“負の感情”に呑みこまれたままだったろう。
そして、彼にその“負の感情”に触れさせてはならない。今の彼ではきっと耐えられないだろうから。
けれど、ミサカ達は、“負の感情”に呑みこまれそうになったミサカ達の
どんなに黒いモノが塗り潰そうとしても、ミサカ達はその目を閉ざしはしない。けして、負けない。その毒を呑みこんで、今この時は彼に触れさせないように隠し通せて見せる。
ミサカは、ミサカだ。どんなことがあっても、ミサカはミサカ自身を失わない。そう、誓った。
(だから、ミサカは戦う。ミサカ達が生まれる前のミサカ、ミサカ達が生まれる為のミサカ、そして、ミサカ達が生きる希望を証明してくれたミサカ、ドリーと呼ばれた試験体0号。あなたが最後に残したかったのは、“負の感情”じゃなかったから、ミサカはミサカはミサカを信じることができる。
だから、ミサカはあなたが残したその大切な人との胸躍る約束を“負の感情”なんかに塗り潰させなんかしない。ミサカはミサカは、あなたの想いを絶対に守って見せる)
だから、お姉様も―――
第二学区 ???
<警備員>に起きた大規模なハッキングにより、鹵獲した大会中継用カメラが使えなくなり、戦況を見通す目を失ってしまった。
外に徘徊させていた液体人形も、別の<木原>に封じ込められてしまい、この場所から外の様子を窺うことはできない。ここから出ようとすれば、相手の<木原>に見つかってしまう。
ただし、それでも<心理掌握>の誘導は行うことはできる。
『ハッハッハ、つい実験観察に夢中になってしまって、食蜂君から<外装代脳>のリミッター解除方法を聞き出すのをすっかり忘れてしまったよー。いやあ、いいモノを見させてもらった。うんうん。御坂君が絶対能力まで至らなかったのは残念だけど、<幻想投影>はやはりいい。テレスティーナが羨ましいよ。僕も脳幹君から自制を促されてなかったら、<木原>として調べ尽くしたいところだねェ。
ああ、でも、安心したまえ、状況を持ち直せるよう、ちゃんと“予備プラン”を用意してあるからね。もうこちらでセッティングは済んだから、警策君は引き続き『誘導役』をよろしく頼むよ』
こちらの<木原>の爺はこの状況においても変わらず、頭のネジがぶっ飛んでいたが、それでも実験を完成させるように動くはず。
だから、こちらはこのまま“第三位”を動かすことに専念しよう。
「でも、最終段階まで行ったら、美琴ちゃんの最期の雄姿を拝みに、外に昇ってみましょう。だって、やっぱ
第二学区 才能工房
ヒョコヒョコ、と。
無人の建物内、その廊下の中央を歩く老人。
「ヤレヤレ、この貴重な時間を実験に専念したいところなのに、食蜂君も随分と用心深いねぇー」
その眼――<
<外装代脳>のリミッター解除方法も、
そして、食蜂操祈自身も。
「千里眼と言う奴は使ってみると意外と不便だねぇー。遮蔽物を透過できても距離と方向をうまく絞らないと目標を捕捉できないし、それに目移りしやすくなっちゃうからねー、予想外の事態を見ちゃうと周りが見えなくなっちゃう欠点持ちの僕には困りものだよー。だから、今も興奮冷めやらぬだけど、年甲斐もなく興奮してすっかり食蜂君のことを忘れちゃったよ。それが原因で事故を起こして何度も死にかけたこともあったのにねぇ」
にしても、随分と上手く相手は隠れているようだ。
視認さえできれば、今のところ一番のお気に入りの『案内人』の<
第五位の巨大脳<外装代脳>に繋げるだけでなく、<幻想御手>にはこれまで
しかし生憎、今回用意した中で
対し、<才能工房>の現主として君臨する第五位は、監視カメラからこちらの様子を逐一窺っているだろう。
「うーん、早く捕まえないと、予備プランに用意していた試験体0号までダメにしちゃうなぁ」
同時。
床が、割れた。
いいや、割れたように見えたのは、廊下の前方一面に
更に天井に差し込んで空間が密閉されたところで、換気口からガス――睡眠に誘因する気体が充満―――
第五位は、<才能工房>の存在を隠蔽しようとしていた。
研究本社と周辺の建物には、通常のセキュリティとは別系統の、第五位だけが起動できる独立した
だが、隔壁がそこだけ別の空間に飛ばされたかのように、穴が開いた。
<木原>は、催眠ガスの影響なく、脱出する。
「さっきも言っただろ? 実験が楽しみでねぇー。今の僕には眠気はないんだよ。この程度の退屈な作業じゃあ、眠気覚ましに顔を洗いたいところだけど―――」
カチリ、と小さな音がした。
隅の陰で、何かが持ち上がったのだ。
次の瞬間、凄まじい激流が、<木原>の身体へ襲い掛かる。
水だった。
それも、単なる暴徒鎮圧レベルの放水機ではない、たった数秒で25m級のプールをからにするほどの威力を以て、奔流は<木原>の身体に直撃―――寸前で、凍った。
「年寄りに冷や水とは、食蜂君は容赦ないねぇ」
全く白衣を濡らさず、<凍結能力>で妨害を二重の意味で凍結させたその刹那―――
―――刹那。
「ひょ?」
世界が、大きく傾いだ。
いいや、傾ぐばかりか、床ごと滑落した―――いや、消失したのだ。
<
建設工事の仮説足場として用いられる機具は、道のない空間に私用通路を形成するためのものだが、それが最初から床に偽装されていた。
踏みしめるべき地面を無くして、<木原>は―――“空を踏んだ”。
ボシュ、と。
足下の空気を圧縮して足場にして、軽々と障害の落とし穴を跳んだ。
<
この建物内のセキュリティは、第五位が掌握しており、すなわちここは彼女のテリトリーだ。
だがその施設の助けがあっても、多才な能力を使用する狂学者は止まらない。その歩行のペースさえ乱せない。
無理矢理に蜂の巣に手を入れようとすれば、たちまち蜂の大群が群がり襲うが、科学は蜂の小さな毒針を通さない防護服を生み出している。
科学に愛された<木原>の長老は、女王蜂の反抗など意に介さない。その巣を壊してまで欲しいのは、それが長い時をかけて溜めこんだ甘い蜜だけ。
『これで終わってくれたら楽だったんだけどね、本当』
ようやく。
建物の放送が入った。
木原幻生は、獲物が反応を捉えたことに口元がうっすらと笑みを刷いた。
「まったく“歓待”は受けたけど、お邪魔してから随分とお客さんを待たせてくれるね、食蜂君。どこにいるんだい? 早く君に耐え難い苦痛を与えて、能力の抵抗ができないほどに追い込んでからその頭の中を覗きたいんだ。わかってくれるね? 僕は実験で忙しいんだよ。リミッター解除コードさえ教えてくれれば、食蜂君は用済みになるから見逃してあげてもいいよ。何なら建物の外まで空間転移で飛ばしてあげてもいい」
『……正気力が底辺の相手は会話をすることすらイヤになるんだけど。
―――予備プランの試験体0号とか言ってた、“彼女”は、何?』
その普段にない冷たい声音の問いかけには、明らかな敵意が混じっている。
「“彼女”って、何のことだい? 僕には食蜂君が何を示してるか皆目見当がつかないなぁー」
『タイムリミットが迫ってるんでしょぉ? ボケたオジーチャンの戯言に付き合ってあげるほど、可愛く聡明な美少女は優しくないわよ』
「おお、そうだった」
パチン、と自分の頬を木原幻生は叩いた。
「アレは、<才能工房>にいた量産型能力者計画の試験体1号――ドリー君と同時期に造られた“妹”だよ」
にやにやと、その笑みを消さないまま、どころか、その反応を楽しむかのように。
「ドリー君の製造目的は、クローン技術の確立だけでなく、クローン間で情報共有し、互いの経験値を保有できるようネットワークを構築することもあってねぇ。そのためには当然、相手になる妹が必要だよね。アレには、ドリー君の記憶と経験の全てが転送されてある―――言うなれば、もう一人のドリー君だねぇ」
されど、話しながらもその千里眼を走らせる。
第五位はやはり<才能工房>の研究所内にいる。
「ドリー君に行っていた試薬投与と同じく、『シート』や『セレクター』といった、より操作し易いよう“機具を埋め込んで”、“性能の限界を試験”しているんだけどね……」
そして、必ず挑発に乗り、現れる。
第五位は思っただろう。
なぜ、その精神系最上位の超能力を駆使して完全に情報封鎖したはずの<才能工房>の存在を知られたのか。
答えは、簡単で、第五位が支配するずっと前から知っていたからだ。
当時の研究所内にいた<外装代脳>の計画関係者を全員洗脳済みにしたのはいいが、だがひとつ見落としていた。
当時、第五位が関わっていた計画はもうひとつあった。
そう、木原幻生が他の競合を強権で潰して、推し進めていた『量産型能力者』計画。
<才能工房>の職員らに『量産型能力者』計画の詳細を伏せたままであったから、<妹達>の試験体であるドリーを、単に『上から押し付けられた目的すら定かではない人形遊び』としか思われず、そうである以上、どれほど読心能力で探っても、ドリーが何の試験体であるかは分からない。
そして、こちらがドリーと情報網を構築していたもうひとりの試験体の“妹”と保有していた以上、第五位の行った隠蔽は、端から筒抜けであった。
「いやぁ、ドリー君の頭を覗かせてもらったねぇ、色々とここを隠そうと必死だったようだけど、食蜂君―――いいや、“みーちゃん”、とでも呼ぼうか?」
――――――――――――来る。
腹の読み合い、探り合い、駆け引き。
学園都市の暗部に身を置いて幾星霜。
木原幻生は人が押し隠している感情に対し、敏感になった。
沈黙だとしても微かに聴こえてくる息遣いでわかる。
鎮火していたはずだったけど、ずっと燻っていた。
そうそれは、その憎悪の煙を吐く、燠火が起こった音だ。
崇高な理想も。
強欲な野心も。
当人の器量を超えるストレスを受けると“解けてしまう”。
だから、木原幻生はそれが天然であれ養殖であれ、『覚悟』と言うものを信用しない。
興醒めなことに、ここぞという時に機能しない場合があるからだ。
そう、今最も木原幻生が困ることと言えば、実験に必要不可欠な情報を保有した食蜂操祈が逃げてしまうこと。
このままでは、折角の実験が、天上の意思に辿り着く前に壊れてしまう。
よって、木原幻生は、その憎悪に火を点ける。
復讐のためなら己の命など一顧だにしない、揺るぎなく美しい憎悪の対象となることで、絶対に逃しはしない楔を打ち込んだのだ。
『……御坂さんひとりの犠牲力で事が済むんなら、その交渉に乗って、学園都市が消し飛ぶ前に退散させてもらうのもアリだったけど。ええ、そっちの方が私個人の生存力は高いだろうし』
木原幻生にはわかる。
こちらに顔も見せず、逃げ回っていたとしても。
策を仕掛け、自分を仕留めようとしていたことも。
『そのぶっ飛んだ頭の中にあるウィルスの構造力も、別にわざわざリスクを冒して覗かなくても先輩の解析力で完治できるって証明されてるしねぇ。あらぁ、そうなるとぉ……
―――アナタを生かす価値力はゼロになるわぁ』
全てを使う、と。
死力を尽くす、と。
食蜂操祈は、木原幻生に宣告する。
もう一片の容赦をかけないことを。
『100%完全な私情のために私が持ち得る全てを懸けて―――木原幻生、アナタの狂った幻想を掌握して握り潰してアゲル』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ぷつん、と放送が切れて、それは現れた――現れる前から千里眼で見知っていた。
「……そうか。食蜂君が用意を済ますまで、君が僕の相手をしてくれるのかな」
「………」
ヘルメットを装着した、少女。
隙間から零れ出る長髪は、蜂蜜のような金色ではなく、火のような赤色。
そして、仮面越しに垣間見えるその目に宿るは、まごうことなき殺気である。
虎は、獲物に襲い掛かる時、高々と吼え声をあげたりはしない。ただ静かに近づき、刹那のうちに、獲物の喉笛を食い破る。今の彼女は、まさしく獲物に襲い掛かる寸前の虎を想起させた。
ヘルメット……
この<才能工房>に常備されていた――占拠されて以降、既に使われなくなって久しい――脳波の推移によって自動に変異を正常値に正す電気
だが、それは<心理掌握>の干渉を防げるほどの性能はない。でなければ、第五位を
「君は、確か発火系能力者だったねぇ。視界内であるなら爆発を起こせるんだろうけど、僕の方はとっくに千里眼で君の居場所は見抜いていたからねー」
よって、相手が迫るより早く―――あっさりとリモコンで照準を合わせ、<心理掌握>で命令を打ち込んだ。
あと1歩のところまで迫ったが、そこでビクン、と震えて停止。
「と、捨て駒にしては時間稼ぎにもならないなぁ。けど、
『
その、直後の出来事だった。
「…………………………………………………………………………あ?」
今度は、木原幻生の思考が停まった。
懐中電灯付きのリモコンを持った腕にその蹴り脚が食い込んでいる。
何も処置されなかった知的傭兵の扱いで分かったが、木原幻生は<心理掌握>に対する警戒が甘い。
精神操作系能力者同士の読み合いとなれば、まず必ずと言ってもいいほど、特定のキーワードで作動する『爆弾』を警戒する。
そのため、『読心潜行』で相手の『爆弾』の位置を特定し、『幼児退行』で精神状態を『爆弾』作動直前にリセットするのがセオリーだ。
しかし、<心理掌握>は圧倒的な出力と応用性を最大の武器とするが、それがあまりに強すぎて細かく枠に区切らなければ本人でさえ全容を把握できなくなり、その弊害を無視するのなら大雑把な操作しかできないのだ。
木原幻生にとって、<心理掌握>は武器ではなく、あくまで実験のための器具なのだ。だから、細かな作業など気にしない。
しかしながら、たとえ『爆弾』を警戒し慎重に探ったとしても―――今回は、彼女自身が『爆弾』だ。
「
敵は一直線に、蹴撃の勢いにたたら踏み退がったこちらに飛びかかってくる。テレビで観られるボクシングの試合のように、構えを取ったり間合いを窺ったりする人間らしい駆け引きがその動作からは一切省かれている。ただひたすらに獰猛で野蛮、獣に近しい。腕や脚の如何なる動きも最短かつ最速に相手を狙う。自制など当然放棄して働かせていない。理性が機能しているかどうかさえ疑わしい。まさに凶暴そのものだった。異常極まりない。どう考えても、仲間や司令塔に対する行動ではない。
直後に気づく。
(思考を放棄してる……?)
爪を立てて、こちらの頭に伸ばしてきた両手に挟み捕まると、幻生の耳にその小指が突っ込まれる。鼓膜を完全破壊。だが、その程度で生物は死んだりしない。破壊。まだ破壊が足りない。破壊。破壊破壊。破壊だ。破壊を破壊で。破壊する。破壊破壊。押し出されたように白眼を剥いたが、鼓膜を破った小指の爪がグリっと捩じ捻り、更に頭蓋骨内の奥を掘り抉る。一度食らいついたのなら、獲物の反撃の余地がないほどに破壊するのが野生だ。快楽のために破壊するのではなく。相手を破壊するというのがどういう意味かを理解した上で尚破壊する。
「ぎッ……ぐぁあああああああッ!?!?!?」
人間とサルの脳の違いとは何か。
サルは人の言語を解することはできるし、真似さえする。またその手で道具を使うことも出来るだろう。
DNA上では、1%の違いしかなく、脳の大きさも、その身体のサイズから比較すれば、人間とさほどの差はない。
だけど、サルは前頭葉にある『短期記憶』の弱さが決定的に違うのである。
何度も何度も繰り返し、反復することで覚える『長期記憶』であるなら、サルもモノを覚えよう。
しかし、ただ単に言われただけのことは、耳に聞こえ脳に入っても、すぐに頭の外へ出てしまう。
こちらが命令したとしても、その命令をされたこと自体が忘れられてしまう。
そして、いくら躾けたからといって、野生の獣が主を襲わない絶対の保証はない。
人間以外の動物に<心理掌握>は通じない……というより、命令を打ち込んでも短期記憶できないので、三歩も歩かぬ内に忘れてしまうのだ。
食蜂操祈が鬼塚陽菜に施した処置は、脳の記憶の呼び出し経路の一時的な封鎖だ。
<木原>がある犬畜生に一個としての心を与えたが、これは、その逆に人間から獣に堕す。
<大覇星祭>でも、とあるスポーツに優先して力を入れた高校が常盤台中学と対戦前にもしていたが、スポーツや格闘技の試合前に、選手がわざと野蛮に大声を上げたりする儀式を行うこともある。
あまりの獰猛さに人ならざる獣の戦士と恐れられた古代北欧のヴァイキングは、戦の時に、狼や熊の毛皮を纏う自己暗示で士気を極限まで高めたという。
そうこれが、『
<心理掌握>の対抗策としては、下の下で、精神干渉でかつて痛い目にあった彼女が一度だけ試したこともあったが、元々の資質もあったせいかあまりに適合しすぎて暴走した彼女を止めるのは先輩と寮監の二人がかりを以てしても至難であった。
『<木原>――木原幻生には鬼塚もちょっとばかりの因縁がある』
念のために―――建物外にいたもうひとりの先輩と窓から真下に照準を合わせて念話で状況を伝えたが、少しでも戦力が欲しいこの状況下で、捨て身の覚悟があるのならばと、施設のことは何も話さず、共通の敵の撃破のために協力―――否、利用することにした。
流石に、食蜂操祈でさえも、本人からの強い希望と、最悪失敗したとしても異常を正す右手と正常に戻す技術を持った兄妹の保証がなければ、このような自己暗示の手伝いなどやらなかったが。
そう、食蜂操祈がその姿を隠していた、何故、二人がかりで攻めなかったかは。
近くにいるのが木原幻生じゃなくても―――今の鬼塚陽菜には関係ないのだ。
鬼さんこちら♪ 手の鳴る方へ♪ ……と隔壁や<重力子寄木板>など建物内のセキュリティを駆使することで道を作り、上手く両者が鉢合わせるように誘導。
初手で意思の関係ない完全操作や昏倒の精神干渉を選択されれば、ソレで終わりだろう。だが、その機能を停止させてただの被り物と変わらないとはいえメンタルガードを装着させており、木原幻生は少しも痕跡を見せない食蜂操祈を捜しており、関係があるなら少しでも情報を欲していた。それに強力な高位能力者は、将棋のように駒として自分のモノにしようとする傾向も見てとれる。賭けの要素は相当強いが、分の悪いわけでもない。
そして、一度でも食らいつけば、能力の使用に頭が回らなくても、常盤台最強は能力なしに十分に強い。ましてこの超近接の間合いは、能力演算が間に合わない。
「ぎゃあああああああああああッ!?!?!?」
だちゅっ! という水っぽい音。そして、瞼の奥から伝わるゴリゴリと言う嫌な異物感。鼓膜を突き破る小指を刺したまま、今度は親指がその千里眼を潰しにかかる。
いや、親指を爪を立てて突き込み、折り曲げ、眼球を掻きだそうとしている。
プシュッ! という、腹に抜ける氷結の杭。
超能力の<心理掌握>や一一次元を計算する<座標移動>など高度の演算と道具を必要とする能力だけでなく、<多才能力>には多様な能力が揃っている。
刺し貫かれた程度で怯まない―――が、そこは先の戦闘で負傷した患部。
「ガァ―――ッ!」
左の脇腹に赤黒い風穴を空けた鬼塚陽菜が、呻くような声を発する。そして、<風力使い>の鎌鼬がその左腕を抉る。五指のうち肝心の一本である親指と繋がっている腱が切られた。が、構わず。力が抜けた左、しかし一層昂ぶらせる右。
赤線を引きながら、血塗れた小指親指を引き抜くと同時に、胴体を蹴り上げる。くの字に宙に浮かび、頭は地面に下がる。狂獣士は、左の眼窩から血を流しながら口から泡を吹く幻生の髪の毛を千里眼を食い破ったばかりの右の手で鷲掴みにし、片手一本で両足が浮くほど吊り上げ、そのまま片脚を軸に回り遠心を付けてから後頭部から勢いよく床へと叩きつけた。
急落の高低差が生み出す轟音は、一本背負いなど比にならなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
荒々しい暴力は、そこで終焉する。死なせてしまったのか、食蜂操祈は若干の寒気と共にそう思ったが、狂学者は辛うじて呻き声をあげていた。
「老若男女容赦なし。……とはいっても、ここまで破壊しておきながら、ギリギリで一命を取り留めてる。長期入院は余儀なくされるだろうし、まともに生活力できなくなるでしょうけど、あの途方もない暴力の果ての寸止めはもはや芸術の域よねぇ」
『
機能停止ししているメンタルガードは、
狂化するよう精神調整を手伝ったとはいえ、その相手に人殺しまでさせてしまうのには後味の悪い抵抗がある。
「ま、さっき『
狂獣士の先輩を鎮静化させて、リモコンを狂学者に合わせる。
「漁夫の利、とは少し違うけどぉ、まさしく虎の尾を踏んだ今のお爺ちゃんに私の<心理掌握>を防げるかしらぁ……?」
先はああ言ったが、木原幻生の頭は除く必要がある。それは腐った臭いの充満したゴミ箱に手を突っ込むようなもの。確実に汚染しているであろう狂学者の脳内に、深く潜ることは、精神系能力者の経験則からできれば避けておきたいところだが、今はそういうわけにはいかない。
学園都市の崩壊などに興味はないが知人が巻き込まれるとなれば、見過ごしてはおけないし、まして、旧個体1号の暴走だ。
経験を共有した『妹』と言えど、食蜂操祈が過ごしたドリーとは違う。それに<妹達>の時にも思ったが、彼女を助けたところで罪滅ぼしになるとは思ってない。
とはいえ。
旧個体を調整したと思しき狂学者から是か非でも情報を抜きとらねばならない。
食蜂は木原幻生に向けたリモコン、親指を使ってオーディオセット用のボリュームダイヤルを親指の腹で回し―――
「ヒョオッ!!」
声が、した。
痙攣しかしてなかった老体、その震えの意味が豹変する。
「ヒヒヒ ヒヒ ヒハ ヒャ!!」
すなわち、総身震わすほどの歓喜に。
「ヒャーーーッ!!! ハ八八ノヽハハ八ハノヽノヽ 八ハハノヽノヽッッ!!!!!」
音程も音量も歪にバラバラ。それがより狂気を際立たせる。
狂獣士の破壊行為に遭ったはずの狂学者は、ゆっくりと、余裕をもって立ち上がった。
破壊の爪痕は幻ではない。今もぽっかりと左の眼窩は開いており、その両耳からも血を流しているが、木原幻生の顔には、先までと変わらない、笑みが張り付いたままだ。
「いやぁ~、ひどいねぇ。こんな枯れ木のように貧相な老人をこれほど乱暴するなんて」
最初の蹴撃に折れた腕が、内側から開いた。
剥き出しになる内部構造。
本来筋肉と血管が走るべき場所には、多くのワイヤーケーブルや強化人工筋肉、高精度アクチュエーターに液衝撃ダンパー、内部装甲が詰め込まれ、そのほか金属骨格には無数の電子チップや特殊接続用の各種ポートが埋め込まれていた。
「あちゃ~、この腕もダメになってるじゃないか。左目も耳も。まあ、壊れたらまた別のに取り換えればいいんだけどね」
掴んだ腕を捻ると、あっさりと外れた。
アレは、義手……!?
いや、でも片目と耳を破壊されておきながら、あそこまで平然といられるのはありえない。
「<
キンキン、と“明らかな金属音”を立てて、後頭部をリモコンで小突き、
「さっき言わなかったっけ? 僕も実験で何度も死にかけたんだって。おかげで僕の全身は代替技術の見本市状態でね。今の僕に唯一生身と言えるのは、小指ほど透明な円筒容器に詰め込んだ視床下部くらいなものなんだ。それ以外は全部サイボーグ。僕はそれに更に<幻想御手>の脳波調律も組み込んでいてね。僕自身が、『量産型能力者』計画の失敗から始まった、対超能力者の『想定カタストロフ029』の試験体と言ったところかな」
落とした懐中電灯付きのリモコンを拾い上げて―――食蜂操祈の視界が下がった。いや、顔だけだした状態で床に身体を埋め込むように
(しま……ッ!?)
人間に、ましてや人並以下に体力のない食蜂にこの生首状態から脱する術はない。
<才能工房>に残された木原幻生襲撃時の監視カメラの映像を確認した時も思ったが、視野を物理的な制限なく広げる<遠隔透視>と視認した相手を物理的な制限なく移動させる<座標移動>は最悪の組み合わせだ。
指ひとつも身動きできず、完全に、捕まった。
「パーツは中々高性能なんだけど、家族割引にしてもお高くてねー。でも、逃げ隠れてた食蜂君を誘い出す演技に使えたなら、このくらいは安いものだがね」
片腕片目両耳を失ったが、文字通り手も足も出せない状況に第五位を追い込んだ。施設も、援軍も、能力も使えない。ただの脆い実験動物も同然。
「?! 息が……空気……がっ!?」
「食蜂君は虚弱だから早めに寝を上げてくれるものと期待しているよ」
苦悶に身をよじらそうとする女王。
<風力使い>の大気調整が、狙った一点へ空気が流入するのを阻害し、そして下がりつつある気圧を均衡させようとする自然の因果にさえ逆らうよう干渉し、食蜂操祈のまわりを真空に近付けつつある。
「がっ……ひゅぅ……」
「うん? 何かいったかい? ああ、今は僕の耳が使えないからどうやって食蜂君のギブアップを判断すればいいか困りものだよ。
でも、これだけはその目を見てわかる。逆転を予兆させるものはない。
―――つまり食蜂君に、この状況を覆す秘策はなーんにもないってね」
くるくると懐中電灯付きに改造リモコンを回す。
呆気なく酸欠状態に陥って意識昏倒しかけている。頭もふらついて、能力を使う、精神干渉に抵抗できる状態ではない。
「フム、リミッター解除コードゲット。これでようやくドリー君は、天上の意思にいけるね」
第八学区
(まったくッ……いきなり現れてあーしろと!! <風紀委員>は便利屋じゃありませんのよッ!!)
白井黒子は転々と、点々と、事が起きていると思われる第二学区―――とは逆の方向の第八学区へと移動する。
<警備員>の主要サーバーに大規模なハッキングが発生し、学園都市の治安維持機能通信網に尋常ではない混乱が起きている最中で、独自行動している<風紀委員>は白井黒子くらいのものだろう。
同僚の<風紀委員>が誇る<
装着すると視界の端あたりに映るように、モノクルに地図画像が浮かんで見えて。
それは学園都市製の車種には当たり前についている駐車に便利なオプション――アラウンドビューモニターのように、真上から自身がいる位置を鳥瞰視野で確かめられるような。
黒子は、使い方もわからないけどとりあえず支給されている物品は取っておくのだが説明書は見ない性分で、『飛ばせば何でも武器になりますし』と特に自ら学ぼうとするほど意欲はない。
けれど、これは話半分で流していた講習に説明された記憶は皆無である。
『これはなんですの初春?』
『衛星映像です。白井さんを中心にして、周囲にいる人の位置情報を全てリアルタイムに捕捉できます』
『へぇ、こんな状況なのによく使用許可が……―――ひょっとして、これってハッキン』
『こんな状況だから、大丈夫です、ばれません。証拠も残しませんし、たとえ残ったとしてもそれが誰なのかは今では分かりません』
『そんな火事場泥棒みたいな真似……』
『人命優先ですよぉ♪』
不安がないとは言えない。事が終わったら、また“やり過ぎ”なこの凄腕のハッカーに説教をすると黒子は心に決めている。
けれど、これさえあれば通信網も混乱した現在状況に置いても、ネットも通話等も行える、新種のウィルスへの対応で手一杯のところ援助してくれたことを無碍にはせず、感謝し、このアラウンドビューグラスで、警策看取を捜索しようと―――したところで、
“彼女”が、現れた。
『あなたに、お願いがあります』
その声を聞いて、白井黒子は、まるで天からの啓示を受けたかのような、強制力を覚えた。
すぐに先まで受けていた精神干渉の疑いを持ったが、すぐに首を振って払った。これはそういう類ではない。人と存在自体が別格である、そう直感した。
夏休み後、二学期初日の学校生活の放課後に出会った――捜索していた警策看取がかつて在籍していた――霧ヶ丘女学院の制服を着た女子高生は、けれど、こちらに頭を下げて必死に頼み込む。
『この子達の……AIM拡散力場の……架空物質化能力で……身体を作ることができたけど……わたしはまだ……直接、介入できるほどじゃないから……でも、この子を救ってもらえたら……』
正直に言って、白井黒子はその依頼を受けるほど精神的に余裕があるわけではなかった。もちろん、<風紀委員>ならば人命を優先して事に及ぶべきであるが―――今は彼女が最も敬うお姉様方が、事件に巻き込まれている。
できれば、記憶を操作されていたとはいえ、あのような態度対応……その罪滅ぼしとも呼べるものでもあるが、是か非でも露払いの役目を果たしたい。
だが、その迷いに判断を下す前に、別の<風紀委員>――木原那由他から通信が入り、警策看取を追い込んだとの情報が入った。増援も特に必要としてない様子で、小学生ながら戦闘に関しては超能力者のお姉様を一時は追い詰めたほどで、そして、その仕事ぶりは、<風紀委員>の臨時教官も務める大お姉様から『黒子さんが『麒麟児』なら、那由他さんは『神童』です』と太鼓判を押すほど(小学生時に下積みを課されてきた黒子としては若干のジェラシーを覚えたがその評価には納得している)優秀な<風紀委員>である。
そして―――
『このままじゃ、<
関連があり、助けになる、とわかった以上、その依頼を受けるに迷いはなくなった。
(これで騙されたら、わたくしの人を見る目がなかったと思うことにしましょう)
そうして、白井黒子は依頼人に指示された通りに“3人の同行者”を拾って、移動している最中である。
「クロコの<空間移動>って、<
「は、はあ、フェアリーですの??」
大お姉様の知人で、その服装の通りに神学宗教などの科学とは離れた文化に詳しいと紹介された
「こうやって能力で移動してると、楽ですけど自然と運動不足になりそうですねー」
「ふぐぬ!?」
初春のクラスメイトで黒子の友人の佐天涙子、それと彼女が抱き抱える、要救助者の金髪の幼女。
なぜ、“彼女”がこの3人を指定したかは分からないが、佐天もインデックスも“彼女”の声を聞いており、その魘される“稀薄になっている”幼女を救うことに同調している。
<
白井黒子が<
従って、白井黒子は避難等で人を連れて空間転移をする際は、2人まで、と決めている。
しかし今、黒子にかかる負荷は、2人分と変わらない。
(この子……その幼い見た目から、体重は軽いことは瞭然ですけど、いくらなんでもこれは……)
“実体重がほとんどない”。触ることはできるのに、風に吹かれて飛んで行ってしまいそうな。目を離したら消えてしまいそうな霞じみた存在。
そんな黒子の焦燥にも似た疑問を察したのか、
「エクトプラズマー、みたいだね」
分野が異なるが故に、やや自信がなさそうに、インデックスは言う。
それに佐天が神妙な顔を作りながら、首を傾げて、
「うーん、それって、幽体離脱に出てくる生霊みたいな?」
「そうだね。一刻も早く、消える前にこの子の身体に戻してあげないと……」
主に都市伝説などのオカルト話を日課的に収集するのが趣味で“そういう類”にも許容範囲の広い佐天は、修道女の言葉に反応を示しているも、正直に言って、白井黒子にはあまり話についていけていない。けれど、切迫した状況であることは理解を共有している。
「―――なら、急がないといけませんわね」
まだ、お姉様二人がいると思われる第二学区に背を向けることは、後ろ髪を引かれる想いであるが、
『そうね。黒子の言う通りね。うん、私、皆こと信じてるから』
あのとき。
記憶を失くしていた時であっても、白井黒子は<風紀委員>としてだけでなく、白井黒子個人として彼女の信頼を受けることが不思議と悪くなかった。
であるなら、
(―――尊敬する者として、何があろうとへこたれるような方ではないと、わたくし白井黒子はお姉様方を信じておりますの!!!)
<空間移動>は、脳での演算処理の負担が大きく使用者の精神状態に深く依存する。
精神が不安定な状態では能力が発動しない場合もあるが――先の佐天の適当な呟きに精神が不安定になったが――その逆に、普段以上の性能が発揮する場合もある。
空間転移で稼げる一回の移動距離は、80m前後が限界。ただしある一点まで移動したら次の一点へ続けて移動する、という方法を使えば、長距離でも空気抵抗を受けることなく素早く移動することができる。今は常にない3人分を運んでの移動で慎重に抑えているが、時速に換算すれば100kmオーバー――10kmほどの距離を5分前後の時間で制覇できて、“彼女”が示し、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
元々、<
つまり、この暴走状態なら放置しても30分も持たずに生命機能は停止し―――そして楔が消えれば、一段階上の領域へ
『<能力体結晶=ラストステージ>は、もうすぐ完了する。だがその先に行かせるには、膨らませた風船を繋ぎ止めていた糸を切る必要がある。
さらなる高みに昇るため、あえて一度完了したものを徹底的に破壊することになるが、その時は人形の最期でもあるだろうから、自動的にその糸は切れることになるがなァ』
だから、壊れるまで力を放出させ続けさせていろ。誰にも邪魔を入れさせるな。邪魔が入るようならば、あの爺を相手に
第八学区の教職員向けのマンション。
初春飾利が調べたところ、1フロアに20部屋の20階立て。出入り口の玄関には監視カメラが設置されているが、プライバシーの観点からか内部にはカメラは排除されており、様子は探ることはできない、と。
書類上は<警備員>とも提携を結んでいる企業『スタディコーポレーション』が占有しているそうだが、実質的な入居者はゼロ。しかし電気水道のライフラインが通っている、『秘密基地』である。
そして、つい先程、<大覇星祭>の競技用具を載せたとされる<警備員>の車両がそこへ荷降ろしをした。
<風紀委員>の腕章というのは、基本的に便利なものだ。
これを付けている限り、完全下校時刻を過ぎて外に出歩いても、見回りのため、と大人たちの監視から免除され、喫茶店で長時間居座っても張り込みだと、タクシーに『前に走っている車を追いかけて』と無茶振りしても、捕り物の一環だと相手から勝手に得心して協力してくれる。
今もこうして、弱った幼女を運んで全速で街中を飛び回っていても、誰に止められることはなかった。
しかしながら、勿論その暗黙の強権が通じない場合もある。
例えば。
「これは……『駆動鎧』」
巨大な像ほどの大きさのある多脚型駆動鎧が二機と、細身のフォルムの人体型でランスのような円錐状の武器を持った駆動鎧が一機。
義体技術に並ぶ人体駆動補助機械、それも普段目にする搭乗席がドラム缶に似たずんぐりむっくりとした通常のモノとは異なる、設計にかかる
そして、民間人3人を連れている今の状態で、<警備員>の一部隊と同等以上の装備をした兵隊が一蹴された相手とやり合うのは危険極まりない。
(まぁ、<空間移動>で上手く侵入すれば、相手に勘付かれることは)
衛星からの鳥瞰視野を頼りに、駆動鎧らの監視の穴を突くように、点々と細かく跳躍を繰り返して距離を刻みながら、マンション内部に―――
その時、白井黒子は知らなかった。
駆動鎧が警戒する相手が、ある厳重な警備態勢が敷かれた施設に“空間移動系能力を利用して侵入した”ことを―――そして、対能力者のセキュリティを用意してあることを。
「―――っ!? クロコ、サテン!」
内部に、侵入は成功した。が、避難警報が発令されているように、マンション内のスピーカーから増幅された“音”が震撼している。その騒がしさ佐天は頭を押さえ、さらに黒子は着地に失敗したように前に躓いて床に跪く。
程度の差こそあれ二人共、その意思ははっきりとしているものの頭を押さえて苦しんでいる。インデックスも、キーン、と金属質の音が、鈍く差し込むような痛みを伴いつつ頭蓋骨内部で鳴り響いているようだが、彼女らほど苦悶の色は浮かんでいない。
(この音が……っ)
特定周波数の音を発することで能力の発動を阻害する、<キャパシティダウン>。
能力開発を受けていないインデックスにはただ耳障りな雑音にしか聴こえないが、能力者の二人は違う。
精神状態が大きく能力に関わる空間移動系能力者の白井黒子は立ち上がろうにも、片膝をついた状態から以上に起き上がれない。
「うっ」
キィイイン―――金属音と共に辺りの風景が歪んで見える。<キャパシティダウン>だ、と理解した。<スキルアウト>が起こした暴動事件で、主犯格が使っていたのを耳にしたことがある。
その時と同じように、白井黒子は能力も使えず、立ち上がることも出来ない。そして、幼女の身体を維持しているという佐天の空間圧縮の能力も解れ始めて、その姿がブレ始めている。
(お姉様方が戦っているかもしれないこんな時に……っ。こんなところで、膝をつくわけにはまいりませんのよ白井黒子!)
自らを鼓舞し奮い立たせようにも、眉間に刻まれた苦悶の皺は解けない。声を発しようにも、今は歯を強く噛み合わせていないと痛みに蹲りそうなほどだ。
(わたくしが中の様子を確認もせずに飛び込んでしまったからこんな事態に……せめて、彼女達は外へ―――しかし、それだと駆動鎧の見張りが……っ!)
だが、ここは相手の陣地だ。留まっていては、いずれ見つかって―――と考えてしまったからか、廊下の向こうから、建物内に放っているドラム缶型の警備ロボットが現れた。
<キャパシティダウン>の影響下でなければ、容易く機能停止に追い込めるが、今の能力が使えない黒子たちでは全く相手にならない。
詰んだ。
初春飾利がここのセキュリティをハッキングしようにも、まだ学園都市のネットワークは回復していない。
どこでも良いから近くの部屋に逃げ込もうとするが、脚に力が入らず動けず、捕まって―――
不意に、音が止んだ。
「えっ」
金属音の代わりに聴こえてくるかすかなメロディ。
その音源に釣られてみれば、そこに修道女が、歌っている。
それはけして余裕の表れではない。
伊達を気取って虚勢を張ってるわけでもなく、
声援で励まそうというのも違う。
その歌声の福音によって―――修道女は、雑音の効力を弱めているのだ。
音同士をぶつけあって。<キャパシティダウン>が震撼する建物全部とまでは行かないが、この修道女の周囲にだけは、全くのところ、消し去っているのだ。
科学技術の対能力者兵器について、頭の中の図書館に知識はないが、この音が原因で、ならばこの音をどうにかすればいいと考えるのは至極単純な推理である。
プッシュ式の電話回線で用いられる信号音DTMFの周波数と同じ音を再現することで、ボタンを押さずに声だけで電話をかけられる、と佐天はテレビ番組で見たことがある。
人間の発声は機械にも通じるものがあるが、ならば周波数を音波相殺することも出来ないわけではないだろう。インデックスはその声一つで相手の精神を揺さぶれるほど、高度な発声技術をもっている。
「 ~~~ッ、スゥ―――ハァ、ハァ――― 」
呼吸をして、もう一度。
その歌声にだいぶ楽になったが、それでもいつまで持つわけではない。インデックスが磨いたのは発生の技術であって、体力に関しては人並なのだ。鳴り続ける機械音に対抗し、いつまでも息もせず無呼吸で歌い続けるには無理がある。
そして、警備ロボットも真っ直ぐこちらを詰めている。
この好機に白井黒子はとっさに<空間移動>を行うのと、警備ロボットが勢いのままその先までいた標的の後ろ壁に衝突するのはほぼ同時であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「……ひとまず、これで話はできる状況になりましたわね」
白井黒子が飛んだのは外ではなく、真上の階の一室。
転移してすぐ室内を雑音で満たすスピーカーを見つけて破壊し、完全に聴こえなくなったわけではないが、腰を落ち着けるようにした。
「あ、ありがとう……インデックスさん」
「ハァ、ハァ―――うん……上手く言ったようで何よりなんだよ」
「ええ、まさかあんな方法で<キャパシティダウン>を相殺して見せるとは思いませんでしたの。感謝しますわ。―――ですが、警備ロボットに見つかってしまった以上、外の駆動鎧に侵入が伝わってしまったでしょう」
外の様子が映し出されるアラウンドビューグラスから、三機の駆動鎧が動き出し、その内の人型駆動鎧がマンション内に入っていった。
<キャパシティダウン>といい、改造された駆動鎧といい、<風紀委員>であっても支給されないような代物を用意する相手。色々と調べたいことはあるが、それは後。
一度立て直すにも、この状況を打開しなければならない。
「―――っ! 二人共、この子の身体が……っ!?」
ザザ……と幼女の姿にラグが走る。時間は、ない。撤退する余裕もない。
「でしたら、取るべき策はひとつしかありませんわね」
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映像から、少女たちの姿が消えた。
(<空間移動>、か……)
人型駆動鎧を装備した<スタディ>の小佐古俊一は、遠隔半自動操作している警備ロボットから送られた映像から目を離す。この建物内のセキュリティは小佐古が担当しているのだが、あえて監視カメラの設置はしていない。ハッキングされれば逆に利用されてしまう恐れがあるからで、僅かな隙間も許すわけにはいかなった。……そう、有富が企画した<革命未明>は外に漏らしてはならない極秘の計画だった。
小佐古は念のため外で多脚型駆動鎧に騎乗して見張っている関村と斑目へ通信を繋げる。
「どう思う?」
『脱出はしてないようだ』
斑目の回答は端的。
『さっきまでの部隊と関係あるんだよな?』
関村は疑問を入れる。
「ああ、たぶんね。さっきのあれは木原幻生が差し向けた刺客だ。俺たちの実験を邪魔して―――いや、研究成果を奪いに来たんだろうさ」
『ええっ!?』
「警備ロボットの映像に、僕たちの<
『待て小佐古! あそこにはまだ有富たちがいるはずだぞ!』
「ああ、そうさ。今、有富に連絡を入れてるが一向に出ようとしない」
『まさか、俺たちを裏切って木原幻生側についたのか……っ!?』
『そ、そんな!? 有富君は、木原幻生に復讐しようって僕らに言っていたじゃないか!?』
「考えたくもないけどね。有富は最初、木原幻生に憧れていた。……ありえない話じゃないよ。
まあ、でも、<スタディ>のセキュリティを担当していたのは僕だ。ここに逃げ道はないし、能力で逃げようとすることも出来ない」
『そ、そうだよね』
『木原幻生が第五位の拠点に
実験―――それはもはや自分達が最初に望んでモノではなくなってしまっているが、ここで終わりとするわけにはいかない。
<木原>同士の骨肉の争いに巻き込まれた。ならば、せめて自分達は勝ち馬に乗る。それは<スタディ>の生き残る術だ。
「僕たちは建物内に<木原>から援助してもらった<キャパシティダウン>を設置している。さきほど最後の気力でも振り絞って空間転移してみせたけど、ソレで最後さ。とてもこの中で能力を使えるような能力者はいない」
『飛んで火に入る夏の虫だな』
相手が撤退して、外に出ていないということは、まだこの中にいるということを意味している。確実に仕留められなかったのは失策だが、構わないと判断している。
何故ならば相手の行動パターンも読める。
この<キャパシティダウン>に行動力を大きく制限されいる中で、相手が目指すとすれば、まず建物内の放送を司る守衛室。<キャパシティダウン>の機能停止。この建物内の設計図は流出させていないが、ここの電力の消費具合を確かめられれば、すぐにその位置を特定できるし、また<スタディ>のリーダーだった有富春樹を本当に内通者だった場合は彼に教えてもらっているだろう。
だから、小佐古はまず守衛室へ急ぐ。
<空間移動>さえできなければ、外に逃げようが関村と斑目に捕まり、マンション内部にいれば、雑音に能力者どもは弱り果てる。
「ま、<キャパシティダウン>なんかなくても、<木原>から頂いたこの第三位のデータを元に設計した最新の駆動鎧用武装があれば、一撃で決着はつくけどね」
そして、小佐古は目的の守衛室前に到着し、扉が無事――まだ守衛室が侵入されていないことを確かめ、勝利を確信する。『
ビスビスビスッ!! と。
ミシン打ちのように無数の金属矢が、『超電磁砲』の機銃槍を串刺しにした。
「な」
一瞬、目の前の光景が理解できなかった。
そして脳の回転が正常に戻る前に、更に続けて金属矢が襲いかかってきた。
「お、お、おォォおおお!?」
駆動鎧の関節部。そして、重要な補助電子頭脳部。複数の金属矢に貫かれ、しまいには倒されて横転。亀の子のように動かなくなった針付けの駆動鎧はもはや拷問器具にあるアイアンメイデンで、その中に閉じ込められてしまった小佐古。その手から握り締めていたはずの機銃槍の感触がふっと消える。何者のからの奇襲を受けて完全に無効化された。
「どうなってる!? まだ、<キャパシティダウン>は作動しているはずだぞ―――」
中を覗けば、守衛室は無事―――といきなり現れた、その視界を遮る人影。
いや、それは人影ではなく、小佐古が装着しているのと同じ人型の、それも女性らしい滑らかな流線を描くボディラインの駆動鎧。
そして。
「まあ、こんなのがお姉様の<超電磁砲>を元に造られたオモチャですの」
少女の声が聞こえた。
駆動鎧からその声は聞こえた。
その手に持った機銃槍がふっと消えて、守衛室にある制御盤を刺し貫く形で転移した。
音が、止む。
小佐古は相手に死地だったはずの陣形が崩されたことを悟りながらも、頭の中は疑問に埋め尽くされていた。
「なっ、なん……ッ!? 駆動鎧を動かせるんだ!? ありえない!! それは
「それができたから、わたくしはここにいるのでしょう」
「っ、そうか! 有富か! 有富がやったんだな! クソっ、裏切りやがって」
「いいえ、そんな方わたくしは全く存じません。幸いこちらには最高に頼りになる
お飾りでもなければ、駆動鎧はひとりで着ることはできないとされる。
白井黒子は支給された道具はいつも初春飾利から教わっている。今回もそれと同じ。
教員用のマンションとはいえ実質的な『秘密基地』に、<大覇星祭>の競技用具を預けようとする<警備員>の車両を怪しんで、納品を受け取った場所と思しきところへ移動し、そこでマットや長棒、槍投げ競技用の槍などに隠されていた二機の駆動鎧を発見。
その内の一機に、モバイル通信も可能なアラウンドビューグラスから初春飾利の端末と繋ぐ。一箇所でもラインができれば、そこからさらに多角的に解析を進める。それはもう、侵入などという生易しいものではない。駆動鎧のシステムの管理者や設計者以上の速度でもって、仮初の主として君臨。それはマシンスペックに任せて手当たり次第にするのではなく、瞬時にまず構造を分析し、最速かつリスクの少ないルートを模索、裏道まで探り当て誰よりも早く最短の作業量で、この人型駆動鎧を白井黒子にセッティングした。
天才的な職人の勘や指先が、大企業の精密機械よりも優れた数値を叩き出す、というのがテレビ番組で紹介されたのを見たが、初春飾利の知性と技能はまさにその領域に達している。御坂美琴の学園都市最高の発電系能力者の能力を駆使した力技よりも情報解析速度は勝ることを、白井黒子は認めていた。
「あなたが、<キャパシティダウン>が鳴らされていた建物内に何の躊躇いもなく入れた。学園都市の生徒であるならば、全員が開発を受けた能力者であるはずなのに」
駆動鎧には、内部にいる操縦者の精神安定できる環境を保つようになっていることを知っている。不快な雑音などはシャットされるだろう。
「なら、こうして駆動鎧を着込めば<キャパシティダウン>の影響を無視できるでしょう? 私の<空間移動>は130.7kgまでなら自由に跳ばすことができますし」
そして、今着用している人型の駆動鎧は、そのままさらに巨大な駆動鎧に乗り込むことを想定して設計されており、駆動鎧の中では非常に軽量の部類。
「もう勝ち目はありませんわよ」
「このォォおおお!! 能力者めェェ!!」
反動つけて起き上がり、小佐古は駆動鎧で飛びかかる―――が、その瞬間に、相手の駆動鎧は消えており、頭上に転移。
「白井黒子百キロキッ―――パワードスーツ百キロドロップキック!」
「―――ぐぼふぎゅえ!?」
そのまま重力に任せて落下し、勢いのある踏みつけを駆動鎧の頭に叩き込んだ。装甲を付けていても衝撃は通り、脳天に乙女の体重+アルファの百キロドロップキックを受けて、昏倒。
「わたくしの役目は囮ですが―――外の二人も片して仕舞いましょう」
『何ィ!? 小佐古がやられた!?』
『あ、あの人は! 早くあの人に応援を―――』
その後数分で、空間転移をランダムに繰り返す人型駆動鎧を捉えきれず、二機の多脚型駆動鎧は槍投げ競技用の槍に滅多刺しの針鼠に変貌させられて、沈黙した。
道中
「―――今があの爺をぶっ潰すチャンスだ」
3階立ての建物ほどありそうな巨体が通る。
本来、災害時に小回りの利く重機として運用される10m級の巨大駆動鎧は、木原=テレスティーナ=ライフラインの専用機として改造され、職務上で必要とされる以上のスペックと機能を保持している。
軌道面も、路面状況に合わせて駆動形態が最適化されるだけでなく、脚部ローラーを使用した走行は平滑地で、スポーツカーを優に上回る高い機動力を実現している。
重量と速度で、物理衝撃度が測れるとするなら、それは体当たりだけで研究所を壊滅できるであろう。
予め、駆動鎧の部隊を先行させており、走行の邪魔なものは誘導または排除させて、混雑した<大覇星祭>の交通網を爆進する巨大駆動鎧。
(まず、
『案内人』やらお気に入りの能力者を囲っているとされる拠点は既に見つけている。高能力な実験動物を奪う良い機会だ。
<警備員>の―――に電子戦を仕掛けてきたようだが、こっちはそれ以上の致命傷を与えてやる!)
血縁上、爺と孫の関係。
だが、そんなのは<木原>に関係ない。
生き残ったのが、より優秀な<木原>であるなら<木原>に問題はない。
そうして、テレスティーナは、幻生の拠点を勢い任せに破壊する……予定だった。
指間に拠点を捉えたところで、巨大駆動鎧は急制動した。人気が一切なくなった路面。
そこで先行させていた駆動鎧部隊が、“自らに自らを其々の武装で装甲を砕いて自滅”していたからだ。
(故障か―――いや、ありえねェ。となると……)
その前に立つ青年へ視線をやった時、見計らったように彼は口を開いた。
「ようやく、親玉のお出ましですか」
「テメェがこいつらをやったのか?」
「ええ、今、私の同僚があちらで作業をしておりましてね。邪魔が入らないよう見張りを」
彼はたったひとりで、傷一つも負わず、テレスティーナの駆動鎧部隊を壊滅したことになるが、それを誇示しない。中にはまだ、操縦する兵が生き残っているのだが、その生き死にには興味がなさそうである。
そして、こちらも興味はない。
テレスティーナは無言で巨大駆動鎧を急発進させる。中途で転がっていた駆動鎧を蹴散らして尚加速し、一気に最高速に達した巨大な金属塊が青年に迫る。
武器ではない。
木原幻生が義手技術に手を染めたというなら、テレスティーナは10の頃から駆動鎧を着こなす。彼女にとって巨大駆動鎧は己の身体も同然である。
そして、これに攻撃の意識はない。肩にぶつかった相手が、進路に邪魔だったから撥ね飛ばすと同じ事。
故に、狂学者の意識は、青年を守る魔導書の術を破った。
「攻撃する意思なく、意図的に人を轢けるとは、これだからこの街は怖い」
避けず、その場を動かない。真上に翳した青年の手に握られているのは、黒曜石でできたナイフだ。
わずかに雲の隙間より差し込む、金星の光を反射させて利用する霊装は、あらゆる物体をバラバラにする。
科学技術で説明がつく現象ではない。
「私の目的は、裏切った木原幻生の掃除です。退いてくれるのなら、私にあなたを害する理由はないわけですが」
巨大駆動鎧が真正面から迫る最中、青年は黒曜石のナイフを軽く振るいながら応じる。
その間に、テレスティーナが騎乗していた10m級の巨大駆動鎧はボロボロボロボロと崩れていく、ありとあらゆるネジが外れ、鋼板と鋼板の隙間が広がり、モーターや歯車が床へと落ちていく。
完全に装甲を失い、中のスマートな人型駆動鎧が外気にさらされるまで、そんなに時間はかからなかった。
「運がいい方ですね。もしこの『槍』の効果範囲が肉体にも及んでいれば、今頃あなたは肉と骨だけに解体されていたでしょう」
さぁ、この件から手を退きますか、と改めて青年は問いかける。
一方、テレスティーナはその青年の顔を改めて、今度はよく見憶えてから、
「お前、どこのモンだ?」
「まだ、組織と言えるほど集まったというわけではありませんが、<グループ>と申しましょう」
第二学区 才能工房
「そうねぇ。わざわざ勝ちを逆転して覆す秘策力を用意することは私にもできないわぁ」
ハッ!? と木原幻生は目を醒ます。彼は第五位を捕えて、その脳内から必要なコードを読み取ったはずだ。なのに、木原幻生は、視界に床が迫っていた。
そう、木原幻生はうつ伏せに倒れていた。
(な、にが……?)
身体が――義体がうまく作動しない。
冷蔵庫の中で長時間冷やされたかのように、全身の関節がぎこちない震えを発するばかり。
そして。
蕩けるように甘い、捕えた虫の翅を毟る子供みたいな陽気な声が木原幻生の頭上から垂れ流される。
「おはようお爺ちゃん、お目覚めはいかが?」
埋めたはずの。
食蜂操祈が、二本の足で立って。
リモコンを木原幻生に合わせて―――終わっていた。
―――何が、起こっている?
―――どうして、因果が捻じ曲がっている?
―――地面に伏したのは第五位のはずなのに?
「あの腹黒い先輩と付き合ってきてもう一年以上が経つけど、駆け引きに能力に頼り切りになるわけがないじゃないし」
100%完全な私情のために持ち得る全てを懸ける、とも宣告した。
最上の精神系能力者である女王蜂の武器といえば、巨大なクローン脳と、最大派閥の人材。
『六花』とは、綺麗な六角形状の水を凍らせた雪の結晶を、花に譬えた言葉。
それの命名も、先輩がある花を、『雪のように白く、結晶のように一夜で儚く消える花』と称したことからで、そのある花とは、月下美人。
月下美人は、
「あなたが<幻想御手>の脳波調律技術の先駆者なのでしょうけど、現在の第一人者は違うわよぉ。<学究会>にはまるで興味力のない人だから、お兄さんの記憶のために、なんでしょうけど、私の派閥力を挙げて協力してるから、アナタの不安定な時代遅れより安全安心に、先輩の
リモコンの特定の番号を押すことで作動するように。
代理演算と同じような仕組みで、選別し『登録』した能力者とそのネットワークを構築し接続する。
「そして、私の天才力の波長に合ったお気に入りは、ひとつにまとめると、第五位の超能力の派生研究で膨らんだ技術の再現するよう応用力がある」
精神干渉が通じなければ致命的であるなら、対精神干渉に通じる手段も用意するのは当然。
人間の脳の内部構造に直接干渉するではなく、脳に入る情報を外部環境の変化することで間接的に干渉する。
例えば白い紙と黒い紙を並べて、離れた所から見てみれば、白い紙の方が手前にあるように誤視するように。
<透視能力>さえ欺ける精度の光と影のトリックアートの立体映像技術。
加えて、対象の感覚網を麻痺したことを覚らせずに麻痺させる能力がその誤差を大きくし、情報収集範囲を上げる五感強化に、取得した情報の多さに比例して正確な予測する演算能力の援助で映像の精度を上げれば、現実と幻想の境を区別がつかないほど曖昧になる。
「お… おお……」
そして。
陸上競技やサッカーなど、世界的に有名な国際大会―――そう例えば、世界中から注目を集める学園都市の<大覇星祭>。世界中の人間が共通する条件のもとで興奮や快楽に包まれている間は、民族だの思想だの国境だのと
それを人工的に――能力で作りだすことで、相手の頭の中で『体験』は続かせる。
そのために化学物質……本来は単体の感情を増減させるものであるが、人間の脳内分泌物と同じ効果をもつ微粒子を、植物を成長操作させる能力を込めたカビに載せて大気中に散布する。
感情の単発を増減させる化学物質自体は、本来の精神干渉のやり方とは異なるが、本質が液体変質能力である<心理掌握>で作り出せよう。
「まあ、先輩風にいえば複数の調理器具を使って料理を作るようなものなんだけどぉ♪ このお爺ちゃんはいつからご賞味あったと思ってるのかしらぁ?」
「おお おおお お おおおお」
数十秒先の未来を見せるほど高精度な立体映像を本物と思いこまされ、
現実への感覚網を下げて人間の脳を混乱させる化学物質を載せたカビを吸引して、
いつからか、その本人が望んだ幻覚を見たまま、木原幻生は放心状態へ陥っており。
「そうか……僕は、術中に…嵌っていたと…いう訳か……こりゃあ、一本取られたねぇ……」
―――その心の隙に、事はすべて終えている。
「それで私が敗北する体験をさせたのは業腹だけど、最後に随分と良い夢が見れたようじゃない。流石私……たちってところかしらぁ」
『
木原幻生、その学園都市研究者の長老の頭脳に打ち込んだのは、研究者人生を不能にする毒。
もう木原幻生は、狂うほど集中して考えられなくなり、現実と夢幻もわからないまま、延々と、彷徨い続ける。
海底の月を本物と思いこんだまま、狂学者だった老人は撈おうとする様は溺れるよう、天上の意思を夢見ながら二度と研究と呼べるものは不可能となった。
プシュ、と空気の抜ける音と共に後頭部から噴出したのは、人間性どころか生物性まで極限に削り取った、生命の最小単位。赤い物が詰め込まれた小指ほどの太さの、円筒形容器。
「そう、これが『木原幻生』の本体。<外装代脳>と同じようなものだけど、ちっぽけねぇ」
そして、本来が抜かれたサイボーグの身体は、糸が切れたように崩折れた。
つづく