とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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初めまして夜草と言います。

まだまだ至らぬところばかりの未熟者なので、ミスが多いかもしれませんが、温かく見守ってください。

そして少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

感想・意見・質問お待ちしております。


序章
序話 始まり


序話 始まり

 

 

 

公園

 

 

 オレンジ色に染まった空の下、公園で、まだ幼い少年と少女の兄妹が砂場でお城を作っている。

 2人の内、妹の方の容姿―――長い髪も、細い手足も、薄い唇も、白い肌も、可憐で整い過ぎていると言っても過言ではなく、そして、彼女の天真爛漫な笑顔は、誰であっても目を奪われるほど。もし、ドレスでも着せれば絵本から抜け出してきたようなお姫様になるに違いない。

 一方、兄の方は、ツンツンとした髪形が特徴的ではあるが、ごくごく一般的な容姿。だが、その瞳の奥には凛々しくも力強い輝きが秘められている。端から見れば、2人はお姫様とその騎士に見えるかもしれない。

 しかし、兄妹の周りには誰もいない。

 ここにはたった2人しかいない。いや、他の子供達がいない時間をわざわざ狙って、彼らは公園で遊んでいる。

 理由は簡単で、忌避されるからだ。子供達だけでなく、大人達からも。

 

 『疫病神』、と……

 

 

 

「……なあ」

 

 子供ながらにしては大きな城を完成させた直後、兄、上条当麻が躊躇いがちに口を開く。

 

「しいか。明日から、俺とは遊ぶな。じゃないと、お前までも『疫病神』にされちまう」

 

 上条当麻の周囲の人間は、彼のせいで、“不幸”になる。

 交通事故を起こさせて怪我を負わした。

 資金が盗まれ、会社が破産した。

 学校で、集団食中毒が発生した。

 そんな迷信がここ最近、ご近所どころかここら一帯に真しやかに囁かれている。先日なんてテレビ局の人間が遠くからカメラで撮影し、ニュースのドキュメンタリーに載せられたくらいだ。それ故、当麻は1人になれば、周囲の子供達から石を投げられる。

 反撃しようとすれば、親が出てきて叱られる。

 彼は何もしていない。だが、存在するだけで“不幸”をもたらす『疫病神』なのだ。

 

「今なら……間に合う。俺の事を……『疫病神』だとか言えば、アイツらもしいかを友達として迎えてくれるはずだ」

 

 『疫病神』……そう呼ばれる前はごく普通の子供だった。

 しかし、ふとしたきっかけ、立て続けに彼の周りに“不幸”が起きたせいで、友達だった子供達からも避けられるようになってしまった。

 唯一、残ったのは1つ年下の妹、上条詩歌だけだ。1人、また1人と友達が去っていく中、詩歌だけがその寂しさを払拭しようと一緒にいてくれる。

 自分と違って、しっかりとした出来の良い妹で、とても優しい女の子。

 この前も当麻が『疫病神』と蔑まれた際、猛犬のようにその男の子に飛び掛かっていったほどだ。

 そして、友達が1人もいなくなった今、当麻を寂しくさせないよう四六時中側にいる。そのおかげで、当麻は誰にどんな事をされようとも決して泣く事だけはしなかった。

 痛くても、

 悔しくても、

 寂しくても、

 妹に涙だけは見せないよう思考を制御し、楽しかったころを思い出す事で我慢してきた。

 それが、上条当麻の兄としての意地だ。

 上条詩歌の前では、決して弱い所を見せない、最高に格好良い兄でいようと……だが、それももう限界だった。

 この前、詩歌が喧嘩し、打ち負かした男の子は近所のリーダー的存在。子供の世界は残酷で、もし彼が詩歌も『疫病神』だと言えば、きっと詩歌も『疫病神』にされてしまうのかもしれない。

 詩歌との絆を手放すのは、誰よりも、悲しくて、寂しくて、苦しい……。彼女からも『疫病神』だと言われてしまえば、死にたくなるかもしれない。

 だが、妹までも『疫病神』だと扱わさせてはいけない。

 そして、今はまだ降りかかってないが、詩歌までも“不幸”になってしまったら……

 

 それだけは耐えられない。

 

 上条当麻の、詩歌の兄の矜持として、絶対に……

 

「な、俺は1人でも大丈夫だからさ。これからは、テレビゲームでもしてるよ。家の中に閉じこもってれば、あいつらも何もできないだろ?」

 

 幸い、詩歌にまだ“不幸”は振りかかっていない。どういう訳かは分からないが、詩歌がすぐ近くにいる時だけ“不幸”は起きていない。

 それに、詩歌は子供達の中でもアイドル的存在だ。当麻は、彼女よりも可愛らしい子を知らない。その為か、『疫病神』の妹であろうと彼女に石を投げる子はいない。

 

「ぶぅ~……」

 

 しかし、詩歌は不満たらたらにジトーっとした目で睨みつけ、ついでに、ぷくぷくと小さく愛らしい頬を膨らませる。

 

「まったく、お兄ちゃんも父さんと同じ事を言うの? しいかは、お兄ちゃんの事が好きだから一緒にいるだけだもん。もしかして、お兄ちゃんはしいかの事が……嫌い、なの?」

 

「そんな訳ねーよ。でもさ……ほら、俺と一緒にいたら……しいかまで石を投げられるかもしれないだろ?」

 

「ぶぅ~。お兄ちゃんを『疫病神』だなんていう奴は嫌い。こっちから願い下げだもん。皆、お兄ちゃんのこと何も知らないくせに……お兄ちゃんは何も悪くないのに……」

 

 詩歌の言う通り、当麻は何も悪くはない。

 社会というのは残酷で、当麻も苛められようと、もう怒る気にもなれない。

 だが、詩歌は許せなかった。だから、当麻の代わりに詩歌は怒る。

 

「それに、しいかまでいなくなっちゃったらお兄ちゃんは1人になっちゃう。そんなの絶対に嫌」

 

 詩歌の真っ直ぐな気持ちは素直に嬉しい……だが、困る。

 こうなった彼女は頑固で、中々自分を曲げようとはしない。過去に、捨てられた子猫を拾ってきた事があったが、その時は大変だった。

 両親、上条刀夜と上条詩菜が動物を飼う事は出来ない、だから捨ててきなさい、と言われようと詩歌は頑固拒否し、1日中、詩歌と当麻の子供部屋にカギを掛けて、子猫と一緒に閉じ籠ったほどだ(その間、当麻は追い出された)。天岩戸を抉じ開けようと、刀夜がお人形や玩具を買ってきたり、詩菜が美味しいお菓子を用意したが一向に出てこようとはせず、当麻が説得しようとしても『嫌っ!』、と片付けられてしまう(結局、説得どころかまともな会話をするのに当麻は1時間以上、ずっと話し掛け続けなければならなかった)。その後、子猫は近所のご年配の方に引き取ってもらったが、しばらく、詩歌は『にゃーにゃー』と猫語しか喋らなくなった。

 

「だって、お兄ちゃんが寂しいとしいかも寂しい。お兄ちゃんもしいかが寂しいとお兄ちゃんも寂しい。この前、そう言ったのはお兄ちゃんでしょ」

 

 そうだ。

 『疫病神』だと言われる前から、自分達兄妹は、喜びも悲しみも、成功も失敗も、幸運も不幸も分かち合ってきた。そして、それを言ったのは紛れもなく自分だ。

 

 

「だから、しいかはお兄ちゃんと一緒にいる。しいか、お兄ちゃんといる時が一番幸せなんだもん!」

 

 

 ………………。

 

 本当に幸せだと、心の奥底から思えるからこそ浮かべられる満面の笑みに当麻は何も言えなくなる。

 『疫病神』になってから誰かを“幸せ”にした事がなかった。

 両親でさえも、当麻を守るために“不幸”になってしまっている。自分をどこか、ここから遠くへ、迷信オカルトのない所へ単身で送るか送らないかと喧嘩していたのを、夜、偶然、当麻は目撃した事がある。

 だが、目の前にいる妹は、誰よりも大切な少女だけは、当麻がいるから“幸せ”だと言ってくれた。

 彼女を“幸せ”に出来る自分を、当麻は本当に誇らしく思う。

 当麻は誰よりも“幸せ”だと胸を張って言う事が出来る。

 

「……そっか。俺もしいかが幸せなら幸せだよ」

 

「じゃあ、しいか! お兄ちゃんのお嫁さんになってあげる! それでずっと一緒にいればずっと幸せでしょ!」

 

 きっと詩歌の視点から見る自分は、自己評価以上に頼もしく見えるのだろう。

 当麻を見る瞳は、少しも揺れていない。そして、透明だ。宇宙まで見えそうな蒼穹のように、底の見えない湖面のように。当麻だけしか知らない、その奥の光。

 

「……、」

 

 当麻は、深く考えもせずに、光に引き込まれるように右手を伸ばす。そして、優しく妹の頭を撫でる。

 砂遊びをしたばっかりなので、当麻の手は泥だらけ。

 

「えへへ~……」

 

 でも、詩歌は本当に嬉しそうに笑う。この夕空と同じように頬を朱に染めて、ご機嫌に目を細める。

 詩歌は当麻の右手が好きだった。自分よりも大きくて、温かい手。

 詩歌は、時々、不意に何かが、『自分のものではないモノ』が体内に蹲るような変な気分になる事があった。それに、昔、あらゆる色彩を放つ炎の翼を持った巨大な怪鳥に呑み込まれた夢を見て魘された事があった。

 だが、どんな時も、当麻の右手で、今と同じように頭を撫でられれば、気分はすぅーっと、落ち着く。

 そう、詩歌にとって当麻の右手は魔法の手。

 

「ふあ……きもちーです……」

 

 詩歌は誰よりも可愛らしく素敵な女の子で、誇らしい妹。その温かな輝きを放つ瞳に見つめられると、当麻は気恥ずかしくなり、それを隠すように笑った。

 驚くほど簡単に笑えた。

 この先、自分が幸せなれるかはわからないけれど、護ろうと思う。

 それだけは、今日、誓う。

 

「じゃ、そろそろ帰るか」

 

「うん!」

 

 頭を撫でるのを止めた途端、詩歌は少し物足りなさそうな表情を浮かべたが、当麻が右手を差し出すとピョン、と両手で包み込むように抱きつく。

 そうして、2人は手を繋ぎながら自分達の家へと帰る。

 遊べた時間はほんの僅か。2人で作り上げた砂の城も明日になれば、誰かに壊される。

 でも、2人は満足だった。

 こうして、一緒に同じ時を過ごせただけで………しかし、

 

「あれ? お人形さんがない。しいか、ちょっと公園を見てくるね」

 

「あ。おい、しいか!」

 

「すぐに戻るから、お兄ちゃんは先に行ってて!」

 

 

 幸せな幻想は、そう長続きはしなかった。

 

 

上条家

 

 

 昨日、お兄ちゃんがしいかを庇って刺された。

 お兄ちゃんのことを自分を“不幸”に追い込んだ『疫病神』だと思い込んだ人がお兄ちゃんに復讐するために、しいかたちの家の近くまで来た。

 そのとき、たまたま、“不幸”なことにお兄ちゃんとの帰り道にはぐれたしいかはその男に出会ってしまい……

 

 ……騒ぎを聞きつけてやって来たお兄ちゃんがしいかを守って刺されてしまった。

 

 幸い、巡回中の警官により、犯人は逮捕され、お兄ちゃんはすぐに病院に運ばれ無事に助かった。

 しいかはずっと泣き続け、そのうち疲れて寝てしまった。

 そして……目が覚めると父さんと母さんが口論していた。

 

 

 

 上条一家。

 頼りなさげな大黒柱の夫、上条刀夜。

 見た目は避暑地のお嬢様の妻、上条詩菜。

 そして、頼りになる息子としっかり者の娘。

 2人の子宝に恵まれた夫婦円満の幸せ家族。

 しかし、その幸せな歯車は徐々に狂い始めていた。

 

 

 

 リビング。その中央に置かれた4人掛けのテーブル。

 刀夜はそこに神妙な面持ちで席に着く。

 いつもはそこで、家族皆で過ごす憩いの場所だった。

 妻の作ってくれた料理を味わい、子供達の仲の良い光景に頬を綻ばす。それこそが上条刀夜の作り上げた幸せな家庭。

 その事を思いながら、向かいに座る妻、詩菜に重い言葉を発する。

 

「母さん、当麻を学園都市に送ろうと思うんだが」

 

「なに言っているんですか、刀夜さん!? 当麻さんはまだ幼稚園を卒業したばかりですよ! そんな当麻さんを一人にさせてしまうつもりですか!?」

 

 詩菜は、瞳を潤ませながら刀夜に訴える。しかし、

 

「でもな、母さん。もし当麻をこのままここに居させたら、いつか周りの人たちが騒ぎ立てる迷信に当麻が殺されてしまうかもしれないんだ……。だからこそ、当麻を『疫病神』扱いするここよりも、そんな迷信がない学園都市に送ってやった方が、当麻は幸せになれると思うんだ」

 

 息子は何もしていない。それでも、世間の目は厳しい。

 『人の噂も75日』……いつかは、息子にかけられた迷信など消えてなくなり、また元に戻れるはずだ、と思っていた。

 しかし、世界は残酷で、『疫病神』という迷信は消え去るどころか、ますます強くなってきている。そう、もう刀夜の両手では守りきれないほどに。

 

「そ、それは……」

 

 夫の苦しみを詩菜は、知っている。

 彼の仕事は、世界中を転々と出張しなければならないもので、それでも有休の全てを使い果たしてもなお、時には相手先に無理を言い、仕事が終わればどんなに疲れていようと休む事すらせず、より身体に鞭を打って帰って来る。例え自分にはどんなに重かろうと、一家の大黒柱として、息子を、そして、娘と妻を支えようとしてくれている。

 

「もし……学園都市でも当麻さんが『疫病神』扱いにされたらどうするんですか!? 親元を離れた当麻さんは1人でそれに耐えなきゃいけないんですよ!」

 

 当麻は自分がお腹を痛めて産んだ子供。それなのに、自分の手で育てられないなんて、守ってあげられないなんて……

 息子は、何もしていない。だからこそ、その原因が何も分からず、どの選択も不正解に見える。

 

「それでも、……いきなり見ず知らずの人が襲ってくるここよりはましだろう。今日は助かったが次は死ぬかもしれない……」

 

 息子を自分の手で守れない刀夜は最低な父なのだろう。しかし、どんな非情な決断を下そうとも、刀夜()は子供達を守りたかった。

 

「………そうですね。……ここにいるよりは安全ですね……」

 

 いつもは平行線を辿るはずの論争。でも、今回の出来事、息子が刺されたという現実が、決定打となり詩菜の心が折れた。

 だが、その結末をドアの陰から幼い少女が、悲しみに顔を歪ませながら顔が聞いていた。

 そして、荒ぶる感情が全身を震わせ、抑えきれなくなり、リビングのドアを開けてしまった。

 

「お兄ちゃん。……1人でどこか行っちゃうの?」

 

 その声に、2人は、ハッ、とドアへ視線を向ける。そこには娘の姿があった。

 見る間にも溢れる涙で手の甲を濡らし、擦り過ぎた目は真っ赤に腫れていて、鼻水やよだれも垂れていた。

 2人は唇を噛む。娘を泣かしてしまったのは自分達のミスだ。

 いつもは、子供達に聞かれないよう寝静まった深夜に口論していたが、息子が刺されたというショックでその警戒を怠ってしまった。

 その結果、娘は知ってしまった。

 いつかは知ってしまう事だが、慕っていた兄が自分を庇って刺された直後に、追い討ちをかけるように聞かせてしまう話ではない。

 詩菜は、娘の顔をタオルで拭うと、腕の中に包み込み、落ち着いた声で、

 

「そうよ……お兄ちゃんは学園都市というところに行くことになります……。お兄ちゃんとはしばらく会えなくなります」

 

「やだやだやだやだー! お兄ちゃんと会えなくなるなんて絶対やだー!!」

 

 腕の中で暴れる娘に詩菜は何も言えない。

 普段なら微笑ましく、可愛らしい愛娘の我儘を『あらあら』、と見守る所だがそうする事は出来ない。ただ、抱きしめ、娘の目元から零れ落ちる感情の物質化した結晶である涙に肩を濡らすことしか……

 そこへ、

 

「我儘を言うんじゃないっ詩歌! 当麻が今日みたいに怪我をしてもいいのか!!?」

 

 今まで娘を叱った事がない刀夜が初めて詩歌を怒鳴った。

 

「私では……無理、なんだ。このままだと、当麻を……」

 

 己の不甲斐なさを、噛み締み切れない口いっぱいに苦渋を、とうとう吐き出す。

 その初めて圧される迫力に、詩歌の双眸からまた涙が溢れだす。

 

「ぅう……」

 

 それでも、詩歌は口元を引き結び、小さな拳を作って、刀夜を睨みつける

 

「刀夜さん、言い過ぎですよ。詩歌さんが泣いてるんですよ」

 

 母が父に非難の声を上げているのを耳で拾いながら、頭をぶるぶると震う。泣いたら、父に負けたら、当麻と引き離されてしまう。だから、泣いたなんて意地でも認められない。鼻をすすり、涙を手の甲でゴシゴシとこすってから、

 

「ううん、詩歌は泣いてないもん! 父さんなんかに泣かされないもん!」

 

 そう言って、近くにあったティッシュ箱を刀夜に投げる。夫婦喧嘩をする時はいつも、母、詩菜がこうして父、刀夜に物を投げつけて謝らせている。つまり、詩歌もこうすれば刀夜に勝てる、と考えたのだ。

 

「ご、ごめんな、詩歌。怒鳴ったりして」

 

 刀夜が降参するように両手を上げる。妻と比べれば全然痛くはない。だが、物を投げつけられるより、娘に泣かれる方が父親的にはダメージが大きい。

 父の威厳などゴミ箱にでも放り投げ、負けを認めるしかない。しかし、それでも、

 

「……でもな、当麻が向こうに行くのは納得してくれないか? 詩歌だって、当麻が傷つくのは嫌だろ?」

 

 こればっかりは譲れなかった。

 いくら娘に泣かれようが、息子の命が掛っているのだ。だから―――

 

「ぅううううう。――――あ!」

 

 その時、詩歌の頭上にピカッ、と電球が点灯。

 

「なら、しいかも学園都市に行く!」

 

 これ名案、と詩歌は笑みを―――

 

「だめだ! まだ小学生にもなってない詩歌を送るなんて絶対にだめだ!!」

 

 ―――浮かべる前に再び、刀夜に怒鳴られ、また泣きそうになる。

 息子どころか、娘まで一気に親離れしてしまったら、刀夜は日々、子供達のアルバムを見ては枕を濡らす事になる。

 なので、詩歌の名案? は頑固阻止。

 

「ぅうう。だって、しいか、将来はお兄ちゃんのお嫁さんになるんだもん! だから、お兄ちゃんと離れたくない」

 

 しかし、詩歌は涙を堪えて、刀夜に言い返す。幼い頃からずっと一緒にいて、幸せと不幸を分かち合ってきた兄を、1人にするなんて詩歌は耐えられない。

 でも、そんな2人の対立が妙な方向へ流れたおかげで、詩菜はほっと一息をつけた。

 

「刀夜さん、詩歌さんも落ち着きなさい……。詩歌さん、今の詩歌さんが学園都市に行っても当麻さんの役には立ちません。1人で満足に家事ができないじゃない。そんなんでは、向こうに行っても当麻さんの足を引っ張るだけですよ」

 

 母の諭しに詩歌はふんふむと頷き、

 

「……わかった。なら! 1人でも家事ができるようになったら向こうに行ってもいい?」

 

 今のままでは駄目。でも、1人で生活できるようになれば大丈夫。そう、詩歌は考えたのだろう。

さてどうしたものかと、詩菜が答える前に、

 

「だめだ! こんなに可愛い娘の詩歌を学園都市で一人暮らしなんてさせられるはずがないだろう! お父さん、泣いちゃうぞ! 最近、一緒にお風呂にも入ってくれなくなっ――――」

 

 ドスッ! と。刀夜の眉間に、顔を半分にするように皿がめり込む。

 

 今度は、詩歌ではなく詩菜が無言で皿を投げた。詩歌のとは比べ物にならない無慈悲な一撃。

刀夜は精神的ダメージではなく、物理的ダメージによって黙らせられた。……夫の頭から血が出ているが、いつもの事なので問題はないだろう。

 そして、母と娘は何事もなかったように話を再開。

 

「ふう……、わかりました。詩歌さんがきっちり家事ができるようになったら学園都市に行くことを許可します。ただし、この一年間はお母さんの言うことを聞くこと、いいわね?」

 

「うん! わかった! 母さんの言うこと、しいかばっちり聞くーっ!」

 

「あらあら、本当に詩歌さんは当麻さんのことが大好きね」

 

「うん! お兄ちゃんのこと大好きー! 今日、お兄ちゃんのお嫁さんになるって決めたんだー」

 

「そう、じゃあ、明日からは家事の手伝いをするときは先生って呼ぶこと、いいわね?」

 

「うん、わかった! 先生、よろしくお願いします」

 

「あらあら、もう気が早いですよ、詩歌さん」

 

 微笑ましい母と娘の会話。

 約束の指切りー! と小指を絡める―――その片隅で……

 

 

「誰も私の心配をしてくれないのか。うぅぅぅ」

 

 

 父は泣いていた。

 このジンジンと未だに痛む額のせいではなく、妻にも、娘にも無視され、愛娘の親離れが後1年という死刑宣告にも等しい悲しい事実に、刀夜は滝のように涙を流す。

 これから、彼は一体何を糧にすれば……

 

「父さん、怒鳴ったから嫌い! だから知らない!」

 

 会心の一撃。

 もう止めて! 精神的にも肉体的にもHPが真っ赤。これ以上、娘の信頼を失う訳には―――

 

「そんな! 去年までは父さんのお嫁さんになるって言ってくれたのに……。そうだ、今度父さんがデパートに連れてって何でも好きなもの買ってあげちゃうぞ。レストランで詩歌が好きなハンバーグも――――「刀夜さん……」」

 

 その時、氷のような声が場を支配した。

 ぎぎぎ、と刀夜はゆっくりと、ゆ~っくりと横を向くとそこには、

 

「あらあら」

 

 妻が自分のことを屠殺場に連れてかれる豚を見るような冷たい目で見ていた。

 不味い!?

 その迫力に刀夜は思わず後ろに下がった。

 腰を抜かす夫に対して、詩菜は、良く通るのに何故か唇が全く動かない話し方で、

 

「もう、刀夜さんったら実の娘に対してもそうなのかしら。この前買ったばかりの最新式のDVDデッキを投げつけて欲しいのかしら。本当に困ったわ、せっかく買ったばかりなのにまた買い直さなきゃいけないなんて。しばらく、刀夜さんのお小遣いはなしかしら?」

 

「い、いや母さん落ち着いて。その手に持った物を降ろして。も、もう、すみませんでした本当に申し訳ございませんでしたーっ!」

 

 一瞬で詩菜に惚れ惚れするほど美しい土下座をする。

 息子が父の背中を見て育つなら、娘は母の胸の中で育つ。

 その光景を見て、詩歌は詩菜には絶対に逆らわないことを誓い、男はこうして躾ければいいのかと学習。後にこの学習が原因で、この大地と平行に姿勢を保つ父の背中を見た息子は父に負けないくらい、土下座が上手くなるのであった。

 

 

 

 1年後。

 

 

 

 あの日、お兄ちゃんのお嫁さんになることを決意した日から1年がたった。

 本当に長かった。

 こんなにも長い間、お兄ちゃんと会わないのはきっとこれからはないだろう。

 この1年は毎日連絡したから、ギリギリ耐えられたけど、もうこれ以上は耐えられない。昨日、カレンダーに×マークを書いた時は思わずガッツポーズをとったくらいだ。

 

(もう絶対にお兄ちゃん―――いえ、当麻さんから離れるもんですか)

 

 と、決意を新たに両手をギュッ、と握り、再びガッツポーズをとったところで後ろから小さな人影が、どしん、とぶつかる。

 

「詩歌お姉ちゃん、学園都市に行っちゃうの?」

 

 息を切らして慌てて駆けてきた小さな影の正体は、当麻が去ってから引っ越してきた御坂家の1人娘、この1年で妹分になった御坂美琴。詩歌よりも1つ年下で、背もおよそ頭1つ分低い。

 そんな美琴が詩歌に抱き付きながら、おずおずと上目遣いで、詩歌を見つめる。

 

「はい。そうですよ、美琴さん。今日、私は学園都市に行きます」

 

 すると、ぶわっと美琴の大きな瞳に涙が浮かび始める。

 おかげで、出発の決意が揺らぐ。当麻が去ってから最も一緒に過ごしたのは間違いなく彼女だ。

 美琴がいたからこそ、詩歌は頑張れた。彼女の姉であるという自覚が成長させた。詩歌はこの1年で見違えるように成長していた。

 だからこそ、ただ湿っぽいのが苦手だからではなく、姉としての詩歌は妹の美琴を泣かすことに躊躇いを覚える(父、刀夜も引き止めようとしていたが、こちらには見向きもしなかった)。

 

「あ、う―――うぅぅ……」

 

 美琴は、何か言いかけて、やめた。

 姉の決意が固いことを―――彼女が今日をどれだけ待ち遠したかったのも―――知っているのだ。

 目を伏せ、何かに耐えるように、肩を震わせる。

 詩歌が困り果てたその時、彼女によく似た女性が美琴を詩歌から引き剥がし、抱きしめた。

 

「ほら、泣かないの、美琴ちゃん。今日は泣かないで笑って見送るって決めてたでしょー」

 

 彼女は美琴の母親、御坂美鈴。

 刀夜と同じように世界中を飛び回る御坂家の大黒柱には出会ったことはないが、御坂家の母娘とはこの1年で家族ぐるみの親しいお付き合いをさせてもらっている。

 母、美鈴の言葉で幼い美琴は少しぎこちないが、詩歌に笑顔を向ける。

 

「うん、……わかった。詩歌お姉ちゃん、向こうでも頑張ってね。私も来年、絶対に行くからね!」

 

 精一杯の笑みを作る美琴を見て、その姿を記憶と重ね、詩歌は1年前へと思いを馳せる。

 あの時、当麻を見送った時の自分の姿を。

 

「来年は美琴ちゃんのことよろしくね、詩歌ちゃん」

 

「はい、おまかせください、美鈴さん」

 

 来年、美琴が来たら詩歌はきっちり支えるつもりだ。だが、当麻と会わせるかどうかは悩む……

 この小さくて可愛い美琴はまさに目に入れても痛くないほど可愛い妹。

 もし、彼女が恋敵となれば……

 ここは、美鈴さんにも協力してもらって……いや、ここは……

 

「おーい、準備できたぞー」

 

 今後の計画について、脳内で組み立てていたら、出発の準備が終わった、と刀夜と詩菜が呼びに来た。

 

「詩歌、出発するぞ。別れの挨拶は済ませたか?」

 

「詩歌の見送りありがとうございます。それではもう行きますので」

 

「はい、今行きます、父さん、母さん。それでは、また来年、美琴さん。美鈴さんもまたいつか。旅掛さんにもよろしくとお伝えください」

 

「うん! また来年」

 

「またいつか会いましょうね、詩歌ちゃん。今度はパパと一緒に」

 

 この1年の感謝を籠めて、しばしの間、頭を下げ続けて礼をすると詩歌は車に乗り込んだ。

 

「それじゃ、出発するぞ」

 

 刀夜が車を走らせる。

 後ろを振り向くと、美琴がわんわん、と泣いていた。

 1年前の詩歌のように……

 

「また来年ね、美琴さん」

 

 そう小さく呟き、詩歌は前を向く。

 兄、上条当麻の待つ学園都市へ――――

 

 

(今行きます、当麻さん。待っててくださいね)

 

 

帰り道

 

 

 去年のこの日、息子の当麻を学園都市へと送った。

 あの時、息子がここにいたら周りが言う“不幸”に殺されてしまうかもしれないからだ。

 残念なことに、向こうでも当麻の不幸はなくならなかったが、ここのように『疫病神』みたいな扱いはされなくなったらしい。

 どうやら学園都市に送った刀夜の判断は間違いではなかった。

 自分の手ではないが、息子を、当麻を守る事が出来たのだから。

 そして、その日から娘の詩歌は変わった。

 詩歌は毎日妻、詩菜を手伝いながら、家事を学び、さらには幼稚園児ながら小学生どころか高校生の勉強をしているらしい。

 詩菜の家事スキルをスポンジが水を吸うように覚えていき、勉学の方も今では中学生レベルの問題も解けて当たり前で、専門的な分野にも手を伸ばしている。

 友達作りも怠らず、友達もどんどん増やしていった。去年、当麻を苛めていた子供たちですら謝罪をさせてここら一帯のリーダー的地位を築き、今では妹分の御坂美琴がいるくらいだ。

 将来が楽しみ……と、言いたいところだが、その全てが実の兄である当麻のお嫁さんになるためだからだと考えると何にも言えなくなる。

 

 家事は将来当麻を支えるため、

 

 勉強は当麻に勉強を教えるため、

 

 友達作りは当麻を『疫病神』扱いさせないためだ。

 

 そう、全ては当麻のために……

 

 一体どこで道を間違ったのか……

 

(最近では言葉遣いだけでなく、雰囲気も母さんに似てきたし……)

 

 そう、この前、うっかり女性と接触したときの自分を見たあの目は妻の詩菜にそっくりだった。

 流石は母娘だ、と刀夜は美人な妻で良かったと思う反面、その目には将来空恐ろしいものを覚えた。

 ……うん、何故か当麻のことが心配になってきた。

 このままでは当麻と詩歌が禁断の関係になってしまうかもしれない。

 そんな未来を危惧した刀夜は、運転をしながら助手席に座っている詩菜に軽く世間話のように話を持ちかける。

 

「なあ、母さん。詩歌はまさか当麻のお嫁さんになったりしないよな?」

 

 うーん、と数秒、詩菜は唸ると、

 

「当麻さんは……詩歌さんのことを可愛い妹としか見ていませんし、刀夜さんが心配することはないでしょう」

 

「そうだよな! 当麻が詩歌のことをお嫁さんにするはずがないよな! いやー、去年からの詩歌を見ていたらもしかしてそうなるかもって考えてたんだ! いやーよかった!」

 

 刀夜はその答えにホッと安堵の息をつき、前方の信号が点滅しているのに気付き、横断歩道前に車を止める。

 

 

 が、

 

 

「でも、詩歌さんのあの調子が続いたらそうなるかも知れません。……何か手を打たないといけませんね。刀夜さん、家に帰ったらこのことについて考えましょう」

 

「ははは、母さん、大丈夫だって。当麻だって実の妹を異性として見るはずがないさ」

 

「刀夜さん。……恋する女の子は不可能を可能にしますよ。当麻さんにその気がなくても詩歌さんならどうにかしてしまうかもしれません。……何せ、私の娘なんですから」

 

 その時、刀夜は、詩菜との若かりし日の事を思い出す。

 今なら笑い話で済ませられるかもしれないが、当時の自分からすれば、あれほど壮絶な出来事はそうそうないと言える。

 まあ、そのおかげで詩菜と結ばれる事が出来たのだが……

 しかし、そう考えると、もし、あのような出来事が当麻と詩歌にも起きてしまえば、その場の勢いで………

 詩歌を学園都市に送ったことは間違った事なのかもしれない……

 

(当麻、頼むから早まるなよ!)

 

 信号が青になったのにも気づかず、刀夜は祈るように両手を組んだ。

 

 

 

つづく


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