銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~   作:ドラケン

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第二章 我はロボット
結束 ―Конец―


 

 

────例題です。これは、例題です。過去にあった事かどうかなんて些細なことです。だから、例題です。

 

 

 一人の少年が居ました。聡明な男の子です。小さい頃から科学、語学、聖書のあらゆる分野に於いて神童と褒め称えられている少年です。

 生家は裕福ではありませんでしたが、それでも、溢れる才能と弛まぬ努力を惜しまずに。遂に、国内最難関の大学校に入学、首席の座を維持し続けています。

 

 

 何故、そこまで頑張れるのか? それはある日、若かりし彼の生まれ故郷に訪れた旅芸人の一座を観劇しに行った時の事です。

 彼が目を奪われていたのは、機械。機械の、人間。全身を機関に置き換えた、軽業師の芸です。普通なら出来よう筈もない技の数々、その精密さ。それに、彼は────言いようもない失望を覚えました。

 

 

『なんだ、あんなものか。あんなもの、エンジンをつけただけの、にんげんのしっぱいさくじゃないか』

『だったら、ぼくならもっと、すごいものをつくってみせるのに』

 

 

 それが、最初の動機でした。それから彼は、没頭します。ただ、一つの目的に向けて。終生の命題として。

 

 

『ぼくが、きかんといういのちをもつ、ほんものをつくるんだ』

 

 

 それは、神に挑む行為です。女以外は許されていない、命の創造です。それを彼は何度も何度も、幾度も幾度も、失敗しながら。

 それでも、彼は神童です。無数の失敗は、それでも実を結び、やがて一つの集大成へと。

 

 

『目が覚めたかい?』

 

 

────Yes(はい),Master(ご主人様).

 

 

唯々諾々と従う、自らの集大成。

 

 

『君に、最初に教えることは、三つある』

 

 

────Yes(はい),Master(ご主人様).

 

 

誰もが、彼を褒め称えます。『正に神童だ、銃器公の再来だ』と。

 

 

『第一条、ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない』

 

 

────Yes(はい),Master(ご主人様).

 

 

 しかし、当の彼は、難しい顔をしたままで。幾ら尊敬するカラシニコフ氏に並べて称えられたところで。

 

 

『第二条、ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない』

 

 

────Yes(はい),Master(ご主人様).

 

 

 その瞳には、色濃い疲れ。まるで、目の前の『我が子』を、心底憎しんでいるようでもあって。

 

 

『第三条、ロボットは前掲第一条および第二条に反する恐れのない限り、自己を守らなければならない』

 

 

────Yes(はい),Master(ご主人様).

 

 

 でも、それも仕方ありません。だって、彼が作りたかったものはこんなものではなかったのですから。

 それは────もっと、崇高なもののはずだったのに。こんな、失敗作になるはずではなかったのに。

 

 

 少年は一体、どうするべきですか?

 己の人生の命題を諦める?

 己の集大成を破壊する?

 それとも────この失敗作を愛する?

 

 

────例題です。これは、例題です。過去にあった事かどうかなんて些細なことです。だから、例題です。

────例題です。これは、例題です。ただし、《世界の敵》なんて助けに来てくれない、黒い雪に包まれた地獄の釜の底の、光も届かない奈落の例題(蜘蛛の糸)です。

 

 

────ええ、例題ですとも。つまり、既に結末の決まった、例題なのですよ。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 鐘が鳴る。本日、土曜日。毎週の最後の試験日の、最後の試験が終わった証拠が鳴り響いている。

 答案を回収した先生が教室を後にした直後、室内に広がった弛緩した空気。大きく背を伸ばす男子生徒に、溜め息を溢した女子生徒。私も思わず、欠伸を漏らしそうになって。慌てて、噛み殺す。

 

 

「あらまぁ、はしたない仔兎ちゃん(ザイシャ)ですこと」

「うっ」

 

 

──でも、リュダには見られてて。いつものように、からかわれてしまう。回りにいる他の生徒達も、釣られて笑っている。

──綺麗なリュダ、素敵なリュダ、スタイルの良いリュダ。やっぱり、意地悪なリュダ。うう、恥ずかしいったらもう。

 

 

「さて、それじゃあ今日はどうしようかしら? クラブ? それとも、ミュールとメリリズ?」

 

 

 その意地悪な笑顔のまま、リュダが二択を。暗い金髪、掻き上げて。緑色の瞳、艶やかに潤ませて。

 

 

「そう言えば、ユーリィのスプートニク号(飛空艇モドキ)が行き詰まってるらしいわね。イサアークですらお手上げなんだし、仕方ないと言えば仕方ないけどさ」

「ああ、あの三人乗りの?」

 

 

──スプートニク号。ガガーリン君が二年半を掛けて作ってる飛空艇……みたいな? 確か、英国の碩学兄弟ライト兄弟氏(ブラディヤ・ライト)の著作に触発されて、廃車になった蒸気自動車(ガーニー)に翼を取り付けているもの。

──最近は、翼よりも蒸気機関の出力の方に熱をいれてるみたい。たしか、《圧縮蒸気噴進機能(スチーム・ガスト)》を取り入れるんだ、とか。

 

 

「イサアークの方も《機関人間》の研究で行き詰まってるみたいね。よくは分からないけど、『予想以下の仕上がりだ、我が事ながら不甲斐ない』とか愚痴を溢してるんだってさ、あの真面目メガネ君がさ」

「へえ……」

 

 

──オジモフ君の《機関人間理論》。噂では既に一線級の完成度で、一年時には既に《機関化歩兵聨隊(スペツナズ)》の整備を請け負う《トゥーラ造兵廠》の、あの《銃器公》ミハイル・チモフェエヴィチ・カラシニコフ氏が直々にスカウトしに来られたとか。

──凄いことだと思うのだけれど。完璧主義のオジモフ君は、『結果を出すまでは青二才だから』と、それを断ったとか。それで更にカラシニコフ氏に気に入られて、『結果を出した際には是非』と、改めて頼まれたのだとか。

 

 

「まぁ、ただ学歴に箔を付けたくて入学した私には分かんない悩みね」

 

 

 噂好きのリュダ、お話好きのリュダ。輝くような笑顔のリュダ。その情報収集能力には、本当に驚き。私なんて、二年経った今でも、リュダとガガーリン君、オジモフ君以外とはあまり話すこともないのに。

 ……ただ単に、私が引っ込み思案なだけかもしれないけど。そう言うのも、やっぱり才能なんだと思う。あの屈託のない笑顔を見ていたら、誰もがリュダを好きになると思うもの。きっとリュダは、教師とか、そういう仕事に向いていると思う。

 

 

「ん、なによニヤニヤしちゃって、変なアーニャ」

「なんでもありませんよーっだ、意地悪なリュダ」

 

 

 そんな風に、私達はいつも通りの会話を交わして。

 

 

「人の困り事で随分と楽しそうだな、パヴリチェンコ、ザイツェヴァ」

「だな。流石に良い気しねーぞ?」

「あ────」

 

 

 いつからか、すぐ側に居た男子生徒が二人。オジモフ君とガガーリン君、不愉快そうに立っていて。

 

 

「あ、あの、ごめんなさい、その」

 

 

 思わず、口が縺れる。だって、二人とも怒っている風で、怖くて。

 

 

「うわっ、何よアンタ達。乙女の会話を盗み聞きなんて、それでも紳士?」

 

 

 だから、何故か逆に怒ってそんな風に返せるリュダは、凄いとしか言えなくて。うん、もう、少しは反省とかそういうのを。

 

 

「はぁー……これだからなぁ」

「……呆れて怒りすら湧かん」

 

 

 ……結果的に、こうなるところとかも。うん、やっぱり凄い。

 

 

「パヴリチェンコ、少しはザイツェヴァの淑やかさを見習うべきだな。全く、君のそういうところは悪徳だ」

「そうそう、少しはアンナみたいに可愛いところがありゃあ、ぞっこん惚れてるところだってのによ」

「あっはは、冗談キツいわね、アンタら。これはアンナだから可愛いのよ、私がこんなでも可愛いわけないでしょ? 第一、このエイダ主義の申し子のリュダさんよ、アンタらなんてこっちから願い下げよ」

 

 

 男の子二人に、真っ向から自分の意見を言えて、決して変えない。やっぱり、リュダは格好良い。格好良いけど……心臓に悪いからやめてほしい。

 あと、私を当て擦りみたいに使うのもやめてほしい。うん、切実に。

 

 

「さて、話を戻すぜ。お前ら、今日これからどうすんだ? 俺達は赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)に行こうと思ってんだけどよ」

 

 

 と、明るい彼。ガガーリン君の言葉。それに、リュダが眉を潜めて。悪戯を思い付いた、子猫みたいに。

 

 

「……うわっ、もしかしてアンタ達、男二人で篆刻写真でも?」

「ハッハッハ、バレちまったな、親愛なる親愛なるイサアーク君?」

「違うわ莫迦め、気持ち悪い! 気晴らしにボルショイ劇場に行くだけだ!」

「いや……男二人でバレエってのも十分……」

 

 

 ミラとガガーリン君の悪のりに、真面目な彼。オジモフ君が眼鏡の奥の瞳、本気で怖気に光らせて。

 

 

──珍しい。うん、本当に珍しい。オジモフ君が、研究以外で外出するなんて。知り合ってから、初めてかも。

──にしても、ボルショイかぁ……赤の広場の脇の、旧王都サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場に次ぐ、ロシア第二の劇場施設。そこでは毎日、オペラやバレエが催されている。白鳥の湖(リビディノーヤ・オゼラ)胡桃割り人形(シェルクンチック)眠れる森の美女(スペアシヤ・クラッサビサ)……確かに、気晴らしにはもってこいかも。もしかして、意外と観劇好きなのかな、オジモフ君って。

 

 

 そんなことを思う。だって、本当に珍しい。確かにガガーリン君とはよく一緒にいるオジモフ君だけど、他の人と一緒のところなんて見たことないし、私生活とか完全に謎だし。

 

 

「だから、君達もどうかと思ってな。気晴らしなんだ、人数は多いほど良いだろう」

「と、ガリ勉眼鏡が今後の人生で二度と言わねぇようなこと言ったからさ。そんなら、俺としては麗しいお姫様がたと一緒の方が楽しいって寸法さ!」

「感心だな、ユーリィ。これからは独力でテストを乗りきるとは……成長したものだ」

「と、偉大なる未来の《蒸気王》候補様が仰られたんでな、俺としてはなんとしても花を添えたいと言う所存なのさ!」

「何て言うか、ほんと、あんたら良いコンビだわ」

「あはは、うん……ほんとに」

 

 

 くるくると表情を変えるガガーリン君、皮肉げに笑うオジモフ君、呆れたように笑うリュダ。私は、それを眺めながら、忍び笑い。

 薄い灰色の日射しと雪が降る、機関排煙と零下の凍気に煙るモスクワの町で。ここは、ここだけは、前世紀に失われた春のよう。

 

 

──暖かい。うん、きっと、今はとても幸福な時間。こんな暖かさの中にいられるのは、間違いなく、幸運。

──楽しい。こんなに賑やかで、楽しい時間が、いつまでも続けば良いのに。

 

 

 そう、思って。私は、取り出した篆刻写真機を撮って良いか、尋ねようとして────

 

 

「って、いっけね! 確か、ボルショイの開演時間、もうすぐだよな?」

「ふむ……確かに。あと、二十分と言ったところか。いかんな、チケットが無駄になる」

 

 

 そんな雰囲気じゃなくなったから、大人しく鞄に戻して。そう言って、オジモフ君が鞄から取り出したチケット。金色の、いかにも高そうな────えっ、うそ、あれって!

 

 

「オジモフ君、それ、ボルショイのチケット……まさか、貴賓席!?」

「ああ、トゥーラ造兵廠から貰ったものだ。永年使用できるものだが、どうせ持ち腐れと言うやつだ。四人まで連れていけるが、僕の名前が記載されていて、他人に譲ることもできない」

「うひゃー、さっすがイサアークだわ……その顔の広さと資金力、ヤバい惚れそう」

 

 

──凄いわ(ハラショー)凄いわ(ハラショー)! 貴賓席の指定券なんて、普通に買ったら何万ルーブルするか……!

──私たち一般学生の支給金が毎月160ルーブルだから、少なく見積もっても碩学院に百年は在籍しなきゃ手に入らないようなものなのに!

 

 

「しかも、確か今、講演してるのって────あのパヴロワ劇団じゃない! こうしちゃいられないわ、急ぎましょ!」

「あ、うん!」

「今から急げば、十分間に合うだろう。慌てずに制服を整えていけ、一応ドレスコードはあるらしいからな」

 

 

 私とリュダ、完全に浮き足だって。お互いのタイが歪んでいないか、とか。制服にシワがないか、とか。確認しあいながら。

 

 

「男として、こう……凄い負けた気分になるんだよなぁ……こう言うの」

 

 

 そんなガガーリン君の拗ねたような声なんて、全く耳に入らなくて────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 厚い蒸気曇を抜けて地表に届く灰色の日射しには、暖かさなんてもうなくて。肌を切るようなシベリアの冷気と風、銀色の雪を孕んで人々の体温を奪うだけ。

 いつもは、そう。活気を奪われて消沈してしまいそうなモスクワの街並み。でも、今日は。今だけは、それすらも私達の熱気、冷ませない。

 

 

「えーっと、午後一の演目は……白鳥の湖(リビディノーヤ・オゼラ)ね。演者は……タマーラ・カルサヴィナさん! ロシアのエイダ主義の花! おお、麗しき火の鳥(ラ・カルサヴィナ)!」

「ちょ、リュダ、声が大きいってば」

「何よ、いいでしょ、ファンなんだから!」

 

 

 中でも、リュダったら。あんなにはしゃいで、まるで子供みたいに。コートをバレエのチュチュみたいに翻らせて。くるくる、踊るみたいに。

 珍しい、可愛いリュダ。うん、写真、撮っておきたいけど……勝手に撮ったら、また怒られるものね。

 

 

 写真機の代わりに取り出した、手帳。私のアルバム。手袋をしたままだから、捲りにくいけれど。

 

 

 一枚目には、髪を梳かしながら驚いた顔でこっちを見ているリュダ。二枚目には、聖ワシリィ大聖堂で祈りを捧げているブラヴァツキー夫人(ミシス・ブラヴァツキー)。三枚目は、仔猫。白くて、ふわふわの。青い目が綺麗な、とっても可愛い。でも、一枚撮ったら居なくなってて。消えてしまったみたいに。

 そして、四枚目。一番新しい、六日前の朝の。椅子に腰掛けて微睡む、黒衣の極東のサムライさんの。

 

 

──ハヤトさんの、写真。素敵な、綺麗な。男の人にこんなこと言ったら、嫌な顔されるかもだけど。

 

 

 思わず、呼気が漏れる。マフラーから白い息、ふわりと溢れて消えていく。それに、慌てて口許をマフラーの上から押さえる。リュダなら、今のでも気づいてしまうから。

 そう思ったけど、肝心のリュダは随分と前ではしゃいでいる。よっぽどバレエ、楽しみみたい。

 

 

「────おっ、なんだよアンナ、角に置けねぇなあ。男のブロマイドなんて持ち歩きやがって」

「ひゃわ────!」

 

 

 代わりに後ろ、頭の上から延びてきた腕。二世代前の軍用防塵防雪装備に身を包む、背の高い、ガガーリン君の手が、私のアルバムを取り上げて。

 

 

「どれどれ────ほー、なかなか良い男だな……ん? ひょっとして、こいつ極東人(ヤポンスキー)か?」

「あ、だ、駄目! 返して、ガガーリン君!」

 

 

 ただの写真、なのに。それを見られてしまったことに物凄く恥ずかしくなる。取り替えそうにも、私の頭三つ分は背が高いガガーリン君が掲げ持つようにしてるんだから、跳び跳ねてみても無理。

 

 

「おーおー、俺達モスクワ大碩学院二年のマスコット、アンナ・“仔兎(ザイシャ)”・ザイツェヴァが男、しかも極東人に懸想とはなぁ……こりゃあ、一部の特殊な性癖の学生が泣くぜ」

「ち、ちがっ、ちが────違う、からっ!」

 

 

 ははは、と憎たらしいくらい爽やかに笑うガガーリン君。そのからかいに、耳まで熱くなるのを感じながら。

 全力で、跳び跳ねて取り返そうと、踏ん張った────

 

 

『────万歳(ウラー)

「うぎっ────イダダダダダ!」

 

 

 そのガガーリン君の腕をひしいだ、大きな影。最新式の軍用装甲服に身を包み、背嚢から機関排煙を。ガスマスクに覆われた顔から狼が唸るような声を漏らす、その人影は。

 

 

万歳(ウラー)……』

「す────」

 

 

 『機関化歩兵聨隊(スペツナズ)の人狼』。その言葉を、ガガーリン君、飲み込んだ。ソヴィエト軍人ならば誰もが習うコサック由来の軍隊格闘技『サンボ』とは違う、スターリン閣下の近衛のみが修得を許される軍隊武術『システマ』により彼の腕を捻る一人と、カラシニコフ氏の傑作と名高い突撃銃を突き付けるもう一人のために。

 

 

『一、士道ニ背キ間敷事────婦女子ニ暴力ヲ振ルウハ、男児ニ非ズ』

『我々ニハ、全ソヴィエト人民ニ対スル無裁判処刑権ガ《鋼鉄ノ男(スターリン)》閣下ヨリ与エラレテイル……』

「ちょ、ちょっと待った、違うんだよ、これは同級生同士のじゃれあいで!」

 

 

 いいえ、二人だけじゃない。路地の影から、広場の向こうから。城壁(クレムリ)の上から、続々、続々と。あっという間に、二十を越える人狼が犇めいて。

 

 

『我々ハ、閣下ノ御意思ヲ速ヤカニ体現スル為ノ機械』

『ヨッテ、コレヨリ。即刻、処刑ヲ執リ行ウ』

「なっ────まっ、待ってくれよ…!」

 

 

 『宣告から執行完了まで十分』、それがモスクワでの────スターリン閣下の名の下に行われる処刑に要する平均時間。

 鈍く光る銃口、引き金を引けばそこから飛び出す銃弾が、ガガーリン君の頭蓋骨を砕くことになり。鈍く光る、鋭利な銃剣。あと少し、それを突き出すだけで、ガガーリン君の頸動脈は断ち切られることとなり────

 

 

「────待って、ヒョードルさん、シャーニナさん! 違うの、ガガーリン君は私の友達なの! 本当に、少し遊んでただけなんです! ちょっと悪ふざけが過ぎただけなんです!」

 

 

──その二人に、私は叫ぶ。誰もが成り行きを見守るしかない中で。

──だって、私は……少なくともこの二人は、怖くなんて感じないもの。

 

 

 二人分の赤い視線。ゴーグルの双眸が、ゆっくりとこっちを見る。酷く驚いたような、そんな雰囲気で。

 

 

「……少女。仔兎ノ少女ヨ。何故、我々ノ名ヲ喚ベル?」

「我々ハ、完全ナル均一個性。ドウシテ、見分ケガツク?」

「どうして、って……」

 

 

──いかにも、不思議そうに。そんな、不思議なことを。

──そんなの、私の方が不思議に思う。だって、あなたたちは。

 

 

「筋肉が凄いヒョードルさん、セクシーなシャーニナさん……どちらもとっても優しい二人なのに、こんなに特徴的なのに、見分けがつかないわけがないじゃないですか」

『『……………………』』

 

 

──あなた達は、機械なんかじゃない。あなた達は、人間だもの。当たり前よ。

──そう、当たり前のことを言った筈なのに。何故、二人はそんなに驚いているの? どうして、周りの人達と目を見合わせて、確認を取るような風にしているの?

 

 

『……ヒョードル、シャーニナ。コノ少女ハ、我々ノ《鋼鉄狼ノ結束(オブリガットシィ・プシュキィ・スターリ)》ヲ崩シウル』

『当事者デアル、オ前達ガ裁ケ。処刑カ、否カ』

 

 

──どうして、あなた達の名前を呼ぶことが、あなた達の結束を崩すと言うの?

 

 

 辺りの人狼達が、私を見る。じっと、ヒョードルさんとシャーニナさんの言葉を、処刑宣告を待ちわびるかのように。突撃銃に手を掛けて、今か今かと。

 

 

『……被害者ガ居ナケレバ犯罪ハナイ。ヨッテ、コノ場ニ処刑スベキ犯罪者モ居ナイ』

『コレニテ、コノ場ハ解散トスル』

 

 

 そして、ヒョードルさんがガガーリン君を解放して。シャーニナさんが銃剣を下ろす。

 

 

『『ヒョードル、シャーニナ』』

『《鋼鉄狼ノ結束(オブリガットシィ・プシュキィ・スターリ)》ノ名ノ下ニ、当事者デアル我等ハ路地裁判ノ終結ヲ宣言スル!!』』

 

 

 それでも、何かを言い募ろうとした人狼達を威嚇するように。あの黒い雪の日のように、ガガーリン君と私を庇うように立った二人、声高にそう叫んで。

 

 

『……万歳(ウラー)

『……万歳(ウラー)

 

 

 自らが引き合いに出した言葉、返されて。私達を取り囲む人狼達、低く唸るように賛辞を口にして。現れたときのように、風のように消えて。

 最後に、振り返りもせずにヒョードルさんとシャーニナさんが歩いていく。一連の出来事で集まった観衆、追い散らすように。

 

 

「……ありがとう(スパシーバ)、ヒョードルさん、シャーニナさん」

 

 

 私、その背中に向けて。お礼を、口だけじゃなくて頭も下げて。

 

 

『『…………貴婦人殿万歳(ウラー・ガスパジャー)』』

 

 

 やっぱり、振り返りはしなかったけれど。その言葉、確かに二人は呟いて。

 

 

「大丈夫、ガガーリン君?」

 

 

 その背中を見送って、へたりこんでいるガガーリン君に声を掛けた。

 

 

「こ、殺されるかと思った……」

「ユーリィ……このバカ! アンタ、本気でバカね! 見てるこっちの寿命が縮んだわよ!」

「わ、悪かったって、リュドミラ。反省したよ、今回ばっかりは…………」

「ミラ、私が悪いの。手帳なんて見てたから……」

「んなわけないでしょうが! どう考えても、子供みたいな事したユーリィが悪いに決まってるでしょ!」

 

 

 と、同時にリュダが、烈火のごとく怒って。私が言うこと、もう無くなってて。

 

 

「……ザイツェヴァ。これは、君のものだろう」

「あ、ありがとう、オジモフ君」

 

 

 オジモフ君が拾ってくれた手帳、受け取って。雪をはたいて、鞄に戻す。良かった、傷とか汚れとかはないみたい。

 そして、上げた顔が。

 

 

「……ザイツェヴァ────」

「えっ? なに、オジモフ君?」

 

 

 何か、凄く考え込んでいる様子のオジモフ君の瞳と交わって。まるで、何か、凄く悩んでいたことに解決策を見出だしたみたいに。

 

 

「……いや、何でもない。ただ、時間切れのようだと思っただけだ」

「え?」

「えっ?」

 

 

 言われて、リュダと一緒に見た時計。時刻は既に、バレエの開演時間を過ぎていて。つまり、時間切れ。もう、ボルショイ劇場の門は閉まっている。開くのは、バレエが終わった後だけ。

 

 

「…………ユーリィ、アンタ」

「ま、待てリュドミラ! 話せば」

「分かるかぁぁぁっ!」

 

 

 激怒して、噴火して。赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)全体に響いたんじゃないかってくらいの雄叫びを上げたリュダが、ガガーリン君を閉幕時間まで叱り続けたのは、また後の話で────…………。


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