銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~ 作:ドラケン
──暖かい、温かい。それはまるで、姉妹皆で寝台にくるまるような。それはまるで、両親に祝福されて産湯に浸かるような。そんな、幸福な感情を想起する。
──暖かい、温かい。まるでそれは、在りし日の残照のようで。胸を擦る、優しさがある。胸を苛む、痛みがある。ああ、だから。
『『アナスタシア』』
影。鋼。私の背後に佇む、白い騎士のあなた。
影。混沌。私の視界の端で躍る、黒い道化師。
あなたは────
『わすれないで』
あなたは、一体────
『ぼくの、なまえは』
誰、なの────?
ああ、彼の声に重なるように、
………………
…………
……
ぱちり、と。瞼を開いた。低血圧の私にしては、随分と目覚めのいい朝。暖房機関も絶賛稼働中、部屋の中は常春のよう。
おまけに、脇にはぬるめの水が入った水差し。リュダが用意してくれたのかしら。綺麗なリュダ、素敵なリュダ。今日は一段と優しいリュダ。
──なんだか、今日はいい感じ。きっといい日になるわ、うん、きっとそう。今日の学食、もしかして、デザートに
そんな風に、微笑みながら。時計を見た私は、微笑んだままで。月曜、安息日明け。黒い雪も銀色の雪に塗り潰されているであろう事を祈りながら。
「…………十時半、かぁ」
取り敢えず、口に出してみる。因みに、碩学院の一時限目は九時からで一コマ九十分。今頃、皆は二限目のための準備をしているんだろうな、とか思いながら。水差しから一口、水を口に含んで。こくり、と飲み干してから。
「────どっ、どどどっ、どうしようどうしようどうしよう!」
──一気に現実に、引き戻されて。一気に視界、ぐるぐる回り出す。遅刻、うわ、遅刻だ! 嘘、うそうそ! 確かに低血圧だし寝起きは悪いけど、そんなことだけにはならないように今まで頑張ってきたのに!
──お、落ち着いてアンナ、アンナ・ザイツェヴァ! リュダ、そう、リュダは? 実はそう、リュダが時計の針を進めて私が飛び起きるのを待ってるとか、そうよ、それよ! きっとこれはミラの悪戯よ、そうですよねそうであってください
そして、見付けたもの。水差しの脇の、一枚の紙。『お先に、
それを見たとき、私は、この二年間守り続けていた無遅刻無欠席の表彰を諦めた。
「あ……」
見詰めた鏡台、そこに映る、いつも通りの寝起き姿の私。銀髪に紅い瞳の私、その後ろ。部屋の隅。それで、初めて気付いた。部屋の隅、換気のために開け放たれた窓際、寒いだろうに。
背もたれに外套を掛けた一脚の椅子に座って、なにかを書いていたのだろう手帳を広げたまま。篆刻写真に残したくなるくらい、まるで絵画か彫刻のように均整のとれた肢体と容姿。遅い朝の、アンニュイな気配の。灰色にくすんだ光と風を浴びて、黒髪を靡かせて。眠っている、黒い軍服のハヤトさんが居て。
──綺麗。素敵。ああ、写真に残したい。
──記憶だけじゃなくて、記録に残したい。
だから、つい、失礼だとは分かっていても。いつも鞄に入れている篆刻写真機、取り出して。ファインダーを覗き、前身が収まるように調整して。
シャッターを押した。その時、漸く、赫い瞳が此方を見ていることに気付いた。
「許可なく写真を撮るのは、あまり誉められたことじゃないな、アンナ・ザイツェヴァ」
「あ────ご、ごめんなさい、つい」
「……まぁ、構わない。人前で気を抜いた俺の責任だ」
怒られる。以前にも、この写真機の修理が終わって浮かれてミラを撮ったときと同じことを。
って、あれ? 冷静に考えたら、なんでハヤトさんがここにいるの? と言うより、私、昨日────
「取り敢えず、心配はするな。碩学院には俺が連絡しておいた。今日は休みでよいとさ、物分かりの良い教師で助かったよ」
「────────」
ふっ、とニヒルに笑う彼に。今度こそ、声にもならない。そんな悲鳴を、生まれて初めて出したと思う。うん、きっとそう。
──だって、私、寝間着姿だもの! だって、私、まだ朝の支度すらできていない姿だもの! こ、こんな姿、家族以外の男の人に見られるなんて…………!
──
そう、私自身の将来に覚悟を決めた瞬間のこと。手帳を懐に収めたハヤトさんが立ち上がる。悠然と出窓に置いていたコーヒーを口に含んで。ぎしりとも椅子を鳴らさず、床も鳴らさずに。
軍装のまま、でも刀は壁に立て掛けていて。あれだけの傷を負っていたはずなのに、今はもう、傷一つ無くて。
狼のように、足音一つ無く歩み来る。寝台に寝そべっているままの私、流されるままにどうしようもなくて。武骨な右手で、驚くほど優しく、前髪を掻き上げられて。
「────熱は、無いな。何処か具合の悪いところはないか、左腕とか、目とか」
「いっ、いいえ、いいえっ! あ、ありません、ありませんからっ!」
多分、いいえ、きっと。耳まで赤く染めてしまった私は、慌てて額に当てられたその掌をかわす。宙に浮いたその手を暫く漂わせて、ハヤトさんは怖い顔で思案して。
「…………そうか。自覚はないか、
グルジエフ、
初めて、怖いと感じる。彼の視線、その目を。まるで、いいえ、正に
「……失礼した、アンナ。君は、君だな」
「え────あ、は、はい」
思わず、そんな胡乱な返事を。でも、それでも、彼は満足したように微笑んで。
「────例え、貴女が《奇械》を顕現しようとも。例え、貴女が
──私の《奇械》? 私の《
────────
その解離は、決定的で。私とハヤトさんの距離、確かに。
「……さて、婦女子の部屋に長居するのは失礼に値する。そろそろ、帰らせてもらおう」
「あ……はい、あの、お構いもできずに……」
「構わない、勝手に立ち入ったのは俺だ」
すっと、彼は物理的な距離を取る。背中、見せて。刀を腰に戻して、外套を羽織る。そして古めかしい煙管を咥えて、扉まで歩いて。
「ああ、そうだ。誤解の無いように言っておくが、君を着替えさせたのは君の同室の彼女だ。あの鼻っ柱の強い、パヴリチェンコ、だったか? だから、安心しろ。俺は見ていただけだ」
「────────」
最後にそんな言葉、残して。『着替えているところを見ていた』と言う意味じゃないと、信じたくなる言葉を残して。
私をもう一度、乙女の貞操的な意味で打ちのめして。立て付けの悪い扉の軋む音と共に、彼は姿を消したのだった。